河内の翡翠(かわせみ)
楠木正行は挙兵し、京奪還のため進撃を開始すると、足利直義は足利家の執事であり武名高い高師直、師泰を討伐軍として派遣せず、畠山国清、細川顕氏を繰り出した。
正行は国清、顕氏を破り、敗報を聞いた直義が山名時氏も派遣するが敗れ、京へ戻る始末で直義の不手際と、足利畏れるに足らないという空気が京に広まっていった。
京の者たちの中には早くも荷造りをして、京から脱出を企てる者や、公家の中には南朝に誼を通じるものも見受けられた。
幕府内でも直義の失敗は、師直、師泰を起用しなかったからだという目を向けるものいたが、それについて進言するものは居なかった。
既にこの頃、幕府内で直義と師直との間に溝が出来ていた。
そして、師直の配下以外の者たちは、師直に不満を持っていた。武功をあげようが、申し出をしようが、足利尊氏に進言されず恩賞が与えられることが少なく、不平不満が持たれていた。
実際の幕府の運営の大半を直義が担っており、尊氏や師直に付くより直義の方が利になるとの思いから、あえて、直義を非難する事はなかった。
直義にしても、足利家の執事としての師直は信用し、信頼もしていたがこれ以上功績が上げれば、制御する事が難しいと考えて、討伐に師直を起用せず、国清、顕氏を起用し時氏を追加で送り出した。
結果としては敗れるふがいない結果だが、三名とも鎌倉幕府討幕から転戦してきた歴戦の勇将であり、若年の正行相手であれば問題ないと送り出した。
連続の敗報を聞いて、不甲斐ないとその時持っていた書状を床に叩きつけた。
その後、直義は師直を呼び正行の討伐を命じた。師直はその命を受け幕府方の武将たちに兵を率いて参陣する事を命じる書状を出し、師泰と国清、顕氏、時氏の敗残兵を纏め集合場所に布陣した。
師直の出陣の報を聞き、正行は師直の用兵を分析し終結しつつ兵力の情報を接する事により、勝機は去ったと悟った。
「正時」
「何だ、兄上」
「師直殿が出てきた以上、勝ち目はないな」
「弱気だな」
正時は、大声で笑い出さした。それを見て、正行は苦笑を浮かべた。
国清、顕氏、時氏は確かに油断できない者たちではあるが、師直は情報を細かく集め、それを元に分析し戦略戦術を構築していく。
氏素性関係なく取り立て、忍びなどを多数は配下に取り込み情報の大切さを理解した数少ない武将だった。
小者を派遣することがある国清、顕氏、時氏ではあったが、身分に拘り直属に忍びを置くことがなく情報の鮮度が低く、師直と比べる以前の問題だった。
「前の三人は前座だったな」
「そうだな、直義殿が師直殿をもっと敬遠して、出さなければ京へ攻め込むのも夢ではなかったがな」
正行の言葉に、にやにやしながら正時は顔を向ける。
「なんだ、何か言いたそうだな」
「兄上、京へ攻め込めると思ってないだろう」
「ふふふ、攻め込めるさ」
「ただ、押さえることはできないだろ」
その正時の言葉に、大きく正行は笑った。
「その通りだ、今の南朝軍では小手先の軍を破ることは出来ても、京は押さえられない」
「だが、あの馬鹿どもは、それを理解していない」
「ああ、親房如きの公家崩れに分かるはずがない」
親房の名前を聞き、正時は舌打ちをする。
「やつは、こちらに敗戦の責任を押し付け、勝った功績は己の者にするからな」
「公家の連中は後ろで、ごちゃごちゃ言って足を引っ張り、功績をあげれば身分がどうのこうのと言いだしやがる。何にも分かってない、奴らが父上の殺したようなものだ」
「もうその話は止めておけ」
「……」
吐き捨てるように、胸の中の不満をぶちまけた。
「正行兄上」
二人が沈黙していると、廊下から声がかかった。
「正儀か」
「はい、言われた通り酒とつまみを持ってきました」
「入れ」
正行の言葉に、正儀が入ってきた。
「酒を持ってきました」
そう言いながら、正儀は盃を二人に渡し酒を注いだ。
注がれた酒を一気に飲み、正行は正儀に話しかけた。
「正儀」
「はい」
「楠木の棟梁をお前に譲っておく」
その言葉に正儀は、眉を顰めた。
「何を言われているのですか、縁起でもない」
「お主も分かっておろう、師直殿が出てきた以上、現状では我々に勝ち目はない」
「それならば、退けばよいのではないですか」
正行は顔を左右に振り、正時は顔を歪めた。
