第四話
テレーザの傍にずっといることができたら、きっと毎日がもっと楽しいのだろう。婚約者となり将来は夫婦になることが決まってはいたが、そんなことは関係なく、彼女にはじめて会った日からそれがオネストの一番の望みとなった。
この気持ちに名前をつけたことはなかった。名前をつけたら、恋愛になるのだろうか? それとももっと別の名前になるのだろうか?
「テレーザは……」
想いを確かめあう方法が気になったのは、自分たちもそうしたいと思ったから? きょとんとした顔でオネストを見上げる彼女に、オネストはそれをたずねることはできなかった。
「いや――両親のことはよくわからないけれど、これからたくさんの人と関わるようになっていけば、きっと答えが見つかるんじゃないかな?」
「そうでしょうか?」
「僕も一緒に探すよ。時間はたくさんあるんだ。のんびりと探したらいい」
「時間……」
「これから先もずっと一緒にいるんだ。たくさんあるだろう?」
「そう――そうですね!」
テレーザはパッと明るい笑顔を見せた。
その後も、上機嫌なテレーザとそんな彼女をうれしそうに見つめるオネストの穏やかな時間はつづき、名残惜しくも帰らなければいけない時間となった。子どもが女子しかいない家に、まさか泊まるわけにもいかない。
屋敷の玄関ホールでオネストを見送るまで、気をつかってくれたのか伯父一家は顔を見せなかった。彼と向かい合うと、さみしさが石になってのどの奥につまってしまうのを感じた。前まではそんな風に感じなかったのに、久しぶりにオネストに会えたからだろうか? そんな彼女の様子に気づいたのかオネストは「またすぐ会えるよ」と小さな手をとって口づけを一つ落とした。
「もうすぐ君の誕生日もあるからね。きっと会いに来るよ。僕の両親も、君の伯父上や伯母上にあいさつをしたいと言っていたし――」
テレーザがうなずいたのとほとんど同時に奥の扉が開かれる音がして、二人は音の方へと視線を向けた。侍女たちを連れたビビアナ・ジャコッビは、豊かな濃い茶色の髪を美しく結い上げ、襟元からスカートの裾まで入ったアイリスの刺繍が印象的なドレスを着ていた。
「まあ、オネスト様。もうお帰りですか?」
にこやかに話しかけてきたビビアナに、オネストの眉がぴくりと動いたが、彼は何も言わなかった。明らかに無表情になった彼にテレーザが慌てて「従姉のビビアナさまですわ」と声をかけたが、その意図をビビアナはきちんと理解していない様子だった。
「先日の公爵夫人のガーデンパーティーでフェルローネ侯爵家の方々とはお会いいたしております」
「それは……知っております。でも」
しかしパメラは「両親はあいさつをした」「自分たちは離れたところで待っていた」と言っていた。顔を合わせていたとしてもきちんと知り合っていないのに格上の侯爵家の嫡男にそう気安く声をかけるなんて――不安に思うテレーザの肩に温かな感触がした。オネストを見上げると、彼の視線はテレーザだけに向けられていた。
「では、私はこれで」
「……はい」
戸惑いつつもうなずくテレーザの小さな手を惜しむようにぎゅっと握ってから、そっと放す。控えていた家令にテレーザの伯父伯爵によろしく伝えるように告げ、オネストは振り返ることなく帰って行った。
残されたテレーザは気まずさを感じながらも、侍女にうながされて部屋に戻ることにした。ビビアナの視線が突き刺さるように痛い。
「本当に図々しい子ね」
そのまま黙って通り過ぎようとしたのに、ビビアナのとげとげしい声にテレーザは思わず立ち止まってしまった。パメラと同じ緑色の瞳が、しかしパメラと違って冷たくテレーザを捕らえている。
「いつまでもフェルローネ家との婚約にしがみつくなんてどうかと思うわ」
「お嬢様」とビビアナの侍女が焦った声で咎めている間に、テレーザはその場を通り過ぎて行った。ビビアナが侍女に言い返している声が背中で聞こえる。心臓が嫌な風に音を立て、テレーザの侍女たちが「気になさってはいけませんよ」とやさしく声をかけてくれるのを聞きながらも、テレーザはただ下を向くことしかできなかった。
