第三章 正義の価値1
数時間前、私の前では信じられない事態が起きていた。
一人の女性が緑色の光を身に纏い、警察や軍と戦っている……。
決してこれは冗談などではない。私の眼前で実際にその争いが行われているのだ。
「馬鹿な……」
混乱した私の頭では、そんな陳腐な言葉を放つことさえギリギリだった。
「さしもの神崎正義先生でも、動揺を隠せないようですな」
まぁ、当然でしょう。そう言いながら、私にコーヒーを差し出してくる。この余裕の表情はなんだ。それ程にこの状況を見慣れているというのか。
今フランスで、何が起きている……?
この男の名はブライアン・クレイドル。フランスの警視総監だ。以前私が総監に就任した頃に一度顔を合わせたことがある。その時からどこか他人を見下ろしているような雰囲気の持ち主だった。
今は私を先生と呼んでいるが、心中では欠片程の敬意も持っていないだろう。
「日本ではどうなされたのですか?総監になられた後に失脚したと聞きましたが……」
この男……自分で気付いていないのか?今貴様は人を見下す笑みを浮かべているぞ。
「うむ。こちらでも色々あってな。貴様の管轄では、厄介では済まない事態が起きているようだが?」
空気が張り詰める。今我らは、言葉での戦を展開している。ブライアンは私を日本に帰そうと、一方私は近くの交差点で起きている信じがたい事態の詳細を聞き出そうと、相手を自分の都合のいい方に言葉で誘おうとしている。
まずは様子見だ。相手がどのように出てくるかを見て、順にこちらもカードを切っていく。
「いや何、日本で起きた事件に比べれば、小さい事ですよ」
無論そんなはずがない。このファンタジックな状態が小さい問題なものか。
日本での惨劇が小さい事だとは毛頭思っていない。しかし、こちらは世界の常識を覆す様な規模の問題だ。どちらが各国に強い衝撃を与えるかなど言うまでもない。
「ですから、こちらの事はこちらに任せ……」
任せて日本へお帰りください。そう言おうとして、途中で言葉が出なくなった。振り返ると、正義が鋭い目でこちらを睨んでいる。
背筋が凍った。その姿はさながら鬼の様だった。正義の鬼が、強烈な殺意を放ちながらこちらを威嚇している……あの目、一日たりとも忘れたことはない。
神崎正義……こいつこそ、私が世界で唯一恐れた男だ。
奴が総監に就任した頃、当時刑事として日本を訪れていた私は、偶然にも奴に遭遇した。
どうやらリンチされていた少年を助けようと乱入したらしい。だがあまりに数が多く、一人でなぎ倒すのは厳しそうだ。
だが、奴の目はどうだ。強烈な殺気に満ち、倒すどころか殺してしまうのではないかと心配になる。
「そこの男!」
面倒なので立ち去ろうとした時、男の大声が辺りに響いた。振り返ると、先程の目がこちらを睨んでいる。
……ゾッとした。
「警官だな!?手を貸せ!」
なんて事だ。まさかこちらに気付いていたとは……。
その一言で私は立ち去る訳にはいかなくなった。逃げてもチンピラ共が追ってくるだろうし、何よりあの男の目……逃げられる気がしない。
結局私は男に加勢し、チンピラ共を殴り飛ばす事になってしまった。休暇中だったのだが……。
「すまなかったな。何せあの数だ、私一人では少々無茶だったのでな」
少年の頭を撫でながら、男は言った。
いや……。それ以外に言い様がなかった。私の中の野心が警告を発し、この男と深く関わる事を拒絶したのだ。
敵に回す事も……。
「私は神崎正義。この国の警視総監だ。君は……ヨーロッパの刑事か?」
