30 最後に選ぶ道
典子とのことを真剣に考えていてすっかり煮詰まり、龍一郎は弘志を呼び出した。
「車で迎えに行くよ」
そう言って突然やってきて、龍一郎は弘志を助手席に乗せてドライブに出かけた。
龍一郎は気ままに道を決め、ウインカーを出しながら弘志に「クリスマス何してた?」と訊いた。弘志は「カノジョと会っていた」と答えた。
「カノジョ? いたの? いつから?」
「…そうだな、いつからなのかな。ホントはずっと前からなんだけど、俺が逃げてたから。いろいろふらふらしたけど、ここらで腰を落ち着けることにしたよ」
弘志は、それでもなお見栄を張っている自分が可笑しかった。いろいろふらふら…って、一体なんだろう。強いて挙げれば遥と初体験を焦ったことだろうか。
相手は典子の親友だということも話した。もう、何一つ隠すつもりはなかった。
龍一郎はちらっと弘志に目を走らせ、言った。
「兄妹でお互いの親友とつきあってるなんて病んでるなあ。しかも典子ちゃんの次の相手も兄貴の親友でしょ」
弘志は速すぎるくらい即座に反応した。
「…典子、OKしたんだ」
「うん、でもなんか…昔のカレ、忘れてないのかなって感じがした」
龍一郎はさらっと言った。弘志は低い声でうなっただけだった。典子の気持ちは今、どうなっているのだろう…。
次に龍一郎が発した言葉に、弘志は息が詰まった。
「それとやっぱおまえが正しかったな。…典子ちゃん、ホントに処女だとは思わなかった」
凍りつく弘志の反応を楽しんで龍一郎は忍び笑いを漏らし、それから声を上げて笑った。
「残念ながら俺も初めての子相手はひるんじゃって全然ダメ。すっごい怖い思いさせちゃったみたい。ゴメンな…っておまえに謝ってもしょうがないけど」
弘志はとりあえずホッとした。とりあえず、ではあったが。
「典子がそこまでOKしたの?」
「ううん、全然。酔わせて、そのままいっといた。すっごい震えてて、泣かれちゃって、途中で中止した」
「卑劣な奴だな…今、おまえが車運転してなかったら一発殴ってるぞ」
「だから車で話してるんだよ」
龍一郎は笑って、それから真剣な顔になって先を続けた。
「…俺…典子ちゃんと純愛がしたいんだけど」
「はっ?」
弘志は頓狂な声を上げた。
「俺ね、ずっと忘れ物をしたまま二十歳まで来ちゃったんだ。恋愛ってなんか軽くてさ。割に合うとか合わないとか考えたり…今度の子は3日で最後までいったから『この子とはうまくいってる』とか。…俺はそういうのをずっと恋愛ってよんできたんだよね。でもずっと俺の中にはあったんだよ…まったく別の、憧れてた恋愛ってのが。それが典子ちゃんの中にたくさんあるよ。典子ちゃんと一日手をつないで歩いて、帰り際にドキドキしながらキスだけする、そんな恋がしたいと思ってる。…でもできるのかな俺に。今さら。俺の変な憧れとか思い込みにつきあわせるだけだったらそれもやっぱりちがうし」
弘志は龍一郎の横顔をちらりとだけ見て、しばらく考え込んだ。典子にとって何が一番いいのかは典子にしかわからない。でももう良貴のことは忘れるべきだろう。良貴は、遥とクリスマスを過ごしたのかもしれない。
「俺は何にもわかんないな。あと、…俺は自分の経験でつくづく思うんだけど、つきあってみないとわからないよ。いいと思ったことがよくなくて、壊した方がいいこともあったりして…。だから、俺としては…」
良貴の姿がよぎった。弘志はそれを無理に消し去って答えた。
「…典子をよろしく、頼むよ」
龍一郎はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう。それなりにふっきれたよ」
弘志は家に戻ってすぐに典子の部屋をノックした。
「いるよー」
