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幼馴染の披露宴

作者: 友里

ご閲覧、ありがとうございます。

7/28 一部描写に加筆修正。

7/26 28 30 誤字脱字報告、感謝申し上げます。

 お袋に叩き起こされたはずの俺は、まだ夢の中に居る。


「今、何て」


 夢の中のお袋は首を横に振り、やれやれといった表情で口を開く。


「今日、貴音ちゃんの結婚披露宴だから。あんたも早う準備しなさい」


 そう言っていそいそと出かける準備を始めだした。意味が分からない。事前に聞いていないし、報道もされてもいない。そもそもはいそうですか、といきなり結婚披露宴って出れないだろ、招待状とかもらってないし。凝った夢だなぁ、早う覚めてくれないかな。夢の中でも礼装着たりネクタイを締めたくない。


「早う、そこボケっと突っ立ってないで用意しな」

 

叩かれた頭が痛い。おかしい。夢の中で痛みを感じるわけない。だけど忙しなく響く足音、ムース特有の匂い、目の前に出された新調したスーツが、これは現実なのだと訴えていた。


「なん――」


「何でも何も。あんた、事前に言ったら行かんかったでしょう。仕事入れたり無理やり予定入れて」

 

そんなわけない、と言いかけて言葉を飲む。事実その通りだ。何かに託けて断っていたと思う。あいつに合わせる顔が無い、寧ろ俺の顔なんか見たくもないだろう。それだけのことをした。だからこそ分からない、彼女が俺を招待した意味が。


「そりゃ幼馴染の家族だけ招待して当の本人は省くって訳にはならんでしょう」


 それは――そうかもしれない。長い付き合いだからこそ、余計に。いや、まて。


「俺、今口に出してたか」


「いんや、なんも。あんた、考えてることを全然口にしないからね。でも腹ぁ痛めて産んで、二十何年一緒に暮らしてたら考えてることくらい分かるよ」


 早う顔洗って準備しなさいと言い残して、お袋は部屋を出て行った。さて。


「準備するか」


 兎にも角にも、俺にはスーツを着る選択肢しか残されていないのだから。


 顔を洗い着替えを済ませて、リビングに行くと、スーツ姿で食卓テーブルに腰かけている親父とソファに座る那月がいた。


「行く決心、付いたんだ。行かないもんだと思ってた」


「出席になってる以上、行かないわけにはいかないだろ」

 

行く行かないで議論できる期間はすでに終わってる。よほどのことがない限り出席しなければならないだろう。それは社会人として当たり前のことだし、礼儀だ。


「あっそ」


 那月は不機嫌そうにリビングを出て行った。なんなんだあいつ、訳分からん。今のどこにキレる要素が分からん。朝早いから不機嫌なのか。


「那月に腹を立てるなよ、お前が起きるの遅いんだからな」


「そんなの知らないよ。今日は元々休みで遅く起きるつもりだったんだから。披露宴があるならもう少し早く起きたり事前に用意していたさ」

 

前日に言ったらお前、予定入れただろう、とお袋と同じことを言って親父はコーヒーを啜った。別に行きたくないわけではない。ただ、急すぎて頭が付いていけていないだけだ。そういえば、と俺は起きてから抱いていた疑問を口にした。


「新婦は分かったけど、相手の新郎は誰」


「ん、相手か。相手はなぁ――」

 

相手の名前を言うところでお袋に呼ばれた親父はすまん、話はまた後で、とお袋の後を追って行った。全ての用意を済ませていた俺はぼぅと、皆の準備が終わるのをコーヒーの湯気が消えるまで眺めていた。

 

家を出て車で未だ何処なのかも分からない会場へと向かう。冷房を強く入れているからか少し肌寒いけど、うだるような外よりマシだ。窓から見える景色はいつも見ているはずだが、今日は何処か別の場所のように感じる。


「兄貴さ、いい加減覚悟決めなよ」

 

声のする方を向くと、隣で携帯をいじってる那月がこちらに目線を上げていた。覚悟ってなんだよ。何に対して、どう覚悟すりゃいいんだか。


「別に兄貴がいいならいいけどさ。そういうとこ、昔から嫌い」

 

そう言って、那月はまた携帯に目線を落とした。先ほどまでのふわっとした空気感から重苦しい空気に変わったのに、親父もお袋も何も言わない。ただ、黙っていた。空気を変えようにも、妹に反論する言葉も別の話題も思いつかなかったから、結局窓の外に目を向けた。青々とした木々は少しずつビル群へと変わる。ビルに反射する太陽の光は眩しくて鬱陶しい、だからといって目を背けても、次は何処を見ていたらいいのか分からない。どうしようもなくなり、目を閉じて会場につくのを待つことにした。


 市内のとあるホテルに着き、受付を済ませ、指定された席へと向かった。あたりを見渡すと、席の大半が埋まっていて、俺たちは最後から数えたほうが早い着席だったらしい。


「見て、あそこの卓。森山健。あっちは佐藤恵に加藤詩乃。あっ、向こうは遠藤康晃と宇佐美伸司。凄いねぇー、テレビで見たことある人ばっかり」

 

それはそうだ、新婦はあの華山貴音なのだ。俳優、女優、モデル、芸人、アスリート、エトセトラエトセトラ。彼女の交友関係は幅広いだろう。一般人を探すほうが難しいのではないか。


「後でサインとかもらえないのかねぇ、こう幼馴染特典とかで」

 

そんなもんある訳無かろう。いくら無礼講でも披露宴の席だぞ。そもそも幼馴染特典ってなんだ、親戚感覚か。


年甲斐もなくはしゃぐお袋を親父がたしなめると、ふと思い出したようにお袋に問いかける。


「そういえばお前、純一に教えてなかったのか」


「どのことさ」


「ほら、貴音ちゃんの相手」

 

