6 先輩V.S.後輩
「なんか、俵田さんって、其田くんのこと好きみたいね」
ときどきお昼を食べる時に使う藤棚の下で、美恵子は典子をできるだけ刺激しないようにさらっと言った。
「あ、そうなの?」
典子は心臓を打ち抜かれたような衝撃を受けたが、うまく隠してさらっと答えた。自分をごまかしていたのに、現場にいた美恵子にはっきりそう告げられるとショックだった。
典子の反応があまりないので、美恵子は「やっぱり冗談だったのかな」と思った。
「私、俵田さんに、其田くんのこと好きなのかとか訊かれちゃったよ」
「えっ!」
典子は思わず声が裏返ってしまい、慌てて取り繕った。
「何言ってんの、バッカみたーい。そんなことあるわけないじゃない、ねえ」
「でも、私が江藤先輩のこと好きだって知らなければ、ありえないとは思わないよ。其田くんって、やっぱ、体操部ではすごく目立つし」
美恵子はじっと典子を見つめたが、やっぱり本当の気持ちはわからなかった。
「俵田さん、どうするのかなあ。すっごい積極的に行きそうだったよ」
美恵子はさりげなく言って、さらに典子の反応をうかがった。典子は美恵子の言葉に袈裟懸けに切られたような痛みを感じながら、
「へー、やっぱり私が目をつけるような人は、他の人からもモテモテだね~」
などと茶化してごまかした。失恋が決まっている恋なら、誰にもこの気持ちを悟られたくなかった。
美恵子は、典子が弁当をつつくばかりで、結局その後全然食べなかったのを見逃さなかった。そして、改めて典子の力になろうと決意した。
典子はもう引退してしまったので、体操部の練習がある日には、一人自分の部屋で悶々としていた。受験勉強なんてとても手につかず、現実逃避のためにゲームばっかりして過ごしていた。
「おまえ、なにやってんの。勉強しろよ。一緒にワサダ(和佐田大学)いこーぜ」
弘志は時々典子の部屋をのぞいてはそう言っていた。典子がゲームばっかりやっているので、弘志は心配だった。
弘志はまだ体操部にマメに顔を出していたが、受験勉強だけしているよりずっと気持ちにメリハリがついた。だから、典子があまり勉強していないのを見て、体操部に誘うようになった。
「おまえ、全然勉強してないじゃん。体操部出てる俺の方がちゃんとやってんじゃん。毎日、ゲームばっかやって…。ダメだって。一緒にワサダ行こうって約束したろー」
弘志に叱られ、典子は縮こまった。良貴とたまに廊下ですれ違うだけなのは淋しくて、弘志の愛情に引っ張られるように、典子はおっかなびっくり体操部に顔を出した。
「典子センパーイ、お久しぶりですー」
「先輩、復活ですか~?」
後輩たちの温かい声が典子の胸に心地よかった。体育館に入っていくと、タンマをはたきながら良貴が笑顔で会釈をした。典子は息が詰まるような思いで、でもそれを顔に出さずに満面の笑みで手を振った。
「典ちゃん、なんかひさしぶりだね」
美恵子が声をかけてきた。
「うん、勉強めんどっちくてゲームばっかやってたら、弘志に連れてこられた」
「弘志先輩って、本当に典ちゃんのことだけは心から愛してるよね」
美恵子の言葉に含まれるニュアンスを、典子はしっかり感じ取った。
「…弘志って、相変わらず美恵ちゃんに対して失礼なの?」
「失礼ってことはないよ。ただ、なんか…最近ね、前のほうがよかったなって思わなくもないんだ。優しかったり、冷たかったり、わけわかんないし…」
ひそひそ話をしていると、弘志の大声が2人に降りかかった。
「典子ー、須藤ー、おまえらしゃべりに来てんじゃねーよ」
2人は慌てて練習に戻った。
「典子先輩、何やりますかー?」
2年生が声をかけてきた。
「いいよ、テキトーに空いてるとこでなんかやるから。みんなはみんなの練習してよ」
典子は遠慮して言った。現役部員の練習を邪魔するつもりはなかったので、典子は周囲を見回し、空いているものを探した。競技で使う正式の高さの平均台が空いていた。
「あ、私、これでいい」
典子は早速高い方の平均台によじ登った。恐る恐る平均台の上で前転をしてみた。平均台は得意だったはずが、久しぶりの感触は幾分狂ってしまった。
「おや」
典子の体は平均台をほんのちょっとずれ、そのままそれて、ぼとっと平均台の外へ落ちていった。落ち慣れているので、両腕で平均台につかまってだらんとぶら下がった。
