横浜、恋が芽吹くミステイク
第1章:予期せぬエラーと救いの手
横浜の海風は、季節によってその香りえを変える。
六月、梅雨入り前の湿気を孕んだ風が、みなとみらいのビル群を縫って吹き抜けていく。
南条彩香は、オフィスの窓から見える曇り空を見上げ、小さく息を吐いた。手元のスマートフォンには、大学時代の友人グループのLINE通知が表示されている。『結婚式の日取り決まったよ!』『ドレスどうする?』といった華やかな話題が、スタンプと共に流れていく。
「また、結婚かぁ……」
二十七歳。この年齢をどう捉えるかは人それぞれだ。
仕事は楽しい。入社五年目、中堅としての自覚も芽生え、任されるプロジェクトも大きくなってきた。休日は気の置けない独身の友人たちと箱根へ温泉に行ったり、話題のカフェを巡ったりと、それなりに充実している。
彼氏がいないことを嘆く夜もないわけではないが、必死になって婚活アプリに登録するほどの切迫感もなかった。
「南条さん、そろそろ時間だよ」
背後から声をかけられ、彩香は現実に引き戻された。
「あ、はい。松浦先輩、すぐ行きます」
今日は、来期の大規模プロモーションに関する重要なプレゼンがある。相手は、この業界では知らぬ者のいない大手IT企業『ソリューション・ネクスト』。もしこの契約が取れれば、彩香のキャリアにとっても大きなプラスになる。
ジャケットを羽織り、資料が入ったノートパソコンを抱える。準備は万端のはずだった。昨日も遅くまでリハーサルをしたし、想定問答集も頭に入っている。
——まさか、あんな初歩的なミスをするなんて、この時の私は想像もしていなかった。
通されたのは、ガラス張りの洗練された大会議室だった。
相手方の出席者は四名。決裁権を持つ強面の部長、その補佐の課長、そして若手の男性社員が二人。
「では、御社の提案をお聞かせ願えますか」
重々しい部長の声で、プレゼンは始まった。
彩香は緊張を飲み込み、スクリーンの前に立つ。
「はい。それでは、弊社が提案する『ユーザー体験型プロモーション』についてご説明いたします」
スムーズな滑り出しだった。松浦先輩も頼もしげに頷いている。
しかし、中盤に差し掛かった時だ。
「――ここで、最新の市場調査データをご覧いただきたいのですが」
彩香がキーボードを叩き、スライドを切り替えた瞬間。
スクリーンに映し出されたのは、グラフでも数値でもなく、文字化けしたような無数のエラーコードと、『File Not Found』の無慈悲なメッセージだった。
「え……?」
心臓がドクリと跳ねる。
慌てて操作するが、正しいファイルが開かない。リンクが切れている? いや、ファイル自体が破損している?
「どうしたのかね?」
相手方の部長が眉をひそめる。
「も、申し訳ございません。少々お待ちください」
背中を冷や汗が伝う。バックアップのUSBメモリも持っていたはずだが、焦りで指が震え、ポートにうまく差し込めない。沈黙が痛い。数秒が数時間にも感じられる。松浦先輩が助け舟を出そうと立ち上がりかけた、その時だった。
「あの、失礼します」
凛とした、しかし柔らかい声が響いた。
声の主は、相手方の末席に座っていた若手の男性社員だった。
ネイビーのスーツを着こなし、黒髪を清潔感のある短さに整えている。年齢は彩香と同じか、少し下くらいだろうか。
「恐らく、以前共有いただいた共有サーバーのパスが変わった影響で、リンク切れを起こしているのかもしれません」
彼は落ち着いた様子で手元のタブレットを操作し、会議室のモニターシステムに接続した。
「実は、事前にいただいていた資料のドラフト版と、直近の市場データをこちらで照合しておいたものがあります。数値に大きな乖離はないはずですので、一旦こちらを表示しましょうか?」
スクリーンに、彩香が見せようとしていたものとほぼ同じ、いや、より洗練されたグラフが表示された。
「……あ」
彩香は呆気にとられた。彼は、彩香のミスを「システムの不具合」のようにサラリと言い換え、さらに完璧なフォローを入れてくれたのだ。
「部長、このデータを元に進めても問題ないかと」
彼が微笑みを浮かべて上司に進言すると、強面だった部長も「一ノ瀬くんがそう言うなら、まあいいだろう」と表情を緩めた。
「南条さん、続けてください」
彼――一ノ瀬と呼ばれた男性は、彩香に向かって人懐っこい笑顔を向け、小さく頷いてみせた。
その笑顔を見た瞬間、彩香の中で張り詰めていた恐怖がスッと消え、代わりに形容しがたい温かいものが胸に広がった。
「……はい! ありがとうございます」
彩香は深呼吸をし、再び前を向いた。
プレゼンは成功だった。
一ノ瀬のフォローのおかげで、むしろ「臨機応変な対応ができるチーム」という謎の評価までついてきた。
会議室を出て、エレベーターホールへ向かう廊下。
見送りに来てくれた一ノ瀬に、彩香は駆け寄った。
「あ、あの! 一ノ瀬さん!」
振り返った彼は、会議中のキリッとした表情とは違い、どこかふんわりとした空気を纏っていた。
「先ほどは、本当にありがとうございました。なんと御礼を言ったらいいか……私、完全にパニックになってしまって」
「いえいえ、気にしないでください。あのデータ、僕も興味があって個人的に整理していただけなんで。役に立ってよかったです」
彼は事もなげに言う。恩着せがましさが微塵もない。
「でも、私のミスを庇っていただいて……」
「ミスじゃないですよ。機械にはよくあることです」
彼は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「それに、南条さんの企画、すごく面白かったから。つまらないトラブルで話が聞けなくなるのは、僕としても損失でしたし」
ドキン、と胸が高鳴った。
仕事の内容を褒められた嬉しさと、彼のスマートな立ち振る舞いへのときめきが混ざり合う。
「そろそろ行きますね。南条さん、また」
エレベーターが到着し、彼は軽く会釈をして去っていった。
閉まりゆく扉の隙間から見えた彼の笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。
帰社してからも、彩香の頭の中は一ノ瀬のことでいっぱいだった。
デスクに戻り、いただいた名刺を取り出す。
『株式会社ソリューション・ネクスト 開発部 一ノ瀬 湊』
指先でその文字をなぞる。
(一ノ瀬、湊さん……)
これまで、出会いがなかったわけではない。合コンにも行ったし、紹介も受けた。でも、ピンとくる人はいなかった。
けれど、今日は違う。
ただ優しいだけじゃない。仕事ができて、機転が利いて、それでいてあの柔らかい物腰。
「……お礼、しなきゃだよね」
それは社会人としてのマナーであり、同時に、もう一度彼に会いたいという私的な欲求でもあった。
彩香はパソコンを開き、業務日報を書く手を止めた。
まず知りたい。彼がどんな人なのか。
「松浦先輩、ちょっといいですか?」
彩香は、隣の席で安堵のため息をついている先輩に声をかけた。
「ん? なんだ、反省会か?」
「いえ、その……今日の、先方の一ノ瀬さんって方、ご存知ですか?」
ここから、彩香の恋の「リサーチ」が始まる。
いつもの横浜の風景が、昨日までとは少し違って見え始めていた。
第2章:リサーチと再会のアポイントメント
松浦はパソコンの画面から目を離さず、キーボードを叩く手を緩めた。
「一ノ瀬? ああ、今日助けてくれた彼か。知ってるも何も、向こうの開発部じゃ若手のエースって呼び声高い男だよ」
「エース、ですか」
「ああ。入社四年目にして、いくつもデカい案件回してるらしい。技術力だけじゃなくて、クライアントとの折衝もうまいって評判だ。……なんでそんなこと聞くんだ?」
松浦が不審げに眉を上げ、くるりと椅子を回転させて彩香の方を向いた。その鋭い視線に、彩香は思わず言葉を濁す。
「い、いえ。今日すごく助けていただいたので、ちゃんとお礼をしなきゃなと思って。どんな方なのかなって」
「ふーん。まあ、礼儀としては正しいな。一ノ瀬くんは確か、俺の一つか二つ下だから、南条の一つ下くらいか? 仕事はできるが、変に尖ってなくて付き合いやすい奴らしいぞ」
松浦の言葉に、彩香の胸中でパズルのピースがはまっていく。
一ノ瀬湊、二十六歳。仕事ができて、評判も良くて、性格もいい。
――完璧すぎる。
知れば知るほど、自分とは住む世界が少し違う人のように思えてきて、彩香は小さく溜息をついた。自分は今日、初歩的なミスをして彼に迷惑をかけたばかりの、「ドジな取引先の担当者」でしかないのだから。
その夜、自宅マンションに帰った彩香は、ベッドの上でスマートフォンを睨みつけていた。
名刺交換をした際、彼個人の社用メールアドレスは手に入れている。
『本日はありがとうございました』と送るのは簡単だ。でも、それだけで終わらせたくない自分がいる。あわよくば、もう一度会って話がしたい。
文面を打っては消し、打っては消しを繰り返すこと一時間。
(重すぎるかな……いや、軽すぎる?)
