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29 クリスマスのお願い


 良貴は不思議な気持ちで遥を待っていた。

(…予定がなくなったって…誰と予定があったんだろう)

 でも、そんなことを訊くのは野暮だ。

 遥はすらりとしたデザインのくすんだピンクのコートでやって来た。パールの入った白っぽいアイシャドウをちょっとまぶたの外側に散らして、耳を出して小さな熊のピアスをしていた。良貴はそれなりに考えて服を選んだつもりだったのだが、やっぱりコートの中のSサイズの地味な黒いジャケットに気後れを感じた。

「どこ、行く?」

 遥はわざとらしいくらいの微笑みを見せた。ときどき表情が芝居がかっているのは、多分気のせいではないだろう。

「…実は、急だったし、何がいいかわからなくて…クリスマスプレゼント、買ってないんだ。だから買いに行こうよ」

 良貴は、海外旅行にでも行こうと思って最近作ったクレジットカードを財布に入れていた。

(…こういう女の子って、いったい、どのくらいの値段のものを欲しがるんだろう。やっぱり、ケタが違うんだろうな…)

 見当もつかなかった。典子はそれこそ千円でも二千円でも良かったし、去年のクリスマスにあげたネックレスは五千円だった。

 遥はあごをひいて良貴を上目遣いに見ながら(あごをひかないと、身長差がなくて上目遣いにならなかった)、

「…予算は?」

 と訊いてあげた。

(江藤さんなら、ふっかけるんだけどね。其田さんじゃカワイソウだから)

 ここで調子に乗って十万のバッグや二十万のアクセサリーをねだったら本気にしかねない。最低ラインの二、三万くらいで勘弁してあげようと思った。

 良貴は遥がそんなことを訊いたので驚いた。

「え、…プレゼントは、値段じゃないでしょ?」

 一応そう答えたが、いったいいくら使うハメになるのか不安ではあった。

 見栄を張ってるな、と遥は思った。それで、

「…其田さんの腕時計、いくら?」

 と訊いた。

「え、これ?」

 良貴は時計を見た。

「これは、…」

 見栄を張りたくもあり、虚勢を張るのは男らしくないとも思ったが、結局良貴は倍の値段を答えた。

「一万」

 遥は「わーお」と思ったが、表に出さずにニッコリ笑って、

「そのくらい、かな」

 と言った。予定より低いけれど、どうしても良貴に貢がせる気にはなれなかった。

「じゃ、私もその額でなにかプレゼントするから、一緒に買い物に行こうよ」

「燕さん、僕はいいよ。それに、女の子に同じ値段で返されたら僕の立場もないでしょ」

(あら、わかってるんだ)

 遥はくすくす笑った。そこには不思議な安心感があった。クリスマスに会って高価な贈り物をもらったら、ホテルを断りにくい。でも、良貴にそんな思惑はないだろう。

 良貴は一万と言われてホッとした。

(じゃあ、二万か、三万くらい?)

 高い出費だけれど、クリスマスだからそのくらいはアリだと思った。

 遥は昔の恋愛を思い出していた。高価なものをもらい慣れている方が格好良かったし、そうでなければナメられてしまう。高価なものを用意している男は、女を何事もないまま帰すつもりはない。面倒だが、それでも、クリスマスに約束がないなんて格好がつかない。それが普通だと思っていた。でも、ここにそういう空気はなかった。

 デパートのアクセサリー売場を見て歩き、良貴は遥になんとか二万円とすこしするアクセサリーを選ばせた。

「いいの? もっと安いのでいいのに」

 遥は言った。こんなことを言うのは初めてだったが、なんだかこれでいい気がした。

「言ったじゃない、プレゼントは値段じゃないから…」

「…ありがとう」

 かわりに何かを寄越せと言われる可能性は、やっぱり良貴の瞳の中のどこにもなかった。

(…江藤さんて、どうなんだろ?)

