Ⅷ.そんな訳ないじゃん。
強い風が吹いた。風に煽られて、窓の外では先日満開を迎えたばかりの桜の花が舞っている。
「……」
編集長の方に視線を向けると、彼は眉間に皺を寄せながらまだ原稿用紙とにらめっこを続けていた。また、手にしたそれらの厚みから、そろそろきりのいいシーンまで読み終えるだろうということが坂田には分かる。
「ふぁーあ」
右手で口元を隠しながら、編集長に気付かれないよう小さくあくびをした。毎回のことだが彼が原稿を読んでいる間、坂田は何もすることがない。
だから、彼女はどうにか暇を潰せないかと指先で髪をいじってみたり、周りの様子に意識を配ってみたりする。だがそれも、こう何度も続かれると徐々に間が持たなくなって。
「うーん」
坂田は声を細めてうなった。
こうしてただおとなしく編集長を待っているのは退屈だ。原稿を読んでいる間、カフェでスイーツを食べて来てもいいだろうか。読み終わったら携帯に連絡してもらうようにして。そんな大胆な提案を、今の彼女はわりと真面目に検討している。
「……っく」
目の前では編集長が何かに耐えているような苦しげな声を上げていた。心なしか顔色も悪くなっている気がする。この数時間の間に、彼の顔は怒りに紅潮したり不安に青ざめたり、かなり目まぐるしく変化していた。その影響で、血圧なんかも色々上下したに違いない。坂田は彼のことが心配になる。
「あの、大丈夫ですか? 少し休んだ方がいいのでは?」
「……」
坂田は見かねて声をかけた。だが、彼はじろりとこちらを涙目のまま睨みつけると、すぐに原稿へ視線を戻す。
その表情には何か怨念めいたものを感じはしたが、意外とまだ元気そうで。彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「……に」
そして数分後、彼は持っていた原稿をゆっくりと机の上に置く。
「ん? 何か言いましたか?」
そのとき編集長が何かを呟いたが、それは坂田の耳にまでは届かない。
彼女は首を傾げながら聞き返した。
「もう、本当に……」
再度口を開く編集長。だが、彼はどういう訳かそこで言葉を切ってしまう。いや切ったというよりは、力尽きたというような。まるで、それ以上会話を続けることが困難になったとでもいうかのように、彼は顔を背け目頭を指先でつまむ。
「え? 何ですか、編集長? 焦らさないで教えてくださいよ」
一方の坂田は何だかお預けをくらった気分になり、勇み足で話しかける。彼女には突然生まれたその間が、とても焦れったく感じられた。
「……」
だが、反対に編集長は酷く消極的な雰囲気を出していて。彼は疲れたような目で坂田を見据えながら、うんざりしたように頭をかく。
けれど、そう見えたのもつかの間。彼はおもむろに姿勢を正した。
「本当に……」
そして編集長は呟く。
先ほどと同じく言葉は途中で途絶えたが、今は敢えて彼がそうしたのだということが伝わってくる。何故なら、彼の表情には余裕が見えたから。自分の発した言葉の余韻に浸る余裕が。
「本当に?」
坂田は空気に気圧されるように聞き返した。何か重大なことがこれから起こる。そんな予感が彼女の脳裏を掠めて。
「本当に……」
繰り返される言葉。それは何度も重ねられる度に、どんどん重さが増していくように感じられる。今度は坂田も軽々と口を挟まなかった。
そして、ついに。ついに、編集長の怒号が火を噴きあげる。
「本当に何がしたいんだあああ!!!」
フロア中どころか、もはやその上下の階まで響き渡りそうなほどの大絶叫。
坂田は一瞬、ガス爆発でも起きたんじゃないかという錯覚に見舞われる。
「ちょ、声が大きすぎですよ。編集長」
「そりゃ声も大きくなるわ、ぼけえええ!!!」
慌てて制止する坂田の呼びかけも聞かず、編集長の声はどんどん大きくなっていく。
いったいどれだけ喉を酷使したら、これほどの声が出せるのか。彼女はある意味彼を称えたくなってしまった。
