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7 夏合宿ふたたび


 去年は海だったから今年は山にしようという良貴の提案は、あっさり却下された。練習を終えた更衣室での非公式合宿検討会で、副部長をはじめとする2年男子からは、「其田、バカじゃん?」という声があがった。

「せっかく水着が見られるのに、なんで海にしないわけ。信じらんねー」

 良貴には完全にそういう観点が欠落していた。

「でも、なんか毎年海っていうのも、わざとらしいんじゃない?」

「体操部の合宿は海が恒例、って風習を作るんだよ。そしたら来年も海だ」

 そんないきさつで、今年の合宿も海に行くことになった。2年の男の子たちは、去年のおさらいに余念がなかった。

「須藤の水着が見られなかったのは残念だったよな~」

「弘志先輩も、気がきくというか、きかないというか」

「でも、そうでもしないととても水に入りそうになかったから、あれでよしとしよう。去年で慣れてもらって、今年はTシャツなしを期待して」

「でも、須藤ってちょっとスタイル的にはイマイチそうだよね」

「スタイル的には、典子先輩のほうがいいよね」

 典子の名前が出たので、聞いていないふりをしていた良貴もつい耳をそばだてた。

「典子先輩は健康的で良かったね~。ウエスト細くて、小尻で、脚もけっこう細くって」

「おまえ、尻フェチ? 脚フェチ?」

「どっちかっていうと、くびれ派」

「でも、典子先輩はもっと胸がほしいかなー」

 極めて男の子らしい会話のさなか、良貴に声が飛んだ。

「其田~。おまえ、そんなとこでさりげなく聞いてんじゃねーよ~」

 良貴は一瞬困ったが、すぐに、

「ごめん、途中から入りづらくて…」

 と言った。典子の体を他の連中が品定めよろしく眺めていたのは気に障らなくもなかったが、聞いていたのに「そういう話はどうか」なんて言うわけにいかなかった。

『今年のテーマは、お日さま』

 典子の声が蘇り、良貴の中に海の景色と、オレンジ色の水着を着ていた笑顔が浮かんだ。

「其田は、なに系?」

「乳? 尻?」

「それとも、脚?」

 しばらくウーンと考え込み、良貴は、

「今年見とくよ」

 と答えた。心の中では、「笑顔、かな」と答えていた。


 恋をしているのだろうか? と良貴は考えていた。

 このところ、典子に対する自分の感情は明らかに普通ではない。でも、これが即、恋愛だと思うのは難しかった。好意は持っていたし、体操部に来てほしいと思うし、気にもなったし、なにかあると心配でもあった。でも、良貴にはピンと来なかった。

(どういう状態なら、それを恋って言うんだろう。つきあってほしいとか、ほしくないとか…そういう風には思わないし…)

 今のまま、部活で顔を合わせ、弘志と3人で(あるいは美恵子を交えて4人で)いるだけでもいい気がした。ただ、そこにいて、自分を見ていてくれればそれでよかった。

(2人で一緒にいるのは…それはそれで楽しいような気もするけど…、例えば2度、3度とデートして、話すことがなくなったり、行くところがなくなったりしたら、お互いに退屈したりはしないのかな)

 そして、良貴は典子を性欲の対象にしたくなかったし、そういう風に感じることができなかった。

(そもそも、周囲の女の子をそういう対象として見るのは、なんか…悪い、っていうか)

