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第五章 神の果実を探して


 二月の雨は冷たく、雪のように凍える寒さを与える。

 道行く人々の息は白く、色とりどりの傘と重なって、立ち込める白い靄とカラフル

な色彩が対照を成す。

 雪矢が出かけてから二ヶ月が経過した。

「衣緒里。元気ないな。何かあったのか?」

 晴臣が学校の自席でぼうっとしている衣緒里に話しかける。

「もしかして、……その、舞台でのことを気にしているんなら、悪かった。今更で申

し訳ないけれど」

 学園祭の舞台上でキスをされたことを言っているのだろう。衣緒里は一瞬、ポカンとしたが、そのことなら気にしないでと軽くあしらった。今は雪矢の不在の方が心を占めているのである。

「お白様、また出かけているんだ」

 衣緒里は呟いた。

「え、また?神様ってのは仕事が多いんだな」

 晴臣は事情を何も知らない。

「今回は仕事じゃないの。私の寿命を延ばすために、黄泉の国に行っているの」

 衣緒里は今までの経緯を説明した。

「つまり、衣緒里が高校を卒業する頃まで帰ってこない、と?」

「うん」

「衣緒里は寿命を延ばしたいのか?」

 率直な質問に衣緒里は戸惑った。

「分からない。雪矢さんとは一緒に居たいとは思う。雪矢さんが長く私と居たいと言

うなら、叶えてあげたいとも思うけど……」

「けど?」

 晴臣は衣緒里の本心がどこにあるのか探る。

「けど、ただの人間が寿命を延ばすのは、何か違う気がする」

「衣緒里はもうただの人間ではないんだろう? 悔しいけど、神様の伴侶だ」

「そう言われても……」

 神様の伴侶だと言われても、衣緒里にはピンとこなかった。

 好きになった人がたまたま神様で、その人から求婚されたから受け入れた。それだ

けのことだと思っていた。なのに。

「まあ、雪矢さんが帰ってくるまでかなり時間があるし、その間にどうしたいのか考

えればいいんじゃないかな」

 晴臣は衣緒里の背中を軽く叩いて励ました。


 学校から神社に帰宅すると、お白様に化けたコンと狛犬の姿のままのアカが出迎え

てくれた。雪矢が帰るまで、衣緒里は実家に戻らず神社で過ごして待つことに決めたのだ。

「ただいま、コン、アカ」

「おかえりなさい、衣緒里」

「今日も雪矢から音信があったぞ」

 衣緒里は毎日、雪矢から寄せられる音信を心待ちにしている。

 音信は手紙の形をして届けられるが、読んだら一瞬にして消えてしまう。黄泉の国からの届け物は長い間、形を留めるのが難しいらしい。更に残念なことは、手紙は一方通行で、衣緒里からは送る手段がないことだ。

 衣緒里はコンから手渡された和紙をそっと開く。


 衣緒里

 今日も1日、息災に過ごせましたか?

 学校ではそろそろテストの時期が近づいているのではないでしょうか。

 僕は今日、黄泉の国の地獄谷というところを超えました。


 ここは温泉が沢山出ていてとても気持ちの良い場所です。衣緒里と一緒に来られた

ら良かったね。

 明日は山を超えて不束村へ向かいます。この村に神の果実のヒントがあるそうです。

 

 今日も一日、お疲れ様。また明日、お便りを出します。それまで元気で過ごして。

 雪矢


 どうやら雪矢さんは元気に今日も過ごしているらしいーー。

 それを知って衣緒里はほっと安堵のため息をついた。それと同時に、昼間、晴臣と会話した内容を思い出した。

 私は、人間の寿命以上の長寿は望んでいない。雪矢さんの望みとは相反するけれど……。

「衣緒里、元気なさそうだワね」

 アカが顔を俯かせた衣緒里を心配そうに覗き込む。

「雪矢に会えなくて寂しくなったのか?」

 コンが少し茶化して聞いた。

「……私、雪矢さんを追いかける」

『えっ?』

 アカとコンは突然の発言に同時に聞き返した。

「私、人間として普通の一生を送りたい。神の果実は必要ないって、雪矢さんに伝え

なきゃ」

 衣緒里は決心した。

 だが、そうは言っても、天界への行き方が分からない。

 神社の鏡の中の森は天界に繋がっているはずだが、ここから行けるのだろうか。ましてや雪矢が出かけたのは黄泉の国である。それがどこにあるのか、衣緒里にはさっぱり検討も付かなかった。

「それなら俺が手伝ってやろうか」

 地に響く野太い声に顔を上げると、見覚えのある顔がニヤリと笑ってリビングの入り口に立っていた。サルタヒコだ。

「タカミムスビに会いに来たら不在だったなんてな。ところで俺なら黄泉の国のタカミムスビのいるところまで、おまえさんを送り届けてやれるぞ」

「送り届けるって、どうやって?」

 サルタヒコはニヤリと笑うと、側にあった椅子にでんと座って脚を組んだ。

「簡単さ。俺は先導の神だ。俺なら黄泉までひとっ飛びさ」

衣緒里は逡巡した。知り合って間もないというのに、この男にそんなことを頼んで良いものなのだろうか。何の見返りもなくそんなことをしてもらう道理がない。

「黄泉の国まで送ってもらう代わりに、私に何かできることはありますか?」

 恐る恐る、思い切って聞いてみる。

 するとサルタヒコはフフンと鼻で笑うと、手を伸ばし衣緒里の手を取ってその指で弄んだ。

「そんなに警戒しなさんなって。俺はあんたが気に入ってるんだ。見返りなんか考えなくていい」

「そういうわけには……」

どうにも胡散臭いこの男を、衣緒里は信じることができない。

「そうだな。では」

 サルタヒコは衣緒里の腕を掴むと引き寄せ、自分の膝の上に座らせた。衣緒里がきゃっと小さく声を出す。そのままサルタヒコは顔を近づけ、衣緒里の頬に唇で軽く触れる。

「先に礼はもらったぞ」

 サルタヒコはケタケタと楽しそうに笑う。

 衣緒里はキスされた頬に手を添えて怪訝な目線をサルタヒコに向けた。コンとアカはヒヤヒヤしながら二人の会話を聞いていた。雪矢に見つかったらどんな反応をするか目に見えている。

