お湯パンの裏で
衝撃的な夕食の後。
私兵が湯浴みの準備をしてくれた。
メイドが2人しかいないため、湯を運ぶことができないのだという。
兵士たちが大きな桶を抱えて廊下を行き来する光景は、貴族の屋敷とは思えなかった。
湯気の立つ浴室で体を温めながら、私はふと考えてしまった。
──初夜をしなければ、白い結婚として婚姻無効にできたのに。
今さら後悔しても遅い。
けれど、この屋敷の現状を見てしまい、気持ちが沈んでいく。
夜、カシアンが部屋を訪れた。
金髪は少し乱れ、青い瞳は期待に揺れていた。
「……その、入ってもいいかな」
私は微笑みを作り、静かに首を振った。
「今日は疲れました。申し訳ありませんが……」
彼は一瞬だけ残念そうにしたが、すぐに笑顔を作った。
「そ、そうか。じゃあ、また今度にしよう」
そのまま引き取ってもらった。
この部屋で、そんな気分になれるはずがない。
朝食も、やはり夕食と同じ“お湯”だった。
姑と夫は、平然とパンを浸して食べている。
私はスプーンを持つ手が震えそうになるのを必死で抑えた。
食後、私は決意して口を開いた。
「領地視察に行きたいので、案内できる人をつけてください」
すると、なぜかカシアンは嬉しそうに笑った。
「もちろん。ヘルマンをつけるよ」
執事のヘルマン──
黒髪で端正な顔立ち、控えめな微笑みが似合う“完璧な執事”。
年齢はカシアンの1歳上。
彼は深く一礼し、私の前に立った。
「ご案内いたします、奥様」
馬車に乗り込むと、屋敷の静けさが遠ざかっていく。
私は迷わず切り込んだ。
「単刀直入に聞くわ。
財政は、どうなってるの?」
ヘルマンは一瞬だけ目を伏せ、それから淡々と答えた。
「ドレイモンド子爵家には、僅かに借金がありますが、領地は貧しいわけではありません」
「その借金っていうのは……まさか旦那様が作ったの?」
「そうです。ギャンブルです」
やはり。
契約書に“ギャンブルをしない”と書かせたのは正解だった。
「旦那様の行く賭博場に、不正はないの?」
「あります。
しかし、そこがなくなると後は小さい飲み屋くらいしか賭け事できる場所がないので……」
つまり、カジノクラブが潰れると遊ぶ場所がなくなるからと、カシアンが不正を見逃したのだ。
──呆れた。
「なるほど。
では早速、そのクラブに行きましょう」
ヘルマンは驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「承知しました」
馬車はゆっくりと方向を変え、賭博クラブへ向かっていく。
カジノクラブは城下町の中心にあった。
外観はそれなりに立派だが、近づくほどに安っぽい金箔や剥げた塗装が目につく。
中に入ると、ざわめきと酒の匂いが混ざり合い、客たちの視線が一瞬こちらに集まった。
私はざっと場内を見渡した。
カード台、ルーレット、サイコロ──
「内容は一般的ね」
隣で控えるヘルマンが、静かに頷いた。
黒髪に淡い光が落ち、端正な横顔がさらに鋭さを帯びる。
「はい。特に“ファロ”の台は、ディーラーがカードを仕込んでおります」
淡々とした声だが、目は鋭く場を観察している。
さすが執務官兼執事、情報の精度が違う。
「今日は不正を見つけに来たんじゃないのよ」
私がそう言うと、ヘルマンはわずかに目を瞬かせた。
「え?」
その時、奥から太った男が歩いてきた。
脂ぎった顔に、妙に派手なスーツ。
この店のオーナーだろう。
「これは見慣れないお客様ですね。
ドレスサロンとお間違いでは?」
……は?
私は、ゆっくりと彼に視線を向けた。
「領主夫人に随分、生意気な口をきくのね。
あなた、貴族ではないわね?
