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31 はじめてのデート

 弘志が美恵子とホテルにしけ込んで、これからというところで携帯電話が鳴った。弘志は危なく「またかよ」と口に出してしまうところだった。

(やばい、やばい)

 そう思いながら電話をとると、龍一郎だった。弘志は美恵子を座らせて話し始めた。

「なんだよ」

「今平気?」

「んー、まあ、いいでしょ」

 美恵子も小さくうなずいてOKを出してくれたので、弘志はそのまま話し込んだ。

「ふられたよ」

「え、なに? …典子に?」

「うん、ものの見事に」

 失恋報告だった。弘志は電話が長くなることを覚悟した。

「…なんだよ、よっぽど、うまくいきかかってたんじゃねーの?」

「うん、春まで答えを待ってくれって言われた時に気付くべきだったかな。彼女の恋人は後にも先にもたったひとりみたいだよ」

 驚いたが、反面なんだかホッとした。いかにも典子らしかった。

 弘志はそのまま携帯電話に向かって相槌を打っていた。その少ない応対の言葉から、美恵子も電話の内容を察知した。そして、龍一郎のことを本当にいい人だったのだろうと感じ取った。

(典ちゃん…どうするんだろ。…私が、其田くんと話、してみようかな…)

 良貴が、つきあいはじめるときに典子を呼び出すため自分に連絡をとってきたことを思い出した。論理は合わないかもしれないが、ならば自分が典子のことで良貴に何か聞いてもいいような気がした。

 弘志はひたすら、龍一郎の感情の発露を黙って聞いてやった。龍一郎は饒舌になっていた。いつもよくしゃべる方だが、弘志が言葉を挟む余地がないくらい、どこか必死の様子で話し続けていた。

「はじめは典子ちゃんに対して結構興味本位だったし、あんまり真面目じゃなかった気がするよ。でも今は俺も本気だったんだなってホントに思う。今でも典子ちゃんじゃなきゃ嫌だって思うもんね。それはすごい感動だよ。だから…よかったよ。おまえにも…ホントありがとうな」

 弘志は切ない失笑を漏らした。

「おいおい、この世の終わりか今生の別れみたいなこと言うなよ。典子は今後も友人だし、俺だってここにいるよ。…うまくやっていこうぜ、3人で、友人として」

「…そうだな。典子ちゃんに伝言して。俺がプレゼントした口紅と見立てた化粧品使ってめちゃめちゃキレイにして、昔の男にもう一回会ってみろって」

 龍一郎は最後にそんな殊勝なことを言って電話を切った。

 弘志は携帯電話をゆっくり耳から離してテーブルの上に置いた。美恵子は切ない目をしてうつむき加減に座っていた。

「ま、聞いててわかったろ。典子、断ったらしいよ」

「…まだ、其田くんが好きなんだ…」

「そうらしいな。…でも、恋愛なんて…人が口出しすることじゃないよな。俺たちは俺たちで、できることをするだけだよ」

 弘志は少しだけ淋しそうな笑いを浮かべた。

「できることって…」

 美恵子が切ない目のまま見上げると、弘志はいつもの笑顔になった。

「…ん、俺たちがこの部屋でできること」

 そして美恵子の手を引いてやや強引に抱きしめた。

「もー、そんなことばっかり…」

 美恵子の声は熱いキスでかき消された。


 美恵子は意を決して良貴の携帯電話に電話をかけた。

「須藤です。突然ゴメンね」

「え、…ああ、久しぶり…」

「携帯にかけてゴメンね。弘志先輩の携帯で電話番号調べちゃった」

 良貴は暗鬱な気分になった。典子が美恵子に何か話したのかもしれない。もちろん典子がどうしようが自由だが、美恵子の隣には弘志がいる。

(…責任っていう形にはしない。詫びるとか償うとか、そういうのも絶対にしない)

