吹き抜ける風と音
ハルヴァリウスが来なくなり、ギルスレイドはまた静かな日々を過ごすようになった。
横穴の外からは変わらず葉擦れの音が聞こえ、時折小さな生き物が通る。
今までと何ひとつ変わらない。そのはずなのに、ひとりきりの時間は妙に長く、静かに感じて仕方なかった。
(……随分と、感化されたものだな)
薄暗い横穴の奥で自嘲を浮かべる。これが普通なのだと理解していても、ふとした静寂がむずがゆく。長らく忘れていた退屈という感情を、すっかり呼び起こされてしまっていた。
ハルヴァリウスの動き方は、三千年を生きる龍にとっての日々の流れとは違う、人の世に合わせた忙しなさ。
懐かしいそれに加え、昔のことを請われ話したせいでもあるのだろう。
息をつき、片隅に置いたままの包みを一瞥する。
龍の生の数倍の時を経て鱗の大半が消えたとはいえ、己の罪まで消えたわけではなく。静かにただ在ることが罰だと受け止めた以上、最期までそれを貫くべきなのだとわかっていた。
わかっては、いたのだが―――。
―――数百万の夜よりも長く感じた、数百の夜を経て。
ギルスレイドは初めて自分の意思で外へと出た。
まだ明け方のそれほど明るい時間ではないというのに、ずっと暗闇で過ごしていた身にはとても眩しい。
横穴の奥では耳と目で感じるしかなかった風を身体で感じる。風に揺れては存在を主張する衣服に慣れるまでには少し時間がかかりそうだった。
閉じられた空間で低くくぐもる音ではない、自分を過ぎて抜けていく音。
そんな僅かなことに、外にいるのだと実感する。
横穴を出てすぐの場所で立ち尽くし、ゆっくりと周囲を見る。
光と色と音に溢れる外の世界。龍の理のみならず生き物の理からも逸脱した身にはとても眩しく、力強い。
暫くその場で圧倒されたあと、ギルスレイドはゆっくりと一歩を踏み出した。踏みしめる土の柔らかさと温かさ。もう一度足を揃え、今から進む先を見つめてから、また再び足を前に出す。
何かを確認するように―――何かに許しを請うように、一歩ずつ。長らく見ることのなかった外の景色を昔と重ねながら歩いていった。
もう空を飛べないギルスレイドには上空から目視で方向を見ることはできないが、幸いあの頃と変わらず気配を感じることはできる。北西は生き物もほとんどいないと知っているので、気配の多い方へと向かった。たとえその気配が魔物のものであったとしても、自分は死ねないのだから恐れる理由もない。
日が高くなり、沈み、夜が来て。また空が白み朝になる。
日差しと風にキラキラと輝いていた木の葉が夕日に色を変え、夜闇の中でざわりと蠢く。
今までの分を取り戻すかのように一日という時の変化を十二分に味わってから、ギルスレイドは歩く速度を上げた。
夜の長さを痛感することしかできなかった眠る必要のない身体を今はありがたく思う。
疲れを知らない龍であった名残りの体力に任せて、ギルスレイドは昼も夜もなく進んでいった。
そうして幾日が過ぎた。
近付く覚えある気配に、ギルスレイドは足を止めて顔を上げる。
暫くして木々の間の空に見えた銀の龍は、慌てた様子で降りてきた。
「ギルスレイド!」
驚きと安堵を見せる風龍に、ギルスレイドは無理もないと内心思う。
今まで閉じ籠もっていた自分が人のような格好をしてうろついているのだ。驚くのも当然だろう。
「棲処にいないから探したぞ」
「心配をかけたな、シェイディメル」
それでも滲む安堵に礼を言い、出てきてしまったのだと苦笑う。
「……許されないことかもしれないが」
「それはない。ギルスレイドはもう十分すぎるほど贖っただろう」
静かな即答はこちらの不安を拭うもの。
「……そう、だといいな」
償い終わるのは命が果てる時だとわかっていても、その言葉はこの行動に許しを与えるものだった。
ギルスレイドの気持ちが少し緩んだことに気付いたのだろう、シェイディメルも切り替えるように、それよりと口にする。
「ここまで何も問題はなかったか? 魔物もいるだろうし、この近くにはドワーフたちの住処もあるはずだが」
「いや、ドワーフたちにはむしろ世話になった」
実際小さな魔物は逃げていき、集まる気配が気になって覗きに行ったドワーフの集落では逆に心配をされる始末。どうやら人に見えたらしく、森を抜ける方向を教えてくれた。
それならよかったと安堵を見せてから、シェイディメルはじっとギルスレイドを見つめる。
「……半島に向かうのか?」
願うようなその声音に、ずっと気遣われていたのだと改めて感じながら。
「……ああ。今の人の暮らしを見たくなったんだ」
ギルスレイドは素直に己の望みを口にした。
夜を待ち、シェイディメルが森の端近くまで送ってくれた。
気をつけてと言い残し戻る風龍を見送ってから、ギルスレイドはひとり森を出る。
伐採したためだろう、森の内と外の境目は明確だった。木々の下から抜け出した瞬間、目前に遮るもののない空と地が広がる。
先程風龍の背から見た景色とは同じだが違う。借り物ではない、等身大のそれ。
果てまで続くような空とどこまでも広がる地が、やがて一線で交わる。目の高さでこの広さを感じるのは、おそらくあの頃以来だろう。
怯えか感動か、戦きの中暫し見入ってから、ギルスレイドは人の住む地へと足を踏み入れた。
ただ均されただけの地には小屋がいくつかあったが、無人のようで中には何の気配もない。拠点は移されているようで、少し先にいくつか気配が感じられる。
森から来たことを見咎められる前に、夜の間にそこを抜けることにした。近付くにつれ殺風景だった景色には次第に人工物が増え、やがて集落のように数軒の小屋が並ぶようになった。
その小屋に囲まれるように、しっかりと固められた幅の広い道が二方向に伸びている。
これがハルヴァリウスの言っていた街道なのだろう。
(……これが、龍と人が造った道……)
このどこまでもまっすぐに続く道が、これからの両者の関係を表すものであればいい。
寒さに追われ移動を続け、辿り着いたこの果ての地。
これ以上先はない。手を取り合わねばお互い生きていけなくなるのだから。
しかし―――。
視線の先に感じる昏い気配。人というものがどれほど危うい生き物であるのかを思い出し、ギルスレイドは息をついた。