侍女になった夫
それからのカシアンは、まるで生まれ変わったようだった。
実家からメイドが来ても、私の世話は一切譲らず、挙げ句には食事まで手ずから食べさせてくるほどベッタリ。
どこへ行くにも従者のように付き従った。
──5月。
社交シーズンが始まる。
彼と初めて出会ってから1年経った。
馬車の中でカシアンは私を見つめて、いつものように褒めちぎった。
青い瞳を輝かせ、嬉しそうに笑っている。
「マルセラ、可愛い。きれい。賢い。大好き」
領地経営は持ち直した。
もっとも、実質は私の貸付で回っているので、帳簿の上では赤字だが。
私はふと尋ねた。
「旦那様は私のどこが1番好き?」
彼は迷いなく答えた。
「純潔をくれたところ」
ゾゾゾッと鳥肌が立った。
貴族令嬢なら夫に操を立てるのは当たり前だ。
──誰と比べているのだろう?
カシアンは見た目がいいから、女性が寄ってくる。
けれど中身を知ると皆、逃げていく。
結局、ワンナイトの女性と娼婦しか知らないのだ。
だから、処女だった私に執着している。
私は静かに言った。
「旦那様。それを外で言っては駄目よ」
「わかってるよ」
青い瞳が嬉しそうに細められる。
──わかっていない気がする。
馬車は、ゆっくりと社交の会場へ向かっていた。
舞踏会の光が揺れていた。
大理石の床にシャンデリアの灯りが反射し、貴族たちの衣装がきらめく。
金髪をきちんと整えたカシアンと、並んで王に挨拶した。
王は白い髭を撫でながら、穏やかに微笑んだ。
「婚約期間が短かったから、どうかと心配していたが……仲良くやっているようで良かった」
カシアンは胸を張り、嬉しそうに答えた。
「ありがとうございます。
妻をとても愛しており幸せです」
私は優雅に一礼した。
「ご心配痛み入ります」
「そうか、そうか」
王は満足げに頷いた。
玉座を辞すと、カシアンが私の手を取った。
「庭を見に行こうよ」
「え、挨拶回りしないと」
「そんなこと、どうでもいいじゃないか」
ぐいぐい引っ張られる。
私は呆れながらも、引かれるままに歩いた。
王宮の庭は、夜でも花々が照らされて美しかった。
噴水の水音が静かに響き、月光が白い石畳を照らす。
カシアンは子供のように目を輝かせた。
「わあ、うちの家の庭より立派だね」
──なんで子爵家の庭と王宮の庭を比べるんだろう?
「そうね」
「イズモコバイモとホタルブクロがないね」
私は思わず振り返った。
「覚えててくれたの?」
「うん。君の好きなものは全部、覚えてるよ。
朝トーストにはイチゴジャムよりブルーベリージャムがいいとか、ピンクより落ち着いた色のドレスがいいとか」
胸が熱くなった。
この人は、本当に“好きなもの”だけはよく覚えている。
「ありがとう。嬉しいわ」
「本当!? やった」
そう言って、彼は私にキスしてきた。
「お化粧が崩れてしまう」
「僕が直してあげるから平気さ」
半年以上も侍女として働いてきたせいで、彼は化粧もうまくなった。
青い瞳が得意げに笑っている。
私はため息をつきながらも、彼の手を振り払わなかった。
しかし──
キスは深くなり、夫の息が荒くなっていく。
胸元を押しつけられ、背中が木に当たった。
──これはマズい。
「ちょ、カシアン、ここではマズいわ」
「はあ……はあ……休憩室があるだろう。そこにいこう」
青い瞳が潤んでいて、完全に“その気”だ。
「何言ってるの。家に帰るまで待って」
「僕達まだ新婚なんだから、いいだろう? ね?」
ね? じゃない。
「ほら、ダンスが始まる。ファーストダンスを踊らないと」
カシアンは名残惜しそうに、ため息をついた。
「仕方ないなあ……」
ファーストダンス。
シャンデリアの光が揺れ、楽団の音が響く。
カシアンは私の腰に手を添え、嬉しそうに微笑んだ。
「マルセラ、世界1綺麗だ」
それは流石にない。
けれど社交辞令としては正しい。
「ありがとう。カシアンも素敵」
すると彼は、青い瞳を輝かせて言った。
「僕が選んだドレスに、僕が作った髪型に、僕がした化粧。
完璧だ。君は僕の最高傑作だ」
──そっち?!
