共有する記憶と面影
宿場町の朝は早い。
朝食を出す宿や食堂はもちろん、これから出発する人々が旅の荷を調えられるように、旅用具を扱う店も開いている。
ここ赤の五番の宿場町でも、十字に延びる各街道への通りには朝食後宿を引き払った人々が歩いていた。
「リー! 買ってきたよ!」
用具店から飛び出してきたディリスが、手に持っていた荷物をリーへと手渡す。受け取ったリーは中からいくつか取り出し、残りをディリスへと返した。
「持っててくれるか?」
「うん!」
いそいそと鞄にしまう様子を見ながら、リーは問題なさそうだなと内心思う。
イリーガから紫四番、そこから道中の中継所や赤の四番を越え、ディリスも人の中にいることに慣れてきたように見えた。
イリーガが特異な状況であったのか、それとも単に慣れの問題なのかはリーにはわからないが、少なくともあれ以来ディリスが町に入ることをためらうことはなく。普通の子どもと同じように、否、普通の子ども以上に周りのあれこれに興味を示しては、リーとフェイを質問攻めにするほどだった。
街道を歩きたいというディリスのために、進路はできる限り多くの街道を通るよう計画していた。ここからは五番街道を東に一区画先の橙五番へ、そこからは橙街道を南下し橙六番へ、というように宿場町ごとに進む方向を変えていくつもりにしていたのだが。
正直どこをとっても同じような景色ばかりの街道、ディリスも感慨深そうではあるものの、中継所と宿場町を交互に訪れるだけではやはり単調になるのも無理はない。
それではあまりにもと考えた末に、街道を逸れてデミロ地区内を歩くことを提案した。数日をかけ橙六番へと抜ける道の途中には、さほど高くはないが山越えもある。
あの予定外の野営を楽しそうに過ごしてくれていたのでどうかと思ったのだが、案の定ディリスは嬉しそうに頷き、こうして買い出しを頼まれてくれた。
街道を逸れてしまうと連絡を受けにくくなるが、ここまで請負人組織からは先日のイリーガの件も含めて何も連絡は来ないまま、ウェルトナックからの許可についても特に心配はしていない。
それに万が一急ぎの用ができたとしても、旅行くのは龍であるふたりと龍の愛子である自分、苦労なく見つけてもらえるだろう。
問題はなさそうだと確認していると、ねぇ、とディリスに声をかけられた。
どうしたのかと顔を見ると、はにかんだ笑顔を向けてくる。
「ありがとう、リー、フェイ。すごく楽しい」
「そっか、それならよかった」
銀髪をくしゃりと撫でると、少し照れくさそうな顔をしながらも素直に撫でられてくれるディリス。
離れていくリーの手を見送るその視線が、ふっと思いを馳せるように空へと逸れた。
「……シラー、どうしてるかな」
ドマーノ山の山頂から、ハルヴァリウスは空を見上げていた。
北西の方角から近付くのは、どれも覚えある気配である。
程なく降り立った銅色の龍の背にはふたつの人影。紫銀の髪のエルフが軽やかに飛び降り、続いてくすんだ金髪の青年が降りてきた。
あの頃から―――否、それ以前から何ひとつ変わらぬその容姿。込み上げる懐かしさをひとまず抑え、ハルヴァリウスは軽く頭を下げる。
「わざわざすまなかったね」
「いえ」
「今はギル、だそうだね。来てくれてありがとう」
にこやかなミゼットとは逆に、不服そうな表情のギル。
「……本当に、お前は」
「俺らしい、だろう?」
かつての口調で軽く返すハルヴァリウスに溜息をつき、ギルは隣のミゼットへと視線を向ける。
「奥で話してきてもいいでしょうか?」
「ええ」
態度の変化を気にした様子もなく、ミゼットはギルとハルヴァリウスを順に見返して頷いた。
「ゆっくり話してきてちょうだい。私とトマルはここにいるわね」
おそらく元々そのつもりだったのだろう。ミゼットはにこりと微笑んでから背を向けて、龍の姿のまま待つチェドラームトの方へと歩き出す。