 なんだか謎だった。あんまり女の子に高価なプレゼントをするようには見えない。女の子に貢がれるようにも見えない。身につけているものは皆、品物は悪くなさそうだが人気の高級品ではなくて、まるで値踏みできない。弘志が今日、どんなクリスマスを送っているのか全然わからない。特定の子を決めないためにシングルベルを決め込んでいても、それが格好いいようにも思える。

(誰かひとりに縛られたくないから…か)

 遥は良貴に気づかれないようにため息をついた。弘志に手が届かない。つかまえられない。それなりに男の子の扱いには慣れたはずなのに。そしてその一方で、良貴は手を伸ばせばそこにいてくれる。

「私にも、其田さんに何かプレゼント贈らせてよ」

「僕はいいよ。今日、声かけてくれただけで」

 その声から伝わる誠実さに、遥はささやかな幸せが湧き上がるのを感じた。

「…ねえ、其田さんって、昔…彼女とかって、いたの?」

 言ってから遥は、「いた」前提で会話しなければ失礼だったなと反省した。本当は、相手がいたようには思えないけれど…。

 だが良貴にとっては単純に「十八歳だから」当然彼女がいる、いたということにはならず、遥かの質問に疑問も不満も感じることはなかった。

 良貴は返事をためらった。詳しい話にならないよう祈りつつ、答えた。

「…いたよ、一応」

 言いづらそうな口調から、遥はウソやハッタリではないと読み取って、少し驚いた。

「どんな人? 高校の時?」

「うん、部活の…人だよ」

 先輩と言いそうになって、それは避けた。

「体操部? …どんな子だったの?」

「そうだね、素直で、かわいい子。妹みたいに」

「なんで別れたの? 今もかわいいとか言えるんだから、嫌いになったんじゃないんでしょ?」

 良貴は苦笑した。やっぱりそんな話になった。

「僕に、好きな人ができちゃったから」

「そうなんだ。じゃあ、ふっちゃったの?」

「…まあ、…そういうことになるけど…」

 良貴はできるだけ話を軽く終わらせたかったが、うまく会話を誘導できなかった。

「ねえ、私って、何人目?」

「えっ」

 遥は至近距離から思いっきり良貴の瞳をのぞき込んだ。良貴は動揺したが、努めて冷静にふるまった。

「…何が?」

「だって、私のこと、好きだって言ってくれたでしょ?」

 こんなにライトに口にされると、自分の大切な気持ちが、まるで何でもないことのような気がした。恋心はこうして簡単に話題になって、数で数えることができる。

「それはそうだけど、…何人目かっていうのは…ノーコメント」

「えー、うそー。…ちょっとショック。結構其田さんって惚れっぽいんだ」

「あ、そうじゃなくて」

 良貴は遥の解釈に面食らった。気が多いと思われるくらいなら、正直に言った方がマシだ。

「…2人目だから。なんだか、言いにくくて」

「え、それって」

「いろいろ話すのは彼女に失礼だから、…悪いけど、これ以上は言わない」

 ギュッと口を結んだ良貴の横顔を窺うと、遥の胸が締めつけられるように甘くなった。昔の彼女に義理立てる男を初めて見た。昔の彼女とのことを「話すのは失礼」だなんて。男の口から過去の恋人の話が出る時は、自分がもてるという自慢か、ジョークのネタにするか――そういう相手としか出会ってこなかった。

「…優しいんだ。昔の彼女にも、それと私にも。言えばよかったのに、彼女と別れた分も責任とれって」

「それは僕の問題でしかないから。君には関係ないよ」

 穏やかに目を伏せて良貴は言った。そう、遥に何かを要求するために典子と別れたわけじゃない。典子だってそんなことに使われたくはないだろう。

 遥は強い口調にドギマギしつつ、もう一歩踏み込んでみた。

「ねえ、じゃあ、訊いたら怒るのかな」

「え、内容によるけど…」

「…その彼女って、ガールフレンド的なもの? 普通のカノジョ? 私、どう解釈していいの?」

 良貴は、遥が「その人とはどこまでの関係だったのか」と訊いていることを理解した。まだ若いのだからとキスだけに留めていたことは自分なりの誇りだが、やはり遥に典子との交際の深さを話す気にはなれなかった。

「それはノーコメントにさせて」

(そっか、…じゃあ、別に童貞でもないんだ。勝手にそう思ってたけど…)

 遥にとっての「普通の恋人同士」の認識と、良貴にとってのそれは乖離していたが、お互いにその違いに気づくことはなかった。

「じゃあ、どのくらいつきあってたの? 期間は…」

「それも…」

「答えて。聞きたい。…だって、聞かないと其田さんってどんな男の人なのかわからないじゃない」

 良貴はやっと、遥が自分に異性として興味をもっていることに気付いた。少し心が弾んだ。しばらく慎重に考えてはみたが、交際期間だけなら、典子を貶めたり傷つけたりするような要素は薄いだろう。

