Ⅶ.俺が悲しい過去をその身に背負うエースストライカーな訳がない!
生き生きとした緑の芝が広がったフィールドに、まばゆい太陽の光が空から燦々と降り注ぐ。そこに吹き抜ける風はどこまでも自由で、まるでリードを外されたときの飼い犬のようにそこらかしこを縦横無尽に駆け巡った。それはたまに、怒り猛る龍のようにこちらに牙を剥いて襲いかかり、だが突然気が変わったかのように進路を変える。一見すると全く規則性はないように思えるが、不思議とどこか調和が取れていて。
例えるなら、たくさんの独立した意志で構成されているにもかかわらず、見事に統一された動きを見せる巨大な魚の群れのような。あるいは多種多様な楽器とそれらを操る人々が、たった一人の指揮の元、美しく均整の取れた流れのある旋律を生み出す熟練のオーケストラのような。そこからは理解の及ばない何か高次元の雄大さみたいなものを感じずにはいられない。
「いい空気だ」
俺は大自然の豊かさをその身にひしひしと感じながら大きく深呼吸した。すると、体に張り巡らされた血管達が、大型の貨物車両が通ったときのレールのように一斉に軋み始める。肺から吸収された酸素がヘモグロビンに乗って全身へと運ばれる感覚だ。
「行くか……っ!」
俺は周りのチームメイト達に呼びかけた。そして、彼らと共に勢いよく立ち上がると、窮屈な選手控室を飛び出した。
靴音が廊下の壁にぶち当たり、けたたましく反響する音。そこには、試合に賭ける一人一人の熱い想いと、熱意と、決心と、夢と、希望と、期待と、不安と、あのときの思い出と、賭けがいのない友情と、希望と、自身と、努力と、汗と、青春と、あとどこまでも果てしなく続く希望が込められているように感じられる。
「うおおおおお!!!」
次に、廊下の角を曲がる。示し合わせた訳ではなく、自然と互いの口から気合いの雄叫びが漏れ始めた。このときの俺達のボルテージは噴火する前の火山のように燃え上がっていて。もはや世界の誰もフィールドへと解き放たれるこの獣達を止めることはできない。
「しゃああああ!!!」
そこを過ぎると今度は、それまでとは一風変わって、小動物のような優しい感触の緑色の扁平な物体が壁の到る所に取りつけられているスペースが見えてくる。そこはこの施設の管理人さんが、大きな大会の開催日や定休日などが書かれた紙を貼る特別な場所で、誰が考えたかは知らないが俺達ミッドナイト・パワーズの間では密かに「掲示板」と呼ばれている場所だった。
また、その「掲示板」では、施設の利用者が団体のメンバーを募集するためのチラシを、あるいは企業がスポーツ保険の資料を貼りつけていたりしている。それもなるべく自分達の広告が他よりも人の目を引くように、色とりどりに飾りつけて。おいおい。ここはカーニバルの開催地じゃないんだぜ、ベイベー。
「ぐおおおおお!!!」
地下一階に設置されている赤い自動販売機が見えてきた。そこにはスポーツ飲料を始め、飲料水、お茶、フルーツ飲料など極めてスタンダードな品々が並んでいて、特に変わった所はない。
金額も極めて平均的で。しかし、よく映画館などではそこで売られているものが通常の1.5倍ぐらいの値段で売られているときがあるけど、あれは本当に煩わしいよな。わざわざ外に出て、ものを買ってから戻ってくるのはさすがにめんどくさいが、素直に割高の商品を買うのもなんだか悔しい。色々と悩んで、その場では我慢するって選択肢を選ぶこともあるけれど、そうすると隣に座っている別の客の飲んでいるジュースとかがすごく気になり始めて、結局映画に集中できなくなってしまう。
まったくやれやれなことだが、そんなことを気にせず飲み物を買うことができるのがこの施設の魅力ポイントの一つだ。俺達はおもむろに財布を取り出して、各々好みのジュースを購入して喉を潤す。そして、飲み干したあとの容器はちゃんと専用のごみ箱にそれぞれ分別してその場をあとにした。これを徹底しないと、施設を使わせてもらえなくなることもあるので、ちょっとひやひやものなのである。
「うりゃあああ!!!」
気付くと俺達は、地上へと続く階段の目の前までやってきていた。
ここまでくればもうすぐだ。俺達の心は一気にトップまでヒートする。熱く燃える。俺達の胸では今、どんなに強い敵にも決して怯まない熱い炎が暴れていた。
「うわああああ!!!」
そして、力強く、コンクリートが悲鳴を上げるほど豪快に、俺達は階段を一段一段丁寧に上り始める。
「のりゃあああ!!!」
階段の総数はおよそ二十段。まずは心を静めて一段目。次に気合いを入れて二段目。今度は日々の練習を胸に刻んで三段目。そして、共に歩んだ仲間を信じて四段目。高め合ったライバル達を思い出して五段目。ときに優しく、ときに厳しく指導してくれた尊敬すべき監督に一礼しながら六段目。練習が終わると、いつも笑顔でタオルを持ってきてくれた可愛いマネージャーを意識してしまいながら七段目。こんな出来の悪い自分をここまで育ててくれた大切な両親に感謝しながら八段目。いつか必ず立派になって帰って来ると誓った故郷に向けて九段目。自分の代まで脈々と血筋を受け継いできてくれた先祖に捧げる十段目。スポーツという素晴らしい文化を発明した、人類という偉大な種に十一段目。数多くの生物を生み、たくさんの尊い命を育んできた美しい地球に十二段目。その地球を誕生から、現在までなおも明るく照らし続けてくれている太陽に十三段目。それらを生みだした広大な宇宙に十四段目。
