8 夏合宿バトルロイヤル
「あー、腕がしびれる」
朝食の席で弘志は腕を振り回したり、叩いたりしていた。美恵子は昨夜の様子を思い出してこっそりと笑った。
「江藤先輩、どうしたんですか?」
弘志に好意を寄せている1年生の朝川リエが早速反応した。弘志は、
「んー、腕枕してあげたら、しびれちゃってさ~」
と言って意味深に笑った。冗談じみた言い方だったが、弘志のそういう言い方は必ず何らかの事実を伴っている。リエの顔色は変わり、弘志はなんでもない顔で食事を続けた。リエが暗い顔で細々と続きを食べていると、隣にいた千江美が1分ぐらいほとぼりを冷ましてからさりげなくつぶやいた。
「典子先輩だよ」
リエは驚いて千江美に目を向けた。千江美はみそ汁をかき回しながら、
「腕枕」
とボソッと言った。リエは合点した。箸がまた、元気に動き出した。
食事が終わってからは、ぞろぞろと朝の散歩に出かけた。
「なんかさあ、ホントに江藤先輩って典子先輩にべったりだね…」
リエは千江美に言った。千江美は、
「ホント、近親相姦じゃないの、あれ」
と精一杯の悪意をこめて言い放った。
「でもいいなー、典子先輩。江藤先輩の腕枕で寝られるんだ~」
「家でもあんなんなのかなー。気持ち悪」
弘志と典子は家では普通の兄妹だが、こういう場では調子に乗ってむやみに仲良く見せたがる傾向があった。とくに弘志が典子と仲がいいことを強調したがった。
千江美は砂を蹴り、リエに一歩近づいて声をひそめた。
「昨夜、私、うまく其田先輩の隣に寝たわけよ。そしたら、自分の部屋に寝に行ったはずの須藤先輩が忍び込んできて、其田先輩を連れ出したの。不審だよね」
「えー、それで、其田先輩は須藤先輩とどこか行っちゃったの?」
「ううん、自分の部屋に戻って寝たみたい」
「あっそう、でも、なんかアヤシーね」
「でしょー。私、絶対に負けらんないよ~」
千江美とリエは2人だけで話していたつもりだったが、その前を歩いていた大川幸樹にはその話が聞こえていた。
(え、…須藤さんの好きな人って、…其田なの? なんで?)
一部がそんな不穏な状況になっているのを知らず、弘志と典子は仲良く歩いていた。良貴は滝野川と、美恵子は同じ代の女の子たちと話しながら歩いていた。傍目には平和な、高校生たちの行列だった。
全員でペンションに戻り、1時間後には全員で海に出かけることにして解散すると、2人の人物が良貴に寄って行った。千江美より、幸樹の方が一瞬早かった。
「其田ー、部長だろ、ちょっとつきあってよ」
千江美はチャンスを逃し、渋々部屋に戻っていった。
「バンソウコウと虫刺されの薬ほしいんだけど、個人で買うのやだから部費から出してよ」
「ああ、あったほうがいいよね、そういえば」
良貴は弘志に行き先を告げ、二人で10分ほどのところにある薬屋に向かって歩きだした。しばらくすると、幸樹はおもむろに良貴に訊いた。
「おまえ、須藤さんのこと、好き?」
「はい?」
良貴はけげんな声で聞き返した。
「ハッキリ言ってよ。須藤さん、かわいいじゃん。だから、おまえも結構いいと思ってるんじゃないかと思ってさ。どう思ってるの?」
「え、なんなの、唐突に…」
鈍い良貴でも、幸樹が美恵子を好きなことはすぐにわかった。
「そりゃ、綺麗な人だなとは思ってるけど…」
「ああ、やっぱー」
「どうして。別に、それしか思ってないけど」
「それしか、って、じゃ、つきあいたいとか思ってないの?」
「え、全然」
「全然まで言う?」
勝手なものだ、と良貴は思った。可能性を残せば、それはそれでかみついてくるのだ。
「じゃあ、其田、須藤さんからなにか言われたりしたことは…」
「は? なにかって?」
「いや、…なにか…」
ああ、そういう何かね、と思って、良貴は、
「別に、僕は須藤さんに特別な感情はないし、須藤さんも僕のことは何とも思ってないよ。僕になんか、全然興味ないはずだけど」
とあっさり切り捨てた。弘志と美恵子のことが知れないよう、言い方には気をつけた。
「なんか、1年の女の子たちが、須藤さんが昨夜おまえを起こしにきたって言ってたけど」
良貴は状況を理解して、丁寧に説明してあげた。
「典子先輩が部屋に戻らないから見に来たみたいだよ。そしたら、僕が寝相で女の子とくっつくような位置になってたから、気を遣って起こしてくれたんだよ。女の子の方を心配したんでしょ」
「え、そうなの…」
