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4 引退と困惑


 美恵子は翌日、早速昼休みに典子の教室を訪ねた。

「典ちゃん、帰り、一緒に帰らない?」

 そうして約束を取り付け、美恵子はいそいそと教室に戻っていった。典子は「なにかあったのかな」といろいろ考えてみた。心当たりは、昨日弘志が出かけて行ったことくらいだ。弘志は美恵子に会いに出かけたのかな…と思った。

 果たしてそのとおりだった。

「あのね、昨日、江藤先輩と会ってね、…それで、…つきあってくれるって」

 美恵子は最高に綺麗な笑顔で典子に報告した。高校を出て駅までの道のりを、典子は元気よく、美恵子はしずしずと歩く。典子は隣を歩く美恵子の顔を覗き込んだ。

「えー!! マジで?」

「うん、あのね、でも、条件はついてるんだけど」

「条件?」

「あのね、私のこと、好きじゃないんだって」

「なあああにい? そういうのってアリ? なんなの?」

 典子は美恵子につかみかからんばかりに驚いた。典子は立ち止まり、美恵子は少し先まで行って止まり、思い直したように典子が歩き出し、二人はまた、並んで歩いた。

「だからね、それでもよければつきあおうって。私のこと、一番好きだけど、それが恋愛感情かどうかはわからないんだって。で、あらかじめちゃんと言ってくれて、私につきあうか決めろって。少し残念だけど、私を選んでくれたことにはかわりないでしょ?」

 典子は弘志に呆れて言葉を失った。

「典ちゃん、いいじゃない。江藤先輩はちゃんと考えてくれたんだって思ったよ。正直に『好きじゃないけどつきあおう』なんて、なかなか言えないよ」

「普通言えないよ、そんな失礼なこと」

 美恵子のうっとりしたまなざしを見て、典子は反論をあきらめた。

「でも、よかったね。好きな人とつきあえるのって、ホントに嬉しいんだろうねえ」

 典子は良貴の姿を思い浮かべながら言った。その顔色を見て、美恵子は、

「…典ちゃんは、好きな人はいないの?」

 と訊いた。典子は静かに、

「うん、いないよ」

 と答えた。

(美恵ちゃんが弘志を好きになってから、2年か。私は…2年間も想ってたら、卒業しちゃうよ)

 美恵子は弘志を追いかけてこの高校に入ってきたが、自分は良貴の入る大学を追って入ることはできない。急に淋しそうな顔で黙った典子の態度は、美恵子が初めて見るものだった。美恵子は、典子のまぶたに誰がうつっているのかをそっとのぞき込み、たぶん良貴なのだろうと思ったが、黙っていた。

 美恵子と弘志が先日別れた交差点で、典子と美恵子は別れた。軽やかな足取りで帰っていく美恵子を振り返り、典子はその背中をぼうっと、いつまでも眺めていた。


 苦手科目の試験のノートを見せろと言って、聡史が典子の家にやってきた。

「私、字汚ないって言ったじゃん。見て、読めないとか文句言わないでよねー」

「言わんよ。俺のクラスの受け持ちの先生、教え方がヘタやから、他の先生のクラスのノート見た方がいいと思って」

 聡史は典子の部屋で小さなテーブルを借りて盛大にノートを広げ、勉強を始めた。

「私、何してたらいいわけ?」

「おまえも勉強くらいせえよ。試験近いのは同じやろ」

 そう言われ、仕方がないから、典子も自分の学習机に向かって勉強を始めた。

「まだそんな小学生みたいな学習机使ってんの」

「ものもち、いいのよ」

「おまえとこの兄ちゃんも、学習机なの?」

「弘志は中学くらいでなんかかっこいい黒と銀のサイバーな机、買ってもらってたよ」

「おまえも乙女ちっくな白地に花柄とかの机、買えば」

「やだよそんなの。これで十分だよ」

「そういや、ぬいぐるみとかも全然ないのな。むさくるしい部屋」

 結局、二人はなにかとしゃべってしまって、勉強ははかどらなかった。

「そろそろ、俺帰るワ。このノート、2、3日貸して」

「なによ、だったら初めからそうすればよかったじゃない」

「それは結果論や。おまえの字が汚なくて読めんかったら、その場で訊かな、いかんやん」

「しっつれいね」

 2人が典子の部屋を出ると、弘志とハチ合わせた。

「あ、どーも」

 聡史は会釈した。弘志も渋々、

「どーも」

 と言った。

「そんじゃあねー」

聡史を見送る典子の声に、弘志は心の中で言葉を投げた。

(…やっぱアイツ、おまえに惚れてないか?)

