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短編小説

割れたビー玉

作者: 虹色 七音

 宿題のノート、出してないの芥川さんだけなんだけど……。

 遠慮がちな声が背後から聞こえて、首を回すのも億劫に感じてほとんど目でそちらを向く。


「あ?」

「え……え、あっと」


 私の目線に戸惑って、彼女は少しひく。言葉を詰まらせたけど話を早く終わらせたいという風に声を出した。


「あの……ノート」

「ああ」


 そんな課題出ていたっけと思い出すが、思い当たるものはない。目の前のクラスメイトはノートを受け取ろうとしたのか肩に手をかけようとしたのか、なんとも頼りなく伸びかけた右手が宙に戸惑っていた。

 こういうのを小動物のようだというのかと少し瞳孔の奥を見つめるが、どこか違うような気がした。


 みんなそういう表現は誰かからの受け売りじゃあないのかといつかに考えた。

 本当に自分の感性だけで小動物のようだとこれを形容する人が、一体これを小動物みたいだと呼んだ人のうちの何人なのだろう。

 じっと見つめた先をそのままにふとそんなことを考えると、彼女は戸惑ったような声を上げる。


「え……えと……」


 目の中の不安げな色が強くなる。

 少しやりすぎたかなと思って、適当にその場を流そうとする。


「あとで自分で出しとくよ」


 それを聞いて彼女は少し戸惑ったけれど、早くここを離れたいというような気色が安心したみたいに全身に広がって彼女は軽く応えるとそそくさとそこから離れて行った。

 その背中も見ずに自分の机に向き直って思案に耽る。しかしノートってのは一体どの教科の宿題のことだったのだろうかと少し思ったけど、どうでもいいし意味もないのでそのことはすぐに忘れる。


 その後授業で名指しで出していないと言われたとき、それを思い出してそうか算数……いや、数学の宿題だったのかと思い至った。そう言われてみれば幾らか前の授業でそんなかんじの、何かしらを言っていたような気がする。いや、気のせいかもしれない。

 先生が教壇の上に連れて来た私に怒鳴ったが、猿が喚いているようで哀れにすら見えた。

 いや、それは猿に悪いだろうかと考え直す。

 必要以上の虚飾、過剰で馬鹿らしい体制と体面に縛られた価値観、頭がいいふりを自分にしてしまった愚か者の自慰的な思考、そのどれもが概ね人間だけのものだ。


 これだけ醜いのも、人間だからこそか。


 見下すような姿をわざわざするような億劫なことをすることもなく、目を中空に放り出したまま、内心で眼前の男を見下した。哀れだとも思った。

 そう考えている間も彼はなにかを言っていたけれど、私はよく聞いていなかった。


 そのうち、彼がひとつ大声で怒鳴る。聞いているのか!? と、そんなことを汚い発音で言った。私はさすがにうざったるくて、教師の男を睨みつける。瞳孔に真っ直ぐ悪意をぶつけるとあちらは単純に、とても単純に少し怯んだようだった。三十年も生きている年数が違って、この差はなんだろうかと人間が生きている意味とか、そんなものに思想を巡らせる。


 やりようが無くなったのか、彼は私の頭を黒板消しで殴った。視界が白くまみれて、私の金髪が薄汚い白で汚れる。見えないけれど、きっと情けない姿になっていることだろうと思うと、無性に腹が立った。

 大したこともないくせに人の見下し方だけを覚えたような連中に私が下だと思われるのが、今だけは、無性に許しがたいことのように思えた。私はその腹立ちに衝動を任せて、眼前の男を蹴っ飛ばす。


 中学生と中年の男の体格差は歴然でひっくり返せるような力は到底ないけれど、彼のちまっこそうなプライドを蹴っ飛ばすには十分だったらしく、彼は顔を真っ赤にさせて衝動そのままと言った風に私に手を伸ばしてくる。