あぁ、そうだった。まだ新郎について教えてもらってない。そこらを見渡してもそれらしい表記は見当たらないし、受付もお袋が済ませたので相手の名前も見れていない。


「純一は相手の名前知りたいのかい」


「別にいい、もう出席してるし。始まったら相手分かるから。あいつの選んだ相手だ、いいやつだろうよ」

 

気にはなっていた。あいつの相手が誰なのか、どんな性格のどんなやつなのか。でももう知る時間はない。なら、分からないままでいい。

 

そうかい、と寂しそうにお袋は目を伏せる。それ以降、俺に話しかけてくることはなかった。

 

那月は席に着いても変わらず携帯をいじっていた。はしたない、マナーを考えろ、そろそろ電源を落とせ、と言ってもうるさい、あんたには関係ない、言われなくても始まる前には切る、と躱される。何が那月をそうさせるのか、そうまでして連絡を取っていたい相手なのか。分からない。何を言っても無駄であると悟り、披露宴が始まる前に喫煙所に行くと伝え席を立った。なんとなく、この場に居づらいと感じたから。

 

喫煙所に入るとすでに先客がいた。別に喫いたかったわけではなかったので、邪魔にならぬよう隅で時間が過ぎるのを待っていた。


「君、これ喫うか」

 

目を向けると、四十代くらいの髪を整髪料で整えたスーツ姿の男性が煙草を差し出していた。きっと俺が煙草を忘れてきたのだと思ったのであろう。


「いえ、大丈夫です。お心遣い痛み入ります」


「遠慮するな、誰しも忘れてくることはある。ラークだがいいかね」

 

丁寧に断ったつもりだった。だがこれ以上断るのも失礼だと感じ、受け取る。火は男性が点けてくれた。大きく吸い込むと入り過ぎたのか咳き込んでしまう。やはり、慣れないことはするべきではなかった。


「煙草を吸うのは久しぶりかい、勢いよく吸い過ぎだよ」

 

男性は笑いながら俺の背中をさすってくれて、私にもそんな時期があったなぁ、と目を細める。


「どうして俺が久しぶりだと」

 

確かに喫い方は下手くそだったかもしれない。でも人によっては細かく吸うし、逆に間を空けて大きく喫う人もいるんだから、答えにはならない。だから疑問になった。どうしてこの人は分かったのだろうか、と。


「目だよ」


「目、ですか」


「そう、目。人って生き物は、目で何かを伝えることができるのさ。例えば、君は別に喫いたいわけではなく、ただ何となく喫煙所に来た。ここまでは合ってるかい」


「えぇ」

 

当たっていた。いや、まぁ当たり前か。喫煙所に来たならすることは一つしかないからな。喫煙しないのに来るやつなんかいない。


「この時間帯なら誰もいないと思っていたが、喫煙所には私がいた。今更何処か別の場所に移るのは面倒だし、もしかしたら同伴者が探しに来るかもしれない。だから君は邪魔にならぬよう、隅で時間をつぶすことにしたんだ。どうかな、私の推理は」

 

男性はまるで俺の心が読めていたかのように思っていたことを言い当てた。偶然か。いや、この人は自信をもって言っている。本当に目を見ただけで分かったというのか。分からない。


「いえ、間違ってはいません。貴方の仰る通り。ですが、何故同伴者がいると分かるんですか」

 

それはよかった、間違って無くて。と男性は紫煙を吐く。そしてこう続けた。


「男でも手荷物は持っているものだ。それがないということは、預ける相手がいるということ。君は妻帯者ではなさそうだから、家族かな、ってね。話を戻すけれど、人は目で何かを伝えることができる。それは怒りだったり、憎しみだったり、悲しみだったり、喜びだったり。例えば私が喫いもしないのに部屋の隅に居座る君を睨み付けたとする。この場合、私が伝えているのは」


「邪魔、ですかね」


「その通り」

 

なんとなく、彼の言っていることは分かった。目尻が上がったり下がったりで喜怒哀楽は伝わる。それでも、具体的な詳細は分からないと思う。


「歳を取るとなんとなく分かるようになるさ。経験だったり、かけた月日だったり」

 

そうだこれを、と男性は俺に小さなスプレー缶と丸いケースを差し出した。


「煙草の匂いは消す、これは喫煙者のマナーだよ。――おっと、もうこんな時間か、そろそろ戻らないとね。君も早く使うといい」

 

確かにその通りだ、と厚意に甘え使わせてもらう。返そうと視線を男性に向けるとそこには誰もいなかった。このフロアはあの大広間一つだけだから、おそらく彼女の披露宴の参加者であろう。名前は分からないが、顔と衣服の柄は覚えている。後で返そうと、俺はポケットにしまい込み喫煙所の扉を開く。来た時のもやもやした感情はいつの間にか少しスッキリしていた。しかしあの男性、どこかで見たことあるような気がするのは何故だろう。

 

戻る前に一応身だしなみの確認をと思い、お手洗いに向かっている途中、聞き覚えのある声が聞こえた。


「華山が結婚かぁ、ビックリじゃね」


「な、マジそう思うわ。高校生の時からこいつ下手な芸能人より綺麗じゃね、って思ってたけど、今じゃ国民的大女優だからな。はぁー告っとけばよかった。ワンチャンあったと思うわーマジ」

 

廊下の角で三人の男女が話している。あれは、多分高校の時同じクラスだったやつだ。名前は覚えてない。


「無理無理、お前じゃつり合いが取れんて、寧ろマイナス。吉沢もそう思うだろ」

 

吉沢と呼ばれた女性は眉をひそめた。彼女は確か、華山と仲が良かったはずだ。そうか、高校の同級生も呼んでいるのか。それもそうか、呼ばない理由がない。


「興味ない」

 