あと、履き潰したスパイクに十五段目。着古したユニフォームに十六段目。フィールドに十七段目。ボールに十八段目。ソックスに十九段目。最後に、ちょっとしたことですぐに泣いていて、いつも誰かに守られてばかりいた弱虫だけれど、今日この名誉ある試合に己の足で、己の意志で臨めるほど強くなった自分に向けて二十段目。
「行くぞおおお!!!」
そして、ついに。俺達はついに、地上一階にある化粧室の前へと辿り着いた。当然のことだが、そこは男性用と女性用の二つの入口が用意されており、俺達が入室できるのは男性用のものに限定されている。ちなみにそこに示されているそれぞれのシルエットの色は世間一般に見られるように男性用のものが青色、女性用のものが赤色を採用していた。
「よっしゃあああ!!!」
さっそく俺達は至極堂々と、まるで我が家の敷居を跨ぐときのように大胆に、通常通り男性用のトイレに入っていく。中には二種類の便器があり、一方は個室、一方はドミトリーになっていた。
「うおおおおおお!!!」
その場所で俺達は、理路整然と決して横から無理矢理入ることはせずに、きちんと自分の順番を待ちながら代わる代わる用を足していく。試合前の俺達の緊張はこの時点で優に限界を迎えており、それを和らげ適度にリラックスさせる効果がこの生理的行為にはあった。
だが、俺達はここでも決して油断することなく雄叫びを上げ続ける。それはせっかく盛り上げた試合に賭ける熱い想いを、こんな所で冷まさせる訳にはいかないという高いプロ意識の成せる技であった。だから、直立不動のまま、紳士的に列の順番を守りつつ俺達は獣のような声で吠え続ける。
「くそったれええ!!!」
チームメイトの最後の男の用が終わった。最初の方に並んでいたメンバーはかなり前に用を済ませていたが、ちゃんと扉の外に整列して彼のことを待ち、そして暖かい拍手で迎える。こういうなんてことのないシーンでも俺達の結束は固い。
その彼はと言うと、トイレから出てきて早々恥ずかしそうに頭をかきながら、「待たせて悪かったな。だが、もう心配はいらない」と俺達に告げて、直立不動のまま叫び声を上げ続ける列の最後尾に加わった。
「ふぁいとおおお!!!」
それがきっかけとなって、俺達は撃鉄に打たれた弾丸のように走り出す。その勢いは大気を切り裂き、天を舞って。また、廊下に猛々しい靴音が響き始めた。
今、俺達が目指す目的地はただ一つ。この熱い魂を、弾けるような想いをぶつけられる場所。数多くの戦いを経験してきた、戦士達の故郷。そう、ピッチだ。
「おりゃああああ!!!」
化粧室を出てから廊下をまっすぐ進むと、右手から強い光が差す場所に辿り着く。試合に臨む選手達を暖かく迎える明るい光だ。
俺達は照明の落とされたその道を、光を頼りにゆっくりと進んでいく。心を落ち着けるように、地面の感触を確かめるようにゆっくりと。だが、いつの間にか俺達の足は早歩きになり、早歩きが小走りになり、そして全力疾走に変わった。
内から溢れてくる熱い情熱を押さえきれなくなったのだ。両腕を振り、膝を風車のように回転させなることで体に巨大な推進力を与えていく。止まらぬよう、速度を落とさぬよう、連続して間を開けずに前へと進むエネルギーを送り込み。そして――。
「どっせえいいい!!!」
そして、俺達の前に緑色の芝が広がった。素晴らしい光景だ。広大なフィールドの両端には、それぞれ白色のゴールがそのときを今か今かと待っている。芝生の上にはラインが規則正しく引かれ、俺達が戦うべき場所やセンターの位置がありありと示されていて。
『ゴクリ……』
そこに集まった全てのチームメイトが、まるで事前に打ち合わせしていたかのように、一秒もずれることなく、同時に、一斉に、同じタイミングで唾を飲み込む。それは自分達ですら動揺してしまうほど大きな音になって。あたかも一つ一つは小さな力でも、それらが合わさるととても大きな力になるという大切なことを俺達に気付かせてくれた。
「よし……行くぞ……っ!」
沈黙の中、心地よい緊張感の余韻を吹き飛ばすかのように俺が言う。他のチームメイトも順番に入口からフィールドの様子を確認したあと、列に戻り、俺の両目へ熱い視線を送ってくれた。俺はその視線に頷くことで応えながら、全員が満足していることを確認すると先頭を切って走り始める。
このチームのリーダーは俺だ。俺が司令塔になってこいつらを引っ張っていかなくてはならない。その重責を自身の背に感じつつ、俺は反対にわくわくもしていた。これから始まる試合で俺達に何ができるのか、何を成し遂げられるのか。心の中に生まれた不安を、そんな子ども染みた期待の感情がどんどん凌駕していく。だから、一歩を踏み出した。全ての準備が整ったことを告げる一歩を。