 良貴は、典子とのあの日のことを、お互いに抱き合いたかったのだと完結していたかったし、そうあるべきだと思っていた。

「ねえ其田くん、話があるんだけど…」

 美恵子が言うと、良貴は落ち着いた口調で言った。

「須藤さん、悪いけど…僕、ちょっと自宅ではあんまり携帯で長電話とか、したくないんだ。世間話だったらいくらでも話すけど…違うんでしょ?」

 典子との関係についてどうこうと、親のいる部屋の隣で話す気にはなれなかった。しかし、一方の美恵子には、なんでそんなに良貴が警戒するのかまるきりわからなかった。

 良貴は時計を見た。19:45、早くはないが遅くもないだろう。

「…須藤さんが迷惑じゃなければ、そっちの駅前まで行くけど」

 正直なところ、典子が今何をどう考えているか気になっていた。心配もしていた。

「あ、でも、私の話があるだけだから、それなら私が…」

 美恵子が気後れして言うと、良貴は力強い声で、

「いいよ。夜に女の子に来させるのは、僕だって心配だから」

 ときっぱり言った。美恵子は、ハッキリ言いすぎる良貴の語尾にドキッとするような優しさを感じた。

 美恵子は少し黙って、ちょっとだけ戸惑いながら思いつきを言ってみた。

「…だったらさ、其田くん、たまには2人でゆっくり会ってみない?」

「え?」

 確かに美恵子とじっくり話をしたことはない。美恵子のことは「典子の親友で弘志の彼女」くらいにしか知らない。本当はとても近い位置にいたのに、そして懐しい風景には必ず姿があるのに、不思議な気がした。

「…あ、でも、弘志先輩は…変な心配しない?」

 良貴の気後れした声に、美恵子はくすくすっと笑った。

「もうそんなこと、気にする関係でもないの。私、今、ちゃんと弘志先輩の彼女だから」

(え、じゃあ、…燕さんは?)

 良貴は驚いた。弘志とは、表面上はライバルのままだ。美恵子から弘志のことも聞きたいと思った。

「…そうなんだ。じゃあ…いつ、どこで会おうか?」

「ねえ、和佐田まで行きたい。そういうの迷惑?」

 良貴は、少し前なら美恵子とキャンパスを歩いているのを遥に見られたくなかったが、今は気にならなかった。

「いいよ。だったら待ち合わせは、入ってすぐに噴水の広場があるから、そこで。いつにする?」

 なんだかとても懐かしくて不思議な初めてのデートは、火曜日の夕方に決まった。


 美恵子は3限が終わってすぐに和佐田大学に向かった。良貴は4限で終わりだから、その後合流するとちょうどいい。弘志はキャンパスに自分の彼女を呼びつけて連れ歩くなんて真似は絶対にしない。美恵子は初めて潜入する弘志の大学生活の空間に、すごくうきうきしたし、ドキドキした。

(…例の子、…燕さんか。と、会っちゃうかな?)

 美恵子は、ホテルで弘志がシャワーを浴びている間にこっそりと携帯電話を見て、アドレスから「燕遥」の名前が消えているのだけは確認してあった。もう心配ないことはわかっていたが、良貴と遥のことを考えると少し気分が沈んだ。

 美恵子は堂々と噴水のベンチに腰掛けた。美恵子は遥を知っているが、遥の方は知らない。ハチ合わせたって大丈夫だ。4月のはじめの晴れた空を見ながらしばらく待つと、講義終了のチャイムが鳴った。噴水に一番近い校舎から人が吐き出され、その中に良貴の姿もあった。美恵子は立ち上がった。

 良貴も遠目にすぐ美恵子がわかった。やわらかくて優しい、こんなに綺麗な女の子なんかそうはいない。良貴はこれから美恵子と歩く自分を誇らしく感じながら歩み寄り、声をかけた。

「ゴメン、待ったでしょ」

「平気。授業の時間少しずれてるから、ちょうどいいくらいだった」

 良貴と美恵子は並んで歩きだした。美恵子はしばらく歩いた後、良貴を見上げて遠慮がちに口を開いた。

「…ねえ其田くん、怒らない?」

「え、何? 怒らないよ」

「なんか、背、伸びたね」

「ありがとう。なんでそれで僕が怒るの?」

「ん…男の人に、身長の話ってタブーかなと思って」

 良貴は美恵子が「男の子」でなく「男の人」と言ったのが嬉しかった。

「そんなことないよ。気にしてないとは言わないけど…少なくとも須藤さんよりは高いし」

 良貴は笑った。典子と美恵子はほとんど身長が違わない。典子は「私より高いじゃん」と言ってくれた。だから美恵子に対してそんなことを気にする必要はなかった。

(…其田くんって、こんなにいい男だったかな…)

 美恵子はちょっと身構えて良貴の隣を歩いた。落ち着いた雰囲気が心地よくて、自信に満ちた話し方がなんだかカッコよく感じられた。2人は帰り始めた学生の群れに逆行して、キャンパスの奥のほうに向かって歩いた。

