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28 陥落の日


 事件のすぐ後から12月に入った。火曜日、いつものように生物学の講義があったが、遥は良貴の隣に座るのをやめた。良貴もよっぽど何か言いたかったが、言えるはずもなかった。そのかわりに電話をかけてデートに誘ってみたが、忙しいとあっさり断られた。遥は弘志とのことに結論が出るまで良貴とは距離をおくことにしていた。

 その日の夕方、やっぱり社会学部の女子4人組は「AndoA」にやって来た。

「江藤さん、ウチに来たよ~」

 遥の報告が筆頭だった。

「えー、マジ呼んだの!」

「じゃあ、うまくいった?」

 3人は乗り出した。遥は渋い顔で報告を始めた。

「それがさ~。呪われてるよ、私と江藤さん~」

「何、何」

「…シャワー浴びてたら、…」

 その時点で3人は「わー」と声をあげた。

「そーなのよ、そこまではいったのよ。キスはしたわよ。上は見せたわよ。それでシャワー浴びに入ったわけ。…でも、最悪のことが起こっちゃってさ~」

「来ちゃったの?」

「ううん、来たのは、電話よ。私がシャワー浴びてる間に、其田さんから電話入っちゃってさ。ホラ、江藤さんて、其田さんの友達じゃん。それで、其田さんが留守電にメッセージ入れるの聞いて、帰っちゃって~」

「サイアクー」

「えー、で、アンタ、フォローきいたの? それ」

 遥はやっと怪しい笑顔になった。

「なんとかねー。また会おうよ、ってさ」

「また会おうって、やっぱ、また…ってこと?」

「違うのかな~。私は、当然そういうことだと思ってるんだけどな~。でも、あの人ナゾなんだもん。いつ、どこで、何がどう転ぶかわかんないのよね」

 遥はちょっと口をとがらせたが、すぐに笑顔になった。弘志は射程圏に入っただろう。

「遥が、キープ君、中途半端なことするから本命を取り逃がすんじゃん」

「わかってるわよ。だから、其田さんはしばらく断絶しちゃうつもり」

「しばらく? 断らないの?」

「…うーん、一応、まだとっとく」

「知らないよ? また邪魔されても。案外、電話も知っててかけてきたんじゃないの~?」

「バレてないよ。でも、そういうこともあるよ。今後はそう偶然なんてないって」

 良貴があのタイミングで電話をかけてきたのは、弘志が江藤家に泊まりの電話をかけ、それから典子が美恵子に電話をかけ、良貴に電話をかけ、それから各々が弘志、遥に電話をかけたせいだ。神様はそうそうイタズラをしない。原因と結果のつながりが見えにくいだけだ。

「結構、遥、キープ君好きだよね。なんだかんだ言って」

 佐和子が呆れ顔で言った。遥は自分を嘲笑しながら、

「…私も、いい加減、彼氏いないの淋しいからね」

 と答えた。

 誰かに側にいてほしかった。弘志といるのは気持ちよかったが、良貴のそばは落ち着いた。弘志と戦ってもしも負けたら、その傷は良貴で癒したかった。


 弘志はカレンダーを見た。

「12月だよ、大丈夫か? 俺…」

 誕生日までひと月を切った。今月中にカタをつけなければ、童貞のまま二十歳を迎える。

(クリスマスに勝負に持ってくと、後がないんだよな)

 弘志の誕生日は、1月が明けてすぐやってくる。12月の末近くにもなって失敗すると、すぐにタイムリミットになる。

(…でも、俺から誘うの? それはマズいよな。大義名分がなくなる)

 それが「大義名分」なのかどうかはともかく、弘志の中では「向こうが誘ったから」というのが言い訳になっていた。

(美恵子とは、しばらく距離をおこうかな。また気がそがれそうだ…)

 他の女の子とよろしくやろうとしても、美恵子の存在が自分をがんじがらめにしているのがわかる。それは美恵子がそうしているのでは全くなくて、何の約束もないのに自分が勝手にブレーキをかけていた。「他人」と繰り返しても、脳裏から美恵子が消えてくれない。

(でもなー、美恵子と俺って、あと何年したらそーいうことになるわけ?)