幸樹は、状況は理解したが、どうやら納得したわけではないようだった。
2人はバンソウコウと虫刺されの薬を買ってペンションに戻った。幸樹は、良貴の方にその気がないことはわかったものの、美恵子の好きな相手については良貴の可能性を否定できないと思った。
その日も海で一日中遊んだ。典子は去年のオレンジの水着に、千江美もセパレートのカワイイ系の水着に変わっていた。美恵子ももう一着水着を持ってきていたが、露出を抑えることに気を遣いすぎて、野暮ったいデザインのワンピースだった。弘志はそれを見て「来年は、指南するかな」などと図々しいことを考えていた。良貴は荷物番のふりをしてシートに陣取り、遠くから典子の笑顔…それと時々、男の約束とばかり、体のほうもちゃんと眺めていた。
海から上がり、ペンションに戻った夕食後、千江美は今度こそ良貴をつかまえた。
「其田先輩、昼間、海に落とし物しちゃったみたいなんですけど…、1人で探しに行くの怖いんで、ついて来てもらえませんか?」
千江美が一生懸命考えた、「断りづらいネタ」だった。
腕時計を見ると夜の7時、時間は十分にあった。良貴は、遅かれ早かれ二人っきりにならざるをえないのだろうと腹をくくり、千江美についてペンションを出た。
「何落としたの?」
「財布とは別に、海に行く用に小銭入れ持ってって…、それを…」
周辺はかなり暗くなっていた。2人は昼間海まで歩いた道をなぞり、海岸をひとしきり歩いた。
「ないですねー」
元からないんじゃないの、と良貴は思った。でも、女の子と歩いていることじたいは悪いものではなかった。
「先輩、疲れちゃったんですけどー。あっちの方の岩場でちょっと座りましょうよー」
全然疲れていない足取りで千江美は平たい岩にのぼった。良貴も後を追った。
「あー、つかれた」
千江美はわざと、隣にあまり隙間の空かないようなところに座った。
「先輩、座ってくださいよー」
そう言われ、良貴は仕方なく並んで座った。スペースがなくていささかくっつくような位置になり、良貴は気まずく思った。
いざとなったら、千江美は途端に何も言えなくなってしまった。
(明日もチャンスがあるとは限らないんだから、なんとかこの場面で決着をつけないと)
でも、もし返事が「NO」だったら…。そう思うとくじけそうになる。しかも良貴が黙ったままなので、何か話をしないと変だと思い、一方的に焦って話題を探した。
「すみませーん、つきあわせちゃって。しかも、見つからなかったし…」
「いいよ、僕は別に。でも見つからなくて残念だったね」
「そうですねー。でも…これはこれで良かったかも、と思わなくもないんで~…」
千江美は思わせぶりに言い、告白のとっかかりを作ろうと試みた。良貴は、
「そうだね、失くしたのが財布じゃなくて良かったよね。それとも、お金、けっこう入ってたの?」
とさりげなく流した。
「え、そんなに入ってなかったです」
「よかったね」
千江美は良貴が違う意味にとった(と思った)ので、ちょっとホッとしたが、そんな弱気じゃダメだと思って心の中で七転八倒した。けれど結局ろくな話ができないまま、
「もう遅くなったから、帰ろう。皆心配してるよ」
と言われてしまい、そのまま2人は岩場を後にした。
千江美は希少なチャンスをつぶしたことを激しく後悔した。戸惑って、迷って、さんざん悩みぬいて、ペンションの建物が見えてきたときにやっと追いつめられ、行動に出た。
「あの、其田先輩」
「何?」
千江美は真下を向いて、必死でやっと言った。
「其田先輩、あの、明日も、こんな風にして一緒に歩いてくれませんか?」
千江美が道中ずっと逡巡していることは良貴も感じていた。初めての女の子からの積極的な言葉に戸惑いはしたが、あらかじめ気持ちは察していたので冷静に対処できた。
「…そういうわけにはいかないよ。多分、今だって、みんな心配してるんじゃないかな。僕も、今回の合宿の責任者だし、単独行動ばかりしちゃまずいよ」
かわいそうだと思ったが、中途半端に期待をもたせるような態度はとらないと決めていた。思わせぶりな態度がどういう状況を作り出すかは、弘志を見て知っている。
千江美はずっと下を向いていた。心の中にはたくさんの問いかけが浮かんでいた。
(それは、私だからダメなんですか? 私じゃなければOKなんですか? それとも、本当に何の意味もなく、心配かけられないからとか、責任者だからとか思ってるんですか?)
