32 帰り着く処
美恵子と会って帰宅した直後に弘志から電話があったので、良貴はかなり肝が冷えた。幸い、弘志の態度はいつもと同じだった。
「俺、おまえに報告があるんだけどさ~。明日何限まで?」
互いに4限までだったので、夕方に大学で落ち合った。弘志の買い物につきあったり本屋に行ったりしてから飲みに行った。
「其田、実は、…悪ィ。俺、去年の年末からちゃんと美恵子とつきあってるんだ。だから、燕さんに関しては、手引くわ。ホントはすぐに言うべきだったんだろうけど、なんか、おまえにいろいろ言った後にすぐは、『やっぱいいや』とか言えなくて」
美恵子から聞いてはいたが、良貴は本人からの報告として別途丁寧に聞いた。
「…そうなんですか」
「あんまり驚かないな」
「僕はあんまり顔に出る方じゃないから。でも、良かったですね。須藤さんと、今まで他人だなんて言ってたことのほうが、僕にとっては不思議ですよ」
弘志は幾分困った顔ではははと笑い、話題をそらした。
「そーいえばおまえ、美恵子と、うちの大学でデートしてたんだって?」
「ああ、…電話で珍しく話してたら、会って話そうってことになったんで」
良貴はあの時の話題が話題だったのでいくばくか動揺した。弘志の態度で美恵子が余計なことをしゃべっていないとわかるのだが、やっぱり平静ではいられなかった。
「美恵子がそんとき言ったのか、俺とつきあってるって」
「そんなようなことは、言ってましたけど」
良貴はあいまいな言い方をした。お互いに、どこでどう知ったとかはあまり気にしないタチだとわかっていた。
「実はさ、まだ燕さんと電話で話したりするんだよな。かかってくる分には普通にとってんの。そしたらこの前、おまえが綺麗な子と歩いてたけど、誰だって言うからびっくりしたよ。俺も何事かと思って、どんな子~って特徴訊いてみたら、絶対にそれ、美恵子なんだよな。で、訊いてみたら、当人がそうだって言うから。おまえら、何やってんの。俺、大学で美恵子見つけても、他人のフリするぞ」
良貴は思わず小さな微笑みを浮かべた。
「先輩がそんなだから、僕が須藤さんを案内したんです。須藤さん、弘志先輩が毎日通ってるところだから、見てるだけで嬉しいみたいでしたよ」
「あ、そ、…変な奴でゴメンな」
「いえ、僕のほうも楽しかったですよ。須藤さんはホントに、綺麗な人ですね。素直で、ひたむきで、素敵な女性です」
「ちょっと怒りっぽいけどな」
弘志は微妙に照れているらしかった。良貴は遠くて懐かしい目で弘志を見た。典子に似た目のラインがなんだか切なかった。
「…まあ、それで、…おまえはどうすんの」
弘志はおもむろに言った。
「どうって…」
良貴は焦った。典子のことを訊かれたのかと思った。
「燕さんのこと、どうすんだよ。俺、自分の報告もだけど、それを訊きたくて今日おまえとここに来たんだよ。おせっかいだなんて思うなよ」
「…おせっかいなんて、僕はあんまり人に影響される方じゃないから、構わないですよ。何を言われたって、納得いかなければ聞き流すだけだし」
遥に対する答えはもう決めていた。弘志が今何を言っても変わらないだろう。
「ホント、おまえってなんかつまんないというか冷たいというか、やなヤツ。たまには動転したり騒いだりハメ外したり、しろよ」
「けっこうしてますよ」
「どこがだよ。美恵子も言ってたゼ、ポーカーフェイスで顔色ひとつ変えないって」
「そりゃあ、どうも」
美恵子と先日話をしたときには相当動揺したのにと思い、良貴は苦笑した。
「…まあ、そんなわけで、俺は手を引くんだけどさ。おまえはどうするんだ? そもそも、今、どういう関係なんだ?」
「どうって? …何度か会ってますよ。でもそれだけです。友人ですよ、相変わらず」
友人という言葉は複雑すぎて手に負えない。良貴はいろいろな感情を飲み込むためにビールを口にした。
「…なあ、燕さんはおまえのこと、結構気になってるんじゃない?」
「はい? …いえ、全然そうは見えませんけど」
確かに昔より積極的になってくれたが、それが好意なのか悪意なのかはわからない。
「おまえが美恵子と歩いてるの見て、気になってたみたいだよ。今まで俺におまえの話することなんかほとんどなかったのに、あれこれ訊いてた。まあ、大概わからないでごまかしたけどね。俺の彼女だから関係ないだろうとは言えないし」
「言えないんですか?」
「結局彼女にはつきあおうとか親しくなろうとか言われたわけでもないしさ。いちいちまだ関係あるとかもう関係ないとか、いいでしょ」
「…そうですね、何も決定的なことってないですもんね。先輩とも、僕とも…」
そう、そういう子だ、と良貴は思った。弘志とも良貴とも恋愛で、そしてどっちとも恋愛ではない。
弘志はいささか真面目すぎる表情で訊いた。
「おまえの方はどうなのよ。好きなんだろ? まだ」
美恵子には答えられなかったけれど、弘志には答えられる。良貴はあきらめ気分で口を開いた。
「…実は僕もわからないんです、そのへん…。僕と彼女は生きている世界が違うような気がして。彼女は友人としてはすごく刺激的なんだけど、恋人にするには信じられないんじゃないかって思って」
「なんだ、そうなのか…。俺…燕さんはおまえに合わないと思ってたんだよ。別に誰が誰と恋愛しようが勝手なんだけどさ。でも、おまえが自分でその答えにたどり着いたんだったらホッとしたよ。ずっと気にかかってたことがあってさ。俺の恥でもあるんだけど」