「よし、じゃあ出発しよう。まずは天界に行って黄泉の国の入り口まで行こう」

「アカ、コン、留守番をお願いね」

 衣緒里は二匹の首周りを抱いてしばらくのお別れを惜しんだ。

 

衣緒里とサルタヒコは天界の神々が集まる神殿に来ていた。

「じゃあ早速出発と行こうぜ」

 サルタヒコが船のような乗り物を用意する。

「これに乗って行くんだ。さあ、衣緒里、気をつけて乗って」

 衣緒里が船を恐る恐るまたいで乗ると、サルタヒコは先端に立った。

「スピードを出すからな、落ちぬよう捕まっておれ」

 サルタヒコは天界の更に上空に船を走らせた。色とりどりの花畑やシラユキゲシの群生地が目下に見える。

「わぁ、すごい。天界を旅しているみたい」

 衣緒里は感嘆の声を出す。花畑の次は紅矢の離宮の上を通る。バラ園が見事な花を咲かせており、薔薇の花の甘い香りが鼻腔をくすぐる。更に先に進むと、森林が見えてきた。川がせせらいでいる。アマテラスの天の岩戸があるあたりだ。

 天の岩戸を通り過ぎると草原が見えて来た。

「このあたりは?」

 衣緒里は来たことのない領域に戸惑い始める。

「黄泉の国に通じる洞窟が、この草原を抜けたところにあるんだ」

 草原には何もなかった。平坦な土地にただ短い草が生えて、どこからか吹く風にたなびいている。草原のずっと先に目を凝らすと、岩場のようなものが見えて来た。洞窟のあるところなのだろうか。

 船は草原を越えて、岩場の前で止まった。

「ここが黄泉の国の入り口だ」

 サルタヒコは船から降りると、洞窟の前まで衣緒里を案内した。

「さて、お嬢さん。本当に黄泉の国に足を踏み入れるかい? 引き返すなら今のうちだぞ?」

 サルタヒコに念を押されるまでもなく、衣緒里の心は決まっていた。衣緒里は洞窟に一歩、足を踏み入れた。中は暗く、奥から冷たい風が吹き抜ける。

 風に抗いながら強引に中へと進むと、二十メートルほど行った先に泉があった。泉の上からは光が差し込み、水面が揺れているのが見えた。

「ここは『真実の泉』だ」

 サルタヒコが説明する。黄泉の国を支配するイザナミは偽りの姿でこの国にやってくることを嫌がる。だから入り口にこの泉を設けて、やってきたものの本当の姿を確かめる。

「つまり、私たちは大丈夫ということね」

 衣緒里は泉の水面を覗き込んだ。ゆらゆら揺れる水面に自分の顔が歪んで映る。

 サルタヒコものぞく。彼がのぞくと水面が凪ぎ、化け物のような姿が映った。衣緒里はあっと小さく声を出した。口は真っ赤で鼻が長く、目が鏡のようにギラギラと輝いている。体つきも大きい。衣緒里は一瞬、怯んだ。怪訝な顔をしてサルタヒコを見る。

「俺の本来の姿はコイツなんだよ。今は衣緒里に合わせて人間の姿をしているがな」

 ふうんと衣緒里が鼻を鳴らす。それでは雪矢さんはどんな姿が映ったのだろうと興味が湧いた。

「さあ、足を止めている暇はないぞ。進もう」

「進むって、ここは泉で行き止まりじゃない」

「だから、泉に飛び込むんだよ」

 ええっと驚愕の声をあげた衣緒里だが、先に飛び込むサルタヒコを見て、自分も意を決して飛び込んだ。

 泉は深かった。下へ下へと潜る。だが不思議なことに、下に進めば進むほど、空の景色が濃く深くなっていく。

 衣緒里はサルタヒコの方を見た。サルタヒコは慣れているとでも言うかのようにどんどん進んでいく。

 次第に水は薄くなり、空気の層が分厚くなってきた。呼吸をしてみると、苦しくない。サルタヒコが止まったので、衣緒里も止まった。

「ここは泉の中なの? 呼吸ができるなんてどこに繋がっているの?」

 衣緒里は辺りを見回したが、周りには空の景色しかない。雲があちこちに散乱している。上空は晴れていて清々しいが、地上に行くほど分厚い雲に覆われている。

「ここは黄泉の国の空だよ」

 サルタヒコはなんでもないことのように言う。衣緒里はふと、サルタヒコはここに来たことがあるのではないかと勘繰った。

「ねえ」

「あっ、地上が見えるだろう。早く行こう」

 サルタヒコに聞いてみようと思ったが、衣緒里は後回しにすることにした。今は早く雪矢のところに追いつくのが先だ。雪矢は地獄谷を越えて不束村にやって来ていると手紙で知らせてくれた。そこに追いつくまで、一体どのくらいの日数がかかるのか。

