9 秋の花火
美恵子は、弘志と別れたことを典子に言わなかった。弘志も誰にも言わなかったが、良貴は何が起きたのか知りたかった。
「そろそろ俺も、引退しないとな~」
弘志はそう言いながら、2学期になっても時々体操部に出てきていた。美恵子と別れた途端に体操部に来なくなるなんて、自分にも美恵子にもみっともなくてできなかった。
体操部の帰り道、いつになく神妙に歩いている弘志に、良貴はそっと声をかけた。
「…弘志先輩、…別れたって、ホントですか?」
弘志は驚いたが、特に表情を変えるでもなく、
「ん、ホントだよ」
と答えた。良貴は、いつもの弘志だったら「誰から聞いた?」と訊くだろうと思って、
「…あの、須藤さんに聞きました…」
と先回りして答えた。
「あっそ、じゃあ典子も知ってるのかな」
弘志は淡々としていた。
「メシ、食ってこうぜ」
駅に着くと、弘志と良貴は2人だけで群れを離れた。
「うまく言えないですけど…、あの、…残念でしたね…」
「…ん、そうだな~、残念、だな~、まさに」
弘志が同調したので、良貴は恐縮した。
「はあ、…そうですか…」
「ああ、俺もな、甘かったよ」
適当に、安い定食屋に入った。弘志がぼうっとしているので、良貴もあまりしゃべらなかった。いつもなら、弘志が快活にしゃべり、良貴が相槌をうっていたはずだった。
「好きになってくれない人とは、つきあえないってさ」
突然、弘志が話を戻した。良貴は、まず驚いて、それから自分の責任を感じた。でも、責任なんて傲慢だとも思った。それは2人の問題だ。
「…いや、別に、つきあい始めたきっかけがいけなかったってわけじゃないよ」
弘志は良貴の顔色を読んで、気を遣った。
「きっかけなんて、結局きっかけなんだよ。問題はその後、どうつきあったかなんだよな。滝野川にも言われたよ。今回の合宿は首尾がよくないな、だって。おまえにも言われたじゃん。いろんな子に色目を使うなって」
「いや、そんな、色目なんて」
「でもまあ、そーいうことなんだよ。本音はさ、須藤一人に縛られたくないって思ってて、女の子が自分に好意を持ってるのをいろいろ楽しんだりしてさ」
弘志はため息をついた。
「なんか、こういうとき、ため息ついてるより、タバコの煙でも吐いてるほうが格好つくよな。男がため息ばっかりついてるのって、なんか情けねーよ」
良貴は、弘志の気持ちがわかるような気がして何も言えなかった。夏合宿のあと、典子の来ない部活は張り合いのなさを増していた。気付くとため息をついている自分がいた。格好悪いなと思っても、次に気付くとまたため息をついていた。
でもそれなら、と良貴は思った。弘志のついているため息はなんだろう。もし同じものなら、それは誰かを想うため息だ。
「…弘志先輩、…須藤さんのことは、結局…」
はっきりとは訊けなかった。弘志は古臭いコーラのロゴの入ったコップのぬるい水を飲んでから答えた。
「須藤のこと? 惚れてたかもな、俺。フツーに」
「…そうですか…」
良貴はそれしか言えなかった。失恋したのは、美恵子ではなく弘志のほうだ。
「なんだろう。どうすればよかったのかな。やり直そうなんて言う気もないけど、正しい道がどこにあったのか見えないんだよ。俺、別に他の女に目移りしたわけでもないし、ウソをついたこともない。だから、俺がどうしてればよかったのか、それがわからない」
弘志はまたため息をついた。そして、そのことに自分で気付いて、自虐的に笑った。
良貴は言った。
「…あの、…僕には、その…生意気かもしれませんけど、どうすればよかったかなんて、すごく簡単なことだった気がするんですけど…」
弘志は驚いて顔を上げた。良貴は静かに言った。
「なんで好きだって、ちゃんと言わなかったんですか?」
「ちゃんと好きだなんて思ったのは、別れようって言われた時だったよ。…それまでは、正直言って…どうなのかわからなかった。自分で認めたくないような気もしてたし」
「だったら、思ったその時に言えば…」
「いや、それが、多分…俺が間違ってるところなんだろうと思うけど」
弘志はふうと息を継いで、
「俺が須藤を追いかけて、好きだから側にいてくれって言う気には、今でもなれないんだ」
と言った。
「そんな権利もいまさらないし、それより問題なのは、そこまでの強い意志もないってことだよな。須藤がやり直そうって言ってくれたら、そうする。そうしたらもっと大切にするよ。好きだって言葉も、言えるかもしれない。でも、今、こうして他人をやってて、俺のほうからあいつにどうこうっていうのはできないな」
良貴にはよくわからなかったが、それは、弘志の性格なのだろうと思った。みんながみんな、同じ考え方をして生きているわけではない。
「じゃあ、これから、どうするんですか?」
良貴は訊いた。弘志はしばらく腕組みをして考え込んでから、答えた。
「今までどおり、だな…。典子がいて、体操部があって。合宿でなにかあったとか、思われないくらいに普通に過ごしたら、ほどほどのところで部も引退するよ。急に来なくなったりするのは、なにかあったみたいで、シャクだから」
良貴はそれ以上何も言わなかったが、弘志の言葉にいくつもの違和感をおぼえた。
(弘志先輩は、なんでまず典子先輩から入るのかな…。それに、「シャクだから」って…、誰に対して意地を張ってるんだろう。須藤さんに対して? 他の人たちに対して?)