 ただ漠然とした好意。良貴にとって典子への感情はその域を出なかった。


 弘志が部活に出てきた日の帰りがけ、良貴は弘志について江藤家に行き、弘志の部屋にこもった。相談があるとは言いにくくて、本を貸してほしいと言った。

「須藤さんとは、結局うまくいってるみたいですね。僕、結構責任感じてたんで、ホッとしました」

 良貴は、自分の話に持ち込むルートの始点をそこに置いた。

「気にしてたの? 好きじゃないけどつきあおうかってアレだろ?」

「そうです、変なこと言って、須藤さんが怒らなかったかな~と思って…」

「んー、喜んでたよ。正直に言ってくれてよかったって」

「弘志先輩、女の子とつきあってるのって、どういうものなんですか?」

 思いがけない良貴の質問に、弘志は驚いた。

「あれ、珍しいな~、おまえがそういうの積極的に話するの…」

 良貴はちょっとだけ狼狽して、

「いや、自分がそういうの、あまりピンと来ないんで…、僕がおかしいのかなって思って」

 と言った。もちろんそれは嘘ではなかったし、そうやってはぐらかすことで、自分の中にある恋に似た気持ちは隠しきった。

「なんだ、いきなりそんなこと言い出すから、好きな女でもできたのかと思った」

 良貴は、やっぱり自分も普通の男の子なんだなと内心でそっと苦笑した。

 弘志は天井を仰ぐように上を向いて大きく息をして、

「つきあっててどんな感じ、かあ…」

 と妙に感慨深そうに言った。そして、大きなため息をついて、

「ハッキリ言って、わかんねえ。俺も」

 と言った。良貴は思いがけない返事に戸惑った。弘志は視線を落としたまま答えた。

「おまえにしかわかってもらえないような気がするから、おまえにだけ言うけど、俺、須藤とつきあってて、なんだか余計恋愛がわけわかんなくなった気がするんだよな。前は自分でも須藤に対してうまく優しくできてたと思うんだよ。でも、…今は、須藤が真正面から俺を見てると、こっちがどこを見ていいのかわかんなくなったりしてさ。つきあう前には俺のほうから強引にキスしたのに、つきあい始めてからはそういうこと、一度もしてないし。教えとくけど、自分でキスにもってくのと、女の方から言われてするのは、自分でする方が楽だぜ。俺は、須藤に言われて、全然できなかった。だから、全然わかんねえ。須藤に対して、どんな顔をしていいかもわかんねえ」

 弘志は一気に吐き出した。そして、

「でも、ひとつ自分が変わったことがあるかな」

 とつぶやいた。良貴は次の言葉を待ったが、弘志は言いあぐねていた。

「…何が変わったんですか?」

 だいぶ待ってから、そっと良貴は訊いた。弘志は覚悟を決めたように真剣なまなざしになって、足元をじっと見つめながら言った。

「須藤がすごく綺麗に見えるんだよ。元から綺麗な子だけどさ、そういうのじゃなくて。輝き…なんて言葉を使うと恥ずかしいけど、そういうまぶしさを感じるんだ。時々自分が須藤に見とれてるのに気付くよ。あれ、俺何やってるんだ? って。そうすると、余計にどう接したらいいかわからなくなる。…だから、俺、昔より恋愛とか、女とつきあうとか、わかんねえ。おまえに訊きたいくらいだよ」

 良貴は、しばらく弘志に対してなんと言葉を返そうか考えて、

「…今は、形を作っているところなのかもしれないですね」

 と言い、ゆっくりと言葉を続けた。

「自分の中でわからないなら…しばらくは、形ができるまで待った方がいいのかもしれないと思います…」

 弘志はもう一度ため息をついて、

「とは言ってもな、実際に相手と向かい合わなきゃいけないと、のんびりと待ってもいられないんだよな、これが」

 と気の抜けたような声で言った。良貴はいつの間にか自分のことを言っていたと気がついた。


 3年生とOBへの対処に揺れたミーティング以降、体操部のある日にはいつも、美恵子と典子はもめていた。美恵子は3年生の教室まで典子を迎えに行って、「部活に行こう」と繰り返していた。

「今日は体育ないからジャージも持ってきてないし。帰って勉強、勉強」

「もー、今度はおいでよ~」

「美恵ちゃん、あのねー、私だって一応受験生なんだから~」

「だって、部活出たってやる人はやるし、やらない人はやらないもん。かわらないよ」

 実はそのとおりだったが、典子はとりあえず今のところ「やる人はやる」方に所属していた。それに、良貴に会わないでいるほうが心が平穏だった。典子はおどけた口調で美恵子を追い返した。

「ね、ダダこねないで、一人でちゃんと行くんだよ。はい、いい子いい子」

 美恵子は渋々体育館に向かった。典子は美恵子の後ろ姿にちょっと愛しげな微笑みを投げて、帰り支度を始めた。美恵子から先日のミーティングの話を聞き、良貴は迷惑に思っていなかったし、味方になってくれたとわかったので、それだけで満足だった。

「ミーティングではそういう結論になったけど、彼女の言ってること、ウチには合わないだけで、間違ってるわけじゃないと思うよ。当の3年生が、当然の権利だ、みたいな顔しちゃいけないと思う」