「どこ見たい? それとも、カフェテリアに行く?」

「少し歩いてもいい? …いろいろ見たいの。弘志先輩が毎日過ごしてるところだから」

 美恵子は素直に言って、嬉しそうに笑った。

(やっぱり、須藤さんは綺麗なんだな…)

 良貴は感嘆のため息を漏らしそうになった。友人の彼女の美しさにうっとりしていても仕方がないので前に向き直ったが、やっぱり綺麗なものは綺麗だった。

(燕さんと比べても…どうなのかな、須藤さんのほうが綺麗なのかな)

 自分がそんな感想をもったことが不思議で、良貴はしばらく考え込んだ。正直な印象として、今、この瞬間は、圧倒的に美恵子のほうが綺麗に見えた。

 ちらっと見ると、美恵子はなんでもないキャンパスの光景に目を輝かせて見入っていた。良貴はその横顔をしばらくじっと見つめた。

(ホントに、弘志先輩が好きなんだな…)

 ひたむきに弘志を想っている美恵子の表情の輝きはとても自然で、澄んでいて、美しかった。つい、遥の思わせぶりな笑顔を脳裏に並べていた。

(…なんだか、僕は最近、燕さんを中傷するようなことばかり考えている)

 良貴は暗い気分になった。ことごとく遥をあげつらって距離を広げようとしている自分が嫌だった。そう思うなら自分で結論を出せばいい。でも、実際に会うとなお想っているような態度をとっていた。

 美恵子は、遠くに遥と友人たちが歩いているのを見つけた。いろんな感情が交錯した。

(結局、弘志先輩とは何だったの? …そして、今、其田くんとは何なの? 今、弘志先輩のことはどう思ってるの? 今、これから私と其田くんが一緒なのを見つけたら、どんな顔するの?)

 良貴も、前方に目を戻した瞬間、遥が歩いてくるのを見つけた。でも、気付かないふりを決め込むことにした。

(…僕が綺麗な子と2人で歩いてるのを見て、何か考えるのかな。…そして、この子が弘志先輩の彼女だってこと…知ったら何て思うんだろう)

「遥、ちょっと、あれ」

 佐和子が真っ先に気づいて遥の袖を引いた。

「キープ君、なんか綺麗な子と歩いてるじゃん。誰?」

「知らないわよ。一緒に歩いてるからって、別に誰ってこともないでしょ?」

 けれど、遥は最近の良貴の態度にどことなくすきま風が吹き始めたことを感じていた。何がどう変わったというのではなく、何かがどことなく変わった。そして良貴は今行き交おうとしている自分に全く気付かず、他の女の子を見ながら楽しそうに話している。

 美恵子は遥を知らないことになっていたのでさりげなくしていたが、すれ違う瞬間はやっぱり見てしまった。遥も美恵子を見た。美恵子は典子のことを考え、つい視線にきつい力が入ってしまった。遥がその対抗意識に気付かないはずはなかった。

(…どういうこと?)

 遥は混乱した。

(…しかもなんか、その妙に親しげな様子は何?)

 高校時代の濃い時間を一緒に過ごした2人の間に漂う独特の親密な空気が何を意味しているのか、事情を知らない遥に推測することはできなかった。

 良貴も遥が自分を気にしていることには視界の隅で気付いていた。ちょっと愉快な気分だった。弘志や他の誰かの影をちらちら見せてきた遥に仕返ししたような気にもなったし、「弘志の彼女」という切り札を見せつけたような気もした。そして、そんな自分に苦笑した。これは一体、どういう恋愛なんだろう…。

「…ねえ、そういえば須藤さん」

 弘志のことを確かめたくなった。

「何?」

「あのさ、僕、弘志先輩から話聞いてないんだけど、ちゃんとつきあうことになったの?」

 美恵子は肩をすくめて照れ笑いした。

「ん、あの人そういうのいちいち話さないでしょ。あのね、ちゃんと言われた。彼女になれよ、って」

「…そうなんだ、よかったね。おめでとう」

 良貴は、言いながらとても不思議な気分になった。弘志とは遥をめぐってここのところずっと微妙な関係だったし、美恵子はずっと「弘志の彼女」のはずの女性だ。

「ありがと。なんか其田くんに言われると感慨深いな」

 美恵子は嬉しそうに笑った。良貴はつい感嘆のため息をついた。

(いい顔して笑うなあ。僕だって参っちゃいそうだよ)

