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3 学園祭

 夏合宿が終わると体操部は秋の学園祭に向けて動き始める。体操部は、講堂でのバンドや演劇のステージなどに混じって、毎年宙返りやバック転を織り交ぜたダンスで出場していた。

 今年の体操部のダンスは、日本のアイドル系ポップスの振り付けに体操の技を加えてハイレベルにしたメドレーに決まった。いくつかのアイドルグループがピックアップされ、チーム分けが行われた。

 典子はこの機会にバック転をマスターすることになり、猛特訓をした。弘志や良貴が合間を見て補助に入って、典子はマットの上で飛んでいることが多かった。良貴に触れられるとやはりドキドキしたが、それも克服してなんとかバック転はマスターした。

 講堂のステージを借りて通し練習をした日、それぞれのチームは、初めて他のチームの出来を見ることになった。典子と美恵子は同じチームで、軽快で楽しそうな典子と、必死の形相でいっぱいいっぱいの美恵子が対照的だった。ただし、間にバック転が入るところだけ、典子の表情が眼に見えて険しくなった。

「典子、ダメだおまえ、バック転も楽しそうにやれ」

 ステージの下から弘志が叫んだ。典子は素直に、

「うーん、本番までには慣れる~」

 と答えた。弘志はよっぽど美恵子にも「楽しそうにやれ」と言いたかったが、「まあ、無理だろうな」と思って言葉を飲み込んだ。

 続いて弘志たちのチームが舞台に上がった。弘志は「俺が一番カッコいい」といわんばかりの自信と余裕で、一人だけ表情の演技まで入って、誰よりも〝本物っぽく〟見えた。それだけだと嫌味になりかねないが、弘志はちょっとした見せ場が決まると嬉しそうな笑顔を浮かべた。その少年らしい表情がどうしても憎めず、やっぱり弘志のステージはちょっとカッコよくてサマになっていた。

「弘志、カッコいいよー」

 典子はステージの下から声援を送った。

 弘志のチームがソデに引っ込むのと入れ替わりに良貴のチームが登場するシナリオになっていた。典子は、良貴が出てくると、弘志に投げたのと同じ、

「其田くん、カッコいー!」

 という声援を送った。良貴はちょっと恐縮したような表情を見せたが、すぐにダンスに集中した。

 弘志がステージを下りて典子の隣に来ると、典子は呆然とステージを見ていた。弘志も典子の視線を追ってステージを見た。そして、そのままクギづけになった。

 良貴はたしかに体操に関しては体操部で一番実力があったが、ダンスはそうはいかないはずだった。一緒に踊る二人と比べて背も小さかったし、地味な容貌で華がない。弘志も、他の部員も、そして良貴を誰より買っている典子も、学園祭での良貴の見せ場は唯一空中技だけだと思っていた。

 だが、良貴のステップは軽快で、まるで足が地面についていないかのようだった。動きと動きの間がとてもシャープで歯切れが良く、途中ジャンプすれば一番高く、ターンしても軸は全くぶれなかった。典子は胸元でぎゅっと両手を握り締めた。見ていた部員全員が声も発することなく見つめていた。

 そのうえ、空中技になると良貴の独壇場だった。体を美しく伸ばしたまま、良貴の体は大きく宙を舞った。

「おい、おい、この後のチームがやりにくいよ、こりゃ」

 弘志は部長として苦い顔をした。空中技は良貴一人が格上だから、最後の締めくくりに数人で空中技の連発を入れ、良貴の大技でラストになるのは当然の成り行きだと思っていたが、ダンスまで良貴がトップクラスで目立ってしまうとは思わなかった。

 良貴のチームが引っ込んでも、典子はぼうっとステージの上の良貴の残像を見ていた。夢とうつつの境目をさまよっていると、ステージから良貴たちが下りてきた。典子はそれをいち早く視界のすみでとらえ、我に返った。