 殴られるかと思ってとっさに腕を出したらそれを掴まれる。私はすぐにその腕をぐりんと回して彼の手を振りほどいた。そのままの勢いで身を翻した私は少し半開きになっていたドアを足で蹴圧すような感じで雑に開ける。適度に鳴った音が先生の声をわずかに押し流す。

 彼に掴まれた右手首が少し痛くて、窓でも割りたいくらいだった。

 廊下を歩いている間に思いついたそれに任せて窓を無理くり開けてその中年に中指を立てるのを見せつけるようにしてやった。彼は私の名前を叫んだが、痛くも痒くもないそれに私が止まることはない。


 ああでも痛かったり痒かったりしたら、逆にすぐ走り去るかなとか考えてみて、それはないなと苦笑する。私なら足の小指なんかを全体重で踏み砕いてやるだろう。きっとね。

 本当に? と自分に問いかけると少し自信なさげになってしまうのは、少し悲しいことだった。

 私は屋上にでも出ようかと思って屋上への扉を蹴破ろうとしたが、いつも通り閉まっていた。職員室に行っても屋上へのカギを受け取れるわけでもないから、もういっそ帰ろうかどうしようかと迷う。

 しかし機会があれば読めるかもしれないと思って読みかけの本を持ってきていたのがそのまま教室に置きっぱなしになっているというのを思い出して、それを放置して帰るのは忍びないなと思い直す。

 図書館からも毛嫌いされているし、保健室だって無論だ。まあ、そのどちらも金髪タトゥーの生徒が馴染むような空間でないことは確かだなとは思うけど。


 そんなことを考えて、ふと先程考えたことを思い出した。


 自分が言う感想は、どこまでが純然な自分の感性で作られている台詞なのだろうか、ということ。思い出してみると、今自分が思い浮かべた馴染むような空間ではないとかいう偏見じみた言葉の阿呆らしさが滲み出る。

 こんなことばかりだが、こうして自分のあらを見つけるのは少し気恥しい。

 誰に対してもではないが、強いて言うなら、自分にだろうか。自分を生きようとする自分に、恥ずかしい。それが誰なのかもよく分からずに。


 支離滅裂になってきたけどどこかで芯が通っていると確信できる思考を、ふと止める。後ろから声をかけられたからだ。


「今度はなにしたの?」


 振り返るとそこには見慣れた顔があった。


 見慣れたとは言っても、最近知り合ったばかりの人間だ。最近というか、中学に入ってからの仲である。人間の顔を覚えるのが苦手だとは思わないけれど、半分以上意識的に学校の人間は覚えようとしていない私がこの男の顔は覚えているのは、彼が妙に私に絡んでくるからだ。


 彼はフレンドリーを装うようにして、少しぎこちなく人受けのよさそうな笑みを浮かべる。

 ぎこちないと言っても、よくみたらそんなきがするというくらいだけど。


「井口先生、すっごい怒鳴り声あげてたじゃん。うちのクラスまで聞こえてきたよ」


 別にそんなこと、彼はそこまで気になるわけでもないのだろうけれどそれくらいしか話題が思いつかないのか、そういう風に話しかけてくる。私も彼と話さない理由も特になくて、近くの教室で授業が行われていないことを軽く見渡し確認して、言葉を返す。


「うるさいよな、あいつ。宿題忘れただけなのに」

「あー、そっか。まあ、らむねは先生たちからマークされてるもんね。特に井口先生は結構過激だし、それだけでもそうなっちゃうのか」


「それと睨んだり蹴ったり中指立てたりしたくらいなのに、一々叫ぶなって話だよ」

 と、彼の反応を楽しむようにちょっと遊んでみる。すると彼はこちらが思ったとおりに口をはさむ。


「おい」


 想像通り過ぎて、それそのものすら面白く感じてくるくらいだ。


 彼はきっとコミュニケーションが上手な人間なのだろう。本人は否定するかもしれないけれど、実際コミュニケーションが上手な人も割と否定することが多いものだ。教室やらで聞き耳を立てている限りは、だけれど。