典子のいつもの適当な返事があった。ダメという意味の言葉でなければ侵入可だ。
そっとドアを開けると、典子はまた机の上に何もない状態で、まるで勉強でもしているかのように座っていた。悩んでいる時はいつもこうなのかなと弘志は思った。
「龍一郎、マジメに考えてるみたいだよ。いいんじゃねーの?」
何の説明もなしに弘志は言った。典子はギーと音を立てて椅子を回転させ、弘志の方を向いた。
「うん、それはわかってる…」
力なく答えて、即座に典子は別の話に切り替えた。
「弘志は、美恵ちゃんとつきあうことになったんだよね、ちゃんと。メール来てた」
「…ん、まあな。おさまるべきさやみたいなもんがちゃんと用意されてて、時期さえくれば、なるようになるんだよ」
「言うね~。一人前に」
「言うよ。俺は俺で、美恵子にはホントに真剣に向かい合ってきたんだから」
「はいはい」
典子は、クリスマス以来ずっと、良貴のことを考えていた。なんだか、服の端っこをひっかけたまま遠くまで歩いて来てしまったみたいだった。服は細い糸にほつれて、どこまでもどこまでも良貴につながっていた。
「なあ、もう、おまえも幸せになっていい頃だと思うよ。もう二十歳だろ。生まれ変わろうぜ。いろいろ考えることはあるだろうけど…さ」
それだけを言い残して、すぐに弘志は出ていった。典子はぼんやりと電話の子器に手を伸ばして、美恵子の携帯電話を呼び出した。
私が行くよ、と言って美恵子は典子の部屋を訪れた。近くで買ったケーキを持っていた。
「典ちゃん、ハタチの誕生日、おめでと~」
「まだ早いよ。まだ19歳だもん」
「だって、あさっては弘志先輩と出かけちゃうから、典ちゃんのお祝いできないんだもん」
典子の部屋でお茶を飲みながら、美恵子は笑顔で報告を執り行った。
「あのね、…私、弘志先輩と…初体験しちゃった」
「えー!!」
典子は心の底の底からびっくりした。美恵子の顔がだんだん赤くなってきた。典子も、しばらく口をぱくぱくしたり目を白黒させたりしていた。やがて、しばらくしてしみじみと恭しく三つ指を突いてお辞儀をした。
「…そうかあ…、おめでとうございます」
「ありがとうございます。長い道のりでした」
美恵子もおどけて同じようにお辞儀をした。典子は白黒したまま赤い顔で、
「なんか、まあ、…そういうこともあるというか、意外というか」
と美恵子から視線をそらして言った。
「そうね、私もびっくりしてる。だって、私のほうから誘っちゃったんだもん」
「えええ!!!」
典子は吹っ飛んで背中から倒れそうになった。
「なんか、衝撃的だ」
「でも、まあ、…そういうお年頃でしょ。遅い分にはいくらでもいいけど、まあ、今何かあってもそう早くもないでしょ」
「…まあ、そうだけど」
(まあ、私もニアピンだったからな)
典子はそう思った。確かに、そう早くもないのだろう。
「あー、そうだ、典ちゃん、私に黙ってたよね、カレシいること~。私のこと、友達だと思ってないでしょ」
美恵子は腕を組んで典子をにらみつけた。
「そんなことないよ、でも、やっぱ、なんか…いろいろと難しいところもあって。美恵ちゃんに言ったとおり、この前まではホントに友達だったの。嘘ついてないよ。向こうはその気だったみたいだけど。つまりは純粋に友達ってわけじゃなくて、で、この前の、そのクリスマスにはつきあおうって言われて、キスもされちゃって…」
「えー、そういう人なの~?」
それは言語道断だと、美恵子はやはり、過去の弘志のことを棚に上げて怒った。
「ううん、恋愛に関しては、オトナなんだよ。私たちの恋愛みたいに、手をつないでおさんぽして楽しいね…っていうわけじゃないから。…あ、ゴメン、美恵ちゃんはもうそういうの、卒業したんだよね」
「そうでもないよ。典ちゃんの感覚はよくわかるよ。典ちゃんはそれでよかったの?」