「其田くーん、カッコいいよ、すごいよ、めちゃめちゃ素敵だった!」

 典子は大げさなそぶりで、いかにも冗談めかした調子で良貴を出迎えた。周囲も典子のいつものおちゃらけた雰囲気づくりくらいに思っていた。けれど本当は、典子は感情を抑えるのに必死だった。一番カッコいいはずの双子の兄よりも、もっとずっとカッコよかった良貴の姿に、もはやどうにもならないくらい感情が昂ぶっていた。

 良貴ははにかんだように会釈をした。周囲の仲間たち同様、典子の言葉を「弘志、カッコいいよ」の延長線上のノリだと受け取っていた。

「ホントのダンサーみたいだったよ、すごいすごい、どこかでちゃんと訓練とかしたの?」

「あ、いえ、別に…」

「えー、そうなのー。あのねー、だって」

 典子はそこまで言って、ちょっとだけ良貴の耳元に近づいて、

「…ヒミツだけど、弘志よりカッコよかったよ。ホント」

 と囁いた。

「…どうも」

 良貴はさりげなく言ったが、内心ではプライドが気持ちよくうずいた。

 弘志は、腕組みをしてしばらく良貴のチームの三人を見つめた後、言った。

「あのさー、…其田が真ん中の方が、身長的にバランスがいいんじゃないかな」

「別に、振り付けは変わらないから、それでもいいですけど」

 真ん中と右の位置だった二人は深く考えずに部長の言葉に従った。良貴も、「わかりました」と淡々と答えた。

 弘志はその後、ほとぼりが冷めた頃に良貴をつかまえ、そっと言った。

「…ホントはな、おまえが異常にうまいから、真ん中にしないとおかしいと思ってさ。でも、そう言ったらあいつらもプライド傷つくから、身長合わせにしといてくれよ」

「あ、僕は別に…」

 良貴はそう言ったが、「別に」なんてウソだった。本当は身長はコンプレックスで、だからちょっとばかり気に障っていた。とはいえ、それが事実なのは自分でもわかっていて、それがさらに自分をがっかりさせていた。でも、弘志がダンスを評価した結果なら言われた意味はまるで違ったし、他の部員に気を遣って自分への説明が後回しにされたこともかえって気分がよかった。弘志と自分の間にある信頼関係を感じられた気がした。

 OBの滝野川からは「最後の盛り上がりに欠ける」という指摘が入り、最後の空中技のメドレーの前に、ステージを暗くしてテンポだけで音のないサウンドを入れて、緊張感を高める演出をすることになった。音もステージもシンプルになるから、ダンスのウデで勝負しなければ舞台が締まらない。

「だったら、部長のソロとかですか?」

 弘志に好意をもっている女子の一人がここぞとばかりに言った。

「…俺一人じゃ、さすがに引っ張れないな…」

 弘志はまんざらでもなさそうに笑ってみせ、それから、

「其田、出る?」

 と良貴を見た。良貴は「えっ」と声に出して驚いたが、誰からも異論は出なかった。

「僕ですか?」

 良貴はあらためて聞き返した。客観的に見て、ちょっと見カッコいい弘志と、技術の高い良貴が出るのは妥当だった。漠然としたうなずきがあちこちから起こる中、滝野川が「じゃあ、決まりだな」と結論づけた。

 弘志と良貴はもう一パート練習が増えたが、程なくものにした。


 そして、リハーサルの日を迎えた。

 リハーサルは音響と照明が全て入る。出演者は学園祭本番では自分たちのステージを見られないから、典子は、良貴のステージが見られるこの日を楽しみにしていた。

「其田くーん、がんばってね」

 典子は良貴に声をかけた。冗談めかしていることしかできなかったが、典子は、もうどうしようもないくらい良貴に恋をしていた。良貴の落ち着いた静かな優しさが好きだった。目立たないのに、いざ競技だステージだとなると誰も何も言えなくなるほどの実力があって、しかもそれを淡々とこなす姿が好きだった。そして、いつも見つめているとわかる、時折そっと見せる自信ありげな微笑みが好きだった。