弘志の世界は、まだ自分を中心とした家族の中にあり、家族の中にはもう一人、典子という自分がいた。弘志の心の中は、まだ大きな子供のままだった。
典子はすっかり秋を迎え、物悲しく、人恋しくなっていた。ちゃんと勉強はしていたが、ノートの隅に時々良貴の名前を書いて、慌てて消したりしていた。
「夏合宿は、よかったなあ…」
千江美のことは気になったが、良貴がわざわざ誤解だと言ってくれたことが嬉しかった。
(「僕と一緒でも、つまらないですか」だって。うふふ)
典子はただ喜ぶだけで、それが良貴のどんな気持ちから出た言葉なのか、全く気付いていなかった。
(私が、其田くんといて幸せなんだってわかってくれれば、それでいいの)
そんな風に思いつつ、典子は3分ごとにため息をついていた。
「ああ、もう、別に、なにかあっても、よかったのに!」
「…其田くんならいいよって、言ったつもりだったのに!」
だんだん気分が盛り上がってきて一人で叫んでいると、いきなりドアが開いて弘志が顔を出した。
「典子ー、英和辞典持ってってない?」
「ギャー、何よ、弘志、レディの部屋にノックもなしに入ってくるなんて!」
「何、俺、いつもノックしないじゃん。着替えとかしてたら鍵しまってるし」
弘志はつかつかと入ってきて、英和辞典を発見した。
「なんだよ、おまえ、英語やってないんだったら、戻しとけよ」
どうやら何も聞いていなかったらしいと思い、典子はホッとして机に向かった。
「あのさー、典子」
弘志の声の調子が変わったので、典子は「やっぱり聞いてたのか」と身構えた。
「…須藤、何か言ってなかった?」
まるっきり別の話だったので典子は安心した。軽く深呼吸して気を取り直し、
「何、ケンカでもしたの?」
と満面の笑みで弘志を振り返った。その表情は、大事な親友と兄が「ケンカした」ような状況ならば決してふさわしくなかったが、典子は良貴のことで頭がいっぱいだった。一方の弘志は、「典子は事情を知らない」と表情から読み取り、それで安心して、典子の様子の不自然さにはまったく気づかなかった。
「ん、まあそんなとこ。ところで…其田のことなんだけど」
「はいっ?」
不安は去ったと思っていた典子は思わず頓狂な声で返事をしてしまった。弘志はじろじろと典子を眺め、しばらく黙っていた。そしてできるだけ軽めに、でも重々しく訊いた。
「合宿の時さあ、…ホントに何もなかったのか?」
弘志は、典子が「ジェントルマン」と言ったときに「そうでもない」と答えた良貴の言葉がずっとひっかかっていた。
「結構長い間、2人っきりだったろ」
真剣な弘志の表情に、典子は耐えきれずに笑いだした。
「…すっごい、おかしい。一体、私と其田くんに、何があるっていうの?」
(私は、期待してたんだけどね~)
そう考えるとみじめな気もしたが、とにかく可笑しかった。
典子がゲラゲラ笑っているので、弘志はものすごく気恥ずかしくなった。
「なんだよ、心配してるんだろ~。おまえな~、いくら其田だからって、男は男だぞ~」
「うわ、すっごい失礼。私、ちゃんと、其田くんのこと、男の子だって思ってるよ?」
「典子、あのな、相手が誰だって、男だったら一応気をつけろよ。もっと遠くに連れて行かれて、一晩帰ってこなかったりしたら、俺、守りようがないからな」
弘志はそれでもなお、年頃の女の子としての危機感をもつように一生懸命訴えたが、典子はもっと大笑いして、
「いやーん、其田くんだったら、それもアリかも~」
と大げさに喜んでみせた。
「少しはなー、須藤を見習えって。あいつは、さりげなーくちゃんと警戒してるんだぞ」
「あははー、私は、美恵ちゃんみたいにモテモテじゃないから、必要ないもーん」
ダメだこりゃ、と弘志は思った。
弘志が英和辞典を手に部屋を出て行ってからも、典子は顔が笑っていた。
(もっと遠くに連れて行かれて、一晩帰ってこなかったら!)