 こんな光景は、典子が聡史と親しくなってから、時々繰り返されていた。


 弘志は美恵子と2、3週間に1度くらい出歩いた。でも、恋人同士らしい長電話もなければ学校で一緒にいることも一切なかったし、つきあっていることは誰にも言わないことになっていた。「部長だし、なんかやりにくいじゃん」と弘志は言ったが、実のところ、他の女の子達に人気がなくなるのが嫌だった。

 美恵子は一生懸命弘志に好意を持ってもらおうと努力した。弘志からの連絡をおとなしく待ち、誘ってもらえたら最高におしゃれをして出かけていった。でも、美恵子が努力しても、弘志の態度はあまり変わらなかった。たまたま部活の延長線上で2人っきりになったような、ちょっと淋しいつきあいが続いた。

 その後、弘志も美恵子も、典子も良貴も、すべての状況が変わらないまま、冬は過ぎていった。

 弘志は、美恵子と向かい合うとどぎまぎしたし、「自分から」というのがはばかられ、手を握る程度のこともできなかった。好意を示してしまうのが怖かった。

 美恵子は必死で弘志を追いかけていた。弘志の戸惑いには全く気付いていなかった。相思相愛の真の恋人同士を目指して、美恵子はひたむきに弘志を想っていた。

 典子はやっぱり良貴に冗談めかして好意を伝え、その分の自己嫌悪を育てていた。好きな人を訊かれればいないと答えた。聡史とはいい友人を続けていた。

 良貴は自分の気持ちを打ち消し、打ち消ししながらもやっぱり典子が気になっていた。好意をこめた言葉を投げられると嬉しかったが、典子の気持ちを量りかね、わずかに揺れる自分の気持ちが何なのかを量りかねていた。

 状況が動き始めるのは、4月、学年が変わってからだった。


 4月、弘志と典子は3年生になった。体操部は3年生になると受験のために引退する。もちろんそれは「決まり」ではないので、出たい人は出てくる。でも、大概の人が3年生になるとインスタントに引退した。

 同時に良貴と美恵子は2年生になり、良貴は弘志の後を継いで部長になった。あまり人をまとめたり号令をかけたりするタイプではないのだが、ダントツの実力があるために、バランス的にそうなった。副部長は同じく男子がやることになり、典子は良貴の補佐に女の子がつかなかったので心からホッとした。

 けれど、体操部には新入生の女の子が大勢入部してきた。

(其田くんって、年下の女の子好きかな…)

 典子は自分が体操部を引退する立場なのが悔しかった。自分の知らない体操部で、良貴のことを好きになる子が現れることを恐れ、良貴に好きな子ができることを恐れた。部長なので良貴は目立つようになったし、後輩の面倒もよく見ていた。典子は体操部を去ることがどうしてもできなかった。

 4月、もう引退しようと思いながら、典子は毎回練習に出ていた。そして、更衣室で新入生たちが「其田先輩って、カワイイ割にすっごい上手いよね」などと言っているのを背中で聞いて、ひっそりと傷ついていた。

 典子にとって頼みの綱は、弘志だった。典子につきあって体操部にまめに顔を出していた弘志を、後輩たちは「前の部長、かっこよくない?」などと話していた。体操部には「江藤先輩」が二人いるので、2年生は「弘志先輩」「典子先輩」で呼び分けていたが、1年女子たちは「江藤先輩」と「典子先輩」と呼び分けた。