私は貴族名鑑に載ってる顔、全て頭に入ってるから」
オーナーの顔色が、一瞬で変わった。
「っ、確かに貴族ではありませんが、親戚に侯爵がいます」
「質問。公爵令息と男爵夫人なら、どちらが身分が上でしょうか?」
オーナーは口を開けたまま固まり、しばらくしてから答えた。
「…………男爵夫人です」
「分かってるなら、余計なこと言うのはやめてちょうだい」
「申し訳ありませんでした」
彼は汗をだらだら流しながら頭を下げた。
周囲の客もざわついている。
私は一歩近づき、静かに告げた。
「いいわ。許す代わりに──今後、うちの夫がここでゲームをしたら、すぐに報せなさい。
しなければ、不正を暴いて首をはねるわ」
オーナーは青ざめ、震えながら頷いた。
「わ、わかりました。必ず……!」
その声は裏返り、場内のざわめきが一瞬止まった。
クラブを後にし、馬車が石畳を静かに進む。
窓から差し込む光がヘルマンの黒髪に落ち、端正な横顔を際立たせていた。
彼は控えめな微笑みを浮かべながらも、どこか驚いたように私を見ている。
「奥様が、まさかあんなに強気だとは思いませんでした」
私は肩をすくめた。
「私は14の時に祖母様の遺産で、潰れかけの商会を買って育てたのよ。
商売は舐められたら終わり」
ヘルマンの目が僅かに見開かれた。
その表情は、尊敬と驚愕が入り混じっている。
「……恐れ入ります」
「まあ、とりあえず。
チェスとトランプを私の持参金から買って、部屋に入れておいて」
「は? ……はい、すぐ手配します」
彼は一瞬だけ固まったが、すぐに姿勢を正して頷いた。
その反応が少し可笑しくて、私は小さく笑った。
夜、夫が部屋に来た。
金髪は濡れ、青い瞳は期待に揺れている。
「お待ちしておりました、旦那様」
「やあ。待っててくれるなんて嬉しいな」
私は、テーブルに置いたワインを示した。
「早速、こちらへ。
今日、買ってきたワインがあります」
「いいねえ」
2人でグラスを傾ける。
赤い液体が揺れ、蝋燭の光が反射してきらめいた。
頃合いを見て、私は切り出した。
「お願いがあるのです」
「何でもきくよ」
私は静かにトランプの箱を取り出した。
「こちらにトランプがあります。
2人でゲームを15回して、私が通算10回勝てば正式な領主代理権を頂きます。
ただし旦那様が勝った場合、その回数×大金貨1枚差し上げます」
カシアンは驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「とっても面白い提案だけど、不思議なんだ。
領主代理権をわざわざ取得しなくても、妻には同じ権限がある。
例えば僕が家を空けてる時に何かあれば、君が当主の代わりとして家や領地を仕切らなければならない」
──甘い。
彼は本当に、甘い。
私はカードを指先で整えながら、静かに口を開いた。
「率直に申しましょう。
このままいれば私は、旦那様の仕事を手伝うことになります。
旦那様も義母様も、それを望んでいることでしょう。
しかし、自分でビジネスをしてきた身からすれば、誰かの下に入って指示されるのは性に合わないのです。
つまり──“自分の管轄”が決まったら、そこは誰も口を出さないで欲しいのです。
その時に必要になるのが代理権限です」
カシアンはカードを持つ手を止め、少し考えるように眉を寄せた。
「ふうむ。まあ、言いたいことはわかる。
それで、どの部門をやりたいの? 決まってる?」
「商業になるでしょうね。
農業ですと最新の設備と肥料を集める以外、することありませんから。
旦那様は軍部に専念なさったら?」
彼は驚いたように目を瞬かせた。
「僕が軍部……? まあ、嫌いじゃないけど。
君が商業をやるのはいいと思うよ。
でも代理権って、そんなに必要かな」
──この言い方。
私が“やってあげる側”なのに、彼が“させてあげる”という響き。
尚且つ、自領に対して他人事のよう。
新妻の食事が湯だったことを、恥ずかしいとも思っていない。
私は、彼への好意が萎んで行くのを感じた。
先代が亡くなるまで、ドレイモンド子爵家は貧乏ではなかった。
この美しい外見で性格もまともなら「貧しくても支えてあげたい」という令嬢が1人くらいいたはずだ。
それなのに、彼は25歳まで独身だった。
私は静かにカードを置き、微笑みを作った。
「そうですね。妻が領地経営に口出すなど、おこがましかったですね。
申し訳ありません。