やや漠然としていたが、ちょっと過激な想像が典子にも浮かんだ。
(えー、それは困るかもー。ちょっとまだ早いかもー。でも、高校生くらいになったら、そーいうのもアリなのかなー)
絶対にないけどね、と思うとまた笑いがこみ上げた。それは幾分切ないような気がしなくもなかったが、弘志が良貴との恋愛沙汰を勘ぐってくれたことがとにかくくすぐったくて、その日一日典子はにやにやしていた。
授業が終わって帰り支度をしていると、典子の頭の上から中途半端な関西訛が聞こえた。
「よー、最近ご無沙汰やったなー」
「へっ?」
顔を上げると、聡史が立っていた。
「あれ、飯田くん。何やってんの、こんなところで」
「こんなところって、おまえもこんなとこにおるやん」
「だって、ここは私の教室だもん」
「俺も、おまえの教室だから来たんやけど」
典子と聡史は、3年生になってからめったに遊びに出掛けなくなっていた。ときどき電話で話したりはしていたが、典子にとって久しぶりに見る聡史の顔だった。
「何の用?」
「ホンっトに、冷たいな。人がせっかく、勉強のお誘いに来てやったのに」
「何よ、勉強って」
「勉強って言ったら勉強やろ~。おまえは、大学を何で受験するつもりなんや」
「国語と、英語と、日本史。で?」
「ウワ、むかつく。フツーに答えんな」
典子はへらへら笑った。聡史は気をとり直して言った。
「おまえ、センター試験受けんの?」
「受けない」
「うそー、受けとけよー。来年、がんばれば、東大合格するかもしれんやろ」
「絶対、ないよ」
「だから『来年』がんばれば、や。今年度は無理として、浪人したら多少は可能性も出てくるやろ」
「だいたい、なんで東大なのよ。そんなとこ、受けないよ」
「うわー、おまえにまでフラれたわ。救いがない…」
聡史は大げさに落ち込んでみせた。
「は? なんで、私が東大受けないとフラれたことになるわけ?」
「ちゃうよ。おまえが東大受けようが、国際仏教学大学院大学受けようが、関係ないワ」
「国際仏教…ナントカ大学って何」
「そういう長い名前の大学があんの。まあ、冗談はそのくらいにして」
「私、飯田くんが冗談以外のこと言ったの、聞いたことないよ」
それからも脱線トークが続き、やっと聡史は用件を言った。
「化学の実験、つきあえや」
「何それ?」
「今年化学部、学園祭で花火作りのコンテストやんの。俺は、優勝狙っとるんやけど、採点すんのが来場者みんなやから、女性票の動向を知りたいワケ。ウチの部、恐ろしいことに部員が全員男やから、女性の話を聞いとこ、思て…」
「なんで化学部で花火なの?」
「はあ? おまえ、もっと利口なヤツと思ってたのに。炎色反応、習ったろ。花火の色って、炎色反応で出してんの。俺の作った花火見て、炎色反応覚えて、センター試験の受験勉強の足しにして、浪人したあげく来年は東大に合格と、こういう寸法やから手伝って~。俺は、花火コンテストを取りたいワケ。そしたら、打ち上げの焼肉が、タダになる」
「私は、飯田くんの焼肉のためにつきあわされるの?」
「それは悪いと思って、東大の話を持ち出したんやないか」
「何の足しにもならないね」
でも結局、典子は面白そうだから聡史の実験につきあうことにした。聡史は、写真部から暗室の鍵を借りていた。
「暗室でやるの?」
「今、そのへんで燃やしても、明るくて何も見えんて」
2人は並んで歩き出した。
「すい、へー、りー、べ、ボクノフネ~」
「変な歌」
「授業で、やったろ。元素記号」
「でも、そんな変な歌はついてなかったよ」
「俺の作曲や。各所に才能を発揮する、マルチな男」
「各所にアホを発揮しとるね」
暗室は体育館裏の部室棟にある。天文研究会、化学部、占術研究会、考古学研究会、ミステリ研究会などの怪しそうな部活ばかりが入った小さな建物だ。
体育館が近づくと、典子はいささか緊張した。まだ残暑の残る体育館は出入り口が開け放してあった。良貴がいるかもしれない。
「典子センパーイ」という声がした。典子が声のほうを見ると、2年生の戸部百合香だった。奥のほうにいた良貴はドキッとして、さりげなく、行き交う声の様子をうかがった。
「あー、頑張ってる~?」
典子は手を振った。不審な視線の動きをしないように我慢したが、視界の隅ではやっぱり良貴を探していた。