「分かっておろう、それを親房は許さない」
「親房殿が許さなかったとしても、何もできますまい。ただ、陰口を言うだけではありませんか」
「確かにな、だが、奴は父上の名を貶めようと我らが撤退すれば画策するだろう」
「……」
画策するという言葉に、正儀は反論せず顔を伏せた。
「奴らのお得意だ、出る杭は打つというのはな。父上の驍名は天下に響き、新田や公家侍などを凌駕している。それに伍するのは顕家殿のみ。それでも公家どもは満足すまい」
「その通りだ、奴らに言わせれば、武士は下賤の者、這いつくばって命令を聞くのが当たり前だと思っている。得宗家を滅ぼしたのも、京を奪還したのも武士だと理解してない愚か者たちだ」
「正時兄上」
「正時の言う通りだ、我々は使い捨てだ。それも義貞殿たちと比べ、我ら悪党の扱いはな」
酒を飲みながら言い捨てる。
「だから、我らが楠木の意地を見せる。後は頼む、厄介ごとを任せるのは心苦しいが」
「そうだな」
「正時兄上も」
「あたり前だろうが、兄上一人逝かせるわけがあるまい」
良い笑顔で正時は、正儀を見る。
その笑顔に、決意を覆すことが出来ないと正儀は感じた。
「悪いな」
「……わかりました」
「頭領となるお主に、置き土産ではないが父上が言われていたことを伝えておく」
「父上が」
「そうだ、今の足利の事だ」
足利と聞いて、正儀は首を傾げる。
「父上が言うには、足利内部には問題がある」
「幕府ではなくてですか」
「確かに、足利内部の問題だが結果的に幕府内部の問題だろう。そして、それが付け入る隙を与えてくれる」
「そうであれば、兄上が」
その言葉を、手を振って遮る。
「今は無理だ、親房がいる」
「親房殿に進言すれば」
「だから親房に言っても無駄だと分かってるだろ、奴は兄上が言った策は取らない」
「正時兄上、しかし、こちらの功績でなくても親房殿自身が己の功績とできるはずです」
「奴の自尊心が許さんよ、父上のそして兄上の策で功績を得るなど、己の才が我らに及ばぬと認めるようなものだ」
「……」
正時の反論に、正儀は沈黙した。
「まあ、あれの話は脇に置こう。それよりも父上の話だ」
「はい」
「父上が言うには、師直殿は無欲すぎるとのことだ」
「執事である立場であれば、それは美徳では」
「そう美徳だ。しかし、それを他の者たちにも当てはめているとすればどうだ」
「それは……恩賞が十分に与えられていないと」
正行は頷いて、言葉を続ける。
「そうだ、師直殿とすれば、尊氏殿の褒美の言葉で十分だと考えている節がある。鎌倉を滅ぼした後での論功行賞でも、積極的に取り次ぐこともなく帝や廷臣に任せていたようだな」
「しかし、政務に携わっていたのでは」
「携わっていたが、所領や官位などについては、廷臣たちに任せたようだな」
「尊氏殿の離反やそれ以降の混乱は、恩賞に不満があり所領安堵や恩賞を与えた尊氏殿の信望が上がったとも聞きましたが」
「それは、直義殿が主導的に行ったことで、尊氏殿や師直殿は積極的に動かず、帝にも逆らう気はなかったようだ」
「師直殿が不満を帝に向けるための策略では」
「それはない。師直殿の尊氏殿への忠誠は本物だ。尊氏殿が前に出ず帝の命に従っていた以上、師直殿がそのことに逆らうことはありえない」
「では、尊氏殿の離反や幕府設立、北朝の皇統擁立は直義殿の策だったと」
「父上は、そう見ているが、その話ついて今はおいておく。父上の話を思い出し、師直殿の幕府での恩賞について調べたが、やはりほとんど出されていない」
「諸将は不満に思いませんか」
「その通り不満に思っており、政務の大半を掌握している直義殿に、尊氏殿への取り次いでほしいと頼んでいたようだ」
「取り次いだのですか」
「多少は取り次いだようだ。それについて、尊氏殿もあまり気は良くなかったようだ」
「しかし、聞いてる話では、三人とも決定的な亀裂が入っているとは聞いてませんが」
「師直殿の尊氏殿への忠義、足利家への忠義については、直義殿も理解しているからこそ、決定的な亀裂にはなっていないが、その周囲はそうでもないようだ」
「では、亀裂を入れようとするものが内部にいると」
「その通りだ。上杉重能、畠山直宗が妙吉を使い画策しているようだ」
「獅子身中の虫ですね。こちらとしては付け入れそうですが」