 もっと多くのサンプルを採取するには、私は少し矮小すぎる。

 所詮人間は、人間なのだ。それは誇れることでもなければ、嘆くべきでないことでもなんでもない。


「それは宿題忘れただけっていわないじゃん」

「……」


 彼の言葉を聞きながら、適当に歩く。目的地は特に決めてもいない。大きくもない校舎内で目的地を決めずに歩いたところで行き着く場所はたかが知れているが、歩いていた方が気分にあった。


 それから彼は昨日のテレビがどうとかゲームのキャラクターがなんだとかノーベル賞受賞候補の学者がどうたらとか、私の興味のあることからないことまでぺらぺら喋る。そして時折、その合間に私の顔を覗き込むようにするのだ。

 そんな彼のことを当たり前だと思えるくらいには、彼はもう私になじんでいた。


 二回の渡り廊下のすぐ下にある小屋の屋根に柵を飛び越えて移ると、一気に景色が開ける。


 校則云々とかそれ以前の問題で立ち入ってはいけないと分かるような場所だから彼は少し躊躇したようだったけど、私が先に行くと彼もすぐにやって来た。


 こういう彼は親について歩く小鳥のようだと思うこともできるのかもしれないけれど、思いついたそれと目の前の彼を見比べてみても重なるような雰囲気はまるでない。ただの人間の男だ。

 彼は転がり落ちてもそこまで不思議でない場所を怖がっているような様子があったのに、私が屋根の淵に座ると彼もそれに倣った。


「そう言えば、授業はどうしたの」


 答えは分かりきっていたけれど、口に出して聞いてみる。

 それが自分の彼への好奇心なのか好意なのか、少し曖昧なままにしている自分に、このままじゃダメなのかなと問いかけた。自分で自分に訊いたそれは、ひとまずはと無視をした。


「らむねが授業を放り出したみたいだったから」


 彼はそう答えた。まるで私が授業を放ったら彼もそれについてくるのが当たり前だと語っているように端折っているのを戯れに少し意識すると、心のどこかで愉快になる。

 こうやって気持ちよくなっているのは、とてもくだらないことなのかもしれないと思うと、少し自分がつかみづらかった。


 余白のような自由時間をそれからふたりでしばらく雑談でもしたりぼうっと中空に思いを馳せたりしていたら、ふと彼が「あ、そうだ」と聞いてきた。


「らむねはさ、無人島に何か一つ持って行けるなら何を持って行く?」


「は?」

 下らない質問に、対応がつい素になる。


 しかし当たり前だけれど彼も質問にはそれそのままの意味で言ったわけではなく、ある程度思考ゲームとして成立したものとするようだった。

 弁解するように彼が注釈を付け加える。


「条件は勿論付けるよ。まず無人島と言ってもそれなりに大きくて、資源も潤沢。果物もあれば真水の川もある。猛獣や先住民はいない。ある程度好きな地形を選べるくらいに多彩な模様を見られる島で、サバイバルど素人でも生きていけるくらいに条件が整っている。ただし脱出は不可能で、救助の望みは実質なし」