 正直すぎる気持ちを言って、関係を壊してしまうのはどうしても避けたい。だからやっぱり、十代のうちに体験するには他の女の子と事故を起こすしかない。それと、やっぱり美恵子に対して優位に立っていたかった。

 女は初めてで知らないからって恥はかかないが、男は知らないなんてわけにいかない。リードしなければならない。できれば「俺が教えてやる」くらいの勢いで、余裕をもってことに当たりたい。

 弘志は「自分のプライドと、美恵子との将来のため」という言い訳を繰り返していた。


 遥は弘志との次のデートをどこにしようかと考えていた。また部屋に呼ぶのはあまりにもストレートすぎる。どこかに行って、そのままホテルだろう。

(クリスマス前後は、どこも混んでるんだよね)

 空室を求めてホテル街をさまよい歩くのは避けたい。

(やっぱ、平日が狙い目か。学生の特権)

 大学の近くは避けたい。ちょっと離れたところがいい。弘志とのデートの行き先を決めようと買ってきたタウン誌には、ラブホテルの記事が当然のように載っていた。いつの間にラブホテルがデートコースの最後に堂々と定着したんだろう、と遥は思った。昔はこっそり行くところだった気がするけれど…、遥が初体験した高校1年生の時なんかは。

 遥はタウン誌のページをめくった。金曜日にしたいけれど、多分混む。火曜日に良貴と顔を合わせた後で弘志とホテルに行くのは悪趣味だ。

 考えた末、遥は月曜日に決めた。授業は弘志のスケジュールに合わせてサボればいい。

「もしもし、江藤さん?」

 決めてしまえば電光石火だ。即行動、若い時間は短い。

「あのー、月曜日って何限までありますか?」

「ん、3限で終わっちゃうんだよね」

 遥は5限まであった。2科目もサボらなければならない。だがこの際、仕方ないだろう。

「あのー、月曜日、映画に行きませんか?」

「月曜って…、明日?」

「あ、さすがにそれは予定たたないでしょうから、その次の週で…」

「別にいいよ」

 来週の月曜日、デートの最後はなりゆきでホテルに入って終わり。弘志としては大いに結構だった。

(その後の後始末があるけどな…。この子、俺に対してどの程度本気なのかな…)

 初体験のメドが立つと、弘志はゲンキンにも後始末の算段を始めた。

(マジだったとしても、礼儀として2ヶ月もつきあえば無罪放免でしょ)

 弘志は一生懸命軽く軽く考えた。

(…大丈夫だって。世間の女の子たちは、結構簡単にHするんだから)

 考え始めるとだんだん弱気になってくる。女の子を騙して食い物にするのだと思うと、犯罪のような後ろめたさを感じなくもなかった。


 その日はそのあとに美恵子からも電話が入り、弘志はとても忙しくなった。

 美恵子からの電話は気乗りしなかった。遥とのことが罪悪感になって、まともに話していられない。でも、深刻そうな美恵子の声を適当にあしらうことはできなかった。

「…弘志先輩、あの、…お話があるんですけど…」

「え、何?」

 弘志は引きつる声をごまかしながら、いつものように軽く返事をした。美恵子は思い詰めたような声で、

「…電話じゃなくて、ちゃんと私の顔見ながら話してほしいんですけど」

 と言った。弘志は一気に冷や汗をかいた。

「べつにいーけど、来週にならない?」

 遥ととりあえず済ませてから、と弘志は思った。そしてその後、慌てて、

「…いや、やっぱ今週かな」

 と言いかえた。遥とそういう関係になってすぐに美恵子と顔を合わせるなんてできそうもない。それに、何事か起きてしまう前なら何を言われても無実だと言い訳できる。

 美恵子は絶望した。弘志はこんな風に優柔不断にスケジュールをこねくり回す人ではない。誰かと不審なスケジュールが入っているとしか考えられない。

「…今週の…いつですか?」

「ん、いつでもいーよ? おまえ、早く終わる日とかないの?」

「…早く終わるわけじゃないんですけど、私の希望としては火曜日がいいです」

「あっそ、別にいーよ」

「じゃあ、新宿に、5時に来てもらっていいですか?」

 4限が終わる時刻と新宿までの時間を計算して、弘志はOKした。

「美恵子、ところで、話って楽しい話?」

 弘志は明るい調子で訊いた。美恵子の沈んだ態度がどうにも怖かった。もし責められるなら、心構えをして、言い訳をたくさん用意して行きたかった。

 美恵子はまるで石になったように、無機質な声で答えた。

「…深刻な話です」

 電話を切ってから、美恵子は大きなため息をついた。

(…私、弘志先輩と…こんなはずじゃなかったのにな…)


