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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ガニミズムの思索

『死体のサーカス』

作者: 牝牡蠣

グロテスクに感じる部分があるかもしれません。

ご注意ください。










*一*


彼女にとって自らの死を吹聴することが、人生における揺るぎない偶像のようなものであったのだ。彼女こと、サーカスの売れない座員であるローレライは、一人寂しく薄暗いテントの奥で油まみれのパンを頬張っていた。テントの中には猟奇殺人者の屠殺部屋のように色とりどりの演舞道具が山積みにされていた。

彼女にはそれが、この惨めな興業生活の中で唯一の救いだった。今腰掛けている奇術用のトリコロールの箱の上で体を縮こませた。膝小僧からは、毎日の稽古で皮が擦りむけ、微かに血の匂いがした。私しかいない、あいつらのいないこの空間なら、この血の匂いは私だけのものだ、ローレライはそう思う。テントの外から聞こえる鳥の悲鳴がうるさい。おそらく、生活排水で窒息死した魚を漁りに来た水鳥の声だ。ああ! 彼女は嘆く。私を見に来たあの観客共! あの生活! その汚い排水の臭い! 近いうちにくたばる水鳥の声! ……。観客は一体全体このサーカスに何を見に来ているのか? 夢か? 愛か? スリリングか? この場所には何もない。ローレライは膝にうずめた顔から暗い床の、座員が捨てた精液入りの避妊具を見た。彼女から見れば、サーカスに来た観客の生活、明るく、あたたかい家、家族、青春、恋愛、仕事……、それらの方が、今の自分のすべてより遥かに価値があった。彼女はなぜ、そんな価値のある人々が私なんかを見に来るのだろう、そもそも私にそれだけの、観客が金を払い私を見に来る価値があるのなら、それは一体なんなのであろうか、と、漠然と考えることはあるが、一向に答えをひらめくはずもなかった。ローレライはおそろしいほどに無学で感受性に乏しかった。しかし、くだらぬことにいやにさも詩人のように固執することがあった。彼女が演舞道具を猟奇殺人者の屠殺部屋といったのも、別段深い視座があってのことではない。ただ三文小説の位置描写にただただ感化され、そう思っただけである。

「おい」ローレライな伏せていた顔を上げると、真横に座員のケチャップが立っていた。彼は何にでもケチャップをかけて食べるからそう呼ばれていた。彼の姿を一見すると、全身が血まみれであった。ああ、この空間に私以外の血の匂いが入った、ローレライはそう考えて少し残念な気持ちになった。

「おい、聞いているのか、ベルって女いただろ、あの、お前と買い出しに行った時に酒場で話した女、俺、あの女殺しちまったからさ、死体運ぶの手伝え」

なぜ私に頼みに来たのだろう、他にも力手のある人ならいっぱいいるのに、ローレライはそう思っていたら、ケチャップに有無も言わさずぐいと引っ張られ移動用の軽自動車へと連れていかれた。




*二*


件の女性の家はコンビニの三軒隣の、こういうのはローレライにとってそれ以外のものをよく知らなかったからなのだが、貧相なアパートメントの二階の部屋だった。

彼女とケチャップは車をアパートメントの前に堂々と付けると、軽妙に車から滑り出し階段を昇っていった。ケチャップはとある部屋の前に来ると、ポケットから鍵を取り出した。鍵を開け部屋に入ると、辺りは真っ暗だがその空気のよどみ加減からあまり広い部屋ではないことは、肌で感じられた。ローレライは部屋の居間らしきところまで入ると、ケチャップはいそいそと鍵を閉め、そして明かりをつけた。そこはローレライの憧れた観客の生活だった。恋愛や家族や笑顔を謳うTV、音楽、書籍、化粧、机、壁紙、ランプ、金魚鉢。彼女は辺りをくまなく見渡した。これが生活! これが生活! 瞳には生活が容赦なく入り込んできた。