「其田くんのパート、すっごい楽しみにしてるー」

 良貴は何を答えるでもなく、ただはにかんだような会釈を返すだけだった。典子のいつもの冗談だと思っていたし、でもそれが自分の実力を評価したうえでの根拠ある冗談だと思ってもいた。

 弘志が後ろからチャチャを入れた。

「典子ー、そーやってプレッシャーかけんなよ」

「なんだ弘志、びっくりした。いたの」

「いるにきまってんだろ~。なんだよ、俺の出番は楽しみにしてないのかよ」

「え、だって、そんなの言うまでもないじゃん。でも、其田くんの出番を楽しみにしてるのは言わないと伝わんないじゃん」

「あっそ。…だってさ、其田」

 良貴は兄妹の仲むつまじいやりとりに、恐縮したように「どうも」と返した。典子に持ち上げられるのは少し慣れたが、臆面もなくちやほやするのは、自分を男として見ていないからにも思えた。

 典子は特訓のかいあって余裕でバック転ができるようになった。しっかり自分のパートで笑顔でバック転を決め、ステージ下で見ている弘志にピースサインをしてみせた。

「バーカ、余計なことすんな」

 弘志はそうつぶやいたが、嬉しそうなその目は恋するような喜びをたたえていた。そして表情をキッと締め、急いでソデにスタンバイに入った。入れ替わりに典子が美恵子と一緒に下りてきて、弘志の出番を待った。

「美恵ちゃんさあ、結局弘志とは映画に行ってから何にもないの?」

 典子は大音響に隠れて美恵子に訊いた。

「うん、何にも…」

 美恵子はうつむくようにして答えた。弘志の気持ちがわからずに、心に棘が刺さったような痛みをずっと抱えていた。

「一体どう思ってるんだ、アイツは~」

 典子がつぶやくと、曲が替わった。弘志がさっそうとステージ中央に出てきた。2人はしばし会話をやめた。他の部員も上手くなったが、どうしても弘志が目立つ。弘志が目立つパートなのもあったが、やっぱり客席に向ける余裕の笑顔と自信に満ちたまなざしが印象的だった。

「弘志って、別にそんなに顔がいいわけじゃないのに、なんでカッコいいんだろうねー」

 典子はつぶやいた。美恵子は、

「そうかなあ、顔だってカッコいいと思うけど…」

 と言った。

 弘志はステージから典子にちらちらと視線を送った。典子は弘志と目が合うたびに嬉しそうに笑った。弘志はそれを見るとさりげなく目をそらし、嬉しそうに視線を泳がせた。

 また曲が替わり、良貴のパートになった。途端、典子は良貴の姿に引き込まれていった。

(…典ちゃん?)

 美恵子は親友の変化にいち早く気付いた。典子の視線が追っているのが良貴なのもすぐに気付いた。部員全員が、典子の良貴びいきは兄の親友への冗談の一環と思っていたが、その時美恵子には、典子の姿が弘志を見つめる自分と同じに見えた。

 美恵子はいけないものを見たような気がして目を伏せた。良貴のチームのパートが終わると小さく息をついた典子のしぐさも自分と同じだったので可笑しくなった。典子が見せる初めての様子に、自分のことのようにドキドキした。

 ステージが暗転した。リズムを取るサウンドだけが流れ、スポットが画面をさっと横切った。弘志と良貴が一瞬だけ照らされ、緊張感が漂った。

 強いシンバルの音でスポットが二人に当たった。でも、その瞬間だけは弘志と良貴の身長差が目立ってしまって典子は悔しかった。

 動きはじめると良貴の軽快さがすぐに弘志とのルックスの差を埋めた。クライマックス前の「ため」の時間のはずが、この場面は十分見所になっていた。二人の動きは息がぴったり合っていて、良貴のほうが動きがシャープだが、手足が長い分弘志のほうが動きが大きく見えた。見た目がそれなりにカッコいい弘志に対抗して、ステージ上で負けない輝きを放つ良貴を、典子は呼吸も忘れて見入った。暗くて時折二人の姿が消えるようなライトワークのせいで二人の実力差は隠れ、見事なユニゾンになっていた。