そう言って背中を壁に預けると、彼女は携帯をいじり始めた。


「んだよノリわりぃなぁ。そう言えばよ、クラスに居たよな、ノリわるい奴」


「あー、居た居た。何だっけ、えーと、そう、ジミーだジミー」


「あいつな。教室の角でいっつも一人で勉強してた奴だろ。覚えてるわ」


「俺らあいつに宿題めっちゃ写させてもらってたよなぁ」


「それなー、マジ感謝。全然話すことなかったけどさ、ジミーのおかげで留年しなくて済んだわけだし」

 

俺はジミーと呼ばれていた、らしい。誰かに確認を取ったわけでもないし、自分から名乗ったわけではない。あの頃は一人になる時間が欲しかった。大学受験も控えていたし、ただひたすら勉強に没頭した。そんな俺を、周りは変なものを見るような目で見ていたことにも気づいていた。でも気にも留めなかった、同窓会に参加する予定もなかったし、クラスメイトとは二度と会うことはなかったと思っていたから。


「ジミーも披露宴に呼ばれてるんかな」


「ないでしょ、華山と接点あるように見えなかったし」


「それなー」

 

彼らは俺が呼ばれていないと思っているようだ。クラスで彼女と話すこともなかったやつが呼ばれているなんて普通思わない。俺だってそう思う。……そろそろ会場入りしなければ、お手洗いはまた後でいい。


「そういえば華山とジミーが付き合ってるって噂あったよなー。信憑性なさ過ぎてクソ笑った記憶あるわ」


「それなー。華山、自分が誰かと付き合ってるって噂が流れると、必ず否定していたし。でも、ジミーとの時は否定してなかった気がするなぁ」

 

戻ろうと右足を一歩踏み出そうとしたときに、その会話は聞こえた。


「んなの、華山まで噂が回ってこなかったんだろうよ。もしくはそもそもジミーを認識してなかったか、だな」


「さすがに認識はしてんじゃねーの、地味男君のこと」

 

この場を離れようにも、足は床と引っついたように離れない。身体が酸素を欲しがって、もっと早く呼吸をしろと訴えてくる。首筋を流れる汗が気持ち悪い。落ち着け、大丈夫だ。息を大きく吸え。大きく吸うことだけを考えろ。


「あのさぁ」


それまで携帯をいじっていた手を止め、彼女は顔を上げた。


「めでたい日に人の悪口言ってて楽しい? あり得ないんだけど。あんたらが出席するんじゃなくて、綾崎君が出席したほうがまだマシ」


眉間にしわを寄せ、彼女は不機嫌そうに二人の顔を睨み付ける。

再び携帯へと目を落とし、そのまま会場へと向かってゆく彼女を、彼らはバツが悪そうにして追いかけた。


「ごめん、悪ノリが過ぎた」


「悪かったって、思い出したらつい。機嫌直せって、なっ」


両側から話しかける彼らを、彼女は歯牙にもかけなかった。

足音が完全に聞こえなくなるころ、少しずつ身体の自由が戻り始めた。時計を見ると、あと十分ほどで始まってしまう。


「早く、戻らないと」

 

先ほどまで床と同化していた足は、それが嘘だったかのように離れる。だけど、ここに来た時よりも確実に重たくなっている気がした、まるで鉛になったかのように。俺は、引きづるように会場へと歩を進めた。

 

会場に戻ると、眉をハの字させた父がこちらを向いて早く席に着きなさいと催促する。


「お前な、ぎりぎりで戻って来るやつがあるか。もっと余裕を持って行動しなさい。こんな当たり前なことを言わせるんじゃない」

 

まったくもってごもっとも。言い返すこともない。だが、俺の異変に気付いたか、聞く耳を持ってないと判断したのか、それ以上言ってはこなかった。

 

暫くすると照明が落ち、先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように静まってゆく。


「皆様、本日はお二人の結婚ご披露宴にお越しくださいまして、誠にありがとうございます。新郎新婦のご入場の準備が整ったようでございます。早速皆様のもとへお迎えしたいと思いますが、お二人のお顔が見えましたら、皆様どうぞ大きな拍手でお迎えください。また、本日は新郎新婦のご家族、ご友人、関係者のみの会式となっております。カメラ等でのご撮影はご遠慮いただきますようお願い致します、それでは入場口にご注目ください」


 会場内の視線が扉に集まる。誰もが司会者の言葉を固唾を呑んで待っていた。司会者もそれを感じてか、少し長く台詞を引っ張っていた。そしてその沈黙を破った。


「新郎新婦、ご入場」


 扉が開かれる。割れんばかりの拍手とともに、二人は姿を現した。汚れ一つない白いタキシードを着て、新婦をエスコートする新郎。その横で、肩口の空いた純白のドレスを身に纏い、自己主張しないティアラとネックレスを上品に身に着けた新婦。絵に描いたような美男美女がスポットライトを一身に浴びて、ゆっくりと、ゆっくりと会場を歩いてゆく。扉が開くまでは新郎が誰だったのか、面をちゃんと拝もうと思っていた。だけど、そんな気持ちは彼女を見た瞬間忘れ去る。


「綺麗だ」


 そう思ったとき、踏まれたような痛みが右足を走った。隣に視線をずらすと、那月は何食わぬ顔で手をたたいていた。多分口に出していたのだろう。でも足を踏むほどのことではないだろ。少しムッとするが、自分が悪いのは火を見るよりも明らか、俺は視線を戻して、再び手をたたいた。


 新郎新婦が着席したタイミングで、新郎の顔を見た。どこかで見た顔だ。どこだっただろう。高校の同級生か、いや違う気がする。なら俺の知らない交友関係か、だったら顔を見たときの既視感は何だったのだろう。