悩み抜いた末、彩香は「お礼」という正攻法に加え、仕事にかこつけた「口実」を作ることにした。
今日のプレゼン資料の修正版と、彼が興味を持っていた市場データの詳細版を揃え、直接届けるという作戦だ。これなら不自然ではないはずだ。
翌々日の午後。
彩香は、手土産の菓子折りと資料を手に、『ソリューション・ネクスト』が入る高層ビルのロビーにいた。受付で来訪を告げると、程なくしてエレベーターホールから一ノ瀬が現れた。
今日はジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り上げている。ラフな姿に、また胸がときめく。
「南条さん、わざわざすみません。データならメールでよかったのに」
彼は申し訳なさそうに眉を下げたが、その瞳は笑っていた。
「いえ、どうしても直接お礼が言いたくて。それに、こちらのデータも一ノ瀬さんに見ていただいた方が確実かと思いまして」
彩香が資料と菓子折りを差し出すと、彼は「え、こんなことまで?」と目を丸くした後、ふわりと笑った。
「ありがとうございます。甘いもの、部署のみんな喜びます。ちょうど煮詰まっていたところだったんで」
ロビーのソファスペースに並んで座り、少しだけ仕事の話をした。
彼の説明は相変わらず分かりやすく、彩香の些細な疑問にも丁寧に答えてくれる。仕事の話をしているはずなのに、まるでカフェでお喋りをしているような居心地の良さがあった。
ふと、会話が途切れた瞬間。
「……あの、南条さん」
一ノ瀬が少しだけ声を潜めた。
「はい?」
「もしよかったら、この後、少し時間ありませんか? いや、仕事の話の続きというか、ちゃんとお礼を言われるほどのことしてないんで、僕も気が引けるというか」
彼は少し照れくさそうに首の後ろをかいた。
「よかったら、食事でも。……あ、もちろん、ご迷惑でなければ」
彩香は驚きで一瞬言葉を失ったが、すぐに大きく頷いた。
「ぜ、ぜひ! 私も、もっと一ノ瀬さんとお話ししたいと思ってました」
「本当ですか? よかった。実は、近くに美味しい店を見つけたんですけど、一人じゃ入りにくくて」
彼の表情が、ぱあっと明るくなる。
約束は、その日の退社後、十九時。
場所は横浜駅近くのオイスターバー。
会社に戻り、残りの仕事を片付ける彩香の指先は、いつもより軽やかだった。
松浦に「なんかいいことあったか?」と聞かれたが、「秘密です」と笑顔で誤魔化した。
定時になり、オフィスの化粧室で念入りにメイクを直す。鏡に映る自分の顔は、ここ数年で一番輝いているように見えた。
期待と、少しの不安。
これは、ただの「お礼の食事会」なのか、それとも――。
横浜の夜景が輝き出す時刻、彩香は逸る気持ちを抑えながら、待ち合わせ場所へと向かった。
第3章:金曜日のオイスターバー
金曜日の夜、横浜駅周辺は独特の熱気を帯びていた。
仕事を終えた会社員たち、週末を楽しむ学生たち、そして観光客たちが入り混じり、街全体が解放感に包まれている。
彩香は待ち合わせ場所である駅前の広場で、スマートフォンを握りしめていた。約束の五分前。高鳴る鼓動を鎮めるように深呼吸をする。
ふと、人波が割れ、見慣れたシルエットが近づいてきた。
「お待たせしました、南条さん」
一ノ瀬だった。会社で会った時のワイシャツ姿の上に、カジュアルなジャケットを羽織っている。仕事モードから少し崩したそのスタイルが、妙に色っぽく見えた。
「いえ、私も今着いたところです」
「よかった。じゃあ、行きましょうか。予約してあるんで」
自然なエスコートで歩き出す彼。その背中を見つめながら、彩香は心の中でガッツポーズをした。予約までしてくれているなんて。
連れて行かれたのは、駅から少し歩いた路地裏にある隠れ家的なオイスターバーだった。
重厚な木の扉を開けると、店内は薄暗く、ジャズが静かに流れている。カウンターには氷の上に新鮮な牡蠣が並べられ、活気がありつつも落ち着いた大人の空間が広がっていた。
「へぇ……こんな素敵なお店があったなんて」
「気に入ってもらえました? 牡蠣、好きだって仰ってましたよね?」
「えっ、言いましたっけ?」
「この前のプレゼンの後の雑談で、ちらっと。美味しいワインと牡蠣があれば幸せって」
彩香はハッとした。確かに、緊張が解けた後の立ち話でそんなことを口走った気がする。それを覚えていてくれたなんて。
通されたのは奥のテーブル席だった。周囲の視線が気にならない、程よいプライベート感がある。
「とりあえず、生牡蠣の盛り合わせと、白ワインでいいですか?」
慣れた様子で注文を済ませる一ノ瀬。メニューを見る横顔に、知性が滲み出ている。
乾杯のグラスを合わせた瞬間、彩香の緊張はようやく少し解けた。
「改めまして、この間は本当にありがとうございました。一ノ瀬さんがいなかったら、私、どうなっていたか……」
「またその話ですか。もう時効ですよ」
一ノ瀬は苦笑しながらワインを含んだ。
「それより、僕の方こそ南条さんとゆっくり話してみたかったんです。あのプレゼンの企画、視点が鋭いなって感心してたんで」
「え、そうなんですか?」
「ええ。技術先行になりがちな僕らとは違って、ユーザーがどう感じるかを徹底して考えている。あの資料を作った人の話を聞いてみたいなって」
仕事への評価。それは彩香にとって何よりの褒め言葉だったが、同時に「仕事相手として興味を持たれただけなのか」という一抹の不安もよぎる。
しかし、会話は次第にプライベートな話題へと移っていった。
「一ノ瀬さんって、普段何されてるんですか? お休みの日とか」
「うーん、地味ですよ。映画観たり、あとはカメラ持って散歩したり。横浜って絵になる場所多いじゃないですか。南条さんは?」
「私は友達とドライブ行ったり、美味しいもの食べ歩いたり……あ、結構普通ですね」
「それが一番ですよ。美味しいものを食べて笑ってる時が、人間一番幸せですから」
彼はそう言って、彩香に向かって優しく微笑んだ。その笑顔には、裏表のない純粋な好意が感じられた。
話していると、彼が意外にもお茶目な一面を持っていることが分かった。学生時代の失敗談や、苦手な食べ物の話などを面白おかしく話してくれる。
「意外です。一ノ瀬さん、もっと完璧で隙がない人だと思ってました」
「完璧? 僕がですか? とんでもない。家では部屋着のまま一日中ゲームしてたりしますよ」
「ふふっ、想像できないです」
笑い合う二人。時間の経過を忘れるほど、会話が弾んだ。
これまで彩香が出会ってきた男性たちは、自分の自慢話をしたがるタイプか、逆に彩香が話題を振らないと喋らないタイプが多かった。けれど一ノ瀬は違う。聞き上手で、こちらの話を引き出しつつ、自分のことも程よくさらけ出してくれる。
心地いい。ずっとこうしていたい。
彩香の中に、確信めいた感情が芽生え始めていた。これは単なる憧れや感謝じゃない。私は、彼のことが好きなんだ。
二時間があっという間に過ぎた。
店を出ると、夜風が少し冷たく感じられた。
「楽しかったですね」
一ノ瀬が並んで歩きながら言った。
「はい、本当に。ご馳走様でした。……あの、次は私が払わせてください」
彩香が言うと、彼は立ち止まって彩香の顔を覗き込んだ。
「次、あるんですか?」
「え……あ、いや、その」
図々しかっただろうか。彩香が慌てて言い訳をしようとすると、一ノ瀬は吹き出した。
「冗談です。もちろん、また行きましょう。次は何がいいかな」
彼はポケットからスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで操作した。
「LINE、交換しませんか? その方が連絡取りやすいし」
「! ……はい、ぜひ!」
QRコードを読み取る手が震えるのを悟られないように必死だった。
駅の改札前。別れの時間が近づく。
「じゃあ、今日はここで。気をつけて帰ってくださいね」
「はい。一ノ瀬さんも」
名残惜しい。もっと一緒にいたい。でも、今日はここで引くのが大人の女性の嗜みだ。
彩香が改札を通ろうとした時、背後から声がかかった。
「南条さん!」
振り返ると、一ノ瀬が少し照れくさそうに手を振っていた。
「今日の服、すごく似合ってましたよ。じゃあ!」
それだけ言って、彼は雑踏の中に消えていった。
カァッと顔が熱くなるのが分かった。最後の最後で、そんな爆弾を投下してくるなんて。
帰りの電車の中、彩香はずっとスマートフォンの画面を見つめていた。『一ノ瀬湊』という新しい友達の名前。
すぐに通知が鳴った。