 その翌々日は、すぐに美恵子と会う火曜日だった。弘志は暗澹たる気分で待ち合わせに向かった。遥の部屋で起こったことを知ったら、美恵子は絶対に許してくれないだろう。

(…いざとなったら、土下座でも何でもするかな~)

 美恵子は先に来て待っていた。

「早かったな~」

 弘志は精一杯笑顔を作って小走りに近づいて行った。美恵子は弘志の顔をぼうっと眺めていた。

「…なんだよ」

 弘志が声をかけても、美恵子は動かなかった。弘志が戸惑っていると、美恵子の瞳がだんだん潤んでくるのがわかった。

「とりあえず、歩くか~」

 弘志は背中を押すようにして美恵子の肩に浅く手を回した。

(…やばい、これは、かなりやばい。一体、どこから、何が、どう漏れたんだ? …いや、それとも、やっぱりあの日の電話は、俺がどこで何をしてるか知ってかけてきたのか?)

 美恵子は必死で涙をこらえて、

(ダメだ、頑張らなくっちゃ)

 と自分に言い聞かせた。証拠なんか何にもない。でも、美恵子は弘志の態度のささやかな変化で「何かがあった」ことを察知していた。

「おまえ、どこ行きたいの? 映画でも見る?」

 弘志はそう言って、

(なんか、やたら映画だな)

 と思った。美恵子は、

(あ、何か、今違うこと考えてる)

 と思った。そう、「やたら映画」なのは、遥との約束の方だった。

 美恵子は弘志をちらっと見て、

「…飲みに連れてって下さい」

 と言った。

「え! おまえ、飲むの?」

 美恵子はお酒を飲まない子だった。大学で、二十歳前の連中がハメを外して飲んでいても、今までは絶対に飲まなかった。

「…すみません、しらふでは、話せなそうだから」

 美恵子は目を伏せた。弘志はのどがつかえるほど息を飲み込んだ。

「いいけどさ、まだ5時だからちょっと遅らせよーぜ」

 弘志は美恵子を例の「同伴喫茶」こと男性の入場制限のある喫茶店に連れてきた。

(…ここなら、少しはいいこと思い出して、ハッピーになるだろ)

 それはちょっとばかり甘かった。

「…昔はよかったですね」

 美恵子はすっかりブルーになっていた。

「なんだよ、昔は良くて、今はダメなのか?」

 弘志が強がっても、美恵子は何も反応しなかった。

(なんだよ、なんだよ、何か言いたいなら言えよ、何か知ってるなら言えよ…)

 もう、弘志は来週の遥との約束を今この場でキャンセルしたかった。美恵子の前で電話をかけて断りを入れて、あらいざらい吐いて謝ってしまいたかった。

(…う、でも、やぶへびになったら困るし…)

 弘志がそんな風に焦っていることだって、美恵子には伝わった。

 18時を回った頃、2人は近くの「ちょっとだけお洒落に見えなくもない」程度の飲み屋に入った。

「高い店じゃなくてゴメンなー。払えないと困るからさ~」

 弘志はちょっとふてくされたような態度で照れて、目を伏せて言った。

「いいのに。ちゃんと私の分は払うから」

「あのな、初めて一緒に酒飲む時くらい、払わせろよ。以後はワリカン歓迎だけど」

「…ごちそうさま」

 適当に注文を済ませてから、弘志は美恵子に訊いた。

「そういえばおまえ、パッチテストは受けたのか?」

「え? …あ、アルコールのやつですね?」

 飲めない人にお酒を無理に飲ませると危険なので、最近は大学でもそういう検査を積極的にやってくれる。

「そう、それ。弱いんだったら、飲ませないからな」

「大丈夫ですよ、ちゃんと、それなりでしたから」

「なんか急だな…、あんなに飲まないって言い張ってたのに…」

 弘志はとにかく美恵子がお酒を飲むことを心配した。もし変な風に酔うようだったら、すぐに、かついででも須藤家に連れて帰るつもりだった。

(優しいんだな、やっぱ)

 美恵子は静かに微笑んだ。お酒が来たので、とりあえず乾杯した。

「かんぱい、何にかはわかんないけど」

「かんぱい」

 美恵子は恐る恐るお酒を口にした。果物系のカクテルで、ジュースみたいに甘かった。

「あんまりギューッと飲むなよ、ちゃんとアルコール入ってるんだから」

 弘志は保護者のように心配していた。美恵子が注文したのはいわゆる「レディ・キラー」と呼ばれる類で、口当たりがいいのにアルコールがさりげなく強いカクテルだった。

 幸いにして美恵子は慎重に慎重に飲んでいた。弘志は心配しながら、ちょっと嬉しかった。美恵子は今まで頑なに酒を飲まなかったから、初めて酔うのを見てみるのもいいかなと思った。