褒め方がズレている。
でも、言っていることは本気だ。
私は呆れつつも、心が少しだけ温かくなった。
髪も、ドレスも、化粧も、全部“私のために”覚えたものだ。
不器用で、ズレていて、扱いづらい。
でも──
こんなふうに真っ直ぐに向けられる好意は、悪くない。
ファーストダンスの終盤、カシアンが私の耳元で小さく囁いた。
「帰ったら抱きしめてもいい?」
その声音は、まるで子犬のように甘えていた。
「勿論よ。あなたは夫だもの」
「そうか」
カシアンは嬉しそうに笑った。
最初は酷かったけれど、今は──仲良くやっている。
彼なりに努力しているのがわかるから。
私が離れると、すぐに若い娘が近づいてきた。
白いドレス、デビューしたばかりの少女だ。
「よ、よろしければ……1曲……」
カシアンは、あっさりと手を取った。
「うん、いいよ」
婚約者のいないデビュー組は結婚相手を探しているので、普通は既婚者と踊らない。
好色な夫人たちは、カシアンの“中身が残念”なのを知っているから近づかない。
でも、若い子は顔だけで判断する。
私はため息をつき、ビジネスに必要な相手と踊った。
商談の約束を取り付ける。
領地の新しい交易路。
春の収穫の買い付け。
夏祭りの協賛。
職人ギルドとの契約更新。
どれも領地の未来に関わる重要な話だ。
カシアンが若い娘と踊っている間、私は淡々と仕事を進めた。
帰りの馬車。
カシアンは窓の外を見ながら、ずっと上機嫌だった。
デビューの子たちに次々とダンスを乞われたのが、よほど嬉しかったのだろう。
──忘れたのだろうか。
今までの人生でも、顔に吸い寄せられた女の人は寄ってきたはずなのに、誰も残らなかったということを。
私は呆れながらも黙っていると突然、横からぎゅっと抱き締められた。
金髪が肩に触れ、温かい息が首元にかかる。
「そんなに嫉妬しなくたって、僕はマルセラ一筋だよ。大丈夫だよ」
──心配してない。
「そう。信じてるわね」
「ああ、勿論」
青い瞳がまっすぐ向けられ、嬉しそうに細められる。
その笑顔は、まるで褒められた子供のようだった。
私はため息をつきながらも、彼の腕を振り払わなかった。
馬車は、ゆっくりと夜の街道を進んでいった。
タウンハウスの自室で、ぼんやりしていた。
昨夜の舞踏会で興奮したカシアンに抱き潰され、昼過ぎまで眠ってしまった。体が重い。
薄いカーテン越しに差し込む橙色の光が、静かな部屋をゆっくりと染めていく。
扉が開き、彼が戻ってきた。
外気に触れたのか金髪が少し乱れ、青い瞳はどこか誇らしげに輝いている。
手には淡い紫のホタルブクロが束ねられていた。
花弁の縁が夕陽を受けて透け、彼の美貌をさらに引き立てている。
「郊外まで取りに行ってきた」
その一言に胸が温かくなる。
「……ありがとう」
これは、さすがに感動した。
「えっと、じゃあデートしてくれない? せっかく王都にいるのだし」
「わかったわ」
「よかった。ドレスを持ってくるから待ってて」
彼は本当に嬉しそうに走っていった。
戻ってきた彼は、私の着替えを整え、髪を梳き、化粧を施してくれた。
鏡の中の私は普段より華やかで、彼の青い瞳に似合うように仕上げられている。
エスコートされて向かった劇場は、夕暮れの光を受けて石造りの外壁が金色に染まり、入口の赤い絨毯が深い影を落としていた。
内部はシャンデリアの光が温かく、観客のざわめきが胸をくすぐる。
劇が終わる頃、隣で彼はおいおい泣いていた。
長い睫毛が濡れ、頬を伝う涙が舞台の光を反射している。
「どうして君は平気なの?」
「だって、お芝居だもの」
「そうか……恥ずかしいところを見せて、すまない」
「いいえ、その……馴れてるから」
「僕が情けないことに?」
それは、まあ、そうだろう。
しかし──
「いいえ。そうではなく……そういうところも少し可愛いと思えるのよ」
その瞬間、彼はパッと泣き止み、子どものように嬉しそうな顔をした。
最初は本当に腹が立った相手なのに、もう絆されてしまった。
彼は私に捨てられれば次がないと焦ってしがみついているが、それは私だって同じだ。
再婚するなら子持ちの後妻か、彼以上に問題のある相手になるだろう。
同世代の初婚で、家格が釣り合い、容姿が普通以上で、私の言うことを聞く相手──そう考えると、カシアンしかいない。
「あなたは無垢ね」
撫でると彼は、すり寄ってくる。
その仕草が、可愛いと思った。
夏の終わりの大舞踏会は、会場のシャンデリアが揺らめくたびに金色の光が床に散った。
磨かれた大理石の上で、色とりどりのドレスが波のように揺れ、香水と葡萄酒の香りが混ざり合う。
カシアンは相変わらず令嬢たちに囲まれて上機嫌だった。