「…じゃあ、それだけは。…一年かな。だいたい」

「そうなんだ。…うん、もう訊かない。其田さんの意外なこと、いろいろわかった気がする。いい意味で、裏切られたかも」

 遥は、今まで一度も良貴に向けたことのなかった、一番媚びた視線を送った。

「ねえ、おなかすかない?」

 遥は良貴の腕をとった。

「ディナーはご馳走して。クリスマスだから、いいでしょ?」

「いいよ。そのつもりで来てるよ、僕だって」

 腕につかまって歩きだした遥の意図を、良貴は測りかねた。

(…これは、燕さんが僕のことをどうにか思ってるっていうことじゃないんだ)

 うかつな期待をもたないように、良貴は自分を戒めた。

(でも、こんなに簡単に、男の腕につかまって歩けるんだ)

 自分の感覚ではやっぱり違和感があったし、典子だったら彼氏以外の男の腕につかまって歩くことは絶対にないだろう。まあ、肝試しでは、状況によるかもしれないけれど。

 二人で無難な洋食の店で食事をして、イルミネーションにまばゆく飾られた街を歩いた。うっかり少しだけ歩きすぎたら、ちょっと怪しい裏路地に出た。良貴は「HOTEL」の文字を見て慌てて踵を返した。

「あ、わざとじゃなかったんだ」

 遥は意味深な顔で笑った。そしてそのままの顔で、

「寄ってく?」

 と続けた。良貴は反射的に、

「そんなつもりじゃないよ」

 と言って、遥を引っ張ってその路地を離れた。遥は声を立てて笑った。

「やだ、冗談よ。どうせ混んでて入れないし」

 その何気ない言葉は良貴の耳に重く響いた。だが遥は、そんなことで良貴が少なからずショックを受けたなんてちっとも気付かなかった。

 しばらくクリスマスの街を歩き回り、夜も更けたので帰る駅に向かった。駅前はイブのロマンチックな気分にふさわしくないほど雑然としていた。

「あ、そうだ、其田さん。プレゼントのお返しするね」

 駅前の壁際に追い詰めて、遥は軽く良貴の唇にキスをした。身長差がなくて、とても楽だった。

「出会った頃より、私、だいぶ其田さんのこと好きかも」

 遥は上目遣いに良貴を見つめ、一方的に言った。

「…もっと、私のこと、頑張ってよ。私も、もっと好きになりたいから」

 良貴はキスに動揺して、折角の遥の言葉に気のきかない返事すら返せなかった。二人の乗る電車は反対方向で、遥の電車が先に来た。

「また連絡してね。待ってる」

 手を振って電車に乗り込むと、遥は人の間に埋もれていった。

 遥を乗せた電車の巻き起こす夜風にあおられながら良貴は呆然と立っていた。

(…このままいけば、もしかして…恋人同士になれるのかな)

 でも、遥がホテルに入った経験があるらしいこと、簡単にキスをしてきたことが心の中に渦を巻いていた。彼女にとってはキスなんてちっとも重大じゃなくて、もう何人目の人との何十回目の出来事なのかもしれない。

(それとも、僕は遊ばれてるだけなのかな。今日も本当は、誰かと…)

『寄ってく?』――冗談なのはわかっていた。ナメられているのもわかっていた。

 恋愛がわからないつもりはない。でも今、遥とのことを考えていると、わからなくなってくる。キスは、典子と初めてした時とは違って、とても簡単なものだった。

 そもそも、遥と「うまくいく」というのは、どういう状態になることなのだろう。

(…燕さんから「好き」っていう言葉が聞けたとして…それは、どの程度のものなんだろう? そして、僕が彼女にキスをしたとして、それはどの程度のものなんだろう?)

