第三話
「それで今日はずっとソワソワしているのか」
テレーザに会いに来たオネストは、苦笑いしながらそう言った。庭に面した応接室は窓が大きく開けられ、そこにかけられた薄布が初夏のさわやかな風でふわふわと揺れている。出迎えてくれた時からテレーザは落ち着きがなく、久しぶりに会えることで喜んでくれていたのかと思っていたが……どうやらそれだけではなかったようだと、オネストは途中で気がついた。
オネストに落ち着かない理由をたずねられたテレーザは、素直に少し前の晩にパメラと話したことをそのまま伝えたのだった。
「そう邪魔なんてされないさ。護衛だっているし、侍女も止めるだろう?」
「それはそうなのですが……」
「テレーザもそういう小説を読むの?」
「パメラに借りて何冊か読みました。わたしにはあまりよくわからなかったのですが……」
「よくわからないって……恋愛のこと?」
テレーザはうなずいた。
「物語の中では色々な事件が起きて、二人で乗り越えて想いを確かめあうことが多いのですが、現実はそうではないので……」
「たしかにね」
「実際に起きたらどんな感じだろうと、気になったのです」
「テレーザらしいね」
声を立てて笑いながらオネストはとなりに座るテレーザの、彼女が首を傾げた時に耳からこぼれ落ちた薄茶色の髪をそっと元に戻した。
「だけど本当にトラブルが起きたらこんな風にテレーザと話す時間が少なくなってしまう。何も起きないなら、その方がいいよ」
やさしく微笑むオネストに、素直にうなずいてテレーザも微笑み返した。
「物語のようなことが起きなかったら、どうやって想いを確かめあうのでしょう?」
「うーん……どうだろう? 考えたこともなかったな」
「オネストさまのお父さまとお母さまはどうですか?」
「僕の両親?」
「わたしの両親は、その……仲がよくはなかったので……」
「……うちの両親も政略で結ばれた関係ではあるけれど……うーん……」
改めてたずねられると、オネストにもわからなかった。もうすぐ十三歳になるとはいえ、同年代とさえまだほとんど交流を持っていないテレーザより、自分の方が三つも年上ですでに同年代を中心に多くの人と交流している。知り合いの中には婚約している者ももちろんいたし、仲睦まじい間柄の者たちもいたが、彼らがオネストの前でお互いへの想いを口にすることは当然なかった。
自分たちはどうだろう? オネストとテレーザは幼い頃から婚約しているがお互いのことをどう思っているかという話をしたことがなかった。
テレーザは自分なりの考えをまとめようとしているのか口元に手を当ててしきりに首を傾げていた。少しよった眉でできた小さなしわも愛らしい。はじめて出会った頃からテレーザは人目を惹く美少女だった。この国では時折、見た目がいいだけではなく大勢を惹きつける性質を持つ者が生まれるが、そういった者は特別精霊に愛されていると考えられていた。
貴族の家にそういう子どもが生まれると、よほど本人に問題がない限りは跡継ぎに選ばれることが多い。精霊に愛された者が泉に祈りをささげるとより土地が豊かになるからだ。
オネストもまたそういう子どもだった――テレーザほどではなかったが。そのため、片手で数えられる年齢の頃から彼はフェルローネ家の跡取りとして扱われていた。多くの家庭教師がつけられ、祖父母や両親に連れられて祈りに同行することも多かった。フェルローネ家は祈りを厳粛なものとして扱っていたので、子どもにとってそれはひどく退屈な時間だった。しかしそれを口にすることはできず、ただうっすらとした不満が幼いオネストの中に降りつもり、いつの間にかそれは彼を真面目で聞き分けもいいが、全ての物事を退屈に思う子どもへと変えていった。
「カッサーノ家のテレーザ嬢だ」