 典子は美恵子にそう言った。勝利者のような顔をして、千江美の前に堂々と立ちはだかる気にはなれない。だから結局、典子は体操部に戻らなかった。


 良貴が弘志のところに遊びに来て、そのまま一緒に食卓を囲んだある日、

「典子先輩も、夏合宿に来ませんか」

 と言われて、典子はとても驚いた。

「え、だって、でも、私、もう引退したし」

 典子は過剰にまばたきをしながらそれだけ言って、ちょっとむせた。

 良貴は、典子が気になる自分自身のことを知りたくて、もっと典子を見ていたかった。

「合宿だけ来るっていうのも、旅行気分でいいですよ。ずっと勉強してたらおかしくなっちゃいますよ。滝野川先輩もまた来るみたいですし、OBが来るなら三年生はもっと来ていいですよ。弘志先輩は、もちろん来ますよね」

 良貴は、弘志が自分より熱心に典子を誘ってくれるだろうと思って水を向けた。弘志は喜んで良貴の思惑通りに動いた。

「行く行く。部長直々に指名されたら喜んで行くよ。典子も行こうぜ。最後じゃん。俺と同じ大学に行けるかわかんないんだし、兄妹で過ごす最後の夏休みかもしれないゼ?」

「えー、もう弘志と過ごす夏は飽きたよ~。もう17回もあったじゃん」

「冷てーな~。来年後悔しても遅いんだぜ~? 高校最後の夏、勉強だけでつぶすことないじゃん。行こうぜ~」

 江藤家の大黒柱はまだ会社から帰っていなかったが、典子そっくりの、どこかふわふわした雰囲気を持つ母親の澄子は、その様子をニコニコして見ていた。良貴はその様子に気後れして、

「すみません、受験生を誘ったらまずかったですね」

 とそっと言った。澄子は良貴を自分の息子のように優しく見返して、

「少しは勉強以外のこともしなきゃダメよ~。思い出も大事よ~」

 と言った。頼りない笑顔の作り方が典子にそっくりで、良貴は可笑しくなった。

「典子~、行こうよ~。おまえは高校最後の夏が惜しくないのか~?」

「惜しいけど、部活にぶら下がって行かなくたって、旅には出られるよ」

「高校生活を彩ってくれた仲間たちと、最後の思い出がほしくないのか~」

「うーん、それは…」

 典子のツボはそこだった。もちろん「仲間たち」の中に良貴が占める比率は大きい。良貴は口ごもった典子にしっかり食い込んだ。

「僕も、もう一度くらいお2人と一緒に行きたいです。去年しか一緒に行ってないじゃないですか」

「えー、其田くんにそう言われると弱い…」

「典子、俺だと平気で断るくせに。納得いかないけど、なんでもいいから行こうぜ」

「えー、おかあさ~ん」

 典子は逃げ場を失って母親に助けを求めた。澄子は笑顔で、

「いってらっしゃいよ~、典ちゃん」

 と逃げ道をふさいだ。良貴に来いと言われると、典子の意志なんか軽いものだった。それでも典子は最後の意地で口を固く結んで黙っていた。その顔には、「行きたい」と思いっきり書いてあった。良貴は笑って、