「典ちゃん、出番、出番」

 典子は美恵子の声で飛び上がり、慌てて舞台ソデに走って行った。次は通称「打ち上げ花火」、色とりどりのライトに照らされての空中技の連続が待っていた。

 舞台が再び暗転してクライマックスのサウンドが鳴り、赤の光に照らされて男子部員が連続前方転回で両方のソデから舞台を横切った。それから典子ともう一人の女子部員が両ソデから踊りながら出てきて助走に入り、側転からバック転二回で着地してソデに消えた。弘志が側転、バック転、バック宙、良貴が前方転回から前方二回宙返り、それから他の男子部員が続き、最後の最後に良貴が素晴らしい高さのある月面宙返りで締めた。

「終了でーす」という声で講堂の電気がついた。ステージ下の部員たちと、文化祭実行委員の面々が皆拍手をしていた。

「すごいなー、体操部~」

「今年はさらにすごいよ、マジすごい」

 そんな実行委員たちの声があちこちで聞こえた。

「今年は其田くんがいるから違うね」

 典子はいつもの調子で良貴に満面の笑みを向けた。良貴は、

「え、そんな」

 と言いながらも、素直にうれしかった。他の部員たちは良貴に対して「あいつは違うから」という態度を決め込んでいて、良貴の実力を特に評価するそぶりを見せない。良貴もできるだけひけらかさないようにしていた。でも、何も評価されないのはやはり残念で、そっと認めてくれる弘志と、積極的に肯定してくれる典子の存在は良貴にとって嬉しいものだった。


 学園祭での本番も大評判だった。体操部のダンスに異例のアンコールが入り、予定外の出来事に弘志が、

「えー、部長の江藤です。アンコールは全く考えていませんでしたので、最後の空中技のところだけやります。来年は何か用意します」

 とコメントして、音楽なしで最後の「打ち上げ花火」の部分を再現した。

 部員全員で出てきてあいさつをすると、ステージ下から花が差し出された。

「典ちゃん、飯田くんだよ」

 美恵子に小突かれて典子は慌てて受け取りに行った。聡史は、

「なんや、花なんか用意したの、俺だけか」

 と困惑したような顔をして典子に花を渡した。合唱部や演劇部はカーテンコールでいつも花をもらっていたが、体操部に花が差し出されたのは初めてだった。拍手がいちだんと大きくなった。

 学園祭の成功を祝って、体操部は全員で焼肉レストランに行った。典子はずっと花を抱えていて、良貴は、自分が少しだけその花を気にしていることに気付いた。体操部にではなく、典子に花を持ってきたのは明らかだ。生徒会の役員だったかな、と良貴は思い返した。