「なーる」


 条件がご都合的なのは思考ゲームなのだから仕方ないとして、それだけ前提があれば下らない問題のようなものは考えなくていいかもしれない。そう考えたが、ふと思い至る。


「ん?」

「どうかした?」

「……いや、その条件でもナイフって重要になるから結局元のつまらない質問からあんまり変わってなくない……?」

「あ」


 それは考えていなかったとばかりに彼が声を上げる。余計なことを言ったかな、と少し思った。

 彼はじゃあナイフは条件の中に、いやそれじゃ……みたいなことをしばし呟いた後、こう付け加えた。


「ナイフなしのド素人でも生きていけるくらいの環境が整っている、としよう。勿論ナイフとかがあったら便利なことは変わらないけど」

「……分かった」


 それからその条件で考え始めようとすると、彼が「これが条件その一」と言って続ける。


「もう一つ条件を付けよう」


「……」


 彼は私の瞳孔を真っ直ぐに見て、口を開く。


「持って行けるものというのは、君が持って行こうと思えば持って行けるものだ」

「まあ、そりゃそうだろうな」


 瞳孔を真っ直ぐに見ることはあってもその状態でこちらの瞳孔に視線を刺し返してくるような人はそうそういなくて、あまりない感覚に、恐ろしいでもなく目を逸らした。


 彼の言った二つ目の条件は、元々の質問で大体言外に付け加えられている条件だ。例えばここで燃料がたっぷり入ったヘリコプターとか飛行機とか、豪邸付き巨大農園とかそんなことを言えば問題がめちゃくちゃになってしまうから。まあ、離陸や運営ができるかは別問題だからたぶんそれらはなんの役にも立たないだろうけど。


 ただそれは、彼の目線から察するにそれだけの意味ではないのだろう。


 それはなんだろうかと少し考えると、正解らしきものに思い至る。簡単に言えば、逆にその条件の中ならば何でも選択できるとすることによって選択肢の幅を広げようということなのだろう。

 例えば、自分の家にある自分の私物は持って行こうと思えば持って行けるだろうが、それならば家にある預金通帳はどうだろうか。それを母を出し抜いて奪い取ってくることができるだろうか。現実問題として盗れるかどうかも、そしてそんな形で母に迷惑をかけられるかどうかも。


 そういう感じで言うならば、万引きをやろうとすればできると思うのであれば自分の持ち金で購入できないもの選択してもいいだろうし、現実的もしくは精神的にそれが不可能だと思うならそれは選択してはいけないということだろう。

 例えばペンタゴンの極秘書類は私には入手不可だから選べないし、コンビニで売っている商品くらいならその気になれば万引きできるから含められるということだ。まあ、コンビニで売っている商品くらいなら自分で買ってもいいが、例えばそれが他人の私物とかとなるとそれは盗むしかなくなるから可能か否かをきちんと考えなくてはいけなくなる。

 クラスメイトの教科書なんかだったらそのくらいは簡単に盗めるだろうから、それは含められる。まあ、無人島に他人の教科書なんてまったくもって要らないけれど。


 そしてこれは条件に準ずる限りなんでもいいということであれば、生物非生物の如何を問うことはないはずだ。条件としてそれが加えられていない以上、問題ない。


 例えばあの井口先生とかは体格差的に誘拐することもできないし、気性的に適当に誑かして持って行くこともできないだろう。だから含められない。しかし例えば近所の幼児とかだったら確か公園でひとりで遊ばせるようなことをしょっちゅうしてる人がいたから、その子とかなら恐らく頑張れば誘拐できるのではないかと思われる。……下校途中の小学一年生とかでもそれはいいけれど、しかしこれらは実行できるのかが曖昧なラインでもある。


 本当に私は誘拐を実行できるのか。


 自分の実力と意志力を見つめなおして、仮定の状況下で可能不可能を見極めなければいけない。自分の身体能力、そしてそれでできること、実際の状況下で冷静さや判断力、倫理や恐怖感による足のすくみ。どの程度のモチベーションで自分はどこまでの行動を実現に移行させられるのか。

 そして誘拐ともなれば交渉力、自分が他人からどれだけ信頼されているのか、そして人間を限定するならその人間から自分がどのように思われているのかも判断しなくはならない。ここで過剰な判断が目立てばその人間が自信家であったことが分かるし、逆に過小評価が多ければそれはなにかのコンプレックスが根底にないかなどの考察にまで進められる。


 難易度もそうだが、そこから得られる情報も含めて、思ったよりも楽しめる議題かもしれない。

 それを再確認すると考えるのがますます面白くなってくる。


 さらに改めて考えるとここまで考えたのは選択肢の範囲に関してだったが、ここではさらに自分が何を望んでいるかも自分を見つめなおして考えなくてはいけないのだ。まあ、それは従来の問題と同じだからそこまで迷うことでもないかもしれないけれど。