 変に視線をそらしている良貴の様子に、美恵子は首をかしげた。

「何? あきれたみたいな顔して。…そりゃあ、おかしいかもしれないけど、私…ずっと弘志先輩のこと好きだったんだから、いいでしょ、ちょっとくらい変だって」

「あ、違うよ、そうじゃなくって。須藤さんが弘志先輩のことで嬉しそうな顔すると、…なんかホントに綺麗だなって…。これは別に冗談とかおだててるんじゃなくて、本当に」

 美しい女性への敬意と、同志としての親近感と、友人としての愛情が良貴の心を温かく満たしていた。良貴の心のこもった言い方に、美恵子はドキドキした。

「ありがとう、…でも其田くんって、女の子にキレイだとか、臆面もなく言う人だったんだ」

 良貴は照れて言い返した。

「あんまり言わないんだけどね。でも…言いたくなる時っていうのも、あるんだよ」

「ご祝儀みたいなもの? このたびは恋愛成就おめでとう、ってことで」

 美恵子は口元に指を添えて笑った。

「それじゃお世辞みたいだけど、そうじゃなくて。須藤さんが綺麗な人だなっていうのはずっと思ってたけど、今、特にそう思ったから」

「ありがとう」

 2人はニッコリ笑顔をかわした。そして美恵子はふと、男性に面と向かって「綺麗」と言われたことを、初めて素直に受け入れた自分に気がついた。弘志はそんなことを言うタイプではなかったし、他の誰かから言われた外見へのほめ言葉はずっと皮肉にしか受け止められなかった。でも良貴の言葉は自然に胸に入ってきたし、素直にうれしかった。

「なんか、私、もっと其田くんと話してみるべきだったのかな。面白いね、其田くんて」

「どういう意味? 変わってるかな、僕」

「ううん、…其田くんって、ちょっと見ると優しくて穏やかなだけの人にも見えちゃうんだけど、なんか…強い人だね。典ちゃんが好きになるわけだわ」

 ちょうどカフェテリアの前に来たので、どちらからともなく中に入った。話が核心に触れて、いいタイミングだった。

「そう、ホントはね、典ちゃんの話をしに来たんだよね、私」

 窓際のカウンター席で美恵子はやっと本題に入った。良貴も覚悟を決めた。

「…ねえ、其田くんって今、彼女いるの?」

 2人は並んで外を向いて座っていた。良貴は美恵子の横顔に向かって、いくらか強く「いないよ」と答えた。ふーんと、声にするでもなく美恵子が答えた。

 良貴の大学の友人たちの中には、遥との関係をもう「つきあっている」という状態だと言う人もいた。確かに遥は良貴の気持ちも知っていたし、クリスマスだって2人で過ごしたし、キスだって1度だけだけど、済ませた。もう「ただの友人」ではない微妙な空気は漂っていたが、良貴はそんな状態を恋愛だと言いたくはなかった。

「何をどう訊いていいのかわかんないから、ぶしつけな訊き方になっちゃうんだけど…燕遥さんって、どういう人なの?」

「え、なんで名前知ってるの?」

「うーん、それは、弘志先輩を典ちゃんに調べてもらって、そのへんから…」

 弘志から遥の情報を得たというところが気になり、良貴は反対に訊いた。

「弘志先輩と燕さんの関係はどうなってるの?」

 言ってから、失礼な言い方だったと反省して良貴は「ゴメン」と謝った。「ううん」と笑いかけてきた美恵子の余裕を見て、良貴は食い下がっても大丈夫と判断した。

「…すごく申し訳ないんだけど…弘志先輩が結局、彼女とどういう関係だったのか知りたいんだ。何か知ってたら、教えてくれない?」

「なんにも知らない。でも、なんかおかしかったことは知ってる。もしかしたらオトナの関係になっちゃったのかな~とか、いろいろ心配した。でも、それも違ったみたいだし」

 オトナの関係という言葉に良貴はドキッとした。自分も典子とそういう経験をしたけれど、性的な意味合いの言葉はまだ平気で口の端にのせられない、存在自体が気まずいものだった。それでも平静を装って、良貴は会話を続けた。