「うがあああああ!!!」
そして、俺達は帰ってきた。自信に満ち溢れた表情で、悠然と。先ほどと同じように化粧室の脇を通り、階段を心を込めながら降りて、自動販売機を横目に、廊下の角を曲がって。
「いや、やっぱり広かったな。フィールド」
「それに、芝も丁寧に手入れされてるみたいだぜ」
「あ、俺弁当食べてなかったや」
「俺も、俺も」
「あ、お前、人の鞄の中見んなよー」
「あれ? ちょっと見ない間に痩せた?」
「そう言えば、この前財布落としてさー」
選手控室で、俺達は試合までの時間を思い思いに過ごした。
ふと、彼らに視線を向けると、誰も彼も柔らかい表情をしていて。ほどよく緊張がほぐれたことを俺に知らせてくれる。
「やっぱり、フィールドまでの経路の確認は大事だよなぁ」
俺はそう呟きながら、リーダーとしての責務をまた一つ果たせたことに胸を撫で下ろす。思いつきでやったことだが、以外にもチームメイト達はこの部屋からフィールドまで行く道のりを知らなかったのだ。
もし、試合が始まるまでそのことにそのことに気づかなかったら本番はおそらく緊張でがたがただっただろう。いや、もしかすると開始時刻までにフィールドへ辿り着けない者が続出し、試合さえできなくなっていたかもしれない。そう考えて、俺は心底肝を冷やした。
――そして、1時間後――
目の前には緑のフィールドと、この試合を観戦するためにつめかけた大勢の観客の姿がある。
事前にフィールドまでの道筋を確認していた俺達は、自動販売機や化粧室などには目もくれず今回は最短距離でこの場所へと向かった。
『……ゴクリ』
また、一斉に寸分たがわぬタイミングで全員の喉が鳴る。
さっきはそれがチームの結束力の象徴のように感じられて心強かった。だけど今は、俺達の心の内に生まれた嫌な緊張をまざまざと知らされているような気がして。
寄り道をしなければこうも早くここまで来れるものなのか。俺達は唐突に目の前に現れたピッチに対し、強い不安と焦りを感じていた。
「か……せー! ……ノ!」
しかし、俺はそんな状況からいち早く脱する。
それは自分がリーダーであるということへの使命感、これまで一生懸命に積み重ねてきた練習に対する確固たる自信、共に歩んできた仲間への信頼、そんなものをこの胸に感じていたから。
「かっと……せー! ボ……ノ!」
けれど、俺の意志を何より奮い立たせてくれたのは、不思議と今まで一度だって話したこともない人々の声。それが激しい大太鼓の音と共に俺の耳に届いた。
「かっとばせー! ボル……ノ!」
彼らの張り裂けんばかりの声援が、この広いフィールドを揺らしている。その一様に揃った足踏みが、施設全体を鼓動させている。その熱い手拍子が、一つの巨大な塊となってこのスタジアムを占領している。そして、彼らの期待が込められた強い視線がたった一人の人間の元に降り注いだ。
「かっとばせー! ボルケイノ!」
ぶるりと背筋に快感が駆け抜ける。俺は目をしっかりと開きながら、ほんの小さく柔らかに空気を吸い込んだ。肺で溶けた酸素は血中に吸収され、全身に廻り始める。それはまるで脳からの指令を、俺の意志を、体の各部位に伝えるように沁み渡っていった。
そうして俺は焦らすように体を縮めていく。それはパチンコで玉を打ちだす際、ゴムで出来た発射装置の部分を限界ぎりぎりまで引き伸ばすように。猛獣が獲物を追うその刹那まで、じりじりと力を自身の肉体に溜め込むように。そして、次の瞬間――。
「行くぞおおおお!!!」
俺はフィールドを力強く駆けだしていた。スパイクで踏まれた芝がしゃきしゃきと愉快な声で笑う。
「うおおおおおお!!!」
口火を切った俺のあとに、チームメイトが大きな群れのように続いた。彼らも待ちわびていたのだ、この瞬間を。戦場へと進むときの、この躍動感を。
「しゃあああああ!!!」
そのとき、俺達の心の中にはもはや不安など翳りもなく、たた火のように燃える想いがみなぎっていた。
「それでは各チーム、一列に並んでください」
センターラインの上に立つ審判が俺達と相手チームにそう告げる。
俺達は一人一人胸から溢れてくる熱い感情を、奇声によって表現しつつ迅速に一列に並んだ。
「ぐぬりゃあああ!!!」
「ちょ、ちょっと、今から挨拶するから静かにしてください」
直立の体勢で微動だにしないまま、相手チームに向かって吠え続ける俺達に審判は動揺しながらの注意を呼び掛ける。
しかし、火傷しかねないほど高まった俺達のボルテージは、審判ですら止めることはできない。
「うぎゃああああ!!!」
「ミッドナイト・パワーズ! 少し静かにしなさい!」
注意を受けてなお雄叫びを止めようとしない俺達に、審判が少しくい気味に指導してきた。
だが、それでも俺達の熱い気持ちは冷めることはなく。
「どんなもんじゃああ!!!」
更に勢いを増していく。
ふと、相手チームの方を見ると、俺達の試合に賭ける意気込みに完全に呑まれてしまっているのが分かった。何故なら彼らはもじもじと居心地が悪そうに体をまごつかせながら、不安そうに互いの目を見合わせているから。対して、気を付けの姿勢から僅かに動くことさえしない俺達は、なおも変わらず耳をふさぎたくなるほどの奇声を上げ続けている。