 ムードのある店じゃなかったが、飲んでいると、美恵子を酔わせてホテルに連れ込んだらという妄想がどうしても浮かんだ。

(…燕さんじゃなくて、美恵子で…なんてわけに…いかねーよな、やっぱ)

 酔った勢いで童貞を捨てるのは構わないが、酔った勢いで美恵子に処女を捨てさせたくはなかった。美恵子がほんのちょっとでもアルコールを口にした以上、どんな雰囲気になっても口説かないぞと弘志は心に決めた。

(なあ、何を考えてるかはわかんないけど、俺は俺なりに、おまえのことを大事にしてるんだゼ?)

 弘志は心の中で呼びかけた。

(年が明けたら、…まあ、その時に燕さんともめてなければだけど…、俺の方からつきあおうって言うから。もうちょっと、俺を自由にしといてくれよ)

 遥の部屋でのことは意地でもしらばっくれようと思っていた。そして、来週の月曜日に何があっても、一生ごまかしとおすつもりだった。

 美恵子は幸い、ちょっとは飲めるみたいだった。色が白いからちょっと赤くなったが、その程度だった。2杯目を飲み終わった時、弘志は、

「美恵子、今日はここまでにしとけ」

 と言って止めた。美恵子は「平気です」と言ったが、弘志は断固注文させなかった。

「いいじゃないですか、私のペースで飲んだって」

「…おまえなー…。酔わせて、そのへん連れ込むぞ」

 弘志は禁断のジョークで美恵子を威嚇した。美恵子は、

「望むところです」

 と、とんでもない切り返しをしてきた。

(…ヤバ、これで酔ってるんだ、こいつ)

 弘志は肝を冷やし、美恵子のためにウーロン茶を注文した。

 20時を回った頃に、2人は店を出た。

「お酒飲んだ後って、ラーメンなんですか?」

「…おまえ、何、変な知識仕入れてんの? 太るゼ?」

「えー、おいしいラーメン屋聞いてきたのに。だって、まだ8時じゃないですか。これからラーメン屋行っても、大丈夫ですよ」

 ちょっと眠そうだけれど、美恵子は特に酔っぱらっているようには見えなかった。

(うーん、まいっか、ラーメン屋くらい。でも、こいつ、絶対一人前食えないだろ)

 仕方なく弘志はつきあうことにした。美恵子はしっかりした足取りで歩いていた。

(…でもなー、とんでもないこと言ってたからな~。酔ってないとは限らないな~)

「こっちです」

 美恵子は手書きの地図を見ながらラーメン屋に向かっていた。視界の前方に、遠目にぽつりぽつりと「HOTEL」の文字が見えてきた。

(マジ、連れ込むぞ、おまえは~…)

 時折感情に流されてしまいそうなあやうい綱渡りをしながら、美恵子の背中をゆっくり追って弘志は歩いた。悪趣味なネオンに照らされても、美恵子が辺りを見回すたびに見える横顔は女神のように美しかった。

「あれっ、迷っちゃった。この道がない」

 美恵子は地図を手に立ち尽くした。

「なんだよ、見せてみろよ」

 でも、たしかに地図にある道は見当たらなかった。

「えー」

「しょーがない、帰るぞ」

 弘志が歩き出しても、美恵子はぼうっとその場に立っていた。

「おーい」

 弘志が振り返って呼びかけると、美恵子はすうっとしゃがみこんだ。

「なんだよ、どーした?」

 弘志は慌てて美恵子の側にかがみこんだ。美恵子は口元を押さえて、

「…気持ち悪い」

 と言った。

「なんだよ~、もー、おまえは~。だからやめとけって言ったのに」

 美恵子の瞳がちらっと弘志を見上げた。そして、すぐに目を伏せた。

「…歩けない」

 弘志ののどがごくりと音を立てた。まさかと思った。美恵子は、弘志の顔色が変わったのをそっと見て、言葉を続けるのをやめた。

「とりあえず、立て。道の真ん中にいるなよ」

 弘志は美恵子の体を支えて立たせた。美恵子が胸に倒れこんでくるのがわかった。

(…嘘だろ)

 ホテル街は目と鼻の先。普通なら、ここで、男のほうが「じゃあ、ちょっと休んでいこうか」かなんか言うところだ。美恵子はどうにかして勉強してきたらしい。

(まさか、はじめからこーいうつもりだったの?)