私は驚いた。警視総監ともあろう者が、子供一人のためにチンピラと喧嘩をしていたのだ。言われてみれば、服も普通の警官よりも立派であるような気がする。
礼をさせてくれと、男は自分の車に私と少年を乗せ、警視庁へ向かった。
「少年」
正義に声を掛けられ、微動だにしなかった少年の小さい肩がビクッと跳ねた。無理もない。この男には常に他人を威嚇している様な独特の雰囲気がある。子供なら怯えてしまうのが普通だ。
本人もそれがわかっているのだろう。出来るだけ怖がらせない様、穏やかに語りかける。
「名を教えてもらえるか?私とていつまでも君を少年と呼びたくはないのでな」
「……晃一……南部晃一」
奴の努力が実を結び、少年は名を名乗った。ふむ……とだけ、正義は唸った。この男、何も考えていなかったな。
案の定、しばしの沈黙が訪れた。元々全員が初対面。そう長く会話できるはずがないのだ。運動席の正義が次の話題を模索している中、私は若干不機嫌だった。
休暇中喧嘩に巻き込まれたと思ったら、こんな狭い空間に長時間閉じ込められている。
礼などいいから早く私を解放しろ。そう言いたかった。無論言い出せず、奴も新たな話題を見つけられないまま、警察庁へと到着した。
すぐに南部少年の家族を特定する作業には入り、彼は我々と分かれた。
「返す返すすまない。気まずい思いをさせたな」
コミュニケーションというものが苦手でな……。そう言って、せめてもの礼にと訪れた酒場のカウンターの席に腰を下ろす。勤務中ではないのかと問うたら、元々今日は休みだったのだが、部下に呼ばれて警察庁へ出勤する途中で晃一を助けたのだと、そう答えた。 だったら早く部下のところにいけばいいものを……。そう思うが、将来的にこの関わりがどう影響してくるか分からない。不必要な発言は避ける。
「日本へは観光で来たのかね?」
「えぇ、まあ」
そんなところだと言っておく。詳細を明かす必要はない。
幸い奴も、そうか……と、深く聞き出すつもりはないらしい。その証拠に、すぐに話を変えてきた。
「君は……警察とは何だと思う?」
随分漠然とした質問だった。だが、何も警察の定義を聞いているわけでないのは分かる。
何の元に行動すべき組織なのか……そういう理念の話をしているのだ。
考えたこともない。私にとっては仕事に過ぎん。ただ働けていればそれで良い。理念など……。何も言わずに黙っていると、奴は窓の向こうに目をやった。
「私は警官になった当初、警察とは正義の集団なのだと思っていた。正義の元に調査し、正義の元に罪人を捕らえる。そう言った組織なのだと思っていた」
馬鹿かこいつは。警察が正義だどうだと言っている気高い組織であるはずがない。所詮は幾多の人間が就く職の一つに過ぎん。そこに大義など……。
生きるために働く。それが人の宿命ではないか。
「だが、違ったのだ。上官や政府から圧力があればすぐに事件から手を引く。下手にたて突いて、職を失わないために。それを初めて見た時、どれほど警察が情けないものかを知った。私は、間違いなく夢を見ていたのだ」
よくわかっていらっしゃる。下らない幻想を抱き、警察官となった者は数知れない。しかし、その全てと言って過言でない数の者達が、現実を知り、夢を捨ててきた。生きてゆくためにだ。
この男もそんなクチだろう。所詮正義など、結果として悪に繋がってしまうことが多々ある。自分の正義は他人の悪……それが心理だ。
「だが私は諦めない」
……は?
この男、今何と言った?まさかとは思うが、諦めないと言ったのか?