「…えへへ、実は酔っ払っててさ。けっこうモーローとしてたんだよね」
「それでも、そう落ち込んでないんだったらOKだったんだ」
「ううん、ショックだったよ。其田くんじゃない人にそういうの、って思って」
美恵子は典子をにらんだ。
「まだそんなこと言ってるんだ。其田くんのことなんか、忘れちゃいなよ。そんなにいい人でもないよ」
美恵子がつんとすると、典子も苦笑して、
「…ん、そうなのかもしれないね」
と言った。
「あ、やっとわかってきたの?」
そう言いながら、美恵子は内心、ひどく驚いていた。
「…いい人だよ、根本さん。ホントにいい人。其田くんよりずっと優しい。それに、優しくする『し方』っていうのかな、よくわかってるよ。さりげなくオシャレだし、車好きで、スポーツ好きで、素敵なお店知ってるの。でもそういうのも嫌味じゃないんだよ」
「そうなんだ」と答えたが、美恵子にはなんとなく違和感があった。でも、典子が穏やかに話しているので、折角の気分を壊さないために黙っていた。
「じゃあ、つきあうの?」
美恵子に訊かれ、典子はウーンと首をかしげて、
「…私、まだ、其田くんと終われてないの」
と答えた。
「なに、それ」
「私の一方的な気持ちだよ。其田くんにはハッキリ言われちゃってるんだ。『もう、君とやり直すことはない』って」
「…ふーん。相変わらず、残酷なことをハッキリ言うのね」
「それがいいところなんじゃないかな。プライド高いのよ」
良貴のことを話していると、なんだか感情が昂ぶってきて自動的に涙が出た。典子は「ゴメンね」と言って指先で目頭と目尻を軽く押さえた。指先が少しだけ濡れた。
「ね、こーいう状態なのよ、私」
妙に大人びた表情で微笑む典子に、美恵子は何も言ってあげられなかった。
「根本さんの前で、其田くんのことで泣くわけにはいかないでしょ。それに…やっぱ、根本さんはオトナだから、私も無事で済むと思えないんだ。だから、OKするのには覚悟が要る…」
典子は、龍一郎と恋愛をはじめたら、遠くないうちに体を求められるだろうと思っていた。ずっと典子と一緒に少女の恋愛をしてきた美恵子も大人になったことで、典子は、自分だっていつそうなってもおかしくないんだと、実感として思った。
美恵子はしばらく考え込んで、それから典子をのぞき込むようにして言った。
「…ねえ、典ちゃん。…してみたら?」
「えっ?」
「そーいうこと、してみたらいいよ。…思ってたほど大変なことじゃないから。失っちゃえばあきらめもつくし。そんなに難しく考えなくなるよ。それにね、そういうときって、男の人、ホントに優しいよ」
「そ、そーなの?」
「うん。なんか、開眼。怖いことだって思ってたけど、違うの。安心なの。愛されてるってこと、それから、この人を愛してるんだってこと、本能から感じられると思う。だからさ、…飛び込んじゃいなよ。私、汚らわしいとか、怖いとか思ってたんだけどね、すっごい世界観が変わる。思ってたのと違って、とても幸せなことだった。だから、典ちゃんもそうなっちゃいなよ。生まれ変われるよ」
美恵子は幸せを噛みしめるように語った。典子はその美しく潤んだ瞳をじっと見ていた。
(…みんな、大人になるんだな…)
典子はカレンダーを見た。良貴は年末に19歳になった。自分はその日にお祝いの言葉ひとつ言う権利もない。そしてあさっての誕生日、良貴と何の関係もない自分が20歳を迎えるのだと思うと、時の流れを感じずにはいられなかった。
遥は弘志の態度で答えをなんとなくわかっていた。電話はとってくれるし、大学で会えば手を振ってくれる。でも、もう電話をかけても「会おう」と言えなくなっていた。どうせまことしやかな嘘で逃げられてしまうことは知っていた。