「地上に着いたら、不束村までの道のりを聞かないと」

「なんだ、不束村まで行くのか? 結構遠いぞ」

 二人は空を泳ぎながら地上を目指す。ふわふわと浮いた身体は風に乗って流されていく。

「衣緒里。とっておきの秘密道具があるぞ」

 サルタヒコは自分の髪を掻きやると、栗色の髪の毛を数本抜いた。

「俺の髪の毛に息を吹きかけて飛ばせば、行きたい場所までひとっ飛びできる」

「ひとっ飛び?」

「そうさ。本来なら何週間もかかる道のりを一瞬で行くことができる」

「そんな便利なものを私のために使ってもいいの?」

 サルタヒコは目を細めて衣緒里を見る。衣緒里の手を取ると、手の甲に唇を寄せた。上目遣いで覗き込む瞳はどこか熱っぽい。

「いいさ。俺はあんたが気に入ってるんだ」

 サルタヒコは衣緒里の肩を掴んで、くれぐれも離れないでと念を押して、栗色の髪の毛を口元に持っていき、ふっと吹き飛ばした。すると周りの景色が早回しのようにぐるぐると回転する。衣緒里と武尊は回転の波に乗って、そのまま不束村まで飛ばされた。


「ここが不束村のようだな」

 不束村は雨だった。土砂降りの雨が衣緒里とサルタヒコをびしょ濡れにする。

「おっと、こいつはいけない。どこかで雨宿りしよう」

 サルタヒコが側にあった宿屋の軒先に移動する。雨は止みそうにない。

「なあ、嬢ちゃん。雪矢のこと、そんなに好きなのか? こんなところにまで追っかけてくるほどに」

 サルタヒコが唐突にそんなことを聞いてきた。衣緒里はサルタヒコの目を見ると、何も言わずにこくんと頷く。

「そうか。神と人間の娘。障害は多いが、うまく行くといいな」

 衣緒里の頭をポンと叩く。

「俺、嬢ちゃんのこと結構気に入ってんだ。応援するよ」

 サルタヒコは優しい瞳で衣緒里を見下ろした。

「ありがとう」

 衣緒里は素直にお礼を言った。 

 雨が小振りになる頃、宿屋の中から外へ出かける人がまばらに出てきた。どれも皆神様なのだろうか。人の姿をした者は少なく獣や化け物の姿が目立つ。

「あれは皆、神様達だよ。姿も様々で面白いだろう?」

 サルタヒコが教えてくれる。

 と、そこに、人の姿をした、一際美しい人影が現れた。長い銀髪が揺らめいている。

「雪矢さん!?」

 衣緒里はその人影に駆け寄った。振り向いた人影は驚きの表情を隠さなかった。

「衣緒里!」

 それが衣緒里だと認めるや否や、雪矢は衣緒里を抱きしめた。

「何ヶ月ぶりだろう。懐かしいな」

 雪矢は衣緒里の頭の横にキスをして髪の匂いを嗅ぐ。

「雪矢さん無事だったのね。よかった」

 衣緒里も雪矢を抱きしめる。久しぶりの逢瀬を噛みしめるように。

「サルタヒコさんに連れてきて貰ったの」

「サルタヒコに?」 

 雪矢はサルタヒコを見た。途端に、雪矢の顔が険しくなる。

「サルタヒコ。ここまで衣緒里を連れてきてくれたことには感謝する。だが……」

「だが、素直に喜べないんだろう?」

「ああ。おまえが対価なしに動くとは思えない。求めるものはなんだ?」

「俺を業突く張りのように言いなさんな。だがそうだな、対価ならもう衣緒里から貰っている」

「衣緒里から……?」

 雪矢は嫌な予感がした。

「衣緒里に何を貰ったと言うんだ?」

「そりゃあ、乙女の大切なものさ」

「な」

 雪矢はそれ以上、言葉を継げなかった。代わりに衣緒里に向き直ると、問い詰める。

「衣緒里……サルタヒコに対価として何をやったんだ?」

「何って、サルタヒコさんが私の」

「まぁまぁ、いいじゃないか。俺が何を貰おうと」

 サルタヒコは話を遮った。雪矢に誤解させたままの方が面白そうだと思ったのだ。

「とにかく、俺は確かに衣緒里を雪矢のところまで送り届けたぞ。道中楽しかったな」

 衣緒里のおでこにチュッとキスをした。祝福のキスだ。

「雪矢とうまくやれよ!」

 そう言ってサルタヒコは元来た道を去って行った。


 雪矢は不機嫌だった。

 衣緒里がサルタヒコに対価として与えたものが何なのか、気になって仕方ないのだ。だが、衣緒里に直接聞くのも憚られた。サルタヒコは乙女の大切なもの、と言いおったのだ。

「雪矢さん?」

 悶々とする雪矢に声をかける衣緒里。

「神の果実のことで話があるの」

 衣緒里の真剣な表情に、雪矢も向き直った。

「ここでは雨が降っていて寒いだろう。中にお入り」

 雪矢は自分が泊まっている宿の部屋へ案内してくれた。

 宿泊所は簡素な作りだった。六畳一間の畳敷の部屋だ。押し入れが一つ付いている。煎餅布団の他には何もない。

「むさ苦しいところで申し訳ないけれど」

 雪矢はそう言って笑った。押し入れから座布団を引っ張り出して衣緒里に勧める。

「それで、話って?」

 目は笑っているが、その瞳の奥は真剣な眼差しが宿っている。大切な話だ。

「うん。あのね、雪矢さん。私、やっぱり寿命を伸ばしたいと思わない。自分の与えられた寿命だけで充分なの。雪矢さんには申し訳ないけれど……」

 雪矢はしばらく何も言わなかった。それからふうーっと長いため息をついた。そうして

「そうか」