そんな格好のまま、典子は体操部を見渡した。弘志が空中技の練習用のトランポリンで何度も宙返りをしているのが見えた。良貴を探したが、見当たらなかった。典子はつい慌てたように首を回して良貴を探した。
「どうかしたんですか?」
いきなり後ろから声がして、典子がびっくりして腕を外したので、上半身も平均台から落ちた。高さは1メートル20センチ程度だから、足をついてぶら下がっている状態から落ちても危険はない。背中をドスッと打ったが、典子は「ぐえ」と言っただけでまるっきり平気だった。
「大丈夫ですか?」
良貴の声に引かれるように、典子は慌てて上体を起こした。
「其田くん、見てたの?」
「すみません。見てました」
良貴は優しく笑った。そして典子の顔を覗き込むようにわずかに首をかしげると、
「先輩、バック宙の練習しませんか」
と言った。典子はびっくりした。
「えー。そんなの、其田くんの練習のジャマだよ」
「今空いてるのが、普通のマットだけなんですよ。あれだと僕は、やることがないんで」
実のところは床が少しの面積あればあん馬の練習はできるし、腕立てや腹筋なんかはどこでもできるが、良貴は、久しぶりに来た典子の練習を手伝いたかった。
「典子先輩、バック転まででしたよね。僕、補助しますから、バック宙やりましょうよ。去年、先輩の代の女子でそこまでいった人、いなかったじゃないですか。できたら一番乗りですよ」
典子が返事に窮していると、良貴は、
「久しぶりじゃないですか。一緒にやりましょうよ」
と強く言った。
「うん…」
典子はうなずいた。空いた場所に1枚だけマットを敷き、マットの耳をしまうと、良貴は「どうぞ」と言って典子をマットの上に立たせた。
「バック転何回かやって慣らしましょうか。バック転から…」
良貴の掌が腰に触れた。典子の肝がキュッと冷えた。そして、典子の背中から腰にかけてのカーブを感じた良貴の気持ちにも小さな衝撃に似た感覚があった。良貴は平静を心がけた。典子はバック転ができるはずなので、ズボンのゴムをつかむ必要はない。軽く腰に手を当てた。
典子は良貴の掌を意識しながら後ろに跳んだ。良貴は思いがけず掌に体重を感じたので慌てて力を入れた。重苦しいバック転が、補助を受けてドスッと決まった。
「先輩、なまりました? ちゃんとステージでもやったじゃないですか」
「ん~、勉強ばっかりしてたからかな~?」
「え、弘志先輩が、ゲームばっかりやってたって言ってましたよ」
「えー! あいつ、余計なこと言うんだから~!」
良貴は赤くなった典子を見て笑った。
「じゃあ、バック転からやりなおしです」
「はーい」
典子は素直に元の位置に戻った。良貴は雑念を振り払ってまた腰にしっかり手を当てた。そして、跳ぶ瞬間にちょっと腰から手を離し、典子が体勢を崩したらすぐに支えられるようにほんの数センチ下でスタンバイした。典子の背中は沈んで良貴の掌の力を借りた。
「先輩、ホントになまってます。補助外せなくなってますよ。力入れましたから」
「えー、じゃあ私の去年の練習は水の泡?」
「やっぱり、勉強に差し支えない程度には練習に出てきたらどうですか?」
良貴にそう言われ、典子の顔はパッと明るくなった。些細な言葉に喜ぶ典子を、良貴はかわいいと思った。
そのまましばらく補助を受けながら典子がバック転の練習をしていると、良貴に声がかかった。鉄棒が空いたらしかった。典子はすぐに良貴に向き直って、
「あ、ゴメンね、隠居してる分際で練習手伝わせちゃって。ありがとう」
と言って掌で「行って、行って」というジェスチャーをした。
「いえ、僕の方が無理に練習させちゃって、すみませんでした」
良貴は勿体ないような気持ちに苛まれながら鉄棒のところに行き、プロテクターをつけてタンマをはたいた。しばらくは典子と過ごした時間の余韻が残っていたが、鉄棒をつかんだら、練習に集中することができた。
その日の練習が終わり、体操部員はゾロゾロと体育館の更衣室に入っていった。着替え終えた人がパラパラ出て行って、更衣室の中に人数が少なくなってきたのを見計らい、千江美が典子のところに近寄って行った。美恵子は嫌な予感がして聞き耳を立てた。
「典子先輩、あの、引退した先輩が、現役部員の練習を邪魔するのは良くないですよ」
千江美はきっぱりと言った。典子は千江美の顔を見たまま凍りついた。
「…あ、うん、でも、今日はね、やってくれるっていうから…」
どっちが後輩かわからないくらい萎縮して、典子は言った。美恵子はよっぽど割って入りたいと思ったが、この場面はどう考えても余計なおせっかいだ。
