君、ネットに僕の悪口書いてたよね
「君、ネットに僕の悪口書いてたよね」
「えっ」
その言葉に一瞬、頭が真っ白になったおれはハッと我に返り、慌てて「だ、誰ですか」と付け足した。でもそれはそう、嘘でもごまかしでもない。本心だ。おれは見た瞬間、その男の姿に全く覚えがなかったのだから。
「ちょっと歩こうか」
そう言われ、おれは素直に従った。肩に置かれたその男の分厚い手から異様なまでに熱と力強さを感じ、すっかり気圧されてしまっていた。
二人、並んで道を歩く。おれは俯き、自分の靴を見つめながら転ばないよう気を付けている。緊張で足に変な力が入りそうだったのだ。男が言う。
「今日は何をしていたんだい?」
「は、はい、あ、あの、そこのショッピングモールでちょっと買い物を」
「うん。ベンチに座ってスマホをいじっていたね。また誰か芸能人の悪口でも書いていたのかな?」
「は、はい、あ、いえ、そんな、そんなことは」
「ははははははっ! じょーだんじょーだんさぁ! ははは、はぁ!」
「ひっ、あ、あははは……」
男が今日は良い天気だぁ……とぼやき、空を見上げたので、今の隙に走って逃げられないかとおれは後ろを向く。と、それを見抜いたかのように男はおれの背中に手をそっと添える。
「ははは、ほらぁ、前をよく見ないと自転車が来てるよ」
「あ、す、すみません……」
今すれ違った自転車のおばさんも他の通行人もおれたちを、いや、男に必ず一度は目を向けるようにして過ぎ去っていく。
浅黒い肌、深く被った帽子。筋骨隆々でピッチリとした黒のTシャツ。身長はいくつだろうか、180、190? 格闘家? ヤクザ? わからない……いや、待てよ。思い出せ。『ネットに僕の悪口』『また誰か芸能人の悪口』じゃあこの男は芸能関係者なのか? いや、そもそもどうしておれを……。
そう考えるおれは、その疑問を怯えたように声を震わせて口にする。
「あ、あの、どうして、おれが、いや、あなたの悪口とか全く身に覚えもな――」
が、おれの言葉は男の大きな咳払いで掻き消された。痰が絡んだような、あるいは怒りが篭ったような。
「うう、ん。あー……ふふっ、SNSに大学の学生証を載せちゃあ、ダーメでしょーう」
「あ……」
「合格して、はしゃいじゃったのかな? 短慮短慮。はっはっはっはははぁ!」
おれは男の笑いの最後にある、気合入れのようなその「はぁ!」を本当にやめて欲しかった。が、そんなこと言えるはずもなく、ただ愛想笑いするしかできなかった。
「個人じょーほう! 個人じょーほう! 君たち一般人は芸能人と違って顔も名前も出してないから油断しちゃったのかなぁ?」
「いや、あの油断とかじゃ……」
「匿名万歳だよねー! 君らからしたらさぁ! でも、お金はあるからさぁ調べようと思えば、ね。まあ、訴訟して開示してもらうこともできたけどねぇ! 匿名、とくめーい! ……それはね、魔法の鎧じゃないんだよ?」
「あ、は、はい……」
「それにね、芸能人と言えど一人の人間なんだ。傷つくよぉ? あんな好き放題書かれちゃあね!