(それとも、他の、誰か…じゃないと、ダメなんですか?)
(好きな人はいるんですか? いないんですか? どうしたら好きになってくれますか? 待ってたら、可能性はありますか?)
でも、何も言えないままペンションの前まで来てしまった。千江美は最後に、
「私がまた、お財布を落としたら、ついてきてくれますか?」
とだけ訊いた。良貴は、丁寧に言葉を選んで、
「そうしたら、皆で探しに出ようよ」
と答えた。
弘志から「其田がなかなか戻ってこない」と聞いていた典子は、入口の広間のソファで本棚の漫画を読むふりをして、心配して良貴を待っていた。そこへ、ペンションに帰り着いた良貴が入ってきた。
「あれー、其田くん」
典子は笑顔になったが、その後ろから千江美が入ってきたのを見て凍りついた。でも瞬時にいつもの冗談を装い、うさんくさい笑顔を作って二人をからかった。
「なに、どっか行ってたのー? 私ってもしかして、目撃しちゃった? ごめんねー」
「そんなんじゃないです」
良貴は冷静なふりをしてそれだけ口にした。あとは言葉が出てこなかった。良貴と典子は、お互いにショックを受けて部屋に戻った。千江美は、目下のライバルの一人にからかわれてまんざら悪い気はしなかった。
(…やっぱ、典子先輩は其田先輩のこと、なんとも思ってないんだ。それに、其田先輩が典子先輩に気持ちがあったら、ショックだよね、今の典子先輩の言い方!)
千江美はそう思って、良貴にささやかな仕返しをした気分になった。
2階の男性陣の部屋では、良貴と千江美が連れだって戻って来るのが窓から目撃されて話題になっていた。そこに、まんまと良貴は戻ってきた。
「俵田と、何してたの?」
意味深な質問が浴びせられ、良貴はバカバカしく思ったが、仕方なく、
「俵田さんが財布落としたから、探しに行ってたんだよ」
と表面上の事実を述べた。
(「目撃しちゃった?」…か。笑ってたな…。典子先輩にとって、僕って何なんだろう)
そんな良貴の感傷を踏みにじって、仲間たちは好奇の目で良貴を見て、口々に言った。
「うっそー。なんでこんな夜に、2人っきりで探しに行かないといけないわけ~」
「つきあうことになったりとか、したわけ?」
良貴は苛立って、
「そういうのじゃないよ。そういう風にしか考えられないの? ヒマだよね」
と言い放って布団に横になった。いつも温厚な良貴が怒ったので、仲間たちはびっくりして、
「なんか、違うらしい」
「俺たち、ヒマだとか言われたしー」
と言い合い、さりげなく別の話に移っていった。ただ一人、大川幸樹だけは「もしかして、其田って、もてるの?」と悶々としていた。
典子もその頃、布団に潜っていた。
(…俵田さん、其田くんとうまくいっちゃったのかな)
そんなんじゃないと言った良貴の言葉に、明らかに動揺があったように見えた。
(合宿なんか来るんじゃなかった)
「典ちゃん、具合でも悪いの?」
美恵子が心配しても、典子は「眠いだけ」とそっけなく言って、ずっと潜っていた。
一方、千江美の心情は少し回復していた。
(別に私がダメだとか言われたわけじゃないもん。もしかして…と思ってた典子先輩もライバルじゃないみたいだし、須藤先輩を抑えれば、まだ来年も、私にチャンスはある)
良貴の言葉に拒絶のニュアンスがあったことは理解していたが、千江美は希望を捨てないことにした。
「千江美、どーだったの~?」
「其田先輩とどっか行ってたでしょ~?」
早速1年生の女の子たちが千江美の首尾を聞きに集まってきた。
「それがさあ…」
千江美は身を乗り出して語り始めた。
「どうも、お互いに、今回の合宿は首尾が良くないね、弘志クン」
滝野川はテラスでタバコを吸いながら弘志に話し掛けた。
「何のことですか?」
「吸う?」
「あ、タバコはやらないんで。典子が嫌いだから…って、高校生ですよ、俺」
滝野川は手にした携帯灰皿でタバコをもみ消しながら言った。
「今回は身動きとれねえなあ。もう1年、緑で我慢するかな~」
「いいじゃないですか、別に毎年相手を変えなきゃならないわけじゃないし」
「なんかね~、一人の女につかまると、俺も老いたな~って思うのよ」
滝野川は、何か言いたそうに弘志をちらっと見た。弘志はその視線に気づいたが、無視を決め込んで遠くの山並みを見ていた。
「弘志、おまえ、今年はもてないじゃん。どうしたの。キミも老いたか、――それとも、好きな女でもできたか」
「別に俺、元からこんなんですよ」
「…あのさー弘志、俺、典子口説いてもいーい?」
弘志はもたれた柵から転げそうになった。そして、ものすごい勢いで体勢を立て直すと、滝野川をにらみつけた。