「ちょっともう本当にいい加減にしてくれよ! なぁ! なんだこのストーリー!? 支離滅裂すぎて、ついてけねえよ! ていうかなんなんだよ、もう! ボルケイノ=松本は学生だったんじゃねえのかよ! 魔王だったんじゃねえのかよ! どうしてこいつが今、サッカー選手やってんだよ! こいつの身に何が起きたんだよ! もうここだけ、ここだけでいいから誰か俺にちゃんと説明してくれ!」
先ほどまでは早く原稿を読み終わって欲しいと思っていたけれど、改めてこれを目の当たりにするとやはりいい気はしないな。そんなことを考えながら坂田は耳を両手で押さえていた。
「まぁまぁ、その辺はフィクションですから。でも、一応世界観は繋がっているんですよ?」
「繋がってんのかよ! どこら辺がだよ! かろうじて学生ボルケイノの世界とサッカーボルケイノの世界は繋がってるって言えるかもしれねえけど。もう魔王は無理だって! あ、いやサッカーボルケイノもファンタジックな特殊能力使ってたから、もしかするとその路線でいけるのか……っていけねえよ! いける訳ないだろ! てか、もうこれだけ好き勝手やられたら、今更この世界観についてどんな説明されたって納得できねえよ!」
編集長は一旦そこで言葉を切ると、手の甲で勢いよく原稿を叩く。
「ていうか、もう突っ込みたい所はそこじゃねえんだよ! さっき話したように、あくまで短編集って形でこれを出版すれば、ボルケイノ=松本を主人公にしたパラレルストーリーとして無理矢理売り出すこともできなくはないからな。でもな、でもだよー。それもやっぱりちゃんと筋が通ったお話に、残念ながら限られてくるんだー。つまりねー。こんな風にサッカー小説なのか、特殊能力小説なのか、マラソン小説なのか分からない話じゃあ、会社としてはGOサインを出すことなんてできないんだよねー。そこの所はどう考えてるのかなー?」
過大なストレスに精神が耐えきれなくなったのか、話の後半はよく分からないキャラになってしまった編集長。
このように体をくねらせながら、陽気に話す彼を坂田は今まで見たことがなかった。彼女が困ったような視線を周囲に向けると、社員達が苦笑いを返してくる。
「……え? これ、サッカー小説ですよ?」
そして、涼しげな顔で坂田は質問に答えた。さも、それが常識だと言わんばかりに。平然と。
「これが本当にサッカー小説だったら、俺はもう自分以外何も信じられなくなっちゃうよおおお!!!」
編集長はその場で椅子から立ち上がり、玩具をねだる子どものように地団駄を踏んだ。その姿の大人気なさといえば、いい年をした中年のそれとは到底思えない。
「てゆーか、じゃあ、これのどこがサッカー小説なのか俺に説明してみろよおお! さっきみたいに『フィクションだから』じゃ納得しねーぞ、こらあああ!!! せーのっ、はい! ほら! 根拠だ、根拠! これをサッカー小説って呼ぶ根拠を、俺に教えてくれよ! なあ!」
「え? だって、ちゃんと出てくるじゃないですか? サッカーボール」
「シ、ン、プ、ルー!!!」
発声の「シ」の部分で右方向を指さし、「ン」で反対方向を指さす。「プ」では頭を両手で抱えながら俯き、嘆くように顔を歪ませながら「ル」で一気に天を見上げる。編集長の突っ込みが多彩になってきた。
坂田は彼の引き出しの多さに感心する。
「編集長はそういうのもできるんですね」
一方の編集長はそのままがっくりとうなだれ、机に伏す形で崩れ落ちる。それはあたかも旬を過ぎた向日葵のようで、その姿からはまるで生命力を感じない。
「あれ? 編集長、生きてますか?」
坂田は思わず編集長の生死を確認する。
「……生きてるよ、残念ながらな。というかもう、分かった……分かったよ。俺、疲れた……」
すると、弱々しいながらも編集長の声が返ってきた。どうやらまだ話ができる体力は残っているようだ。
彼の言葉は続く。
「……改めて、小説の手直しをして欲しい部分を今から話していくから、ちゃんと聞いてくれ……てゆーか、書き直す手筈にしてくれ。頼む」
編集長はそこまで言うと、のそのそと芋虫のように体を起こした。その視線の先にはいつもと何ら変わらぬ坂田の姿。彼女は真っ直ぐ背筋を伸ばしながら彼に告げる。
「ええ、別に構いません」