 道の隅で美恵子を抱きかかえながら、弘志は呆然としていた。

 美恵子は初めて弘志に抱きしめられていた。こうして胸の中に包み込んでくれることはつきあっていた時にもなかった。

(…もしも他の人と何かあったとしても、弘志先輩は絶対に渡さない)

 美恵子が出した結論だった。弘志に他の誰かがいるなら、奪い返すだけのことだ。だから、弘志が何度も形を変えて美恵子に「抱きたい」と伝えた思いを、かなえてあげることにした。これが美恵子にとっての最後の、そして最強の切り札だった。

「…弘志先輩…」

 美恵子は弘志が動かないので不安になった。自分の芝居の意図が伝わっていないんじゃないかと思って、もう一押ししようと思った。

「しょーがねーな、そのへんで、休めるとこ探すぞ?」

 弘志の声が美恵子の言葉をかき消した。美恵子は小さくうなずいた。

(…なあ、嘘だろ?)

 弘志はギュッと美恵子の肩を抱き寄せて歩き出した。行き先はもう決めていた。ちょうど映画館が1つの映画の上映を終え、人波を吐き出した。弘志はその波に逆行した。

「すいませーん」

 弘志が大きな声で誰かに声をかけた。美恵子はあっけにとられた。

「医務室みたいなとこ、ないですか~? 今、出たら、ちょっと具合悪くなっちゃって」

 弘志は映画館のロビーで係員に医務室のありかを聞いた。

(…まさか、そこで…なんてわけ、ないわよね、どう考えても)

 美恵子は狐につままれたような顔で弘志に抱えられ、係員の先導で医務室に連れて行かれた。そして簡単なベッドに寝かされた。

「すみません、すぐに良くなると思いますから」

 弘志は係員と医務室の担当らしきおばさんにおじぎをした。

 美恵子は呆然と医務室の天井を見ていた。

(通じてなかったの? それとも、勇気が出なかった? …それともお金なかったかな。私が、あったのに…)

 医務室のおばさんは少し休めば治ると判断して奥の部屋に引っ込んだ。美恵子は困惑しながら、

「…あの、弘志先輩…」

 と小さい声で言った。

「美恵子、明日ヒマ?」

 弘志は勝手に違うことを訊いてきた。

「…え、明日…なんで?」

 美恵子が今日を指定したのは、明日が休みだからだった。場合によっては家庭にひと波乱起こしても泊まりの覚悟だった。もちろん弘志も美恵子が水曜日に授業がないことを知っていた。

「明日の昼、ちょっとつきあえよ」

「…え…」

 明日の「夜」、あらためて会おうとか言うならわかる。でも、昼間どこかにつきあえというのはこの場面では絶対に違うと思い、美恵子は困惑を極めた。

「弘志先輩、あの、私…」

 美恵子は自分の決意を伝えて楽になろうとした。でも、やっぱり弘志が邪魔をした。

「明日の昼。言っとくけど、昼だからな」

 何が言いたいのかわからない。美恵子が目をパチパチやっていると、弘志がボソッと、

「それ以上、余計なことは言わなくていい」

 と言った。そして半ば強引に明日の待ち合わせを決め、

「すみません、大丈夫そうなんで」

 と奥に声をかけて美恵子を連れ出した。あとは問答無用で駅まで肩を抱いて連れて行き、電車に乗せて家の前まで送った。

「じゃあ、明日の昼にな」

 美恵子はとにかく呆然とするしかなかった。必死の決意と下手なお芝居は、全部無駄になってしまった。いろいろ不安な思いも浮かんできたが、弘志があまりに得体の知れない行動をとるので、美恵子はとりあえず明日会うことに決めた。

(私、今日、これだけの決意して行ったのに、あっさりかわされたうえにわけわかんない医務室に仮病で寝かされて、なんか…ものすごくみっともない状態じゃないのかしら…)