弘志は声音が重くならないように気をつけながら、でも軽くなりすぎないように言った。
「俺、彼女の部屋に行ったんだよ。泊まっていけって言われた。『帰るつもりなんですか?』…だって、さ」
「…え、それじゃ…」
弘志を信じている美恵子の強い瞳が、良貴のまぶたの裏で揺れた。そして、自分と遥のことでなく、すでに美恵子と弘志のことを気にしている自分にも気がついた。
「あ、それはね、何も…いや、大したことはしてないんだ。ちょうどそこに美恵子から電話かかって来ちゃってさ。俺、須藤美恵子って文字見た途端に帰りたくなっちゃって…、ホントに帰った。友達に車で来てもらって」
「そうなんですか…」
弘志が遥の部屋に行くほど親しくなっていたことには驚いたが、遥に対してはもう驚かなかった。「体を張って」…美恵子の言っていたとおりだ。そして、美恵子の名前を見てその場で帰ることができる弘志のことを、むしろ「いい男」だと思った。
弘志は、据え膳を食わなかった男の決まり悪さをにじませながら続けた。
「俺も男としていろんな意味でダメだけどさ、カレシ未満の男を引っ張り込んで泊めるなんて、…俺は好きじゃないな。まあ、のこのこ行った自分を棚に上げて、ナンだけど」
でも、その事実が問題なんじゃない。遥にとってはそういう恋愛もアリで、そういう価値観を弘志も良貴も共有できないことが問題だ。
「それと…彼女の、『いろんなことを知りたい』っていう話、俺も聞いた。でも思ったんだよ、だったらネットで調べれば? って。彼女は疑問をもつのと、それを人に語って聞かせるのが好きなんだと思う。まあ、それが悪いとは言わないけど。彼女、オヤジさんが植物学者だとか言って、面白い話知ってたよ。でも、忙しくて好きな植物を育ててる時間なんて取れないみたいでさ。それでふと、おまえのことを思った。むやみによそ見して、忙しく生きるのって…おまえらしいのかなって。ないものを探して歩いて、これもない、あれもないってやってて、息苦しくない? いろんな可能性を知りたいって、燕さんの言ってたことはわかるけど…大切なものを大切にしながらでも、それ、できるじゃん」
困ったな、と良貴は思った。弘志の瞳は典子の瞳に似すぎている。
「弘志先輩は、不思議な人ですね」
遠い昔に一度言ったことがあるなと思いながら良貴は言った。
「先輩は僕なんかよりずっと真面目だし…人を見る目をもってて、いいなって思います」
「なんだよ、変なヤツだな~」
良貴は典子そっくりの目から視線を外したまま微笑んだ。
「弘志先輩には、僕は、勝てそうにないです」
そう言ってしまうと、すっとした。そして一言だけ付け加えた。
「…体操だけは別ですけどね」
なんだか笑いがこみ上げてきた。もちろん他の知識だって経験だっていくらでも探したい。でも、帰り着く処があるっていうのはなんて安心できるんだろう。
『大切なものを大切にしながらでも、それ、できるじゃん』
そのとおりだった。飢えて、焦って、結局何を追いかけていたんだろう。弘志の瞳の向こうに典子がいる。格好がつくとかつかないとか、そういう気持ちを別にしたら、自分は今何を求めているんだろう。
「なあ、其田」
弘志は気後れしつつ口を開いた。
「おまえ、おせっかいは構わないって言ったろ。一応、聞いてくれない?」
「…何ですか?」
「なんか、こんなこと言ったらかえっておまえが意地になっちゃいそうな気がするんだけどさ。…典子のこと、もう一度頼めないかな」
良貴にしてみれば、予想どおりの言葉だった。いつかは言われるような気がしていた。
「もう、おまえは高校時代を卒業しちゃったのかもしれないけど、…典子をもう一回、恋愛の対象に入れてくれないかな。おまえって、別れたから、もう何が何でもダメって思ってる気がしてさ」
思っていた気がする。…多分、抱いてしまうまでは。
触れて知ったのは、典子がそこにいるという果てしない安心感。理性の領域がカラッポになって、もっと深い、根本的なところで感じる温かさ、優しさ、幸福…満たされているという感覚。
でも、そういう気持ちに自分で気付いたからこそ、弘志に返せる言葉は決まっていた。
「そういう風に、思ってるかもしれませんね。でも僕は僕なりに、考えてることだってあります。僕は、燕さんときちんとケリをつけたわけでもないし、典子…先輩が僕にもう一度つきあってくれって言ってきたわけでもないし、『カノジョが欲しい』って飢えてるわけじゃないですから。昔はよかった、だから昔に戻れれば幸せだろう、っていうのは間違ってませんか? 弘志先輩が須藤さんとやり直せたのは、昔と変われたからじゃないんですか? 僕は、昔に戻る気はないですよ」
やり直すなら、もう泣かせたくはない。「戻る」のは妥協だし、典子に対しても不誠実な気がした。
弘志は目を閉じてふうっと息をついた。
「…俺も相当カッコつけだけど、おまえはその上をいってるよ。人生、もっと簡単なものだと思うんだけどね…ま、典子はそういうおまえがいいって言うんだろうけどさ」
良貴も自分の融通のきかなさはわかっていた。でもきっと、典子ならそれがいいと言ってくれるだろうと思うと、素直に自分を肯定できた。
黙った良貴の様子を見て、弘志は笑いをこらえていた。
(で、燕さんとケリをつけたらどうするの? 俺と美恵子のことを引き合いに出すのは、なんで? 典子をホントにもうなんとも思ってないなら、俺に言うことは全然違うんじゃない?)
