命の査定
世界でも指折りの大富豪、イワタ・ゲンゴウが脳死と診断された。人類はすでに老化の不可逆性を克服し、恒久的なナノデバイスによる生体機能の代行が常識となった。医学的な多くの課題は過去のものとした現代においてもなお、『人の死』は、今だ克服できていない神の定めた法則だった。
誰もが無理だと断じた。法的に「人の死」が宣告されたにもかかわらず、彼の遺族は莫大な資産を差し出し、「誰でもいい、イワタを蘇らせてくれ」と泣き叫んだ。
そんな狂騒のさなか、一人の男が立ち上がった。キタムラ・シンジ。折り目は鋭く、皺一つないスーツ姿の彼は、イワタの古くからの生命保険の顧客担当だった。
友人のサエキは、彼を見てあきれ果てた。
「おい、シンジ。安っぽいヒューマニズムにでも目覚めたか? それとも、生き返らせて小金でもせびるつもりか?」
シンジは眼鏡を押し上げ、冷たく言い放った。「小金ではない。これはビジネスだ」
シンジは、病院の待合室の片隅で、難解な専門書を広げた。そのタイトルは『ネクローシスの不可逆性とその熱力学的超安定化因子に関する考察』や、『デジタル・ヒューマン・シミュレーションにおける思考の連続性』といった、読者を置き去りにする専門的なものばかりだった。
イワタの莫大な資金が投入され、医療の最前線が動き出した。
著名な再生医療の研究者たちは、イワタの体にバイオ・シンクロニック・レギュレーター(BSR)と呼ばれる自己複製型ナノデバイスを導入し、不可逆的な時間の概念に逆行する熱力学的超安定化因子を試みた。しかし、脳細胞の生化学的なエントロピーは逆転できず、脳の機能が戻る兆しはない。それでもBSRは心臓、肺、その他の主要臓器の生命活動を、外部の生命維持装置なしに完全に自律維持することに成功しており、その設計寿命は理論上、永久的な機能継続を謳っていた。
一方、最高のコンピュータ技術者たちは、量子計算を応用したニューラル・シミュレーターを構築し、思考の連続性という概念的完全性の再現を試みたが、倫理的・技術的な壁に阻まれた。人類の英知は、神の定めた法則の前で敗北した。
莫大な資産と遺族の絶望は、正統な科学の限界を超え、奇妙な専門家たちをも呼び寄せた。病室には、「魂の呼び出し」を試みる霊媒師マダム・キサラの甲高い声が響き、家族の断ち切れない最後の希望を無益に刺激した。また、「宇宙の生命エネルギー」の注入を試みる気功師が、イワタに向かい数時間奇妙なポーズを取り続けたが、何の反応もなかった。遺族は、「命の価値を金で買っているのではない。これが、私たちに残された命の査定なのです」と、憔悴しきった表情で最後の望みを絞り出した。
数年後、誰もが諦め、イワタ氏の運命すら世間から忘れ去られた頃、シンジは静かに立ち上がった。彼の眼鏡の奥の瞳は、これまで学習してきた冷徹な論理で満たされていた。
真紅の絨毯が敷かれた厳粛な法廷。天井高く吊るされた木製の重厚な飾りが、議論の重さを物語っていた。シンジは傍聴席をちらとも見ず、自ら提訴した戦場へと向かった。
シンジが提訴したのは、「脳死の定義」という、国家の法制度の根幹だった。
法廷に立ったシンジは、豪華な弁護団に囲まれた遺族側と対峙し、口頭弁論を開始した。
「日本の法律において、『脳死をもって人の死とする』唯一絶対の一般条文は存在しません。臓器移植を目的としない限り、脳死は法的な死ではないのです。これは法的な空白地帯です」
彼の論理は、臓器移植法という特例法の隙間を突き、『医学的な事実』ではなく、『言葉の解釈』に議論の焦点を絞っていた。シンジの主張は、「心臓が動いている限り死ではない」という、かつての原則への回帰を突きつけ、現代の通説を否定することにあった。
遺族側の弁護団がすぐさま反論の声を上げた。「外部の支援を受けた生命維持など、とうの昔に判例が出ている。その主張は、もはや審議され尽くされた定説だ!」
シンジは冷静に眼鏡を押し上げ、切り返した。「原告が争うこの特定の部分、すなわち『脳死でありながら、外部機器なしに主要な生命活動を継続している自立維持状態』については、いまだ最高裁判例はありません」
シンジは畳み掛けるようにつづけた。「イワタ氏の身体に導入されたバイオ・シンクロニック・レギュレーターは、外部機器ではない。これは生体のシステムの一部として組み込まれた自律的な機能代行装置です。もはやイワタ氏は『テクノロジーによって機能が補完された、自立維持型生命体』と解釈すべきです。外部の支援に依存しているという旧来の論理は、この技術的進歩によって崩壊した!」
シンジは、「生命活動の継続中は『生』の延長線である」という古い解釈を、BSRによる自律維持という新しい技術的条件で再定義し、その有効性を法的に回復させた。
最終的な判決は、シンジの訴えを認めた。
裁判所は、「『イワタ氏の身体が継続して生命活動を維持し得る限り』、法律上、その身体を『死』と確定させることはできない」という、極めて限定的だが、画期的な解釈変更を下した。
イワタは意識を取り戻すことなく、法律上の「生者」として蘇った。
判決を聞き、裁判所から出てきたシンジを、かつての友人サエキが待ち伏せていた。
「やったな、シンジ。見事生き返らせたか。だが、ただの言葉遊びで何も事態は変わってない。遺族は、『命の査定』のために注ぎ込んだ希望が、たった今、法廷で否定されたのだぞ」
シンジは立ち止まり、眼鏡を押し上げた。
「これでいいのさ。あの大金持ちは俺の顧客だ」
シンジはスーツのポケットから生命保険の契約書を取り出し、その表紙を指で叩いた。
「死んだことになれば、莫大な保険金を保険会社が支払わなくちゃならない。そうなれば、その損失の責任は、顧客の死を防げなかった担当者である俺の査定に響くからな」
シンジは契約書をポケットに戻しすと、口元を上げた。
サエキがシンジに尋ねた。
「なあ、イワタ氏は、一体いつまで生き続けるんだ?」
シンジは興味なさげに答えた。
「さあな。まあ、いつまでも死なないのなら、うちの会社が儲かり続けるだけだがね」
彼は、大いに満足した笑みを浮かべた。