 とだけ言って、長い間、窓の外を眺めた。

 しばらくの間、沈黙が降りた。雨がザブザブと地面を濡らす、その音だけが響き渡る。

 沈黙を破ったのは雪矢だった。

「実はね、神の果実はもう手に入れたんだ。思ったよりも早く手に入れることができた。ただ」

「ただ?」

「果実を持ち帰るにはイザナミの許しが必要で。そのために舞を奉納する約束があるんだ」

「舞を?」

「衣緒里が神の果実を必要としない以上、持って帰っても仕方ないものだけど、約束は約束だからね。この雨が上がったら僕はイザナミに向けて舞を舞うよ」

 雪矢は舞の一部を真似て見せてくれた。それはそれは美しい所作だった。


 雨は一晩中続いた。

 寒いだろうと言って、雪矢は一枚しかない煎餅布団を衣緒里に譲った。その隣に座布団を敷き詰めて寝転がっている。初め、衣緒里は自分が座布団の上で寝ることを申し出たが、僕はどこでも寝られるんだよ、忘れたのかいと言って雪矢が衣緒里の申し出を断ったのだ。

 次の日もその次の日も雨だった。

「なかなか止みそうにないな」

 雪矢は何か考え事をしているかのように降り頻る雨を見つめている。

「雪矢さん、怒っている……?」

 衣緒里は気になっていたことを恐る恐る聞いてみた。

「怒る? どうして?」

「だって、私は雪矢さんの願いを叶えてあげられないでしょう」

「そんなことで怒ったりはしないよ。ただ……そうだな」

 雪矢は衣緒里の目線を逸らさずにじっと見つめる。大事なことを告げる決意をして。

「……うん。衣緒里が人間の寿命を全うするのなら、僕も人間になりたい、なんて考えてた」

 人間になりたいーー。

「そもそも僕は衣緒里と同じ寿命で生きたいんだ。ずっと側にいたい。衣緒里が先に亡くなった世界で何千年も生き続けるなんて寂しすぎる」

 雪矢の独白は真に迫っていた。愛するものを亡くした後、たった一人で生きていくことは、それまでずっと一人だった生活に戻るのとは雲泥の差だ。亡くしたものの大きさを噛み締めながら、もう手元に戻りはしない面影を追うことはどんなに辛いことだろう。

 衣緒里にはそれが分かったから、何も言えなくなってしまった。代わりにこんな質問をした。

「神様が人間になるなんてこと、できるの?」

「うん……。どうだろう、前例の無いことだし」

「アマテラスさんやイザナミさんに頼んでも難しい?」

「どうだろう? そもそもそんなことが許されるのかという問題もある」

 雪矢は衣緒里を抱き寄せた。冷たい指先を自身の手で温めてやりながら、その華奢な手首を取って自分の頬に当てる。

「僕はこの温もりと同じ時間を分かち合いたいだけなんだ。神であっても、人間であっても、どちらの姿でもいい」

 雪矢は衣緒里の髪を愛おしげに撫でた。手放したくない大切なものを慈しむように、丁寧に優しくその一筋一筋を衣緒里の頭の形のままなぞった。


***


「雨が止まないな」

 分厚い雲がかかる空を見上げて、雪矢はため息を漏らす。雨が上がらないと、イザナミに奉納する舞が舞えないのだ。

「ねえ、雪矢さん。雪矢さんは『神の果実』を持って帰ってどうするの?」

 そうだなあ、と雪矢は考え込んだ。

 本当は衣緒里に食べさせて何千年もの寿命を与えたかったけれど、衣緒里はそれを望んでいない。神である自分が食べて寿命を延ばしたところで、さほど意味を為さない。コンとアカにでも与えるか? けれどあいつらも元はといえば神獣。寿命は神と同じくらい持っているだろう。

「与える相手が思い浮かばないな。嫌がらせで晴臣にでも食べさせるかな」

 雪矢はふふふと笑って不気味な声を出す。晴臣が何千年も一人で生きるところを想像してほくそ笑む。

「かわいそうだからやめてあげて」

 衣緒里が真剣に止めた。

「僕はね、あの小僧が妬ましいんだよ」

 雪矢はため息混じりに自分語りをし始めた。

 衣緒里と同じだけの寿命を持ち、衣緒里と共に同じ時間を過ごすことができる晴臣が羨ましい。自分も人間になれたなら。衣緒里と同じ長さの時間を生きることができたなら。

「イザナミさんに、人間になる方法を聞いてみたらどうだろう?」

 衣緒里が唐突にそんなことを言い出した。実現可能なことがあるのではないかと考えたのだ。

「人間になる方法を?」

「もしくは、人間にはなれなくても、寿命を縮める方法、とか」

 寿命を縮める方法か。

 雪矢は可笑しくなって小さく笑った。元来、人間達は永遠の命を求めてきたというのに、神である自分はそれに反して寿命を縮めたいと願っている。相反する願い。こんなに可笑しいことがあるだろうか。

「そうだな。舞を奉納し終わったら聞いてみるのもいいかもしれない」

 雪矢は窓の外の景色を見つめながらそう言った。外は雨でくぐもり、何の景色も見えなかった。


 翌日、ようやく雨が上がった。

 雨煙が晴れ、美しい山々の稜線が現れた。木々の葉から雨粒が滴り落ち、水溜りに波紋ができる。だが太陽が出ることはなかった。アマテラスが不在だからだ。山の彼方まで曇り空が続く。イザナミの力でほんの少しの光を保っているのだ。

