終焉を前にして
「あまり役に立てなくてすまなかったね」
「そんなことないって」
あのあとも質問を重ね、少なくとも陸路であの施設に向かったものはいなさそうだということが知れた。それだけでも収穫ではある。
「それにしても。あの辺りも昔はもう少し暖かかったんだけどね」
独り言のようなシラーの呟きに、そうなのかとリーが尋ねた。
「ああ。私の若い頃は北側の海岸もまだましだったよ」
「若い頃って……」
「二千年以上前かな」
想像の範疇を軽く超える年数に、リーは隠せぬ驚きを素直に顔に浮かべる。
シラーもまたその驚きが意外だったのか、僅かに瞠目したあとそうかと告げた。
「龍の寿命は三千年ほどだけど。リーは知らなかったんだね」
「別に知らなくていいって言われてて……」
龍は長命であると知ってはいたが、故郷の護り龍であるネイエフィールは、お前が龍の死に出会うことはないから、と言って詳しく教えてはくれなかった。
ネイエフィールにしても、ほかの龍たちにしても。長く生きるとは知っていても、彼ら自身がこれまでどれだけの時を重ねてきたのか、そしてこれからどれだけの時を生きていくのか、自分は知らない。
「まぁ龍はあまり最期を看取られようとしない種だからね」
「……シラー……も?」
もう己の死期を悟っているようなことを口にしていたシラー。
それが近付けば、ディリスの前から姿を消すつもりなのだろうか。そしてそうなれば、あれだけシラーを慕うディリスは何を思うのだろうか。
魔物である龍、人と同じ感覚ではないかもしれない。しかし自分の知る龍たちならば、その別れを寂しく思うに違いない。
「……もしその時にまだディリスが一緒にいてくれるのなら、ここで終えてもいいかな、と思うよ」
翳るリーの瞳に安心させるかのように穏やかな視線を向けて、静かに言い切るその様子はやはり慈愛に満ちていて。
リーには見届けられぬ先の話。しかしきっとディリスを悲しませるようなことはしないだろうと思えた。
ならば自分が心配することなど何もない。
隠したところで気付かれるので素直に安堵を顔に出し、そっかと呟く。
「シラーは二千八百歳なんだな」
「龍の中では二番目だよ」
逸らした話題にそのまま乗るシラー。浮かぶ謝意には気付かぬ振りをして、リーは問いを重ねる。
「まだ上がいるのか」
「長らく会ってはいないけどね」
懐かしそうにシラーが微笑んだ。
ミゼットが戻ってくるまでの二時間ほどは、四人で話したりディリスと遊んだりして過ごした。
懲りずにフェイが山頂一面を罠だらけにする方法をディリスに伝授していたので、人にとっての殺傷能力の高さをふたりにちゃんと教えなおしておく。
加えてフェイの方にはミゼットが戻るまで説教してやろうかと思ったが、そこそこでシラーにやんわりと止められた。
やがて戻ってきたミゼットは、道中には変わった様子がなかったことと、視覚阻害魔法をかけなおしたことをシラーたちに伝える。魔法の効果が弱まる頃には今回ミゼットが通った痕跡も消えているだろうということだった。
「色々とありがとう。ここに棲むことに決めたよ」
「何か不都合があればいつでもどうぞ」
何やらこちらに眼差しを向けるミゼットに話は聞けたと頷いてから、リーも改めてシラーに頭を下げる。
「話してくれてありがとう」
「いや。こちらこそ世話になったね」
シラーはそう応えながら、促すようにディリスに触れた。少し逡巡するようにシラーを見上げてから、ディリスもまたリーたちへと頭を下げる。
「ありがとう。……それと、いきなり行ってごめんなさい」
「シラーのためだったんだろ。気にしちゃいねぇよ」
アディーリアにするようにその頭を撫でると、くすぐったそうに笑ってもう一度礼を言うディリス。
「なんかあったらすぐ来いよな」
ミゼットたちが調査で訪れたのは一の月。そして今は四の月。おそらくその間、ディリスはひとりでどうしようかと悩んでいたのだろう。