「其田先輩が優しいからって、甘えちゃいけないと思うんです。そこは、先輩として、後輩のことを考えてあげないといけないんじゃないですか?」
典子は視線を落とし、
「…そうだね、気をつけるよ…」
と力なく言った。勝ち誇ったようにカバンを手に更衣室を出て行く千江美の背中を見ながら、典子は言い返す言葉が何にもない自分に打ちひしがれていた。
美恵子がそっと寄って来て、
「典ちゃんが其田くんと仲いいから、嫉妬してるだけだよ。気にしないほうがいいよ」
と言ったが、典子はかぶりをふった。
「ううん、彼女の言ってることは、正しいよ。一人で練習できなかったわけじゃないよ。平均台は空いてたんだもん。其田くんの練習を私が補助するならいいけど、私の練習を手伝わせちゃダメだよ」
美恵子は、良貴のほうが典子に声をかけたことを知らなかったので、そう言われると返す言葉はなかった。
着替えが終わると、体育館の出口で円陣を組んでミーティングをやって、部活は終わりになる。
「来週は体操部が体育館の掃除当番になるので、練習に早く来た人は着替える前にモップがけをやってください。モップは濡らさないでください、滑ってケガ人が出ます」
良貴が連絡事項を伝えて、あいさつをして解散した。駅までの帰り道で、喫茶店に寄ろうという話になった。
「弘志、帰ろー」
「あ、このあとみんなで茶、飲んでくけど」
「そうなの? …じゃあ、私は帰るね」
「なんだよ、お茶つきあって、一緒に帰ろうぜ」
「ん、いい。帰って勉強する」
「ゲームだろー。いいじゃん、寄ってこうよ」
「ううん、いいの。勉強する気になったの。だから帰る」
典子は「皆によろしく」と言って、弘志以外の誰にも気付かれないように輪を離れ、ひっそりと帰っていった。
喫茶店の入口で、良貴は真っ先に気がついて、
「あれ、典子先輩は?」
と一同に訊いた。他の面々が「あれっ」という顔をすると同時に、弘志が、
「ああ、勉強するって言って帰ったよ」
と答えた。美恵子はわからないようにそっと千江美の足元をにらみつけた。
良貴は人数を数えて喫茶店の中に入り、人数を告げた。席はだいぶ埋まっていて、3つのグループに分かれてなんとか全員入ることができた。弘志と美恵子と良貴は、立ち位置の関係で綺麗に散った。そして、絶対に良貴と同じテーブルにつこうとしていた千江美は、しっかり良貴の正面を手に入れていた。美恵子が気付いたときには手遅れだった。
千江美は一生懸命良貴に話しかけ、そのテーブルの面々の会話から良貴だけを分離することに成功した。
「其田先輩って、すごいですよねー。大会とかも一人だけレベル違ったし、クラブ行ったときもすごかったですー。ウチの部で、ダントツじゃないですかー」
良貴は千江美の大声に気後れを感じた。周りには選手になりたくて一生懸命練習している連中もいる。他の部員と比べてどうだという言い方はしてほしくない。
『…ヒミツだけど、弘志よりカッコよかったよ』
典子のささやき声が記憶に響いた。典子は、褒めるにしても誰かが気を悪くするような言い方はしなかったし、誰かが気にするような言い方のときはそっと、周囲に聞こえないようにしていた。そんなさりげない気遣いに、良貴ははじめて気がついた。
「体操でもダンスでも、何やっても他の人たちと格が違うじゃないですか。アコガレちゃいますよ」
千江美の隣に座っていた良貴と同じ代の部員が、ちらっと千江美に視線を走らせた。良貴は対応に困った。いいことを言ってくれているのに、不快そうにするのもかわいそうだ。でも、このまま言わせておくと他の部員が気を悪くする。「格が違う」というのは事実だが、だからこそ言ってはいけないことだ。
「もっと、1年生とかにも指導してくださいよ~。私、其田先輩に教わりたいです~」
千江美の言葉をさえぎるように、良貴は、
「あんまりおだてないで。ちょっと始めるのが人より早かっただけだから」
と言い、他の人たちの会話に加わろうと隣の人のほうを向いた。
「其田先輩って、おくゆかしいんですね~」
千江美はチャンスを逃すまいと引き留めを図ったが、良貴はそれには答えずに、隣の会話に無理やり入った。
体操部1年生の女の子たちは、解散した後にもう一軒喫茶店をハシゴして、恋愛会議を開いていた。
「千江美は、其田先輩でしょー?」
「うん。彼女いないってことは調査済みだし」