『無事乗れましたか? 今日は本当に楽しかったです。次はイタリアンでもどうですか?』
素早いレスポンス。社交辞令じゃない。
彩香は口元が緩むのを抑えきれず、小さくガッツポーズをした。
この恋は、動き出したばかりだ。そして、きっとうまくいく。
そう信じて疑わなかった。この時はまだ、背後に忍び寄る影の存在になど、気づくよしもなかったのだ。
第4章:見え隠れする影
その日から、彩香の日常は色めき立った。 朝起きてスマートフォンを確認するのが日課になった。彼からの『おはようございます』という短いメッセージがあるだけで、通勤電車の人混みすら苦にならなくなる。 一ノ瀬とのLINEのやり取りは、心地よいリズムで続いていた。 『今日は暑くなりそうですね』 『そうですね。南条さんも水分補給忘れないでくださいね』 他愛もない会話。スタンプ一つに一喜一憂し、既読がつくまでの数分間をそわそわして過ごす。まるで学生時代の恋愛に戻ったような、むず痒くも甘酸っぱい感覚。 (私、完全に浮かれてるな……) オフィスでPCに向かいながら、ふと画面に反射した自分の顔が緩んでいるのに気づき、慌てて表情を引き締める。 今日は午後から『ソリューション・ネクスト』との定例打ち合わせがある。彼に会える。仕事として行くだけなのに、今朝はメイクにいつもより五分多く時間をかけたし、香水もワンプッシュだけ、足首につけてきた。
『ソリューション・ネクスト』の会議室。 松浦と共に通された部屋で待っていると、ドアが開いた。 「お待たせいたしました」 一ノ瀬が入ってきた。目が合った瞬間、彼が微かに微笑んだのが分かり、彩香の胸が高鳴る。 だが、彼の後ろから続いて入ってきた人物を見て、彩香の思考は一瞬停止した。 「初めまして。本日から本プロジェクトのアシスタントに入ります、川上絵里奈と申します」 華やか、という言葉が服を着て歩いているような女性だった。 艶やかな巻き髪、完璧なネイル、体にフィットしたオフィスカジュアル。年齢は二十代半ばだろうか。愛らしい顔立ちだが、その瞳には自信が満ち溢れている。 「よろしく頼むよ」 松浦がデレっとした声を出したのを、彩香は冷ややかな目で見逃さなかった。 「あ、湊センパイ、資料のプロジェクター接続、やっときますね」 絵里奈は一ノ瀬のことを「センパイ」と呼び、慣れた手つきでケーブルを操作し始めた。その距離が、近い。一ノ瀬の腕に触れんばかりの距離で、楽しそうに話しかけている。 「ありがとう、川上さん。助かるよ」 「もう、湊センパイ機械強いのにこういうの面倒くさがりますよねー」 タメ口混じりの会話。そこには、彩香の知らない「社内の空気感」があった。二人の間に流れる、身内特有の親密さ。 彩香は急に、自分がこの場における「部外者」であることを突きつけられた気がした。
会議中も、彩香の神経はささくれ立っていた。 一ノ瀬が発言するたびに、絵里奈がうんうんと頷き、絶妙なタイミングで補足を入れる。仕事ができる女性であることは間違いない。だが、その視線は時折、彩香に向けられることがあった。 敵意とまでは言わない。けれど、値踏みするような、どこかマウントを取るような視線。 ――この人、南条さんのこと、どういう関係だと思ってるのかしら? そんな声が聞こえてきそうで、彩香は資料を握る手に力を込めた。女の勘、というやつだろうか。彼女が一ノ瀬に対して特別な感情を持っていることは、同性として痛いほど分かった。
会議が終わり、片付けをしている時だった。 一ノ瀬が彩香の方へ歩み寄ってきた。 「南条さん、この間の件ですが……」 話しかけようとしたその瞬間、絵里奈がスッと二人の間に割って入った。 「湊センパイ! この後のランチミーティング、予約の時間ギリギリですよ? 急がないと部長に怒られちゃいます」 彼女は一ノ瀬の腕を引かんばかりの勢いだった。そして、彩香に向かってニコリと笑った。 「すみません南条さん、センパイをお借りしますね。行きましょう、センパイ!」 完璧な笑顔。けれど、その目は笑っていなかった。 「あ、ああ、ごめん。南条さん、また連絡します」 一ノ瀬は申し訳なさそうに眉を下げ、絵里奈に促されるまま部屋を出て行ってしまった。 取り残された彩香は、呆然と閉まったドアを見つめることしかできなかった。 「また連絡します」という言葉が、今の彩香にはひどく遠いものに感じられた。
帰り道、松浦が呑気に呟いた。 「あの子、川上さんだっけ? 可愛いよなぁ。一ノ瀬くんとも仲良さそうだし、社内でもお似合いって言われてんじゃねーの?」 悪気のない一言が、彩香の心に鋭く突き刺さる。 「……そうですね。お似合いかもしれませんね」 精一杯の強がりで返したが、声が震えそうになるのを必死で堪えた。 ポケットの中のスマートフォンが重たく感じる。朝までの浮かれた気分はどこへやら、今は不安という名の黒いインクが、心の中にじわりと広がっていくのを感じていた。 私、ただの取引先の担当者なのかな。 あんなに綺麗な人が近くにいたら、普通そっちを選ぶよね。 ネガティブな想像ばかりが膨らみ、彩香は横浜の青空を見上げることができなかった。
第5章:先輩の告白
週が明けても、彩香の心に垂れ込めた雨雲は晴れることがなかった。
一ノ瀬とのLINEは続いている。けれど、『川上絵里奈』という存在を知ってしまった今、彼からのメッセージの一言一句に深読みをしてしまう自分がいた。
『今日は残業になりそうです』
この言葉だけで、(またあの彼女と一緒にいるのかな)(夜食とか差し入れされてるのかな)と、黒い想像が止まらなくなる。
そんな精神状態が、仕事に影響しないわけがなかった。
「……おい、南条」
デスクでキーボードを叩いていた彩香は、目の前に置かれた缶コーヒーの音でビクリと肩を震わせた。
「あ、はい! すみません、松浦先輩」
「すみませんじゃねーよ。さっきから同じ行、行ったり来たりしてるぞ。お前、大丈夫か?」
松浦が呆れたような、でも心配そうな顔で覗き込んでくる。
今日の松浦は、いつもの少しヨレたシャツではなく、珍しくパリッとしたスーツを着ていた。そういえば、午前中は役員への報告会に行っていたはずだ。
「だ、大丈夫です。ちょっと考え事してて」
「その考え事が仕事の邪魔してんだよ。……はぁ」
松浦はわざとらしく大きな溜息をつくと、腕時計を見た。時刻は十八時を回っている。
「今日はもう上がれ。この後の処理は俺がやっといてやる」
「えっ、でも」
「いいから。その代わり、付き合え」
「え?」
「飯だよ、飯。最近お前、昼もろくに食ってないだろ。顔色が悪い」
有無を言わせぬ口調だったが、そこには長年コンビを組んできた先輩としての優しさが滲んでいた。彩香は断る理由もなく、素直に頷いた。
連れて行かれたのは、関内にある小料理屋だった。
赤提灯が揺れるような店ではなく、白木のカウンターが美しい、少し背伸びをした大人の店だ。
「へぇ、先輩、こんなお店知ってたんですね」
「まあな。たまには美味いもん食わないとやってらんねーだろ」
松浦は照れ隠しのように鼻を鳴らすと、手慣れた様子で刺身の盛り合わせと日本酒を注文した。
運ばれてきた料理はどれも絶品で、彩香の強張っていた胃袋に優しく染み渡っていく。
最初は仕事の愚痴や、社内の人事の噂話などをしていた。松浦の軽快なトークに、彩香も久しぶりに声を上げて笑った。
酒が進み、お猪口が空になる頃、松浦のトーンが少し変わった。
「で、どうなんだよ」
「え? 何がですか?」
「とぼけるな。お前が最近上の空な理由だよ。……あの一ノ瀬って男か?」
彩香は箸を止め、動揺して松浦を見た。
「な、なんで……」
「お前のことなら、入社した時から見てるんだ。そのくらい分かる」
松浦は手酌で酒を注ぎ、一気に煽った。その横顔は、いつもより少し真剣に見えた。
「あいつ、そんなにいい男か? まあ、顔もいいし仕事もできるのは認めるけどよ」
「そういう条件とかじゃなくて……」
彩香は俯き、グラスの縁を指でなぞった。
「彼と話してると、自然体でいられるんです。私のダメなところも笑って許してくれて……でも、私なんかじゃ釣り合わないのかなって」
絵里奈の存在、彼女が見せつけた一ノ瀬との距離感。その不安を、酒の勢いも借りてポツリポツリと吐き出した。
松浦は黙って聞いていた。茶化すこともなく、アドバイスをするでもなく、ただ静かに頷いて。
全て話し終えた時、彩香の目には少し涙が溜まっていた。
「……情けないですよね、私。勝手に舞い上がって、勝手に落ち込んで」
「バカ言え。情けなくなんかねーよ」
松浦が強い口調で言った。