「それでは只今より、新郎一樹さん、新婦貴音さんの結婚ご披露宴を開宴致します。開宴にあたりまして、まず始めに、お越しいただきました、皆様に新郎新婦からご挨拶がございます。それでは新郎一樹さん、よろしくお願い致します」


 一樹と呼ばれた新郎はその場で立ち上がり、一礼すると口を開いた。


「本日は、私たち二人の結婚披露宴にお越しくださり、ありがとうございます。先ほど、とても素敵な結婚式を無事執り行うことができました。小さな式場だったため、お呼びできる方が少なかったこと、この場を借りてお詫び申し上げます。誠に申し訳ありません。今私は、貴音さんと結婚できたことをとても嬉しく思っております。私たち両親に負けぬくらいの仲睦まじい夫婦になって見せます。また、本日のお料理は私たち二人が最初にデートしたレストランのシェフにお願いして最高のおもてなしをご用意しいただきました。是非楽しんでいってください」


 カンニングペーパーを見ることなく、挨拶の間新郎は会場内の来賓の方々に視線を向けて、感謝の念を送っているようであった。そのとき俺と視線が合う時間が長く感じたのは、気のせいだろう。


「お二人を代表して新郎一樹さんのご挨拶でございました。さて、さっそくではございますが、本日お越しの皆様の中には、新郎新婦と初めてお会いになる方々もいらっしゃることと存じます。ここで司会より、ご夫婦になられましたお二人についてご紹介をさせていただきます」


 そうして司会はつらつらと新郎新婦の生まれや来歴を話しだした。どうやら新郎は進藤一樹というらしい。彼の職業が俳優であったから、既視感もうなずける。著名人の来賓が多かったのも新婦の影響だけじゃなかったということか。


 数年前に同じ作品で共演したことが、二人の出会いだったようで、歳が近かったためすぐに仲良くなった、らしい。新婦の経歴は知っている。ほとんど俺と同じ経歴だ。高校卒業と同時に女優業に専念して、今やテレビで見かけないことはない。


「新郎新婦お二人のご紹介をさせていただきました。それでは、ご紹介させていただきましたお二人に、来賓の皆様を代表していただきまして、ご祝辞を頂戴したいと存じます。お二人の先輩でありご友人の俳優の武田勇人様よりお言葉をいただきます。武田様どうぞよろしくお願い致します」


 拍手とともに現れたのは、喫煙室で一緒になった男性だった。男性は一礼すると、スゥっと息を吸い込んだ。


「一樹君、貴音さん、このたびはご結婚おめでとうございます。両家のご家族ご親族の皆様にも心よりお喜び申し上げます。私、ただいまご紹介にあずかりました、一樹君、貴音さんの友人の武田勇人と申します。はなはだ僭越ではございますが、一言ご挨拶致します」


 武田と名乗った男性は、二人との出会いを話し始めた。新郎の演技指導を行ったこと。新婦と共演した作品のことや、裏方の方への気遣いの良さ。二人の仲介を取り持ったことなど余すことなく。俺は女優になってからの彼女をあまり良く知らない。だからこうして同職の方の話を聞くと、すぐそばにいたはずの彼女がどこか遠い存在になって、自分とはもう関わり合いになることもないのだろうと思った。


「これから、仕事と家庭の両立に悩むことがあるかもしれませんが、優しく頼もしい一樹君、何事にも前向きな貴音さんならきっと良きパートナーになると存じます。私たちも精いっぱいサポートさせていただきます。長くなりましたが、お二人の輝かしい未来をお祈りしまして、お祝いの挨拶とさせていただきます。末永くお幸せに」


 武田さんは深く一礼して自席へと戻られる。会場は長い間、大きな拍手に包まれたが、俺にはただのうるさい雑音に聞こえていた。


「武田様、ありがとうございました。皆様を代表いただきまして、お祝いのお言葉を頂戴いたしました。皆様からあたたかな祝福をいただいている新郎新婦ではございますが、ここで一つ、大切なセレモニーをご披露いただきたいと存じます。結婚披露宴には欠かせないとされております、ウェディングケーキのご入刀です」


 会場横の扉が開き、少し奥行きのある大きなウェディングケーキが運び込まれてゆく。その間に司会は、ゲストをケーキの前へと誘導していた。中にはカメラや携帯電話を持った者もいたが、アナウンスにより注意がなされていた。


「お二人の大切なセレモニー、しっかりとお近くでご覧いただきたいと存じます。ご遠慮なくお近くへとお越しください。また、新郎新婦にはもちろんのこと、お二人のウェディングケーキにも是非ご注目ください。綺麗なバラをあしらったご新婦貴音さんのイメージそのままのウェディングケーキでございます。それではお二人のお手元にご注意ください」


 会場にいる全員が新婦新郎の一挙手一投足に注目し、ケーキにナイフを入れた瞬間、どっと拍手が沸いた。


「新郎新婦、ウェディングケーキご入刀です。おめでとうございます!さて、ケーキ入刀に続いてはファーストバイトのセレモニーでございます。お二人がナイフを入れられたこのウェディングケーキ、折角ですのでまずは新郎新婦のお二人に、皆様の前で食べさせ合っていただきましょう」


 いつのまにか取り分けられたケーキを交互に食べさせ合い、その都度拍手喝采が響き渡る。心から幸せそうにケーキを頬張る二人は、とてもお似合いだと思うし、これから笑顔絶えない家庭を築いてゆくのだと、自席でその光景を眺めていた。一瞬、会場全体に目を向けていた彼女と目が合う。笑みをこぼしていた彼女は少し悲しげな表情を浮かべると、すぐにまた笑顔に戻り、また会場を見渡していた。


「お二人、本日は本当におめでとうございます。さて、お席へと戻られた皆様のグラスにも乾杯酒が整ったようでございますので、これよりは乾杯へと進めてまいりたいと存じます。本日乾杯のご発声をいただきますのは、新婦の祖父でいらっしゃいます、華山厳様でございます。華山様、どうぞよろしくお願い致します」