「リエは?」
「うーん…。江藤先輩って、難しいかな~」
「あの人、超、正体不明だよね~」
「彼女はいないって話だけど、ホントかな~」
「私は、江藤先輩、ちょっとついていけないからやめた。あのさあ、浜野先輩って結構いいと思うんだよね」
「じゃあ裕子は浜野先輩なんだ」
1年生の女の子6人のうち、好きな人が体操部の中にいる3人のターゲットは見事に分散した。あとはアタックあるのみ、だった。
「千江美はもう行動起こしてるよね。クラブとか行ったときも、一人で隣に押しかけたりしてたじゃん」
「どうよ、手ごたえは」
千江美は渋い顔になった。
「うーん、どうもね、私には最大のライバルがいるみたい」
「え、マジで? 誰?」
「其田先輩にアタックかけてたら、須藤先輩に、ケンカ売られたんだよね。私と其田先輩で話が盛り上がってきて、蚊帳の外になってるくせに、絶対に其田先輩の隣、どかないんだよね。なにそこに残ってんだよ、てカンジ」
「うそー、須藤先輩美人じゃん」
「でも、2人とも、もう2年じゃん。今つきあってないってことは、もうつきあわないんじゃない?」
「そうだよねー」
「でも其田先輩って、女に興味なさそうじゃん。あまりにも色気がなすぎっていうか、男性として見られない」
「でも、カッコいいよ。体操とか、クラブ行った時のダンスとか、超良かった」
それから話は弘志狙いの朝川リエの方に移った。
「リエはさ、どうすんの」
「うーん、なんか江藤先輩って手ごわそうだから、様子を見ようかな~とか思って」
「なんか、実は学校の外に彼女いて、隠してたりしそうだよね」
「案外、体操部内にいても、あの人ごまかせそうじゃない?」
「部の中で、怪しい人とかって、いたっけ」
「典子先輩とは異常~に仲いいけどね。で、須藤先輩が典子先輩といっつも一緒にいるから、3人でいるとことかよく見るよね」
「それなら其田先輩も江藤先輩と仲いいから、4人でいたりするよね」
千江美が憮然としながら口を挟んだ。
「だからー、須藤先輩が其田先輩狙ってるって言ったじゃん。江藤兄妹と一緒にいれば、間接的に其田先輩と一緒にいられるっていう計算だよ」
「うーん、なんか、江藤先輩に近づく方法とかあればいいんだけどね~」
「一番いいのは、典子先輩と仲良くなることじゃない?」
「じゃあ、典子先輩が今度部活に来たらさ、リエと親友みたいになってもらうの」
その言葉に、千江美が怒ったような声で水をさした。
「私、典子先輩、嫌い。それに、あんまり部活に来てほしくない」
5人はびっくりした。
「え、なんで?」
「あの人、あんまり先輩ヅラとかしないし、いい人じゃない?」
千江美は腕組みをして顔をしかめ、
「だって、あの人其田先輩に甘ったれてるんだもん」
と言った。微妙な表情をする5人に向かって、千江美は演説した。
「今日、3年のくせに、其田先輩に補助やらせて練習しててさー。其田先輩の練習のジャマじゃん。私、今日、帰りに言っちゃったもん。現役部員の練習のジャマすんなって。だからもう来ないんじゃん?」
「うっそー。先輩にそういうこと、言う~?」
「私は其田先輩が好きだからとかじゃなくて、引退した人は足を引っ張るなって言ってるだけで、間違ったことは言ってないよ」
「シットだ千江美。其田先輩と典子先輩、仲良さそうだったもんね~」
「江藤先輩と其田先輩が仲がいいせいでそうなるだけで、典子先輩本人は関係ないよ」
千江美がムキになっても気にせず、スズメたちは残酷なさえずりを始めた。
「案外、須藤先輩が其田先輩狙いで、其田先輩が典子先輩狙いだったりしてね」
「それ、泥沼だよ~?」
「江藤先輩が須藤先輩狙いなら、泥沼の四角関係」
「でも残念、典子先輩が江藤先輩を狙うことはないんだよね~」
「いや、倒錯した兄妹の愛情っていうのは?」
「それすごすぎ。なんかだんだんウソっぽくなってきちゃったじゃん」
みんなが大ウケしていると、千江美は当てつけるように立ち上がった。
「なによ、千江美、怒ったの?」
「トイレ」
千江美はトイレの鏡の前でしばらく深呼吸をして頭を冷やした。良貴の方から典子に声をかけて2人で練習を始めたところは見ていた。補助を典子が頼んだわけではない。なのに典子は素直に謝った。良貴に特別な感情があれば、これからも良貴と練習をしたくて、何か言い返すのが普通だろう…そう千江美は思った。だから、典子には、良貴への特別な感情はないのだろうと結論した。