 好きだと言ったら、キスをしたら、それは決定的な関係のはずだった。でも、遥にとってはたぶん、ちがう。

 イブに誘ってくれたのも、「以前よりずっと好き」と言われたのも、キスしてくれたのも嬉しかった。でも、良貴には自分と遥の未来の姿が見えなかった。


 典子は多分生涯で一番「カッコいい」クリスマスを迎えていた。夕方から龍一郎と会って、イルミネーションのきらめく横浜の遊園地を歩いて、夜景の見えるホテルのレストランで食事をしていた。席は見晴らしのいい窓辺だったし、クリスマス特別ディナーと銘打ったそれは、たいそう豪華で、とても高そうだった。

(うわー、プレゼント、フンパツしてよかった…)

 典子は龍一郎に贈るプレゼントを、良貴の時の感覚で数千円のレベルに考えていた。弘志はそれを察知して、「龍一郎は万の単位のプレゼント買って、デート代も万単位でかけてくるから、なめてかかるなよ」と言ってくれた。おかげで典子は貯金をおろして弘志につきあってもらい、決して失礼には当たらない、それなりの腕時計を買うことができた。龍一郎が気分で時計を変えるから、時計ならいくつあってもいいだろうというのも弘志のアドバイスだった。

(去年は其田くんちでお手製ケーキだもんね。こんなすごいの、全然考えなかったよ…)

 この「すごい」クリスマスに典子は恐縮しきりだった。もらったプレゼントはお洒落で高そうな革のバッグだった。色はワインレッドで、白いふわふわした飾りがついていた。典子はその日、黒いツーピースを着ていて、コートはちょっとくすんだ濃い緑だった。龍一郎は典子の持ってきた黒のバッグを見てすぐに自分のプレゼントを開けさせた。

「今日の格好だったらそういうカジュアルなバッグよりせっかくだからこっち使ってよ。ゴージャスになるし色もアクセントになるし」

 典子もお洒落に気を遣ったつもりだったが、龍一郎の言うとおり、黒と緑にバッグのワインレッドが入ったらエレガントで華やかになった。

(けっこうオシャレ系のひとだったんだ)

 典子は今頃びっくりした。だって人の持ち物のブランドなんかチェックしないし(そもそも、ブランドがよくわからない)、男性の服についても「清潔ならいい」としか思っていなかったし、デートは散歩でかまわなかった。

 夜景の先に海が見え、その向こうにベイブリッジが見えていた。典子は世の中にこういうデートが存在することは知っていたが、ずっと自分には関係ないものだと思っていた。

「典子ちゃんって飲めるほうだよね」

 龍一郎が訊いた。典子は笑顔で、

「飲めますよ~。弘志の妹ですから~」

 と答えた。

「そーだね、アイツも平気だもんね」

 龍一郎は失笑した。車より酒が好きだからと、弘志はいつも龍一郎の車で移動している。

「あのさ、このあとこの最上階のバーに行かない? 予約してあるんだけど」

「バー…?」

 なんだか大人の人が行くようなところだが、予約してあるんなら行くしかないだろう。

「わー、私、初めてです~」

 龍一郎もまだ二十歳、デートの経験はそれなりにあったが、こういうデートに詳しいわけではない。きっと無邪気に喜んでくれるだろうと、典子のためにいろいろ調べてセッティングした。プレゼントもちょっとしたブランドの新作だが、気付いていないだろうなとそっと笑った。典子のそんな純粋さが今の龍一郎には新鮮だったし、楽しかった。

(マイ・フェア・レディだな~。スタイルもいいしもっと綺麗になりそう。髪の色ちょっと抜いて、顔が丸顔だからセミロングぐらいにした方がいいかな。くせっ毛だから無理にまっすぐよりパーマかけたほうがいいかな)

「典子ちゃんは自分を変えたいと思う?」

 龍一郎は訊いた。典子は少し考えて、

「…そうですね、変わりたいですね」

 と答えた。

 典子には今夜、なんだか、良貴のことが遠い昔に見た夢みたいに感じられていた。別れたのは春。今は冬、そしてあと一週間で年が明ける。

(もうすぐ、其田くんの誕生日だな…)

 お互いに年末生まれと年始生まれで、「自分の方が悲惨だ」と言い合った懐かしい日。良貴のために自分を変えようと思っていたけれど、もう、そんなのも意味がないのかもしれない。もしも変わるとすれば、自分のために変わるべきだという気がした。