それはあたかも狩る側と、狩られる側。もしかすると、この時点で既に試合の結果は見えていたのかもしれない。
「うびいいいいい!!!」
俺達は駄目押しとばかりに声を張り上げた。あたかも開始の合図を待たずに、試合を決しようとするように。
一方の相手チームはもう涙目だった。俺達は肺で吸い込んだ空気を、最後の一握りまで吐き出しながら怒号を浴びせかけていく。すると、彼らはまるで天敵に追い詰められた小動物のような表情で震え初め、そこで俺達は確信した。あと、一押し。あと一押しで、この勝負が決まる、と。だが、そのとき。
「ミッドナイト・パワーズ! いい加減にしろ! これ以上やると失格にするぞ!」
審判のおじさんが怒った。すごく怖かった。本当に怖かった。普通は中立の場所に立たなくちゃならないのに、めちゃくちゃこっちのチームに詰め寄ってきた。いきなり大声を出されてとてもびっくりしたし、ちょっと大人げないと思った。
いや、俺達も無意味に奇声を上げ続けたのは悪かったと思うけど、何もあんなに怒らなくてもいいと思うし。別に俺達は悪気があった訳じゃなくて、ただ何となくテンションが上がって大声を出していただけであって、試合の進行を妨げるとかそんな気持ちはもちろんないし。俺達だって、今まで練習してきたからその成果を見せたいし、理由もなく俺達が声を出し続ければ相手が怖がって棄権してくれるかもとはちょっとは考えたけど、それだって言わば敵を倒すための作戦だから悪いことじゃないし。それがちょっとやり過ぎたからって、やっぱり大声で怒鳴りつけるのはよくないと思うよ、うん。
「ったく、最近のガキは……」
そう言って驚くほど怖い目でミッドナイト・パワーズの一人一人を睨みつけながら、審判のおじさんは定位置に戻っていく。
一方の俺達は、大人の人の突然の叱咤に怯えて半べそになり、「……えっぐ、えっぐ」と我慢しきれず声を漏らしてしまう者さえ出てきてしまった。
「それでは互いに礼!」
そんな俺達に対して謝ったり、フォローを入れたりすることなく、審判のおじさんは無遠慮に礼を強要してくる。
俺達はとても傷ついた。酷く傷ついた。大人っていうのはどこまでも身勝手で、子どものことなんて考えてくれない。毎日、子どもに勉強しなさいって言うくせに、自分はビールを飲みながらテレビを見て笑ってるんだ。そんなんじゃ、俺達だって素直に言うことを聞けないよ。
『ピィー!』
しかし、そんな俺達を置き去りにしたまま、無情にも試合開始のホイッスルが鳴り響く。
そして、フィールドを包み込む時間が止まったような一瞬の緊迫感。合図と共に蹴り上げられたボールが、スローモーションのようにゆっくりと宙を泳ぎ、地面に触れる。その瞬間――。
「破邪! 弥勒菩薩!」
俺は自分の内なる力を解放し、聖なる刺青が彫られた右腕を掲げた。すると、1000年以上前から脈々と松本家当主を守ってきた霊獣・白蛇がボールに向かって放たれる。
白蛇は空中を風のように素早く這うと、目標の獲物の前で大きくあぎとを開いた。
「永遠を駆ける覇王! ユニコーンフェニックス!」
それを止めたのは相手チームのリーダー、山田=クリスティーぬだった。
彼女は俺が放った白蛇よりも一瞬速く、赤く猛る不死鳥にして美しき駿馬のユニコーンフェニックスを飛ばしてボールを奪う。そして、自分の元に戻ってきたユニコーンフェニックスからボールを受け取ると、彼女は恥ずかしそうに顔を背けながら俺に言い放った。
「あ、あんたの好きになんかさせないんだお!」
流れるような長い金髪に青い瞳。そして、今にも透けてしまいそうなほど白い肌。もちろん髪型はツインテールで、真っ赤なリボンをつけている。
クリスティーヌの母親はイギリス人で、父親は日本人。つまりハーフだ。だから顔立ちは驚くほど整っている。いや、更に言うと父方のおじいちゃんがフランス人で、母方のおばあちゃんがドイツ人である。また、血筋を辿るとブラジル人もいたようで、そのサンバ独自のナイスバディが見事に彼女にも遺伝していた。つまり、おっぱいがでかい。
そんな彼女に俺も負けじと言葉を返す。
「俺だって負けないじゃん!」
当然のことながら、俺の語尾にもさっそく白蛇召喚の影響が出始めていた。それは選ばれし者のが持つ宿命、いや受けるべき呪いとでも言うのか。俺達は人間には行き過ぎた力の代償を支払うかのように、普通では考えられない語尾で会話する。
もしかすると漫画やアニメなどの登場人物が意味不明な言葉を語尾に付けながら話しているのも、俺達のように避けようのない運命に縛られているからなのかもしれない。
「口だけは立派だお!」
こういう非現実的な力を持つ俺達みたいな存在を、人は「均衡を破壊する者」と呼び、忌み嫌った。
「口だけじゃないってことを証明してやるじゃん!」
それが普通では持ち得ない能力を手にした俺達への嫉妬なのか、理解できない対象への忌避なのかは分からない。だが、そんな下らない感情のせいで、俺達は小さい頃から不遇な扱いを受け続け、人間という存在をずっと憎みながら生きなければならなかった。