そうすると、わざわざ典子に声をかけに平均台のところまで歩いて行った良貴の姿が気になった。また頭に血が上りそうになり、千江美は水で顔を洗った。
典子はまたぱったりと体操部に行かなくなった。千江美はほんの少しだけ罪悪感を覚えながらも、不安の種が一つなくなり、ホッとしていた。
弘志と美恵子の交際は完璧に隠しおおせられていた。デートも少し遠めのところで待ち合わせ、もっと遠くに遊びに行くようにしていた。池袋で待ち合わせて上野に行ったり、新宿で待ち合わせて下北沢に行ったりした。高校の友人がよく遊んでいる地元の沿線は徹底的に避けていた。
「江藤先輩、あの、最近典ちゃんが部活に来ないと思うんですけど…」
美恵子がおずおずと訊くと、弘志は何も知らずに明るく答えた。
「んー、なんか、勉強してるらしいよ。突然勉強始めた。何かに目覚めたかな」
渋谷のパルコへ向かう細い坂道を歩きながら、美恵子はしばらく黙って考え、やはり弘志に伝えることにした。
「あの、…典ちゃんが来なくなったの、特別な理由があると思います」
「理由?」
弘志は慌てたように美恵子を振り返った。それまでは振り返りもせず自分のペースで歩くだけだったのに、典子のことになると急に反応が良くなる弘志に、美恵子はかすかな苛立ちを感じた。
「…なんか…、今日、はじめて私の方に顔向けてくれましたね」
「え、そうだっけ?」
「そうですよ。先輩はいつも、私の方見ないですよ」
美恵子は静かな声で言った。
「そうだっけ。俺、あんまり考えてないから…」
弘志は言葉を濁した。自分で、わざとそうしていた。時折美恵子の顔を盗み見ながら、自分の顔にいつもと違う表情が出てしまうのを恐れていた。つきあい始める前はうまくあしらっていた美恵子に弱みを見せたくなかった。以前と同じように振舞おうとするたびに弘志の態度はぞんざいになっていった。
「江藤先輩は、彼女とかより典ちゃんが好きなんですか?」
「え、おまえ、何言ってんの」
気を悪くしたような弘志の口調に、美恵子は狼狽した。
「あ、え、典ちゃんのことになったら、すごい反応したから…」
「だってさ、おまえと俺って他人だけど、俺と典子は家族だよ。普通家族の方が大事じゃない? 俺とおまえが結婚して家族になるなら、おまえのほうが大事になると思うけど」
弘志の返事は思いがけないものだった。美恵子は呆然とした。
「…他人、…ですか?」
「そういう意味じゃなくてさ、血縁関係とかそういう意味で言うと、実際に他人だろ。血がつながってないんだから」
思うようにいかない恋に神経質になった美恵子の心の中で、少しずつ化学反応のように絶望が結晶し始めた。
「そうですね、他人なのは確かです」
美恵子は口先だけで答えた。体じゅうの細胞が細かくて冷たい砂になっていくような気がした。
(…そうじゃなくて、それが例え嘘でも、「一番大切だ」って言いたいと思ってくれる気持ちが欲しいのに…)
「で、何。典子、なんで部活に出ないの?」
弘志は話の先を促した。美恵子は、なんだかもう、何も感じなくなっていた。
「なんか、この前、俵田さんが典ちゃんに、練習のジャマしないでとか言ってたから…」
「え!! 何、なんなの、それ」
弘志は驚きと怒りをたたえて小さく叫んだ。美恵子は弘志の彼女としてではなく、典子の親友として答えた。
「俵田さん、其田くんのこと好きみたいですよ。それで、其田くんが典ちゃんの練習手伝ってたのが、気に入らなかったみたいです」
「なにそれ。すっげえくだらねえ話じゃない? それで、典子は出なくなったわけ?」
「…わかんないですけど、時期的には、そのときから来なくなったのは確かです」
弘志はしばらく黙りこくった。それから帰りがけまでずっと、あまり口を開かなかった。
美恵子は自分の中に静かな決意が広がっていくのを感じた。
弘志は帰ってすぐに良貴に電話をかけた。良貴は携帯電話を持っていないので、自宅にかけることになる。待っている間、弘志は典子のことを考えていた。もちろん、後輩に練習の邪魔と言われたら典子は部活に出なくなるだろう。何も不自然なところはないはずなのに、それを「やっぱ、ジャマだから」と言わず、変な風に「勉強するから」とごまかしていたことが腑に落ちなかった。
「はい、其田です、すみません、お待たせしました」
良貴の声が聞こえて弘志は我に返った。
「あ、悪ィ。大したことじゃないんだけど、おまえにちょっと訊きたいことがあってさ」