「典子先輩、江藤先輩って彼女いるんですか~?」

 そんな風に1年生に訊かれると、典子は、

「うーん、どうなんだろ。そういう話って、しないからなー」

 と答えた。美恵子に「秘密にして」と頼まれていただけでなく、弘志に注目が集まっていれば良貴を好きになる子は出てこないかもしれないという思惑があった。

「おまえ、引退しないの?」

 弘志に訊かれると、典子は迷いながらも、

「えー、どうせウチの高校、浪人する人も多いじゃん。やめたら太っちゃうよ」

 と答えた。4月は引退気分だった弘志も、だんだん受験勉強から逃避したくなって体操部への出席率が上がってきた。なし崩し的に、江藤兄妹は体操部に残ってしまった。


 そして、早速春の競技会のメンバーを決める時期になった。

「まず、男子は、其田だろ」

 まずそれが前提で、それから話し合いが始まった。1年生たちは良貴の実力をなんとなく感じていたが、初めて明確に格が違うのだということを知った。女の子たちが良貴のことをひそひそ言っているのを、典子は胸が切り裂かれるような気持ちで聞いていた。けれど隠居部員の見物というのんびりした態度を演じるしかなかった。

 話し合いが終わって練習に入ると、典子は真っ先に良貴に声をかけに行った。

「其田くん、今度は選手だね。去年は残念だったもんね。頑張って」

 いつものように声をかけてきた典子に、良貴はホッとした。典子の好意はいつ尽きるとも知れない冗談にしか見えなかったから、引退する立場になったらもう自分を評価してくれなくなるかもしれない…と残念に思っていた。

「典子先輩は、引退しないんですか?」

 良貴は何の気なしに訊いた。典子は貫くような痛みを心に感じた。

「…引退した方がいいかな、やっぱ」

 良貴に会いに来ているだけの自分を知っていたし、そのことを後ろめたく思っていた。

「あ、別に、そういう意味で言ったわけじゃ…」

 慌てて良貴は言ったが、典子の気持ちは晴れなかった。

「…そうだよね。春の大会終わったら、引退しようかな」

 立ち去る典子の背中に、良貴は心の中で一生懸命言葉を投げかけていた。

(少なくとも僕は、先輩に、まだ来ていてほしいと思ってます)

 いつも満面の笑顔で駆け寄ってきてくる女の子は可愛かった。年上の女性に対して「可愛い」なんて傲慢かなとも思ったが、良貴にはそう感じられた。

(でも、典子先輩にしてみれば、僕なんて男としては頼りにならないカワイイ年下の「男の子」にすぎないんだろうな…)

 だから恋をしても仕方がないし、そういう気持ちとは違うんだと良貴は思った。

(弘志先輩と一緒に、典子先輩を優しく見守っていられれば)

 甘ったれでどこかふわふわした典子に喜んでもらえる存在でいたいと思った。引退なんてしないでほしかった。弘志がいて、典子がいて、そして典子が輝く瞳で自分を見つめていてくれる、そんななんでもない時間がいつまでも続いてほしかった。


 春の大会は、良貴が8点台の演技を連発して周りを驚かせた。千加川高校が参加する地元の大会は、6点台が出れば高得点だというのに、明らかに一人だけ、レベルを間違えていた。

典子は弘志と一緒に大会についてきて、「今回が最後」と思って一生懸命良貴のそばにいた。幸い、弘志がずっと良貴といたので、2人の(本当は良貴の)周りを典子がちょろちょろしていても全く違和感がなかった。

 演技が終わるたびに、典子はタオルを持って良貴を出迎えた。

「おつかれさまあ。こういうの、青春スポ根ドラマみたい、ってスポ根とか死語じゃん」

 典子はおちゃらけて笑った。良貴は受け身なふりを装いながら、自分だけがこんな風に女の子に出迎えられることをひっそりと喜んでいた。

「典子先輩、其田だけひいきしないでくださいよー」

「え、ダメダメ、私、其田くんファンクラブNo.1だもん。ひいきするもん」

 他の部員たちとの間にそんなやりとりが気軽に飛び交い、典子の良貴びいきは、半ば体操部のお決まりの冗談みたいになってしまっていた。それを恋愛とかんぐられることはなかった。学園祭の舞台で花束を持ってきた聡史のことを、部員たちは陰で「典子先輩って、彼氏みたいな人がいるんでしょ?」というように認識していた。