「あ、典ちゃ~ん」
美恵子も気付いて声をかけた。その時良貴はやっと典子の姿を見ることができたが、隣に聡史が立っているのも見え、途端に暗い気持ちになった。
弘志が出入り口に駆け寄ってきた。
「なんだ、典子、こっちには来ないのか~」
「あれ、今日は、弘志も出てたんだ~」
弘志は、典子の隣の男の姿を見て、すぐに顔を曇らせた。
「おまえ、何やってんのー」
弘志が訊くと、典子は、
「花火やんのー」
と答えた。
「じゃあねー」
体育館の奥に良貴の姿をしっかりと認め、典子は心おきなく体育館前をあとにした。
良貴は、周りの目も忘れて立ち尽くしていた。去年の学園祭で、聡史からもらった花束を大事そうに抱えていた典子の姿を思い出した。
(…そうか、まだ、仲いいんだ…)
不安とともに、胸の痛みがゆっくりとわきあがってきた。典子は去年「そういう関係じゃない」と言っていたが、今、どうなのかはわからない。
聡史と典子は暗室に入った。聡史は、あらかじめ暗室に置いてあったらしい袋から、しょぼくれたこよりのようなもののついた棒を出してきた。
「これ、花火」
「え、これから作るんじゃないの?」
「あー、作るのは、先生と一緒にやらんといかんのよ。失敗すると、爆発するらしい」
「えー!」
「先生のご指導のもと、慎重に、慎重に作って、学園祭で燃やして、人気投票やるわけ」
典子が興味深そうにのぞき込むと、聡史が、
「あ、気をつけてな。触んなよ。静電気でも、爆発するらしいデ」
と言った。典子はビックリして聡史を見た。
「えー、えー、えー、やだー、そんな危ない実験だったら、やだー」
「何、言ってんの。小学校とかでも、夏休みの特別教室とかでやったりするんよ。よっ、…ぽどのことがなければへーきや」
「私、飯田くんと心中するの、嫌だー」
「大丈夫、心中はさせんよ」
「ホントに?」
「あー。俺は逃げるからな、心中にはならんワ」
典子は青くなって暗室を出ようとした。聡史はからかいすぎたなと反省して、一生懸命なだめた。
「へーき、へーきやて。ホント、ほんのちょっとしか燃えんのよ。こんな数グラムのモン、大したことないよ。おまえなら、日本の人口の実に半分を占める女性の、総合的な意見を代表してくれる、思て連れてきただけや」
「うっそつけ、誰もつきあってくれなかったって言ってたのに」
「それはホラ、照れ隠しや。おまえにしか、頼んどらんよ」
典子は、そういえば手作り花火で人が死んだ話は聞かないなと思って、仕方なくその辺にあった椅子に座った。聡史が暗室の電気を消し、紙焼き写真を現像する時に使う暗いライトをつけた。しかし光源が赤かったので、ライトを消して、部室に常備されていた非常用の懐中電灯をつけることにした。煙に巻かれないように換気扇を回し、現像用の流しに軽く水を張り、棒を手に持って先のこよりの部分に火をつけた。
聡史が「花火」と言ったそれは色を出して燃え、パチッ、パチッと赤い火花が飛んだ。
「あ、すごい、ホントに火花だ」
「そりゃあ、そうや。でも、火花やなくて、花火と言えや」
でも、3秒くらいで火は消えた。
「あ、もう消えた」
「あれ~、作った時はもう少し、燃えたんやけどな~」
「これじゃ、花火とは呼んであげない。ハイ、次」
次の花火は、シューッと音を立てて火花を散らした。
「あ、すごい、花火っぽい」
でも、その花火はひたすら明るい白っぽい火花を噴射しながら燃えて、しばらくしたら消えた。
「なんか、華がないね~」
「うーん、今のはほとんどマグネシウム。やっぱ、つまらん?」
「つまらん」
「案外シンプルな方がイケるかと思って、作ってみたんやけどナ。やっぱダメか」
いろんな花火が典子の目の前で燃えた。10種類ほど燃やすと、
「今日は、これでおしまい。どう?」
と聡史が聞いた。
「もうないの?」
「ないよ。作る方は燃やすのの何倍もかかるのに、簡単に言うな。なんか、気に入ったのあった?」
「緑のやつが、綺麗だった」
「はあ、バリウムか」
「バリウム?」
「緑の炎色反応は、バリウム系の化合物」
「あ、そうなんだ~」
聡史は、薄暗い明かりでノートの中の表の一箇所にマルをつけた。
「おまえ、どんなんが見たい? できるだけ、ニーズに合わせたモン、作ってみるけど」
「うーん、色が変わるやつが見たい」