(…其田さんが口説いて、オトしてくれればいいのに)
遥の気持ちは良貴に逃げていた。でも、自分から良貴に対して何かを変える気にはなれない。弘志とギリギリのところまで進んだのにと思うと、悔しかったし、またそこまで行けるような気分が捨てられなかった。
遥は体の淋しさをみじめだと思った。良貴に堕ちてもいいような気がするたびに、弘志の体が手に入らなくなることがひたすら悔しい。それは、自分でも恋愛感情なのかプライドなのかわからない。
遥は未練を舐めるように、時折弘志に電話をすることをやめられなかった。
遥に会って2人で過ごすたびに、良貴の中には不安が育っていた。並んで歩くと、遥は時折からかうように腕を組んできた。キスはクリスマスの1回だけだったが、ふとしたきっかけがあれば遥の方から体を寄せてきた。良貴は遥の気持ちを計りかねた。
(…からかわれてるってことなのかな)
良貴は自分の中の欲求を感じつつも、劣情をあおるかのように挑発されるのはかえって不愉快な気がした。遥は綺麗で、活発で刺激的で、頭のいい女性だった。良貴の遥に対する評価は全く変わっていなかったが、違和感は増えていた。
良貴はこのごろ、少しだけ典子のことを思い出していた。
『私がもっとイイ女になったら、また考えてくれる?』
それが会った最後だ。それ以来、何の連絡もとっていないし、顔も見ていない。
弘志がいて、典子がいて、美恵子がいて、自分がいて、そんな4人の関係が懐かしかった。遥を追いかけていると息切れを感じた。一体どうしたいのか、二人の位置関係は今どうなのか、いつだってわからない。弘志とどういう関係なのかもわからないままだ。
良貴はひたすら遥との時間を浪費していた。
(…典子は、…そういえばどうしたんだろう。友達だって言ってた人と…)
人は変わっていく。自分だってこんなに変わってしまった。だから、もう、典子は他の誰かのものなのかもしれない。振り返ればそこには朽ちてしまった体操の道具と、幻になった典子の笑顔があった。
1月下旬から2月にかけては大学の後期試験で、大学によって少しずつ日程は違ったものの、2月の半ばにはみんな自由の身になった。オレラでスキー旅行に行くことが決まり、弘志は典子を誘った。しかし、典子は友人と約束があると断った。
典子は、何度か龍一郎と二人で会っていた。龍一郎は典子の誕生日に化粧品の店につきあって、「友達として」と断ったうえで口紅を2本プレゼントして、クリスマスと同じことを言った。典子は「春まで待ってほしい」と答えた。それからはあくまでも友達として会った。微妙に中途半端な関係になってしまっていた。
どんなに考えても心から消えない、最後の棘が典子を止めていた。
(…私がちゃんと其田くんと終わるまでは、根本さんとはつきあえない)
典子は龍一郎と新しい恋愛を始めようと思っていた。龍一郎はきっとキスを求め、体を求めてくるだろうし、恋人同士なら途中でやめてはくれないだろう。けれど、そのことはもう覚悟を決めたつもりだった。美恵子も言っていた。新しい世界が開けるし、とても幸せだ…きっとそうなんだろう。他の誰が言うよりも、ずっと一緒に恋をしてきた美恵子の言葉には説得力があった。ただ、良貴への気持ちだけが典子を止めていた。
典子は良貴と終わるための手段をちゃんと考えてあった。成功しても失敗しても、良貴に絡みついていたこの中途半端な糸はきっと切れるだろう。だから弘志が旅行に出るのをじっと待っていた。
弘志が旅行に行ってしまうと、典子は弘志の部屋に入って勝手にパソコンを立ち上げた。普段の典子だったら絶対にそんなことはしないから、弘志はプライバシーのブロックなんてまるでかけていない。立ち上げるのにパスワードは必要だったが、よりによってそれは「noriko」で、何度か弘志がパソコンを立ち上げるのを見ていた典子には、弘志が打っている指の動きが自分の名前を打つときと同じだとすぐにわかった。