「ダメに決まってるじゃないですか、期間限定のポイ捨て用でしょ!?」
「ムキになるなよ。ジョークだよ」
「そーいう冗談は、絶対にやめてほしいですね!」
弘志の大真面目な顔に大笑いすると、滝野川はうーむとうなって言葉を継いだ。
「ホントのところはな、…去年の雪辱で、須藤にしようかな~とか、考えてたんだけど」
弘志はことごとく挑発的な滝野川にカッとしたが、なんとか抑えて「はあ」と気のない返事をした。滝野川はもう1本、タバコに火をつけた。
「…須藤のことだと、怒んねえの?」
好んで墓穴を掘るつもりはなかったので、弘志は黙っていた。
「去年、肝試しで何かあったろ。今も続いてるんだったら、須藤はターゲットから外すんだけど」
「…目ざといというか、なんというか…そういう方面への目配りはほんとに抜け目ないですね」
弘志なりの肯定だった。状況を知られていたことに、むしろ安堵した。中途半端な疑惑を人前でつつかれるほうが困る。
「オマエの変化、俺としても経験あるから、同類相憐れむというか」
「俺は、年イチで彼女つくるとかはしないんで、滝野川さんとは同類になれないですよ」
「そうだな、この合宿で二年目に突入だもんな。…俺もな、この分じゃ。堅実堅固、誠実で結構」
滝野川はハハハと笑った。弘志は自分の態度を振り返って苦笑した。
「いや、誠実とか、俺はナイですね…」
美恵子とつきあっていることを隠しているのは、それなりにモテる男として、他の女の子と微妙な綱引きを楽しんでいたいからだ。それが美恵子に対して誠実でないことは自覚していた。
滝野川は弘志の返事を、美恵子との関係をごまかしたか、照れたととったようだった。微妙な笑いを浮かべてテラスを離れ、部屋に戻っていった。
どうやら、いつの間にか1年生の河本裕子が2年生の浜野博隆をゲットしていたらしい。2人とも完全にエア・ポケットで、何の問題もなくあっさり今年のカップル第1号となった。
「いいなー。がんばらなくっちゃー」
1年生の女の子たちは色めきたった。千江美はもう、この合宿では頑張る気がなくなっていた。彼女たちに限らず、体操部内で思惑のある人はそれぞれ、多少の危険は関係なく動き始めた。
美恵子が海から上がって休んでいると、2年生の本間昭仁が上がってきて隣に座った。
「須藤さん、のど渇かない?」
「ああ…これがあるから」
共同で飲むように部費で買われたペットボトルのお茶が、真夏の海辺で温まっていた。
「それ、もうぬるいでしょ。なにがいい?」
「いいよ、これで…」
昭仁は黙って小銭入れを取り出し、勝手に海の家でジュースを2本買ってきた。
「ウーロン茶でよかった?」
「ごめんね。ホントに、よかったのに」
美恵子はお義理でその場ですぐに開け、ちょっとだけ飲んでみせた。
海ではみんながボートの取り合いをしていた。弘志に引っ張られて滝野川が海に落ち、歓声が上がった。典子はビーチボールにつかまって浮き、弘志に声援を送っていた。
昭仁は厳かに切り出した。
「あのさ、唐突なんだけど――須藤さんって、カレシいないの?」
美恵子は、繰り返し自分に向けられ続ける同じ問いかけに、はじめからウンザリしてしまった。
「みんなそんなことばっかり、なんで訊くわけ?」
「え、みんなって、他にも訊かれたの?」
「あ…みんなってわけじゃないけど…」
「…誰に?」
「じゃあ、本間くんに訊かれたってことも、他の人に話していい?」
美恵子はウーロン茶を飲むふりをして表情を隠した。
「…けっこう、須藤さんってイジワルなんだ」
昭仁は肩をすくめて言った。美恵子は缶に隠れてため息をついた。誰から告白されたの好意を持たれたのと、周囲に知らせるのは義務違反だと思っているだけだ。
「私、性格悪いから」
「そんなことないよ。素敵な人だと思ってるよ」
美恵子は気恥ずかしくなったが、夜中に外に連れ出されるよりはずっとマシだった。
「カレシいないの? いるって話、聞かないけど…。ほしくないの?」
「私、好きな人がいるから、カレシがほしいっていう考え方はしないな。その人とうまくいくかどうかって、それだけ」
美恵子は面倒くさくなって、すぐに結論を言ってしまった。幸樹の告白の際に上手く話が運べなかったことで「どう言えばよかったんだろう」と考えて一つの正解を導いてあったおかげで、すぐに答えられた。
「…好きな人、いるんだ…」
昭仁はその後みっともない真似をせずに黙って缶ジュースを空けて、海に戻った。
(もう、面倒くさい)
美恵子はバスタオルをかぶって横になった。なんで弘志とつきあっていることをこうまでして隠さなければならないのかと思った。