ん? じゃあ、見なきゃいいだろって思った? ん? そもそも書かなきゃいいんじゃないか? だからこんな風に困ったことになるのさぁ」
「あ、い、いや、あの、そもそも、おれ、あ、僕は悪口なんて……」
んー? と男が帽子を取り、おれを見下ろした。
逆光で目を細める中、影でより色濃くなった男の浅黒い顔の中に、おれはその面影を見る。
「あ、あ、あ、君は、あの子役タレントの……?」
おれがそう言うと彼は二ッと笑った。
間違いない。あいつだ。ここあ、神田心愛だ! でもじゃあ、おれより年下で、今は中学生くらいじゃないのか? 顔は確かにあの時とほとんど変わっていないが、その体は……という顔をするおれを見つめ、察したように彼は言う。
「ああ、おっきいだろう僕。筋トレしたんだぁ。成長期だね。あ、驚いたかい? 君はあれだね、昔、SNSにこう書いたものね。『神田のクソガキはホルモン注射で成長を遅らせてる。実際は三十代のおぞましいクソ中年だ』ってね」
「い、いや、あのあれは冗談というか、その、おれの好きな女優さんと、ちょっとうざい絡みを、あ、共演されていたので……」
「うんうんうん。エロガキ死ねとかムッツリスケベキモイだとか、たくさんの人にネットで叩かれたなぁ……」
神田はそう言うと、また空を見上げた。哀愁漂うその姿はやはり中学生とは到底思えない。
幼い頃からこの芸能界を泳いできた人生経験の豊富さがそう見せているのかもしれない。
尤も、最近はテレビで見かけることは無くなったが、まさかこんな姿になっていたとは。初見時の衝撃はいつまで経っても消えない。
「他にも『あざとい、死ね』とか『神田、心と愛なき子』とか『かわい子ぶるなキモイ』とか『生理的に無理』『ココアというかクソ』『芸能界で一番嫌い』『あのクソおかっぱ頭。引き千切りてぇ』『ゴキブリの擬人化』『漫画に出てくるウザいガキの実写版』とか君は、君たちはよくもまぁ小学生に向けて、そんな悪口を書けたものだねぇ」
「いや、あの、その、すみません……あ、でも、どうして会いに……?」
「それはね……君を殺しに来たんだよ」
「え! え、あ、え」
「じょーだん! じょーだんさぁ!」
神田はそう言って、おれの背中をバシバシと叩き、大笑いした。
通り過ぎた喫茶店の窓ガラスがビリビリと震えるような、そんな大声で笑う神田は確かに年相応の中学生のようであったが、その体格はやはり目を瞑ることはできず、まるで力加減を知らない大きい子供。かつて小さい大人と揶揄されたことがあったが、そのおぞましさは変わらないように思えた。
「で、でも、それじゃなんで」
「啓蒙さ……。もう、誰にも悪口を書いてほしくないんだよ。僕のことだけじゃないよ。芸能人、ううん、人間全部さ」
そう言うと神田はとうとうと語り始める。悪口は自分自身を蝕む、天に唾を吐くような行為だと。
「じゃ、じゃあ、明らかに因果応報というか不倫とか嘘とか馬鹿やったり言ったりして炎上した芸能人も?」
「うん、悪口を書いては駄目さ」
「正当な批判もひっくるめて誹謗中傷だと言って、弁護士に相談することを検討していますって謝罪と脅しを一つの文書で纏めてくる奴にも?」
「あ、ああ、悪口は駄目さ」
「芸能人の誰かが自殺して、それを勝手に誹謗中傷を苦にってことにして、自分もあの時は本当につらかった。ネットは悪って、その人と比べて明らかに自業自得、身から出た錆なのに便乗して被害者ぶる自分の醜悪さに気づいていない連中のことも?」
「駄目さ。いや君、かなりこじらせてるね」
「……わかりました。もう二度と、SNSに人の悪口を書きません」
「そうか、良かったよ。ほら、これで世界は一歩、平和になったんだ。……君の心もね」
そう言うと神田はおれの肩を軽く叩き、歩いて行った。
彼はあの大きくなった背中に何を背負っているのだろう。どんな人生を歩み、そしてこれからどうしていくのだろう。
スマホの画面、文字と写真だけの世界では感じ取れない熱をおれは感じた。
……という顔をして、そろそろ――
「はいカットォ! 二人ともすごく、よかったよぉ! 役に入り込んでたねぇ! 神田くんとぉ、あと君はちょっとアドリブ入っていたけどまあオッケー! あとは別撮りで『やめよう誹謗中傷!』ね!」
「あざまーっす! いやー、神田さんさすがでしたねぇ!」
「いやーははは、実際、あの時は苦しかったですからねぇ。肩、大丈夫ですか? ちょっと力が入り過ぎたみたいで、あはは、どうしてかなぁ」
と、おれは監督と神田にペコペコと頭を下げた。
政府主導の『SNSの誹謗中傷やめようキャンペーン』そのショートドラマの神田の相手役、誹謗中傷する一般人役に選ばれた売れない役者のおれだったが、中々の好感触。うまく行ったようだった。
そして、帰り道。ネットカフェに寄ったおれはパソコンからSNSの裏アカにこう投稿した。
【神田のゴミガキを久々に町で見かけた。ドラマの撮影らしい。隣の男は中々カッコよかったが、神田はマッチョキャラのフィギュアと子供キャラのフィギュアの首と首を挿げ替えたようなキモさがそこにはあった】
おれは心が満たされていくのを感じた。これがおれの平和なのだ……。