(…よし、弘志が旅行に行ってることは、其田くんは知らない)
メールの履歴を見て、典子は最近弘志が良貴と連絡をとっていないのを確かめた。理由はわからなかったが、二人がちょっと疎遠になっていることはなんとなく知っていた。
弘志のパソコンからメールを出せば、差出人は「江藤弘志」になって相手に届く。本当は典子が出しているなんて、絶対に誰にもわからない。典子は弘志になりすまして短い文面を良貴に送り、送信履歴からそのメールを消した。あとは返事を待つだけだった。
典子はパソコンの電源を落とした。明日の朝、弘志のフリをして良貴からメールが来ているかチェックすればいい。読んだら消す。他の人からのメールも同時に受け取ってしまったら、それは困るが…そのとき考えればいい。
翌朝、典子はまた弘志の部屋で弘志のパソコンを立ち上げてメールをチェックした。幸い、良貴からの1通しか入っていなかった。返事を見て、そのメールも消去した。
典子は夕方を待った。
17時丁度に呼び鈴が鳴って玄関に出ると、良貴が立っていた。
「…あれ、其田くん」
典子はしらじらしく言った。呼び出したのは自分だ。メールの文面は「22日か23日、午後何時でもいいからウチ来られない? ちょっと外ではできない話があって。急でゴメン、返事待ってる」差出人は弘志になっている。…そして返事は、「其田です。22日、夕方5時にうかがいます」それだけ。だから良貴は江藤家にやって来た。
「あがって。弘志でしょ?」
典子はニッコリ笑った。良貴はその涼しげな様子に違和感をおぼえた。「イイ女になったら、また考えてくれる?」という典子の言葉を思い出して、良貴は自虐的に笑った。やりなおすことはないと答えたのは自分だ。典子が他の誰かと恋愛を始めたところで、もはや自分にどうこう言う権利はない。
久しぶりに典子の顔を見ると、良貴は切ないくらいの懐しさを感じた。良貴に特別な想いを持っていないような何気ない態度は、もう誰かがいるからなのかもしれない。住む世界が別になる…そんな言葉をかみ締めた。
典子が弘志の部屋のドアを勢いよく開け、良貴を振り返った。
「入って~」
良貴は典子に対して軽く「悪いね」というような顔をして、弘志の部屋に入った。でも、弘志の姿はなかった。
「適当に、座って待っててよ」
そう言って典子は弘志の部屋を出て階段を下り、玄関の鍵を確かめた。それからなんだかすごく気になって洗面所に行き、鏡を見つめた。弱気になっちゃいけない。でも、やっぱり無理だという気がした。恥をかくだけなのかもしれない。荘厳な儀式を執り行うみたいに、典子は一歩一歩を踏みしめて弘志の部屋に向かった。
(…美恵ちゃん)
親友の名前を呼んだ。少し勇気がわいた。
典子は弘志の部屋をノックして滑り込んだ。良貴は勝手知ったる様子で弘志の本棚の背表紙の群れを見ていた。振り返って、入ってきたのが弘志ではないので驚いた顔をした。
典子はそうっと弘志の部屋に入ってドアを閉めた。
声が震えそうになった。心の中で、美恵子の名前をもう一度つぶやいた。
「ゴメン、其田くん、メール出したの…私」
典子はそう言うと、懸命に、満面の笑みをたたえた。
「え?」
「弘志は昨日から旅行に行ってるの。それで、私…ここから其田くんに出したの」
典子は弘志のパソコンを指した。良貴はからくりを理解した。
「…そうなんだ。…どうしたの?」
異様に張り詰めた空気が良貴を緊張に追いやった。典子がわざとらしい足取りで近づいてくるのを、良貴はじっと見ていた。もう心臓が激しく打って、何かを察知していた。