「まずは1点先取なんだお!」
「そうはさせるかじゃん!」
彼女とはそんな失意のどん底で出会った。
場所は孤児院。そのときの俺は、自分を捨てて逃げるようにここから去っていった両親に強い憎しみを抱き、周りを拒絶しながら日々を過ごしていた。
「な! そ、それ取るなお! 返すんだお!」
「へっへーんじゃん!」
けれど、心のどこかで今でも二人が迎えに来てくれることを。「待たせてごめんね」と、「ボルケイノは悪くないんだよ」と、「ボルケイノが怖くていなくなった訳じゃないんだよ」と、俺に伝えに戻って来てくれることを期待している自分にものすごく腹が立った。
俺はもう裏切られたくなかったのだ。だから、俺に優しくしてくれる人間は全員嘘だって自分に言い聞かせた。信じても無駄だと、仲良くなるだけ損だと。幼い心が自身を守るために作りだした冷たい防御壁。
そんな俺の周りからは次第に人が減っていき、孤児院でたった一人孤立した。
「全てを飲み込む水霊! リトル・リヴァイアサン!」
「おお、中々やるじゃん! それならこっちは……!」
でも、彼女は俺に話しかけてきた。最初の言葉は何だっけか……確かそう、「ねぇ、そこのアホ」だった気がする。今まで俺に関わろうとしてきた奴らと違って、傲慢で高圧的。高飛車で気位が高い。だから、俺は振り返る。だからこそ、俺は素直に言葉を返すことができた。
「羅刹曼荼羅! 真言古事記伝!」
「う、それはずるいんだお!」
仁王立ちの彼女に俺は「は? お前、誰だよ」と言った。ぶっきら棒に、率直に。だけど、そこから俺達の物語は始まっていく。
「二階堂! 陰陽返し!」
「金色の流星群! メテオ・オルティネイション!」
そうして俺達はいつの間にかいつも一緒にいるようになり、長い間同じ時間を共有した。馬鹿みたいに喧嘩したり、笑い合ったりしながら。励ましたり、慰め合ったりしながら。
たまに、真剣な話もして。彼女は物心つく前にこの孤児院に捨てられ、両親の顔も知らずに生きてきたことも聞いた。だから、例え少なくても親と過ごした思い出を持っている俺が、いつまでもうじうじとしているのが鬱陶しくて声をかけたということも。
「輪廻転生! 悔恨! 如来入滅!」
「雄々しい大地の守護神! ドメスティック・タイタン!」
それからどれほど月日が流れたのだろうか。今、俺達は互いに日本有数のサッカーチームのリーダーとなって向かい合っている。いつの間にか、その背にたくさんの夢と期待を背負って。譲れないものを手に入れて。
「中々、やるんだりゅん!」
「まだまだこんなもんじゃないんぼると!」
試合が激化してきた。その影響で語尾もどんどん型破りなものになっている。そして――。
『ピピィー!』
そこで前半終了のホイッスルが鳴り響く。俺達の勝負はどうやら後半戦に持ち越されることになったようだ。
「お兄ちゃん、お疲れ様……わん」
ベンチに帰ると俺の義理の妹でチームのマネージャーの、ディアゴスティーニ=松本がタオルを持って迎えてくれた。ちなみに長くて呼びにくいから、俺は彼女のことを縮めてディアと呼んでいる。
「サンキューぼると……って、その語尾はどうしたんぼると?」
俺はタオルを笑顔で受け取りながら、ディアの奇妙な語尾について訊ねてみた。だが、返事は返って来ない。目の前のディアは、ただ目を伏せながら両手を体のうしろで組んでもじもじとしている。
俺は彼女の様子からなんとなく状況を察し、優しい声で質問した。
「もしかして……俺のためぼると?」
「……」
ディアはこちらを見ないまま、無言でこくりとうなずく。
どうやら気を使わせてしまったらしい。
「ばーか、お前まで付き合う必要はないんぼると。これは能力を使うための埋め合わせみたいなもんだぼると」
「……」
しかし、ディアはこちらを見上げ、ふるふると首を振ってみせた。そして小さい声で「……わん」と呟く。
「強情な奴だぼると。まぁ、そこまで言うならお願いするぼると」
「……わん」
そして、また後半戦開始のホイッスルが鳴った。
「へい、パス!」
「分かった!」
「そっち、空いてるぞ! 走れー!」
「ディフェンスしっかりー!」
フィールド上で敵と味方の声が交差する。前半戦と違い、後半戦では特殊能力の発動が全面的に禁止されるため、試合の攻防は打って変わって地味になった。
『ビッ!』
「4番、ラインアウト!」
だから、先ほどまで無言で事の顛末を見守っていた審判も、積極的に試合に関わってくる。心なしか動きも機敏になり、目はやる気に満ちていた。
「っく……!」
「ドンマイぼると!」
しかし、状況が一変したというのに俺の語尾は未だに異様なままである。前半戦が終わったと言っても、こればっかりはそうそう都合よく消えてくれるものではないのだ。恐らく試合が終わる頃には普通の語尾に戻っているだろうから、ここは我慢してプレイを続けるしかない。面倒だが、これも人間が持ち得ぬ力を授かった者の宿命であるというならば甘んじて受け入れよう。
「こっちだ!」
「任せた!」
