森に棲む異形
ギル過去編、約二千年前のお話となります。
奥行きなどそれほどない横穴では、最奥まで下がっても入口からの光が見え、風が吹けば葉擦れの音とともに空気が流れて入れ替わっていく。
魔物が近寄ることはほとんどないが、時折虫や小さな動物が迷い込み、慌てて逃げていくこともあった。
あの頃に比べればここは明るく、常に何かの気配がある。
煩わしいわけではなかったが、長くひとりでいた身にはどこかくすぐったいような疼きを与えた。
薄暗い穴の奥にいる人の形をしたものが、普段はない気配が近付くのを感じて入口を見やる。
僅かな光に浮かぶのは、まばらに鱗が貼りついた胴。そこから伸びる四肢には名残のように数枚の鱗があるだけで、手や足先、そして首から上は人の肌をしていた。
程なくで入口からの光が大きく遮られた。影を縁取る輪郭は白銀に煌めき、体を覆うその色を示している。
「邪魔をするぞ」
するりと入ってきたのは白い鱗のヘビ型の龍。
人のようなものにくすんだ金の鱗を纏う異形を目にしても動じることなく、風龍はするするとその目前にまでやってきた。
「変わりはない、か?」
「変わるわけないだろう」
どれくらい振りかに発した言葉は、思ったよりも軽く響いた。確かにお互い変わらないなと笑いながらも、風龍が労りの眼を向ける。
「久し振りだな、ギルスレイド」
風龍を見返す金の瞳にだけ龍の頃の名残を残しながら、龍でも人でもないそれは、辞色を和らげて頷いた。
「どうした? 会合でもあったのか?」
壁に預けていた背を起こし、ギルスレイドは年若い風龍に尋ねる。
場所こそ離れてはいるものの、自分と同じく森の中に棲むこの風龍。龍たちの会合があった時など、こうしてわざわざ内容を伝えに来てくれていた。
もはや龍でもない自分には必要ないだろうと言いはするが、今までのどの龍たちもそう言うなと返すばかりで聞き入れてもらえずにいる。
「いや。暫く騒がしくなるだろうから、先に伝えておこうと思ってな」
「騒がしく……?」
「森の境目をいくらか伐採するらしい。詳しいことはまた別の龍が話しに来てくれる」
ここから森の端まではかなりの距離がある。その境目でいくら騒がれようが、こちらに届くはずもない。
「必要ない」
「そう言うな。半島の……人の様子もかなり変わってきているんだ。それも含めてたまには話を聞いておけ」
もう居場所は伝えてあるのだと、既に事後報告であることを告げる風龍。一瞬呆れ顔を向けてから、それでもすぐにギルスレイドも頷いた。
碌に外も出歩けない自分を思っての強引さだと、わかってはいるのだ。
風龍の話では、来るのは彼とさほど歳の変わらない火龍だという。
いつものように暫くなんでもない話をしてから、また来ると言って風龍は帰っていった。
再び訪れた静寂の中、ギルスレイドは再び壁にもたれた。壁に預けた身体には、入口からの光を受けた鱗が鈍い光を宿している。
人の形に龍の鱗。この姿になってから、もうどれくらいになるのか。
異形のこの姿も含め、これは自分に与えられた罰であり、未だ果てぬ命はまだ贖罪が足りぬという証なのだろう。
そう受け止めてからは、ただ静かに時を過ごしてきた。
そんな自分を龍たちはずっと引き継ぎながら見守ってくれている。龍の生より遥かに長い時間だというのに正気を保ったままでいられたのは、こうして気に掛けてもらえてきたからだとわかっていた。
せめてこれ以上迷惑をかけずに済むように。
自分にできる礼は、ただそれだけだと思っている。
件の火龍がやってきたのは、それから数日後のことだった。
「ハルヴァリウスだ。会うのは初めてだな」
薄暗い横穴にもギルスレイドの姿にも臆せず、奥まで入ってきた若い火龍は快活にそう告げる。
「……ギルスレイド、と」
本当ならばもう自分はギルスレイドではないのだが、かといってほかに名乗る名もなく。こうしていつまでもあの頃の名を使っている。
