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エミコとコト子 その10「エミコとコト子」


***


 ぐぉぉぉ、ぐぉぉぉぉぉん、ぐぉぉぉぉぉ、

 テーブルに片耳をつけて突っ伏していると空いている方の耳からは空調の音が、閉じている方の耳からは、ごぉぉぉぉという音が聞こえてきた。血液が流れている音と思っていたが、実は筋肉が動く音らしい。本当はどうなんだろう。

「ボーっと生きてんじゃねーよ」

 チコちゃんの真似をするが、無論私をツッコむような人間は第二美術室にはいない。今日も今日とてボッチ部活であった。

 やる気は皆無。せいぜいネットで「模型裏」を読むか、資料集めと称してソシャゲの周回をやるかのどちらかである。貴重な学校の運営費をこんなダメな使い方をしていたら、多額の学費を払っている親御さんたちはさぞ浮かばれないだろう。実際にうちの母親(マイマザー)に知られたドロップキックが飛んでくるに違いない。

「やる気でーへん」

「どうして?」

 そりゃ部員が私一人しかいないから、と答えたいところだが、実は違う。先日制作したフィギュアに自分の持ち得る全てのエネルギーを注いだ結果、完全に燃え尽きてしまったのだ。だから、元々勤労精神に甚だ問題のある私の守護天使は目下休暇を満喫中というわけだ。

 コト子のことは心配だけど、やれるだけのことはやったと思う。それにフィギュアを模型屋のガラスケースに置かせてもらったのが一昨日なのだから、今はあれこれ考えても仕方がない。

「だから、私はボーっと生きているのです」

「そうなんですか」

「ソーナンデス」

 ………………うん? ちょっと待てよ。

 ガバッと身を起こすとはたして立花寿がドアのところに立っていた。

「えっ? ええっ!?」

 コト子は指で頬をぽりぽりと掻くと苦笑いを浮かべた。

「部屋に入ったらいきなり叱られたからびっくりしました」

「あっ! ええっ、うー」

 割とシャレにならない意味に受け取れることに気づいて、私の言語能力はいよいよ怪しくなってきた。思考能力もたぶんダメだと思う。

「フィギュア―――見ました」

「………うん」

「とても奇麗でした。まるであの日のエミコちゃんみたいだった」

「………うん………ううん?」

 言葉の意味を図りかねてつい曖昧な返事をしてしまった私にコト子は寂しそうに笑った。

「………やっぱり覚えていなかった、か」

「ち、違うよ! 私は!」

 しかし、慌てる私にコト子は再び笑う。今度はにっこりと。

「ううん、いいんです。私だって同じだったから」

 沈黙。天井の奥からエアコンの鈍い音が響く。

「ホワイトデーのプレゼントだったんですよね?」

「えっ………………?」

「違うんですか?」

「いや、間違っていない、よ。私はただ…………」

 意図したことが相手に伝わったことはわかる。でも、あのフィギュアを作って見せることで私はコト子に何を伝えたかったのだろうか? 感情のままに行動したはいいが、肝心の感情を言語化する前にどっかにすっ飛んでしまっている。私はアホか? いや、アホだ。

「ただ?」

「私はあの雪の夜に見たハイゴッグの感動を伝えたかったんだよ。ハイゴッグだけじゃない、他のプラモだってそう。私は立花寿のプラモを見るたびに負けたくない、と思ったんだ」

 ああ、私は何を言ってやがるんだ!?

「だから、私は全力を尽くしてあのフィギュアを作った。それを立花寿に見てほしかった。ここまでしないと私は立花寿に勝てないことを伝えたかった。立花寿という人間は本当にすごいんだ、てことを伝えたかったんだよ!」

「うーん、伝わったかなあ?」

「伝わってよ!」

 駄々をこねるように泣き叫ぶ私をコト子は困ったように笑うと、

「うん………伝わった」

 私の背中に腕を回すとぎゅっと抱きしめたのだ。

「………………ぐす。このバカ! アホ!」

 しゃくりあげる声をあやすようにぽんぽんと温かい手が背中に置かれる。

「うん、私は本当に馬鹿、ですね。エミコちゃんがずっと私に手を差し伸べてくれたことに気がつけなかった。ごめんなさい」

「………………手を握ったら最後、一緒に底なし沼に落ち続けるけどね」

「それはイヤだなあ」

「体験入部期間はもう終わりました。退部届けがなかったのであなたは造形部に正式に入部しています。ちなみに廃部にならない限り三年間退部はできせまん」

「エミコちゃん、アマゾンプライムだって途中解約はできるよ………………」

 いつの間にか私たちは床に座り込むとケラケラと笑っていた。

 今日この日が私たち造形部の本当の始まり。

 即売会に出すための原型は一つとして作れていないばかりか、道具もろくに揃っていない。買う予算もない。そればかりかたった二人の部員のうち一人はキャストとレジンの違いもわからない初心者ときたもんである。お先はまっくろくろすけだ。

 でも―――、なんて楽しいんだろう!