そして、真っ直ぐに彩香を見た。その瞳には、今まで見たことのない熱が宿っていた。
「南条。俺じゃ、ダメか?」
「……え?」
店内の喧騒が、一瞬遠のいた気がした。
彩香は目を瞬かせ、松浦の顔を見つめ返した。冗談を言っている雰囲気ではない。
「俺なら、お前を不安になんかさせない。お前がミスしても、俺が全部カバーしてやる。他の女に目移りなんてしねーし、お前が腹抱えて笑える話だって毎日してやれる」
不器用な言葉だった。スマートさの欠片もない。
でも、それは松浦なりの精一杯の誠実な告白だった。
「先輩、それって……」
「ずっと好きだったんだよ。お前が新人で配属されてきた時から」
松浦は照れくさそうに頭を掻いたが、視線は逸らさなかった。
「あの一ノ瀬って若造に持っていかれると思ったら、黙ってられなくなった。……ごめんな、困らせて」
彩香は言葉を失った。
松浦のことは信頼している。仕事のパートナーとしても、頼れる先輩としても。一緒にいて楽だし、安心感もある。
もし一ノ瀬に出会う前だったら、この言葉に心が揺れていたかもしれない。
けれど、今、彩香の心にあるのは、どうしようもなく一ノ瀬のことだけだった。
「先輩……私……」
「今すぐ返事はいらない」
松浦が遮るように言った。彩香が断りの言葉を口にしようとしたのを察したのだろう。
「ただ、俺という選択肢もあるってこと、覚えといてくれ。辛くなったら、いつでも俺のところに来ればいい」
そう言って、彼は優しく笑った。それは、いつも仕事でミスをした彩香を励ます時と同じ、温かい兄貴分の笑顔だった。
店を出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。
駅までの道、二人の間には少し気まずい沈黙が流れた。でも、それは嫌な沈黙ではなかった。
「じゃあな。明日は遅刻すんなよ」
改札口で、松浦はいつものように手を振って去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、彩香の胸は複雑な感情でいっぱいだった。
一ノ瀬への募る想い、絵里奈という強力なライバル、そして松浦からの不意打ちの告白。
恋の歯車は、彩香の予想もしない方向へと急速に回り始めていた。
スマートフォンが震える。
画面には『一ノ瀬湊』の文字。
『今週末、空いてますか? 話したいことがあります』
その短いメッセージが、吉報なのか凶報なのか。今の彩香には判断がつかなかった。
第6章:疑惑の目撃情報
帰宅した彩香は、一ノ瀬からのメッセージにどう返信すべきか悩んだ末、シンプルに返すことにした。
『はい、空いています。私もお話ししたいです』
すぐに既読がつき、土曜日の十八時、みなとみらいのレストランで会うことになった。
「話したいこと」とは何だろう。
期待と不安が交互に押し寄せる。もし「実は付き合っている人がいて」と言われたら? いや、逆に告白だったら?
松浦の言葉が脳裏をよぎる。「俺なら、お前を不安になんかさせない」。
今の彩香は、一ノ瀬という存在にあまりにも振り回されている。それが恋だと分かっていても、心の消耗は激しかった。
金曜日の夜。
翌日のデートに着ていく服を選ぼうとクローゼットを開けていた時、スマートフォンが鳴った。大学時代の友人、サナエからだった。
「もしもし、彩香? 今大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。どうしたの、急に」
サナエの声は少し緊迫していた。
「あのさ……変なこと聞くけど、最近気になってる人って、IT系の会社の人だよね?」
「え、うん。そうだけど……」
「やっぱり。名前、一ノ瀬さんって言わなかった?」
彩香の背筋に冷たいものが走る。なぜサナエがその名前を知っているのか。
「……うん。どうして知ってるの?」
「今ね、私、元町にいるんだけど。……見ちゃったのよ」
サナエは言い淀んだ後、意を決したように続けた。
「彩香が前に写真見せてくれた彼、すごく綺麗な女の人と歩いてる。それも、ただ歩いてるだけじゃないの。腕組んで、すごく親密そうで……今、フレンチレストランに入っていった」
彩香の手から、選んでいたワンピースが滑り落ちた。
元町のフレンチ。金曜日の夜。腕組み。
それは、どう言い訳しても「仕事の付き合い」で済まされる状況ではない。
「……見間違いじゃないかな?」
「ごめん、彩香。私、視力いいから。それに、あの独特の雰囲気、絶対そうだと思う。女性の方は茶髪の巻き髪で、モデルみたいな……」
絵里奈だ。彩香の脳裏に、あの勝ち誇ったような笑顔が浮かぶ。
「そっか……。教えてくれて、ありがとう」
乾いた声が出た。電話を切った後、彩香はその場に座り込んだ。
明日はデートだ。彼はどんな顔をして来るのだろう。「話したいこと」とは、まさか「彼女ができたからもう会えない」という別れの通告なのだろうか。それとも、二股のお誘い?
涙は出なかった。ただ、胸の奥に鉛を飲み込んだような重苦しさだけが残った。
土曜日。
みなとみらいは、週末を楽しむカップルや家族連れで溢れかえっていた。
彩香は、鏡の前で何度も笑顔の練習をした。暗い顔を見せてはいけない。まだ何も決まったわけではないのだから。
待ち合わせの場所、帆船日本丸の前に一ノ瀬はいた。
「南条さん! こっちです」
彼はいつものように爽やかな笑顔で手を振った。昨夜、別の女性と腕を組んでいたとは到底思えない、屈託のない笑顔。
「お待たせしました。一ノ瀬さん」
「いえ、僕も今来たところです。今日は少し風が強いですね」
彼は自然な仕草で車道側を歩き、彩香をエスコートする。その優しさが、今日は棘のように彩香の心を刺した。
予約してくれていたのは、観覧車と海が一望できるテラス席のあるレストランだった。ロケーションは完璧だ。
乾杯のシャンパンが運ばれてくる。
「今日は時間を作ってくれてありがとうございます」
一ノ瀬が改まって言った。
「いえ、こちらこそ」
「あの、実は……」
彩香は身構えた。来るか。
「今度、僕の部署で新しいプロジェクトが始まるんです。かなり大規模なもので、僕がリーダーを任されることになって」
……仕事の話?
「それで、これからはかなり忙しくなりそうで。なかなか連絡が返せなくなるかもしれないし、会う時間も減るかもしれない。でも、南条さんとの関係は……その、大切にしたいと思っていて」
彼は少し顔を赤らめて言った。
それは、遠回しな告白とも取れる言葉だった。忙しくなる前に、ちゃんと繋ぎ止めておきたいという意思表示。
普通なら飛び上がって喜ぶ場面だ。けれど、彩香の頭の中には昨夜のサナエの言葉がこびりついている。
(じゃあ、昨日の夜は? 忙しいはずなのに、絵里奈さんとは会っていたの?)
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「そう、なんですね。おめでとうございます、リーダー抜擢」
「ありがとうございます。……南条さん?」
一ノ瀬が不思議そうに顔を覗き込む。彩香の反応が薄いことに違和感を持ったようだ。
「あ、ごめんなさい。ちょっと驚いちゃって」
「そうですか? よかった。てっきり、呆れられたかと」
彼は安心したように笑い、料理を取り分け始めた。
彩香は料理の味がしなかった。目の前の彼が、何を考えているのか分からない。この笑顔は私だけのものなのか、それとも絵里奈にも向けられているものなのか。
疑心暗鬼が、彩香の心を蝕んでいく。
楽しいはずの会話も、上の空になってしまう。「昨日何してた?」と聞けば全てが終わってしまいそうで、怖くて聞けない。
食事を終え、店を出るとすっかり日は落ちていた。
みなとみらいの夜景が、宝石箱をひっくり返したように輝いている。
「少し、歩きませんか?」
赤レンガ倉庫の方へ向かう遊歩道。海風が吹き抜ける。
一ノ瀬との距離は近い。手が触れそうになるたび、彩香は反射的に少し身を引いてしまった。
「……南条さん、今日、何かありましたか?」
一ノ瀬が足を止めた。
「え?」
「いや、なんとなく。元気がないというか、僕のこと避けてるみたいな気がして」
鋭い。彼はそういう機微に敏感だ。
「そんなこと……ないです」
「もし、僕が何か気に障ることしたなら、言ってください」
彼の真剣な眼差し。その瞳に嘘があるようには見えない。それが余計に彩香を混乱させる。
言いたい。昨日のこと。絵里奈のこと。
でも、もし見間違いだったら? 私の勘違いで、彼を傷つけることになったら?