 イザナミへの奉納は午後から執り行われることとなった。

 雪矢は真っ白で簡素な男物の装束を羽織る。着物の形をしたそれは白に近い銀髪の雪矢をより白く見せた。

「ああ、こわや、こわや」

 午前中にイザナミへの奉納を済ませた一団がざわざわと騒ぎながらこちらにやってくる。

「イザナミは今日はとんと不機嫌じゃ。アマテラスを黄泉の国に呼んで太陽を昇らせることにまた失敗したようじゃ」

 どういうことですかと、衣緒里は一団の会話に割って入った。

「分からぬ。わしらの奉納を気に入ってもらえなんだ。それどころか去れとまで言われてしもうた。あな、こわや、こわや」

「あの、どんなものを奉納したのですか?」

「お稚児だよ。可愛い男のお稚児の舞を差し出したんだが、えらく不機嫌だったな」

 ……男の子の舞。もしかしてイザナミが男嫌いということに関係しているのだろうか。

 どういうことだろうと雪矢も首をひねった。

「ねえ雪矢さん、着替えて」

 衣緒里は思いつきを行動に移そうと、いたずらっぽく笑う。

「いっそ女の人の姿で舞えば受け入れてもらえるんじゃないかしら」

「しかしここではイザナミの力に負けて神力は使えないのだぞ」

「姿を変えることくらいはできるのでしょう? だって今の雪矢さんの姿だって私の好みに合わせているだけで、本当の姿ではないんでしょう?」

そういうわけで、雪矢は女性用の衣装を身に纏うことにした。それどころか、雪矢自身が女性に化けた。

「まさか女性にでも化けるかと言った冗談が本当になる日が来るとはなぁ」

 そうは言っても、女性になった雪矢は天女のように美しい。長く伸びた白い髪、憂いを帯びた切れ長の瞳、細くハの字に垂れた眉。唇は艶やかで、吐く息からは果物の匂いがする。しなやかに伸びた肢体は細く、けれども肉が付くべきところには付いている豊満な身体。

 衣緒里はため息を漏らした。

「私が男だったら一目惚れしちゃうわ。嫉妬するなんておこがましいくらい美しい」

 そう褒めた。

「衣緒里は惚れっぽいんだなぁ」

 なんて言いながらも、まんざらでもない雪矢。衣緒里を引き寄せて抱きしめる。身長は女雪矢の方が高いので、すっぽりと覆われる形となった。

「さて、行ってくるね」


 奉納の舞台は宿屋の前に用意された広場だった。太陽光がないので篝火を焚いて光を演出する。衣緒里は宿屋の前から見学することにした。イザナミは空の彼方から見ているのだという。

 篝火に照らされて女性の雪矢が登場する。

 音楽はない。

 長いヒレのような布を巧みに動かし、まるで衣が一人でに動いているかのような演出をする。その動きが音楽のようで、音のない世界にメロディを紡ぎ出す。

 天女が舞う。

 その踊りは伝統的な日本舞踊というよりは、現代舞踏に近いものがあった。自由で闊達な動きをする踊りだ。天女が本当に舞い降りたかのような錯覚を見るものに与える。

 白い髪と赤い唇の妖艶な天上の女性。天女と視線が合ったものは惚けてその場に崩れ落ちる。

 踊りの最後は雪矢が舞台から姿を消して終わった。

「良きものを見せてもらった」

 空の上から雷鳴が響いて、イザナミが降りてきた。イザナミは痩せ細った身体付きからは想像もつかない大きな声を轟かす。

「我はいたく気に入った。タカミムスビよ、そなたが男であるのが惜しいな」

 拍手をして満面の笑みで雪矢の舞を褒め称えた。

「さて、そなたが望んでいたのは『神の果実』の人間界への持ち出しだったかの」

 イザナミは衣緒里のいる宿舎の方に目をチラリと見やった。

「はい。ですがその前に、許されるのならば、お伺いしたいことがございます」

「聞きたいことは分かっておる」

 イザナミは雪矢の元に降り立つと、宙に浮いた状態で腕を組んで雪矢を見下ろした。

「人間になりたいのであろう? あるいは人間と同等の寿命が欲しい、と」

「……はい」

 ふうむと親指と人差し指を顎に当てるイザナミ。

「お主はそれで良いのか? 神の座を退いてまで人間と共に生きたい、と」

「……はい」

 イザナミは少し笑った。その笑みは思いの外優しいものだった。今までもこうした申し出をしてきた神々がいたのだろうか。

「よろしい。教えてやろう。美しき舞の礼だ。人間への転生。できなくはない。だが、代償がある」

「代償とは?」

「今までそなたと関わった全ての人間の記憶からそなたが消える。もちろん、人間の小娘との結婚も無効となる」

 つまり、衣緒里の不老も無効だ。 

「記憶のない小娘と、そなたはどう添い遂げるつもりだ? 人間になれたとして、小娘はそなたではなく幼馴染みの男を選ぶかもしれぬぞ。神議りではそのような結果が出ているのであろう?」 