「典子先輩、いつもの、素直な方が可愛いですよ」

 と言った。典子は「えっ」という顔をして真っ赤になった。良貴はそれで初めて、自分がインパクトのある発言をしたことに気がついた。

「のーりこ。可愛いってさ」

 弘志がニヤニヤしながら言った。良貴は平静を心がけたが、こぼれ落ちた本心がいつまでもそこに転がっている気がして、心の中は動揺していた。

「折角、珍しく其田クンが女の子に面と向かって可愛いなんてクチきいてくれたんだから、男を立ててやんなさいよ~」

 良貴はなんとかポーカーフェイスをキープした。典子の口元が少しずつ緩んできて

「…じゃあ、…行く…」

 と言った。その瞬間、良貴は周りにぱあっと花が咲いたような気がした。不思議な感覚だった。

「やった、かーさん、そんなわけで2人分、合宿代用意しといてね~」

 弘志が一番はしゃいでいた。良貴は、こういう子供っぽい一面を素直に出せる弘志が好きだった。

 夕飯を終え、しばらく話した後、良貴は「ごちそうさまでした」と挨拶をして、玄関に向かった。弘志と典子が見送りに玄関まで来た、

「じゃあ、約束ですよ。人数に入れておきますから」

 良貴がどちらかというと典子に念を押すと、典子は子供のようにうなずいて、

「…うん、わかったぁ」

 と言った。良貴は思わず笑顔になり、それからちょっと大胆な気分になって、

「うん、そんな風にしてる方が可愛いです」

 と言ってみた。緊張に胸は高鳴ったが、それよりも一瞬にして真っ赤になった典子の反応が可笑しくて、ついつい笑ってしまった。

「おまえ、そーいうキャラだったっけ~?」

 弘志は笑ってみせたが、典子に対していつになく積極的な良貴に違和感を覚えた。良貴は弘志の言下の含みを感じ取り、さりげなくごまかした。

「すみません、典子先輩だと、つい家族みたいに思えちゃって」

 典子は「家族」の響きにガッカリした。良貴は典子のそんな気持ちには全く気がつかなかった。思いがけず素直に自分の気持ちを典子に伝えられたこと、夏合宿に典子が来ることに満足して江藤家を後にした。


 いよいよ夏合宿の日、弘志と典子は心を躍らせて一緒に集合場所へやってきた。典子は、弘志がいろいろと持ってくれたので小さな荷物を1つだけ持っていた。合宿に参加するということに対しては、やっぱりちょっと気後れしていた。

 美恵子は、なぜかとても淋しげにしていた。

「典ちゃんと、夏合宿最後なんだねー。なんか淋しいねー」

 美恵子はそう言っていたが、心に落ちていた陰の理由はそれではなかった。

(もう、江藤先輩と別れよう)

 そう思い始めてからだいぶたっていた。このままでは束縛しあっているだけだという思いに苛まれたが、結局勇気を出せないまま夏合宿を迎えていた。

 俵田千江美は大変不愉快そうに立っていた。

(典子先輩、合宿だけはちゃっかり来てるよ、信じらんない)

 千江美は、絶対に何か典子のアラを探してやると息巻いていた。恋敵のナイト役である弘志も敵だし、美恵子は恋敵の大本命だった。

 千江美はこの合宿で勝負をかけるつもりでいた。ライバルがこううようよいたんじゃ(と、千江美は思っていた)、早くしないと間に合わないと思っていた。


 伊豆の海は混んでいたし、そのせいもあってひどく濁っていた。曇っていて、まれに雲の隙間から日が差す程度の天気だった。でも高校生たちにはそんなこと、関係なかった。自称ペンションの安い宿にチェックインを済ませると、即座に体操部一行は海にやってきた。シートを広げ、レンタルしたパラソルを立てている一行の横で、一部の男子と典子がもりもりとストリップを始めた。

「こら、男手はパラソル立てるの、手伝えよ」

 滝野川が声をかけたが、その時パラソルつきの体操部基地が完成した。

「あ、大丈夫ですよ。もうできましたから」

 良貴が滝野川に声をかけると、ストリップ組は一斉に、

「じゃあ、海入りまーす!」

 と叫んで砂浜に突入した。典子も当然、女子で一番に海に飛び込んだ。

「なーんだ、あいつ」

 弘志は一番はしゃいでいる典子に目を細めた。良貴は荷物でシートに重しをしながら、

「典子先輩、海好きですもんね。去年もすごい勢いで海と砂浜を往復してましたよね」

 と言った。自然に微笑みがこぼれた。

 典子が長袖のパーカーとちょっと大きめの短パンを脱いでいるところは視界の隅で見えていた。今年の水着がキウイフルーツのような鮮やかな黄緑なのはわかった。同じ色のヘアバンドで髪を変な風にくしゃくしゃにまとめていて可愛かった。良貴は、あとでさりげなく典子を「ちゃんと」見ようと思った。

 体操部のほかの面々も次々に上に着てきた服を脱ぎ始めた。千江美は「勝負水着」と称して頑張って、ビキニを着てきていた。男性陣の注目は集まったが、細身の15歳の体はビキニ負けしていた。女の子たちは「千江美、ほそーい」とフィーバーしたが、男の子たちにとってはいささか物足りなかった。