 春の大会の総合順位で、千加川高校男子チームは3位に入った。6点台で御の字のところ、8点台がいくつも交じれば当然の結果だった。帰りの荷物には、小さな銅メダルとトロフィーが増えていた。

「其田先輩、すっごーい」

「なんか、こんなとこで体操やってるの、もったいないよね」

 1年生の女の子たちは、大会の帰り道、良貴のことをずっと噂していた。典子は笑顔を保つのが精一杯だった。

(…そうだよね、私はもう、この大会が終わったら引退するんだもん、元から、其田くんと同じ世界にはいられないんだ…)

 良貴の耳にも、女の子たちの声は聞こえていた。それでも、自分が出せるのがせいぜい8点台なのがくやしかった。あん馬と跳馬は7点台だった。オリンピックを狙うレベルではないし、もっとハイレベルな大会だったら8点が出たかわからない。

「其田くん、大人気だね~。1年の女の子、騒いでるじゃ~ん」

 典子が隣に来て言った。良貴が顔を上げると、典子はいつもの笑顔ではなく、目を伏せていた。

「もう、私の居場所なんか、ないね」

 そう言い残して、典子はさっと良貴の隣を離れた。良貴はほんの少しだけ顔を典子の去った方に向けたが、そのまま前に向き直った。

(…そんなこと…)

 良貴は典子の淋しそうな声に胸を痛めた。部長だ選手だと注目するのでなく、ただの部員で、ただの後輩のうちから、典子だけは気にかけて、評価してくれた。この部活での居心地を良くしてくれたのは典子だし、1年生が何を言おうと、自分の周りに典子の居場所がなくなるなんてことはない。

 そして、良貴は、打ち消しても打ち消しても湧いてくる思いを持て余していた。

(…なんで1年生に、そんな風に妬くんですか? どうしてそんな顔をするんですか?)

 典子の横顔が良貴の心に焼きついて離れなかった。大会の後、典子は練習に来なくなった。良貴の心の中からは、ぽっかりと何か、大きなものが抜け落ちていた。


「あの、江藤先輩」

 デートの別れ際、いつもの分かれ道で、美恵子は思いつめた顔で言った。

「何?」

「あの、こんなこと言って、変な奴だって思わないでください。…あの…、つきあう前に、1度キスしてくれたのに…どうして、つきあい始めてからは…してくれないんですか?」

「え? いや、別に…」

 弘志は戸惑った。2人っきりの世界で向かい合うと、美恵子はひたむきすぎて、それから綺麗すぎた。そして、一生懸命な想いがどこかプレッシャーでもあった。ずっと何かを投げかけられているような気がした。

「…私…、質問してるんじゃないんです。返事をしてほしいんじゃないんです。…キスしてほしいんです」

 美恵子はうつむいて告白した。けれど、弘志は肝試しのときにしたようには気楽に美恵子に腕を回すことができなかった。道を歩いている見知らぬお姉ちゃんにいきなりキスをしろと言われる方がずっと気が楽だった。

 弘志は息を飲んでドギマギしている自分が不思議だった。美恵子に近づくと緊張した。弘志は美恵子の唇に触れることができずに、額に軽くキスをした。

「…先輩、…それだけじゃ嫌…」

 美恵子の細い声に息が止まるような感覚に陥って、弘志は慌てて、

「今度なー」

 と言って美恵子に背中を向け、手を振った。

「…江藤先輩…」

 美恵子はその背中に切ない声を投げかけ、つれない態度にため息をついた。

 弘志は、一体自分に何が起きているのかはかりかねていた。こんなはずではなかった。美恵子は妹の親友で、自分に惚れ込んでいる、勝手知ったる女の子のはずだった。なのに、弘志は美恵子を「彼女」という立場にした途端に、違う世界に迷い込んでしまった。二人きりで立っている広い広い空間で見る美恵子の姿は、弘志にはまぶしかった。そんな自分を一生懸命止めて、主導権を必死で維持しようとしていた。

 弘志は、恋をしているのではないんだと、この戸惑いは錯覚だと、自分に言い聞かせるのが精一杯だった。

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