「なんで弘志先輩と何かあるんじゃないかって思ったの?」

「ん、携帯電話に彼女の名前が入ってたから」

「あ、それは、…僕が燕さんに近づきたかったから、なりゆき上…。弘志先輩が積極的に登録したわけじゃないんだよ」

「…でも、消さないでとっといたわけでしょ?」

「それは、あくまでも僕のためであって、須藤さんが心配することじゃないよ」

 良貴は少しだけ嘘をついた。きっかけは自分だが、きっかけだけだ。

「違うのよ。手段はあったんだなってこと。それで、…なんか其田くんには悪いけど…、燕さんって、弘志先輩のこと気に入ってたんじゃない?」

「あ、それも、知ってるんだ」

 良貴はちょっと傷ついた。やっぱり悔しいことには変わりない。

「…ゴメン、典ちゃんがいろいろ知ってて…」

「それはいいけど。…でも、弘志先輩と燕さんに何かあったわけじゃないでしょ?」

 美恵子は考えに考えて、でもどうしても気になって、言ってしまった。

「私、典ちゃんと2人で喫茶店で待ち伏せして、その燕さんたちが話してるの聞いちゃったのよ。盗み聞きとか思わないで。顔を見に行っただけだし、だからほとんど聞こえなかったのよ。でも、ちょっとだけ聞こえた部分はあったの。…ねえ、其田くんって、今も燕さんのこと好きなの?」

 直接訊かれ、良貴はいささか焦った。返事はどうしても歯切れの悪い言い方になった。

「…え、…一応ね」

 美恵子は良貴が言い渋ったのを照れだと思い、典子を思って暗い気分になった。本当は、良貴が遥を好きだと答えたら喫茶店で聞いたことを告げ口するのはやめようと思っていたが、ムラムラと悔しくなってきた。

「ねえ、其田くんには残酷なことかもしれないけど、聞く?」

 良貴がどう答えようと話すつもりで美恵子は訊いた。良貴は、今は遥のことも冷静に聞ける気がしたから、

「聞くよ。ごまかしたってしょうがないでしょ?」

 と答えた。美恵子はあまり重々しくならないように言った。

「燕さん、弘志先輩に体張ってアタックするって言ってたみたい。体を張るって…体当たりの気持ちで頑張ってアタックするって意味じゃなかったように聞こえたんだけど…」

 良貴にも少し状況が見えてきた。美恵子は良貴の顔色をうかがいつつ続けた。

「それでね、…弘志先輩がどこに行ったかわからない夜があって、ちょっと疑ったの」

「それって…11月の下旬か12月の初め頃?」

 良貴も、遥と連絡がつかなかった夜のことを覚えていた。美恵子はその問いに「多分」と軽く答えた。良貴は状況から一定の判断をしたが、美恵子に対しては口に出せずに黙っていた。美恵子はその気配を察して慌てて言った。

「…あ、でも。弘志先輩は彼女と何もないから」

 良貴は困った顔になった。美恵子はますます必死になった。

「弘志先輩、いろいろ迷ったり考えたりはしたかもしれないと思うけど、そういうことはしてないから。ホントよ。それは私、絶対に信じてるの」

「大丈夫だよ、僕も信じてるから、その話はそれでいいよ」

 話を無理に終わらせようとする良貴に弘志の潔白を訴えたくて、…いや、弘志にとっての自分の地位を正しく理解してほしくて、美恵子は必死で言った。

「疑うのは、わかるけど…、私も疑ったし、でも、…弘志先輩は、それよりも後の私との時が初めてだったから。だから彼女とは何もなかったから。ホントに」

 良貴は弘志の親友で、余計なことを言いふらす人でもなくて、知られても安心できる理由は十分にあった。だから言ってしまったが、やっぱり美恵子は耳まで真っ赤になった。

「…ゴメン、…うん、疑ってないよ。弘志先輩は、浮ついたことはしない人だよね」

 良貴も平静を装いつつ必死で回答した。でもやっぱり動揺はした。

(弘志先輩と須藤さんは、もう、そういうことになってたんだ)

 そして、それなら美恵子の言うとおりなんだろうと思った。触れた本人にしかわからない真実もあるだろう。その真実の感覚は、自分ももう知っている。それに、弘志が自分を男として未成熟に見せる芝居を打つとはとうてい思えない。つまり「初めてじゃない」という芝居を打つことはあっても、「実は初めてだ」という芝居を打つなんて、絶対に弘志らしくない。