俺が自身に課せられた運命の悲しさに浸っている内に、相手チームの手によってボールがスローインされた。
そこで用いられたテクニックは足より脆弱な腕の力を補うために人類が生み出した至宝、ハンドスプリングスロー。両手で持ったボールを頭の後方へと振りかぶるまでは同じだが、この技はそこからの動きが通常のそれと異なる。なんと、ボールを持ったままの状態で、選手が前方に向かって一回転するのだ。そして、十分過ぎるほどの推進力を乗せたボールが両手から放たれる。ちなみにこれはプロサッカー界ではとても基本的な技で、全ての選手がこのスローインを小学生のときに習得している。
「ナイススロー!」
「おい! ディフェンス、回れ、回れ!」
タッチライン外から放たれたボールは綺麗な弧を描き、相手チームの手に渡った。見事にマークが間に合わなかった選手を狙ってのスローイン。こちらのチームワークの穴を突かれた展開だが、試合中に落ち込んでも仕方がない。
俺はすかさずメンバーにフォローを入れる。
「どうってことないぼると! 試合に集中するぼると!」
そしてボールは相手選手間を巧妙にパスで繋がれ、自軍のゴール前へ。チームメイト達もかなり健闘したのだが、今回は流れも悪かった。ボールを取り返せなかったのは仕様がないことと言えよう。
俺はすかさずチームにフォローを入れる。
「まだまだいけるぼると! 気持ちを切り替えるぼると!」
その声に応えるようにチームメイト達は、全員でボールに向かって突進していった。
ボールをキープする相手選手を襲う、四方八方からの弾丸スライディング。それはあたかも戦闘機から発射されるミサイルの集中砲火のようで、タイミングを少しずつずらしながら器用にボールを狙って放たれる。
「うりゃあああ!!!」
「とりゃあああ!!!」
「死ねえええ!!!」
だが、そんな俺達の捨て身の戦術を、相手選手はボールを他の選手にパスすることで難なくかわした。
「馬鹿な!」
「グランドクロス・ミサイルが通用しないなんて!」
俺達が先週の休日を全て使って編み出した渾身の技が通じなかったショックはかなり大きい。チームメイト達の額にも嫌な汗が流れている。しかし、今はまだ試合中だ。
俺は一度自軍の選手を自分の位置に呼び集め、すかさずフォローを入れる。
「何てことないぼると! どんどん攻めていこうぼると!」
チームメイト達は俺と目線を合わせ、しっかりと頷いてみせた。
それはとても心強くて。俺はこいつらと同じチームになれたことを神に感謝する。
『ピィ!』
そのとき遥か後方で審判のホイッスルの音が鳴った。
驚いて振り返ると、自軍のゴールネットが揺れているのが視界に映る。どうやら俺達が互いの友情を確かめている内に、無情にも相手チームがそこへボールを蹴り込んだらしい。
「な! なんて奴らだ! 俺達が大切な話をしている間に……」
「くそっ! 汚い真似しやがって!」
「あいつらにはモラルってものがないのかよ!」
事実を理解した途端、相手チームを批判し始めるチームメイト達。
だが、俺はただ一人この状況を冷静に分析し、彼らをたしなめる。
「いや、試合中なのに勝手に集まって話していた俺達の方が悪い」
全員が目から鱗を落としたような目で俺を見てきた。彼らも自分達の落ち度を分かってくれたらしい。
俺はまた一つリーダーとしての責務を果たせたことにほっと胸を撫で下ろす。また、唐突だが語尾も治った。
「ノンフィクション・ファイアー!」
「デス・ポイズン!」
「エンド・オブ・ジュニア・ハイスクール・スチューデント!」
そして俺達は失点を取り戻すために、それまで温存していた技を次々に繰り出していく。練習時間の大半を使って技の実用化に取り組んだおかげで、それらは一つ一つのクオリティが高く、かなりカッコいい出来栄えだ。
『ピィ!』
だが、そのほとんどが先ほどの技と同様に相手チームには通じず、どんどん失点は増えていく。気が付くと、相手チームの得点ボードには30という数字が刻まれ、反対に俺達のチームのそれは試合開始から全く動こうとしない。
また、その間、俺達が繰り出した激しい技の影響でクリスティーぬの服が全て破れてしまったり、ディアが猫耳眼鏡メイドに変わってしまったりとエキセントリックなイベントがたくさん起きたが、話が長くなるのでそこは割愛させてもらことにする。
「はぁはぁ……っく!」
「どうして通用しないんだ! ろくに練習もせず、必死に考えてきた俺達の技が!」
そして非常にアクロバティックで無駄に体力だけは浪費する技を相手選手に試み続けた結果、チームメイト達の顔にはどっと疲れが見え始めた。
『ピィ!』
また審判のホイッスルが鳴る。自軍のゴールネットが大きく揺れた。
「……そんな」
「マジかよ……」
俺達ミッドナイト・パワーズの頭上に暗雲が立ち込める。
チームの全員の心に「これ以上やっても無意味なんじゃないか」という諦めの言葉が、絶望の声が浮かんだ。しかし、それも仕方がないこと。30点を超える点差は、後半戦という短い時間の中ではどうしたって埋めることはできない。いや、仮に前半戦の時間をここに追加することができたとしても恐らく結果は変わらないのではないのではないだろうか。何故ならこの時点での俺達は、本当に大事なことに気付いていなかったから。