弘志は、良貴の中にまだ残っている典子の姿を見つけた気がした。
美恵子はもう一度良貴に電話をかけた。
「…この前はゴメンね。一緒に帰ってくれてありがとう」
「あ、気にしてたの? 僕が勝手に先走って変な話をしたのがいけないんだし…かえって悪かったね」
良貴の大人びた言い方に、美恵子は「ホントに、可愛げがないんだから」と思った。美恵子はすでに弘志から、遥に対する今の良貴の気持ちを聞いていた。
(彼女に対して冷めてきてるなら、典ちゃんに対して責任をとりなさいよ)
心からの怒りとは違って、ややふてくされるような気持ちで美恵子は思った。典子が良貴と同じ気持ちでいるならそれでいいのだろう。でも、典子のためにはその先に進んでほしい。
それから、美恵子の中にちょっとだけ、良貴に魅力を感じる気持ちが芽生えていなくもなかった。それは弘志に仇なすものではなかったけれど、2人で歩いた時間は案外悪くなくて、美恵子に電話をかけさせた最後の一押しはその感情だった。
「ホントにゴメンね。折角、和佐田の中とか案内してくれたのに。でも…さ、私ひとつ、其田くんに提案があるの」
「え、何?」
「私、其田くんって燕さんのことちゃんとわかってないと思う。女の子って、女の子同士で話してるときは本音だけど、男の子の前では猫かぶるし。燕さんの本音、其田くんは知らなきゃいけないと思う。弘志先輩にアタックするなんて言ってたとき、燕さんは、其田くんのことどう思ってたの? 今は一体、何を考えてるの? 知りたくない?」
良貴は苦笑した。
「…知らないほうが幸せなんだろうね、多分」
「そんなのずるいよ。そんな人とのことで典ちゃんが傷つくなんて…」
「典子のことになると、必死だね。弘志先輩もそうだけど、須藤さんまで」
「だって、…もしかしたら、将来、典ちゃんって私の妹になるかもしれないじゃない」
美恵子は口をとがらせるようにして、わざと怒ったような口ぶりで言った。良貴は、電話の向こうの美恵子の表情を想像して笑った。
「ああ、そうだね。年上の妹か、彼女はホントに、そういうのが似合うね」
弘志が美恵子とこのまま結婚したら…そんな想像をめぐらせると、典子の隣には他の誰がいるのも違う気がした。次第に典子に向かって歩き始めている自分がいる。その事実に抗う力はどうやらないみたいだった。
「ねえ、提案、きいてよ。方法は教えるから。喫茶店で隣の席を取ればいいだけだもん。どうせ、盗み聞きなんて…とか言うんでしょ。でも、女の本音なんて美しくないんだから、人生勉強した方がいいわよ、其田くん」
でも、美恵子が知っていたのは、去年の、大学1年生の時の遥のスケジュールだけだった。それでも美恵子は、知っている限りのことを良貴に話した。
美恵子が語った「遥の定例報告会」がハッキリと「何曜日の何時」とわかっていたら、良貴もそんな気は起こさなかっただろう。でも、その喫茶店がまだ使われているのか、同じ日にたむろしているのかはすでにわからない。
(…例えば典子をその喫茶店に呼び出しても、燕さんが来るとは限らない)
いや、まず来ることはないだろう。良貴は自分にそう言い聞かせつつカレンダーを見て日時を決め、典子にメールを出した。今の典子の気持ちを知りたかった。美恵子からは何も聞けなかったので、会って話をしたかった。そして美恵子に聞いた遥の情報どおりにその場所に行くことで、何か一つの真実を見出せるような気がした。根拠はないけれど、そこに遥がかつて落としていった真実のかけらがあるように感じた。
典子は良貴の呼び出しどおりに来ると返事を寄越した。火曜日、去年遥たちがたむろしていた5限の後ではなくて、時間の都合の合う、4限の後。
良貴は自分が何をしようとしているのかよくわからなかった。典子と話したいなんて、一体何から話していいかわからないのに。どんな顔をして会えばいいかもわからないのに。美恵子の提案は、典子と会うことではなく、遥の普段の会話を聞くこと。辻褄が合わない。でも良貴は、美恵子の提案の場所に典子を呼び出した。典子と話すためでもなく、遥の様子を探るためでもない、中途半端な誘い。多分、自分で認めようとしないだけで、典子に対する気持ちはとても簡単なものだった。
(会いたいとか…そういうわけじゃないんだ。ただ、心配だから…)
良貴は「AndoA」で店員に「待ち合わせなので、外が見える席にしてほしい」と言った。すいていたので、店員は窓際に案内してくれた。窓際の席は3つ。ドアに近い1つは埋まっていた。結果的に、遥たちの「いつもの席」らしきところの後ろ側が取れた。
(こんなにうまいこと席が取れて、さらに燕さんたちが徒党を組んでやってくるなんて、そんな都合のいいことは起こらないでしょ)
良貴は、隣のテーブルに誰が来ても顔が見えないよう背を向けて座り、コーヒーを頼んだ。弘志は時々子供っぽい甘味を頼むが、弘志がプリンアラモードを茶目っ気たっぷりに食べているのと自分がそうするのは違う。喫茶店ではいつもコーヒーを選んだ。
典子は授業が終わってから電車で来る。遠くはないが、少し時間がかかるはずだ。良貴がのんびりした気分でふと外を見ると、女の子の4人組が見えた。
(…嘘でしょ)
春のコートを着て、ブーツをはいた遥が見えた。路地を曲がってこっちに向かっているということは、この店に来るのだろう。良貴はひどく緊張した。うまくいくはずなんかなかったのに…。植物のブロックにうまく隠れることはできていたが、良貴は後悔した。
店員はいつもどおり、良貴の背後の席に彼女たちを案内した。そうすると、ますます今帰るわけにいかなくなってしまった。そこはまるで針のむしろで、頭の上から遠慮なく女の子たちの言葉が聞こえてきた。
「2年になったら水曜休みじゃないから、ヤダね~」
「朝は遅いけどね」
彼女たちが座る振動がわずかに伝わる。その間も会話はむやみに続く。無防備な女の子たちの甲高い声はたいがい聞き取れた。その状況はやっぱり良貴の美学には合わなかったが、今さら脱出することはできない。
「なんかさ~、もう、私、あきらめるしかないらしいよ~」
注文が済むと、響いたのはいきなり遥の声だった。良貴の胸がズキンと焦りの鐘を打った。
「えー、やっぱダメそう?」
「もう、私が一方的に電話するだけだもん。あーあ、逃したサカナは大きいよ~」
弘志のことだ、と良貴は思った。遥たちは無防備というより、無神経だった。
「敗因は、何だと思う?」
「なんだろ、やっぱ、留守電?」
良貴はできるだけ聞かないように、素知らぬふりをしたかったが、聞こえてくるものは仕方がない。その時、窓の外に典子が見えた。あまりいい状況ではない。こんな会話を典子に聞かれるのは困る。でも、ここで席を立って遥に姿を見せるのはもっとまずい。
階段に典子の頭のてっぺんが見え、数秒後に入口のベルがカラカラと鳴った。典子は店員にひと言ふた言何かを告げ、まっすぐ窓際の通路を歩いて来た。そして、何気なく壁際の絵を見た。途端、そのすぐ下に座っている遥が見えた。
(…燕さん!?)