(じゃあ、僕の方が弘志先輩を残して先に燕さんから撤退する事態は避けられたわけだ。それに、…典子に、弘志先輩の先を越させちゃうのも気が引けるし…)

 遥が弘志となんでもなかったとわかってみると、良貴の心に妙な感慨がわいた。

(燕さんは結局…弘志先輩のこと、どうにもできなかったんだな…)

 変な風に会話が途切れてしまい、美恵子は慌てて話を続けた。

「弘志先輩のことはわかってるの。私が訊きたいのは、燕さんと其田くんが、だからどうなんだってことなの」

 良貴は美恵子への返事を考えながら、もう遥とは終わりなんだと感じていた。体を張ってアタックするとか、夜の消息不明とか…そういうことが不自然でない女の子だった。棲む世界が違うという言葉がしっくりと身に染みる。遥と交流することはできても、ともに歩き、ともに生きることはできそうにない。

「…僕と燕さんのことね…」

 良貴は自虐的に反芻した。美恵子に、今の遥に対する正直な気持ちは言えない。それは典子に伝わるから。

「其田くん、燕さんとはつきあってないんでしょ? ずっと片想いしていくの? もう、典ちゃんと別れて1年たったんだから、彼女に対しても1年たつんでしょ? いつまで待つの? 何か変化はあったの? 其田くん自身はどうしたいの?」

 美恵子の真剣な問いとは裏腹に、良貴は投げやりな気分になった。

「僕と燕さんのことはいいでしょ」

 良貴は腹をくくった。

「要するに、典子のことなんでしょ。ここに入るときに、そう言ってたじゃない。いいよ、燕さんのことなんか訊かなくたって。彼女は関係なくて、僕と典子の問題だよ」

 美恵子は困惑した。おせっかいであり、余計なお世話なのはわかっている。

「ゴメン。私って結局、典ちゃんの親友だから…どうしても、黙っていられなくって」

 良貴は美恵子が会いに来た意図を誤解していた。だから黙って美恵子の攻撃を待った。美恵子は何も知らないまま言葉を続けた。

「あの…ね、典ちゃん、つきあってほしいって言われてたの。すごくいい人みたいで、途中までうまくいってたのね。でも…結局、断っちゃって」

「…え、断ったんだ」

 良貴は驚き、心の奥底から喜びがこみ上げて来るのを感じた。

「典ちゃんはつきあおうとしてたのよ。クリスマスも一緒に過ごして、折角うまくいってたのに、突然だったの。…それで、その原因が、其田くんだったから…」

 美恵子は口ごもった。だからって、一体何と言ったらいいんだろう。良貴の心が典子を向いていないなら、何をどう、いくら語っても無駄だ。

 切なくて重苦しい沈黙が長く続いた。その沈黙に追い詰められて、良貴は口を開いた。

「須藤さんの気持ちはわかるんだけどさ。典子は多分、そういうの望んでないよ」

 美恵子には意味がわからなかった。

「…え、…そういうの、って…」

「典子は、僕に対して、責任とかそういうの押し付ける子じゃないよ」

「え、責任なんて…」

 典子と龍一郎の別れについて、良貴に責任を問うつもりはない。美恵子は戸惑った。良貴の投げやりな声が続いた。

「典子に聞いたんでしょ? 僕と典子に何があったか。でも、その結果典子が他の人とどうするかなんて、僕は関知しない。典子だって、体使って僕とよりを戻そうとか、そういう子じゃないでしょ。手を出した以上責任をとれって、須藤さんが思っちゃうのはわかるけど、典子にとってあれは僕との別れの儀式みたいなもので、他には何の意味もないよ」

 美恵子が弘志とのことを語ったせいで、良貴は案外簡単に典子とのことを口に出していた。しかし、何も知らなかった美恵子にとって、それはあまりに衝撃的な事実だった。

(…それってどういう意味? 私が変なふうに聞き取っただけで、実際はそういう意味じゃないの? ううん、体使ってとか、手を出したとか…そういう意味だよね? …其田くんは典ちゃんに何をしたの?)