(だって、江藤先輩が他の女の子とよろしくやりたいから黙ってるんでしょう? 私が彼女でいる理由も、存在意義もないじゃない)
単なる他人でしかない女の子たちの方が、弘志に色目を使われているような気がした。そして、やっぱり、典子にはとても勝てそうもなかった。
(好きじゃないなら…)
別れよう、と言いたくても言えなかった。でも、やっぱり潮時は来ていると思った。好きなのに、何も起こっていないのに潮時なんて、美恵子は笑うしかなかった。
「美恵子、寝てるの?」
突然の声に美恵子が目を開けると、戸部百合香が美恵子の上にかがみこんでいた。
「あ、ユリ」
美恵子は起き上がって座った。百合香は、同じ代の部員の中で美恵子が一番仲良くしている子だった。
「泳がないの?」
「うん、もう疲れた」
美恵子はバスタオルを肩にかけた。百合香は美恵子の隣に座り、
「ねえ、美恵子って、弘志先輩好きだよね?」
と言った。自分では隠しおおせているつもりだったので、美恵子は驚いた。
「え、何よ、突然」
「結構、見てればわかると思うけど…」
百合香はそう言ったが、どうも体操部の男の子たちを中心に、あまりわかっている様子はない。美恵子はそれほどうろたえなかった。
「そんなふうに、見えたかな」
「言いたくないならいいけど…仁義はまっとうするね。私、弘志先輩にアタックするから」
「え!」
「ちゃんと言ったからね。ぬけがけじゃないよ」
百合香は海に戻っていった。美恵子は呆然とした。全く気がつかなかった。多分、そういうことには敏感な弘志自身も気付いていないだろう。
「なんでみんな、そんなに恋がしたいの?」
美恵子は一人で声に出してつぶやいた。
「もうやだ、恋愛なんて。もうダメだ。別れよう。もう、絶対」
何もかもが嫌になった。そして、すぐにでも弘志にサヨナラをしようと決めた。感情的になってはいたが、その結論にたどり着いたのはもうずっと前だった。ヤケになって出した答えではなかった。
合宿最後の夜の食事が終わった。合宿中に何かを起こす数少ないタイミングのひとつがこの夕食直後だ。美恵子はさりげなく弘志に近付き、
「すみません、ちょっと話があるんですけど」
とこっそり言った。弘志は周りの目を気にしながら声を落として言った。
「2人だけのときにならないのかよ」
「どうしても、これからちょっと」
美恵子は静かに訴えた。弘志は視線を周囲に素早く走らせて、
「おーい、其田~」
と良貴を呼んだ。何が何でも2人では過ごそうとしない弘志に、美恵子の気持ちはますます固くなった。そして、周囲の目を避けるために弘志から少し離れた。
ペンションの人と明日の出発時間について話をしていた良貴は、急いで話をまとめて弘志のところにやってきた。
「あのさ、これからちょっと散歩に行かねえ?」
弘志は訊いた。
「え、これからですか?」
「須藤が行きたいんだって。ちょっと、頼むよ」
「そうですか…」
良貴は、美恵子のためにカムフラージュを連れてでも散歩に行こうという弘志の気持ちを優しいと思った。直後、良貴は突然、
「あの、すぐ行きますから、邪魔が入る前に出ててください」
と言って階段を駆け上がっていった。残された2人はとりあえず(別々に)外に出た。
「…江藤先輩、合宿、楽しかったですか?」
美恵子は冷たく言った。
「何、おまえは楽しくなかったの?」
弘志は何も考えずに言葉を返した。
「…そうですね、楽しくなかった気がします」
美恵子はそう言ってそっぽをむいた。弘志には、美恵子が何を言いたいのか全然わからなかった。
宿の二階で、ノックの音に気付いて典子が部屋のドアを開けると、良貴が立っていた。
「あれ、其田くん」
典子がドギマギしているのには気がつかずに、良貴はにっこり笑って、部屋の他の子たちに聞こえないように言った。
「あの、弘志先輩と須藤さんが、散歩に行くらしいんですけど…。僕たちも一緒に行きませんか?」
「え、行く行く!」
典子は満面の笑みになり、部屋の後輩一同を振り返って、
「ちょっと、弘志と出かけてくる!」
と叫んですぐに飛び出してきた。とっさに「弘志と」と言うあたり、典子もしたたかなものだった。
良貴は、合宿最後の夜くらい典子と過ごしたいと思っていたが、誘い出す勇気はなかった。そんな矢先の弘志の誘いは天の助けだった。けれど今、気分は少し沈んでいた。
(弘志先輩と出かけてくる、…か。僕とじゃなくて…)
二人で一緒に宿の階段を下りながら、典子は良貴の顔をのぞき込んだ。
「でも、オジャマじゃないかな」
良貴は視線を返して、