「ねえ、エミコちゃん。一つだけ聞いてもいいですか?」

「いいよー」

 学校からの帰り道、私たちはいつかのように歩いていた。完全に梅雨に突入した空はどんよりとした黒雲に覆われ、シャワーのような雨が朝からアスファルトに降り注いでいる。普段はレインコートでチャリダーのコト子さんだが、この雨ではさすがに歩いてくるしかないようで自転車と同じ黄色の傘を差していた。

「どうしてバレンタインの夜に会っていたことを黙っていたんですか?」

「う―――っ!」

 聞き方こそ朗らかだが、傘の下にある目は笑っていなかった。

「ねえ―――どうしてですか?」

 いやいや、怖い、怖いから。

「ぶ、部長として精神的アドバンテージを保っておきたかった、から?」

「本当にそれだけですか? 他にもあるんじゃないですか?」

「いや、ない………」

 黒曜石のような瞳が光を失い、伽藍洞に変わる。

「いえ、嘘です。はい、嘘をつきました」

「そうですね、正直になることはいいことだと思います」

「ああもう! あの雪の夜にコト子と話したせいで危うく高校受験に失敗しかけたんだよー! だから、ちょっと逆恨みしているところも………あった。それに………バレンタインには二年連続でトラウマがあったから」

「トラウマ?」

 ああ、結局その話をしなくちゃならないか。できたらしたくなかったのに………………。

 話はコト子と会った日の一年前、中学二年のバレンタインに遡る。

 何を隠そう、その当時の私は恋に恋する乙女であった。

 原型作りで日々練磨していた手先と分量と時間をきっちり守るピンデバイスが如き精密さが加わればチョコレート作りなど造作もない。スイーツどもが泣いて土下座をしようものだ。

 ベースはベルギー製高級チョコレート。ビッチの先輩が営業用にストックしていたものを提供してもらった。再造形の劣化は最小限に止め、味は控えめにいっても完璧だった。

 そう、ここまでで止めとけば乙女の思い出で終わったはずなのだ!

「………………結果はどうだったんですか?」

「あははははは、それを聞く?」

 結果は惨敗だった。というか、勝負の土俵にすら立てなかった。

『すごく嬉しいよ、ありがとう。必ず対局に持っていくから』

 勝負師の鋭い光を湛えた想い人の腫れぼったい目を思い出す。そして、言葉通り私のチョコを対局に持っていった―――脳内の糖分補給に使うために。彼に悪気など一分たりともない。なぜなら、その対局とは彼のプロ棋士昇格がかかった重要な試合だったのだから。むしろそんな大切な対局に持っていっててくれたのだから光栄の極みである。

 そして、彼は勝った。現役中学生プロ棋士にはギリギリ足りなかったものの、彼の偉業は新聞各紙やNHKなどで報道され、ヤフーニュースのトップも飾った。そして、私のチョコもばっちり写っていたというわけだ。

 木箱を模した箱の中に詰め込まれたチョコレートは色から筆書き調の漢字に至るまで表裏ともに本物の駒を精巧に模していた。それもそのはず。山形県天童市の伝統工芸品を参考に作りに作りこんだ私の造形人生における渾身の一品である。

 将棋の駒をむしゃむしゃ食べているようしか見えないそのシュールな絵は瞬く間にSNSで拡散し、とうとう「めざ〇しテレビ」や「〇時に夢中」といったTV番組にまで取り上げられてしまった。後の展開は察してくれ。

