第3話
エドワードとの対面から更に3週間後、ステファニーは騎士団訓練場にいた。
乗馬服の上着を外したような、貴族令嬢にはあるまじき姿に、長い赤茶の髪は1つに括っただけ。
元々まだ子供であるから化粧などはしていないが、それにしたって身支度と言うものをどこかに捨ててきたような格好だ。
朝、朝食を食べた直後から、彼女はエドワードに馬車に乗せられ、王城内にあるこの場に連れてこられていた。
それから、数時間。彼女は休み休みひたすら走っている。
もう走れない、と言う一歩手前で、エドワードに歩くように指示を出される。
今も歩きながら息を整えているが、ヒューヒューと何かがつかえたような音がする。
脇腹も痛いし、足はガクガク小刻みに揺れている。
「そろそろ昼ですから、休憩にしましょう」
隣を歩いていたエドワードがステファニーも抱き上げる。
ひとまず終わりか、と思うとそのまま彼の肩に頭を置いてしまう。
体を起こしているのも辛い。その有り様を見て、エドワードは小さく笑った。
「昼なんですが、すぐに物は食べられないでしょう。休憩所の庭に昼の準備をしてもらっていますから。休み休み食べて下さい」
彼はステファニーを抱えたまま屋内には戻らず、そのまま建物を迂回して歩く。
周りも見ずに揺られていると、暫くしてふわりと敷布の上に下された。
ふわりと、良い匂いが鼻を擽る。
ローストビーフと赤身魚のコンフィ、皿いっぱいの蒸し野菜にお茶。
普段では残す量だが、ゆっくりでいいので全て食べろと言われている。
「食事と運動、そして睡眠が何より大事です。長時間戦うには持久力が必要ですよ。長剣は重い。当然筋力も必要です。特に女性は筋肉がつきにくいし、つけ過ぎても体に悪いのです」
瞬発力も必要だが、持久力はさらに必要だか、やり過ぎてもいけないとエドワードは言う。
「鍛えすぎるとどうなるの?」
「年頃になっても月の物が来なかったり、骨が脆くなったりします。血が足りずに倒れたりもしやすくなります。男性女性に限らず、食べて、鍛えて、休むは基本ですね」
確かにその通りだと思うので、ステファニーは目の前の食べ物を必死に攻略する。
運動すれば体は休息を欲しがる。夜はぐっすり眠っている。
家でできる運動は、エドワードに引き合わされた翌日から始まっていた。
運動が終われば、エドワードが簡単に体を解してくれるおかげで、翌日に響くことは少ない。
あくまでも少ないだ。正直に言って、体から痛みが取れた感じがしない。
3日運動すると1日休む、を繰り返して、3週間。
息が整う時間が早くなってきた気がしてステファニーは、楽しく感じていた。
食事は騎士団の食堂から持ってきた2人分らしい。
エドワードも同じ食事を摂っている。ついてきてくれているメイド達は、先に食べているらしい。
漸く息が整ってきたので、ローストビーフを取って口に運ぶ。
とても美味しい。口元が綻ぶのを見てエドワードが笑う。
「ゆっくりでいいですよ。ステフお嬢さんはまだ始めたばかりですから」
遠くの方で鐘が鳴るのを聞いて顔を上げる。
「あれは昼休憩の合図です。王城で仕事している大多数は決まった時間に昼を摂ります。騎士団の一兵卒も大体この時間に昼食を取るのですよ」
「お父様も?」
「いいえ。元帥は会議やら何やらで分刻みのスケジュールなので、皆と同じと言うわけにもいきません。別ですよ」
「ふうん…エディもこの時間のお昼?」
「そうですね。俺はあんまり身分が高くないので、分刻みに動くほど出世しませんでしたね」
彼は男爵家の次男なのだそうだ。ステファニーの家の様に、王弟の公爵家ともなればいくつかの爵位を持っており、場合によっては次男以下に爵位を分ける事もある。
だが、男爵家ではその多くが爵位を1つしか持たない。爵位を継げるのは長男だけで、次男以下は独りで身を立てる算段をしなければならない。
エドワードはたまたま運動神経が良かったので騎士団に入団したが、先の国境紛争で大怪我を負ったとの事だった。
ステファニーにはわからないが、少しだけ左足を引きずっているのだそうだ。