典子はなんとか良貴の目の前まで到達できた。本当はしっかり目を見据えて言いたかったけれど、やっぱりうつむいた顔を上げることができなかった。
「…私、其田くんのこと忘れたいの」
セリフは全部決めていた。それをちゃんと読み上げられたら、あとはまかせればいい。
「…つきあってくれって、言われてるの。すごくいい人なの」
典子の声は震え、間にしゃっくりのようなひきつった息継ぎが入った。
「OKしようと思ってるの。でも、そしたらきっと、大人のつきあいになると思うの」
良貴の答えはすぐに決まった。典子が最後まで言い終わるのだけを待った。
典子は決定的なセリフをしばらく躊躇した。感情が昂ぶって、体が震えて、涙がこぼれそうになった。もう一度美恵子の名前を呼んだ。弘志を誘った時の美恵子の勇気を、少しだけ分けてもらうための呪文だった。
「…一度だけ、抱いて。大人にして。そしたら、其田くんのこと忘れるから」
典子は言い終え、歯を食いしばって耐えた。良貴が自分の脇を通り抜けて出て行ってしまうことだけが怖かった。
良貴は、真っ先にそんなことを訊く自分を情けないと思った。
「…弘志先輩は、いないんだ」
「旅行…あさってまで」
典子は震える声で答えながら、なぜ訊かれているのかを理解した。
「お母さんとか、お父さんは」
「お母さんは10時までパートで出てるし…お父さんは11時過ぎにならないと帰らないはず…」
良貴は典子の腕を取って強く引き、弘志の部屋を出た。そしてすぐ隣の典子の部屋に入り、腕を引いて典子をベッドに連れて行くといささか乱暴に引き倒した。典子はひどい風邪をひいているみたいにガタガタ震えながら、よろけるように倒れた。少しだけいたわるように、良貴が覆いかぶさった。
良貴は、典子が眠っているように見えたので、物音を立てないようにそっとベッドを降りて身支度をした。ふと見ると、典子は目を開けていて、握りしめた自分の手をぼうっと見ていた。打ちひしがれたようにも見えるその様子はとても綺麗で、良貴は典子の顔にかかった髪をそっと払って額に口づけた。
典子は、美恵子が「そういうときの男の人はとても優しい」と言っていたのがわかった気がした。ゆっくりベッドに上半身を起こしたが、そのままぼうっとしていた。
良貴はコートを床から拾って、そのまましばらく立ちつくした。そして、
「…ゴメン」
とつぶやいた。典子は弾かれたように顔を上げた。
「謝らないでよ」
典子の哀しい声に驚き、良貴は伏せた目を上げて典子を見た。典子の唇が何かをこらえるようにギュッと結ばれ、少し震えてからもう一度開いた。
「…後悔してるの?」
良貴は胸が締めつけられるような痛みを感じ、しばらくの時間をかけてそれを克服した。それから典子の側にかがみこんでそっと手を伸ばし、裸の肩を抱きしめた。
どう言っていいのかわからなかった。もう一度「ゴメン」と言いそうになったが、その言葉は今禁句を言い渡されたばかりだ。良貴は言葉が見つけられず、典子に優しく優しくキスをした。典子の頬に涙がこぼれ、その涙を掌と親指でゆっくりとぬぐって、良貴は無言で典子に背を向けた。
ドアが閉まる音を、典子はぼんやりと聞いていた。そして自分の体を抱き寄せて泣いた。
良貴は呆然と家への道を歩いた。そんなに男としての欲情をもてあましていた覚えもなければ、経験を焦っていたわけでもない。
(典子が、他の男のものになるって言ったから)
自分に言い訳をしてみたが、筋も何も通っていない。根底にあるのは愛情ではなく、単なる独占欲だと自分でもわかっていた。
媚びた上目遣いが投げられるようになるにつれ、遥がありきたりで俗っぽい女の子に見え始めていた。颯爽として煌めいてた女性の姿はもうそこにない。常に勝ち負けを勘定しているような、男を上から見ているような、相対するのが面倒な女の子がそこにいた。多くを犠牲にして求めたものを今さら否定したくはないのに、もう自分の気持ちを偽ることはできそうにない。懐かしい時代がひたすら愛しかった。