「典子ー、花、持ってやろうか?」

 良貴の後ろから弘志が典子に声をかけた。あまりにタイミングよく発せられたその声に、良貴は口から心臓が出るほどドキッとした。

「ん、いいのー。自分で持つー」

 典子はご機嫌な様子で大切に大切に花束を抱いていた。

「典子先輩のカレシなのかな、花くれたの」

 すぐそばで1年生の女の子たちの声がした。良貴はその声が届かないところまで少し早足で歩いた。

 店に入ってみんなでテーブルにつき、注文を済ませると、早速典子に質問が飛んだ。

「江藤さんさあ、それくれたの、カレシなの?」

 典子は視界の隅に良貴の視線を感じ、慌てて答えた。

「違うよ、友達だよ」

「え、ただの友達~? 時々、ウチに遊びに来てるじゃん?」

 弘志が上目遣いでからかうように言った。典子は内心で飛び上がった。

「だからあ、友達だから遊びに来るんでしょう?」

 一生懸命言い返した典子は、美恵子に助け舟を求めた。

「ねえ、美恵ちゃんもなんとか言ってよ。友達だって言ってるのに」

 しかし美恵子は、典子の顔をのぞきこんで、

「…え、どうなのかな…。典ちゃんは友達でも、向こうはどうかわかんないと思うけど…」

 と言った。典子は泣きそうな気分になった。

「美恵ちゃんまでそんなこと言わないでよー。私と飯田くんは、お互いに絶対に友達だって確認し合って友達やってるんだからさー」

「言うに言えないだけってことも、あるし…」

 美恵子は言ってからハッと気がつき、そっと良貴を盗み見た。良貴は典子の顔を見ていて、明らかにこの会話に参加していた。

(典ちゃん、ごめん…)

 美恵子は心の中で謝った。そして、

「でも、典ちゃんはそんなつもりないんだもんね」

 とお姉さんのように優しく言った。

「うん、友達だもん」

 典子はその言葉に何とかすがろうとしたが、下級生の女の子たちが口々に、

「でも、ただの友達にしちゃ、花に金かかってそうじゃないですか~?」

「だって、体操部に花持ってきたの、あの人だけだったじゃないですか~?」

 と典子に攻撃を浴びせた。典子は、

「違うよ、そういうのじゃないよ」

 と一生懸命反論した。良貴は何食わぬ顔で会話を聞きながら、

(典子先輩は、そういうつもりじゃないんだ)

 と思ってホッとしていた。その気持ちは、典子に好意を向けられているのが自分でだけでありたいという独占欲のようなものに近かったが、良貴自身にその自覚はなく、

(…典子先輩のこと、気になるのかな、僕?)

 と思った。すぐに否定したが、そう考えた自分自身を気になり始めた。思いがけないきっかけで、良貴の方も典子を「気になる存在」と感じるようになった。


 学園祭の翌日、美恵子が家の電話をとると、

「須藤? 江藤ですがー」

 という声が受話器から聞こえてきた。

「え、江藤先輩ですか?」

 美恵子はびっくりした。確かに体操部の名簿に部員の家の電話番号は載っていて、互いに連絡先を交換していなければ他に連絡のしようはないわけだが、弘志がその情報を活用して自分に電話をかけてくるなんて、美恵子は想像すらしていなかった。