そしてシラーもまた、そんなディリスを見守っていたに違いない。
そこにあるのは互いへの愛情と信頼。そんなふたりを少しでも手助けできてよかったと、今は心から思う。
すべてを見透かす龍の眼には、そんな思いも透けていたのか。屈託ない笑みとともに、そうするよと返ってきた。
礼と別れを告げ、リーたちは帰っていった。
「ハルヴァリウス」
フェイが飛び去った空を見つめながら、ディリス―――ヒストシェイドがぽつりと呟く。
「勝手なことしてごめん」
「謝らなくていい」
励ますようにヒストシェイドの背を撫でながら、シラーはリーの前では伝えられなかった感謝を心中述べる。
昨日ヒストシェイドが請負人組織を訪れた時点で、チェドラームトが自分の下へと確認しに来た。移動の意思の有無も候補地もその時に話しており、ドマーノ山へももちろん案内されずとも行くことができる。ヴォーディスでのことも、別に対価はなくとも話すとわかっていただろう。
なのにどうして百番依頼として受けてくれたのか。
若い風龍の気遣いを、シラーはありがたく受け取ることにした。
出逢った龍に幸せをもたらすといわれる、龍の愛子であるリー。リーと自分たちの顔を繋ぐことこそが、彼の意図だったのだろう。
老い先短い自分だけならば断ったが、関わるのは自分だけではない。まだ若いヒストシェイドには、きっと有用な縁となる。
そして、チェドラームトから聞いたもうひとつの名に、自分もまたリーのもたらす幸運に賭けてみようと思ったのだ。
傾き始めた日は辺りを金に染め、潮の香を含まぬ山頂の風は強くはあっても暖かく。ここならばヒストシェイドも、そして自分も、残る日々を穏やかに過ごせると思われた。
―――自身の最期が近くなって、思い出すのは彼のこと。
自分では到底彼の苦悩は理解できないが、それでも今彼に一番近いのは自分である。
自分はもうすぐ荷を下ろせる。だから最期に少しでも、彼の荷を分けてもらえたなら―――。
「……それに、ヒストシェイドのお陰で私ももうひとつやりたいことを見つけられたよ」
穏やかに呟くシラーを、ヒストシェイドは首を傾げて見上げていた。
リーたち一行が本部に戻ってきたのは夕刻だった。
報告よろしくねぇ、と颯爽と立ち去るミゼットを這いつくばったまま見送ったリー。落ち着くまで、回らぬ頭で考える。
ヴォーディスにあった反組合の施設は、シラーの話を踏まえると二十年以上前からあるようだ。
脳裏に思い浮かぶのは、アーキスのうしろに隠れる白銀の髪の少年。
あの施設で生まれたという、ハーフエルフのレーヴェ。見掛けは十五歳程度だが、もしかすると実年齢はもっと上なのかもしれない。
とはいえ、今となってはわからぬことであり、わからなくてもいいことなのだろう。
マルクから話していいと許可が出たならアーキスにも話して、まだ自分には慣れてくれていないが、そのうちレーヴェともそんな話ができるようになればいい。
長く同じような境遇に置かれていたエルメが変わってきたように。その頃にはレーヴェも笑えるようになっているかもしれない。
そんな風に思考を渡り歩くうちに、どうにか動けるようになったリー。
「少しは復調も早くなったか?」
立ち上がるとそう笑うフェイを不貞腐れて睨みつける。いつも待たせることは悪いと思っているのだが、どうにも一言多い。
「知らねぇよ。ほら、報告行くぞ」
「いや、俺は別件があるから任せた」
一方的に言い残し、フェイは受付棟ではなく本部の建物へ向かって歩いていってしまった。
律儀にも動けるようになるまで待っていてくれたことに、礼も言えないままであったが。
(またそのうち一杯奢ってやるか)
奢る理由など言うつもりもないが、それでも受けてはくれるだろう。
あれでも龍なのだから、こちらが思う以上に色々わかっているのかもしれない。
そうは見えないけど、と独りごち、リーは受付棟へと向かった。