ハルヴァリウスは何やら手を上げるような仕草を見せてから、その身を人の姿へと変えた。
「よろしく、ギルスレイド」
赤い瞳を細め、改めて手を差し出すハルヴァリウス。その手と顔を見比べてから、ギルスレイドはようやく自分が何を求められているのかに気付いた。
―――一瞬重なる小さな手。
「……よろしく」
記憶の奥底にある面影を振り払い、ギルスレイドは握手に応じた。
嬉しそうな顔を向けるハルヴァリウスに、それで、と続ける。
「大体のことは聞いてはいるが。別に俺に話を通す必要などないだろうに」
「まぁ、単なる口実だからな」
あっさり白状するその赤い瞳に見えるのは、言葉通りの好奇ではなく。
「俺がギルスレイドに会ってみたかっただけなんだ」
「……俺に会ってどうする」
龍ではなくなった自分でも、まだ少しは相手の心を気取ることはできる。この異形を前にしても変わらず感じる敬重が、どうにもいたたまれなかった。
そして龍であるハルヴァリウスもまた、こちらの当惑には気付いているのだろう。
「そうだな。話をしてみたかったのかもしれないな」
屈託ないその笑みからは、労いと親愛が窺えた。
広大な森を南東に抜けた先にある半島には、今は人とエルフ、そして龍が棲むという。
少し前から半島全域に敷き始めたという道は、東西、そして南北にそれぞれ七本ずつ。関わるのは人と数匹の龍。
「建材の確保と土地の拡張のために、半島部分にある森をいくらか伐る。もちろんここまでは入らないが……」
「当たり前だろう。どれだけ距離があると思っているんだ」
直線距離を飛べる龍であっても、森の端からここまでは数時間かかる。人が歩くとなれば数十日、来るはずがないことはわかっている。
「だが、追われた魔物が来る可能性はある」
既に龍ではないギルスレイドは魔物に忌避されることはない。尤も、得体のしれないものとして避けられることはあるが。
ハルヴァリウスの憂慮に、ギルスレイドは苦く笑う。
「来たところで。死にはしない」
あの時から、何をしても死ねぬ身体になった。
毒をあおろうと、剥がれ落ち崩れて消える鱗の隙間から身体に刃を突き立てようと、いずれは治癒し死に至らない。
だから問題はないと伝えたつもりが、一瞬目を瞠ったハルヴァリウスは大きく息をついて頭を振る。
「そういうことを言ってるんじゃない」
眼差しに含まれるのは心配からの怒り。
心配されるような存在でもないのにと思う一方で、向けられるそれはどこか温かくくすぐったい。
「……わかっている。ありがとう、気をつけるよ」
ありがたく受け取り、素直に礼を言った。
それ以来、ハルヴァリウスは頻繁に来るようになった。おそらく魔物がここを避けるようにとの配慮もあったのだろう。
伐採の進捗を伝えるだけでなく、半島の様子や大規模に道を敷き始めた経緯などを、いつも楽しそうに語っていく。
「ギルスレイドはルヴィエートを知っているのか?」
そんな話の中で出た名は、ギルスレイドには覚えのないものだった。
「知らないが……」
「そうか。それなりの歳だから知っているかと思ったんだけどな」
二千五百歳を越えたその水龍は、人とともに造道の指揮を執っているのだという。
「人と?」
「ああ。早いうちに道をきれいに整えておけば人も龍もこの先使いやすいだろう、だそうだ」
なぜ龍であるハルヴァリウスが人の地に道を敷くのを手伝っているのかと思っていたが、そういうことかと腑に落ちた。
「……そうか。人も龍も、か」
昔から龍と人には交流があった。中には片割れや愛子のように深く関わる者もいた。
しかしこうして人の生活にまで深く関わるようなことがなかったのは、出会うには広大な土地があったからだろう。
これ以上行き場のない半島で暮らすことで、近くなっていく人と龍。
この先も更に近付き、両者の絆も昔以上に深まっていくのだろうか、と。
楽しそうに語るハルヴァリウスに、ギルスレイドは来るべくして来る関係の変化を感じていた。