「あ、やっぱ? それなー、意外と難しくてな~。いっぺんに燃えたりして、どうもうまくいかんのよ。作る時も、薬品混ぜてからうかつにいじくると、爆発するし」
「爆発ばっかりだね」
「化学は、爆発との戦いよ。去年の学園祭の準備では俺、爆発まではいかんけど、突沸した硝酸頭にかぶって、アンモニア塗られたワ」
「臭そう~」
「いや、俺は、ハゲるかと思って、焦ってそれどころやなかったよ」
典子は大ウケにウケた。それから片付けをして暗室を出た。
「そんなに時間くわんやろ。また、次できたら、見てくれんか?」
聡史は暗室の鍵を閉めながら言った。燃焼実験は準備の時間を目一杯入れてもほんの30分程度だった。
「え、べつにいーよ」
ささやかな火花も案外素敵だった。うまく燃えないかもしれないという緊張感は、花火を新鮮に見せてくれた。
「今度は、スーパースペシャル典子ファイヤー、七色変色スペクタクルを作っとくから、楽しみにしとけよ~」
「嘘ばっか」
もう一度体育館の前を通って、2人は校門に向かった。典子は一生懸命さりげない横目で体育館の中をのぞいたが、聡史に隠れてよく見えなかった。
「江藤さー、時間あったらお茶でも飲んでかん?」
「そーねー、ひさしぶりだもんねー」
「言っとくけど、おごらんよ」
「結構でーす。タダより高いものはない! 今度の実験で爆発にまでつきあえとか言われたりしたら、困りまーす」
「信用ないな~」
「ないよー」
典子と聡史が並んで歩く背中を、良貴は体育館の奥からずっと見ていた。
それから何度か、体育館脇を通って部室棟の暗室に入っていく典子と聡史の姿が見られた。それは、体操部のある日だったり、ない日だったりした。
「なんだ、典子先輩、カレシいるんだ~」
千江美は万歳三唱したい気分だった。ダメ押しに、良貴が近くにいるときに、聞こえるように「典子先輩、今日もカレシと一緒じゃん」と仲間と騒いでみたりしていた。
(…どうせ元から、僕のことなんか…)
良貴はそう思いながらも、心のどこかに典子の好意を期待していた自分がいることを知っていた。気持ちを伝えれば、典子の好意は恋として返ってくるのではないかと――そんなふうに甘く見ていた自分を嘲笑するしかなかった。
学園祭が近づいて、体操部の練習は学園祭のダンスの練習ばかりになっていた。春に「クラブ遠足」についていかなかった1年生たちも、良貴のダンスに見惚れた。口を開けて眺めている1年男子の近くで、1年女子が小突き合いをしていた。
「うそー、マジかっこいいかも、其田先輩」
「ちょっと、乗り換えないでよね~」
美恵子はその様子を見ながら、典子を思って小さなため息をついた。体操部の慣例として、3年生は学園祭のステージには出ない。ダンスの練習が増えるにつれ、弘志も体操部にあまり来なくなった。美恵子には、夏合宿を最後に何もかもが失われ、いろんなことが変わってしまったように思えた。
「須藤、ヒマそうだな」
美恵子がステージから少し離れた出入り口付近で感傷にふけっていると、後ろから弘志の声がした。慌てて振り向くと扉のそばに弘志が立っていて、幾分芝居がかったような笑顔を見せた。美恵子は不自然にならないように視線を外した。やっぱり惹かれてしまいそうな自分が怖かった。
「ヒマなんかじゃないですよ、さっきまでずっと練習してたんですから」
美恵子と弘志はあれ以来、何事もなかったかのように接していた。だが弘志がかつて一年生の美恵子に見せていたような思わせぶりな態度をとることは決してなく、この二人に何かあったのを見て取るのは、実は簡単なことだった。
「今年のでき、どう?」
「うーん…」
美恵子はひっそりと声を落とした。
「其田くん一人で引っ張るの、つらいですよ。女子でバック転できる子もいないし…」
「そっか、去年アンコールとったのにな…。今年はあらかじめ、アンコールの分も練習してるんだろ?」
「やってます。これでアンコールかからなかったら、ちょっと淋しいですね」
美恵子の胸が切なくうずいた。弘志が目の前にいる、二人で話している、それだけでどうしようもない甘い圧迫感がある。気持ちが雪崩れて落ちていくような気がした。
「江藤先輩、たまには全部見ていきませんか? あと、1年生とかに、教えてあげてください。今日は、滝野川先輩もいないし…」