「…うん、あのさ、明日、学園祭の代休じゃん。ヒマ?」

 弘志は言った。美恵子はもっとびっくりした。

「え、それは、もちろんヒマですけど…」

 美恵子は、「あとでガッカリするから、期待しちゃダメ」と一生懸命自分に言い聞かせたが、どうしても「デートに誘ってくれるのかな」という期待を振り払えなかった。

「あ、そう。ヒマならさ、ちょっと出てこない?」

 弘志の言葉に、美恵子は心に大きな白鳥のような羽が生えた気がした。

「あの、はい、行きます」

 美恵子が必死で答えると、弘志はなんでもないようにあっさりと、

「じゃあ、明日、1時でいい?」

 と言って待ち合わせだけ決めて電話を切った。美恵子はドキドキしたままずっと受話器を握って立っていた。

 翌日、美恵子は必死でおしゃれをして出かけ、時間より早く待ち合わせ場所に着いて、ものすごくドキドキしながら弘志を待った。

「すみません、ちょっと道、訊きたいんですけど…」

 学生風の男の人に声をかけられ、美恵子は顔を上げた。見せられた地図を指差して方角を一生懸命教えたが、学生は、

「そこが見えるところまで、連れて行ってもらえないですか? 建物が見えてきたら、すぐに戻ってもらっていいですから」

 と言った。美恵子が時計を見ると、弘志との約束の時刻まではまだあと5分くらいあったので、わずかに考えた挙句、

「あ、わかりました、じゃあちょっとだけ…」

 と答えた。そして二人で歩きだしたとたん、

「須藤」

 と弘志の大声で呼び止められた。美恵子が慌てて振り向くと、弘志が交差点を渡ってくるのが見えた。

「あ、江藤先輩、ちょっと場所を訊かれて…」

 美恵子が言うのを終わりまで聞きもせずに、弘志はつっけんどんに、

「じゃあ、この先でもう一回訊いたほうがいいですよ」

 と学生に言った。

 去っていく学生の後ろ姿を見ながら、弘志は美恵子に、

「バーカ、ナンパされてんじゃねえよ」

 と口をとがらせながら言った。

「え、違いますよ、建物が見えるところまで案内しようとしただけです」

 美恵子が言うと、弘志は小さくため息をついて、

「それで、建物がわかったら今度は、お礼するから時間あるかって言うんだよ。お礼を断ったら、後日お礼をしたいから連絡先を…とか言ってくる」

 と言って美恵子をにらんだ。美恵子は素直に頭を下げた。

「…ハイ、気をつけます…」

「で、どこ行こうか?」

 弘志はそんな言い方をしたが、美恵子は戸惑った。その様子を見て、弘志は無邪気そうに首をかしげ、

「帰る?」

 と言った。

「え、いえ、そんな」

「じゃあ、どこ行こうか」

 美恵子は困惑した。弘志が一体なぜ自分を呼び出したのかわからない。そのまま、新宿を2人で歩き回った。

 夕方になって、弘志は新宿の小綺麗な喫茶店に美恵子を引っ張ってきた。

「あ、ここ、ここ。一度入ってみたかったんだよな。男は女性同伴じゃないと入れない喫茶店」

 お店の中は若い女性でいっぱいだった。2人は席に案内され、座った。

「ここさあ、前に男3人で入ろうとしたら断られちゃってさ。男だけはダメなんだって。ま、気持ちはわかるけどね。キタネエ男の集団がいたら、女の子寄りつかないもんな」

 弘志はメニューをしげしげと見つめた。

「俺、こーいうの、結構好きなんだよね。クレープと生クリームにソースかかってるやつ。おまえは、何にすんの?」

「あ、私このおすすめの木の実のハチミツアイス…」

「うわっ、甘そう」

「え、でも先輩だって生クリームとソースじゃないですか」

「俺のもおまえのも甘そうなんだよ。別におまえのだけが甘そうだなんて言わないよ」

「じゃあ、そんな嫌な言い方しなくたって…」

「違うんだよな~、この、『うわ、甘そう』っていうくらい甘そうなの、好きなんだよ」

 美恵子はくすくすと笑った。

 デザートが運ばれてくると、弘志はすごく嬉しそうにクレープを切りはじめた。カッコよくていつもお兄さん然としている弘志が、子供みたいに甘いものを喜んでいるのが可笑しかった。でも、美恵子は、

(これだって、どれだけ女の子ウケを狙ってるのかわかんないんだよね…)