 ではまず普通に考えて、永住を覚悟せざるを得ないような無人島へ持って行くものとなったら何になるだろうか。ぱっと思いつくところではサバイバルナイフやファイヤースターター等の着火装置、そして救援を求めるための発煙筒やフラッシュなどもあるだろう。


 救援の望みは実質なしと言っていたから航空・航海域からは大きく外れなにかの視界に入る可能性は考えられないのだろうが、禁止されていない以上選択肢として救援を求めるものもありではある。


 それから保存食というのもありだろう。


 生きて行けるかどうかと美味しいかどうかは別問題で、少なくとも社会の中でのみ食べられる香辛料や化学調味料の味は必ず恋しくなるはずだ。人生の楽しみとして美酒や保存食を持って行くという手も、もう考えればありだろう。


 それ以外でぱっと思いつくものと言えば、ロープだろうか。


 もちろん利便性の高い道具のひとつとしても使えるだろうけど、簡単に死ぬための手段をひとつ用意しておくというありだ。


 人間社会から隔絶されて、それで生きていく意味があるのかという話だ。だから、これもまたありだろう。


 そのあたりまで考えたあたりで、少し頭を休ませる。

 しかし幾らか列挙したが、実際にこれから人間社会から隔絶されるという事態でそのような判断をできるかは謎だ。無人島で暮らさなければいけないと言われてすぐにこれまで言ったようなものを持って行こうと思えるのか、無経験故に軽々に判断することはできない。


 実際の状況下における私の精神状態は、多分、今の私と同じ人間であるとは言えないはずだ。


 そちらの方向で考えてみようかな、と少し想像してみる。

 これからパパやママやクラスメイトや嫌いな人間や好ましい人間や他人や新しい出会いに、一切出会うことがないという状況。まるで井戸に落とされたコインのような未来。

 恐ろしげなその想像の中で、私は彼が私の目を見つめた意味が分かった。


 思いついてみるとそれは当たり前のことのようで、従来の質問ですら頻出されるような回答で、もしも目を逸らさなければすぐに分かっていたかもしれないなと考えてみた。


 実際、どうだか。

 そうでもないような気がした。私はきっと、それから目を逸らしているから、私がこうである限りすぐに思い至れはしなかったんじゃないかと思う。


 思いついたそれを頭に、隣を向く。


「決まった?」


 答える言葉もなくて、しかし目を逸らしてはいけないように思えて、ただ彼を見つめた。しかしふと、自分が瞳孔を真っ直ぐ見ていなかったことに気が付く。そして彼の瞳孔を見つめようにすると、なぜか私は躊躇った。


 見つめてしまった目は心の中に続いているようで、見るだけならいつも通りでも見られることはよくあることとは言えなかった。ましてや、お互いがそこを見ると、それはもう意味合いがまるで違った。

 珍しい感覚に、結論を私は出した。


「…………」


 私が何かを口に出そうとしたのが分かったのか、彼の目の色が少し変わる。私が言おうとしたのは彼が言って欲しかったであろう言葉に対する返答だったが、もしも彼はそもそもその返答を求めてもいなかったら、と思うと少しだけ気が引けた。


 しかしそれならそれでいいやと思い切って口を開く。


「……まだ、決められないよ」


 そう言うと、彼は少し悲しそうな顔をした。


「そっか……」


 目を逸らしているべきか分からなくて、私は目を逸らしてしまった。彼もまた目を正面に向けてしまった。



「ぼくは、無人島へは君を、連れて行けたらばなと思ったんだけどね……」



 視界の端に移る彼の顔が、紅潮しているような気がした。

 それは今までで、一番告白に近い言葉だった。


 その返事は、もうすでにした。


 沈黙が、それから二人の間には漂ってしばらくしたらチャイムの音が聞こえた。このままここで二人でいるか、授業に出るか、それとももう帰るか、選択する時間だった。まだ三限が終わったところだから決める時間はさほどなくて、しかし迷うことはなかった。私が帰るからと彼に言うと、彼は少し迷ってから、「そっか」と言った。

