夫の出兵
カシアンは出兵していった。
毎日のように手紙が届くようになった。
封を切る前から分かる。
字が震えていて、インクがところどころ滲んでいる。
内容は愚痴が9割、残りは私に会いたいというものだった。
「朝が早い」
「飯がまずい」
「歩くのが疲れる」
「上官が怖い」
「テントが狭い」
「隣のやつがいびきをかく」
「靴擦れが痛い」
「馬が臭い」
……まるで修学旅行の感想文だ。
そして残りの1割。
「マルセラがいないと眠れない」
「マルセラの匂いが恋しい」
「マルセラの声が聞きたい」
「マルセラの手紙がないと死ぬ」
その“会いたい”の文字だけは、インクが濃く筆圧が強くて、本気で書いているのが分かる。
愚痴の行は薄く弱々しく、途中でかすれているのに。
“会いたい”だけは、紙が少しへこむほど力がこもっていた。
この人は本当に──
私がいないと生きていけないのだろう。
そして案の定、他の貴族たちにいじめられていると手紙に綴ってあった。
“気持ちを強く持って”と言い含めたはずなのに。
おそらく食堂か、どこかでベソベソ泣いたのだろう。
戦場の男たちの中で──
泣き虫で弱音を吐いて、妻に依存している男が、どう扱われるか。
想像するまでもない。
舐められる。
からかわれる。
雑用を押しつけられる。
兵士たちのストレスのはけ口にされる。
そして何より──
「こいつは守らなくていい」
と判断される。
戦場では、それが“死”に直結する。
私は手紙を握りしめながら、胸の奥が冷たく沈んでいくのを感じていた。
彼の字は震えていて、紙の端には涙の跡が滲んでいる。
……普通にしていれば死なないはずなのに。
私は返事の手紙をしたためた。
震える字で愚痴ばかり書いてくる夫に、確実に生き残るための指示を送る。
『物資を送るから自軍の兵──特に身分の下の者に配りなさい。
いざというとき命を守ってくれるのは彼らなのだから、最大限の誠意を見せるべき』
それだけは、どんな戦場でも変わらない真理だ。
数日後、返ってきた手紙にはこう書かれていた。
『物資を配ったら兵が優しくなった』
その一文を見た瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
この調子でいけば他の軍から羨ましがられて、優秀な人間が集まってくるはずだ。
そうなれば、生きて帰れる可能性も高くなる。
私は手紙を畳み、机の上に置いた。
横に、執事のヘルマンが静かに控えている。
黒髪はいつも通り整えられ、端正な横顔は落ち着き払っていた。
「このまま支援を続けてちょうだい」
私がそう言うと、彼はわずかに眉を寄せた。
「お言葉ですが、これから領地収入は大幅に減ります。
旦那様より民を守らないと」
ヘルマンは、この家に使用人が3人しかいない時代を乗り越えた強者だ。
彼の言うことは事実だった。
ドレイモンド子爵領は敵国境にある。
男たちは徴兵され、砦や戦地に行ってしまった。
働き手がいなくなり、畑は細る。
子爵家の生活は“普通の貴族”程度に戻ったが、蓄財はない。
私はしばらく黙り込み、机の上に積まれた帳簿と、夫から届いた震える字の手紙を見比べた。
深く息を吸い、決断した。
「わかった。旦那様への支援は、私の個人資産から出すわ。
領地収入は領地に還元して、税を引き下げましょう」
戦時中に1番必要なのは食料。
そして、それを保存する方法。
私は椅子から立ち上がり、窓の外の薄曇りの空を見上げた。
「冬が来る前に、氷嚢の数を増やしましょう。
それと、女性達を──来年植える種を確保させたら、猟にやりましょう」
ヘルマンが目を瞬いた。
「女性たちに猟を?」
「弓を扱えなくても罠はかけられるわ。
漁業だって数人で力を合わせればできる。
食料さえあれば生きられるの」
私の声は静かだったが、迷いはなかった。
残されたのは老人と女と子ども。
それでも、生きなければならない。
ヘルマンは深く一礼した。
黒髪が揺れ、端正な横顔が決意を帯びる。
「わかりました。すぐに」
領地が非常事態に備え、蓄えを増やしつつある日の夕方。
手紙が届いた。
封を切る前から、嫌な予感がした。
『冬が来る前に、前線に出されるみたいだ。
怖いよ。どうしよう。逃げたい』
震える字。
紙の端には涙の跡。
読んだ瞬間、胃の奥がきゅっと縮む。
私は深く息を吸い、返事を書いた。
『兵士達に"誰が頼りになるか"聞いて。勿論、あなた以外で。
名前が多く挙がった者の中から、素行や経歴に問題ない3人を副官に指名して、直接の命令は彼らに任せるのよ。
くれぐれも、兵士たちが“慕っているフリ”をしているだけで、内心は何とも思っていない人は選ばないように。
そして選んだ人が手柄を立てても、妬んだり横取りしたりしないで労うこと』
これができれば、生存率は跳ね上がる。
問題は──彼ができるかどうか。
数日後、返事が来た。
『君の言う通りにしたら副官たちが僕の仕事をしてくれて、ずいぶん楽になったよ。
──ありがとう。
ただ彼らを労うために、もう少し物資を都合してほしい。
それと、戦地にいて不安な僕のために、"愛してる"と100回書いて送ってくれないか」
……は?
