青空、恋飛行機
蝉の声がやけにうるさい、晴れた土曜日の昼下がり。
全ての教室の窓は開き、強い風が白いカーテンを揺らす。校庭では球を打つ軽快な音が聞こえてくる。
(暑いなぁ……)
額から汗が流れ、シャツが肌に吸いついて気持ちが悪い。
私は佐々木優衣。ごくごく普通の高校二年生。
宿題をするために、わざわざ教科書を取りにやって来たのだった。無事に教科書を発見した私は、なんとなく後ろを振り返る。
そこには「彼」がいた。彼の席は私の席から見て、斜め二つ後ろ。
――彼はいつも寝ていた。
私も他の人も、起きている所をほとんど見たことがない。もちろんそんな様子だから、声も聞いたことがない。彼はいつも誰よりも早く学校に来て、誰よりも遅く家に帰っているようだった。
しかも彼にはもう一つ、大きな謎があった。
その謎というのは、いつも白い仮面をつけていること、である。
そんな訳で、誰も彼の顔を見たことがない。
私はなぜか彼と二人きりで教室にいる。土曜日なのにどうして学校にいるのだろう?
彼のいる方を見ながら、そんなことを考えていると、珍しく彼が起きていることに気づく。
彼は澄んだ黒い瞳で私を見つめて、口元に仄かな笑みを浮かべた。
「笑、った……?」
私は無意識のうちに、蚊の鳴くような声で呟いていた。そのことに気づいた私は、あわてて口元を手で隠す。
「……笑うのが、そんなに変か……?」
「!?」
少しハスキーで、落ち着いた声が耳に届く。これが彼の声……!?
私は思わず、これは夢なのだろうか、と考えてしまった。
「……どうかしたのか?」
「えっと……ううん、何でもないよ」
不自然なくらい、私の胸の鼓動が速くなる。これはきっと、彼の行動に対する驚きと興奮のせい。
そうなのだと思いたかった。そうでなければ、私は。
「狭霧君……聞いてもいいかな」
「何を?」
彼――狭霧君はまっすぐに私を見つめている。
私は気合を入れるために、手をギュッと握り締めながら言った。
「どうして今日は学校にいるの?」
「……さぁ、なんでだろうな」
そう答えると狭霧君は、窓の外に意識を向ける。そこにはただ青い空と白い飛行機雲があるだけ。ふと、狭霧君の方に視線を戻すと、いつの間に作ったのか、白い紙飛行機を空に向けて飛ばしていた。
紙飛行機は風に乗って、まっすぐに空を飛んでいく。
「ねぇ、狭霧君」
「……何?」
私は狭霧君に背を向けて、聞えないくらい小さな声で呟く。
「……狭霧君が好き……」
無意識に呟いていたそれは、私の心の声。
ハッとして、私はカバンを引き寄せる。躓きそうになりつつも、その場から逃げようとした。
その時、狭霧君が私の手首をつかむ。その手は痛いくらい強くて。
「……痛いよ、狭霧君」
私がそう言うと、狭霧君は今にも手が離れてしまいそうなほど弱く、手首をつかむことにしたみたいだった。
「ごめんな、佐々木」
手首に触れる狭霧君の手が、温かすぎて。離さないで、と願ってしまいそうで、怖い。
「俺も……佐々木のことが、好きだ」
「えっ?」
ちょっと待って……今、狭霧君はなんて言った?