「おい、こっちだ」

ケチャップが浴室から叫んだ。ローレライは生活の細部に後ろ髪を引かれながら浴室へと向かった。

浴室のドアは開かれており、そこにはケチャップとバスタブに浮いた裸の女の死体があった。バスタブの水は赤く染まっている。それは死体というにはとてもきれいであった。しかし、ここには生活はない、ローレライはそう考える。確かに、大きな鏡に香しい整髪料に石鹸に柔らかいボディタオル等々、サーカスの生活で彼女が目にするものとは異なるものばかりの空間であったが、その死体一つで、ここはこちら側の空間になったのである。ローレライはケチャップに指示され、女の死体の両足を持ち、ケチャップは二の腕を死体の脇へとすべりこませて、持ち上げた。そして、浴室から運び出すと、そのままするすると部屋を出て行き、あっという間に二人の乗ってきた車の後部座席へて投げ入れた。事を終えたケチャップが鍵を閉めにいく。ローレライは車の助手席に残った。後ろには女の死体がある。かといって彼女が驚くことは何もなかった。ケチャップが階段を降りてくる。するとアパートメントの大家らしい女がケチャップを見て声をかけた。ローレライは窓ガラスに耳をつけその会話を聞いた。

「あら、あなた、二階のN号室のAさんのお知り合い? ちょっと彼女に言ってくれなぁい? 家賃滞納してるって」

ケチャップは懐から分厚い封筒を取り出した。

「あっ、これ、彼女から預かってた家賃です。再来月まで入ってます。彼女今旅行に出たみたいで、代わりに渡しておいてくれと言伝されました。あと、部屋には入らないで欲しいそうです。来週には帰ってくるそうなので死体になれないからと」

「あら、そうだったの、ありがとうねぇ。お金さえ払ってくれれば、何も文句はないわ」

ケチャップは話を終えると車に戻ってきた。シートベルトをつけエンジンをかけながら彼は言う。

「この死体は次の公演のお前の演目で使うぞ」

その日の夜から、ローレライは女の死体の世話をすることになった。




*三*


世話といっても死体であるので食事や排泄はことなく、ただ、傷つかないように保管の責任者となるだけであった。しかし、サーカスに持ってきた死体に、虹色のよくわからない血液の代わりの液体を入れる作業は骨を折った。太い注射針を死体の首に刺し、そこに調節バルブとチューブを取り付け、ポリタンクの液体を少しずつ入れていくのである。あまり勢いよく入れてしまうと体の一部が異様にむくんでしまうので、注意がいった。ローレライは慎重に慎重にバルブをいじりながら液体を入れていった。その行為に彼女はわ愉しみともいえるような、罪悪感ともいえるような、儚さともいえるような、複雑な感情を持っていた。

この死体の女はおそらく観客として、ケチャップとの面識を持ったはずである。その時の女には、女の部屋で見たような生活が、ローレライにとっての価値と憧れがあった。しかし、今の女はどうか? ケチャップと関わったばかりに、たいそう美しい姿で殺され、個人の意思に関わらず運び出され、誰にも気づいてもらえず、そして、ローレライの手によって虹色の液体を流し込まれているのである。それは、彼女の憧れた生活の、価値への、己の災禍からの逆襲であるということができた。はたまた彼女の生活と価値を己が欲望と利益のためにまさに骨の髄までしゃぶり尽くすということでもあったし、ローレライが舞台と観客席の境界に存在していたと思っていた分厚い壁は、実はすごく薄いどころか何もなかったのであり、自身と生活と価値との乖離は本当はなかったのかもしれない、彼女が勝手に決め付けたことである、という捉え方もできた。




*四*


次の公演までの間、ローレライは女の死体に精一杯のおめかしをさせ、良い香りの香水を毎日ふりかけ、夜も一緒に寄り添って寝た。そもそもそれだけ長い期間死体が腐らないのは虹色の液体のおかげであると思われたが、別にそれが彼女の頭をおかしくしたわけではない。つまり、彼女はその気になればおめかしや香水をするだけの力を十分に持っており、今までそれをしてこなかったというのが明らかになっただけである。それは、まさに彼女にとってのことを生活や価値、家族、笑顔、すなわちおめかし、香水、添い寝、は、死体であるところの女に対してだから出来たのかもしれなかった。ローレライは、いかにサーカスという場にあっても所詮は生者なのであった。この空間がいかに猟奇殺人者の屠殺を思わせたとしても、そこにいるのは紛れもない演者という生者である。しかしこの子は違う! この子は! ローレライは女の死体に白粉をまぶしながら頬を紅潮させた。この子は本当の死者だ! 絶対の死者だ! サーカスにこれほど相応しい子がこの世界のどこにいようか! 嬉しい! 嬉しい!