彩香が口を開きかけた、その時だった。
一ノ瀬のポケットの中で、スマートフォンが鳴った。
「あ、すみません」
彼は画面を見て、一瞬だけ眉をひそめた。
「……ちょっと、出てもいいですか? 緊急みたいで」
「はい、どうぞ」
彼は少し離れた場所へ移動し、電話に出た。
風に乗って、切れ切れに声が聞こえてくる。
「……今は無理だ……いや、だから言っただろう……絵里奈、いい加減に……」
『絵里奈』。
その名前が出た瞬間、彩香の中で何かが弾けた。
やはり、そうだったのだ。彼らは繋がっている。こんな大事なデートの時間に電話をしてくるような関係なのだ。
一ノ瀬が電話を切り、戻ってくる。その表情は、先ほどまでの穏やかなものではなく、どこか焦燥感を帯びていた。
「すみません、南条さん。ちょっとトラブルがあって……今日はもう送ります」
「……仕事、ですか?」
「ええ、まあ。そんなところです」
彼は目を逸らした。初めて、彩香に対して嘘をつくような仕草を見せた。
彩香は小さく頷くことしかできなかった。
夜景の光が滲む。
私たちは、どこで間違えてしまったのだろう。あるいは、最初から全てが間違いだったのだろうか。
帰り道、二人の間に会話はほとんどなかった。
繋ぐはずだった手は、ポケットの中にしまわれたままだった。
第7章:すれ違う想い
週明けの月曜日。
彩香は重い足取りで出社した。週末のデートは、最悪の結果に終わった。それ以来、一ノ瀬からのメッセージは途絶えている。
デスクに着き、PCを立ち上げると、社内チャットにサナエからのメッセージが入っていた。
『彩香、大丈夫? あの後どうだった?』
心配してくれている友人には申し訳ないが、返信する気力が湧かない。
午前中の業務を機械的にこなし、昼休みになった。食欲はなく、コンビニで買ったサンドイッチを持って社内の休憩スペースへ向かった。
そこで、他部署の女性社員たちの話し声が耳に入ってきた。
「ねえ、聞いた? ソリューション・ネクストの一ノ瀬さん、婚約するらしいよ」
心臓が凍りついた。彩香は息を潜め、聞き耳を立てる。
「え、嘘! 誰と?」
「同じ部署の川上さんだって。昨日、元町で指輪見てたって目撃情報がSNSに上がってたみたい」
「やっぱりー! あの二人、お似合いだもんね。社内でも公認カップルなんでしょ?」
「美男美女でお似合いよねー」
決定的な言葉だった。
サナエが見たのは、ただのデートではなかった。婚約指輪を選びに行っていたのだ。
彩香の手からサンドイッチが滑り落ちる。
頭の中が真っ白になった。
――「南条さんとの関係は、大切にしたい」
あの言葉は、何だったのか。婚約者がいるのに、私をキープしておきたかったということか。それとも、私が勝手に勘違いしていただけで、彼は最初からただの「仕事仲間」として大切にしたいと言っただけなのか。
どちらにせよ、結果は同じだ。
私は、彼の特別ではなかった。
彩香は震える手でスマートフォンを取り出し、一ノ瀬の連絡先をブロックしようとした。
でも、指が動かない。まだどこかで、彼を信じたい自分がいる。
「……バカみたい」
彩香は自嘲気味に呟き、通知をオフにした。もう、彼からの連絡を待つのはやめよう。これ以上傷つきたくない。
その頃、一ノ瀬は自社のオフィスで頭を抱えていた。
デスクの上には、書きかけのプログラムコードが表示されたモニターが並んでいるが、全く集中できない。
南条彩香からの返信がない。
土曜日の夜、別れ際に見せた彼女の悲しげな表情が脳裏から離れない。
「はぁ……」
大きく溜息をつくと、隣の席から甘ったるい声が飛んできた。
「どうしたんですかぁ、湊センパイ。元気ないですね」
絵里奈だった。彼女は一ノ瀬の机に身を乗り出し、上目遣いで覗き込んでくる。
「……川上さん、仕事中だぞ。それに、土曜日の件、あれほど勝手なことするなと言っただろう」
一ノ瀬は声を潜めて怒りを滲ませた。
土曜日、デート中に電話をかけてきたのは絵里奈だった。「システムの緊急トラブル」と嘘をついて呼び出したのだ。実際には大したトラブルではなく、彼女が操作ミスをしただけだった。しかも、その後の対応で一ノ瀬は深夜まで拘束される羽目になった。
「だってぇ、センパイがいないと不安だったんですもん。それに、あんな時間にデートなんて、どうせ大した用事じゃなかったんでしょ?」
絵里奈は悪びれる様子もなく、ケラケラと笑った。
「……君なぁ」
一ノ瀬が言い返そうとした時、背後から部長の声が飛んだ。
「一ノ瀬くん、ちょっといいかね」
「はい、ただいま」
会話は中断された。絵里奈は一ノ瀬の背中に向かって、勝者のような笑みを浮かべた。
彼女は知っていた。社内で流れている「一ノ瀬と絵里奈の婚約説」を。そして、それを流したのが自分自身であることも。
数日後。
彩香たちの会社で、合同プロジェクトの進捗会議が開かれた。
一ノ瀬も出席していた。彼は会議室に入ってくるなり、彩香の姿を探した。
いた。末席で資料を配っている。
「南条さん」
一ノ瀬が声をかけると、彩香はビクリと肩を震わせた。
「……おはようございます、一ノ瀬さん」
彼女は顔を上げず、事務的な口調で返した。目は合わせない。
「あの、LINE見てくれました? 何度か送ったんですけど」
「すみません、忙しくて。……資料、こちらになります」
彩香は彼の手元に資料を置くと、逃げるように席に戻ってしまった。
明らかに避けられている。
一ノ瀬は困惑した。土曜日の急な呼び出しで怒らせてしまったのは分かる。でも、謝罪の連絡すら無視されるほどのことをしただろうか。
会議中も、彩香は一ノ瀬と視線を合わせようとしなかった。発言も最低限で、以前のような活発な意見交換はない。
重苦しい空気が流れる中、会議は終了した。
一ノ瀬は諦めきれず、会議室を出ようとする彩香を追いかけようとした。
その時、立ちはだかる大きな影があった。
「……よう、一ノ瀬くん」
松浦だった。彼は普段の飄々とした雰囲気はなく、鋭い眼光で一ノ瀬を見下ろしていた。
「あ、松浦さん。お疲れ様です」
「ちょっとツラ貸せや」
松浦は一ノ瀬の腕を掴み、誰もいない給湯室へと連れ込んだ。
「な、何ですか急に」
「お前、いい加減にしろよ」
松浦の声は低く、怒りに満ちていた。
「南条のこと、これ以上振り回すな。あいつがお前のせいでどれだけ傷ついてるか、分かってんのか?」
「傷ついてる……? どういうことですか? 僕だって連絡してるのに、彼女が無視して……」
「とぼけんじゃねえ!」
松浦がダンッ、と壁を叩いた。
「社内の女と婚約するって噂になってる奴が、何で南条にちょっかい出すんだよ。遊びなら他でやれ。あいつは真面目なんだよ。お前みたいな器用な奴とは違うんだ」
「……婚約?」
一ノ瀬は目を丸くした。
「何の話ですか、それ。僕が誰と?」
「あの川上とかいう女だろ! 元町で指輪選んでたって話、こっちまで聞こえてきてんだよ!」
一ノ瀬の顔から血の気が引いていくのが分かった。
元町。指輪。
確かに先週、絵里奈に強引に誘われて元町へ行った。「妹のプレゼントを選んでほしい」と言われてジュエリーショップに入ったが、まさかそれがそんな風に噂されているとは。
「……誤解です。全部、誤解です!」
一ノ瀬は必死に訴えた。
「僕は川上さんとは何でもありません。婚約なんてありえない! ……南条さんは、それを信じてるんですか?」
「火のない所に煙は立たねえだろ。……いいか、これ以上南条を泣かせたら、俺が許さねえからな」
松浦はそう言い捨てて、給湯室を出て行った。
残された一ノ瀬は、壁に背中を預けてズルズルと座り込んだ。
なんてことだ。
自分の優柔不断な態度が、周囲に誤解を与え、一番大切な人を傷つけていたなんて。
「……南条さん」
彼女の冷たい態度の理由がようやく分かった。そして、自分がどれほど残酷なことをしていたかも。
一ノ瀬は拳を握りしめた。
このままでは終われない。誤解を解かなければ。
しかし、固く閉ざされた彩香の心を開くのは、容易なことではなさそうだった。
第8章:雨の日の残業
その日は、朝から激しい雨が降っていた。
六月の梅雨らしい、しとしとと降る雨ではない。バケツをひっくり返したような豪雨が、横浜の街を灰色に染めていた。
午後三時。彩香の部署に緊急の連絡が入った。
「おい、まずいぞ! 『ソリューション・ネクスト』との連携システム、データ不整合で止まったらしい!」
部長の怒声が響き渡る。
原因は、彩香の会社側で更新したデータ形式と、先方のシステム側の仕様が食い違っていたことによるエラーだった。明日朝一でリリース予定の重要な機能だ。今日中に修正しなければ、大損害になる。
「誰か、向こうの開発担当と連携して修正できる奴はいないか!?」
しかし、不運は重なるものだ。松浦は別の顧客とのトラブル対応で外出中、他のメンバーも手一杯だった。