 良貴は、美恵子が当然全てを知っていると思って、そのまま反論を待っていた。典子は謝るなと言った。後悔してもいけないし、責任を感じてもいけない。ただの出来事として割り切ること――それが典子との約束だ。

 美恵子は震える声で良貴に訊いた。

「…其田くん…典ちゃんに、そういうことをしたの…?」

 今度は良貴が驚く番だった。

「え…須藤さんは、それを言いに来たんじゃないの? それで、責任をとるべきだって、言いに来たんじゃないの?」

「…ちがう、其田くんが今、典ちゃんをどう思ってるのか…知りたかっただけ。典ちゃんは、何も言わないから…そういうことも、なんで次の人を断ったのかも、全然話さないから。私…全然知らなかった、…嘘でしょ? 関知しないとか、何の意味もないとか、…其田くんにとって、典ちゃんってそれだけなの?」

 美恵子の瞳が胸の奥をえぐるみたいに痛くて、良貴は前に向き直って目を伏せた。

「…知らなかったんだ。だからって、別に隠そうとかごまかそうとかは思わないけど」

 多分美恵子にはわからないだろう。責任だとか憐憫だとか、そんなものを与えるのは、見返りに金を握らせるようなものだ。典子を貶めることにしかならない。

「…其田くんってそんな人なの? それで、いい思いして、あとはもう典ちゃんのこと捨てるの? それで、自分は燕さんのことが好きだなんて平気で言うんだ」

 美恵子の言葉に良貴は切なく苦笑した。いい思い…他の男とつきあいたいから抱いてくれなんて、そんなのがいいものであるはずなどない。良貴は泣きたい気分だった。今も、そして…あの時だってそうだった。別れたのに関係する男と、他の男との関係を前提に抱いてくれと言う女と、一体どっちが傲慢なんだろう。

 しかも、事実良貴の心境として「責任を感じない」なんてことができるはずはなかった。けれど責任という言葉を思い浮かべるたびに典子の涙が浮かんだ。

『後悔してるの? しないほうがよかった?』

 だから責任を感じることも捨てた。典子とやり直したいという想いも捨てた。典子はそれを愛情だとは受け取らないだろう。遥に対する想いはもう枯れていた。戻れるなら典子のところに戻りたかった。それは、もうずっとずっと、良貴を静かに苛んでいた思いだった。でもこういう関係になって気持ちを告げたらきっと曲解される。意味を取り違えて典子が傷つくのなら、今さら、愛していると言うことはできない。

 典子が新しい人を断ったと聞いたついさっきまで、典子は他の男と新しい恋を始めて、もう抱かれたのかもしれないと思っていた。あの日の典子の姿が他の男の腕の中にあると考えるのは身を焼かれるような責め苦だった。その熱さを感じることは、自分の中に典子がこんなにいとしいものとして残っていたと思い知ることでもあった。

 良貴は、辛い気持ちをすべて心にしまいこんで淡々と言った。

「…なんとでも思ってもらっていいよ。僕のしたことは変わらないから。ただ、ひとつお願いしてもいいなら、弘志先輩に言うのだけはやめてもらえないかな。逃げるつもりはないけど、横から誰かに言われたくないんだよ。典子が弘志先輩に話すのはかまわないけど」

 美恵子は激昂したが、声にならずに涙になった。心の中では必死で良貴に言葉を投げていた。

(そんなに簡単なことなの? 他に好きな人がいて、典ちゃんはただの昔の彼女なのに。典ちゃんは、なんで? なんでそんなことしたの…)

 黙って泣いている美恵子に、良貴は目を伏せて声をかけた。

「…一緒に帰ろうか。家の前まで送るから」

 美恵子はその申し出に腹を立てた。でも、良貴は続けて、優しく言った。

「その顔で、ひとりで帰せないよ。僕と一緒にいたほうがいいでしょ」

 よっぽど何か言い返したかったが、実際のところ目を腫らして一人で帰るのは恥ずかしいし、そんな時は男に声をかけられることも多いので、美恵子は応じることにした。良貴を優しいと思う気持ちは振り払った。