 美恵子は去年と同じように服を脱がずにもじもじしていた。

「須藤、今年はちゃんと泳ごうぜー」

 弘志はゆっくり支度をするふりをしてシートに残り、さりげなく声をかけた。

「去年だって、泳ぎました」

「ちゃんと水着で泳ごうぜー」

 弘志は荷物をあさっているし、お互いに目を合わせないままなので、遠目には2人が会話しているようには見えない。他にシートに残っているのは良貴だけだった。

「でも…」

 美恵子は千江美のビキニを見てますます自分の体型を気にしていた。

「気にしすぎ。自意識過剰。そんなに誰も見ねえって。今年はTシャツ貸さねーぞ」

 良貴は鮮やかな黄緑の水着を目印にして、遠くの典子を見ていた。そのそばで、千江美は「冷たくて水に入れない」と主張しながら波打ち際をウロウロして、ビキニ姿を一生懸命見せびらかしていた。

(女の子って、みんなキレイなもんだなあ…)

 良貴は思った。グラビアアイドルやモデルのようなプロポーションではなくても、健康的な女の子はそれだけで十分きれいだった。

 典子がすごい勢いで水から上がり、猛然と走ってきた。良貴は折角のチャンスなのにどうしても正視できなかった。典子は飛び込むようにシートにひざをつき、

「弘志、ビーチボール出して~」

 と言った。弘志はすぐにビーチボールを出し、次いで空気入れの圧縮空気のスプレーを出した。

「おまえ程度の乳でも、それだけ走るとちゃんと揺れるな~。良かったな~」

 弘志はそう言いながらビーチボールをエアスプレーでプシュッと膨らませた。

「なーんですってえ。アンタ妹のどこ見てるのよ~」

「誰だって見るって。なあ、其田」

「え」

 いきなり話をふられて、良貴はびっくりした。残念ながら、なんだか恥ずかしくて見ていなかったので、慌てて良貴は、

「いえ、あの、見てませんでした」

 と答えた。

「おまえ、それでも男か~」

「其田くんはジェントルマンだもの。弘志とは違うわよ」

 典子が誇らしげに言うと、美恵子が良貴をからかった。

「ジェントルマンだから、正直に『見てた』とは言えないんだよね?」

「え、ホントに見てなかったのに…」

 良貴は誤解を受けないよう、必死で膝を抱えていじけるそぶりをしてみせた。美恵子はくすくすと笑った。

 典子は膨らんだビーチボールを受け取ると、

「泳ごうよ!」

 と3人に言った。良貴が、弘志と美恵子に微妙に気を遣って、

「あ、僕は行きます」

 とTシャツを脱いだ。弘志が、

「典子、走る時はほどほどにしろよ。連中、見るから」

 と兄貴の顔になって言った。典子は、

「せっかくだから見せときたいな~。だってこの水着、寄せて上げるヤツだもーん!」

 と言って笑った。弘志は、

「えっ、そんなのあんの」

 と言って典子の胸元に顔を近づけた。美恵子が、

「ちょっと、弘志先輩…」

 と苦い顔をした。良貴も横目で見てドギマギしつつ、弘志をうらやましいと思った。

「ここにワイヤー入ってて、これで押さえてギュッと寄せるようにできてるの、ホラ」

 典子が嬉しそうに言って胸を寄せて谷間を作ったので、美恵子は慌てて、

「ちょっと、典ちゃん」

 と制した。

「はーい、気をつけますー」

 典子は笑って美恵子のほうを見ながら胸から手を離した。その時、典子と良貴の目が合った。まさか典子が美恵子の方向を向くとは思わず、良貴も美恵子越しに典子の胸元をしっかり見ていた。典子は本気で「其田くんはジェントルマンだから、見ない」と思っていたので動揺した。

 それをごまかすために、典子は思いっきりハイテンションに言った。

「あのねー、今、こーいう風にワイヤー入ってる水着が結構売ってるの。補正機能つき、って書いてあったよ。だから、騙されちゃダメなんだよ」

「典ちゃん、そういう女の子の秘密は教えちゃダメだよ。他にも使ってる子がいるかもしれないじゃない」

 美恵子がそう言って怒った顔をすると、典子は、

「いいの、弘志はそーいうの、騙されない方がいいでしょー」

 と意味深な顔を向けた。美恵子は「聞いてなーい」という仕草をしつつ、内心、

(そして、其田くんも、でしょ? 典ちゃん)