 美恵子には弘志が考えていることが全然わからなかった。


 翌日、快晴の午後1時に、弘志と美恵子は顔を合わせた。

「いい天気だな。代々木公園でも行って、なんもしないでござ敷いて、昼寝したいな」

 弘志は待ち合わせ場所で大きな伸びをして叫んだ。待ち合わせは渋谷だった。代々木公園は歩けない距離ではないけれど、ちょっと遠い。

「…はあ、代々木公園ですか…」

 美恵子は首をかしげた。弘志は笑顔で、

「ござは持ってきてないけど、どっかでゆっくりしようよ」

 と言った。

「…はあ、構いませんけど…」

「OK、んじゃ、行こう」

 弘志は美恵子の手を握った。美恵子はびっくりした。つきあっている時だって、ほとんど…いや、全然手なんかつないでくれなかった。

 弘志は美恵子を連れて坂道を登っていった。美恵子は素直に手を引かれていった。角を曲がる時に弘志の手が離れて、美恵子の肩を深く抱いた。

「どこがいい?」

 角を曲がると、そこはいきなりホテル街だった。

「…えっ」

 美恵子は硬直した。弘志はふーっと大きなため息をついた。

「昼寝したい、どっかでゆっくりしよう…ったらこーいう意味だよ。構わないって答えてくれたじゃん」

 美恵子は言葉を失って、前進しないように一生懸命後ろに体重をかけた。その肩に、有無を言わせない強さでギュッと弘志の掌が食い込んだ。

「変なこと勉強してこなくていいから、俺に誘われて、素直に入っとけ」

 完全にしらふで、全然その気になっていない美恵子を、弘志はホテルの入口に放り込んだ。ホテルの話はだいたい聞き及んでいたので、そう恥をかくことなく美恵子を部屋まで引っ張り込むことができた。

 背後で鍵の閉まる金属音が鳴った。美恵子はまだ、「真昼間の渋谷」の気分だった。弘志は美恵子の背中を押して狭い部屋に入った。いきなりダブルベッドが視界に飛び込んできて、美恵子は自分の置かれている状況が次第にわかってきた。

 弘志が背後に立つのがわかった。

「とりあえず、コート」

 美恵子はコートの前を止めていたボタンを外した。

(…とりあえず、コート)

 美恵子は弘志の声を繰り返した。弘志が背中からコートを抜いてくれた。美恵子の鼓動がだんだん速くなり、脚がわずかに震えはじめた。

 弘志の腕が美恵子の背中を抱いた。思いつめたような声が真剣に響く。

「美恵子、俺も…初めてでもいいか?」

 痺れるような衝撃が美恵子の胸を貫いた。畏れと、それからちょっとだけ諦めにも似ていた。

「…ダメ? …いい?」

 ささやくような弘志の声がわずかに震えていた。美恵子は意を決して、かすかにうなずいた。

 思ったように体が動かない自分を、弘志は心の中で笑っていた。

(…何、ビビってんだよ…。情けね…)

 弘志は、美恵子の肩を引いて自分の方を向かせ、そっとキスをした。初めは軽く、それから少し深く。それから美恵子のカーディガンを肩から外し、中に着ているワンピースを探って背中のファスナーを見つけて、ゆっくりと下ろした。美恵子の足元にワンピースが落ちた。

「そのままでいいから」

 弘志は、美恵子の肩を包むように抱き寄せて、ベッドの足元まで歩かせた。それからベッドに座らせ、ゆっくりと上半身を横たえさせた。

「…いいから、…目、つぶってろ」

 弘志はできるだけ優しく言った。美恵子は目を閉じた。

 一糸まとわぬ姿になった美恵子の耳元に、弘志の声が聞こえた。

「…大丈夫か? 怖い?」

 美恵子はそっと目をあけて弘志を見た。弘志が心配そうにのぞき込んでいた。とても優しい目だった。

「大丈夫…」

 美恵子はゆっくりと言った。でも、震えていて声がうまくつながらなかった。

 弘志の手が、美恵子の体にはじめて触れた。ためらいがちの動作は、次第に耐えきれないような切なさに変わった。美恵子の震えはずっと止まらなかった。

「シャワー浴びるか?」

 弘志が訊くと、美恵子は肩をすくめるようにしてうなずいた。弘志は美恵子を浴室に連れて行って、タオルを出してやった。震えながら見上げてくる瞳が愛しくて、弘志は美恵子を抱きしめた。

「…怖いか? …やめる?」

 こんなことを訊ける自分が不思議だった。体は美恵子を欲しがっていたが、憐憫の情にも似た、慈しむような気持ちが激情を押しとどめていた。

 美恵子は弘志の服にギュッとつかまった。弘志は美恵子の背中を優しく掌で撫でた。

「怖かったら…、いいよ」

「…大丈夫…」

 弘志がこんなに優しくしてくれるとは思わなかった。美恵子は感激して、少しだけ泣きそうになった。その表情を「NO」のサインだと思われたくなくて、美恵子は慌てて浴室に閉じこもった。

 弘志はベッドに座って、浴室の水音を聞いていた。

(…まさか、こんなことになるとは思わなかったな…)

 ため息をついてから立ち上がり、美恵子から奪い取ったたくさんの衣類を丁寧に集めてソファにかけた。それから自分も上着を脱いで、ズボンと靴下を脱いだ。

(…俺、そんなに物欲しげだったかな?)