 と思った。弘志に関して言えば、とりすましてコーヒーを注文するよりも、こういう態度がとても魅力的だった。

「でさ、俺、おまえに訊きたいことがあるんだけど」

 弘志は水を飲みながら美恵子に言った。

「はい?」

「あ、そのアーモンドのとこ、ちょっとちょうだい」

「え、はい」

 弘志は美恵子のちょっととけかかったアイスの、アーモンドとピスタチオの載った蜂蜜たっぷりの部分を腕を伸ばしてすくった。

「で、俺、ちゃんと考えたんだけど、おまえのこと、好きとか愛してるとか、なんかそういう風には簡単に思えなくってさ」

 弘志はとてもライトにそう言って、美恵子から巻き上げたアイスを口に入れた。美恵子は凍りついた。こんなに唐突に、そして簡単に告白の答えを返されるとは思わなかった。

「あ、ゴメンゴメン、そうじゃなくってさ」

 弘志はまだ紅茶のあまり減っていないカップにポットからさらに注ぎ足しながら言った。美恵子はずっと凍りついていた。

「それでも、俺とつきあう気があるかって訊きたかったんだけど、どう?」

 弘志にしてみれば、これでもさんざん悩んだ末の決断だったし、こんな話をするのは気恥ずかしくてどうしようもなかった。態度はめいっぱいの照れの結果だった。

「え、あの、それはどういうことですか?」

 美恵子は弘志の真意を測りかねた。弘志は紅茶のカップを口に運び、熱くて慌てて唇を離した。

「これでも俺、緊張してんのよ。つきあおうか、って言ってるんだけど」

 弘志はそう言うと、水のコップから上手く氷を吸い込んでアメのようにしゃぶった。やけどしそうになった口が冷えた。

「…でも、あの…好きって思えないって…」

 美恵子は突然の弘志の言葉に混乱していた。好きじゃなくて、愛してると思えなくて、それでつきあおうかと言われても困る。

 弘志は口に入れた氷をがりがりと噛んで水で流し込み、言った。

「うん。まあ俺の正直な気持ちなんだよね。今、俺、誰か女の子一人選べっていわれたら、おまえを選ぶと思うんだよ。だから、おまえに好きだって言われたら俺としても嬉しいし、それならつきあってもいいって思うんだけど、俺の気持ちって恋なの? …っていうと正直、おまえのこと、好きとか愛してるとか、そこまで思ってるとは言えないんだよね。それでつきあおうってのも失礼じゃない。とりあえずつきあってみて、それから考えようかとも思ったんだけど、なら誠意をもって、正直に話してみようかなと思ってさ」

 美恵子はぼうっと弘志の顔を見ていた。

「あのさ、俺の言ってること、わかってる?」

「…はあ、…なんとなく…」

 弘志は自分を動かしているねじが切れそうになり、深く息を吸ってもう一度気合いを入れた。女の子に「つきあおう」と言うのは、やっぱりどうしてもパワーを使う。

「おまえが、好きでつきあうんじゃなきゃ嫌だっていうんだったらね、このままでもいいんだよ。でも、まあ、俺としても、おまえに対して好意はけっこうあるわけ。それでいいんなら、つきあおうよって言ってるの。それともやっぱ、好きじゃなきゃ、つきあってほしくない?」

 美恵子はしばし悩んだ。

(好きじゃなくて、愛してなくて、恋愛感情じゃないけど、好意はあって、でも、つきあおう…ってこと? これって失恋? それともハッピーなのかしら?)

「わかった、ゴメン、いまのナシ。忘れて。ダメならいいんだ。俺も、調子いいこと言ってるなって思ってるから」

 弘志は目を伏せたまま額の前で手を横に振った。途端、美恵子は顔を上げて言った。

「ダメじゃないです。だって、つきあってくれるんですよね?」

 弘志はがんばって作った不自然な笑顔で美恵子を見返した。

「ん、まあ、そういうことだよ?」

 美恵子は潤んだまっすぐな瞳で弘志を見つめていた。弘志はそんな美恵子を「やっぱり綺麗だな~」と思った。

「だったら、つきあってください。消極的でも、消去法でも、なんでもいいです」

 一生懸命な美恵子の様子に、弘志はかえって罪悪感を覚えた。

「あ、…そう、おまえがいいんだったらそれで…」

 弘志がそう言うと、美恵子は本当に嬉しそうに笑った。その少しはにかんだようなやわらかくて華やかな笑顔を、弘志は芍薬の花のようだと思った。

 帰りがけ、美恵子は弘志の袖をつかんで、

「私、頑張りますから、ちゃんと、好きにもなってくださいね」

 と言った。弘志は美恵子がまぶしくて目をそらし、

「ん、俺なりに努力する」

 と答えた。美恵子はそんな弘志の態度に不安になって、

「あの、江藤先輩、私…今日から先輩の彼女だって思ってもいいんですよね?」

 と訊いた。弘志はどぎまぎしつつ、

「おまえが納得したんだったら、いいよ」

 と答えた。じゃあ俺は彼氏なんだ、と思うとなんだかやっぱりピンと来なかった。

 待ち合わせは新宿だったが、ご近所同士の2人はお互いの家のそばの交差点で別れて帰宅した。美恵子には成就の、弘志にはついに陥落の日になった。

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