抱いたら典子の時間が進んでいくのを止められるかもしれないと思った。それとも、もし他の男に渡すとしても、典子が決して忘れることができないように、自分の存在を刻印しておきたかった。
良貴は感情の行き場を失って拳を握りしめた。だからって、今日のことが一体何になったというのだろう。典子は他の男のところへ行くと言った。この一年を全部投げ出して素直に泣きたかった。惨めな気持ちにつぶれそうな今、抱きしめたい相手は決して遥ではなかった。
オレラで春休み最後の飲み会を開き、1次会の解散が宣言された後、典子は龍一郎に、
「話があるんです」
と言った。弘志が心配そうに見ているのを感じて、典子は胸が痛んだ。龍一郎が弘志に「ちょっと借りるな」と言うのを背中で聞いた。弘志は何も言わなかったし、典子は弘志を振り返らなかった。
「どうしようか。そのへんの喫茶店でも入る?」
「あ、家までついていってもいいですか?」
「…そう? 俺はもちろんかまわないけど」
龍一郎は、そんな典子の言葉に少しだけ期待してみたものの、そういう意味合いには思えなかった。そして、車に乗り込む典子の顔を見て結論を察知した。
普通の会話をしながら夜の道を走り、典子は懐かしい龍一郎の部屋に上がりこんだ。あのクリスマスの夜がとてもとても遠くに感じられた。
「それで…話って何?」
龍一郎はコーヒーをいれてくれた。2人でコーヒーを飲んでいると、良貴を思い出した。
「…せかすんですね」
「ん、だって、典子ちゃんだって帰る時間があるでしょ」
「そうですね…」
典子は重苦しい気持ちに苛まれていた。できればもっとずっと後回しにしたかった。
「あの、おつきあいのことなんですけど…」
答えは典子の顔に書いてある。龍一郎は暗い気持ちでそれを見ていた。
「…ごめんなさい。私、一番肝心のことを忘れてたことに気がついたんです」
典子は、とりあえずそこまでを一気に言った。そして、龍一郎を見上げて続けた。
「私、根本さんのこと、優しいとか、いい人だとか、いろいろ思ってたけど…一度も、好きだって思ったことがなかったんです。ごめんなさい…」
優しいから、温かいから、頼りになるから、いい人だから…いろいろ思ったけれど、肝心のものが欠けていた。典子は当たり前のことを見失っていた。恋愛は、好きだからするものであって、優しいからするものじゃない。
龍一郎は小さく息を吐いて、
「…俺としてはそれで引き下がりたくはないんだけどな」
と言った。典子はうつむいた。
あの日、部屋を出て行く良貴の背中を見つめながら、もう龍一郎に抱かれても「大丈夫」だと自分に言い聞かせたとき、典子は間違いに気がついた。
2人の男に抱かれるための儀式。龍一郎に抱かれることをあきらめるために良貴にお願いをした。最初は良貴に抱かれたかった――いや、自分が誰かに抱かれるのなら、それはせめて、最初だけでも愛する人であってほしかった。
典子は良貴との長くて短い時間の中で、美恵子の言っていたことをすべて思い知った。「愛されてるってこと、それから、この人を愛してるんだってこと、本能から感じられると思う」――。
いささか傲慢な行為を受けながら、典子は良貴の強がりも、虚勢も、その裏に隠された弱さも、みんな感じることができた。淡々とクールなふりをして、本当はナイーブで傷つきやすい。典子を頑なに「典子先輩」に戻そうとしなかった、良貴の心の奥底にある何か。良貴は典子を失うことをとても恐れていた。あの日に伝わったたくさんの真実。もう良貴と恋愛関係に戻れないとしても、今、他の人のところには行けない…。