典子は、一体良貴が何を考えて自分を呼んだのかわからなくなった。でも、遥の隣には女友達が座っていて、良貴と一緒ではないようだった。見通しが悪い店内で、典子は良貴がいるのか不安になって戸惑った。遥たちの奥の席をそっと覗くと、良貴が目を伏せたまま掌を軽く挙げた。
(…其田くん)
もちろん声になんか出さなかった。そのまま座って、少しの間良貴を見ていた。良貴は考え事でもしているみたいに黙りこくっていた。
(…キープ君って、それはやっぱり僕のことなわけ?)
さっき、典子の姿が窓の外に見えた時、遥の友人たちの声が良貴の耳を刺した。
「キープ君が電話してきたからだよ、絶対」
「しかもきっと、本命さんに『遥に手を出すな』とか言ったんだって」
(本命さん、それからキープ君)
とてもわかりやすい仇名のような気がした。
「でも遥、キープ君だってまんざらでもないんでしょ?」
佐和子の声だった。良貴はすぐに化学のときの遥の友人だとわかった。
「…でも…カッコ良くないし…」
遥はカケラも本気じゃない強がりを言った。ずっと「キープ君」という蔑称で来ていた良貴にオトされたとなったら、友人たちはさぞかし盛り上がるだろう。本当は、遥はもうずっと、良貴が強引に抱きしめてくれるのを待っていた。今さら自分からなんて絶対に言えないから、ずっとずっと良貴の強い気持ちに流されたいと思っていた。でもそれは友人たちには言えなかった。遥は、男に対してではなく、女友達に対してウソツキだった。
「どうなの、キープ君とは、最近」
「…ん、あんまり会ってない。連絡もとってない」
会話のそのあたりで典子がやってきて席についた。だから、良貴はとても典子に声をかけている余裕などなかった。
典子は良貴が背後の遥の声を聞いているようだったので、メニューを指さして店員に注文を済ませた。その状況が偶然のいたずらなのか良貴の意思なのかは測りかねた。
「…キープ君の方も、ポシャ?」
「そういえばこの前、綺麗な子と歩いてたよね。見かけない子だったけど、1年生かな」
「だとしたらキープ君、実は超、手が早くない?」
「手が早いってことはないわよ。だって其田さん、クリスマスの時、ホテル逃げたもん」
典子の顔色が変わった。でもそれは、言った内容のせいではなく、「キープ君」が「其田さん」だとわかったためだった。
「えー、遥、キープ君ともしっかりそういうことになってるわけ?」
典子の目が一瞬良貴を見て、それから元どおりテーブルの上に落ちた。自分が良貴にとっての2人目でも、何も言う権利はない。でも、遥の後だったとしたら哀しい。
「ううん、歩いてたら偶然ホテル街に出ちゃって、ちょっとからかっただけよ。逃げ腰だったから面白くって。しかも、もっと積極的にアタックしろとか煽ってるのに、なんにもしてこないし」
遥の話はほぼ聞き取れた。店員が典子のカフェオレを持ってきた。典子はささやかに店員に頭を下げた。
「だって、友達から始めようって言ったからって、ホントのホントに友達になるヤツなんて、いる~? 其田さんさあ、マジトモダチになっちゃって~。手ぐらい、握れって」
女の子たちは大いにウケた。典子はただ黙ったままでいた。
良貴は典子をちらっと見た。
(…まあ、こういうのも仕方ないか。天罰?)