彩香は手を挙げた。
「私がやります。仕様書は頭に入っていますし、データの中身も分かります」
「よし、頼む。先方の担当者は……一ノ瀬くんだそうだ」
彩香の心臓が大きく跳ねた。
一ノ瀬。今、一番会いたくない、でも会わずにはいられない人。
しかし、仕事だ。私情を挟んでいる場合ではない。彩香は覚悟を決め、ノートパソコンを抱えてタクシーに飛び乗った。
『ソリューション・ネクスト』のオフィスに着くと、フロアは殺伐としていた。
開発部のエリアに通されると、一ノ瀬がモニターに向かって鬼気迫る表情でキーボードを叩いていた。
「一ノ瀬さん」
彩香が声をかけると、彼は弾かれたように振り返った。その顔には、疲労の色と共に、安堵の色が浮かんだように見えた。
「南条さん……! 来てくれて助かりました」
「状況は?」
「かなりまずいです。でも、南条さんがこちらのデータに合わせて変換ロジックを修正してくれれば、なんとか間に合います」
「分かりました。やりましょう」
余計な会話は一切なかった。ただ、目の前のトラブルを解決することだけに集中する。
窓の外では雨が激しくガラスを叩いている。
時間が経つにつれ、他の社員たちは一人、また一人と帰宅していった。残っているのは、サーバー室の管理者と、開発フロアの隅で作業する彩香と一ノ瀬だけになった。
時計の針が二十三時を回った頃。
「……できた」
彩香が呟いた。
「こっちも修正完了です。テスト流します」
一ノ瀬がエンターキーを押す。画面上のステータスバーが進んでいく。
長い沈黙の後、『Success』の文字が表示された。
「よかった……」
彩香は大きく息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。緊張の糸が切れ、どっと疲れが押し寄せてくる。
「お疲れ様でした。本当に、南条さんがいてくれてよかった」
一ノ瀬の声が、静まり返ったオフィスに響いた。
彩香は彼の方を見ずに、荷物をまとめ始めた。
「いえ、私の確認不足もあったので。……それじゃあ、私はこれで」
逃げるように立ち上がる。これ以上、二人きりの空間に耐えられそうになかった。
「待ってください!」
一ノ瀬が立ち上がり、彩香の手首を掴んだ。
熱い。彼の手の温もりが、肌を通して伝わってくる。
「離してください」
「嫌です。離したら、また逃げるでしょう?」
いつもは穏やかな彼の、珍しく強い口調。
「南条さん、話を聞いてください。僕が、あなたを傷つけたことは分かっています。でも、誤解されたまま終わるのは耐えられない」
彩香は唇を噛み締め、彼を睨みつけた。
「誤解? 何が誤解なんですか。婚約者がいるのに、私に思わせぶりな態度をとって……弄ばないでください!」
溜め込んでいた感情が、涙となって溢れ出した。
「サナエが見たんです。元町で、絵里奈さんと指輪を選んでるところ! 楽しそうに腕組んで……社内でも公認なんでしょ? なのに、どうして私なんかに……っ」
一ノ瀬は驚いたように目を見開き、そして深く息を吐いた。
「やっぱり、そこだったんですね」
彼は掴んでいた手首を離し、代わりに彩香の肩を両手で掴んで、真っ直ぐに向き合わせた。
「聞いてください。あの指輪は、妹への誕生日プレゼントです。絵里奈……川上さんが『センスに自信がないなら選んであげる』って無理やりついてきただけで。腕を組んできたのも彼女が勝手にやったことで、僕は何度もほどこうとしました」
「……妹?」
「はい。来月二十歳になる妹です。嘘だと思うなら、今すぐ妹に電話します」
一ノ瀬の瞳は真剣そのものだった。嘘をついている人の目ではない。
「それに、婚約なんて根も葉もない噂です。川上さんには、今日きっぱりと言いました。『僕には好きな人がいるから、そういう対象としては見られない』って」
彩香の目から、また新しい涙がこぼれ落ちた。
好きな人。
「それって……」
一ノ瀬は少し照れくさそうに、でも力強く言った。
「僕が最初から見ているのは、南条さん、あなただけです。プレゼンで助けたのも、食事に誘ったのも、全部あなたが好きだからです。他の誰かなんて、目に入っていません」
直球の告白。
雨の音が遠のいていくようだった。
彩香の心の中にあった黒い塊が、彼の言葉の熱で溶かされていく。
「……本当に?」
「本当に。信じてくれませんか?」
彩香は涙を拭い、小さく頷いた。
「……バカ。信じられないくらい、不安だったんだから」
「ごめんなさい。僕が不甲斐ないせいで」
一ノ瀬はそっと彩香を引き寄せ、抱きしめた。
濡れたジャケットの匂いと、彼の体温。鼓動が直接伝わってくる距離。
オフィスの蛍光灯の下、窓の外は豪雨。ロマンチックとは程遠いシチュエーションだが、彩香にとっては人生で一番温かい瞬間だった。
「もう、どこにも行かないでくださいね」
耳元で囁かれた言葉に、彩香は一ノ瀬の背中に腕を回し、ギュッと力を込めて答えた。
雨はまだ降り続いていたが、二人の心には、ようやく晴れ間がのぞいていた。
しかし、物語はまだ終わらない。
二人の関係が修復されたことを知らない絵里奈と、彩香への想いを秘めた松浦。
それぞれの想いが交錯する中、物語は最終章へと向かっていく。
第9章:ライバルたちの撤退
雨の夜の告白から数日が過ぎた。
横浜の街は梅雨明けを予感させるような、湿り気を帯びた初夏の風が吹いていた。
雨上がりのアスファルトの匂いが、あの夜のオフィスの記憶を鮮明に蘇らせる。
彩香は通勤電車の中で、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。これまで幾度となく見てきた疲れたOLの顔ではない。口角が自然と上がり、目には柔らかな光が宿っている。
ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。一ノ瀬からのLINEだ。
『おはようございます。今日はプロジェクトの最終報告会ですね。終わったら少し時間ありますか?』
以前なら、「何かトラブルだろうか」「もしかしてキャンセル?」とネガティブな想像を膨らませていた文面。
けれど今の彩香には、その言葉の裏にある「会いたい」というサインが読み取れる気がした。
『おはようございます。はい、大丈夫です。楽しみにしています』
送信ボタンを押す指先が熱い。
信じられる人がいるということが、これほどまでに世界を鮮やかに変えるなんて。
しかし、浮かれてばかりもいられない。彩香には、まだ果たさなければならない大切なミッションが残されていた。
デスクに着くと、隣の席で松浦がブラックコーヒーを啜りながら渋い顔でモニターを睨んでいた。
「……おはようございます、松浦先輩」
彩香が声をかけると、松浦は顔を上げ、一瞬だけ彩香の瞳の奥を探るように見つめた。
「おう、おはよう。……なんか、吹っ切れた顔してるな」
「えっ、そうですか?」
「ああ。雨降って地固まる、ってやつか?」
松浦はニヤリと笑ったが、その笑顔の奥に一瞬だけ走った寂しさを、彩香は見逃さなかった。
彼は全部わかっているのだ。
彩香の胸がキュッと締め付けられる。この人の優しさに、どれだけ救われてきただろう。だからこそ、曖昧なままにしておいてはいけない。
「先輩、今日の夜、少しお時間いただけますか? ……ちゃんと、お話ししたいことがあって」
彩香は背筋を伸ばして言った。
松浦はコーヒーカップを置き、ふぅと息を吐いた。
「……分かった。焼き鳥屋でいいか? 高級な店だと、話が入ってこねえからな」
「はい、ぜひ」
約束は交わされた。それは、二人の関係に一つの区切りをつけるための儀式だった。
一方、同時刻。『ソリューション・ネクスト』の社内ラウンジ。
昼休み、一ノ瀬は絵里奈を呼び出していた。
明るい陽射しが差し込む窓際の席。絵里奈はキャラメルマキアートをストローでかき混ぜながら、上目遣いで一ノ瀬を見ていた。
「湊センパイ、どうしたんですか? こんな所に呼び出して。もしかして、デートのお誘い? みんな見てますよぉ」
彼女の声はいつも通り甘ったるいが、その視線は鋭く一ノ瀬を観察していた。
一ノ瀬は深く息を吸い込み、真っ直ぐに絵里奈を見据えた。
「川上さん。今日は、はっきりと伝えておきたいことがあって時間をもらいました」
「ん? なあに? 改まって」
「社内で流れている僕たちの噂のことです。……君が広めたと聞きました」
絵里奈の手が止まる。
「……誰ですか、そんなこと言ったの」
「誰かは関係ありません。ただ、事実は事実として訂正させてもらいます。僕は川上さんと付き合ってもいないし、婚約もしていません。これからも、そのつもりはありません」
一ノ瀬の言葉は、静かだが、氷のように冷たく鋭かった。普段の穏やかな「湊センパイ」からは想像もつかないほどの拒絶。