 雪矢はぐうの音も出なかった。

「それでも。それでも私は衣緒里を見つけ出して再び恋人にします。奪われたなら奪い返します。必ず衣緒里を手に入れて添い遂げてみせる」

 雪矢の決心は固かった。

「そこまで心を決めているのか。では教えてやろう、人間への転生の仕方を」

 イザナミは雪矢の側に寄って耳打ちをした。背が高いので雪矢と並ぶと大柄な女神が二人、内緒話をしているように見えた。


***

「さあ衣緒里、人間界に帰ろうか」

 元の姿に戻った雪矢が天女の衣装を脱ぎ捨てる。男の姿になったとはいえ、口紅を落とし忘れた雪矢の姿は天女の姿と重なって色っぽい。

「雪矢さん、紅がついたままよ」

 衣緒里が雪矢の唇を親指で拭った。その親指を雪矢は衣緒里の手首を掴んで舐る。きゃっと小さく驚く衣緒里をよそに、舌を出してニヤリと笑う雪矢は天女とはまた違った男の色気があって魅力的だ。衣緒里は思わず見惚れた。

「そういえば、イザナミさんに神様が人間になる方法は聞けたの?」

 衣緒里は受け取った天女の衣装を畳みながら気になっていたことをそれとなく聞いた。

「ああ。それについては内緒だ。イザナミとの約束なんだ」

 雪矢は神が人間になる方法を教わったが、イザナミはそれについては誰にも話してはいけないと念を押した。

「なによう」

 と膨れる衣緒里を雪矢は愛おしげに見つめる。

 もし、人間になったら。そうしたら、この娘は自分のことをすっかり忘れてしまうのか。悲しみとも絶望とも区別がつかない複雑な感情が込み上げてくる。

 衣緒里を愛したことも、衣緒里に愛されたことも全て忘れ去られて消えてしまう。

 このまま神の姿で居続ければ、衣緒里の寿命が尽きるまで共に過ごすことができる。それで充分ではないのか? たとえ衣緒里の死後、何千年も一人で取り残されたとしても。

 雪矢は自問自答した。考えても答えの出ない問いに頭を悩ます。

「ここから地上に帰るには三ヶ月はかかる。道中には温泉や景色の良い場所があるから帰り道を楽しんで行こう」

 心とは裏腹に、至極明るい話題を雪矢は振った。

「帰るときは流石にサルタヒコさんの髪の毛は使えないわよねえ。フッと飛ばしてひとっ飛び、なんて」

 衣緒里は来る時に使ったサルタヒコの秘密道具を思い出す。

 驚いたのは雪矢だった。

「サルタヒコの技を使えたのかい!? ここでは神力は使えないはずだが。イザナミの力に綻びが出始めているのだろうか」

 雪矢は訝しく思ったが、試しに衣緒里を抱いて飛んでみた。いつもの軽快さはないものの、浮くことができる。これなら歩かずとも衣緒里を抱えて飛んでいけそうだ。

 二人は二ヶ月ほどで黄泉の国を抜けた。


 地上に戻ってきた頃には春になっていた。桜の花が満開を過ぎ、つつじがその香りを空気に満たす季節。衣緒里は高校二年生に進学した。

「衣緒里、おかえり。突然いなくなったから心配していたんだ」

 晴臣が衣緒里の席に来て、机に肘を置いてしゃがむ。衣緒里は突然いなくなったり現れたりするものだから、晴臣としては気が気でない。

「アカが衣緒里の代わりに授業を受けているし、またどこかに出かけたんだな、って」

「うん、雪矢さんを追って黄泉の国に行っていた」

「黄泉の国? また物騒そうなところへ行ったもんだな」

 晴臣は衣緒里の目を覗き込んだ。衣緒里の瞳は伏せられて、どこか心ここにあらずだ。

「元気ないな。何か悩んでいるのか?」

「……最近、雪矢さんの様子がおかしくて」

 黄泉の国から帰ってきてからというもの、雪矢は神社の神殿に篭って何やら考え事をすることが多くなった。どうしたの? と問うても、笑って誤魔化されてしまう。

 雪矢はクシナダヒメの櫛で髪を整えることも多くなった。今まで雪矢が身だしなみに拘る姿を見てこなかったから、異様な光景だ。

「なんだか思い詰めた表情で私を見るの。何も言わずに去ってしまいそうな目。いつか雪矢さんがいなくなってしまうのではないかって、不安になる」


 悲しいことに、衣緒里の心配は当たっていた。

 雪矢は何度か人間になるための儀式を試していた。けれどもその度に、衣緒里との別れを思って完遂できずにいたのだ。

 だが、それも今夜で最後だ。

 新月の晩、雪矢は神社の御神体である鏡の前で居住まいを正し、正座する。鏡の前には小刀と盃が置かれている。

 雪矢はイザナミとのやりとりを思い返す。

 太陽も月もない深夜に、鏡の前で神力が宿る神の髪を切り落とす。それから、「神の果実」を発酵して酒にしたものを一口、口に含む。儀式はそれで終わりだ。

 そうすれば雪矢は神の座を退くことができる。程なく地球上のどこかに飛ばされ、人間としての第一日が始まるだろう。

 雪矢は一人で去ろうとしていた。別れの挨拶を告げることなく。

 別れを惜しんだところで何になる? 明日にはその別れすら衣緒里は忘れてしまうというのに。

 雪屋は一呼吸置くと、決心して小刀を手にする。

 カタ、という音がして、神殿に衣緒里が忍び込んできたのが見えた。こんな夜更けに、どうしたのだろうか。

「衣緒里」

 雪矢は小刀を元の場所に戻し、忍び足で進む衣緒里を包み込むようにして抱き上げた。驚いた衣緒里が雪矢の腕の中でジタバタと動く。

「何をしているんだい」

 衣緒里の胸のあたりに顔を埋めると、風呂上がりの石鹸の匂いが立ち上る。