気持ちとしては真っ先に典子を励ましたかったが、弘志はそうはしなかった。事実関係を確認せずにわけのわからない行動をとる気にはなれない。
「俺が典子の兄貴だからって、気にしなくていいから、正直に答えてほしいんだけど」
「え、何ですか? いきなり…」
「いや、あのさ、まあ俺もかもしれないけど、典子が部活に出るの、迷惑?」
「え、どうしてですか」
良貴はあっけにとられた。そんな風に考えたことなんかなかった。
「いや、正直に言ってよ」
弘志はちょっと緊張気味に言葉を重ねた。良貴はためらうヒマもなく、
「迷惑なんて…、ぜんぜんそんな風には思いませんよ。だいたい、滝野川先輩なんて卒業してるのにマメに来てるじゃないですか」
と答えた。でも、弘志は良貴の言葉を鵜呑みにはできなかった。
「んー、でも、他の3年生は来てないわけじゃん?」
納得していなそうな弘志の声に、良貴は、弘志にどう信じてもらおうかと考えた。そして、丁度いい証拠を見付けた。
「あ、そういえば僕、典子先輩に、もっと練習に出てきたらどうですかって言いましたよ」
「え、ホントに?」
「典子先輩に訊いてもらってもいいですよ。覚えてないかもしれないですけど」
そう言ったはずなのに、典子はそれ以来、来なかった。気持ちをこめて伝えたつもりの自分の言葉を思い出し、良貴は淋しさを感じた。
「えっ、そうなの?」
弘志は嬉しそうな声を出した。良貴は弘志に安心してほしくてさらに続けた。
「バック転が重くなってたから、もっと練習に出てきた方がいいって言いました。練習で補助したときに…」
「なんだ、そうなんだ。良かった、とりあえずおまえはそういう風に思っててくれて~」
弘志のうれしそうなその言い方は、典子にそっくりだった。わずかにクスッと笑った良貴だったが、すぐに弘志の言葉の含みに気づき、反応した。
「なんですか、とりあえず僕はって」
「…いや、まあ、別に本人に聞いたわけじゃないんだけどさ、…典子が、なんか自分が体操部の迷惑になってるんじゃないかって思ってるみたいで、気になってさ。まあ、別に典子が部活に行かなくてもいいから、いいんだけど」
「え、なんでそういう話になるんですか?」
「いや、現役生の邪魔するな、みたいなことを言ったの言わないので、ちょっとな、って」
「…なんでそんな話になったんですか?」
「いや、うーん、いや、えーと、どうしようかな~。なんかこれ以上話すのはさ、典子の仕返しみたいな気がして、男のやることじゃないような気もするんだけどさ~」
「でも、典子先輩がそれで部活に来ないわけですよね。それなら…」
良貴は自分の感情が上滑りしないように一生懸命気をつけて言った。「もっと来てほしい」と言った途端に典子が来なくなったのは、あるいは自分の抱いている微妙な好意が伝わったのではないかと焦ったりもしたし、来なくなったのはつまり、それが迷惑だったのではないかと気に病んでもいた。自分のせいでないならある意味ホッとしたし、それならなお、放っておけなかった。
渋る弘志に、良貴は強い口調で言った。
「僕は弘志先輩と、それからある程度は典子先輩とも親しいつもりでいますし…それに、部長としても、先輩方に失礼があったら放っておくわけにいかないですよ。教えてください。ちゃんと、誰にも角が立たないように解決しますから」
結局、弘志も話したかったので、渋々口を開いた。
「…おまえが典子の練習手伝ってたのを、『引退した3年生が現役の部員に練習を手伝わせるのはどうなのか』って典子に食ってかかったのがいたらしくてな。須藤がそれを聞いてたって言うから…」
良貴は即座に千江美だと思った。でも、根拠のない疑いはかけるべきじゃないと思ってその場ではそれを振り払った。
「そんなの、でも、僕は自分から典子先輩に補助しますって言ったんですよ」
「だから、そんなことはどうでもいいんだろ。要は、おまえが典子と仲良くしてるのが気に入らないんだと思うよ。ってま、これはただの須藤の憶測だけどな」
良貴は、やっぱり千江美なのだろうと思った。そして、典子の寄せる好意と千江美の寄せる好意の違いに戸惑った。千江美のストレートすぎる好意には他人への棘があって、困惑はするが、その熱意をうれしく思う感情があることは否めない。一方で、典子が向けてくる棘のない好意は、その分恋愛感情から遠いように感じてしまう。