 思い返せばそんな気もした。

 悪趣味だと思いながらも、弘志は遥と比較しながら美恵子が処女だという確証を探しては味わっていた。今日の美恵子はガチガチにこわばり、ギュッと目をつぶって辛そうな顔をしている。歩くのもおぼつかないほど震えている。弘志はそんな美恵子に満足した。

 美恵子が恐る恐る浴室を出てきた。弘志は、

「俺も入るから」

 と言って入れ替わりに入った。

 弘志が出ると、美恵子は体を隠すタオルを強く握りしめた。弘志はベッドに上って枕元のつまみをいろいろいじってみて、なんとか電気を暗くした。それから美恵子のタオルを外した。そこからはもう、容赦しなかった。

美恵子はひたすら震えていて、感動的な反応は得られなかった。

(どうにかされたら、必ず反応するってもんじゃないんだ…)

 ビデオなんかでは「初めての女の子」とやらも感じていたけれど、実際は違うんだなと感心した。美恵子はまるっきり受け入れられる状態ではなかった。

「ゴメンな」

 弘志は、こういうのはもっと簡単なものだと、男のほうに問題がなければうまくいくと思っていた。幸いにして「昼寝」はサービスタイムで、まだまだ時間があるから、美恵子が落ち着くまで待とうと一時休戦した。

「…大丈夫ですか…?」

 美恵子のほうが訊いてきた。

「あの…すみません、私…」

「気にすんなって。俺も勝手がわかんないから…」

「…弘志先輩、…はじめてって…本当に?」

 美恵子は、弘志を信じて素直に訊けた。

「…どうやったら感じさせてやれるか、全然わかんなくてゴメンな。…ホントは、途中でこんなインターバルとってちゃいけないのかもしれないけど…」

 直接的には答えていなかったが、答えは伝わった。弘志のちょっと照れた仕草が嬉しくて、美恵子は毛布に隠したままの体を自分から寄せた。

「私も初めてですから」

「そんなの、様子見てりゃわかるよ」

「お芝居かもしれないじゃないですか」

「ホント、おまえ、変な知識ばっかり身につけてくるな~」

 話をしていたら少し落ち着いてきた。しばらくの沈黙の後、もう一度キスから始まって、続きが展開された。美恵子の体からは激しい震えが抜けた。それでだいぶ楽になったが、やっぱり体の準備は足りなかった。

「…このまま…いいですよ」

 なお緊張にこわばった顔をして、美恵子は弘志にそっと告げた。

「だって、おまえ、…痛いんだろ?」

「そうですけど、でも…頑張るから…」

 弘志は少し工夫してからもう一度挑んだ。美恵子は必死で耐えた。

「大丈夫か?」

 美恵子は力なくうなずいた。弘志の唇からため息が漏れた。そして少しずつ美恵子の痛みと妥協しながらゴールを目指した。

 弘志は夢心地の中で美恵子のことを考えていた。

 典子に連れられて遊びに来て、隠れるようにお辞儀をしていたのは小学生のときだった。美恵子はその頃から綺麗なお嬢さんで、弘志もちょっとばかり目を見張った。その瞳が次第に熱を帯びて自分を見つめているのに気付いたのは弘志と典子が中学2年生のとき。ずっと、まさかと思って気付かないふりをしていた。

「私、千加川高校に入りますから」

 美恵子が一生懸命言った真剣な顔。そして、体操部に入部してきて、気持ちを打ち明けられて…別れて、後悔して…。

(遠回りしたな…俺のせいで。ずっと、そこにいたのに。こんなに想ってくれてたのに。俺も…ずっと、大切に想ってたのに)

 夢中で美恵子を感じた。美恵子の反応は少し辛そうだったが、もうどうしても止められなかった。それでも受け入れてくれる美恵子が心の底からいとおしくて、最後の瞬間、弘志は思わず歓喜の中で叫んでいた。