「本当、に……?」
自分でも驚いてしまうくらい、声がかすれてしまっていた。そんな私を見て狭霧君はまた笑った。そして白い仮面を迷いなく外して、自分の机の上に置く。
……綺麗だった。
透き通った白い肌に、切れ長な目。優雅であり力強くもある眉、通った鼻筋。
私は蝉の鳴き声でハッと我に帰る。
狭霧君に見惚れてしまっていたことに気付いて、思わず顔が赤くなってしまった。
「私よりも可愛い子はいっぱいいるよ?」
「……俺は佐々木がいい」
そう言ってくれた狭霧君の手を、私は両手でぎゅっと握りしめる。
私は狭霧君と離れたくなくなってしまった。もちろん顔を見れたからじゃない。告白をしてしまったら元の関係に戻ることはできないと思ったからだし、したくもなかったから。
狭霧君が私のことを好きだなんて信じられないけれど。
「もう一度言う。佐々木のことが、好きだ。だから付き合ってくれないか?」
「喜んで」
この言葉を皮切りに、私たちは付き合うことになった。
学校からの帰り道、仮面をつけたままの狭霧君と一緒に下校することにした。
まだ日も高く、外は湿気が多く暑かった。
「……少し、昔の話をしてもいいか」
私は繋いだ手が汗ばんでいることに気を取られていたので、一瞬反応が遅れた。
「えっと……うん、いいよ」
私は何の話だろうと思いつつも、浮かれてしまっていることに気付く。
「俺は……幼馴染のことが好きだった。優しくて、俺のことを一番分かっていてくれた」
唐突に、ひどく寂しそうで、それでいて優しげな声色で〝彼女〟のことを語り出す。
「っ」
胸が痛い。私は黒くドロドロとした何かが溢れそうになるのを、必死に押さえつける。私は故人に対して嫉妬しているのだ。なんて私の心は醜いのだろう。
狭霧君はどうして急にこんな話をするのだろう?
「俺は彼女を守った。……守っていたつもりだったんだ。彼女は俺のせいでいじめにあっていた。気付いたときには、もう」
「狭霧君……」
一粒のしずくが、頬を伝う。
仮面の下から流れ落ちるそれは、涙だった。
「全身打撲だらけで、痛々しかった。……俺は思わず彼女をなじってしまった。どうしてそんな大事なことを隠していたんだ、と。優しい言葉をかけてあげればよかったのに」
狭霧君の心から流れ出す血に、今までの私は気付いていなかった。ううん、狭霧君は気付かせないようにしていたんだろう。そのための仮面だったのだ。
「つらいなら、言わなくてもいいよ」
私は狭霧君を心配して言った。
「いいんだ。今、伝えたいから」
狭霧君は涙を流しながらも、懸命に伝えようとする。
「彼女は俺に好きだと告げて……数日後、亡くなった」
町の喧騒がひどく遠い世界のように感じられる。
「その後、俺は高校に通い出すと同時に仮面で顔を隠した。……それが今の俺だ」
私は気付けば狭霧君を抱きしめていた。
彼のことを全て理解できるなんて、思わない。私にできることは、彼のそばにいることだけだった。
初めて触れた狭霧君の体は、夏だといのにひどく冷たい。
私は大切なことを打ち明けてくれた狭霧君に、同じだけの何かを返さなくてはいけないと感じた。
ゆっくりと狭霧君から離れ、深呼吸をする。
「狭霧君、私の話も聞いてくれる?」
「あぁ」
狭霧君は仮面越しに私の目をまっすぐに見つめてくれた。それだけでも負担になっているのかもしれない。
「私と狭霧君は、去年も同じクラスだったね。狭霧君はいつも通り、仮面をしたまま座って授業を受けていた。でも、あの日はいつもと違っていて」
「……」
「狭霧君はなぜか私に傘を貸してくれた。一緒に入ろう、って言ったのに狭霧君は入らないでそのまま帰っちゃった。私はあの後、狭霧君が風邪をひいていないか、心配していたんだよ」
「……そうか。それは悪かった」
伏し目がちながらぶっきらぼうに言う狭霧君。
「ううん、平気だよ。それに、次の日に同じことを言った私に、狭霧君は大丈夫だと書いて伝えてくれた。私はその後からずっと、狭霧君のことを気にかけるようになったの。狭霧君にとっては些細なことだったかもしれないけど」
私は思っていたことをひとつひとつ言葉にして、狭霧君に伝えようとする。上手く伝わっているのか不安になりながらも、足は止めない。