父に連れられて訪れたのは小さいが自然豊かな伯爵領で、オネストはそこで伯爵の孫娘であるテレーザと対面した。テレーザはまだ五歳だったが、あまり物事に心動かされることがない八歳のオネストが驚くほどに愛らしかった。
五歳なら十分なマナーであいさつをすると、テレーザはすぐに祖父の後ろに隠れてしまった。はじめて会う少し年上の男の子に人見知りをしているらしい。それでもこちらに興味があるのか、ちらちらと様子をうかがう視線を感じた。
最低限のあいさつを済ませるとすぐに馬車で移動となったので、オネストはテレーザの視線からすぐに逃れることができた。あんな風に見つめられると落ち着かない……。
馬車は緑の間を走り抜けた。同乗している両親にどこに行くのかをたずねると、この領地の泉に向かっているのだという。こんなところまで来てまた退屈な時間につき合わないといけないのかと少しうんざりとした気持ちになりながら、彼は窓の外へと視線を戻した。
カッサーノ家の領地にある泉は緑あふれる森の中にあった。泉までの道とその周りは自然を損ねすぎないようにある程度整備されている。苔のはえたやわらかな地面に降りると、カッサーノ家の馬車から降りたテレーザが、先ほどの人見知りはなんだったのかと思うくらい無邪気に駆け寄ってきた。
「オネストさま! いっしょに行きましょう!」
まだ丸みのある小さな手がオネストの手を取った。遠慮なくぐいぐいと引っ張られ、困惑しながらついて行く。とはいえ、泉に来たからにはこれから祈りの時間のはずだ。目的地は目の前で大した距離ではない。それでもテレーザはまるでお気に入りの場所へ散歩にでも行くように楽しそうだ。
「えっ……」
泉は澄んでいて、揺れる水草の間を小さな魚の陰が通り抜けるのがよく見えた。傍に生えている低木の小さな白い花の花弁がぽつぽつと水面に模様を作っている。フェルローネ家の泉よりもずっと、自然の中に溶け込んでいた。オネストが知る泉は、もっと厳かで、息のつまる場所だ。でもここは違う。それに――
それに、泉の目の前にある平らな地面に使用人たちが板や敷物を敷き、飲み物などを用意している。普通なら――少なくとも、オネストの知る“普通”ならありえない光景だ。まるで……まるでピクニックにでも来たかのような……、
オネストの両親とテレーザの祖父が何か熱心に話し込んでいる。自分もそちらに行った方がいい気もしたが、テレーザの手が離れそうにない。
「テレーザ嬢、祈りをしに来たのではないのですか?」
「お祈りは今からやりますよ?」
青い瞳が不思議そうにオネストを見上げた。促されるままに用意された敷物を通り過ぎ、オネストは泉に近づいた。やっとテレーザの手が離れ、彼女はためらいもなくその場に膝をつくと、握りしめた両手を胸元にあてて瞳を閉じた。
テレーザが祈りはじめると、さわやかな風が木々を揺らし、周囲の空気がよりいっそう澄んでいくのがわかった。祖父や父の祈りを見学した時にも似たようなことが起きるが、それとは全く違うようにも思える。今にも低木の陰から精霊が姿を見せそうな――そんな気さえする。
空気が変わったことに気づいたテレーザの祖父が慌てて駆け寄ってきたことでテレーザの祈りの時間は終わった。祖父が心配したように、彼女のドレスは汚れてしまっている。孫娘を叱る伯爵の言葉から、テレーザが祈りの時間にドレスを汚すことはよくあることのようだった。水辺の一部が石に覆われていて本当ならそこに敷物を用意して祈りの場にするのに、彼女は泥の地面に膝をつけてしまうらしい。
テレーザが馬車で着替えた後は、使用人たちが用意した敷物の上でお茶がはじまった。テレーザを祈りの時間に連れてくるようになってからはじまった風習らしい。孫娘が退屈しないように考えた……からではなく、テレーザがこっそりお菓子やおもちゃを泉に持ってきては精霊にあげようとすることから今の形になっていったそうだ。