「そっか、滝野川来てないんだ。じゃあ、教える奴いなくてみんな怠けてんだろ。たまには先輩ヅラして、威張ってくか」
弘志は靴を脱いで体育館に靴下で上がってきた。美恵子は、弘志の広い背中に哀しくて熱いまなざしを送った。
弘志の登場で、部活の中はうわっと元気になった。弘志の周りに輪ができた。
「江藤せんぱーい、このごろ、全然来てくれないじゃないですか~」
「ステップ教えてくださいよ~」
(弘志先輩がいると、やっぱりなんだか盛り上がるな…)
良貴は、その点については絶対に弘志に勝てないなと思った。対抗心はなく、自分自身もホッとした。
調子に乗って、弘志と良貴は体育館の床で手拍子に合わせて去年のユニゾンを踊った。靴下は滑るので、体育館履きの用意がなかった弘志はこっそり外の靴を持ち込んでの熱演だった。
「ヤバいよー、今年、ここまで全然レベルが追いついてねーよ」
「どうしよー」
1、2年生が嘆くと、弘志は叱咤した。
「何、言ってんだよ。俺だって全部、ここの体操部で練習したんだからな。泣き言言う前に練習しろ。あと、家でもDVD見て踊れ。練習の何本かあるの、貸してやるから」
美恵子は、部員に囲まれる弘志を見ていて、思わず涙がこみ上げてくるのを感じた。
(…私の出した結論は、間違ってなかったと思うけど…、でも)
去年の秋、学園祭が終わった頃、突然訪れた幸せ。
『あ、そのアーモンドのとこ、ちょっとちょうだい』
『これでも俺、緊張してんのよ。つきあおうか、って言ってるんだけど』
もう、ずっと前の出来事のような気がした。美恵子の視界がぼやけてかすんでいった。慌てて外に出て、流しで顔を洗いながら、美恵子は泣いた。
その日は久しぶりに解散後にみんなでお茶を飲むことになった。
「須藤、おまえ、どうしたの」
弘志は美恵子の目が赤いことにすぐに気がついた。美恵子は張本人からの指摘に、
「秋風が、目に染みて」
と答えた。
弘志も去年の秋を思い出していた。美恵子と別れて以来、いろんな女の子から寄せられる好意がさほど嬉しくなくなっていた。
(もし、俺が今、新宿のあの喫茶店に行きたくなったら、誰と行けばいいんだ? もし、典子じゃない誰かと行くとしたら)
言い知れない寂しさがこみ上げてきた。
(…秋だから、…かな)
弘志はそう思って、はたと足を止めた。
「弘志先輩、どうかしましたか?」
少し後ろを歩いていた良貴が声をかけた。
「いや、なんでもないよ」
弘志はまた群れの中を歩きだした。美恵子の背中を見つめて心の中でつぶやいた。
(秋風が、目に染みて)
美恵子が隠れて泣いた理由がわかったような気がした。
弘志はこの頃ちょっとだけ、体操部に出ることが増えていた。DVDの貸し借りもあったし、学園祭がもう目の前だというのに後輩たちは頼りなくて、とてもじゃないけど放っておけなかった。自分にそう言い聞かせながら、それだけではない明白な理由を胸に抱えて、弘志の足は自然と体操部に向いていた。
「ねえ、最近、江藤先輩またよく来るようになったよね」
「リエ、どうするの? 学園祭終わったら、また来なくなるかもよ?」
「って、千江美、アンタもそうだよー。どうするの、其田先輩」
「そうねー、学園祭も、ある意味チャンスだよねー」
相変わらず1年生の女の子たちは貪欲だ。美恵子にはそんな喧騒も懐かしかった。
(江藤先輩狙いの子も、いるんだろうな…。やっぱ)
なんとなく、朝川リエかな、とは思っていた。
(あの頃は、今周りにいる中では私が一番好きだって、言ってくれたけど…)
今、弘志の中で一番は誰だろう。そう思うと、美恵子は自然に「典ちゃん」と答えていた。でも今は、弘志の心を典子から引き離せるほど深く、ちゃんと弘志を理解しようとしていなかった自分に気付いてもいた。
(典ちゃんの千分の一だって一緒にいたわけじゃなくて、まだ何も始まっていないうちから、弘志先輩の中で典ちゃんより大切な人になれるはずなんて、なかったのに)
キスだって「今度な」という言葉を最後に宙に浮いたまま別れてしまった。置いてきてしまったたくさんのものを、美恵子は今やっと惜しむ気持ちになっていた。
美恵子がふと外を見ると、典子が歩いてくるところだった。
「典ちゃーん」
呼ぶと、典子は小走りに駆け寄ってきた。その後ろからゆっくりと聡史が歩いてきた。
(あ、まただ!)