「雪矢さんの様子がおかしいから、覗きに来たの」

 大きな瞳を震わせて、雪矢を覗き込む。

「おかしくなんかないさ。イザナミに道中無事のお礼を祈っていたんだよ」

 それは雪矢がついた嘘だった。衣緒里に人間になるための儀式を悟られないための。

「あの盃は……?」

 衣緒里が「神の果実」の発酵酒の入った器を見つけた。

「『神の果実』をお酒にしたものだよ。イザナミに供えていたんだ」

 これも嘘だ。

「そう」

 衣緒里は所在なく首に通したネックレスのチェーンを弄んだ。チェーンの先には雪矢から贈られたシラユキゲシの指輪が光っている。学校では華美な装飾品を着けることができないから、お守り代わりに首に通し、肌見離さず持ち歩いているのだ。

 暗闇で僅かな光を受けてキラリと光るそれを見つけた雪矢は衣緒里にひとつお願いをした。

「ねえ、衣緒里。もし、万が一僕がいなくなっても、その指輪を捨てないで持っていてくれる?」

 記憶は消えても、愛の証が消えてしまわないように。

 おかしなことを言う雪矢を衣緒里は怪訝に思ったが

「捨てる気なんてないわ」

 そう言って雪矢を安心させた。万が一のことを言う雪矢に衣緒里は不安が込み上げる。

 雪屋はそんな衣緒里の頭頂にキスをひとつ落とした。最大限の愛を込めて。

「……衣緒里、お別れだ」

 雪矢は小刀を手に取ると、自分の髪に刃を当てた。ザクッという音とともに、雪屋の美しい銀髪が床に散る。全ての髪を切り落とすと、短髪になった雪矢は発酵酒に手を付けた。ザクロの甘酸っぱい酸味が口内に広がる。

 すべての動作はほんの一瞬だった。

 その次の瞬間、御神体の鏡から光が放たれた。光は雪矢を照らし出す。

 衣緒里には何が起こっているのか理解できなかった。あまりの光量に、衣緒里は目を開け続けることもままならなくなった。衣緒里の首にかけられたダイヤの指輪が、鏡の光を受けてキラキラともギラギラとも輝く。

 雪矢は光の中に消えた。刹那のことだった。

 別れを告げることもせず、ひとり静かに去った。

 残された衣緒里は気を失って倒れた。神殿の床で横たわったまま眠る衣緒里は、翌朝、神社に参拝しにやってきた近所の人に発見された。


***


雪矢が去って三年が過ぎた。衣緒里と晴臣は大学二年生になった。

 雪矢と関わった人々は、あの図々しくも優しい氏神様のことは始めからいなかったものとして忘れ、日々は何事も無かったかのように過ぎた。


 晴臣は大学の実習の帰り道、衣緒里を捕まえようと文学部棟にやってきた。歴史学のフィールドワークから帰ってきた衣緒里を見つけて、大学のカフェへと誘う。

 カフェは学生達で賑わっていた。食事を摂る者、勉強をする者、仲間内で会話する者、様々である。

「なぁ、衣緒里。今度の夏休みに旅行に行かないか? サークルの連中と企画しているんだ」

 衣緒里と晴臣は同じ天文サークルに所属している。

「どこに行くの?」

「沖縄を予定している」

「沖縄かあ」

 沖縄の空は美しかろう。それは楽しい旅になりそうだ。衣緒里は期待に胸を膨らませた。

 晴臣と別れると、衣緒里は担当教授のいる部屋へ向かった。今、研究している神社の歴史について助言を得ようと思ったのだ。

 エレベーターが降りてくるのを待つ。

 一階に到着して扉が開くと、一人の男性が箱の中から現れた。

 白に近い銀髪に背の高い、顔貌の整った男性だ。男性は衣緒里を認めると、すれ違いざまに微笑んだ。衣緒里は会釈をしてエレベーターの小さな箱に滑り込む。

 どこかで会ったことのある人だなと、衣緒里は思った。でもどこで?

 教授室にノックして入ると、数人の学生が教授を囲んでいた。大学院生なのだろう。論文の相談をしているらしい。大学二年から教授室に入り浸る衣緒里は珍しいらしく、院生らに衣緒里くんは勉強熱心だなあと揶揄われる。

 衣緒里はお白様の神社について研究していた。

 三年前まではいたという宮司が不在となったその神社は、廃社の危機に瀕している。衣緒里はこの神社が気になった。神社を訪れると何となく懐かしい気持ちになるのだ。

「タカミムスビの神社なら、確かあいつも調べていたよ」

「あいつ?」

「うん。白峰。白峰雪矢。ほら、銀髪の奴」

 さっきエレベーターですれ違った男性のことだろうと衣緒里は推測した。

「今度、白峰に会えたら色々聞いてみるといいよ。彼はあの神社については非常に詳しいんだ」

 教授が雪矢の知識について太鼓判を押した。衣緒里は教授と院生達にお礼を告げて部屋を後にした。

 階段で階下に降りる。一番下の階に来たところで、白峰雪矢と鉢合わせた。

「やあ」

 と雪矢は微笑んで、衣緒里に話しかけてきた。

「タカミムスビの神社について調べている女学生がいるって聞いていたけれど、君のことかな?」

 雪矢は衣緒里の持っている荷物を見た。神社の歴史に関する資料を両手いっぱいに抱えている。

「あ、たぶん私のことです。えっと、白峰先輩、でよろしかったでしょうか」

「うん。雪矢でいいよ、衣緒里」

 衣緒里ーー。

 その呼ばれ方に聞き覚えがあるような気がした。衣緒里は思わず手に持っていた資料をバサバサと床に落とした。初対面なのに名前で呼ばれる図々しさよりも、その響きの懐かしさに衣緒里は囚われた。