高く透き通った声が凛と響いた。そこには悪気も、悪意も、さっぱり感じられない。ただ、当たり前のようにある言葉。
「……お前のそういう所を見込んで、この仕事を頼んだんだったよな」
「え?」
「いや、いい」
要領を得ない表情の坂田に編集長は苦笑しながら首を振る。そして乱れたワイシャツの襟を要領よく正した。
「……じゃあ、行くぞ。まずは冒頭のシーンなんだが、あのごちゃごちゃと周りの自然について説明しているくだりはとりあえず全部カットしてくれ。なんかまばゆい太陽がどうとか、風が熟練のオーケストラだとか書いている部分」
「分かりました。でも、どうしてですか?」
「ボルケイノがまだ選手控室にいるからだよ……。というか何でこいつは外に出てもいねえのに、大自然の雄大さを感じちゃってるんだよ。危ない薬でもやってんのか?」
「いえ、ボルケイノにそういう類の設定はありません。至って健全な好青年です」
坂田は右手で眼鏡を上げる。
「……次だ」
「はい」
「とりあえず応急処置的な意味で。もう無駄に選手達が叫んでるシーンはこの際無視して、一番意味不明な部分を何とかしよう」
「一番意味不明な部分ですか?」
「そうだよ。具体的には、ボルケイノの仲間達がフィールドから控室に帰る所だ。そこを消す。ていうか、もうせっかくフィールドの目の前まで来たんだから、素直にこいつらをフィールドに入れさせてやれよ。ていうか、ここまで来て帰らすなんて悪ふざけとしか思えねえ」
「しかし、ここはボルケイノに頼もしい印象を持ってもらうための重要なシーンなのですが」
「大丈夫だ。このシーンを削っても、後半でボルケイノは十分頼もしい。逆転のゴールを決める展開もあるしな。それよりもここは序盤だから、読み易さを優先しよう」
「そうですか。分かりました、何とかしてみます」
編集長はそれまでと異なり、手際良く原稿にチェックを入れていった。赤ペンで塗られた場所は確実に直して欲しい所、青ペンで塗られた場所は余裕があれば。更に、文章中の誤字脱字にも丸をつけている。
「あと、そう。今言った、ボルケイノの逆転ゴール。ここも意味不明だ。ていうか、ちょっと聞きたいんだけど。真面目にこれ、どういう意図があってこうなったんだ?」
「こうなった、とは?」
「……マラソンのことだよ。どうして、こいつは試合の途中でスタジアムから抜け出して、唐突にフルマラソン完走したんだってこと」
「ああ、それですか」
「それ以外ねぇだろ。正直、今回のストーリー最大の謎だぞ、ここ」
「あはは、まさか」
「まさか、じゃねーよ! ……あ、いやいや怒鳴っちゃだめだ。冷静に、冷静に……よし、落ち着いた。それで、いったい何が起きてこうなったんだ?」
「え? 編集長だったらお分かりになってると思ったのですが」
「ん、どういうことだよ? 今の所、俺には全然理解できないが……」
坂田の発言で、それまで軽快に原稿用紙の上を走っていたペンが止まる。
編集長が視線を上げると、彼女は照れくさそうに口をすぼめていた。
「うーん。こんな基本的なことを改めて編集長に説明するのは、何だか妙な気分です。まぁ、でも説明すると。実はこの場面、原稿が上がった当初は普通にサッカーをしていて、ボルケイノが接戦の末に逆転シュートを決める展開だったんですね」
「……お、おう」
「でも、それっていわゆる王道ストーリーなんですよね。不利な状況を主人公が頑張ってどうにかするっていう。まぁ、それはそれで面白いものなのですが、最近の読者は本を読む目が肥えてて、中々満足させられません。だから、こうなりました」
「えっと……つまり?」
「裏切りですよ、裏切り。小説の基本です。読者の予想を覆す、『あっ!』と驚くような展開。ここではそれが表現されています」
「……坂田」
「何ですか?」
「最初の原稿用紙はとってあるのか?」
「え、はい。最後の展開以外は同じ文章ですが」
「……最後のシーンはそっちの文章に戻しておいてくれ」
「え、でも。そうすると、裏切りが……」
「いいから」
「え? うーんと。まぁ、はい、分かりました」
そう言って窓の外、そのずっと遠い場所を編集長は見つめる。彼の胸の内でそっと心が折れる音がした。