その背とチェドラームトに一礼し、ハルヴァリウスも洞窟へと頭を向けた。
人の姿のハルヴァリウスに続いて棲処の洞窟に入ったギル。
元の姿のハルヴァリウスには少し狭い入り口から、差し込む日差しが岩壁を照らす。外から見るより中は広いようだが、人並み程度にしか夜目の利かないギルに奥までは見えなかった。
懐かしさというよりも、罪悪感めいた思いとともに見えぬ暗闇を見据える。
本来居るべき闇から抜け出して、今自分は明るい光の下で暮らしている。
最期だから―――その言い訳が通るのかどうかもわからないままに。
「ギルスレイド」
足を止めたハルヴァリウスが元の姿に戻り、振り返って名を呼んだ。
「このあたりでいいか? 見にくいなら火を……」
「大丈夫だ」
短く答え、ギルはその場に座る。
少し笑うように息を吐き、ハルヴァリウスもその場にうずくまるように腹をつけた。
「……どっちの考えだ?」
合わせられた目線の高さに、相変わらず不服そうな表情でギルが口火を切る。
「来ねばリーに『ギルスレイド』を探すよう依頼を出すと脅された。お前とフィエルカーム、どちらが画策したんだ?」
「そう言うな。俺はただギルスレイドに会いたいと依頼を出して、フィエルカームはそれに応じてくれただけだ。リーは百番依頼の担当なのだろう? 何もおかしいことはないじゃないか」
さも当然のように答えるハルヴァリウスに、ギルはわかりやすく溜息をついた。
「随分と狡猾になったな」
「二千年も経てば知恵もついて当然だろう?」
昔を思い起こさせる茶化すような言葉でも、その姿からは誤魔化しようもなく刻まれた年月が見て取れる。
鮮やかに輝いていた真紅の鱗も今は差し込む光に深く鈍い光を孕み、溌剌としていた動作もよくいえば落ち着いた重さを備えている。
ハルヴァリウスの当たり前の変化は、変わることのできない己を置いていくもの。
取り残されていく寂しさなど、とうに手放したというのに。
「……今更俺に会ってどうする」
声音に滲む苦さにも気付いているだろうに、それでもハルヴァリウスは変わらぬ穏やかな眼差しを向ける。
「最期に昔馴染みに会いたいと思っただけだ。俺とあの話ができるのは、もうギルスレイドしかいないのだから」
あの話が何を指すかなど、今更確かめるでもない。
あの頃既に生まれていた龍はほかにもいるが、街道を敷くのに関わっていた龍はハルヴァリウスしか残されていない。
そして、あのものたちを詳しく知るのもまた、自分のほかにはハルヴァリウスしかいないのだ。
浮かぶ面影は、自分がここにいる理由でも言い訳でもある。
贖罪の最中だというのに、ただでさえ彼を理由に好き勝手をしている自分。この上ハルヴァリウスを理由に昔を語り合う喜びに甘えていいのだろうか。
「……お前にはほかに話すことも話す相手もいるだろう?」
目前の幸せから目を逸らし、低くギルが呟く。
しかし否を告げたにも関わらず、見据えるハルヴァリウスの眼に安堵が見えた。
「それでも。ギルスレイドとその話ができるのは俺しかいない」
見返す深い赤に、ギルは揺れる本心を気取られたことに気付く。
ハルヴァリウスに会い、あの頃のことを話したいと言われたことで、ささやかな願望が生まれてしまった。
己の中にある思い出。
今まで誰にも詳しく話すことはなかったそれを共有できる唯一の存在。
思い返す幸せと、ともに味わえる幸せ。示されたそれは、自分には過ぎたものだと思うのに。
「だから最期にギルスレイドと話したい。そう思ったんだ」
自分がそう望むことすら見透かしていたのだろうか、と。
自分よりも余程年月を重ねたように見えるその眼を見返し、ギルは諦めたように息をついた。
次話から暫くギルの過去編です。
また少し間が空きそうです……。