 立ち上がったのは一人の老人。背筋が曲がっておらず、歩き方はとても七十後半とは思えないほど堂々としている。マイクの元までたどり着くと爺は目を瞑り、俯いてそのまま静止した。一向に口を開かない老人に対して司会者は慌てた素振りをしていたが、絞り出すような声が聞こえ始めた。


「わしは、この結婚にまだ納得がいっておらん」


 その言葉に会場内がどよめく。親族が結婚を認めないのはたまにある。が、それを披露宴の席でいうことではない。まさに前代未聞だ。だが、一度口火を開いた爺は止まることを知らない。


「始めは、何かの冗談かと思っておった。ドラマや映画の作中表現の結婚式だと。だが違った、違っておった。こうして式は始まって、披露宴の幕も上がり、全ては現実なんだと頭を殴りつけてきおる」


 いつの間にか、聞き入っていた。先ほどまで老人の暴挙を止めようとしていた司会やスタッフや、ほかのゲストたちも爺の言葉に耳を傾け始めていた。


「新郎と顔合わせする前、わしは調べた。どのように生まれ育ち、どのような人となりなのかを。結果は非の打ち所がない傑物であった。ゆえに此度の結婚を認め、祝福しようと思っておった。しかし顔を合わせた時分かった、こやつでは孫を、貴音を幸せには出来ぬと目が訴えておった。その言葉に心はなく、ただの一遍も正直ではなかった。わしは結婚を認める振りをして、乾杯の挨拶を買って出ることにした。最後のチャンスをくれてやるために。新郎、進藤一樹。君は貴音を幸せにできるのか」


 爺は目を見開く。力強く、全てを見通し


ているかのような瞳が余すところなく一人に向けられる。新郎は額から汗を流し、震える声で幸せにして見せますと口にした。


 新郎の言葉を聞いた爺はそうか、と呟き。ならもうなんも言わんと続けた。


「貴様の覚悟は分かった、もう良い。会場に足を運んでくださった皆様に一言お詫びを。老い先短い老人の戯言に耳を貸してくださったこと、披露宴の空気を壊してしまったこと、誠に申し訳ございません。そして一樹君、貴音、すまなかった。では、乾杯の音頭を取らせていただくとしようか」


 その言葉でハッとした人々はグラスを持ち立ち上がる。


「一度誓った約束、違えることなかれ、すなわちそれは死と同義。二人の今後を祝して、乾杯」


 一同にグラスが上がる。誰もかれもが先ほどまでの重い空気をかき消すかのように、拍手は巻き起こった。


「華山様、ありがとうございました。ゲストの皆様もありがとうございました。皆様もどうぞご着席くださいませ。それでは、これより皆様のテーブルへお食事、お酒のご用意を進めさせていただきたく存じます。お二人からの大切なゲストの皆様へのおもてなしでございます。どうぞごゆっくりお寛ぎくださいませ」


 次々と運びこまれてゆく料理の品々。どれもこれもが美しく盛り付けられ、シェフの意匠が施されていたが、俺は目の前の料理よりも、先ほどの乾杯前に言い放った爺の言葉が頭から離れずにいた。あれは、俺が爺に背を向けた時に言われた言葉だった。なぜ言ったんだ、なぜ今なんだ、なぜあの場なんだ、わからない、わからないわからない。俺は、どうしたら良かったんだ。


 会食はつつがなく始まった。母に具合が悪いと伝え、外の空気を吸いに外に出た。母は付き添う素振りを見せたが、断った。今はただ、一人になりたかった。


 トイレに向かい顔を濡らす。少しはもやもやしていたものが晴れると思ったが、そんなことはなかった。顔を上げると青白くなった自分の顔が鏡に映りこむ。道理で母が付き添うと言った訳だ。本当に――


「情けない顔」


 鏡越しに、背後の出入り口から人影が見えた。人影はこちらに近づいてきて正体を現した。


 それは女性だった。いや、多分。きっと女性だ。整った顔の男性にも見えるが、男装の麗人、という響きがよく似合いそうな、そんな人。


「あの、ここ男性トイレですけど」


 一応注意喚起を促す。親切心もそうだが、もし女性なら間違っていると自覚がない場合、俺は女性トイレに忍び込んだ変質者というレッテルを張られてしまう。それだけは回避したい。


「ボクは勘違いしてないよ。大丈夫。ここは男性トイレ。騒ぎもしないよ」


 男性のほうが良かったか、とボソッと言った気がしたが何のことだかさっぱりわからない。


「それであなたはどうしてこちらに。見るからにあなたは女性、ここは男性トイレ。長居する必要はないのでは」


「ん、あぁ、お気になさらず。ちゃんと理由を持ってここに来たのだから」


 否定しないということは女性で間違いない。だとしたら理由とはなんだ。意図は。


「お話をしよう、綾崎純一君。キミに聞きたいことがあるんだ」


 女性は笑みを浮かべていた。



「話って、なんですか。ここで話さないといけないことなんですか、なぜ俺の名前を知っているんですか」


「まぁまぁ、落ち着いて。説明しないとは言ってないだろう」


 笑みを浮かべた女性は鏡に映る俺の目を見つめた。綺麗な黒色の瞳に吸い込まれそうになる。


「まずは自己紹介だ。ボクだけキミの名前を知っているのはフェアじゃないだろう。どこの誰なのかわかるだけで人間はある程度心を許せるからね」


「ボクの名前は海野絵梨。いや、違うな。ボクの名前は天使で良いよ」


 天使?海野絵梨という名は聞いたことがある。演技派子役として一躍有名になって、大人になってからもその人気は衰えないとか、前にワイドショーで特集をやっていた気がする。ただ、天使とはなんだ。あだ名か、それともジョークか。


