洗濯
女性は、帰り際にもう一度だけ男にキスをした。
「ねえ、今日、帰るの?」
男は腕時計を見た。
午前一時四十二分。
「帰らない理由が見つからない」
「帰る理由は?」
「たくさんある」
女性は笑った。
「ずるい人」
「よく言われる」
「誰に?」
「主に妻に」
女性は声を出して笑った。
それから、少しだけ黙った。
*
ふたりは十年来の知り合いだった。
互いに若くはなかった。
女性は男の家庭を知っていたし、男も女性の過去をいくらか知っていた。
若い頃の恋愛とは違う。
好きだと言えば済む年齢ではないし、嫌いになれば終わるほど、人生は単純でもなかった。
それでも、手をつないだ。
キスもした。
その先に何があるのか、知らないふりをするには、ふたりとも十分に大人だった。
*
ホテルの部屋は、妙に静かだった。
女性はベッドに腰掛け、男は窓際に立っていた。
「緊張してる?」
「してない」
「嘘」
「少し」
「かわいい」
五十歳の男が、かわいいと言われた。
悪い気はしなかった。
女性が手招きした。
男は隣に座った。
肩が触れた。
唇が触れた。
互いの体温を確かめるように抱き合った。
けれど、その夜、ふたりは最後まで結ばれなかった。
理由は、男にもよく分からなかった。
酒のせいかもしれない。
緊張かもしれない。
あるいは、ただの年齢か。
女性は笑って言った。
「今日は、ここまでやね」
男も笑った。
「面目ない」
「謝らんでいいよ」
その言葉に、男は少し救われた。
*
帰り道。
車の窓を少し開けると、秋の夜風が頬に触れた。
男は思った。
もったいないことをした。
実に、もったいない。
あんなに美しい女性が、自分を求めてくれたというのに。
男はひとりで笑った。
だが、不思議と後悔ばかりでもなかった。
もし、あの夜、すべてが思いどおりになっていたら。
明日の朝、何が変わっていただろう。
女性の期待。
自分の欲望。
次に会う理由。
会わなくなる理由。
そして、何も知らずに朝食を用意している妻。
一夜の出来事は、一夜では終わらない。
そんな当たり前のことを、男は五十歳になってようやく実感し始めていた。
*
家に着くと、玄関の明かりがついていた。
妻は寝ていた。
台所には、小さな鍋が置かれていた。
蓋を開けると、味噌汁だった。
隣には茶碗と箸。
付箋が一枚。
〈温めるとおいしいよ〉
男はしばらく、それを眺めていた。
妻は、男の立派なところばかりを知っているわけではなかった。
むしろ、どうしようもないところを、誰よりも知っていた。
見栄っ張りで、気まぐれで、調子がよくて。
時々、救いようがない。
それでも、二十五年近く一緒にいた。
男は味噌汁を温めた。
豆腐とわかめ。
いつもの味だった。
*
翌朝。
妻が新聞を読みながら尋ねた。
「昨日、楽しかった?」
「うん」
「よかったね」
それだけだった。
男はコーヒーを飲んだ。
「なあ」
「ん?」
「いつもありがとう」
妻は新聞から顔を上げた。
「何? 急に」
「いや、なんとなく」
「また何か買ったん?」
「買ってないわ」
妻は笑った。
男も笑った。
それから妻は、何事もなかったように新聞へ目を戻した。
男は、その横顔を眺めていた。
若い頃、妻のどこに惹かれたのか。
今となっては、うまく説明できない。
けれど、この女性と出会わなければ、ふたりの娘には会えなかった。
そして、今ここでコーヒーを飲んでいる自分も、きっと別の人間だった。
*
その日の昼。
男の携帯が鳴った。
昨夜の女性からだった。
〈昨日はありがとう。また飲もうね〉
男は少し考えて返信した。
〈こちらこそ。楽しかったよ〉
送信して、携帯を伏せた。
窓の外では、妻が洗濯物を干していた。
男は立ち上がり、庭へ出た。
「手伝おうか?」
妻は振り返った。
「珍しいね」
「たまにはね」
「じゃあ、そっち持って」
男は洗濯籠を持ち上げた。
秋の空は高かった。
妻が隣で、シーツを広げた。
ふたりで端を持つと、白い布が風を受けて大きく膨らんだ。
男は昨夜のことを思い出した。
惜しい夜だった。
本当に。
けれど、今こうして妻とシーツの両端を持っていることも、決して当たり前ではなかった。
「ねえ、ちゃんと持ってよ」
妻が言った。
「持ってるよ」
「離さんでよ」
「はいはい」
男は笑った。
そして、少しだけ強く握り直した。
シーツの端を。