絵里奈は唇を尖らせ、キャラメルマキアートのカップを乱暴に置いた。
「どうしてですか? 私のどこがダメなんですか? 仕事だってできるし、見た目だって自信あります。社内でもみんなお似合いだって言ってるのに。……あの、ミスの多い取引先の地味な人がいいんですか?」
彼女の口から出た言葉に、一ノ瀬の目がすっと細められた。
「彼女のことを悪く言うのは許しません」
一ノ瀬の声のトーンが一段低くなる。
「おばさんじゃないし、地味でもない。彼女は、仕事に対して誰よりも誠実で、一生懸命で……僕が持っていない温かさを持っています。彼女といると、僕は無理をして背伸びしなくてもいい。ありのままの自分でいられるんです」
一ノ瀬は、雨の夜に抱きしめた彩香の体温を思い出していた。震えながらも自分を信じてくれた彼女の、あの芯の強さと脆さ。
「僕は、彼女を愛しています。だから、君の気持ちには応えられません」
決定的な言葉だった。
絵里奈はしばらく一ノ瀬を睨みつけていたが、やがてフイと視線を逸らし、窓の外を見た。
彼女の肩が小さく震えている。
「……ズルいですよ、センパイ」
小さな声だった。
「私だって、センパイの前では必死に背伸びしてたのに。完璧な自分でいなきゃって、頑張ってたのに。……そういうのが、ダメだったんですね」
絵里奈の声には、いつもの計算高さは消え、等身大の女性の悲しみが滲んでいた。彼女もまた、一ノ瀬に対して本気だったのだ。ただ、その表現方法が不器用すぎただけで。
「君は優秀で、魅力的です。それは間違いありません。だからこそ、こんな子供じみた真似はやめてほしい。君なら、もっと自然体でいられる相手が見つかるはずです」
一ノ瀬はハンカチを差し出そうとして、やめた。ここで優しさを見せることは、彼女のためにならない。
絵里奈は深呼吸をし、顔を上げた。その目元は赤かったが、表情にはプライド高い彼女らしい強気が戻っていた。
「……分かりましたよ。つまんないの」
彼女は立ち上がり、一ノ瀬を見下ろした。
「湊センパイなんて、くれてやります。……でも、仕事では負けませんからね! 今度のプロジェクト、私がエース取りますから!」
捨て台詞のように吐き捨てて去っていく彼女の背中を、一ノ瀬は黙って見送った。
それは、彼女なりの精一杯の「さよなら」だった。
その日の夜、二十時。
彩香は松浦と、会社近くの赤提灯が揺れる焼き鳥屋にいた。
あえて騒がしい店を選んだ。静かな店だと、涙がこぼれてしまいそうだったから。
乾杯のビールを半分ほど飲んだところで、彩香は意を決して切り出した。
「松浦先輩。この間のこと、きちんとお返事をさせてください」
松浦の手が止まった。焼き鳥の串を持ったまま、彩香を見る。
「……おう」
彼は察しているようだった。いつもの軽口は叩かず、静かに彩香の言葉を待ってくれている。
彩香は膝の上で拳を握りしめ、松浦の目を見て、はっきりと告げた。
「私、やっぱり一ノ瀬さんのことが好きです」
店内の喧騒が、一瞬遠のいた気がした。
「いろいろあって、誤解やすれ違いもありました。でも、昨日ちゃんと話して、彼の気持ちを聞くことができました。私には……彼しかいないんです」
一言一言、噛み締めるように伝えた。
松浦先輩の優しさには感謝している。新人の頃からずっと、彼が守ってくれたから今の自分がある。人間としても、男性としても尊敬している。
けれど、心が求めているのは、あの雨の夜に抱きしめてくれた一ノ瀬の温もりだけだった。
松浦はしばらく沈黙した後、ふっと口元を緩めた。
それは、諦めと、安堵と、そして深い愛情が混ざり合ったような、複雑な笑みだった。
「……そっか」
短い言葉だった。
彼は焼き鳥を皿に戻し、ジョッキに残ったビールを一気に煽った。
「まあ、薄々は気づいてたけどな。お前、あいつの話するときだけ顔が違うんだよ。……悔しいけど、完敗だ」
「先輩……」
「謝るなよ。振られた男が惨めになるだろ」
松浦は豪快に笑い飛ばそうとしたが、その声は少しだけ震えていた。
「あいつは、お前のこと大事にしてくれそうか?」
「はい。不器用ですけど、誠実な人です」
「なら、いい。……もしあいつがまたお前を泣かせるようなことがあったら、その時は遠慮なく俺に言え。殴り込みに行ってやるからよ」
「ふふ、お願いします。その時は、一番に先輩に頼ります」
彩香の目から、我慢していた涙がポロリとこぼれた。
罪悪感じゃない。これは、感謝の涙だ。
この先輩の下で働けてよかった。心からそう思った。
「よし! 湿っぽい話はこれで終わりだ! 今日は飲むぞ、南条! 明日の二日酔いは覚悟しとけよ! 俺の奢りだ!」
「はい! ありがとうございます!」
グラスがぶつかる音が、店内に響いた。
それは、二人の関係が「先輩と後輩」という、かけがえのない絆に新しく結び直された音だった。
店を出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。
駅の改札で松浦と別れた後、彩香は一人、夜の道を歩き始めた。
寂しさと、大きな仕事をやり遂げたような達成感。
胸いっぱいに空気を吸い込んだその時、スマートフォンが鳴った。
『一ノ瀬 湊』
画面に表示された名前に、彩香の心臓が甘く跳ねる。
「……もしもし」
「あ、南条さん。お疲れ様です。今、帰りですか?」
電話越しの彼の声は、柔らかく、どこまでも優しい。さっきまでの緊張が嘘のように解けていく。
「はい、今ちょうど駅に向かっているところです」
「よかった。あの、日曜日のことなんですけど……」
一ノ瀬の声が少し弾んでいるのが分かった。
「リベンジさせてください」
「リベンジ?」
「はい。この前のデートのリベンジです。今度こそ、誰にも邪魔されずに、あなたとゆっくり話がしたい。……伝えたい言葉があるんです」
伝えたい言葉。
その響きに、彩香は立ち止まり、夜空を見上げた。
雲の切れ間から、月が顔を覗かせている。
「場所は、大さん橋に行きませんか? 夕暮れから夜景に変わる、一番綺麗な時間帯に」
大さん橋。横浜でも屈指のデートスポットであり、恋人たちが愛を誓う場所。
それは、未来への招待状だった。
「はい。……楽しみにしています」
電話を切った後、彩香はスマートフォンを胸に抱きしめた。
雨は止んだ。
もう、迷わない。
障害はなくなった。あとは、自分の足で、彼のもとへ歩いていくだけだ。
彩香はカレンダーの日曜日の欄に、心の中で大きな花丸を描いた。
これまでのすべてのミステイクが、この日のためにあったのだと思えるような、最高の週末が待っている気がした。
第10章:大さん橋の誓い
七月。梅雨明けが発表されたその日、横浜の空は突き抜けるような青に覆われた。 湿度を含んだ重たい空気はなりを潜め、代わりに肌を刺すような強い日差しと、夏の始まりを告げる乾いた風が街を吹き抜けていく。
あの日、「File Not Found」という絶望的な文字列から始まったプロジェクトは、数々のトラブルと、それ以上のドラマを乗り越え、無事にリリースの日を迎えた。 クライアントである『ソリューション・ネクスト』と、彩香たちの会社による合同打ち上げパーティー。 会場となったのは、みなとみらいの海沿いにあるホテルのバンケットルームだ。
彩香は、シャンパングラスを片手に、少し離れた場所から会場の賑わいを眺めていた。 今日は、仕事用のスーツではない。淡いラベンダー色のドレスワンピースに、パールのネックレス。髪はハーフアップにして、いつもより少し華やかに装っている。 鏡の前で何度もチェックしたメイクは、照明の下で浮いていないだろうか。そんな些細な不安さえも、今日という日の高揚感の一部だった。
「お疲れ、南条。今日は一段と綺麗だな」 背後から声をかけられ、振り返ると松浦が立っていた。彼も今日はダークスーツで決めている。 「松浦先輩。ありがとうございます。先輩も、すごく素敵です」 「よせよ、照れるだろ」 松浦は鼻の下を擦りながら、グラスを掲げた。 「無事に終わってよかったな。お前の頑張りのおかげだよ」 「いえ、先輩のサポートがあったからです。……本当に、ありがとうございました」 彩香が深く頭を下げると、松浦は優しく微笑んだ。その瞳には、かつての熱っぽい感情ではなく、信頼できる同僚としての温かい光が宿っていた。 「ま、これからは俺の手を煩わせるなよ。……あっちで主役が待ってるぞ」 松浦が顎でしゃくった先。 会場の中心で、上司たちに囲まれている一ノ瀬の姿があった。 ネイビーのスリーピーススーツを完璧に着こなし、爽やかな笑顔で対応している。その姿は、遠目に見ても輝いて見えた。仕事ができる男の自信と、育ちの良さを感じさせる品格。 目が合った。 一ノ瀬は会話を続けながらも、一瞬だけ彩香に向けて柔らかく微笑み、小さく目配せをした。 ——あとで。 その合図だけで、彩香の胸は早鐘を打った。