「あだ名でもジョークでもないよ。ボクは天使。この人間の身体を一時的に借り受けてる。別に誰でも良かったのだけれど、この人間の顔はよく知られているようだからね」


 自分が天使。訳が分からない。間違いなくこの女はイカレてる、正気じゃない。


「何やら色々と考えているようだけれど、ボクは至って正気だ。キミに対しても誠実でありたいと思っている。だから先に打ち明けたのさ」


「あいにく、俺は無神論者だ。でも仮にお前が天使だとして、一体何の用だ」


「キミの過去について、聞きたいことがある」


 そんなもの聞いて何になる。天使を自称するなら俺の過去くらいいくらでも覗けるだろう。


「いや、ね。自分がフッた女の披露宴に出席して、どんな気分なのかなぁって」


 頭が真っ白になり、気づけば女を組み敷いていた。女は俺の目をじっと見つめるだけで、痛がったり声を上げたりはしなかった。


「そろそろどいてくれるかな」


 その言葉にハッとして、俺は身体をよける。別にボクの身体じゃないけれど、身体を返したときに申し訳ないからね、と女は嫌な顔せず、身体を払いながら呟く。


「すまない、ボクの聞き方が悪かったようだ。少し切り口を変えた質問にするよ。キミは、なぜ彼女と別れたのか。言いたくなければ言わなくてもいい。でも、出来れば答えてほしい。人の心を読むのはあまり好きではないんだ」


 話す筋合いもなければ、言いたくもない。押し倒したのだって悪いと思っているが、それはそれ、これはこれだ。だから諦めてほしい。放っておいてほしい。黙ってこの場を立ち去ってくれ。とは言えなかった。こんな状態で相手に関心、自分に無関心な人間がいるのか。見ず知らずの人間の過去をなぜ知っていて、なぜ知りたがるのか。自称ではなく、イカレているわけでもなく、本当にこいつは神の使いなのではないのか、と思っている自分が心の奥にいた。もし天使ならば、俺の話をちゃんと聞いてくれるような気がして。


「それまでは家が近所で仲の良い幼馴染で、きょうだいみたいなもんだと思ってた。高校入りたての頃、彼女に同学年の男子が告白しているところに出くわした。彼はいかに自分が彼女のことを好きか、と綺麗事を並べていたけど、結局は彼女の外面目当てに聞こえた。その時思ったんだ、俺はそんなやつよりも彼女のことをよく知っていて、いつでも彼女の隣に居たいんだって。だから後日告白したんだ」


「結果は了承。俺たちは幼馴染の男女から彼氏彼女の間柄へと変わった。付き合いたての頃は、付き合う以前と何ら変わらなくて、自分たちは本当に付き合っている男女なのかと笑い合った。それからは二人で色々なところに遊びに出かけた。とても、とても楽しかったよ。でも貴音が女優になったことで、日常はがらりと変わっていった」


「高校二年に上がった時、彼女は女優としてスカウトされた。元々その辺の女子が霞んで見えるほどに容姿はずば抜けてた。最初こそあまりテレビ出演やメディアに取り上げられなかったけれど、それは時間の問題だった」


「出演した作品が大ブレイクしてからは、テレビ、CM、ラジオと引っ張りだこになっていた。仕事が多くなった分、必然的に二人の時間は減る。学校では会えても、休日、放課後には会えない、そんな日々が。苦はなかったというのは嘘になるかもしれない。でもテレビで頑張る彼女を見るたび、誇らしかった。こんなにすごい子が俺の彼女なんだって」


 今までせき止めてきたモノが溢れ出る。止めようにも感情という名のダムはすでに決壊していて、それは止まることを知らず、止めるすべを俺は知らない。目の前の女は、俺が再び語り始めるのを黙って待っているようであった。


「ある日、俺と彼女が付き合ってるという噂が立った。俺たちは付き合っているのを公言していなかったし、特段学内でそういった素振りを見せてはいなかったのに。その時は所詮は噂だろうと、そのうち沈静化すると思っていた。でも、実際はそんなことはなく、同学年だけだった噂はいつの間にか学内全域へ拡大していった。遠目に見る彼女も、野次馬に囲まれて日に日に疲れを隠せずにいるようだった。だから俺は、俺と彼女はただの幼馴染であるという噂を流した」


「噂の本人が公言したからか、いつの間にか噂はうやむやになった。はじめは元通りの生活に戻ってよかったと思ってた。でも次第に、俺は彼女の枷になっているのではないかと思うようにもなっていった。元々、付き合っていることが公になってしまった場合、彼女の女優生命に傷を作ってしまうのではないかと考えてはいたし、一度は口にもした。その時は、俺がいることで励みになっている。一緒に居てほしい、と言ってくれて、とてもうれしかったさ。その言葉に甘えている自分がいた。だけどそんな優しい彼女に、これ以上甘えるわけにはいかないとも思ったんだ。だから俺は、彼女と別れることにした。彼女のために。これが事実。これで話は終わり」


 顔を上げると、彼女は背を壁に押し当てて目を閉じていた。人に語らせておいて、話を聞いていたのだろうか。まぁ、いい。聞いていても聞いていなくとも、もうこの話をすることはない。