ローレライは次の公演が待ち遠しくなった。




*五*


ついに公演の日が来た。今日はいつにもまして超満員であった。

ローレライは人魚を思わせる美しいコスチュームで上演までの時間を舞台外のテントで待った。

女の死体はピンクで彩られた車イスに乗っていた。

開演十分前になると座員たちがテント裏に集まった。彼らは団長から一通りの注意を受けると、この団長は肥えた五十ばかりの胡散臭い姿勢の女であった。

一人一人の座員たちが車イスの女の死体へと近寄り笑顔で話しかけ、「この公演は貴方の活躍にかかっている」等々のこと、女の死体の頬にキスをした。そして、彼女を中心に円陣を組んだ。

舞台に上演開始の音楽がかかると、それまで騒がしかった観客が静まりかえる。

舞台は暗闇になり、照明に照らされる。

演者が次々と舞台上に飛び出した。

ジャグリングから、動物を使った曲芸、火の輪くぐり、水芸、様々な趣向を凝らした芸を披露してゆく。その度に観客は悲鳴とも嗚咽ともとれるような、歓喜の声をあげた。

ローレライは舞台袖でその全てを見ていた。そして、これから始まる彼女と女の死体との演目は、そのどれよりも美しく、優雅で、愉しく、今日一番の観客の感動を誘うものだと実感した。

ローレライ以外の座員の演目が終わると、舞台中央にうやうやしく団長が現れ、前口上を始めた。

「いやいや、今回のお客様は実に運がいい! 今日の最後の演目はとっておきのものを用意しております! それは! 美しく可憐な少女とそんな彼女と生き別れた母親との運命の愛の再会でございます! それはきっと皆様、そのあたたかい再会に涙溢れることでしょう! えっ? そんな三文芝居は見たくない? それは杞憂でございます、お客様。ここはサーカスでござい。普通の母娘の再会であろうはずがございません。なんとこの美しく可憐な少女役、死体なのでございます! 母と生き別れた、数々の苦難で足を不自由にしてしまい車イスとなってしまった悲劇の少女、その少女を演じるのが、死体なのでございます!」

それを聞くなり、観客はわっと歓声を上げた。

少女役の女の死体を車イスに乗せ幸薄げな母の面持ちをしたローレライなライトの下へとのらりと現れる。一歩一歩、食道を押し進められていくだ液と混ざるドロドロの食物のように、ローレライは歩く。

観客は固唾を飲んでそれを見守る。

団長はゆっくりと後退り、舞台中央を譲る。

ローレライはやっとの思いで少女役の女の死体を舞台中央に置く。それの正面へと回り込み、しゃがんで、顔を覗き込む。この時、それの両眼は開かれており、誰が見てもわかるほどの義眼だった。ローレライは身体を硬直させ、金切声をあげた。しかしそれは不思議に、観客や団長、座員たちに何がしかの精神的変調を与えることはなかった。十秒ほど金切声をあげると、腰につけていたベルトから鉄の棒を抜いた。それの頭を鷲掴みにし、その顔を観客全員に見せびらかすようにぐいと仰がせると、右の義眼めがけて鉄の棒を突き刺した。義眼がパリンと割れ、破片が噴水のように瞳孔から飛び出した。すかさずローレライはそれの瞳孔にちょうど眼球を吸い上げるかのような姿勢で口をつけた。すると、体内に破片が洪水のように入ってきた。

口腔を傷つけ、喉を傷つけ、食道を傷つけ、気管を傷つけ、肺胞を傷つけ、胃消化器を傷つけ、小腸を傷つけ、腎臓を傷つけ、大腸を傷つけ、膀胱を傷つけ、肛門を傷つけ、ローレライの全身を傷つけた。

その傷は身体内部から表皮にまで及び、ブルブルと震えだすと、全身の皮膚から虹色の液体と破片が噴出した。

虹色の液体は血液と交ざっており、空気に触れると美しい虹色の結晶になった。

ローレライの全身はくまなく虹色の結晶になった。その一連の事態は時にして一分も経たなかったであろう。おそろしいほど機敏、そして優雅に流れるようにしてそれは起きたのだ。

観客は息を飲んだ。そして、割れんばかりの拍手を送った。その拍手の中、ローレライは叫んだ。

「これが生活! これが生活!」




*end*

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