 きっと一緒に帰ろうと言おうとしたのだろうと思って、迷って、でもその言葉を引き出そうとはしなかった。


 その日彼とは、それでわかれた。





     ☆





 昼前に帰ったのに、母は在宅だった。


「仕事は?」

「さあ。なんかシフト外された」


 母がそんな風に言っていたから、彼女がまたバイトを首になるのもそう遠くないのかもしれない。

 まあそれはそんなに気にするような事でもないので、そのまま自室に戻って読みかけだった本を読み切ってから昼食にしようかと思ったのだが、下校前のことを思い出して、少し気になったので自室に戻るのは後にすることにした。


「ママ、お昼もう食べた?」

「え、まだだけど。作るなら自分でやってよね、めんどくさい」


 こちらをロクに向きもせずに答える母に、やはり親として優良な部類ではないのだろうなと何となく思う。それとも、そうでもないのだろうか。他人の子供になってみたことはないから分からないが、別の人間が母親であったらよかったのにと本気で思ったことはないくらいには私にとって母親は唯一無二だった。


 学校バッグをそこら辺に置いて母が足を組んで座っているのの対面に私も座る。


「ママ、ちょっと聞いていい?」

「別にいいよ」


 対面から話しかける私のことを母は視界の端で適当にとらえていたようだが、私が話しはじめるとこちらを向く。この母親は礼儀はなっていないようで、そして実際礼儀はなっていないが、こういう人間的なところは意外にもしっかりしていることもあるのだ。

 そういうところは、彼女の子供としてもよいものだと思う。

 きっといい夫を捕まえたからだろうなと思いながら彼から受けた質問をそのまま母に投げかける。


「無人島にひとつ持って行くならなに?」


「あー……何がいいかな」


 母は私の質問に背もたれに体重を預けて少し黙考する。しかしそれはむしろ頭を休ませているようにすら見えるもので、実際そうであったのか体をこちらに起こしながら「まあ、実質一択よな」とぼやいていた。

 その母親の答えをなんとなく予想しながら、あの時と同様の条件を付けた方が良かっただろうかと少し考える。しかしやっぱり条件を付けなくて正解だっただろうなと思い直した。

 母は単細胞の馬鹿だから、変に条件を付けなくても素直な答えを返してくれる。

 捻くれることと頭がいいことの違いも分からないような子供のような、くだらない屁理屈を懸念する必要がない。それは勿論母の頭がいいというわけではなく、そもそも母は捻くれるほど頭を使っていないという話だ。


 そして期待通りに、素直な答えを口にしてくれる。


「パパだな」

「……そっか」


 予想通りの答えだったが、脱力した私の体重がかかった背もたれが軽く歯ぎしりするような音を立てる。天井を仰ぐと、大理石でも黄金でもない普通の民家の天井が見える。

 そんな当たり前が、私のいる世界がどこか示しているような気がした。

 世界は狭いようで広くて、もっと広い視点で見るとちっぽけだ。


 母親の答えに、そこに含まれた意味合いを考えると自然と口の端からため息が漏れるようだった。こんな女でも私より長く生きているだけあって、大人なんだなと思い知る。

 経験値の差は時間をかけねばどうにもならない差だけれど、それなりに苦い差だ。


「……よく即答できるね」

「あ。ああ、あんたできないん?」


 馬鹿にするようなニュアンスで母が言う。この母に馬鹿にされるのは納得がいかないが、否定もできない。私は何分もかけて母と同じ答えすら出せなかったのだから。

 しかしそれだけで流して諦めて、人生経験の差だと落ち込むようなことをするのも違うなと考える。


「ちなみに、理由は?」

「理由?」


 なんでそんなことを聞くのかとでも言いたげに母は首を傾げた。その表情の裏に深い思考などはまったくもって見て取れない。直感で生きる人間というのは能天気でいいなと、心底思った。