「あー。クラスの子たちが話していた『将棋チョコのエミコ』はそういう………………」

「そうですよ。私はバレンタインが来るたびにその話を蒸し返されるんだ。チクショー、恋愛なんてもう二度とするもんか。来年は絶対は休む。うん、そうしよう。今、決めた」

「えー、ダメですよー」

コト子はさっきまでの怒ったような雰囲気はどこへやら、 何がそんなに楽しいのか、くすくすと笑っていた。やはり人の不幸は面白いのか。ちょっとカチンときた。

「へえー、コト子さんも人のことを笑える立場ですかねえ」

「えっ?」

「あなたも今年のバレンタインになかなか痛いことをしているじゃありませんか。しかも、相手は神野二奈という最高にしょーもない女という」

「あはは、そういえばそうでしたね」

 悶絶するかと思いきや、コト子は苦笑いをするだけだった。まあいきなりこの場でプラモを作り始められても困るわけだが、それはそれでちょっと悔しい。

 そのとき私たちはちょうど国道を渡る巨大な横断歩道橋を歩いているところだった。二カ月ほど前は満開だったであろう桜の枝を潜り抜けると眼下に片側二車線の国道が広がる。

「もしかして………」

 歩道橋の真ん中でコト子はくるりと身を翻すと言った。傘の露先についた水滴が回転に合わせて噴水のように散っていく。

「エミコちゃんが話さなかったのって私と神野さんのことを気を遣ったから?」

「――――――!」

「ああ、やっぱり。『将棋チョコのエミコ』のお話を聞いてピンときたんです。エミコちゃん自身がバレンタインにトラウマがあるから、私を気にしてくれたんですね。もっとも私のはワールドワイドレベルではないですけど」

 足が思わず止まる。何も言い返せないことがそれが真実であることを証明していた。

 銀色と白の光の下、顔を紅潮させて二奈先輩を持つコト子の顔を思い出す。

 その隠し撮りした姿はスマホの奥深くに眠っている。

 恋する少女が見せた儚くも美しい、最高の一瞬。

「二奈先輩とはもう話したの?」

 質問してから後悔した。昔からラブストーリーは好きだが、人のそれを聞くのがひどく苦手だ。正直どう関わればいいのか見当もつかない。

「話しましたよ」

「………それで、その………どうなったの?」

「気になりますか?」

「全然………気にならないけど」

 嘘だ。コト子も二奈先輩も私にとってはほとんど例外といえるような二人だ。その二人が“そういうこと”で微妙な関係というのは私にはしんどい。

 いつの間にかコンクリートの水溜まりを見つめていた。そこにはいかにも情けない顔をした女が私を見つめている。

「ふふ、普通に話をしただけですよ。そうそう、私たちの部活の話もしましたよ。エミコちゃんはとてもおバカさんだからお願いするって言われました。そういえば自分も入りたいとも言っていましたね。アニ研のほうはもう辞めてもいいって」

「いや! 辞めちゃダメでしょ!」

 先輩の畜生すぎる発言に思わずツッコミを入れるとコト子がいかにもおかしそうに笑っていた。

「大丈夫ですよ。エミコちゃんの心配するような要素は皆無ですから」

「でも…………」

「神野さんのことは尊敬していますが、恋愛感情はもう持っていません。そもそもあのときの感情は私の勘違いでしたから」

 そのとき黄色の傘が少しだけ上がるとコト子の顔が見えた。

 雨に濡れた前髪の下で透ける黒真珠のような瞳。薄くて小さい唇はリップに艶めく一方でどこか苦しそうに震えている。そして、普段は白磁のような肌が桃色に染まっていた。

 あれ―――この顔は―――

「だって、本当に私の好きな人は―――」

 傘と傘がぶつかり、雨の雫が盛大に肩を濡らす。もしかしたら肩でなく胸も濡れてしまったのかもしれない。でも、そんなことはどうでもよかった。

 目を閉じたコト子の顔がすぐそこにあった。

 そして、唇に感じる何やら柔らかいものの存在。

 それを認識した途端、頭の中が―――比喩表現ではなく―――ショートした。脳細胞が焼き切れる。シナプスが、ニューロンが、次々と活動を停止していく。

 自分が―――キス―――をしているという―――ただ一つの現実認識を除いて。

「………………うひゃー」

 ファーストキスの感想としてはあまりに間抜けすぎる謎の叫びが橋の下を走る車の走行音に呑み込まれていく。

 たった今、私の唇を奪った美少女はそんな私の顔をちらりと満足そうに眺めた後、セーラーブレザーのポケットから何やら取り出した。

 それは赤色のランナーだった。二センチ程度の正方形でたった一つのパーツしかない。

 美少女はにっこりと笑うと同じく取り出したニッパーの刃をパチリと入れるのだった。

 ―――まるで真っ赤に実った林檎を枝から切り取るかのように。 


「私、プラモデルが大好きです!」




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