 と思った。

「よし、じゃあ事情を知らないほかの部員を騙してくるか!」

 そう言って典子は立ち上がり、良貴に声をかけた。

「其田くん、行こうよー」

「あ、はい」

 何事もなかったかのようにさりげなく良貴は立ち上がった。本当のところは典子にいかがわしいと思われただろうと落ち込んでいた。それでも、典子の後ろを歩きながら、他の男の子たちが言っていた典子の「くびれと小尻」をさりげなく観察した。なるほど、典子は顔が丸い割に締まった体をしていて、特にお尻は格好良かった。何度かレオタード姿を見ていた(部活では着ないが、大会の時に着る)が、そういう風に見たことはなかった。良貴は、補助でこの腰に手を当てていたのだと思うと罪悪感を覚えた。

 波打ち際にいた千江美は、典子がビーチボールを抱えて良貴と一緒に歩いてきたので不愉快になって海に入った。シートのところでは、弘志が水着になって振り返り、美恵子に何か言った。美恵子はさんざん渋った後、やっとパーカーを脱ぎ始めた。男の子たちは一斉にその方向が気になったが、注目すると美恵子がまた上を着てしまうと思ってしらばっくれることにした。

 美恵子は水着になって立ち上がっても、腕を体にやたら巻きつけて「太ってるから」を連呼していた。

「他の連中と大差ねーよ。それに、そんなに見てねーよ」

 弘志はそう言いながら、美恵子がシートに逃げ帰らないように少しずつ海に近づけていった。羊と羊追いの犬のようだった。

 体操部員は海の家からレンタルボートを借りてきてみんなでたかったり、ビーチバレーをしたりした。典子の思惑通り、男の子はちらちらっと典子を見て「典子先輩、去年より胸大きくなったんじゃない?」と囁き合った。弘志は「あんまり見んな、おまえら」と言ったが、内心可笑しくて仕方がなかった。

 典子はその頃、後ろめたい思いでいっぱいになっていた。千江美のビキニも、しっかりワイヤー入りの寄せて上げるタイプだった。当然弘志は即座に「ああ、これもか」と思ったし、良貴は見ないようにしつつも「そうなのかな~」くらいには思った。


 その夜、美恵子はみんなが集まっている部屋を早く出て、早めに寝てしまった。弘志は残っていた連中(典子と、良貴と、もちろん千江美もいた)といっしょくたになって雑魚寝していた。