もはや開き直るしかない。人生において、なかなかこんなにも最悪な日なんてないだろう。とはいえ、冷静なつもりが、空になった水のグラスを口に運んでいた。黙ってコップをテーブルに戻した。
(そういえば、典子とひと言も交わしてないな)
そう思った瞬間、典子が手を伸ばして自分のグラスと良貴のグラスを入れ替えた。
「…いいの?」
再会第一声は奇妙なものになった。
「私、あんまり水飲まないから」
「そうだったね、そういえば」
良貴もいつも喫茶店の氷水には手をつけない方なのだが、いつの間にか飲んでしまっていた。背後からは相変わらず華やかな声が聞こえていた。
「でも、こないだの綺麗な子はぁ? キープ君、なんか親密そうだったじゃん?」
典子の瞳が左右に振れた途端、良貴が、
「須藤さんだよ」
と言った。すぐに典子は了解した。
「訊いてみなきゃわかんないじゃん。最近知り合った子とかなら、私の方が親しいから勝てると思うし」
「えー、じゃあ、遥はキープ君に本格シフト?」
しばらく間があって、遥が答えた。
「んん~、…まあ、そのためにキープしてたわけだし。妥協しとくかな~」
良貴は可笑しくなって肩で笑った。悪いけど、そうはいかない。この会話を聞かなくたって答えは決まっていた。
(…まあ、お互い様でしょ)
本当に自分がバカバカしくて、でも、今意気揚揚とそんなことを言っている遥だって滑稽だ。それがこの1年間の姿で、今、典子が見守っている。皮肉の極致だ。
「すみません、水下さい」
典子は店員を呼び止めた。店員はすぐに水差しを持ってきて、典子の前のカラッポのグラスに氷水を注いだ。そして良貴の前のグラスには水が入っているのを見て、軽くお辞儀をして戻っていった。
店員が行ってしまってから、典子はゆっくりと席を立った。そして振り返るようにしてさっとグラスを手にした。その瞬間良貴は典子の意図を察知したが、止めるヒマなんかなかった。典子は大股で通路に出て、隣のブロックの入口に立った。
良貴が立ち上がると同時に、典子は遥に向かって水をぶちまけた。そして席に戻って静かにコップを置き、荷物と伝票をつかんでレジに走った。あまりの出来事に女の子たちは誰一人声を発することができず、植物の陰になって店員はその事件に気がつかなかった。
「典子」
良貴は自分の荷物をすぐにつかんで典子を追った。遥をちらっと振り返って、一瞬目が合った気がした。でも、そのまま典子に視線を戻して通り過ぎた。
すぐに追いついて、典子を先に店の外に出して会計を済ませた。背中に遥の視線を感じたが、もう振り返る理由なんかなかった。
遥は中腰で立ち上がってその光景を眺め、それから黙って座った。ドアのベルがカラカラと鳴る音を聞きながら、バッグからハンカチを出して服をぬぐった。それから髪もぬぐった。友人たちは何も言えずに遥を見つめていた。コップ一杯の水は、足元に転がる氷のせいもあって、幸い大した量ではなかった。
「…裏目に出たわね~、このボックス席。全然気付かなかったよ」
遥は濡れたハンカチをカバンに戻す気になれず、手にしたままじっと座っていた。
「今度はまた違う女の子だったね。妹はいないはずだし。まあ、いたってこんなとこで会わないと思うけどね。今の子、名前で呼ばれてたよね。私は『燕さん』なんだよね」
平静を装って遥は分析してみせた。遥の向かいに座る佐和子の席からは、道端で泣いている典子の肩に手をのせて、いたわるようにしている良貴の姿が見えていた。遥は佐和子の視線の行方と表情で状況を感じ取った。
それから、遥は二人がいなくなった頃を見計らい、「服が冷たくて、風邪をひくから」と言って友人たちを残して帰っていった。電車の中で、遥はひとりで泣いた。
(…其田さんの方が、私のこと遊びだったの? 他に彼女がいたの? 其田さんって、本当は、いい人なんかじゃなかったの? 相手なんていくらでもいたの? だから、最後まで私のこと口説いてくれなかったの?)
友人たちに言っていたことなんかみんな嘘だった。もうずっと、キープなんかじゃなかった。多分…もう好きになっていた。そんなこと、もうどうにもならなかったけれど…。
典子は良貴を待たずに駅まで走るつもりだった。でも、やっぱり寒かったから薄いコートを着ようともたもたして、その間に良貴が店から出てきてしまった。足音がそばに来るのを感じて、典子は思わずつぶやいていた。半分は、良貴に投げつけたい想いだった。
「私、何やってたんだろ。バカみたい…」
良貴は典子の背後で、胸の痛みを感じながらその声を聞いた。
「あんな子に譲っちゃって、バカみたい。彼女が弘志のこと気にかかってたの、知ってたのに。絶対絶対譲らないって、めちゃくちゃやればよかった」
典子はいきなりドバッと泣き出した。
「…典子」
良貴は典子の肩に手をのせて、優しく声をかけた。
「典子、落ち着いて。僕はなんとも思ってないし…それからね、…笑うかもしれないけどさ、多分あれは全部本気じゃないんだと思うよ」
今さらだけれど…こうして遥と何かが終わったことで、良貴には客観的に自分と遥の姿が見え始めていた。そして、クリスマスの日から次第に変わり始めた遥の態度を恋愛感情だったんだと確信した。遥の本命が弘志だったなら、そして弘志と何もなかったなら、そして次点に名前が挙がっているのが自分だったなら…。
(じゃあ、本当は、一番近い位置にいたのは僕だったんだ)
弘志の冷たい態度に気付かないほど遥が鈍感だとは思えない。それが遥にとって失恋というほど重いものじゃないことも知っている。弘志が逃げても必死になれない、クリスマスに良貴しか声をかける相手がいない、そして…好きになりたいと言った遥の媚びた声、ちょっと上滑りしていた友人たちとの会話。遥の気持ちがやっと見えた。
「彼女も、…僕に対してちょっといい気になってたとは思うけど、でも、あれが全部本音だなんて思わないで。2人でいるときは、もっと違う関係だったんだよ。典子とはタイプが違うから、わかりづらいだろうけど」