「だから居たほうがいいんですよ」
とわけ知り顔で笑った。典子は諸々を承知して「あっ、そうか」という顔をした。
幸いよけいな邪魔は入らず、うまく4人で外に出ることができた。
「なんだ、典子呼びに行ってたのか」
弘志に言われて、良貴はごまかした。
「だって、先輩と僕と須藤さんだけって、ちょっと変ですよ」
「そりゃそうだ。おまえにそーいう気がきくとは思わなかったな~」
美恵子はもう心が死んだように静かになっていたし、弘志は何も気付いていなかったし、典子は弘志に呼ばれただけと思っていた。良貴は一人、恋のためらいに逡巡していた。
典子はふと、良貴と千江美が一緒に戻ってきたときのことを思い出した。
(こんなふうに、…今の美恵ちゃんと弘志みたいに、散歩に出たのかな)
そう思うと、ドキドキする気持ちははじけて消えた。
4人は海までの道のりを、弘志と良貴、典子と美恵子という組み合わせで歩いて行った。海に着くと、良貴は、
「じゃあ、僕たちは外しますんで」
と弘志に言い、
「典子先輩、あっちに行きましょう」
と典子を連れて岩場のほうへ歩いて行った。
海岸への入口で、美恵子と弘志は潮風にあおられて取り残された。
「ま、たまにはいいか、こういうのも」
弘志はさわやかな顔で風に向かって歩き出した。何の気配も感じていない弘志に結論を突きつけることに、美恵子は気後れを感じた。
「江藤先輩、私、昨夜、他の人からつきあってくれって言われたんですけど…」
いきなり直接的な別れ話はできず、美恵子はそう切り出した。弘志は正直、ギクリとしたが、平静を装った。美恵子が男子部員の中で人気があることは先刻承知だ。
「ふーん。誰に?」
「…言わなきゃダメですか?」
もっと大切な相手ができたかのような言い方に、弘志は焦った。でも、動揺すればするほど、それを隠そうとして弘志の言葉には抑揚がなくなった。
「いや別に、おまえが言いたくないならいいけど」
美恵子は落胆した。動揺してほしかったし、危機感をもってほしかった。でも、目の前の弘志の背中はただじっとしていた。
「私、…本当は、ずっと、先輩とは別れなくっちゃと思ってたんです」
美恵子の声が背中から弘志を貫いた。弘志は必死で何か言おうとしたが、言葉が出なかった。振り向くこともできなかった。美恵子の顔を見るのが怖かった。
「…江藤先輩、やっぱり私、好きになってくれない人とはつきあえません」
弘志は、よっぽど振り向いて「そんなことはない」と言いたかったが、どうしても足は動かなかったし、唇は凍りついていた。
(好きになってくれない、そんなことはない、だから、好き、ってこと? 俺、今までそんな風に思ったこと、なかったじゃん)
弘志は自分を嘲笑した。自分の気持ちがよくわからない。いつものようにうまく立ち回ることができない。
「…なにか、…言葉とか、ないんですか?」
美恵子は弘志の沈黙の意味がわからなかった。別れるとなったら何か違う態度を見せてくれるかとも思ったのに、弘志はただ黙っていた。だから、あとは美恵子も黙っていた。
弘志はしばらくして、なんとか足を動かして美恵子のほうを振り返った。美恵子はその瞬間の弘志の顔を見て、ドキッとした。
切ない顔、と美恵子は思った。切なくて、哀しい顔。淋しいまなざし。
弘志は目を伏せて、その表情はすぐに消えてしまった。美恵子は一瞬の表情を探して一生懸命弘志の顔を見つめていた。
「…悪かったな」
弘志は、やっと口を開くことができた。体中の筋肉を全部使って唇をこじ開けたような気がした。
「そんなつもりじゃ、なかったんだけど…」
これが弘志の精一杯の告白だった。けれど、美恵子の気持ちから始まったなら、美恵子の気持ちが終わった時に終わるしかない。自分には、何も言う権利はないのだと思った。
「元々、おまえの決めたことだから…」
美恵子は遠い世界の知らない言葉のように弘志の声を聞いていた。
「そうですね、私がつきあってほしいって、無理してもらってたんですから…」
美恵子はかすれた声で言った。弘志は美恵子の言葉をそのまま飲み込んだ。結果的に冷たかった自分の態度を時間だけ延長しても、美恵子を傷つけていくだけだと思った。
「…何、他の奴と、つきあうの?」
弘志はできるだけ自分にムチ打って、作り声で軽く訊いた。訊かずにいられなかった。少しずつ体に冷たい血が流れていくのを感じた。
「いえ、そういうことじゃないです」
美恵子は答えた。でも、そんなことを気軽に訊いてほしくはなかった。
(でも、…さっきの顔は、なんで? やっぱり、どんな女でも、逃げられるのは哀しい?)