 母は視線を漂わせつつしばし黙考していたが、十秒もせずに答え始める。


「……まあそりゃ、ひとりじゃ寂しいしね」

「そう……いや、そうことじゃないんだけど。いや、そういうことではあるのか」


 直感そのままに考えている人間から無意識下で行われていた思考を引き出させるというのを本人にやらせるのは徒労だと、母から学ぶ上での基本事項を思い出して、質問をしていく。


 直感で話している母のような人間を相手にするなら、その方がきっと楽だ。


「なんでパパなの?」

「え、私浮気してないし」


 どうにもずれた答えを即答される。あまりに早くて、実は母はすごく思考能力が高いんじゃないかと思ってしまうくらいの速さだ。まあ、それはないだろうけど。母は単細胞な馬鹿であるという点で私に一線を画しているのだ。母の長所をそれだとは思わないが、強みではあると思う。


「浮気ねえ」


「私浮気はしないよ。夫婦生活14年やってきて一回もやってない。そしてこれからもしない」


 強い声できっぱりと、母はそう言った。大人としての姿を見せられていると感じて、少し癪に思う。周りの人間を子供だと見下している自分もまた、ただの子供でしかないのだと教えられているような気分だった。


「……」


 そのままの感情で、考えずに口を開く。


「じゃあもし、されたら?」


 言ってすぐに、しまったと思った。母の目の色が変わって、目を睨まれる。それは凄く怖くて、固唾を飲み込む。


 怒鳴られても睨まれても私が怖いとは思わないのは、そうしている方が本気ではないからだ。でもこういう時、人の心の大事なものを踏みつけてしまったと分かるとき、そういうときの人間の目は私も素直に怖いと思う。

 そして遅れて、私にはこんな目をできるような何かがあるだろうかと自分の子供さを見つめさせられ、少し辛くなる。


「………………」


「……あの、ママ。ごめん」

 言い切る前に、母が机をめいっぱい殴りつける。酷い音がして、自分が震えたのが分かった。怒声を浴びせられるのかと、体をすくめた。彼女に殴りかかられても、今回は明らかに私の方が悪いからまず一発は殴られてからじゃないと殴り返せる道理もない。


 来るだろう衝撃に歯を食いしばったが、いくら待ってもそれは来なかった。


 数秒ほど、とても長く感じた時間ののちにもしかして殴られないのかなと思って顔を上げると母は億劫そうに溜息をひとつ吐いて見せてきた。



「……まず一発全力でぶん殴って、それから話し合うよ。話がついたらもう一発ぶん殴って、それで話がつかないんだったら全力で色仕掛け仕掛けてみる」



 一息に母はそう言うと、これで満足かと私の方へ視線を向けてきた。


 その視線は別に許したという色合いではないようだったが、子供の言ったことだと今回は見逃してくれるらしい。

 私はその視線に頷いて返してから、そのまま次の質問をする。


 それは明らかにしない方がいい質問であったろうけど、自制はわずかに遅れて間に合わなかった。


「それでも、パパが心を変えなかったら?」


 おっかなびっくりという様相で私が訊くと、母は苦いものでも口にしたような顔をして「捨てられたら、か」と天井を仰いだ。


 私の住んでいる世界を覚えたその天井に、母はなにを見るのだろうかと、少し思った。

 母は天井を仰いだままでしばし黙考していたが、こちらに向き直らないままに母が口を開く。


「どうなるんだろうね」

「……?」


 母の言葉の意味がよく分からなくて、私は首を傾げる。母は顔を起こして私がそうしているのを見受けると言葉を続ける。


「さあね。それはもう、どうなるかわからないや」


 母のその言葉に溢れかけた溜息を、母に失礼だからと飲み込む。


 その言葉は言外に、母が父と共に歩いていく人生を想定していたからだと伝わってきた。もうすでに母にとって人生というものは隣に夫が歩ているというものなのだろう。人生とは何ぞやと問いかけられて、どう答えるかはさておき、きっと母ならば隣に父がいるものをそれと呼ぶのだろう。