美恵子は聡史に嫉妬を覚えた。典子は体操部にちっとも顔を出さないのに、聡史とばかり一緒にいる。
「典ちゃん、この頃、江藤先輩もよく来てるんだよ。典ちゃんもおいでよ」
「え、じゃあ、今日も弘志、来てるの?」
「うん、来てる」
典子の姿が見えたので、弘志は即座にやってきた。
「おまえもたまには来いよー」
しかしまたもその瞬間、弘志の目には聡史の姿がうつった。弘志のけげんな視線と体操部の面々の好奇の目に気がついて、聡史は、
「江藤~、じゃあ、先に行っとるよ」
と言って去っていった。
「あ、うん、後で行くー」
典子が言い終わるかどうかのうちに、弘志は、
「おまえ、あいつとしょっちゅう、何やってるわけ」
と眉をしかめて訊いた。
「え、別に、花火見せてもらってるだけだよ」
「花火?」
「うん。飯田くん化学部だから、炎色反応使って花火作ってるの」
「で、なんでおまえが関係あるわけ?」
「ステキな花火を作るために、協力してるの」
美恵子が弘志の出す火花を鎮火すべく言葉を挟んだ。
「へー、花火、作ってるんだ」
「うん。学園祭の時、花火の人気投票あるから、美恵ちゃんも飯田くんに入れてあげて」
良貴は典子が気になっていたが、出入り口まで行くきっかけがなくて気もそぞろで練習をしていた。聡史が一緒だったのは、通り過ぎていく姿が見えたのでわかっていた。
弘志は典子を責めるように言った。
「あのさー、でも、なんでおまえがそんなに協力しないといけないわけ?」
「別に、私が誰と仲良くしようと、勝手でしょー」
美恵子がまた、さりげなく割って入った。
「典ちゃん、花火って、どこでやってるの? 化学部の部室?」
「ううん、写真部の、暗室借りてるの」
暗室という言葉に不穏なものを感じて、弘志は訊いた。
「暗室って、暗くして?」
「あたりまえじゃん、花火なんだから」
「何人で」
「え、2人だよ。人気投票で1位とりたいから、企業秘密なんだって」
「おまえ、そんなとこで男と2人っきりなんて、ダメだって!」
弘志が叫ぶと、典子は不愉快の極致といった顔になった。
「弘志~、だから~、みんなをアンタと一緒だと思わないでよね~。私と飯田くんは友達だし、今までも何もなかったし、これからも何もないの」
でも、美恵子も自分の経験に照らして不安を感じ、
「典ちゃん、やっぱり、少しは考えた方がいいよ」
と典子をたしなめた。典子は、友人との時間をむやみに勘ぐられてキレた。
「弘志も、美恵ちゃんも、発想がいかがわしいよ。それに、私だってバカじゃないもん。ちゃんと相手を選んで行動してるもん。いい加減にして!」
典子は大声でそう言うと、ぷいと走って部室棟に消えた。
良貴は典子が心配になって、事情を聞こうと弘志のところへ歩み寄った。
「どうしたんですか、ケンカしてたみたいですけど」
良貴が訊くと、弘志は典子の消えた部室棟の方を見ながら、うわのそらで、
「…本当に、アイツ、子供なんだから…」
とつぶやいた。良貴が事情もわからず立ち尽くしていると、美恵子が言った。
「典ちゃん、暗室で花火やってるんだって。火事とかは大丈夫だろうけど、一緒に暗室にこもってる飯田くんって人、典ちゃんのこと好きなんじゃないかと思うんだよね…。そういう人とそういう場所で2人きりって、考えすぎかもしれないけど、心配なの」
良貴は凍りついた。弘志はまくしたてた。
「絶対、おかしいって。なんで暗室でやってんの。なんで典子なの。おかしいじゃん。なんで暗くして2人っきりになろうとしてんの。あの男、絶対わざとだよ」
弘志と美恵子がまるで両親のように典子を心配している側で、良貴は不安に苛まれながら静かに立っていた。もし聡史が典子を好きなら、花火の実験は口実だろう。
(ただ、典子先輩と一緒にいたいだけなのかもしれないけど…。でも2人っきりでいるうちに、気持ちが抑えられなくなることはあるかもしれない)
自分が手を伸ばそうとしたように、と良貴は思った。焼けつくような胸の痛みが湧き上がり、それを他人事のように冷静に味わった。それでも、
「でも、ここで部室棟を見ていても、仕方ないですよ。典子先輩が自分で行ってるんだから、あまり干渉するのも失礼ですよ」
と何でもないように言って、自分の練習に戻るしかなかった。弘志と美恵子も、追って渋々練習に戻った。
その頃、典子は聡史に、
「なんでさー、すぐに恋愛問題に考えるのかしら、納得行かなーい。しかも、こんな学校の中で、飯田くんが一体、何をするっていうわけ? すっごい、失礼だよね」
とブーブー言っていた。聡史は笑った。
「まーまー、興奮すんなって。心配なんやろ、お兄様方は。ええやん、俺とおまえは特殊な関係なんやから。しょっちゅう仲良く2人でおったら、誰だってかんぐるワ」
「男と女が暗い密室で2人っきりだったら、花火やってちゃいけないわけ」
「まあ、あんまりないかもな。でも俺は彼らの心配、わかるワ。おまえもあんま怒るな。それだけ愛されてるってことやろ。良かったと思っとけ」