「雪矢先輩とはどこかでお会いしたことがあるのでしょうか。懐かしい感じがします」

 衣緒里は思い切って感じたことを話してみた。

 雪矢は衣緒里の落とした資料を拾い上げる。屈んだ状態の上目遣いで衣緒里を見た。

「あるよ。君が覚えていないだけでね」

 そう言ってほほ笑むと、衣緒里の両手に資料を押し付けた。

「その指輪は誰かに貰ったのかい?」

 衣緒里は右手の薬指にシラユキゲシの指輪をはめていた。

「分からないんです。気づいたら持っていて。でもとても大切な物なんです」

「そうか。……今日の帰り、神社においで。タカミムスビの神様の昔話を教えてあげよう」

 雪矢は衣緒里と会う約束を取り付けると、じゃあと言って去って行った。


 家に帰ってから母親に雪矢について尋ねてみる。

「白峰雪矢さんって知ってる? 私の小さい頃に会っていたとか」

 母は怪訝な顔をした。

「さぁねえ。聞いたことないわね」

 とだけ言った。

 晴臣にも電話して聞いてみたが、

「知らないなぁ」

 とだけ返ってきた。


 衣緒里は上着を羽織ってお白様の神社に向かった。月が白く東の空に浮かんでいる。春先とはいえまだ肌寒い夕暮れ時である。

 神社に着くと、入り口のところで獅子と狛犬の石像が迎えてくれる。この石像にも何故か愛着が湧く。

 境内に足を踏み入れると、本殿の鏡の前で雪矢が何やら祈っていた。

「雪矢先輩?」

 声をかける。雪矢が振り返った。衣緒里を認めると優しく微笑み、本殿の外にやってくる。

「何をしていたんですか?」

「宮司の真似事をしていたんだ。この神社は廃社の危機だろう? 僕が継ごうと思ってね。資格は養成所で取れるし」

 雪矢は縁に座って神社の歴史について語り始めた。

「この神社に祀られていた神様の話をしようか」

 この神社の神様は、ニエとして差し出された人間の少女と恋に落ちた。神様は少女の寿命を延ばして自分と同じだけ生きてほしかったが、少女はそれを望まなかった。だから神様は自分が人間になる方法を探した。そうして神様は人間になったんだ。でも寂しいかな、人間になる代わりに少女の記憶は消えた。だから少女は神様を愛したことを忘れてしまったんだ。

 つい最近の出来事のように語る雪矢は、寂しそうに瞳を揺らした。

「神様はね、もう一度少女に愛してもらうために少女の前に現れたんだ」

 雪矢が衣緒里の頬に触れる。温かく滑らかなそれは三年前と同じだった。

「衣緒里、待っていたよ」

 雪矢は衣緒里を見つめた。衣緒里は心臓が早鐘を打つのを自覚した。

 待っていたって、どういう意味? 雪矢の言葉を反芻する。

「何をしてるんだ?」

 声のする方を見やると、晴臣が狛犬の石像の横で仁王立ちしていた。雪矢を見て眉間にしわを寄せる。

「衣緒里、帰ろう」

 晴臣は強引に衣緒里の手を引いて神社から抜け出した。

「晴臣、一体どうしたの?」

「説明がつかないんだが、俺はあの銀髪が気に食わない」

 晴臣はどんどん歩いて衣緒里を近くの公園に連れて行った。

「今日は風が凪いでいるから星が綺麗だな。沖縄に行ったら満天の星が見えるだろう」

 上空を見上げてそんな話題を振る。

「……なあ、衣緒里。今更こんなことを言うのもおかしいかもしれないけど」

 長い前置きをする。

「俺達、付き合わないか?」

 晴臣が鼻先を掻きながら告白する。照れているのだろう。

「俺、おまえのこと昔から好きなんだ」

「晴臣……」

 衣緒里は返事に窮した。ただ黙って晴臣を見つめ返す。

「生憎だが衣緒里は私の恋人だと決まっているんだ」

 振り返ると雪矢が息を切らして立っていた。追いかけてきたのだ。

 シラユキゲシのかんざしを胸ポケットに添え、雪矢は衣緒里に近づく。かんざしを取り出すと、衣緒里の傍に寄り、耳の横にそっと挿した。

「僕は君を愛している。大好きだよ」

衣緒里の耳元でそっと囁く。かんざしは衣緒里が持っている指輪とそっくりだった。

「どうして雪矢先輩が同じものを持っているの……?」

 衣緒里の胸に一筋の記憶が呼び起こされる。 

 それは以前、天界のシラユキゲシ畑で雪矢が同じことをした光景と重なった。

 かんざしを挿して君を愛していると雪矢が言った、あの花畑。

 その時、衣緒里は思い出した。唐突に。そして鮮明に。

「雪矢、さん……?」

 記憶は洪水のように衣緒里を駆け巡る。

 ニエとして差し出された十六歳の誕生日。天界に連れて行かれだまされる形で結婚させられたあの日。天界の神々から祝福を受けたこと。それから雪矢にプロポーズされたシラユキゲシの花畑。衣緒里に長寿を与えようと黄泉の国へ出かけた雪矢。人間になりたいと言い出した彼の瞳。

「お白様!」

 衣緒里は雪矢に駆け寄ると、その腕の中に飛び込んだ。


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