「……どうして勝てないんだ?」
「努力が通じないなんて……」
それは選手控室からフィールドまでの経路を確認することでも、貴重な練習時間を割いて奇抜な技を考え出すことでもなく、「ちゃんとパスやシュートなどの練習をしなければ、本番ではまともに戦えない」というただ一点に集約される。こんな簡単な事実に、俺達は気付いていなかったのだ。こんな状態では、試合で圧倒的に負けてしまっても、一切テクニックが通用しなくても致し方ない。
そこまで考えて俺は再度メンバーに合図を送り、自分の元に集めた。すると、相手チームのシュートによってまた自軍のゴールネットが揺れる。
「皆、よく聞いてくれ」
そして俺は自分の意志を伝えた。その間も、相手からの猛攻は止むことはない。得点ボードが嘘のように切り替わり続ける。
「この試合、もう棄権しようと思う」
メンバーは俺の顔と、ついに100点を超えた相手チームの得点ボードを見比べながら頷いた。
「悔しいが……仕方がない」
「もうちょっとだったのに……」
「次に戦うときはきっと見返してやろうぜ」
「あと一歩届かなかったか……」
チームメイト達の表情は重い。彼らもまた、俺と同じ悔しさを噛みしめているのだろう。
「すみません、審判」
けれど、この敗北はいつか力になる。この胸を覆っている気持ちは、きっといつか俺達が一番苦しいときに心の支えになってくれる。そう信じて俺は。
「あの、俺達はこの試合を……」
俺は審判に近付いて棄権の意志を告げようとする。悔しい気持ちを押さえ、なるべく冷静に務めながら。
「らしくないわね」
だが、俺の敗北宣言をうしろから放たれた声が邪魔をする。
振り向くとそこにはクリスティーぬが、彼女がボールを右足で地面に押しつけながら立っていた。
「試合の結果はもう見えただろ? これ以上の戦いに意味はない」
俺は心を落ち着けてクリスティーぬに告げる。しかし、それがどういう訳が失敗して、どこか投げやりな言い方になってしまった。
「あんたって、こんなものなの? 途中で投げ出して、恥ずかしくないの?」
そんな俺にクリスティーぬは更なる言葉を投げかけてくる。
その一つ一つが今の俺には苦痛に感じられて。つい、お茶を濁してしまう。
「お前こそ、そんな格好して恥ずかしくないのかよ?」
「な! こ、これしかなかったんだから、しょ、しょ、しょ、しょうがないじゃない!」
試合の途中、俺達の放った激しい技々のせいでユニフォームが破れてしまったクリスティーぬは、どういう訳かスクール水着を身に着けていた。
だが、彼女の豊満なボディにその衣装は不釣り合いで、胸部は大きなプリンのように膨らみ、でん部もかなり際どいラインまで布地が狭まっていて色々とギリギリである。色々とギリギリなのである。
「ていうか、私のことはいいのよ! 要は、あんたはどうなの!? ってこと! あんた、前半戦の威勢はどうしたの? 口だけじゃないってことを私に証明するんじゃなかったの?」
「それは……」
俺は言葉を返せなかった。簡単なことなのにどうして。どうしてかはっきりしないが俺は――。
「……まだ、諦めたくないんだよね?」
言葉を決めかねている俺に、優しい声でクリスティーぬが言う。まるで、間違った道に進もうとしている幼子を諭す母のように。
「……」
分からない。分からないが俺は。俺の手は強く握り込まれていて。
「……まだ、できることがあるんだよね?」
迷っている俺に、暖かな声でクリスティーぬが言う。まるで、行き場を失った魂を手招きする、金色の光のように。
「……」
分からない。分からないが俺は。俺の脚は何か物足りなくて。
「だったら……」
「?」
クリスティーぬはそこで大きく息を吸い込んだ。そして、俺の目を真っ直ぐ見つめて言い放つ。
「あんたのやれることをやりなさい!」
同時に、地面をぎこちなく跳ねながらこちらへと転がってくるボール。俺はそれを――。
「……」
しっかりと両手で拾い上げた。
ふとクリスティーぬの方へ視線を向けると、口元が僅かにほころんでいて。
「行ってくる」
俺はそう一言だけ告げ、振り返る。
「中途半端だけは許さないんだからね!」
背中越しにクリスティーぬの声が届いた。彼女は今、どんな表情をしているのだろうか。俺はそれを想像して、「ふふっ」と微笑しながら足を踏み出す。
「任せたぞ」
「お前ならやれる」
「俺達の意志を届けてくれ」
「ここで待ってる」
ゴールに向かって走り出した俺を、ミッドナイト・パワーズの皆は暖かく送り出してくれた。いや、ミッドナイト・パワーズだけではない。澄まさずとも、確かに俺の耳まで届く声援。スタジアムの観客達が声を揃えてこちらにエールを送ってくれている。
「かっとばせー! ボルケイノ!」
「行け行け、押せ押せ! ボルケイノ!」
俺はそんな彼らに小粋なウィンクで応え、走る速度を上げた。
「頑張って……わん」
選手用のベンチに辿り着く。
そこには俺達の繰り出した技の影響で純白の花嫁衣装を着たディアが立っていた。そして、彼女もまた俺の背を力強くあと押ししてくれる。