でも、今ここに典子がいなかったら…一人で黙って彼女達の会話を聞いて、ただ一人で店を出ていたら、とてもみじめだっただろうと良貴は思った。典子があの場にいたことが、良貴の立場を、プライドを守ってくれた。
「嫌だ。其田くんがあんな風に言われるのなんて、絶対に嫌。それが嘘とか冗談でも」
「典子、…どこか落ち着いて話せるところに行こう。寒いでしょ」
典子がおとなしくなったので、良貴はギュッと肩を抱いて歩き出した。
「ねえ、2人っきりで、人の目とかなしで話したいんだけど…」
良貴は神妙な声になって言った。
「…そういう、…ホテルみたいなところに行こうって言ったら、やっぱり…怒る?」
典子は顔を上げた。なにか訊きたそうな顔をしていた。典子に見つめ返されたら、途端に恥ずかしくなった。
「嫌なら何もしないよ。ホントに」
「…じゃあ、私が嫌じゃなかったら何かするの?」
「えっ! あ、…ゴメン、そういうつもりじゃないんだけどさ…」
そうは言っても、微妙な問題だった。
(僕はなんで、ホテルになんか誘ったんだ? 別の場所だっていいのに、なんで)
良貴は必死で繰り返していたが、本当はわかっていた。典子を抱きたかった。自分をさらけ出すきっかけがほしかった。素直になって、伝えたい言葉があった。
だから、怪しいホテルの一室で簡単に2人っきりになっても、良貴も典子も所在なく黙っていた。典子が先に口を開いた。
「ねえ其田くん、話があるんじゃなかったの?」
「うん…。…なんだか…自分の中で整理がつかなくって」
「そう…」
典子は仕方なく黙った。そして、初めて入るホテルの部屋を見回した。
「あ、コーヒーとかあるよ」
お湯を沸かせるポットがあった。典子は良貴を放っておいて、流しで水をくんで来た。
「ティーバッグもあるよ。さっきコーヒーだったから、緑茶の方がいい? なんかいろいろあるんだね、こういうとこ。…これは何だろ」
典子がこういうホテル特有の不思議な道具のメニューを見そうになったので、良貴は慌てて寄って行って取り上げた。
「…其田くん」
典子の声は急に細くなった。
「…もしかして、…したいの?」
良貴の心臓がドキンと音をたてた。
「私はそれでもいいけど…でも…それって、私、其田くんのなんなんだろう」
典子は良貴を振り返って、まっすぐに目を見つめて言った。
「私、カラダだけの関係にされちゃうの?」
良貴が反論しようとした時、典子の言葉が続いた。
「でもね、なんだかあの日から、やっぱり私って其田くんのこと、体で釣ろうとしてたような気がしてるの。其田くんが責任を感じちゃうこと、知ってたよ。あと、…それから、きっとまた、したくなっちゃうだろうなって思ってた。だから今日だって覚悟してた」
典子の視線がゆっくりと足元に落ちた。
「私、そんなつもりじゃなかったはずなのに、ホントはそうだったのかもしれない。そういう関係になっちゃえば其田くんはきっと責任とってくれるって、それかそういう、体のこと欲しくなっちゃうんじゃないかって…私って、そういう子なのかもしれない」
良貴は次に口にする言葉を決めた。でも、典子の独白を黙って聞きつづけた。
「だから、いいよ。もうはじめてじゃないし。…でもね、ここに来てから、私ね、…ホントは嫌だって思ってるの。なんか、カラダだけでつながっちゃうなんて空しい。それだけでも欲しいと思ってくれるならいいじゃん…なんて思ってたんだけど、やっぱり…嫌なの。そんなの淋しい。自分がカラダで釣っておいて、今頃淋しいなんてずるいけど」
良貴が近づくと、典子は後ずさりした。良貴は何も言えずにその場に立ち尽くした。こんなに狭い部屋で逃げ場をなくした小さな女の子が悲しかった。今、こんなに典子を追い詰めているのは、典子を言葉の上では徹底的に拒絶しながら、決して失うまいと引き止め続けてきた良貴の中途半端な態度だった。
「…してもいいけど、嘘でもいいから好きだって言って…」
典子の目からはらはらと涙がこぼれた。良貴は典子を壁に追い詰め、引き倒すように強引に胸に抱え込んだ。
「そんな言い方されたら言えなくなるじゃない。僕は、やっぱり典子が好きだって言いたかったのに。本当に、心の底から。…なのにそんな風に言われたら、まるで嘘みたいじゃない」
良貴の腕が強くて、典子は息ができないくらい苦しかった。でも、そのまま息が止まったってよかった。
「もう、僕は、わかってたんだよ。燕さんじゃないんだって。典子なんだって。1年間、無駄だったとは思わないけど、間違ってたとも思わないけど、でも、典子がいなくなるんだって思うと淋しくて…そんなカッコ悪い自分が嫌で意地も張ったけど、僕は、うすっぺらいプライドの上に乗ってるみじめでみっともない男で、でも、…典子といる時はそれでもいいから…。もう、ずっと思ってたんだよ。一体、どうやって今さら好きだなんて言おうかって。僕が今日ここに来たのだって、典子のこと抱いて、そうしたら素直に言える気がして…そんなつもりだったんだよ。好きだよって言いに来たんだよ」
腕に精一杯の切なさをこめて、良貴は典子を何度も抱きしめ直した。腕の中でゆっくりと典子の力が抜けていくのがわかった。
「私の気持ちはずっと変わってないよ。其田くんを好きなことだけは変えられないの…」
ため息みたいに典子は言った。そして良貴の背中に腕を回した。
長い長い時間、そうしていた。それからゆっくりと思わせぶりに良貴の掌が典子の背中を滑った。恥ずかしいから黙っていたけれど、典子も待っていた。
「…もう、恋人として抱いてもいいでしょ?」
間にキスを挟んで、ゆっくりと典子はうなずいた。
嵐みたいな初めての思い出とは違って、優しい、優しい時間が流れた。良貴は典子の髪を撫で、気持ちをこめたキスをした。甘くて安らかな抱擁と、ちょっとだけイジワルな挑発。繰り返し囁かれる「愛してる」という言葉に、典子は夢心地で良貴を抱きしめた。