 龍一郎の声で我に返って、典子は顔を上げた。

「ねえ今度、俺の友人紹介するからカットモデルとかやらない? ちょっと実験されちゃうと思うけどメイクとかもしてもらおうよ。典子ちゃんって化粧品は何使ってるの?」

「えっ、…日焼け止めとマユゲ鉛筆と、口紅はピンクと赤だけ持ってます」

「そうじゃなくて…どこの?」

「…どこって?」

「え、…化粧品のブランド…」

「あ、大学の駅前に、いろいろまとめて安く売ってるところがあるから、そこで…」

「…そう。…じゃあ誕生日は化粧品一式プレゼントしようか?」

「えー!! やめてください、そんなの、無駄な出費ですよ!!」

 典子は悲鳴をあげた。朝、大学に行く時だって、化粧をするヒマがあったら寝ていたいくらいだ。

「あって損はないよ。あとね…化粧に興味ない子って化粧の仕方知らないだけだよ。化粧うまくなるとびっくりするくらい綺麗になるし…けっこうハマると思うけど」

「…え、そうですか…」

 典子は肉料理の隅の温野菜をもじもじつついた。綺麗になると言われると、女の子は弱い。

「…プレゼントとかは、そういうの困りますけど…。私ちゃんとお金下ろすから、買い物つきあってもらえないですか?」

「…そう? じゃあ、口紅くらいプレゼントするよ」

「でもー…」

「誕生日に何も贈らないわけにいかないでしょ。じゃあ、そうしよう」

 正直、このクリスマスに気張ったこともあり、それなりのレベルの化粧品をあれこれ贈るのはキツい。だが女の子に化粧品を一式贈って、その子が見違えるほど綺麗になったなら、それはそれで男のロマンだ。ワガママな女の子に、まるで有難がられることなくもらわれていくプレゼントに金をかけるよりずっといい。

 龍一郎は典子との今後のつきあいが楽しみになった。なんたって、クリスマスイブの予定を押さえたのは大きい。今は友人ということになっているが、この一大イベントを2人っきりで過ごした以上、典子にとってのオンリーワンになれたわけだ。

 ボーイが通りかかるたびに典子にワインをついでいた。龍一郎は、

「あ、そんなに無理して飲まなくてもいいんだよ」

 と言った。自分は車だから、雰囲気のために口をつけた程度だった。でも当然ワインは一本頼んであったから、けっこういい量残っていた。

「えー、だって、もったいないですよ。おいしいし」

 典子は嬉しそうにちょっと甘めの白ワインを飲んでいた。龍一郎は微笑んだ。

 今までの「カノジョ」たちに対しては、デートの要素の一つ一つが品定めされているように感じた。それが典子を相手にすると一種の自己陶酔に変わった。「君はわからないだろうけど、こういうものなんだよ」と思うと自分が至極いい男に思えた。

 ホテルのバーも窓際が予約してあった。

「同じホテルからだから、夜景がおんなじでつまんないかもしれないけど…」

「えー、ううん、すごい、なんかムーディーです。感動的」

 席も、向かい合ってではなく、横に並んで座って夜景を見られるようになっていた。テーブルの真ん中には不思議な青い光を放つ液体の揺れるグラスがあり、小さな赤い造花が浮かんでいた。典子は不思議そうにのぞき込んだ。

 共通の話題がスポーツで、ちょっとクリスマスイブには似合わなかったが、目下「友達」の2人にはそのくらいがちょうど良かった。

 22時半に2人はバーを出た。

「じゃあ、帰ろうか」

 龍一郎はニッコリした。典子もニッコリした。ホテルの駐車場から車に乗り込んだ。

 まっすぐ典子の家に向かって車を走らせていたはずが、途中で龍一郎は、

「ゴメン典子ちゃん、ちょっと遅くなってもいい?」

 と言い出した。

「…え、なにか、どうかしたんですか?」

「…うん、飲まなかったつもりだったんだけど、それでも乾杯で少し口つけたからちょっとだけ酔ったみたい。事故やったらシャレんなんないし飲酒運転でつかまってもなんだし一度俺の家に寄って休んでからにしてもいい?」

 実のところはまるっきり酔ってなんかいない。このセリフまで初めから決めてあった。それなりに経験を積んだ女の子ならこの程度の思惑はすぐに見破るだろうが、典子にそんなスキルがあるはずもない。龍一郎が横浜を選んだのは、典子を送っていく直線上に自分の家があるからだ。車で帰る途中「ちょっと酔った」と言えば、流れで部屋に引っ張り込むのは簡単だろう。あるいは典子が電車で帰ると言いだすかとも思ったが、杞憂だった。

 本当に簡単に、典子は龍一郎の部屋に連れ込まれてしまった。典子にだってちょっと不安はあったが、友人でもあり、弘志の妹でもある以上、変なことはできないはずと考えていた。まかり間違ってそういう事態になったとしても丁重に断ればいいはずだ。