 私は私の人生とは何ぞと問われて、そこに自分がいることすら明言できるか怪しいようだ。


 明らかすぎる人生経験の差だなと感じて、それに関してはあれこれ考えるのをいったんやめる。

 次はなにを聞けばいいんだっけかと頭を回そうとして、母が口を開く。


「そもそもなんの話してたんだっけ? 私ら」

「無人島」

「無人島? ああ、そういやそれだ。んでえっとぉ、どこまで話したか」


 母が雑に頭を掻きながら思い出そうとする。


「なんでパパを選んだのっていう理由」

「ああ、そうだそれだ、それか。……理由ねえ」


 少し考えたが母は話す前にすべて考えてきってしまうのを諦めたらしく、話しはじめる。


「まあ、あんたを連れてくわけにもいかないしねー」

「ん? そうなの?」


 私はその返答が意外で、首を傾げる。すると母は馬鹿じゃないのかと吐き捨てるように言った。


「当たり前でしょ。……私も親としてそれなりに馬鹿な部類に入るとは思ってるけど、自分のやるべきことの分別くらいは付くんだよ。子はいつか親元を離れるもので、親はそれを見送るもの。子供っていうのはね、死にに行くところに連れて行くものじゃないんだよ」


 母のそのしっかりとした返答に少し、肝を抜かれる。想像以上に、親という生き物はしっかりとしたものだったらしい。

 そう思ったことをそのままに言ってみる。


「いつかあんたも子供を持つんだから、そのときのためにせめてこのくらいは覚えときなさい」


 そう言った母の顔は、ちゃんと母親の顔をしていたように思う。

 子供なんだなということをまたも分からせられたようだったが、今度はまるで不快でもなんでもなかった。むしろ、こんなのもいいのかなと思った。


 最後の確認の質問に入ろうと、その前段階の一応の確認を取る。聞くまでもないだろうが、会話の流れとして一応。

 私は母の方へ向き直った。


「じゃあママは無人島へパパを連れて行くっていうことでいいの?」

「もちろん」


 母は再びの答えも即答だった。分かりきっていた答えだけれど内心で少し安堵しつつ、最後の確認の質問をしてみる。


 両腕を揃えて、母にきちんと向き合った。


 母もこちらを真っ直ぐ向いた。


「……じゃあママはさ、生涯永久に隣にいるのがパパでもいいっていう、嫌になってもどうなっても隣にいるのはパパでいいっていう覚悟を持っているっていうことでいいの?」


 返答に少しはかかるかなと思って、ちょっとだけ意地悪な問題を出してみたつもりだった。しかし母は瞬きの間ほどにも時間を開けずに即答をする。


「当たり前でしょ」


 あまりに早い返答に、それもまた彼女の心の大事なものの部分だったのだと分かる。隣にいることと隣に居続けることの違いも分かっていないような馬鹿な返答者では、今の母はないのだろうというのはほとんど確信だった。



「それが結婚だよ」



 母がそう言ったことに、内心少しだけ気圧される。


 唾を飲み込んで、私は少し苦笑いをした。

 それから少々の雑談をしてからその場を閉じて、昼食は私が作った。適当ながらそれなりに美味しいと思う炒め物を口にしながら、ふと母が私に話しかけてきた。


「告られたの?」


「え」


 つい、料理をそのまま落としてしまうかと思った。


「……分かるの?」

「まあ、親だしね」


 そのとき私は彼女にたぶん現実以上に頼りがいをあるのだと感じてしまって、私どうすればいいのかなと母に尋ねた。しかし母は知るかよそんなことと吐き捨てた。


 それから明らかに後付けに、「親は答えを示すものじゃないのよ、道を示すものなの。答えは手前で見つけなさい」そう言った。


 なるほど確かにその通りだと思った。


 明日になっても彼への返事を決められる気はしないけど、少なくとも自分で決めるようにしようと、そういう風に思った。

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