「ったく。俺の方は治ったんだから、もう無理してそんな語尾つけなくていいんだぞ?」
ディアの頭を柔らかなベール越しに撫でながら俺は笑った。
「……わん」
だが、ディアは上目遣いでまた吠える。どうやら気に入ってしまったらしい。
「お前がいいなら、そのままでいいさ。それじゃあ行ってくる」
「……わん」
そうして俺はまた走り始めた。
ベンチを抜け、しばらく廊下を走るとすぐにスタジアムの出口が見えてくる。
「ここからは一人だな」
俺は覚悟を決めるように大きく深呼吸をしてから、周囲の様子を確認した。目の前にはサッカーとは、微塵も関係のない普通の町並みが広がっている。
そこにはレジ袋を持った買い物帰りのおばさんや、仲睦まじそうに寄り添い歩くカップルなどがいて。こんな中をバッキバキのユニフォーム姿で、しかもボールを持ったまま走り抜けるのは何だかとても気後れした。
「うぅ……うおおお!!!」
だが、ここで恥ずかしがってもいれられない。俺は気合いを声に乗せて勢いのまま駆け出した。
途端、そこにいた人々が怪訝な表情をしてこちら振り返る。彼らが俺に向ける視線はまるで汚いものでも見るかのようで
「うびゃああああ!!!」
しかし、俺は負けない。精一杯声を張り上げて、周りを威嚇しながら進んでいく。こんな所で挫けては、俺のことを信じて送り出してくれた仲間達に顔向けできないから。
「あんがああああ!!!」
一度叫び始めると、あとは堰を切ったように声が溢れだす。
「ばんぶうううう!!!」
俺はこのとき確かに感じていた。自分の絶叫と重なって響く、チームメイト達の熱い喚き声を。
「どんふぁああああ!!!」
まるであのときのピッチのようだ。俺は今たった一人で戦っているようで、どうしようもなく仲間達に支えられている。
「せくしいいいい!!!」
彼らの想いを胸に俺は走った。走り続けた。
途中、横を通り過ぎた人々には白い目を向けられたがそんなもの関係ない。そんなもので今の俺達を止められはしないんだ。そうだろ、ミッドナイトパワーズの皆。俺は心の中でそう仲間達に呟く。
――そして2時間後――
「るんばああああ!!!」
ついに俺の視界に白く伸びる一本のテープが映る。
ここまで来るのは本当に長い道のりだった。途中で諦めそうになり、止まりそうになり、だがそんな追い詰められた状況でも俺の脳裏には共に過ごした仲間達の顔が浮かんでくる。だから、俺は心を折らずに進むことができた。この42.195kmという、果てしなく続く長いロードを走り抜けることができた。
「かっとばせー! ボルケイノ!」
「行け行け、押せ押せ! ボルケイノ!」
道の両脇にはスタジアムにいた観客達が並び、俺を拍手で迎えてくれている。その先にはミッドナイト・パワーズの仲間達が。そして、クリスティーぬとディアの姿も。
「べ、別にあんたのために待っててあげたんじゃないんだからね!」
「……わん」
クリスティーぬの方は相変わらず素直じゃない。だが、それでも彼女の気持ちは十分過ぎるほど伝わってきた。
ディアもそう。無口で感情が分かり辛い義妹だが、ほんの少しの表情の変化で彼女がどれほど俺のことを思ってくれているかが理解できる。
「あぐねええええす!!!」
俺は自分に残された最後の力を振り絞った。
歯を食いしばり、脚を前へと送り出す。既に限界まで酷使され、鉛のように重くなった筋肉。しかし、それでもまだ前へ。もはや視界は靄のように歪み、体に蓄積された疲労が意識をどんどんあやふやにしていく。しかし、それでもまだ前へ。
だが、あと少しなのにそれは呆れるほど遠くて、俺は力なく瞼を閉じる。もう、俺の体からは目を開けているだけの体力さえなくなってしまっていた。
「あとちょっと何だから頑張りなさいよ、馬鹿!」
「頑張って……お兄ちゃん」
けれど、それでも俺は走ることができる。目を閉じていても、鼓膜を揺らす声がある。だから、俺の目標は変わらない。進むべき道は誤らない。だって、その場所には彼女達がいてくれるから。
俺は全身の力を余す所なく脚に送り、ただ走った。
「ゴーーール!!!」
ふやけた思考に周囲の甲高い声が響き渡る。
いつの間にか俺の体はゴールテープを切り裂いていた。そしてその瞬間、達成感に包まれた体からは嘘のように力が抜け、俺はだらしなく崩れ落ちる。
「もう! 無理しすぎよ、馬鹿!」
「……よしよし」
そんな俺を二人が抱きしめてくれた。クリスティーぬの柔らかな感触と、ディアの優しい手。それに割れんばかりの大歓声の中、俺の意識はゆっくりと溶けていく。
「ボルケイノ、少しだけ分けてもらうわよ」
「……我慢してね」
そのとき、俺の耳によく分からない言葉が響いた。それを聞いた直後、一気に体の力が抜けてしまって。理解できない。二人は何を。いや、もはやここは夢の中なのかもしれない。そんなことよりもついに俺はやり遂げたのだ。逆転サヨナラホームランを。
「勝者、ミッドナイト・パ――」
そして響き渡る、審判の高らかな宣言。それを最後まで聞くことなく、俺は深い眠りへと落ちていった。