 家の前まで送るという良貴の言葉を突き返して、美恵子はひとりで駅の改札を抜けた。心の中でずっと糾弾しながらも、奥底には良貴の人柄のぬくもりが残った。


 だから美恵子は言われたとおり、弘志には何も言わなかった。そのかわり、勢いにまかせて典子の部屋に押し入った。

「典ちゃん、バカ、なんてことするのよ!」

「ちょっと待って、美恵ちゃん、話が見えないよ。何、何、とりあえず座って?」

 典子はとりあえず小さなテーブルと座布団を出して、先にちょこんと座った。美恵子は座布団には座らず、典子の背後をとった。

「ホント、バカ~! 私、典ちゃんのこと、絶対に理解できないよ」

 美恵子はぎゅっと典子の背中から抱きついた。

「美恵ちゃん、私も美恵ちゃんの言ってることが理解できないよ」

 美恵子にされるままにしながら、典子はのほほんと言った。美恵子の重みはなんだか心地よくて、それから温かかった。

「…この前、其田くんとデートしてきたよ」

 美恵子は神妙に言った。

「え~、ずるいー、いいな~」

 典子はのんびりと言ったが、美恵子が何をバカと言っているのかはわかった。良貴が美恵子に話したのは意外だったが、そういうことがあったっていいだろう。

「いいなーじゃないわよ。根本さんだっけ、…その人のことも断っちゃうしさ~」

「早耳だね~。なんで知ってるの?」

「弘志先輩といる時に、その人から電話がかかってきたの」

「そっか~、デートの邪魔して、悪かったね~」

「そんなことより、其田くんと、どうするつもりなの?」

「どうって?」

「だって、…聞いたもん。…カンケイしちゃったんでしょ?」

 典子は肩に回った美恵子の手をぽんぽんと叩いた。

「どうにもしないよ。それはそれ、一度で終わり。根本さんとのこととも関係ないし」

 美恵子はやるせない気分になった。

「…ねえ、どうして? 私、確かに、してみれば…なんて言ったけど、それって其田くんのことじゃなくて、根本さんのほうだったんだけどな」

 典子はうふふと笑った。

「うん、美恵ちゃんがそう言ってるのはわかったんだけどさ。でもね、なんか、私には其田くんのことみたいに聞こえちゃったんだ。最初は其田くんじゃなきゃ嫌だなって思ったの。他の人にっていうのが納得いかなくて。だから、其田くんが一番最初なら、次の人もOKかなって」

 典子が小さく笑うたびに、美恵子の体にも振動が伝わった。

「えー、だって、次の人…OKどころか、断っちゃったじゃない」

「うん。気がついちゃったの。私って其田くんが好きなんだなって。根本さんは…なんか、あきらめなんだよね。愛情を向けられて受け入れることはできても、私のほうから好きだとは思ってないのよ。そういう恋愛って、私、幸せなのかな~って思って。それで、まあ、我に返ったっていうか、其田くんに戻っちゃったっていうか」

「そんなの…」

 美恵子は典子の背中から降りた。そして、這うように膝で歩いていって、典子が用意してくれた座布団の上に座った。

「…典ちゃん、じゃあなんで其田くんにもう一回やり直そうとか言わないの? 其田くんも典ちゃんのこと嫌いじゃないっていうか、どうでもいい女の子に手を出せる人じゃないと思う。典ちゃんがもう一押したら、元に戻れるんじゃない?」

「それは脅迫じゃない? 私はこれでいいの。其田くんに他に好きな人がいたり、私のこと好きじゃないんだったら、捨てておいてほしいな。責任とか、嫌だ。そんなの」

 美恵子は途方にくれた。

「…其田くんもおんなじようなこと言ってすんごい落ち着いてたわ。やんなっちゃう。責任とか関係ないよって」

「やっぱり其田くんは私のこと、よくわかってくれてるよ」

 典子はお茶目な言い方をして微笑んだ。美恵子は、典子の幸せそうな顔に、それ以上何も言えなかった。


 典子は美恵子が帰ってから、嬉しくなってベッドに飛び込んだ。

(…そっか、其田くんも、同じこと言ってたんだ。責任は関係ないって)

 良貴が責任を感じていたことは知っている。それが「ゴメン」という言葉だったと思う。典子はそれを断った。「それだけのこと」でよかった。

(深い理由とかなくて、それだけのためにそういうことするのだって、いいじゃない。だってそれは、其田くんが私としたかったってことになるもん。そう思ってくれたっていうだけでドキドキするよね)

 責任だとか、立場とか、そんなことはどうだってよかった。求めてもらえたこと、そして応じられたことは感動的だった。純粋にそれだけを喜びたかったし、喜んでほしかった。

 別れたとか、今後どうなるとかも関係なく。お互いの今の立場も関係なく。もちろん龍一郎とのことも関係なく。一度だけであっても、「結ばれた」という、それだけのことが典子の幸福だった。

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