クロと、なくしたボタン
その日の午後は、朝からずっと雨が降っていた。
しとしと、ぽつぽつ。窓の外の世界は灰色のレースに包まれたように静かだった。
志村ねねは、長靴のまま玄関に立っていた。
両腕には、小さなうさぎのぬいぐるみ。名前は「もこ」。
園の帰り道、濡れないようにタオルで包んで抱えてきた。
「……もこ、だいじょうぶ?」
ねねは小さな手でそっとタオルを開いた。
茶色のふわふわの毛並み。
丸い耳。
でも、胸のところに、ぽっかりと穴が空いていた。
そこにあったはずの、白いボタンがなくなっている。
「……あっ」
ねねの目が見開かれる。
「うわあ……もこ、かわいそう……」
声が震え、次の瞬間、ぽろぽろと涙がこぼれた。
(あーあ、やっぱり泣いた)
髪の中にかくれていた黒いもふもふ、クロが、ぴょんと飛び降りた。
机の上からその様子を見ていたミドリとピンも顔を見合わせる。
「クロ、どうするの?」
ミドリが心配そうに言う。
「ねね、泣いてるよ……」
ピンがそっともふもふを寄せる。
クロは腕を組みながら、ちょっとため息をついた。
「まったく、ぬいぐるみのボタンひとつで、世界が終わったみてぇな顔してんな……」
でも、その声にはやさしさがにじんでいた。
夜になっても雨は止まなかった。
ぽつん、ぽつんと窓を叩く雨の音。
部屋の中は、ねねの寝息と、時計の針の音だけが静かに響いていた。
ねねの枕元には、もこが横たわっている。
胸のボタンが取れたままの姿で。
クロはそっと近づいて、その小さな胸元をじっと見つめた。
床の上には、白いボタンが転がっている。
「……さて、どうすっかな」
クロは腕をまくるようにして、ボタンを拾い上げた。
手の中で、ころりと小さく光る。
その光が、どこか泣いているように見えた。
「これ、縫い直せばいいんだよね?」
ピンが首をかしげる。
「でも……ねねのおさいほうばこ、どこにも見当たらないよ?」
ミドリが部屋を見回す。
クロは「やっぱりか」と小さくうなった。
少し前、ねねのお裁縫箱は引き出しの奥にしまわれたままだったが、おかあさんが「針は危ないからね」と言って、別の場所に片づけたのだ。
それ以来、ねねの部屋で針を使えなくなった。
「針も糸もねぇ……」
クロはボタンを見つめて唸る。
「それじゃ、くっつけられないじゃない」
ピンが心配そうに言う。
「ねね、あしたになったら、また泣いちゃうよ……」
クロはしばらく黙っていた。
窓の外の雨音が、静かに流れていく。
やがて、クロが小さく笑った。
「なに、糸がねぇなら、オレがやりゃいい」
「え?」
ミドリが目を丸くする。
「まさか、クロ……まほう?」
「ちょっとだけな」
クロは不器用な手で、もこの胸にボタンをそっと置いた。
そして、自分の胸のあたりの毛を、指先でなでる。
黒いもふもふの毛が、淡く光を帯びた。
「“くろのちから”……おまえに、ぬくもりを」
クロが低くつぶやくと、ボタンがふわりと宙に浮かび上がった。
そして、まるで見えない糸で縫われるように、もこの胸に吸いこまれていく。
光がひとすじ、ボタンのまわりを走った。
ピンが息をのむ。
「……きれい……」
ミドリがそっと微笑んだ。
「クロ、やさしいね」
クロは少し照れくさそうに頭をかいた。
「うるせぇ。別に、ねねが泣かねぇようにしただけだ」
そのとき、寝返りをうったねねが、小さくつぶやいた。
「……もこ、だいじょうぶ……?」
その声に、クロたちは一瞬、動きを止めた。
でも、ねねはまたすぐに静かに眠りに戻る。
クロは安堵の息をもらした。
「……よし、完了だ」
翌朝。
窓の外には、雨上がりの空が広がっていた。
雲の切れ間から光が差し込み、部屋の空気がやわらかく透きとおっている。
ねねは目をこすりながら起き上がった。
枕元を見て、目をぱちくり。
「……あれ?」
ぬいぐるみのもこが、にっこりと笑っていた。
胸のボタンが、ちゃんとついている。
しかも、前よりも少し、つやつやして見える。
「もこ、なおってる……!」
ねねは目を輝かせて、もこをぎゅっと抱きしめた。
「よかったね、もこ。もう、いたくないね」
ピンがねねの髪の上でくすくす笑う。
(クロ、やったね)
(ふん……当然だ)クロが少し照れながら毛を膨らませる。
ミドリがそっとつぶやく。
(ねねの笑顔、いちばんのごほうびだね)
朝ごはんのあと。
ねねはもこをリュックに入れて、幼稚園に行く準備をしていた。
「ねね、もこも連れていくの?」
おかあさんが笑う。
「うん! もこ、きょうはちゃんとボタンあるんだもん!」
「そう。よかったね」
おかあさんの声もやさしくて、部屋の中に小さな虹がかかったようだった。
玄関で靴を履くねねの背中を見ながら、クロはぽつりとつぶやく。
「ボタンひとつで、あんなに笑うんだな」
ピンが頷く。
「ね、すごいよね。小さなものが、しあわせを連れてくるの」
「まるで、わたしたちみたいだね」
ミドリが微笑む。
クロはそっと窓の外の光を見上げた。
「ボタンひとつで、世界はちょっと変わる……そういうの、悪くねぇな」
その夜。
ねねが眠ったあと、机の上で三匹が集まった。
ピンがぽつんと尋ねた。
「ねえ、クロ。あの“くろのちから”って、どんな感じなの?」
「ん? まあ……少し冷たいけど、あったかい、みたいなもんだ」
クロは言葉を探すようにして笑った。
「暗い夜でも、光るための“黒”っていうか……誰かのために使えば、ちゃんとやわらかくなる」
ミドリが目を細めた。
「クロ、すごいね」
「へっ、オレはただのもふもふだよ」
クロは肩をすくめる。
「でもな……“泣いてるやつを放っとけねぇ”ってのが、オレの流儀だ」
ピンとミドリは顔を見合わせて笑った。
窓の外では、雨上がりの星がまたたいていた。
ねねの寝顔の横で、もこのボタンが月明かりを反射して、ちいさく光った。
ボタンは、ただのボタン。
でも、それは、ねねの「やさしさ」をつなぐものでもあった。
針も糸もなくても、ぬいぐるみの胸には、ちゃんと“だいじに思う心”が縫い込まれている。
クロはそのことを、誰よりも知っていた。
(おやすみ、ねね。おやすみ、もこ)
静かな夜。
ねねの寝息といっしょに、クロの黒い毛が月の光をやさしく受けて揺れた。
そして今日も、もふもふたちはねねのそばで、こっそりと小さなまほうを灯していた。