「そうだな、その三人も師直殿の無欲によって、恨みを持った連中だ。妙吉のやっかいなのは、夢窓疎石との繋がりがあることだな」
「尊氏殿も、直義殿も深く帰依されてますからね」
「十全に周囲を満足させられる恩賞はないが、多少でも与えておれば師直殿も恨まれることなかっただろう」
「無欲は時として、欲深い者には邪悪に映るものですからね」
「そうだな、だがな、直義殿も師直殿と同じような考えだ」
「……」
「師直殿が排除されても、直義殿も大した恩賞を出すことはないだろう。所領も官位も者たちは直義殿を見限るかもしれんな」
「師直殿を生贄にしたのに、同じ轍を」
「その通りだ、それにより足利は、幕府は混乱するかもしれん。二人が決別しなければ、安定するだろうがな」
話が一息ついたことで、三人は酒を煽り口につまみを入れる。
「それと、これは潜り込ませた者が二人の愚痴を聞いた話だがな」
「はい」
「師直殿は、政務に興味を見せない尊氏殿に危機感を感じているようだ」
「確かに、直義殿がほとんどを掌握してますが、恩賞を与える権利も持ち直義殿も逆らう気配はないですが」
「今は大丈夫だろう」
「今は……直義殿が心変わりをすると」
「ないとは言えまい、尊氏殿庶長子の直冬殿を養子として直義殿が引き取る話もあるようだ」
「直冬殿とは、尊氏殿に忌避されている方ですか」
「そうだ。直義殿がその気はなくとも、直冬殿が居れば幕府の後継者として祭り上げることも可能だろう」
「まさか、尊氏殿が許さないでしょう。義詮殿が居られます」
「人の心は移ろいやすい、足利一門の者達が祭り上げないとも限らない。それに直義殿が乗っ取る可能性もありうるとも思っているようだ」
「そんな馬鹿な」
「師直殿もないとは思っているが、唐での先例もある」
「……宋の太宗ですか」
正儀の言葉に、正行は頷いた。
宋の二代皇帝である太宗は、兄である太祖の死にただ一人立ち会っており殺害した疑いをもたれていた。
死に際して、太祖は鉞を振り上げ遺言を残したと言われているが、その後の太宗の行動を見るとにわかに信じがたい。
太祖の子を立てず、太宗が皇帝として即位し、太祖の子ども達を蔑ろにして冷遇し、己の子を次の皇帝として即位させた。
「尊氏殿は宋の太祖のように人を引き付ける器の大きさを持ち、直義殿は太宗のように政務面で尊氏殿を支えている。尊氏殿に何かあれば、義詮殿ではなく直義殿が将軍になっても誰も不満はあるまい。」
正儀、正時は頷いた。
「だが、尊氏殿は義詮殿に後を継がせたい、その思いを知っている師直殿は、直義殿や直冬殿の力を削いで義詮殿に後を継がせようと動いている。まあ、直義殿も直冬殿も取って代ろうとは思っていないだろうけどな」
「何故ですか」
「後を奪いたければ、恩賞なりを与えて己の支持者を集めるだろうが、そのような事はしていない」
「師直殿の不安は分かりました。であ、直義殿の不安は何ですか」
「そちらは、高家が北条家のように幕府の執権として、実権を奪わないかが心配なようだ」
「足利家の忠義を持った高家と、最初は源氏に敵対していた北条家とは違うと思いますが」
「師直殿と同じだ、周囲や家臣がどう思い、どう動くかわからないということだ。今は良い、次代も良いだろう、しかしその次は分からない、人の心は移ろうものだからな」
「……」
「だから、直義殿、師直殿が争う可能性があるから注視していろ、其処が付け入る隙のひとつだ」
「直義殿が勝ったとしても師直殿が支える義詮殿が直義殿を赦すわけがない。師直殿が勝っても直義殿が引き取って育てた直冬殿が抵抗すると」
「その通りだ。隙が出来れば付け込め、そして、双方に繋がりを持つようにしろ」
「……どのようにでも動けるように、ですか」
「そうだ、お前は我々より視野が広く策も秀でている、それをうまく使いこなせ」
「しかし、兵の扱いは兄上たちには劣ります」
「そんなもの経験を積めばなんとでもなるし、配下の者をうまく使え」
「正時兄上……」
手助けしてくれないか、いや、己の替りに頭領になって欲しいと見つめる。
「諦めろ」
その正時の言葉に、正儀は肩を落とす。
「まあ、いったん話はここまでにして、今日は飲もう」
「そうだな」
「分かりました」
夜空に光る満月の光を受けながら、正行、正時、正儀は酒を飲み合った。