 それと、実は典子もちょっと酔っていた。一人でワインのフルボトルを4分の3ちかく空けた後、バーでカクテルを2杯飲んだ。典子の思考能力は普段よりだいぶ落ちていた。

 龍一郎の部屋にはコタツがあって、典子はその雰囲気にもホッとした。

「あ、コタツだ」

「カッコ悪いかな?」

「ううん、なんかイイ感じ。アットホームです。やっぱ、冬はコタツですよね」

「…そうだ、遅くなっちゃうこと、家に伝えておいて。俺がカッコ悪いから道が混んでることにしといてよ」

 この状況が江藤家(特に、弘志)に知れたら困る。今はあくまでも帰る途中だ。

 典子はそんな細工に気付くこともなく、龍一郎が発信してくれた携帯電話で江藤家に電話をかけた。家の電話を母の澄子がとり、典子の「道が混んでいる」という嘘に「気をつけてね」と答えた。いつもいい子にしている典子が、こんな時間に男の部屋に二人でいるなんて、澄子は思いもしなかった。

「気をつけるのは、ドライバーだよ。私乗ってるだけだもん。じゃあねー」

 典子はそう言って電話を切った。

「…典子ちゃん、結構嘘うまい?」

「え、なんでですか?」

「いかにも今車に乗ってるようなこと言ってたから」

「あー、私、結構ウソツキかもしれないです。でも、今自分はこういう状況なんだ、ってバーチャルな気分になってしゃべってるだけで、嘘をついてる自覚はないんですけど」

 2人は笑ったが、龍一郎は違うことを考えていた。

(…てことは、やっぱり弘志の抱いてる典子ちゃん像は、本当の姿じゃないんだな)

 じゃあ、やっぱり一人前の女性としてお相手しなければ、と龍一郎は思った。とりあえずは、一応ちょっと休憩だ。龍一郎は典子を座らせ、一緒にお茶を飲んで、

「ちょっと10分くらい休ませて。すぐ送ってくから」

 と言ってコタツで横になった。

 典子は、しばらく所在なく周りを見回したりしていたが、やがて猛然と眠くなってきた。人の家で勝手に寝るのもな…と頑張ってみたが、いつの間にか意識が途切れがちになった。

 そろそろいいかと龍一郎が起きると、典子はやや不自然な姿勢のまま眠っていた。

(あら~、こんなんでどうするんだろうねこの子)

「典子ちゃん」

 龍一郎は声をかけた。肩を優しく揺すると、もうすぐそこに目を閉じた唇があった。

(…惜しいな~。でも、典子ちゃんの自覚がないときにしてもね)

 典子は朦朧と目を覚ました。

「あ、ごめんなさい、寝ちゃって…」

 ゆっくりと起き上がったが、なんだかふらふらした。眠って気が緩んで、一気に酒が回っていた。龍一郎は背中に手を回して典子の体を支えた。

「すみません、…あれ?」

 ゆっくりと天井が回っている。

「大丈夫?」

 龍一郎は典子を抱きかかえた。典子の運命は、今まさに龍一郎の手中に委ねられた。

「ゴメンね、ちょっと飲ませすぎちゃったかな」

 まことしやかな声をかけながら、龍一郎は抱き寄せる腕を強めた。

(あったかいな…)

 典子はグラグラする視界の中でぼんやりと思った。龍一郎はとても優しくて、いつも親切で、面倒見がよかった。とても頼りになる人だった。体を預けてリラックスしている自分が不思議だった。こんなことは、良貴にしか許せないはずだった。

(…其田くん)

 なんだかただひたすら悲しかった。良貴との距離を感じた。

「典子ちゃん起きてる? 話、しても平気?」

「平気です、頭は起きてます。体が重いだけ…」

 龍一郎はよっぽどこのまま典子を押し倒したいと思った。起こしてあげただけでも誠意を尽くしたつもりだ。でも、弘志に「順序を守れ」と言われたことがどうしても気にかかって、強行突破はできなかった。

「典子ちゃん、俺とつきあってくれないかな。友達じゃなくて恋愛の相手として」

 典子だって本当は、ずっとそんなことには気付いていた。友達になってほしいとわざわざ告げる意味も、もっと知り合いたいというニュアンスも正しく理解していた。そして龍一郎が熱心にしている女の子が自分だけだということも知っていた。