聡史はいつものように、先がこよりになった紙包みの棒を取り出した。手元にはそれぞれ、日付と番号の札がついていた。
「実験は今日で終わり。そろそろ展示物づくりに入らないかんから、花火作りは次回本番で燃やすやつ作って、おしまい。今日は力作、そろってるからな~。よく見とけよ」
典子と聡史は、暗い暗室の、水を張った流しに乗り出した。聡史の手がライターで花火に火をつけた。引火するまで少しの間を置いてから、火花がはじけた。
「あっ、色、変わったよ」
「そういう風に作ったのー。大変やったんやぞ」
「やったー、七色変色スペクタクル作ってくれた?」
「ウワ、覚えてたんか」
暗闇に小さな光がはじけた。はじめの頃より、ずっといい光が出るようになっていた。次の花火は黄色、次は紫、その次はオレンジ。たくさんの花火が燃えた。
「これ、しんがりのスーパースペシャル最高傑作や」
最後に聡史は、かなり長い花火を取り出した。
「多分、これでグランプリ取れるワ。受験勉強ほったらかした甲斐はあった」
「炎色反応の受験勉強じゃなかったの?」
「俺は化学部やぞ。もう炎色反応なんかとっくに、頭入りすぎるほど入りきっとる。俺の目当てはあくまで焼肉や」
聡史は大切に大切に、花火に火をつけた。しばらくして、黄色い光が出た。それが緑に変わり、青っぽい緑に変わった。
「すごいね、よくこれ、こんなに色変わるね」
「多分、できたの俺だけよ」
それから赤になり、最後に黄色くなってたくさんの火花が散った。
「このへんは、なんかおまえに似とる。元気ではじけとるやろ。それに、黄色はおかしなやつの色や」
「なんでよー」
「おかしくなったら、黄色い救急車が迎えに来るって言うやろ」
「えー、あれは、ウソなんでしょ~?」
「まあ、なんでもエエわ。俺、このへん見ると、おまえのイメージがわく」
「…黄色くはじけてて?」
「ウン、そう。実は黄色もいくつか種類があったんよ。気付いた?」
「え、そうなの?」
「これやから、素人は。ちょっとずつ化合物が違うの。黄色が出るのは、シュウ酸ナトリウム、硝酸カルシウム、氷晶石、あとウルトラマリンてのもあるらしい。花火に使えるようなのは、限られるけどナ」
「ふーん」
そして、静かに火は消えた。聡史は丁寧に水につけて、火の元を断った。
「この、一番いいはじけ方する部分は、おまえのために作ったと思ってくれよ」
「ほんとー。でも、これとおんなじの、作れるの? まぐれだったら、本番でトップとれないよ?」
「大丈夫、もう作れないと困る、思て、何本もおんなじの作っといたうちの1本がこれ。だから、他のも大概同じ出来のはず」
「へー。じゃあもう、いただきだね~」
最後の花火を消してしまうと、なんだか淋しいような気がした。ひとつずつ、高校の思い出は終わっていく。
「最後の学園祭か~」
「そやなー、感慨深いな~」
花火の間は懐中電灯も消していたから、暗室は真っ暗だった。聡史はいつまでたっても懐中電灯をつけなかった。
「懐中電灯、電池切れたの?」
典子は明るい声で聡史に訊いた。なおも返事は返らなかった。典子は、美恵子の言葉を思い出して、ちょっとだけ不安になった。
それからさらにしばらくして、聡史の声がした。
「いや、おまえを驚かそう、思てたんやけど、暗くてネタが見つからんかった」
聡史は懐中電灯をつけた。
「線香花火、やろー」
懐中電灯の明かりで、聡史が線香花火の束を出した。それから、カバンの中も照らしてあさって、爆竹を探し出した。
「これ投げて、おどかそう思たんやけど、暗くて、わからんかったワ…」
「えー! 爆竹は危ないでしょ~!」
線香花火を始める前に一度暗室を開け放して換気をして、その間に学校の裏でジュースを買ってきた。
「ようつきあってくれたから、ジュースくらいおごったるワ。はい、おだちん」
聡史は典子に缶を渡した。
「なによ、微妙に偉そうなのはなんでなの! もっと感謝するべきでしょ~」
「感謝しとるよ。おまえに似せた花火、作ってやったやろ。黄色い救急車」
典子が手を振り上げると、聡史はさっとそれをよけた。そして暗室に戻ってもう一度暗くして、線香花火をやった。
「ああ、高校生活もあと半年か~」
叫んだら、典子の玉がぽとっと落ちて、ジュッと消えた。
「バーカ、しゃべるな」
聡史は慎重に線香花火を燃やしていた。典子は次の1本に火をつけた。
「こんなんも、エエ思い出やろ」
「うん。ホントに…」
しんみりと、線香花火は燃えた。換気扇に吸い込まれていく煙はかすかに暗室を火薬のにおいで満たしていた。夏の終わりの匂いがした。
帰りがけ、聡史は暗室を出るときに、
「俺、Na2C2O4の炎色が好き。今の、俺のすべてをかけてもいいくらいに、好きや」
と言った。典子はそれを聞いて眉をしかめ、
「なに、それ。化学フェチ? 変なの~」
と笑った。聡史は口をとがらせた。
「ほっとけ、俺のひとりごとや」
Na2C2O4、シュウ酸ナトリウムの炎色は黄色。聡史が典子のようだと言った花火の色だった。