 少しして、女は目を開きこちらに笑みを浮かべてかすかに呟いた。


「満足したか」


「は?」


「満足したのか」


 なにに対してだ。


「意味が――」


「自己満足には満足したのか、と聞いているんだ」


「聞いていれば、やれ彼女のために、だとか。彼女を想って、とか言ってたけどさ。それって本当に彼女のためなのかい。ボクにはそう聞こえなかったけれどね」


 事実そうじゃないか。彼女は疲労で調子を崩しかけていたし、売り出し中の女優に男の影なんてスキャンダルものだ。俺は彼女を想ってやったんだ。


「いいや、彼女のためを想ってなんてやってないよ。キミは悲劇の主人公ぶって自己陶酔しているだけ。弱虫の意気地なしさ」


 そんなはずがない。俺は正しいことをしたのに、どうしてこんな言われをされなければならない。


「話を頭から整理しようか。キミは彼女とお付き合いをした。しばらくして付き合ってる噂が流れた。そのことに彼女は疲労を溜めて、一歩間違えば人気女優のスキャンダルに成りかねない。慌てたキミはデマを流して、事態を解決。今後を考え彼女と別れた。でもさ、誰が聞いてもこれはおかしいんだ。天使であるボクじゃなくともね」


 なにがおかしい。俺は、俺の持てる限りを彼女のために尽くしたつもりだ。彼女の今後を考えれば俺じゃなくてもそうするはず。


「うーん。じゃあ、答え合わせをしようか、答えはね」


 先ほどまで張り付けていた笑みが消えた。


「そこに一欠けらだって彼女の気持ちがないってことだよ」


 何故だか、耳が痛かった。


「甘えるわけにはいかない。彼女のために。まるで意味が分からないね。それらは全部キミの主観でしかない。どうして彼女を、彼女の言葉が本心であると信じてあげられない」


 それは彼女が優しいから。俺を気遣ってくれていたから。


「彼女は嘘偽りなく正直に思いの丈をぶつけた。でも彼女の寄せる信頼の重さに、彼女に拒絶されてしまうかもしれないという恐怖に、キミは耐えられなかった。だから逃げた。逃げるしか選択出来なかった。自分が傷つかないために」


 違う。


「逃げるにもなにするにも理由が必要だ。周囲に角が立たないような大義名分が。そして彼女の言葉を思い出して、キミは使える、と思ったんだ」


 ちがう。


「彼女の夢を守るために自ら手を引く。本当にいい名分だよ。本当にね。周囲も彼女も納得せざるを得ない。これでキミは重しから逃れて、悲劇の主人公が出来上がった。どうかな。間違っているならぜひ教えてほしいんだけど」


 チガウ。


「おーい。反応してくれないかな。独り言喋ってるわけじゃないんだけれど。もしもーし」


「……たら」


「え、なんだって」


「だったらどうしたらよかったんだよ。確かに俺は逃げたのかもしれない。でもそれの何が悪いんだよ。彼女も俺も、傷つかない。これでいいじゃないか」


 俺はベストを尽くした。何も間違えちゃいない。


「なにもよくはない。彼女は傷ついた。彼女はキミと一緒に歩みたかった。彼女はキミと話し合いたかった。彼女は、別れたくはなかった」


 それは想像であって本当に思っているわけではないだろ。彼女の気持ちを勝手に話すな。お前が彼女のなにを知っている。


「ボクは天使だよ。彼女がどう思っていたかなんて手に取るように分かる。これは彼女の本心。ボクは、彼女をちゃんと知っている」


「嘘も大概にしろよ。いい加減そのうさんくさい芝居も見飽きた。話にならない、俺は行く」


 こいつと話すことはもうない。俺は会場に戻ろうと、ヤツの隣を通り過ぎる。天使を名乗る女は何も言わず、ただ俺が通り過ぎてゆくのを見つめていた。


 ……もし、仮にそうだったとしても。なら、天使。俺はどうしたらよかった。俺は。


「逃げるな」


 女は遠ざかってゆく俺に叫んでいた。


「まだキミは彼女のことが好きなんだろう」


「伝えなよ、君が好きだって。キミは、彼女に伝えるべきだ」


 もう遅い。彼女は結婚したんだ。夫婦になった二人に割って入ろうとは思ってない。それは、あってはならない。


「遅いとか遅くないとか、間違ってる間違ってないとか、そんなものは問題じゃない」


「キミが、どうしたいかなんだ」


 女は肩で息をしながら、足を止めた俺を見る。冷静さを欠き、怒りや憤りがうつるその表情。そこには人間味があって、今まで見えなかった女の本性が垣間見えたようだった。


「ごめん、冷静じゃなかったよ。天使ともあろう者がね。失態だよ、忘れてほしい」


 女は少しばつが悪そうにして肩をすくめる。そしてこう続ける。


「会場に戻るのは今がベストなタイミングさ、ちょうど中座の最中のはずだからね」


「でも、もし、キミが前を向けるのならば、ある控室に行くといい。そこにはある人物がいる。行くも行かないもキミ次第さ」


 そう言い残すと女は背を向き歩きだす。遠ざかってゆく女の背に、俺はふと思い出したように問いかけた。


「お前は一体誰だったんだ」


 女は振り返らずに答えた。


「それは、キミが答えを出せば分かるだろうさ」


 控室までの道のりは、係の人に教えてもらった。係の人は俺を不審に思わなかったようで、控室前まで連れてくる。どうやらエスコート役と勘違いしているようだった。好都合だった。あまりいい言い分は思い付かなかったから。扉は堅く閉じられており、ノックしようとしていた手が止まる。


 本当にこれでいいのか。俺はまた間違えるのではないか。もう手遅れではないのか。そんな不安が俺の心を蝕む。このままノックせず戻ろうかと引き返そうとした時。


「逃げるな」


 あの女の声が聞こえたような気がした。あぁそうさ、全てを捨てて、格好がつかないほど逃げ回った。無様なほどに転げ落ちた。だから、最後に一度だけ、前を向いて伝えよう。どれだけ情けなくても、終わりだったとしても、俺はそれをしなければならない。