 龍一郎が返事を待っていたので、典子はなんとか目を開けて顔を上げた。すぐそこに龍一郎の顔があった。

(…優しいんだな…。それに、ちゃんと話をしてくれるんだ。だって、今無理矢理なんかされたって仕方ない状態なのに)

「俺じゃダメかな。大切にするよ。今日だって俺一生懸命段取りしたんだけど…デートつまんなかったかな」

 龍一郎の熱心な瞳を見ながら典子が感じたのはとてつもない淋しさだった。良貴はいつも典子に対して優位に立っていて、典子はひたすら追いかけていた。なのに目の前の龍一郎は、まるで大切なものにかしずくように優しい言葉を投げている。良貴だって大切にしてくれていたと思う。でも、典子はどこかで、自分が良貴の「所有物」のような気がしていた。龍一郎の側で想いを投げつづけられて、良貴のわずかな冷たさや、典子を所有することで自分自身を満たしたいという傲慢さに気付いてしまっていた。

 良貴から遠ざかった自分…。良貴が自分から遠ざかったのではなくて、典子自身が遠くまで来てしまっていた。典子は淋しくて涙がこみ上げた。

(私は、其田くんが好きだから、ダメ…)

 そう思っても唇は動かなかった。もう、本当はそう思っていない気がした。

 龍一郎は典子の中で起こっている迷いをわずかに感じ取った。昔の男のことを考えているんだろうという想像はできた。でも、だったら力ずくで忘れさせるだけのことだ。

 龍一郎は典子にキスをした。典子は少し驚いて逃げようとしたが、掌の小鳥は無力だった。唇が触れてしまうと、もっと大きな絶望が典子を襲った。

(其田くん以外の人にも、私は、キスをされちゃったんだな…)

 もう抗う気力なんかわかなかった。触れた瞬間に典子の唇は良貴一人のものではなくなった。それが何秒続こうが、大した違いなんかなかった。

 龍一郎はこのまま先に進みたかったし、いつもなら容赦なくそうしていたが、最後の最後でどうしても弘志の言葉が気になった。龍一郎は誠意をこめて言葉をかけ続けた。

「…ゴメン、でももう友達は卒業しようよ。そしたらもっと幸せにしてあげられるよ」

 典子の中で、さっきのキスが良貴へ続く最後の道を閉ざした。

「彼女になってくれないかな」

 龍一郎の熱いまなざしに、典子はゆっくりとうなずいた。自分が流されていくのを感じてめまいがした。気がついたら、龍一郎の腕に抱かれたまま床に倒れていた。

 どういうことだろう、とぼんやりと考えた。龍一郎が覆いかぶさるようにのしかかり、首筋に唇を触れてきた。グラグラしてとても眠くて、熱い吐息が首筋にかかるのを漠然と感じた。上着のすそから龍一郎の手が入ってきた。2度目のキスが唇をふさぎ、下着の上から胸に触れられるのを感じた。龍一郎の膝が典子の脚を割って間に入ってきた。

(…其田くん、私は、変わってしまうの?)

 多分自分が何をされようとしているのかはわかっている。その証拠に、だんだん体がこわばって、体中の筋肉が鈴のように震えはじめていた。

(其田くんは、こういう風にしてくれなかったね…)

 抱いてくれるならそれでもいいつもりだった。でも良貴は求めなかった、それだけのことだ。典子だって、子供のようにしていても、本当はなんでも知っている。

 典子はなんで自分が抵抗しないのか不思議だった。なぜか体が動かなくて、異常に心臓が早鐘を打っていて、全身がどんどん硬くなっていた。脚が震え、手が震え、それから気付くとぼろぼろと涙をこぼしていた。

 さすがに龍一郎も典子の異常に気がついた。典子の反応はまるで病気か何かのようで龍一郎を戸惑わせた。今まで抱いた女の子にこんな反応はなかった。順序として、女の子は恥じらった後に委ね、それから感じて声を上げることになっていた。

(…まさか、ホントに…はじめてってことなの?)