どうにもならないすれ違いの手がかりは、それだけだった。美恵子は少しだけ弘志と別れることを後悔した。でも、少しだけだった。
「ねえ、あの2人、何話してるのかな」
典子は良貴と2人で岩陰に隠れていた。そして、そっとのぞこうとしては良貴に「ダメですよ。馬に蹴られますよ」と止められていた。
良貴は、弘志が美恵子を「すごく綺麗に見える」と言ったことを思い出し、他人事ながら一人で照れ笑いをした。部活の連中がいるのに2人で散歩に行こうだなんて、今までの弘志では絶対にありえない。だから、絶対に邪魔なんかしちゃいけなかった。
気がつくと、典子がまたもやそっと様子をのぞいていた。
「先輩。ダメですって。僕で我慢してください」
良貴はちょっと本音をこめて典子の腕を引いた。
「えー、ラブラブシーンとかあったら大変じゃん」
典子は不満そうにしながらも素直に座りなおした。
「そういうシーンがあったらなおさら、見ちゃダメです」
思わせぶりなセリフは完全に流されたな、と良貴は苦笑した。
「つまんないの」
典子がちょっとふくれたので、良貴はドキドキしながら
「…僕と一緒でも、つまらないですか?」
と訊いてみた。典子は心臓がズッキンと音を立てたが、もちろんそういう時は笑顔、笑顔で、
「ううん、ハッピー」
と返した。気がつけば自分たちも夜の岩陰に2人っきりで、突然そのことに気がついて典子は動揺し、狼狽し、混乱して、やっぱりいつもの言い方になってしまった。
「あっ、大変、私たちも案外ドッキドキな状況かも? えー、どうしよう」
良貴は茶化された淋しさと切なさに、しょっぱいような顔で、
「先輩、もうちょっと男に対する危機感をもったほうがいいと思うんですが…」
と言った。僕だって男なんだから…というニュアンスをにじませたつもりだった。けれど典子は、良貴の言葉を深く考えもせずに、
(私がドキドキして、緊張してるのに気がついてないのは、そっちのほうだもんね!)
とちょっと腹を立て、その分、
「…大丈夫、其田くんだから」
となんとかしおらしく言ってみた。
(だって私、其田くんだったらここで何があってもいいもん)
典子としてはそういうニュアンスだったのだが、良貴は残念ながら、
(…完全に、男として見られてないんだ…)
と聞き取った。
良貴は案外冷静に自分の状況を観察していた。千江美の一挙手一投足に受身に身構えていたのとは違い、今は典子に近づいていきたい自分の手を止めるのにちょっとした努力を必要としている。典子と掌を重ねたい、体を寄せ合いたいという不思議なベクトルが常に生じていた。できないと自分でわかっているくせに、良貴はいつまでも逡巡していた。
「でも、これが最後の合宿なんだね~」
典子はしみじみと言った。淋しい言葉だったが、もう何度もかみしめた淋しさだった。
「やっぱり、来てよかった。それにね、…」
真剣な顔になりそうになって、典子は慌てて笑顔を作った。
「最後の夜に、其田くんとこんな風にしてられて、すっごくよかった」
典子はいつもの「満面の笑み」で良貴に笑いかけた。
良貴は典子の言葉が少しだけ嬉しかったが、今はそんな笑顔より切ない横顔の方が欲しかった。
典子は何も考えていないふりをするしかなかったし、良貴は典子の気持ちを誤解していた。夜の海から強い風が吹き付けて波が高く、空は複雑な形の雲がいっぱいだった。ロマンチックというよりは不穏な気配の夜だった。それは、良貴と典子のずっと背後で交わされていた、弘志と美恵子の会話のせいだったかもしれない。それとも、一見のどかに見える良貴と典子の、心の中でせめぎあっている葛藤や切なさのせいだったかもしれない。
「あの、そういえば」
良貴は、ちょっと唐突に口を開いた。
「昨日、先輩にからかわれた件なんですけど…」
典子は心の中で大いに慌て、緊張して、つい過剰防衛をして、