私はチャリティーに力を入れていきます」
恭しく頭を下げると、カシアンは途端にしどろもどろになった。
「いや……言い方が悪かったのかな。反対してるということではないんだ。
正式な代理権があってもなくても、内容があまり変わらないと思っただけなんだ。
気に触ったなら謝るよ」
──やっぱり。
恐らく姑から“妻に働かせろ”と強く言われているのだろう。
けれど本人は、妻を働かせたいとは思っていない。
「いいえ、私が出過ぎました。
今の話はなかったことに」
私はテーブルを片付けようと立ち上がった。
すると、カシアンが慌てて、私の手首を掴んだ。
「あ、その……よく考えてみたら、こちらの不利益になることはない。
それに、しばらく賭け事をしてない。
だから……」
私はゆっくりと席に戻り、カードを手に取った。
「わかりました。
では、最初はピケにしましょう」
ピケは2人用のカードゲーム。
32枚のカードを使い、手札の組み合わせや宣言で点数を競う。
運だけでは勝てない。
読み合いと計算が必要。
夫は、嬉しそうに身を乗り出した。
「そうこなくっちゃ!」
私は微笑んだ。
結局、私たちは朝までゲームを続けてしまった。
蝋燭は何度も取り替えられ、窓の外は薄い青に染まり始めている。
「もう寝ましょう、旦那様」
「もう1回だけ。もう1回」
カシアンは子供のように身を乗り出してくる。
青い瞳は眠気の欠片もなく、むしろますます輝いていた。
「私たちは結婚したんだから、明日も明後日もできますよ。
だから今日は、もう寝ましょう。
鳥が鳴いています」
遠くで、小鳥の声が聞こえた。
カシアンはため息をつき、カードを置いた。
「分かった。
ではまた今夜、続きをしよう」
「ええ、そうしましょう」
私は微笑んだ。
──最初の15回のうち、わざと8回、勝たせてあげた。
夫の気分を良くしておいた方が、今後こちらの要求を通しやすい。
勝敗が決まると、軽く肩を落として告げた。
「旦那様にはかないませんね。
私、大人しく刺繍でもして暮らしましょう」
すると、カシアンは慌てたように身を乗り出した。
「いや、正式な代理権の認証? なら昼に書類を作るから、ゲームを続けよう」
……そして、そのまま朝になった。
カードを片付けてベッドに入ると、カシアンが当然のように体に触れてきた。
「んん、今日は寝かせてください」
「仕方ないな。わかった」
彼は素直に引き下がったが──
私は枕に顔を埋めながら思った。
何で、そんなに元気なんだろう?
おかしい。
“お湯パン”を、いつから続けているのか分からないけれど、嫁いだばかりの私は、もうこんなに疲れている。
なのに──
私より6歳上の旦那様と、26歳上の姑が元気いっぱいって、どういうこと?
体力の問題ではない。
これは、もっと別の“何か”がある。
じわりと不安が広がった。
昼近くに目を覚ますと、メイドが慌ただしく支度を手伝ってくれた。
やはりブランチは“お湯パン”だった。
カシアンは平然と、それを口に運んでいる。
私はスプーンを持つ手を震えないように気をつけながら、無言でパンを浸した。
食後、夫と共に執務室へ向かう。
書面ができるまでの間、私は帳簿を読み込んだ。
数字の並ぶ紙束をめくるたび、ため息が出そうになる。
──まあ、だいたい想像通り。
領地収入は少なく、支出は無駄が多い。
しばらくして、認証書が完成した。
「これを持って商会に行ってきます」
私がそう言うと、カシアンは呑気に笑って手を振った。
「いってらっしゃい」
……本当に、危機感がない。
私は弁護士を連れて、モンド商会へ向かった。
そして、個人資産を使って買収した。
モンド商会は元々、ドレイモンド子爵家のものだった。
しかし、カシアンがギャンブルのために売ってしまったのだ。
私は今後の方針や新商品のアイディアを従業員に伝え、認証書は弁護士に預けてから屋敷へ戻った。
そして──キッチンに“ガサ入れ”に向かった。
扉を開けた瞬間、私は思わず笑いそうになった。
肉。
野菜。
バター。
牛乳。
香辛料。
パン用の粉。
保存食。
どれも十分に揃っている。
棚には、ぎっしりと食材が詰まっていた。
──まったく、もう。
姑は、私に仕事をさせるために、わざと“貧しいふり”をしていたのだ。
食材は、あるのに“お湯パン”。
使用人を減らして“忙しい”を演出。
そして、息子には「妻が働くのは当然」と吹き込む。
私は棚の扉を閉め、静かに息を吐いた。