「それに、私が先輩に言いがかりをつけてきていじめられそうになった時に、助けてくれた。それから狭霧君は私のヒーローだったんだよ」
私は当時のことを思い出す。当時は友達たちも全員先輩の影におびえて、部活中は何の話もしてくれなくなった。そして私はそれを仕方がないことだと思い込んでいた。
「それを機に部活をやめてしまった私は、ひどく塞ぎ込んでしまったの。でも狭霧君はそんな私のそばにいてくれた」
私は笑顔を浮かべて狭霧君を見つめる。狭霧君がいなかったら、私は学校に来ようなんて思わなかっただろう。
「それにその後から、狭霧君は私が困っている時は無言で手伝ってくれたり、友達よりも先に私が泣きそうになっていることにも気付いてくれた」
「……そんなに大したものじゃない。ただの……自己満足だ」
狭霧君は吐き捨てるように呟く。
「俺は幼馴染と佐々木を重ね合わせて、それを助けることで、自分の罪の意識を軽くしようとしただけだ。最初はそれだけだったんだ」
涙を流しながら自分をなじり、憤りの言葉を唾棄する。
「佐々木はそれから、ことあるごとに俺に気を使ってくれるようになった。俺が休みの時はいつも見舞いに来てくれたし、忘れ物をしたときは貸してくれたり見せてくれたりした」
私はその言葉に、疑問を呈した。
「そんなこと、当たり前のことでしょ?」
「いいや、高校に入ってからそんなことをしてくれたのは、佐々木だけだ。しかもそれだけじゃない。佐々木は俺の心まで救ってくれたんだ」
「?」
私が狭霧君を助けた? そんなだいそれたことをした覚えは、全くなかった。
「俺に近づいてきた奴は全員、無言に耐えきれなくてすぐにいなくなった。でも、佐々木は何も聞かずにずっと俺のそばにいてくれた。それだけで、十分だったんだ」
私はくすりと笑みをこぼした。
「狭霧君が同じことをしてくれたから、そうしただけだよ」
私はそういうことができるようになれたのは、狭霧君のおかげだと思っている。
「たとえそうだとしても、佐々木はこんな俺でも必要としてくれていた。悩みごとを相談しに来てくれたり、困ったことがあると一緒に考えて欲しいと伝えてきたり」
「あれは……狭霧君に甘えていただけだよ」
私は優柔不断で、誰かに依存しなければ生きていけないくらい、弱い。
そんな自分を変えなくてはいけない、と思いつつも変えることができなかった。
それが私の弱さだった。
「俺も佐々木に甘えていたんだ。佐々木という存在を守ることで、また罪の意識から逃げようとしていた」
狭霧君は自分自身に憤っていた。
「俺は佐々木に好かれたい、っていう下心から自分を良く見せようとしていたんだぞ」
「狭霧君は良い人だよ。むしろ私の方こそ、良く見せようとして、優しくしてたの」
私も狭霧君もお互いの言葉を聞いて驚いた。
「俺たち、互いに気を使っていたんだな」
私たちはお互いを見つめあって、くすっと笑ってから続きを語り出す。
「俺は、自分が頼りにされていることがすごくうれしかった」
「私もそうだよ」
二人とも、互いに強く手を握り合う。
「佐々木がいてくれたからこそ、俺は今日まで生きてこれたんだ。佐々木は今の俺の存在理由だ。それにお互いに支え合いながら、同じ速さで歩いていけるのじゃないかと思った。だからこそ、俺は佐々木を好きになったんだ」
「……なんだか、私がすごい人みたいに聞こえるよ」
私が苦笑しながら言うと、狭霧君は口角をあげて言葉を続ける。
「当然だ。俺はそうとしか聞えないように言ったんだからな」
狭霧君はそう言って、笑い声をあげた。いつしか私もそれにつられて、笑い声をあげていた。
「俺は今日から、仮面をはずして生きていこうと思う。もしかしたら、また同じことを繰り返してしまうかもしれない。でも、それを恐れていたら俺は一生このままだ」
狭霧君は居住まいを正したので私もそれに自然とつられた。
「俺は自分に誇りを持って生きていきたいんだ。佐々木と一緒に」
狭霧君は私の両手をギュッと握って私の目を見ながら呟く。
「私もね、自分の信念を持った強い人になりたいな。狭霧君と一緒に」
私も狭霧君の両手を思いっきり握って、彼の目を見ながら呟く。
そして澄み渡る青い空には、白い飛行機雲が横切って行った。