長い長い1年。1年前、良貴は、典子を想うよりも、自尊心の満たされる感覚を楽しんでいた。典子は、求めるものもなくただそこにいた。でも、良貴は並んで座っているだけのお雛様のような恋愛から出て行った。典子は追いかけようとして道に迷った。
多分、まだ路の途中だろう。でも、良貴はもう自分が求めるものを知っていた。そしてそれが典子の中にあることがわかっていた。
恋人として触れるお互いの体はあまりに甘ったるくて、とても感動的だった。
抱き合って休んでいる間、良貴が時折くすくすと笑うので、典子は、
「どうしたの?」
と訊いた。良貴は、
「ん、典子がそんなにこういうの、弱いとは思わなかったから」
と答えた。典子は真っ赤になって毛布に潜り、良貴は、
「…可愛いって言ってるんだよ。嬉しいよ」
と声をかけた。典子はのそのそと出てきて、照れながら満面の笑みになった。そんな典子が可愛くて、良貴は抱き寄せる腕に力をこめた。
もう、それでどうしようというのではなくて、ただ真実だけが知りたかった。遥はためらいがちに良貴に電話をかけた。
「其田さん、燕です。…ねえ、この前の喫茶店の子って…誰なのか訊いてもいい?」
遥のくぐもった声は全ての終わりを告げていた。良貴は丁寧に、そして親切に答えた。
「ああ、…あの子は、…念のため言っておくけど、あの時、あの時点では彼女とかそういう存在じゃなかったよ」
不思議な感慨が自分を満たすのを感じた。遥と出会ってこうして過ごしてきたのは、自分の人生の中の必然なんだという実感があった。
「…その言い方って、今は彼女ってことなんだ」
「うん、…あの時僕があの喫茶店にいたのは、ちょうどあの子とそういう話をするところだったんだよ。ゴメン、…ちゃんと言おうと思ってたんだ。もう、つきあってほしいっていうのは昔のことにさせてくれって」
「…そう…」
良貴の潔さに、遥の胸が痛んだ。
「あの…其田さん、私たちが喫茶店で話してたこと…やっぱり、聞こえてたんだよね。あの…それなんだけど、…私、その、…」
「ゴメン、盗み聞きみたいになって。話の内容は…いいよ。話のノリとか、言葉のあやとか、いろいろあるよ。図々しいかもしれないけど、燕さんにとって、僕はそんな存在じゃなかったでしょ?」
事実そのとおりだったが、遥は良貴が自分の本当の気持ちを読みとれるほど恋愛に聡いとは思えず、その言葉を良貴の優しさと受けとった。胸を締めつける切なさは増した。
「…ゴメンなさい…。友達に大きなこと言ってて、引っ込みがつかなくなっちゃって…」
「うん、わかってるよ。気にしないで。僕の方だって、他に好きな子ができても何も言わずにいて、本当にゴメン」
遥は痛みにじっと耐えていた。良貴の落ち着いた声が自分を責めていないことの方が辛い気がした。弘志と交わした駆け引きと良貴にもらった安らぎはあまりに対照的で、自分自身の軽薄さや傲慢さが胸を苛んだ。
けれど、もう悩んでも仕方ない。遥は、思い出の整理や後悔を、電話の後にやって来る一人の時間に無理やり押しやった。あとは、訊きたいことだけがむやみに残っていた。
「あ、あとね…其田さんの彼女って、私、どこかで会ったことある? なんか…見たことあるみたいな気がするんだけど…」
良貴は少しだけ迷ったが、素直に答えを与えてあげた。
「彼女、弘志先輩の双子の妹だよ。顔が似てるから、そういう見覚えだと思うよ」
「あ、そうかも…じっくり見なかったけど、イメージつながった。じゃあ質問ついでにもう1つ、…前に綺麗な子と2人でキャンパス歩いてたのは…あれは、誰なの?」
良貴は迷った。弘志が遥とフェードアウトするつもりなのは知っている。けれど、美恵子のためにはハッキリしてあげた方がいいだろう。そして、果敢で可憐な戦友のために、この質問に答えてしまいたいと思った。
「…聞きたい? 僕は話してもいいんだけど」
少し間があって、遥は答えた。
「もういいの。私、恋愛は一から出直す。だから教えて。もう、其田さんのことも忘れるし、どんな答えでもいいから」
良貴は、弘志を思い、美恵子を思い、噛みしめるように告げた。
「あれはね、弘志先輩の彼女」
「えっ…」
「弘志先輩はね、…いろいろ口では言うけど、すごく真面目な人だから。あの子は、たった一人の、弘志先輩のホントの本命。たまたまあの日は僕と歩いてただけだよ」
遥は絶句した。最後の最後まで、弘志は「わからない」人だった。
「…燕さんは華やかで綺麗な人だし、僕は君から見ればカッコ悪くてレベルの低い男だと思う。でも…僕はそれでいい。君と過ごしていくらか変われたような気はしてるけど、君の世界にはきっと入れない。僕は今後もつまんない男だし、カッコ悪いままだから…ゴメン、燕さんにふさわしい男にはなれない。自分で申し込んでおいてリタイアすること、本当に申し訳ないし、情けないけど…それを結論にさせて。でもこの1年間は、本当に楽しかった。最後だから上手いことを言っているわけじゃなくて、本当に楽しかった」
遥は何も言葉を返さなかった。自分を「カッコ悪い」と言い切る良貴を格好いいと思った。その気持ちを伝えたいと思ったが、一瞬迷って、やめた。
良貴には遥の沈黙の向こうの淋しさがはっきりと見えていた。でもその淋しさを埋められるのは、決して自分ではないのだろうと思った。
(…いつも次の何かを探している君は、刺激的で素敵な女性だと思うけれど…僕が恋愛に求めるものは違うんだ。だから、僕にとっての次の何かは、僕のために僕自身が探すよ)
二人はきちんと最後の挨拶を交わして電話を切り、他人に戻った。
良貴は、初めて弘志のいる日に堂々と典子を訪ねて江藤家にやって来た。
「あら、みんな揃ってなにかやるの?」
澄子は驚いた顔で良貴を出迎えた。
「…え…僕は今日、典子先輩に…」
「あらそうなの、さっき美恵子ちゃんも見えたから」