 スゥっと深呼吸をして重い扉を開いた。入ってきたのが俺だと知ると、彼女はとても驚いていた。俺は頭を下げ、伝える。


「ごめん、やっぱり君のことが好きだ」


 彼女は黙っていた。俺も彼女の言葉を待っていた。きっと罵られるだろう。今更遅いって。何様なんだって。


 長い沈黙が過ぎ、頭を上げると、何故か彼女は泣きながら微笑んでいて――


 「知ってたよ」


  と呟いた。


 何故。分かるはずない。だって俺は一度だって君に言ったことはない。


「分かるよ。何年の付き合いだと思っているのかな」


 どうして心が読める。


「読んでないよ。純一が言ってるんだから」


 俺は喋ってないぞ一言も。


「考え込むと独り言いう癖、直したほうが良いって昔から言ってるのに」


「そんなことない。あっ」


 ほらね。と口元を隠して笑う彼女は著名な絵画の一部を切り取ったように綺麗で、美しい。


「純一が私の為を思って別れ話を切り出した。その時の私は未成年で、学生で、階段を上がり始めたばかりの女優だったから」


「なんの力がない私は、純一の意思を尊重した。そして決意したの。誰にも文句を言わせない絶対的な存在になるって」


 でも君は今日結婚する、俺じゃない誰かと。俺の知らない誰かと。


「そうね、私は今結婚する。だから一芝居を打つことにしたの。自分の人生を賭けた一芝居をね」


 そう言うと彼女は立ち上がり、口元に手を置きながら部屋の中をくるりと回り始めた。


「今日の披露宴、おかしいと思うところはなかったかな」


「別に何も。強いて言うなら新郎の名前が見当たらなかったことかな。披露宴が始まってから知ったけれど」


 天使のことは黙っておく。天使に会った、なんて言っても頭がおかしくなったとしか思われないだろうから。


「それだけ?」


「他に何があるっていうんだ。別におかしいところなんてなかっただろう」


「ここに来る前にキミは天使に会った、違う?」


「なんで、なんで君が、そのことを」


「ヒントその一、海野絵梨は私の親友」


 何故ここで彼女は海野絵梨という名前を出したのか、どうして海野絵梨と天使を結びつけることができる。……いや待て、彼女はさっき何と言った。一芝居打つ、けしかけた、海野絵梨。


「ヒントその二、私の結婚式はまだ行われていない」


 予告されていなかった披露宴、行われていない結婚式、俺の過去を知っていた海野絵梨、一芝居……まさか。


「披露宴は始めから嘘だった」


 正解。と、彼女はいたずらが成功した子供のような笑顔を向ける。その瞳に映る俺は、ずいぶんと間抜けそうに口をぽかんと開けていた。


「始めから全て? だって、どういう」


「これは劇、会場はシアター。来賓の方たちは皆キャスト。君は観客兼、キャスト」


「新郎は」


「友達の俳優さん。彼、今度結婚するからその予行演習にどうって聞いたら受けてくれたの」


「俺のお袋と親父は」


「私が説明して了承してくれたの。純一のスケジュール把握のために」


「那月も」


「那月ちゃんは純一の行動を逐一報告してくれる伝令係。純一が何かアクションを起こすたびに演目が始まるようにって」


 あぁ、だからあいつ携帯をいじっていたのか。


「喫煙所のおじさんも高校の同級生もか」


「そ、あのおじさんは西山英寿。よく刑事ドラマとかに出てるんだけれど、あまりテレビを見ない純一は知らなかったか」

「吉沢さん達も演者の一人。後で山田君と高木君に会ってあげて。君のこと焚きつけようとしてくれてたんだけど、悪く言い過ぎたから、謝りたいって言ってたよ」


「ってことは海野絵梨は」


「もちろん彼女は人間。天使なんていないもの」


 なんだよそれ、なんだよそれ! 俺がどんな思いでこの場に来て――


「純一は……、純一はあの日、私が、どんな気持ちでいたと思ってるの! どれだけ悔しい思いをしたのか、分かってない」


 どんな時でも冷静沈着、クールな女性部門五年連続第一位、そんな彼女がこんなにも感情を表に出している姿を俺は初めて見た気がする。


「私は、純一が隣にいてくれるあの時間が良かった。他愛ない会話が流れてゆくあの時間が」


言ってくれなかったじゃないか、そんなこと。


「そんな一言も言えなかった自分に腹が立った。だから必死で努力した。何物にも負けない、誰にも振り回されない、誰にも文句を言わせない女優になれた。だから今、私はここにいる。あなたの目の前に、こうして立ってる」


 大きな瞳からとめどなく涙がこぼれ落ちる。彼女はぬぐいもせず、まっすぐに俺を見つめた。あの日のように、まっすぐと。


「第一、純一は私が用意した台本通りに一度も動いてくれなかった。大体、会場にほとんどいないって何。想定外よ。計画は頓挫。電話やシーバーで指示するこっちのことも考えてほしいわ」


 ドラマの監督ってこういう気持ちなのかしら。と彼女は腕を組んでしかめっ面をする。泣いたり怒ったり笑ったり。何をしても、君は美しい。だけどそれ以上に、努力家で、自分の気持ちをさらけ出せる君は、やっぱり綺麗だ。


「そんな想定外だらけだったけれど、純一は自分でクライマックスを決めてこの場にやってきて、私たちの間にあった距離を一歩縮めてくれた。だから一歩踏み出す、私も」


 さっき君はこう言ってた、天使なんていないって。そう思ってた、今の今までは。でも、天使はいるのかもしれない。


「あなたがずっと好きです」


 だって、俺の前にこうしているんだもの。

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ストーリー根本から否定してしまって申し訳ないが 幼馴染の「誰にも文句を言わせない絶対的な存在になる」 っていって大女優になったんならこんな文春砲やマスゴミのかっこうの芸能ネタになりそうなフラッシュモブ…
結末がどうなるのか、ドキドキしながら読ませていただきました。面白かったです!
[一言] もう少し読みたいな。続きを。
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