「え~、なにかあったっけ~?」
と気づかないふりをした。
「昨夜、僕が俵田さんと戻って来た時、先輩が何か誤解してたみたいだったから…」
(僕は気にしていても、典子先輩が気にしてるわけないじゃないか…)
良貴は、説明している自分が自虐的に可笑しかった。
「んー、あー、そういえば、そうだったね~」
典子は今思い出したような態度を装った。
「あれは、俵田さんが落とし物をして、夜に女の子一人で探しに行かせちゃいけないから、部長としてついていっただけです。変な風に思わないでください」
良貴は必死に弁解をしている印象を与えたくなくて、なるべく軽く言った。典子はホッとして思わずため息をついたが、気持ちを悟られるのを恐れ、慌てて冗談を言った。
「今日の弘志と美恵ちゃんみたいな状態だったのかと思ってた。チャンスだったんじゃないの~?」
言ってから、泣きそうな気分になった。それでも笑顔を維持し続けた。
良貴も同じくらい泣きたかった。よっぽど、「チャンスというなら、今がそうだ」と仕返しに言って、驚かせたかった。今、突然手を握ったらどういう反応をするだろう。何もかも振り捨てて、よっぽど実行してやろうとしたが、頭で考えるのと手を動かすのとでは必要なエネルギー量が全然違った。
「おーい、おまえら、何隠れていちゃついてるんだ~?」
突然、頭上から弘志の声がした。良貴は慌てて立ち上がり、ドキドキしながら弘志を振り返って、
「弘志先輩、それは心外です、気を遣って隠れてたのに」
と言い、にらむような顔をした。でも、その表情にはちっとも迫力がなかった。
「なーんだ、弘志、こっちはこっちでうまくやってたのにい。邪魔しないで~」
いかにも冗談という口調で言いながら、典子も立ち上がった。
「ジャマしてゴメンね、典ちゃん」
美恵子が岩場を回りこんで典子に手を差し伸べた。典子は美恵子の目がちょっと赤いような気がしたが、潮風に当たったせいだろうと思った。
典子と美恵子は手を取り合って砂浜まで下りた。美恵子はこの時、ちょっとだけ自分の憂いを忘れて、
(典ちゃんと其田くん、何かなかったのかな?)
とささやかな好奇心に心を躍らせた。弘志と良貴もその後を追って岩場を下りた。
弘志は、良貴の態度に不審なものを感じ取っていた。
「其田~、典子になんかしたり、しなかったろーなー」
訊くのには勇気が要ったが、やっぱり典子が心配で、訊かずにいられなかった。
「え、それは…ホントに心外です」
良貴は平然と言ってのけたが、ほんのわずか、声が上ずった。典子は弘志が勘ぐってくれたのがことのほか嬉しく、軽い足取りで歩きながら、
「弘志~、自分といっしょにしないで~。其田くんは、ジェントルマンよ、ジェントルマン! ねっ、其田くん、弘志とは違うもんね~!」
と元気に言った。良貴は苦笑しつつ、
「…いや、そんなことも、ないんですけど…」
と本音を漏らした。
(困った人だな、典子先輩も…。ホントになにかあったら、どうするんだろ?)
良貴が複雑な気持ちでいると、弘志が典子をからかって笑った。
「はは、相手が典子だからジェントルマンだっただけだってさ。まー、おまえ相手じゃあな~」
「えー! ひどいよ弘志、すっごい失礼じゃん!」
弘志と典子は追いかけっこをするように戯れながら、良貴と美恵子は静かにペンションへの道を歩いた。
(…僕の気持ちは…もう、恋をしているとしか言えない…)
良貴は典子の笑顔を見つめながら、覚悟に似た気持ちで自分の感情を受け入れていた。弘志と典子の笑顔に気持ちが和み、静かな笑顔をたたえて足元に目を落としたとき、美恵子が声をかけてきた。
「其田くん」
良貴は美恵子の方を見た。美恵子は目を伏せた綺麗な横顔で、
「江藤先輩と私、別れたから」
と言った。良貴は驚いて何も言えなかった。
夏合宿は翌日、無事終了した。いろいろな失恋と、すれ違いを残して…。