「私は今の警察を変えるため、革命を起こそうと思っている。警察を正義の組織に変えるための革命を」
ジョークか?いや、奴の顔は真剣そのものだ――本気で言っている。
「君は笑うかもしれないが、既に革命の種は蒔いてある。私は我が警官人生をかけて、警察に新たな流れをもたらすつもりだ」
その数年後……日本の警視総監神崎正義が、未成年者を警官にしたと言う記事を目にした。
「そう言えば、その後南部晃一君はどうしたのです?」
奴の殺気から逃れるため、話を変えると同時に目を逸らす。
奴の革命は失敗した。しかしそれでも、私は奴が恐ろしい。馬鹿げた考えだと思っていたものが、たとえ僅かであっても実現し、あと一歩で成功と言うところまで迫ったのだ。運が悪くなければ、奴の革命は成功していただろうし、そうでなくとも未だ警視総監の座に座り続けていたかもしれない。
その事実が、私はどうしようもなく恐ろしかった。
「……無事に親が見つかり、帰す事が出来た。今はこの国で科学者をしているらしい」
勿論知っている。何せ奴は……。
「少し、資料室を貸して貰えるかね?」
コーヒーカップを置き、正義が立ち上がった。中身は綺麗に飲み干されていた。
「構いませんが、何のために?」
「彼ら……神術師たちについて、私なりに調べておきたいのだ。正義を見極めるためにな」
そう言って奴は部屋を出て行った。見せたところで困るような資料ではないが、奴ならそれでも何か行動を起こしそうで不安だ。
正義を見極める……その言葉はつまり、この件において正義が警察にあるか、神術師にあるかを判断すると言う事だ。もしかしたら、いたい一撃を食らうかもしれないな……。
「失礼します」
奴が去った直後、茶髪の青年が入ってきた。
「例の一族は見つかったか?」
現実にそぐわない力を得たのは、何も神術師だけではない。
存在するのだ。神を打ち破る、ロンギヌスの槍が。
「はい。しかし少々問題がありまして……」
「ふむ……長くなりそうだな。座れ、今コーヒーを入れてやろう。砂糖の量は私が判断するが良いかな、南部君?」
はい……とだけあの時の少年は答えた。
さて、どうしたものか。勢いで神術師のアジトまで来てしまった。それもただ来たではなく、乗り込むと言う形で……だ。
神術師達は驚きを隠せないでいる。無理もない。超常現象を使って逃走したにもかかわらず、すぐに場所がバレてしまったのだから。無論理由はあるが、今はどうでもいい。
「……ここのリーダーは誰だ?」
やむを得まい。乗り込んでしまった以上、何でもありませんと帰る訳にもいかない。向こうとて、簡単には逃がしてくれぬだろうしな。
幸い、神術師達は大人しくしていてくれた。私は超能力者ではない。彼らの手に掛かれば瞬殺だろう。できれば危険な真似はしたくない。
少し待っていると、金髪の少女が堂々と前へ歩み出た。達也よりも二つか三つ下と言ったところか。しかしこの雰囲気、ただ者ではないな。
「私が神術師の長、フィル・レインハートです。日本の警察が私達に何の御用でしょうか?」
なるほどこれはしっかりしたお嬢さんだ。達也の嫁にでも……おっといかんいかん。やれやれ、年をとってくると考えも情け無くなるものだ。息子の鬱陶しそうな顔が目に浮かぶ。人を見る目は確かな奴だ。私が気にかけずとも、あいつはあいつで相手を見つけるだろう。
しかし彼女の様な子供がリーダーとは……他の者を見ても、比較的若い者ばかりだ。彼らが警察や軍の敵対者……この国の『悪』だというのか。
これはやはり……。
「すまなかったな。警戒しないでくれ。私は何も君達を捕らえるために来たのではない」
突然乗り込んで来ておいて……。自分は理不尽な事を言っていると自覚した。信じてもらえるわけがない。
事実、銃を下ろした瞬間から、とてつもない殺意が四方八方から感じられる。
「……では何のために?どうやってここを?」
話は聞いてくれるようだ。さすがに黙秘権は行使できそうにないがな。
…………さぁ、見極めの時だ。私はここから先、彼らの言動をみのがしてはならない。
国家と神術師……。正義がどちらにあるか、私なりに判断させてもらう……!