良貴は、その夜なんとなく眠れなかった。千江美の棘のある好意よりも、典子の棘のない好意が胸に痛かった。
良貴は弘志に、次の部活の日には来ないよう頼んでおいた。結果として3年生やOBが誰も来ていない現役生だけのミーティングで、良貴はこんな風に切り出した。
「引退した3年生やOBに対して、部員の間でちょっと認識がずれているみたいなんで、もう一度確認しておきたいと思います」
良貴は一度言葉を切って部員を見回し、いつものように穏やかに続けた。
「僕は、この部活について、試合の結果や点数なんかより、みんなが楽しく体操ができることを第一にしているアットホームなところだと思っています。でも、それは僕がそう思っているだけかもしれないし、今後のあり方はまた別にみんなで決めることだと思います。今日はたまたま1、2年生しかいないので、いい機会だから意見を聞きたいんですが…」
部員たちは、思いがけない真面目な話題にあっけにとられた。
「其田、別に、いいじゃん今までどおりで」
「え、なんかあったの?」
2年の部員たちは不思議そうに言った。美恵子は良貴が言っている意味に気付いた。
良貴は努めて冷静に言った。
「みんなわかると思うけど、体操部は練習の器具が限られてるから、練習する人数が増えると待ち時間が出ます。要するに、3年生やOBが鉄棒やマット、吊り輪、平均台なんかを使うとその分回転が悪くなるのは確かで、それが気になる人がいるみたいかな…っていうことです。今までどおりでいいならいいんです」
実際にそう言い終わってみて、良貴は内心で不安に苛まれた。もしも部員たちが3年生やOBに器具を使わせないと結論したら、結果的には典子だけでなく、弘志も追い出すことになる。ごくまれに来る3年生や、時々やってくるOBの居心地も悪くなる。
真っ先に、千江美が手を上げた。良貴はそんな意気揚揚とした態度を見て、わずかに頭に血が上ったが、静かに、
「俵田さん」
と千江美に発言を促した。
「あのう、私たち、遊びにきてるつもりはないんで、やるからには頑張りたいと思うんですけど。誰か上の人が来て平均台とかのぼってると誰も使えないし、その辺はやっぱ、引退とか卒業とかした人には、気を遣ってほしいと思うんですけど」
平均台は典子の居場所であることが多かった。良貴は、典子を追い詰めた事件の証拠を見たと思った。わいてくる怒りをぐっと飲み込んで、
「他に、意見はないですか」
と言った。千江美の鼻息が荒かったので、1年生の女子はこれ以上波風を立てまいと萎縮していた。2年生の男子が横目で千江美をしばらく見ていたが、やがてお互いに視線を交わして無言の意見交換をし合い、一人が手を挙げた。
「2年生だってまだ体操を1年しかやってない新人じゃん。其田みたいに本格的にやってたヤツなんてほとんどいないじゃん。3年生とか、OBが教えにきてくれてやっとサマになってるとことかあると思うんだけど…」
其田が指す前に次の2年男子から発言が飛んだ。
「それから、平均台とか言ってたけど、女子、いっつも高い方の平均台使ってないじゃん。なんでそういうときだけ騒ぐわけ?」
2年生の女子が応戦した。
「ちょっと、別に私たちは3年生に平均台使うななんて言ってないよ」
千江美は自分の旗色が悪くなってきたのを感じて、かえって険しい顔で先輩たちをにらみ返した。良貴は思いがけず皆が感情的になってきたので、焦って、
「ちょっと待ってよ、だから、今の話でもわかったとおり、3年生やOBに対しての認識がみんなで違ってるから、ちゃんとまとめようと思ってるんだけど」
と制した。
「何、1年女子は3年生とかOBとか、来てほしくないと思ってるわけ?」
副部長の吉田が単刀直入に訊いた。1年女子の一人が慌てて、
「え、なんで1年女子なんですか」
と言葉を返した。
「だって、2年生はみんな、別に、3年の先輩とか来るのはむしろ歓迎してるんだけど。ウチってそういうとこだと思ってたし」
吉田が言うと、OBの滝野川の彼女として黙っていられなかったのか、谷口緑も
「なんかいろいろ教わる身分なのに、OBとかは教えるだけ教えれば後は立ってろとか言うわけ? いいじゃん、上の人の練習とかだって、見て参考になるんだし」
と言った。美恵子ものどまで言葉が出かかったが、弘志の彼女で典子の親友である自分が何か言うとそれは単なる感情論になる気がして口をつぐんだ。
「あの、1年男子は?」