戦場に出ることはできない。
王都に縁はないため男爵領に戻るしかないというところで、ステファニーの従者に誘われたらしい。
「私の我儘は、エディの助けになったのかしら」
「勿論。ですから雇い主は元帥ですが、主人はステフお嬢さんですので簡単に捨てないでくださいね」
25歳だと言う彼は、歳より幼い笑顔で言う。ステファニーは、そう言えば彼は最初から許可もなく愛称を呼ぶなと思った。
「親しくなるにはまず名前を呼ぶことかなぁと思いまして。嫌ならやめます」
「…嫌じゃないわ。ありがとう」
コンフィを食べる。野菜を食べる。
聴き慣れた声が聞こえたのは、その時だ。
「ステフ?」
エドワード以外でステファニーを愛称で呼ぶ人物。
振り返れば予想通り、従兄ーーーこの国の王太子がそこにいた。
そして、彼の学友である、ステファニーの婚約者も。
「アル兄様。ウィリアム様、こんにちわ」
金髪に海の奥深くの様な青い瞳の少年。アルフォンスは、この国の王子でありステファニーの従兄だ。
彼らの姿を認めて、エドワードは座っていた敷布から立ち上がって一歩下がる。
その様を少年2人が一瞥した。
一瞥して、2人は入れ替わる様に敷布に座る。
「ルーシーを危ない目に合わせたと聞いた」
腰を下ろして、ウィリアムが言う。開口一番にだ。
溜息を吐きそうになるのを堪えて、ステファニーは2人を見返す。
「そうですね。馬車に轢かれかかった所を助けていただきました」
若干嫌味たらしくなってしまった。
黙ったウィリアムから視線を外して、ステファニーはアルフォンスに頭を下げた。
「アル兄様にはお見舞いをいただいて、ありがとうございました。…お礼状だけで失礼しました」
目覚めたその日に花束とメッセージカードが届いた。
ステファニーの体調を案じたそのメッセージは、ともすれば従兄が婚約者なのではないかと思ってしまうほどソツがなかった。
その日のうちに礼状を認めたが、次兄が今学園の行事直前で忙しいと言っていたので面会は控えたのだ。
なお、本物の婚約者からは何も届いていない。
「いいよ。学園の方が少し忙しくて時間も取れなかったし。ルディもそう言ってたろ?」
「ええ。ルドルフお兄様がアル兄様は忙しいから、もっと後にしろと仰っていたので…」
「でも、こんな所でどうしたの?…彼は?」
朗らかに笑う従兄の視線が、エドワードに向かう。
「エドワードと言います。父が私につけた従者です」
紹介されたエドワードが一礼する。
「へぇ、従者をつけられたんだ。で、ここで何を?格好も男の子みたいだけど」
「運動神経を鍛えようと思ったのです。そうしたら、エディがまずは体力を付けるべきだと。エディは元々騎士団にいたそうなので、こちらを使わせていただいています」
「なんでまた、運動神経?」
「だって、馬車に轢かれかけても体が動かなかったんです。咄嗟の時に動くには、普段から鍛えておけば反射で動けるかなと、思って…」
だんだん尻すぼみになってしまった。何故かウィリアムからの視線が痛いのだ。
皿にあるコンフィを口に放り込んで、咀嚼する。
呑み込んでから、話題を変えることを思いついた。
「アル兄様は、何故ここに?」
敷布の上のローストビーフを一切れ摘んで、口に放り込む姿は王太子には見えない。
アルフォンスもウィリアムも、次兄ルドルフと同い年だ。
大抵3人一緒にいるが、今はルドルフがいない。
「ん?少しストレスが溜まったからウィルと手合わせしようかと思って。…でも、そこのエドワードでもいいな。…なぁ、手合わせしないか?」
後半はエドワードに向けての言葉だ。だが、エドワードは笑んだだけで何も言わない。
「エドワード。直答を許す。どうかな?」
「…構いません。ステフお嬢さん、少し離れますが、ゆっくり食べてください」
「分かったわ。アル兄様もエディも気をつけて」
何故だかわからないが、ステファニーは婚約者と2人きりになってしまった。
いたたまれないこの間をどうすればいいだろう。
にこやかに送り出した内心で、ステファニーは盛大に溜息を吐いた。