私は手紙を持ったまま固まった。
マジで言ってんの、こいつ?
こっちは領地の食料確保と、冬越えの準備と、徴兵で消えた労働力の穴埋めで毎日走り回っているのに。
紙を見つめながら、私は静かにため息をついた。
領地の治安は、徐々に悪化しつつある。
男たちがいない今、大規模な犯罪組織に入り込まれると困る。
私は女性と子ども達に戦闘訓練を開始させた。
子爵家に残っている私兵が各所に出向き、罠の仕掛け方、護身の構え、集団での対処法を教える。
もっと早くやるべきだったと、胸の奥が痛む。
来年の税収は、今までと比べものにならないほど低いだろう。
それでも民が生きていけるなら、何とかするしかない。
「悪いけど、老人ホームに行って姑に“愛してる”と100回書かせてきてくれない?」
書類を束ねていたヘルマンが、ぴたりと手を止めた。
黒髪が揺れ、端正な顔がゆっくりこちらを向く。
「この忙しい時に、何を言ってるんですか? 甘やかしすぎです」
カシアンと1歳しか違わない彼からしたら、腹も立つだろう。
わかるけど……。
「そうだけど……前線で夫が暴走したら、部下たちが可哀想だわ」
泣き叫ぶ。
命令を無視する。
嫉妬で副官を怒鳴る。
突然、帰りたいと騒ぐ。
──全部、容易に想像できる。
戦場にそんな指揮官がいたら、部下は地獄を見る。
ヘルマンはしばらく黙っていたが、やがて静かに息を吐いた。
「……それは確かに危険ですね。
分かりました。遣いをやっておきます」
黒い瞳は冷静で、しかしどこか諦めにも似た優しさがあった。
私は胸の奥に小さな痛みを抱えながら、次の書類に手を伸ばした。
また手紙が届いた。
封を切ると、見慣れた震える字が並んでいる。
『なぜ君でなく母からか分からないが、まあ気分は悪くないよ。
君からも送ってくれることを願う』
……姑に“愛してる100回”を書かせた件だ。
本人は不思議がっているが、気分は悪くないらしい。
単純で助かる。
続く文面は、戦況の話へと飛んでいた。
『戦況は今のところ五分だ。
いや、こちらが勝っていたのだが、向こうが飛距離のある最新の大砲を撃ってくるせいで不利だ。
君の商会で大砲を作れないか?』
私は思わず手紙を机に置いた。
食品と玩具の商会で、どうやって大砲を作れというのか。
我が夫ながら、これの部下は本当に大変だと思った。
私は返事の紙を引き寄せ、静かにペンを走らせた。
『敵は“大砲がある”と思って油断しているから、こっそり近づいて夜襲をかければいいのよ。
遠距離に強い相手は近接戦に弱いわ』
これは軍略の基本だ。
大砲があるからといって、常に勝てるわけではない。
むしろ、武器に頼り切っている軍は、足元をすくわれやすい。
私は封を閉じながら、ふと遠い空を見上げた。
夫が、本当に生き残れるのか。
不安は尽きない。
数日後、また手紙が届いた。
封を切ると、相変わらず震えた字が並んでいる。
『君の言うことを、そのまま部下に伝えたら上手く行ったよ。
やつら防具を人数分、用意してなかったんだ。笑ってしまうよ。
それで、部下を労いたいから現金を送ってくれ』
私は深くため息をついた。
ヘルマンが横からそっと覗き込み、端正な眉をわずかに寄せる。
「これ以上は送れませんよ」
「そうなのよね……」
モンド商会を買ったものの辺境では大きな儲けにならず、さらに建設会社を買ったことで現金がなくなったのが1年前。
ドレイモンド家に貸し付けている分も合わせれば、私の個人資産は“額面上”かなりある。
だが、現金は少ないのだ。
それでも夫のために貯金をはたいてきた。
それなのに、まだ出せと言う。
私は机に肘をつき、額を押さえた。
どうすればいいのか考えていると、ヘルマンが静かに口を開いた。
「国から支給される給料が入っている頃です。
今後は、それで賄うよう言うべきです」
その言葉は正しい。
私は決意し、返事を書いた。
領地と自分の経済状況を、素直に説明し「今後は自分の給料でやりくりするように」と。
ペンを置いた瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
……本当は、もっと助けてあげたい。
でも、私は領地と家を守らなければならない。
私は封を閉じ、そっと息を吐いた。
夫を守るために、私は夫から距離を取らなければならない。
その矛盾が、胸の奥に静かに沈んでいく。