白い礼服は彼の美貌を際立たせ、まるで舞台のように華やかだった。
その一方で私は、例のカジノクラブのオーナーの親戚である侯爵に絡まれて散々だった。
酒臭い息をかけられ、腕を掴まれ、笑顔でかわし続けるのに必死だったというのに、夫は気付きもしなかった。
ダンスタイムが終わり、閉会の言葉を待つために貴族たちが中央に集まった。
ざわめきが徐々に静まり、空気が重く沈んでいく。
何事かと胸がざわついた瞬間、王が立ち上がった。
王の声は、会場全体を震わせるほど重かった。
「……我が国は開戦する」
息を呑む音があちこちで上がり、婦人たちの肩が震えた。
舞踏会は、一瞬で“戦の始まりの儀式”に変わった。
宰相が巻物を開き、淡々と出兵する貴族の名を読み上げていく。
公爵家、侯爵家、伯爵家──
次々と名が告げられ、背筋が冷えていく。
そして。
「……子爵、カシアン=ドレイモンド」
心臓が跳ねた。
隣の彼は、青い瞳を大きく見開き、顔から血の気が引いていく。
「い、嫌だ、行きたくない……マルセラ、助けて!」
「ダメ! しっ! 黙って」
王の前で“戦争に行きたくない”などと言えば反逆罪に問われる。
そんなことも分からないのか、この男は。
「行きたく──むごごっ」
私は必死に、彼の口を押さえた。
一緒に処刑されてはたまらない。
夫がいなくなっても、領地を守らなければならないのだ。
彼の情けない叫びは会場に響いたが、王も貴族たちも“聞かなかったこと”にしてくれた。
だが、それで済むのは今だけだ。
戦場は──
“弱い者”に容赦などない。
命令を軽んじられる。
危険な前線に押し出される。
援護が遅れる。
「どうせ死ぬだろう」と扱われる。
最悪、事故に見せかけて見捨てられる。
王の前で泣き叫んだ男など、格好の標的だろう。
実家のタウンハウスに戻るまで私は、ずっとカシアンの腕を掴んでいた。
彼は足元もおぼつかず、まるで処刑場へ連れて行かれる罪人のようだった。
部屋に押し込むようにして扉を閉めると、彼は床にへたり込んだ。
「マルセラ……怖い……どうしよう……」
私は深く息を吸い、冷静に言葉を選んだ。
「まず、会場でのあなたの発言がどれほど危険だったか分かっている?
王の前で“行きたくない”なんて叫べば、反逆罪に問われてもおかしくないのよ」
彼は涙で濡れた睫毛を震わせながら、子どものように頷いた。
「う、うん……でも……。
そうだ! 今からでも診断書を偽装しよう。
僕が病気ってことにすれば……」
私は思わず額に手を当てた。
「若い子相手にヘラヘラ踊った挙げ句、会場で“行きたくない”って叫んだあなたが偽装診断書を出しても、すぐ逮捕されるのがオチよ」
「うう……」
彼は情けない声を漏らし、膝を抱えて震えた。
その姿は美しい顔立ちと釣り合わず、余計に痛々しい。
私はしゃがみ込み、彼の視線の高さに合わせた。
「あのね、旦那様。
あなたは体が弱いんじゃなくて、心が弱いだけなの。
だから気持ちを強く持てば平気よ」
青い瞳が涙で揺れながら、こちらを見上げる。
「そもそも特攻は平民がするのだから、死亡率は高くないわ」
これは事実だ。
貴族は基本的に後方で指揮を執る。
最前線に突っ込むのは農民兵や傭兵。
つまり──
カシアンが“普通にしていれば”死ぬ確率は低い。
問題は。
“普通にできない”ことだ。
カシアンは涙を拭いながら、震える声で言った。
「そう……確かに。そうだ」
青い瞳にようやく理性が戻りつつある。
私は彼の肩に手を置き、ゆっくりと言い聞かせた。
「ええ。あなたは指揮官席に座っていればいいのよ」
その言葉が、彼の心に直接届いたらしい。
表情が、ぱっと明るくなる。
「そうか……ありがとう。落ち着いた。
やっぱりマルセラは凄い。
僕はマルセラがいないと生きていけないよ。
戦地にも一緒に行ってくれ」
私は思わず目を瞬いた。
「……妻を戦場に連れていく人はいないわ」
マジで何いってるの?
「だけど、マルセラが指示してくれないと困るよ」
この男は本気で言っている。
無邪気さは、時に致命的だ。
「わかった。現地についたら戦況を書いて送ってちょうだい。
できる限りの支援をするから」
後方から情報を整理し、兵站の不足を補い、必要な物資を送り、指揮官に助言を届ける。
そして──カシアンの立場を守る。
それが、私にできる最大の支援だ。
「本当? よかった。
マルセラがやってくれるなら一安心だ。
お土産を何がいいかな~」
夫は、もうヘラヘラと笑っている。
私は美しい横顔を見つめながら、胸の奥に冷たいものが沈んでいくのを感じた。
この人、生きて帰って来られるかな……?