 自称ペンションは各部屋にトイレがなく、廊下を通って共同のトイレに行く。美恵子が夜中に起きて一人でトイレに行き、出て来ると、2年生の大川幸樹が廊下に立っていた。

「海に行かない?」

 幸樹は声をかけてきた。美恵子は、

「え、何時だと思ってるの?」

 と言ったが、幸樹はほとんど無理やり美恵子の腕をつかんで外に連れ出した。美恵子はこういう状況に何度か遭遇したことがあったから、どういう状況かはすぐにわかった。

「こんな夜中にうろつくの、やめようよ」

 美恵子が言うと、幸樹はある意味お決まりの文句から入ってきた。

「須藤さんてさ、カレシいないの?」

 美恵子はよっぽどいると言いたかったが、仕方なく、

「なんで訊くの、そんなこと」

 とごまかした。「いない」なんて嘘をつきたくはないし、本当のことは口止めされている。

「答えてよ」

「なんで答えないといけないの?」

 訊く権利は認めるが、答える義務はない、と美恵子は思った。冷たい響きをたたえた美恵子の言葉にひるんだ幸樹は、気を取り直して口を開いた。

「だって、彼氏がいたら言えないこととか、あるじゃん」

 美恵子は対応するのが面倒で黙っていた。ドキドキするというよりウンザリしたし、夜中に男の子と2人でいるのは怖かった。

「答えてくれないわけ?」

「答えたくないから」

 美恵子は、弘志が口止めしたことを心底恨んだ。ひと言「彼氏がいる」といえばこの場は終わりなのに。

 幸樹が黙っているので、美恵子は、

「戻ろうよ」

 と言って踵を返そうとした。幸樹は慌てて、

「話があるんだよ」

 と言った。美恵子は一刻も早く話を終えたかった。

「だって、大川くん、さっきから何も言わないじゃない」

「須藤さんて、けっこう冷たいんだね。意外」

「私、早く戻りたいんだけど。私が冷たいとか冷たくないとかじゃないと思うよ」

 美恵子は普段、優しくたおやかなお嬢さんだが、自分に恋愛感情を寄せてくる男には容赦がなかった。いや、容赦していたら余計面倒なことになると、経験からよく知っていた。

「ねえ、カレシいなかったら、いないって言うよね、普通」

「そうかな。そうとは限らないでしょ」

 美恵子は一人でペンションの玄関に向けて歩きはじめた。幸樹はすがるように追って、

「カレシいるの?」

 と情けない声でもう一度訊いた。美恵子は心底うんざりした。だいいち、昔からこういう態度をとっていたわけではない。かつては一生懸命相手を傷つけないように努力したのだが、気遣いに勝手なカンチガイをする男もいたし、遠まわしな表現が理解できない男もいたし、よけいしつこくなる男もいた。結局、ダメなものはダメで、ハッキリした方が面倒がないと学習した。その結果のこういう態度だった。

 幸樹は追い詰められて、仕方なく、

「あのさ、俺とつきあってくれないかな」

 とやっと言った。美恵子はとうとう面倒なかけひきが必要なくなり、ホッとした。

「ゴメン、私、好きな人がいるから」

 美恵子はそれだけ言うと足早にペンションへと歩いた。幸樹は少しだけ思いつめたが、結局何もできないまま黙って美恵子の後ろを歩き、おとなしく自分の部屋に帰っていった。美恵子は何事も起きなかったのでホッとした。

 美恵子は、典子がまだ部屋に戻ってきていなかったことを思い出し、みんなが騒いでいた部屋を覗きに入った。中では布団も敷かずに8人もの男女がゴロゴロ寝ていた。美恵子は「うらやましいな」と思った。経験上の警戒から、美恵子はこういうところで無防備に寝るのを常に避けていた。

 典子は弘志の腕枕で寝ていた。

「いいなー」

 美恵子は誰にも聞こえない声でつぶやいた。これなら起こさなくても大丈夫かな…と思って帰ろうとすると、部屋の隅で、良貴のそばにくっつくように千江美が寝ていたので仰天した。慌てて足音を忍ばせて近づき、良貴の腕をつねったりたたいたりして起こした。

「ちょっと、其田くん」

 小声で名前を呼ぶと、良貴が目を開け、ゆっくりと起き上がった。

「須藤さん? 何?」

「しーっ」

 美恵子は良貴を黙らせ、無言で隣の千江美を指した。良貴はびっくりした。美恵子は手招きして、良貴を廊下に連れ出した。

「其田くん、なにやってんの」

「え、僕は知らないよ。寝てて、たまたまああなっちゃったんでしょ」

「たまたまなわけ、ないでしょ。あんな荷物だらけの隅っこなんだから」

 千江美もぼんやりと目を覚ました。そして目の前に良貴がいないので慌てて飛び起き、周りを見回すと、すぐにドアの向こうの声に気づいた。話の内容は聞き取れないが、美恵子と良貴の声なのはわかった。千江美はじりじりとドアに近づきながら聞き耳を立てた。

「びっくりした、そーいう仲になったのかと思ったわ」

「そんなわけないでしょ。だいたい、そういうことになったって、人前でくっついては寝ないよ」

「だからびっくりしたんじゃない。とにかく、たまたまじゃないのは、わかってるでしょ?」

 良貴は、わかっていたからこそ返事に窮した。美恵子は良貴の表情を見て、

「その気がないなら、気をつけた方がいいよ」

 と言ってにらんだ。良貴は肩をすくめた。

「うん、ありがとう。良かった、起こしてくれて」

「余計なお世話だったかもしれないけど」

 美恵子は冷たい視線を作った。良貴は慌てて言い返した。

「僕だって誤解されたくないよ、ホントに良かったよ。自分の部屋で寝るよ」

 2人が「おやすみ」と言葉を交わすのと、別々に部屋に入ってドアを閉める音だけを、千江美ははっきり聞くことができた。

「何、夜に忍び込んで来てるんだ、須藤美恵子。キモ。カンジ悪」

 千江美はそうつぶやいて、それから妄想して驚愕した。

「夜中に、なんのつもりで来たの!? あの女! さっさと寝たみたいに装って、油断させといて…」

 千江美は、この合宿中絶対に良貴を守り抜き、必ずゲットしようと決意を新たにした。

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