 龍一郎の手が止まったので、典子は妙に冷静に「どうしたんだろう?」と思った。もうこのままどうにかされてしまうのを覚悟していたところだった。

「典子ちゃん、まさか、…はじめてなの…?」

 静まり返った部屋に龍一郎の声がかすかに響いた。典子はガタガタ震えたまま、たどたどしく、ゆっくりうなずいた。龍一郎はものすごく迷ったが、やはり訊いてしまった。

「…前のカレとは…」

 典子は首をなんとか横に振った。

 龍一郎は迷った。このまま続けていいのかどうか答えが出せなかった。

「このまましても…いい?」

 恐る恐る聞いたが典子は動かなかった。だから、どうしようもなく迷ったあげく、

「ホントは…イヤなの?」

 と訊いてしまった。言ってからものすごく後悔した。言わなければ、そのまま続けられたのにと思った。

 やっぱり、典子はゆっくりうなずいた。

 龍一郎は典子の上から起き上がり、体よりも切ない感情の痛みに襲われて頭を抱えた。初めてのとき、女の子があんなに怯えるなんて知らなかった。「処女は面倒」と人が言う意味を理解した。女の子にとって――少なくとも典子にとってはそれだけ重大なことを「誰でもしている当たり前のこと」程度にしか認識していなかった自分もショックだった。

 典子にもゆっくり感情が戻ってきた。初めに浮かんだのは、龍一郎に悪いことをしたなという思いだった。弘志にも言われていたはずだ。こういうこともあると…

「ごめんなさい」

 典子は仰向けに倒れたまま静かに言った。だけど、やめてくれてホッとしていた。

「いや、…俺の方こそゴメン。怖かったでしょ」

 1年間つきあって、別れても今なお好きな彼にも触れさせなかった体――典子にとってどんなにか大切だったであろう肌に触れ、だまし討ちのような形で勝手に「はじめての男」になろうとしていた自分を龍一郎は嫌悪した。

 典子の体からはもう震えが抜けていたが、うまく力が入らなかった。それでも不自由な体を一生懸命起こして、なんとか座りなおした。いつの間にか酔いは醒めていた。

「ごめんなさい。どうしていいかわからなかったから…。ちゃんとお断りできなくて、すみません」

「いや、もう、ホントに俺…」

 龍一郎は深いため息をついた。

「…ゴメン、さっきのも…今日は忘れて」

「え?」

「彼女になってって言ったの、うなずいてくれたじゃない。…あれ、なんだか俺、間違ってた気がするんだよ」

 典子は、「こういうことに応えられない女性に恋人の資格はない」と言われたのだと思い、女性としての自分の未熟さに落ち込んだ。龍一郎は自分の言い方のミスに気付いた。

「あ…そうじゃないよ。俺が典子ちゃんをわかってなかった気がするから。お互い大人だから、普通に自分がこれまでしてたようにつきあえればいいって思ってたの。でも俺は典子ちゃんに合わせないといけないと思って…」

 龍一郎は一度言葉を切って典子の髪にそっと触れた。

「典子ちゃんを好きな気持ちは、こういうことができるとかできないとかで変わったりしないよ。ただ、典子ちゃんが幸せになれる恋愛をってちゃんと考え直したいから…」

 一生懸命語る龍一郎を典子はじっと見つめていた。二十歳の男の子が自分の体を求めても不自然だとは思わなかった。自分はまだそうしたくないけれど、龍一郎が悪いわけじゃない。なのに今、自分を責めるように悩んでいる龍一郎を優しい人だと思った。

 龍一郎には、男を知らないまま、男の思惑を疑う能力も持たず、ただ無防備に純粋に生きてきた典子がとても美しい生き物に感じられた。典子が相手なら、損得勘定やかけひきの要らない、一途で純粋な恋ができるように思えた。

「典子ちゃんはさっきOKしてくれたけど…それってホントに考えてくれた? なんか俺には諦めたみたいに見えたけど…」

 典子はドキッとした。良貴のことを考えていたと自覚していた。

「今日急いで結論を出そうとしちゃってゴメン。真剣に考えて。諦めとかじゃなくて俺のことを好きになって」

 そのとき、龍一郎の携帯電話が鳴った。弘志からだった。

「おまえなー、遅すぎるだろ~、今どのへんにいるんだよ~」

「ゴメン、マジ道混んでてさ。そろそろ渋滞は抜けるから、あと20分くらいだよ」

 適当に返事をして電話を切ると、龍一郎は立ち上がった。

「帰らないとね。今日は本当にゴメン。でも…俺とのこと、本当に真剣に考えて」

 典子は小さく「はい」と言ってうなずいた。

 良貴のことを考えながら龍一郎の車に揺られ、典子は夜の道のりを運ばれていった。

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