思いがけず対立の様相が濃くなってきて、良貴は冷や汗をかいた。自分が部長として話し合いを始めたというよりは、幾分典子への感情が先走っていたことは否めない。
「俺は、3年生とか来てほしいですよ」
「俺も、いてくれたほうがいいと思います」
「あの、女子の補助も男子の補助も男子がやるじゃないですか。でも、それはどっちが得とか、練習の妨げとか、そういうのじゃなくて、危ないから男子がやろうよってだけで、そういう風にみんなでやれればいいと思うんですけど。自分の練習ばっかりやろうって思うんだったら、金払って習ったらいいし。ここって、単なる部活じゃないですか」
1年生の男の子たちは滝野川や弘志になついていた。わざわざそんな親しい先輩たちを排除しようとする意見はなかった。
ますます険しい顔になった千江美の背後から、
「あの、私は別に、先輩方が来るのは反対じゃないんですけど…」
と小さな声がした。弘志に好意を寄せている朝川リエだった。千江美としては、要は典子は来てほしくないのに弘志が来るのは構わないわけで、正義の行使のつもりが実はそうでないことに自分で気付き、この場をどう収めようか焦りはじめた。
美恵子はそっと手を挙げた。
「あの、いいですか?」
良貴はちょっとホッとしながら、
「須藤さん、どうぞ」
と指した。美恵子なら味方に違いなかった。
美恵子は一瞬だけ冷たい目を千江美に投げてから、控えめな声色で言った。
「あの、思うんですけど…、今、運営の中心になってるのって私たち2年生ですよね。それで、私たちの代が3年生とかOBとか、普通に来て今までどおりに一緒にやりたいと思ってるんだから、今年はこれでいいんじゃないでしょうか…。それで、もし、1年生の人たちが3年生とかOBが来るのが嫌なら、来年の3年生から、つまり私たちの代からは3年で引退して一切部活に出ないようにすればいいんじゃないですか?」
千江美の表情が凍った。美恵子は続けた。
「その辺は、1年生が来年2年になったときに決めてくれればいいと思います。部長、そうしたらどうですか?」
良貴は美恵子の提案に内心で思わず苦笑した。
(女って、怖いな…)
つまり、美恵子の折衷案で千江美の主張を実行すると、弘志と典子は卒業までめいっぱい来られるが、良貴は3年生になる来年からもう部活に来られない。千江美にとって、見事な返り討ちになる。美恵子は千江美に致命傷を与えると、まるで内気な少女のようにそっとうつむいた。でも、その可憐な印象がなおさら良貴には底の深い怖さになって映った。
千江美は何か言いたそうにしていたが、まったく言葉が出てこないようだった。2年生の男子が拍手の手まねをして、
「それでいいんじゃん? 今年の執行部の方針としては今のまま楽しくやろうよってことで。来年は来年の執行部が決める。俺、須藤さんに賛成」
と言った。良貴が、
「他の人は…」
と控えめに言うと、部員たちは口々に「さんせーい、早く帰ろー」「元々、別にこのままでいいし~」と言った。今まで誰が来るとか来ないとか、そんなことでもめたことはなかった。話し合いをする理由もないと思っている部員が多かった。
良貴は収拾がついてホッとした。そして、千江美を見ないようにしてその場を締めた。
「じゃあ、今年は、3年生や、OBさんたちが来ても、遠慮なくみんなと一緒に練習をやってもらっていいという方向でいきます。来年のことは、来年また決まるでしょう。今日の練習は、これで終わります。来月から夏休みで、合宿もあるので、部活の黒板は注意して見てください」
そしていつもの円陣を組んで解散した。良貴はなんとかおさまったとホッとしていたが、千江美は真っ赤な顔をしてひと言も口をきかず、ちっともおさまりがついていなかった。
「なんなの、江藤典子、ムカツク。私には謝るそぶり見せて、絶対其田先輩に密告ってるよ。それか絶対、江藤先輩とか通して裏で手回してるよ。須藤先輩とかもからんで、私を陥れる手段を考えてたんだよ。そうじゃなきゃ、其田先輩があんな話し合い始めるわけないじゃん。其田先輩は部長だからあんな役やらされて、かわいそうだよ。人を利用すんなよ。ほんとムカツク」
千江美は帰り道で1年女子を相手にひとりまくし立てていたが、他の子達はそれどころではなかった。
「夏合宿で、なにか事件が起きないかな」
「江藤先輩が合宿に出てくるかどうか、それによって私もどうしようかな」
一年生たちにとって、初めての夏合宿。その戦略についていろいろと話し合っていた。