テレーザはお茶をしながら気に入ったお菓子をせっせと横に避けていた。その上、オネストにも熱心においしさを共有しようとしてくるのだから見ていてとてもせわしない。
「テレーザ嬢、そのお菓子をどうするのですか?」
「これは精霊さまの分です」
「精霊さまの……分?」
「はい! いつもおいしかったら精霊さまにもさしあげているのです。いっしょに食べたら、もっとおいしいと思いませんか?」
オネストは言葉につまった。そんなこと考えたこともない。精霊の存在は感じているし、実在することを信じてはいる。しかし彼らは目に見えないもので、人間を助けてくれるけれど関わりは持たない存在なのだと思っていた。
精霊が菓子を食べる? テレーザは泉のほとりに護衛が摘んでくれた大きな葉を置いて、その上に菓子を並べている。あんなことをしても動物の餌になるか……もしかしたら後から使用人が片づけているのかもしれない。オネストがテレーザの祖父伯爵の方へ視線を向けると、彼は困ったように眉を下げ、しかし微笑ましく孫娘を見守っていた。
「驚いたでしょう? あの子の跡継ぎとしての儀式を終え、祈りに同行させるようになってすぐは私どもも代々伝わるやり方で祈りを捧げていたのです。しかし、あの子には退屈だった――年を考えれば、仕方ないことなのですが」
まだ幼い孫娘に対する感情と、跡継ぎをきちんと育てなければならないという理性の狭間で伯爵の心は揺れているようだった。
「色々と悩みましたが、あの子は自分で自分なりのやり方を見つけてしまった。その上、あの子のやり方に精霊様も満足なさっているようだ」
「精霊さまは人間の食べ物を召し上がるのでしょうか?」
「それは私にもわかりません。あの子はそう信じていますが……いや、信じているというよりも、当然のこととして考えているというべきでしょうか――我々と違って、精霊様をもっと身近に感じている」
テレーザはまた祈りをささげている。今度は地面に膝をつかないように近くで侍女たちがきちんと見張っていた。オネストは立ち上がり、そっとその傍に酔った。パッと顔を上げたテレーザの美しい青い瞳は泉のように澄んでいて、オネストの困惑した表情を映し出している。
「……靴が濡れてしまうよ」
やっとのことで、オネストはそう言った。「はい」と素直にうなずいたテレーザに手を差し出すと、彼女はうれしそうに小さな手を重ねたのだった。
帰りの馬車は、テレーザとオネストで同乗することになった。テレーザがすっかりオネストに懐き、一緒に帰りたいとねだったのが大きかった。
オネストが何を好きなのか普段何をしているのかを知りたがり、好きなものはうまく答えられなかったが、普段は家庭教師が大勢つけられ勉強していると答えるとその話に喰いついて来た。彼女も幼いながらすでにしっかりとした家庭教師がつけられ、跡取りのとしての教育がはじまっているためだろう。
逆にテレーザにどんなことを教わっているかたずねると、最近はお茶会ごっこをしたという。思わず同乗していたテレーザの侍女に助けを求める視線を送ると、遠慮がちに幼い主がマナーの授業を家庭教師や侍女を巻き込んでごっこ遊びの場にしてしまうと説明した。お茶会の会話として、家庭教師はテレーザにマナーを教えないといけないらしい。
他の授業も同じように――たとえば教養として文学を学ぶのであれば、テレーザも家庭教師に自分の好きな絵物語についてあれこれ教えるとか――そういうことばかりしているのだという。
侍女の語り口は困った風だったが、オネストがそれを気に留めることはなかった。
澄んだ泉を思い出させるテレーザの青い瞳が瞬いて、オネストの心に反射しているような気がした。彼女はきっと自分とは何もかも違う――今まで感じたことのない熱が、胸の奥に生まれていく。彼女と共にいることが、自分の世界を変えていく。そんな思いが湧きおこってくるのを、オネストは確かに感じていた。