そこに典子が慌てて下りてきた。
「おかーさん、私~。其田くん、あがって~」
わずかに微笑むように典子に向けた良貴の表情に、澄子は、
(…もしかして、典ちゃんは其田くんなのかしら)
と思った。
良貴が典子の部屋に入ったのはあの日以来だった。つきあっていた頃も、なんとなく弘志のことが気になって典子の部屋に来ることはなかったので、どんな部屋なのかを普通に見るのは初めてだった。典子がお茶を運んでくる間、良貴は典子の本棚を見ていた。
「典子、何か、読んで面白かったの貸してくれない?」
「いいよ、…そういえば其田くんって、本、何読むの?」
「SFとか、あとは科学系のブルーバックスとか、そういうのかな…」
「じゃあ、どういうのがいいのかな~」
「…あ、いいんだよ、僕が読まなそうなので。人に読まされないと読まないようなのを借りたいんだ」
「そうなの? …じゃあ、どれがいいかな…」
「それからさ、僕も弘志先輩や典子と一緒にスポーツ見に行きたいんだけど…、典子は、見るの、何が好きなの?」
「私は、断然野球」
「じゃあ、今度見に行こうよ」
「うん、行く。バレーボールとかも生で見てみたいんだ。今まで、見てつまんなかったスポーツって、ゴルフだけだな~」
「ゴルフ?」
「テレビで見て、ソッコー飽きた。ちゃんとわかればおもしろいのかな?」
良貴は、ゴルフなんて見てみようと思ったことすらなかった。スポーツひとつとっても知らないことなんてまだまだある。
「…テレビ、典子は何見てるの?」
「ニュースと、ドラマ」
「ドラマか。どんなの見るの?」
「何でも。2時間もののナントカ殺人事件とか、そーゆーのから、流行りの連ドラでしょ、それと大河ドラマも見てるし、うん、けっこう見るよ」
2時間ドラマとか、恋愛ドラマなんて、バカバカしいと思ってちっとも見なかった。でも、見たことがあってそう判断するのと、勝手にそう決めつけるのは違う。
(そうだね、まずはとにかく、見てみること、やってみること…。燕さんと出会って何も変われなかったら、僕の1年間は全く意味がなくなってしまうから)
「どうしたの? なんか質問ばっかりして…」
典子は不思議そうな顔で良貴を見ていた。良貴は微笑みを浮かべて、答えた。
「…うん、…僕は今、典子に興味があるんだ。昔に戻ろうなんて思ってないよ。これから新しく関係を作っていこうよ。いろんな新しいことも始めて、どんどん変わっていこう」
嬉しそうに、典子は笑った。
「うん、私、其田くんと一緒なら、なんだってできるよ。それに、大概のものについてける自信があるよ。その気になりやすいタイプだから」
典子は決してアグレッシブではないけれど、受身な分、吸収力があるのかもしれない。以前は気付かなかったことが、典子の中にもまだたくさんある。
(…そうだね、見方ひとつ、扱い方ひとつなんだろうね。同じ、ひとつの恋愛でも)
遥との出会いは、そのことを知るための道程だったのかもしれない。自分に欠けていた大切なものを埋めるための出会い…。だから彼女に惹かれたのかもしれない。
そして、良貴は、
「典子、また、一緒にトレーニングに行かない? それから、時々、体操部にも…」
と言った。典子の顔が花を咲かせるように輝いた。良貴はその時典子に、弘志の話をする美恵子に見たのと同じような美しさを感じた。自分に対しても誰かのこんな笑顔が向けられていたことに気付かなかった昔を思い返し、現在の自分を満たしている幸福な空気に安らかに身を浸した。
ドアにノックがあった。典子が開けると、弘志と美恵子が立っていた。弘志はずかずかと部屋に入ってきて、笑いをこらえようともせず良貴に声をかけた。
「よー、其田」
良貴は内心でものすごく照れていたが、絶対に顔に出すまいとさりげなさを装った。
「…どうも。結局、そういうことになったんで…また、よろしくお願いします」
「よろしくか~。今からお義兄さんとか、よんどく?」
「え、僕と弘志先輩の関係は、僕と典子の関係とは別ですよ」
「あ、おまえ、典子なんて呼び捨てにすんなよ」
「そんなの、もうずっと前からですよ。今さら、何言ってるんですか?」
典子と美恵子はドアのところで立ったまま、2人をぼけっと見ていた。
「…バッカみたい2人とも。どーしてそういうくだらないことで張り合うのかしら。弘志先輩も、往生際が悪いんだから」
美恵子は呆れ顔で言った。典子は穏やかな笑みを浮かべた。
「いいじゃない、相変わらずで。…うん、いい言葉だよ、相変わらずって」
弘志は上から抱え込むようにして、恨みをこめて良貴の肩に体重をかけた。
「まあほどほどに、今後とも仲良くやろーぜ」
「そうですね、ほどほどに。これからも、友人だけでなく、是非人生のライバルでありたいですね」
居心地のいい場所、帰り着く処。これからの人生もいろいろあるだろうけれど、失いたくない空間がここにある。
「なんだか高校の時みたい。成長してないのかな~、私たち」
美恵子が言うと、典子は最高に満ち足りた笑顔になった。
「…ねえ美恵ちゃん、でも、いろいろあったじゃない私たち。思うんだけどね、『青い鳥』の童話で、チルチルとミチルは青い鳥を探しに出たでしょう。あれね、ああして長い旅をして、戻ってきたから青い鳥が大切だって思うことができたんだよ。『青い鳥は、本当は自分たちのすぐ側にいました』じゃなくってさ、本当は、『その青い鳥がとてもとても大切なものだって気がつきました』っていう話だと思うの。だって、出発する前に、すぐ側にいる小鳥が青いってことに気がつかないはずなんかないんだもん。だから、私たちの相変わらずはとっても大切な相変わらずなんだって、今本当に思うよ」
離れて、旅をして初めて気がつくもの。そして、帰って来たときに変わらずにそこにいてくれるもの。
4人は確かにあの頃のままで、けれど大切なものを手に入れて素敵に変わっていた。