パーティーの中盤、彩香はトイレに行くふりをして会場を抜け出した。 指定されたのは、ホテルのロビー階にあるテラスへの出口付近。 心臓が口から飛び出そうなほど緊張している。ヒールの音を忍ばせて向かうと、柱の陰に彼がいた。 「南条さん」 名前を呼ばれただけで、足の力が抜けそうになる。 「お待たせしました、一ノ瀬さん」 「いえ、僕も今抜けてきたところです。……そのドレス、すごく似合ってます。見惚れてしまいそうで、会場では目を合わせるのに必死でした」 彼は照れくさそうに頬をかいた。そんな少年のような表情を見せるのは、彩香の前だけだ。 「行きましょうか。風に当たりたい」 彼が差し出した手に、彩香はそっと自分の手を重ねた。 大きくて、温かい手。 もう、この手を離すことはない。そう確信できる強さで、彼は彩香の手を握り返した。
二人はタクシーに乗り込み、大さん橋へと向かった。 車窓を流れる横浜の夜景。コスモクロックのイルミネーションが、虹色に変化しながら輝いている。 車内では、他愛もない話をした。プロジェクトの裏話、部長のカラオケの十八番、最近見つけた美味しいカフェのこと。 けれど、繋がれた手と手からは、言葉以上の想いが伝わってくる。 互いの指を絡め合い、親指で相手の甲を撫でる。その触れ合いだけで、体温が一度上がったような気がした。
大さん橋国際客船ターミナル。 ウッドデッキの広大な屋上広場「くじらのせなか」には、海風が心地よく吹き抜けていた。 週末の夜ということもあり、カップルや観光客の姿も多い。けれど、広大なこの場所では、二人の世界に浸るのに十分な静けさがあった。 みなとみらいの全景が一望できる。ランドマークタワー、クイーンズスクエア、赤レンガ倉庫。海面に反射する光が、宝石箱をひっくり返したように揺らめいている。
「綺麗……」 彩香が思わず呟くと、隣に立った一ノ瀬が頷いた。 「ええ。横浜で一番好きな場所です。ここに来ると、素直になれる気がして」 二人は手すりに寄りかかり、しばらく無言で夜景を眺めた。 沈黙が怖くない。むしろ、波の音と風の音が、二人の鼓動のリズムに寄り添ってくれるようで心地よかった。
「南条さん」 一ノ瀬が静かに口を開いた。 「はい」 「あの日のこと、覚えていますか? プレゼンでエラーが出た日」 「忘れるわけないですよ。私の人生で一番冷や汗をかいた日ですから」 彩香が苦笑すると、一ノ瀬もクスクスと笑った。 「あの時、僕は驚いたんです。パニックになりながらも、必死に状況を打開しようとするあなたの姿に。諦めない強さと、仕事に対する真摯な姿勢。……一目で、惹かれました」 彩香は驚いて彼を見た。 ただのミスのフォローだと思っていた。同情だと思っていた。 それが、恋の始まりだったなんて。 「僕はずっと、効率や正解ばかりを求めて生きてきました。エラーは排除すべきもの、ミステイクは許されないもの。そう思っていた」 彼は海の方を見つめながら、言葉を選ぶように続けた。 「でも、あなたに出会って変わったんです。間違いから生まれる絆があること。カッコ悪くても、泥臭くても、一生懸命な姿がどれほど美しいかということ。……南条さんが、僕の世界に色を与えてくれました」
一ノ瀬が彩香の方に向き直る。 夜景の逆光で表情が見えにくい。けれど、その瞳だけは、星空よりも強く輝いて彩香を射抜いていた。 彼は、彩香のもう片方の手も取り、両手で包み込んだ。 「南条彩香さん」 フルネームで呼ばれ、背筋が伸びる。 「あなたの笑顔が好きです。美味しいものを食べて幸せそうにする顔も、仕事で悩んで眉間に皺を寄せている顔も、僕の冗談に呆れる顔も。……そして、僕のために流してくれた涙も」 彩香の目頭が熱くなる。 これまでの不安だった日々が、走馬灯のように駆け巡る。 絵里奈というライバルの存在に怯え、年齢や立場の違いに悩み、自分に自信が持てなくて逃げ出した夜。 それでも、彼を想う気持ちだけは手放せなかった。 「僕は、あなたと一緒なら、どんなエラーも笑い話に変えられる気がします。これからの人生、喜びも悲しみも、すべての瞬間をあなたと共有したい」
一ノ瀬は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。 そして、ジャケットの内ポケットから、小さなベルベットの箱を取り出した。 彩香の息が止まる。 彼がゆっくりと箱を開けると、月明かりの下、シンプルな一粒のダイヤモンドが清冽な輝きを放った。 「結婚してください。……僕の、生涯のパートナーになってくれませんか」
時が止まったようだった。 周囲の喧騒も、風の音も、すべてが遠のいていく。 世界には今、彼と私しかいない。 涙が溢れて、視界が滲む。ポロポロと零れ落ちる雫が、ドレスの胸元を濡らしていく。 彩香は震える唇を開いた。 「……はい」 声が裏返る。それでも、精一杯の想いを込めて。 「私で、いいんですか? ドジだし、年上だし、可愛げもないし……」 「あなたが『いい』んです。あなたじゃなきゃ、ダメなんです」 一ノ瀬は即答し、愛おしそうに目を細めた。 「それに、年上とか関係ないって言ったでしょう? 僕にとっては、あなたが世界で一番可愛くて、守りたい女性なんです」
彼は彩香の左手を取り、薬指に指輪を滑らせた。 サイズはぴったりだった。いつの間に調べたのだろう。そんな彼のスマートさと、隠れた努力にまた胸が熱くなる。 指輪が収まった瞬間、彩香の体の中に一本の芯が通ったような気がした。 私はもう、一人じゃない。 この人と生きていくんだ。
「ありがとうございます……湊さん」 初めて名前で呼んだ。 彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに破顔した。その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも無防備で、幸せに満ちていた。 「やっと名前で呼んでくれた」 彼は彩香の腰に腕を回し、引き寄せた。 抵抗なんてしない。彩香も彼の首に腕を回し、背伸びをした。 近づく唇。 彼の吐息が頬にかかる。 触れるか触れないかの距離で、彼が囁いた。 「愛しています、彩香」 「私も……愛しています」
重なる唇。 それは、映画のようにドラマチックで、でも現実の温もりを持った、甘く優しいキスだった。 海風が二人を包み込む。 遠くで汽笛が鳴った。まるで二人の門出を祝福するかのように。
長いキスの後、彼は額を彩香の額に押し付けたまま、クスクスと笑った。 「どうしたの?」 「いや、なんか……幸せすぎて、バグりそうです」 「ふふっ、IT企業の人っぽい」 彩香も笑った。涙で濡れた頬を、彼が親指で優しく拭ってくれる。
「ねえ、彩香」 「ん?」 「あのエラーの日、ファイルが見つからなくて本当によかった」 彼は真面目な顔で言った。 「もしあのままスムーズにプレゼンが終わっていたら、ただの取引先の人で終わっていたかもしれない。あのミステイクが、僕たちを出会わせてくれた」 彩香は胸がいっぱいになり、彼の胸に顔を埋めた。 そう。人生には予期せぬエラーがたくさんある。 思い通りにいかないこと、失敗すること、傷つくこと。 でも、その先にはきっと、想像もしなかった素敵な未来が待っている。 「ミステイク」は失敗じゃない。恋が芽吹くための、種だったのだ。
横浜の夜景を背に、二人は再び歩き出した。 繋いだ手は、もう離さない。 ウッドデッキの足音が、二人の未来へのリズムを刻んでいく。
「これからのことなんだけど」 湊が歩きながら話し出す。 「式は挙げたい? それともハネムーンを豪華にする?」 「うーん、迷うなぁ。でも、横浜が見える場所がいいな」 「いいね。じゃあ、まずは住む場所から探そうか。僕のマンションでもいいけど、もう少し広いところがいいよね」 「キッチンが広いと嬉しいな。湊さんに美味しいもの、たくさん作りたいから」 「楽しみだなぁ。あ、僕も料理覚えるよ。オイスターバーごっこもしよう」
尽きない会話。広がる未来図。 二十七歳。 周りの結婚ラッシュに焦り、仕事に生きがいを見出しながらも、心のどこかで寂しさを抱えていたあの日々は、もう過去のものだ。 隣には、最愛の人がいる。 それだけで、明日がこんなにも楽しみになるなんて知らなかった。
大さん橋の先端まで歩いた二人は、もう一度振り返り、光り輝くみなとみらいの街を見た。 ここが、私たちの始まりの場所。 そして、これからもずっと、私たちの物語を見守ってくれる場所。
「帰ろうか、彩香」 「うん、帰ろう。湊さん」
二人の影が、月明かりの下で一つに重なる。 横浜の海風は、季節によってその香りを変える。 今の風は、甘く、温かく、そして永遠の愛の香りがした。
私たちの恋は、ミステイクから始まった。 そして、最高の運命になった。