今さら龍一郎にNOの答えなんか返せるはずはないとだいぶ悩んだ。だけど、止められなかった激情も、体が触れ合った熱さも、良貴だから感じた昂ぶりだとわかっていた。
龍一郎は典子が何も言わないので困惑した。
「…ねえ俺あきらめないでいいかな。ずっと待ってたのに。ずっと好きだったんだよ。一度はOKしてくれたのにどうして? もっと待てばいい?」
「ちがうんです、ごめんなさい、好きな人がいるの、ただそれだけなんです…」
典子はそう答えるしかなかった。
「昔の彼?」
驚いて典子は顔を上げ、そしてすぐに目を伏せた。
「そうなんだ」
龍一郎はしばらくの間、口をつぐんでいた。今、抱いて、なし崩し的に自分のものにできるならそうしたいが、典子にそういう手段を使っても意味がないのはわかっている。
「じゃあなんで今日ここまで来たの。俺の気持ちわかってて、前に来た時に何があったか覚えてて、なんでそんなうかつなことするの」
そんな追及に、典子はうなだれてつぶやくように言った。
「…お詫びのつもりで来たから…。待たせてしまった責任があると思うから…」
含まれる意味はすぐにわかったが、責任なんて言われたくはなかった。思わず、龍一郎の語気は荒くなった。
「典子ちゃんは…それでいいの?」
典子は動じなかった。
「いいとか、悪いとか…わかんないんです。ただ根本さんには申し訳なくって、だから、クリスマスの時、途中までだったから…そこまではって…」
もう、良貴には抱いてもらった。自分の体に未練はなかった。一時は龍一郎とそうなる覚悟もできていた。勝手をして傷つけた分、返しておかなければならない気がした。
「…典子ちゃんって、そういう子じゃないでしょ?」
「じゃあ、どうしたら許してもらえるんですか? 私、根本さんを好きになることはないと思います。今さらそんな返事をするのを平気だなんて思わないで下さい。…私、自分勝手だから、これで借りは返したぞって思いたいんです。そうすれば自分を責めなくて済むから。根本さんのこと、ずっと騙してきたみたいで嫌だから…」
典子はそう宣言して龍一郎を待った。龍一郎は、結果なんかわかったうえで、あえて典子にキスをした。そして丁寧に押し倒して、典子の首筋に唇を埋めた。
良貴を思い出して、典子はどうしようもなく切なくなった。良貴とのそんな時間は戻ってこないのに、他の男とはこうして重なり合うことができる。
(…其田くんのことは忘れて、しばらくの間じっとしていよう)
死体みたいに微動だにせず、典子は龍一郎が動くのを待った。こめかみに温かいものが流れ落ちていく感触があって、不思議な気分になった。たくさんの涙が流れていた。
龍一郎は典子の耳元で絞り出すように言った。
「俺はこんなの嫌だよ。泣いてるじゃない。ほんとは嫌がってるじゃない。こんなことを望んでたんじゃないんだよ」
そして、愛しさをこめて典子を抱きしめた。
「俺は典子ちゃんと…他には何も要らなくて…こういうことさえ要らないくらい、そばにいるだけで幸せだっていう関係になりたかったんだよ」
典子は、今度は自分の意思で泣いた。龍一郎の気持ちがとても切なかった。
「でもわかったよ。もういいよ。…俺も誰か探すよ。典子ちゃんが誰かを想っているみたいに、一生懸命で純粋な気持ちを持てる相手」
龍一郎は典子を自由にした。
「これからだって初恋はできるよね。今日までありがとう」
笑顔でそう言って、龍一郎は典子に背中を向けて立ち上がった。
「帰るでしょ。送ってくよ。車、好きだからさ」
車で送ってくれる龍一郎は変わらず優しかった。とてつもない淋しさの中、典子はそっと自分の肩を抱いた。自分に触れるだけで幸せだった。この体がもう良貴のものなんだと思えば、甘い幸福感が心も体も満たしてくれた。