ビビアナに言われたことが胸に刺さったまま迎えた誕生日は、どこか憂鬱な気分だった。伯母はガーデンパーティーがしたかったようだがあいにくの曇り空で、屋敷の中に変更になった。伯父も伯母ももっと盛大に祝おうと言ってくれたが、さすがにテレーザが遠慮したので招待客はそれほど多くなく、親戚や数少ない友人たちとの穏やかな場となっていた。
「元気がないのね、テレーザ」
朝からお祝いを言われ、プレゼントを受け取り、それに笑顔で対応してきたテレーザのその憂鬱を誰も気づいてはいなかったが、昼餐が終わってすぐ後の、居心地のいい談話室で誰もがまったりと食後のお茶を楽しんでいる時、久しぶりに顔を合わせた母がそっと彼女のとなりに座って静かな声でそう言った。
「お母さま、どうしてそう思ったのですか?」
「どうしてかしら? でもあなたのことですもの。顔を見たらわかるわ。何かあったの?」
「……少しなやんでいるのです」
王妃の元で働く母とは手紙のやりとりをしていたが、ビビアナに言われたことを打ち明けてはいなかった。母は急かすことはなく、テレーザが次の言葉を口にするのを辛抱強く待ってくれた。テレーザにだけ向けられるやさしい眼差しを受けると、心が少し楽になる気がする。
「このままでいいのか考えてしまうことがあったのです。もちろん、領地のことはきちんとしたいと思っています。精霊さまへの祈りだって――でも、フェルローネ家との婚約は……」
「オネスト様と何かあったの?」
「いいえ、オネストさまはいつもわたしに優しくしてくださいます。お父さまのことがあったのに……」
「フェルローネ家の方々は、あなたとあなたのお父さまのことはきちんと分けて考えてくださっているわ」
それはいつも感じている。テレーザはうなずいた。
「でも、そうね――あなたの立場なら、気になってしまうわね」
ビビアナに言われたことを口に出したい衝動に駆られたが、テレーザはそれを飲み込んだ。母から伯父に伝わるかもしれない。いや、もしかしたらあの日あの場にいた使用人の誰かが、ビビアナのオネストに対する態度やテレーザに言ったことをすでに報告しているかもしれない。
オネストは両親と共に招待され、今は伯父や祖父と何か話し込んでいた。そこから少し離れたところにパメラや伯母と共にビビアナがいて、別の従姉妹たちと楽しげにおしゃべりしながら時折視線をオネストに向けている。
何となくそれを見ていたくなくて、テレーザはそっと視線を伏せた。母の少し冷たい手がテレーザの手に重ねられて、下げた視線を母に戻すと、「大丈夫よ」とやさしい声が向けられた。
「気になることがあるのなら、オネスト様に直接お話してみたら? きちんと聞いてくださるわ」
母娘が同時に視線をオネストへと向けると、それに気づいたのか彼は会話を切り上げて二人の方へやって来た。背筋を伸ばし、いつもは下ろしている前髪が今日は後ろへと撫でつけられている。額ときりっとした眉がよく見えて、いつもより大人っぽく感じた。
「お久しぶりです」
「オネスト様、今日はテレーザのために来てくださってありがとう」
「婚約者なのですから、当然ですよ」
長椅子に並んで座る母娘の顔がよく見える位置に運ばれた一人がけの肘掛け椅子に腰を下ろし、オネストは改めて「誕生日おめでとう、テレーザ」と微笑んだ。
「“おめでとう”は、もうこれで三回目ですわ」
「誕生日のお祝いなんだ。何度言ってもいいんだよ」
「そうでしょうか?」
「テレーザも僕の誕生日で家に来た時、何度もおめでとうと言っていたじゃないか」
「まあ! それはもっと小さな時の話です!」
「今も小さいよ」
「もう十三歳なのですよ? いじわるですね」
形ばかりの不満をもらせば、オネストはおかしそうに声を立てて笑った。テレーザ自身、自分はオネストから見たらきっとまだまだ子どもなのだろうと思う。この年頃の三歳差は大きく、幼い頃は気にならなかったこの差がどうしても気になってしまう。早く大人になれば、オネストにこうして子ども扱いされることは減るのだろうか?
同時に、オネストのこういう気軽な態度にくすぐったさも感じていた。親しい人の前以外で彼がそういう態度を見せることがないのを知っていたからだ。