「美恵子、…愛してる…っっ」

 美恵子は思いがけない告白に驚いた。体はひどく痛かったけれど、果てしない幸せを感じた。

 体を寄せ合って2人は横になった。弘志は疲れたのか軽く寝息を立てた。美恵子は不思議な気持ちで弘志を見つめていた。こんなに優しいなんて思わなかった。そして、「愛してる」なんて言葉で告白してくれるとは思わなかった。

 抱き合うように体を寄せ合った帰り道、美恵子はうっとりした目で弘志を見上げ、

「もう一度言って。私のことどう思ってるか…」

 とおねだりした。弘志は一瞬だけ困った顔をして、それからニヤッと笑って、

「んじゃ、次にイクときにまた言ってやるよ」

 と言った。美恵子は思いっきり弘志の頬をひっぱたいた。


 帰宅するとすぐ、弘志は遥に電話をかけ、月曜日のキャンセルを告げた。

「悪ィ、ちょっといろいろ忙しくなっちゃってさ。こっちから、都合ついたら連絡するよ」

 電話を切ってすぐに、遥の電話番号をアドレスから消した。

(あとは、其田に…)

 でも、宣戦布告から大して日もおかずに戦線を離脱するのは格好がつかない。良貴にそのことを告げるのはもう少ししてからに決めた。

 美恵子は家に帰るとベッドに寝込んでしまった。ちょっと無理をしすぎたみたいで、体が痛くて辛かった。でも、この痛みを後悔してはいなかった。

(愛してるって、…ああいうときだからなんとなく言ったわけじゃないよね)

 幸せの方が大きかった。もう一度つきあおうとか、そんな言葉は交わされなかったけれど、不思議な安心感があった。

(弘志先輩は、大丈夫。それでも他人だなんて、絶対に言わないから)

 ここのところずっと弘志の態度は不審だったけれど、例えばもし他の人と何かを考えていたとしても、もう心配は要らないだろう。あんなにとらえどころがなくて何度も泣いたはずなのに、美恵子は今、弘志を心の底から信じていた。

 痛みに苛まれながら、美恵子は嬉しくてひとりで笑った。弘志の「初めての女」の座は勝ち取った。そしてきっと、唯一の女の座だって勝ち取っただろう。弘志が自分にしてくれたことを思い出すとドキドキしたし、ちょっと体が熱くなるような気がした。

(…また、次も言ってもらおう。「愛してる」って)

 そうしたらこんな痛みもなく、きっと自分も感じられるだろう。友達が教えてくれた。はじめは怖いし痛いけど、そのあとは気持ちいいし、とても幸せだって…。


「おまえ、今年のクリスマスの予定は?」

 弘志からの電話も、なんだかちょっとくすぐったい。美恵子は、弘志が携帯電話の短縮2番を選んでいるのを思い描いて笑顔になった。

「え、先輩が誘ってくれなかったら、シングルベルです」

「そんなのわかってるよ。俺との予定を入れるか入れないか訊いてるの」

「もう」

 憎まれ口は相変わらずだった。でも美恵子は、「愛してる」の声を思い出して、許してあげることにした。

「誘ってくれるの、待ってたんですよ。でも、こんな頃まで声がかからないから、今年は他の人と会うのかなって思ってました」

 美恵子は、言ってから電話をちょっと耳から離し、舌を出した。弘志は実際、少し前まではそういうつもりだったかもしれない。だって、クリスマスはもう来週だ。こんな頃まで声をかけないなんてちょっとばかし遅すぎる。

「もっといいことがあったら、そっち優先にしたかったんだけどな。おまえで我慢するよ」

 弘志は極めて正直な言い方をした。思い描いていた「もっといいこと」よりも、「さらにもっといいこと」があったからこうなっただけのことだ。

「もー、そーいう言い方しかできないんですか?」

「性分なんだよ」

「往生際の悪い」

 美恵子の言葉の含みに、弘志は渋い顔をした。「愛してる」は失敗だった。せめてもうちょっと、好きだよとかその程度にでも、ニュアンスを落とせばよかった。

「…誘ってやらねーぞ、そんなこと言ってると」

「自分の方が『そんなこと』ばっか言ってるくせに。いいですよ、誘ってくれなかったらクリスマス合コンに行っちゃうから」

「それでまた怒って帰ってくるんじゃ可哀想だからな。イブ、ウチ来るか?」

 美恵子の胸が甘くうずいた。

「…行きます。典ちゃんも一緒?」

 照れ隠しにちょっとからかって言うと、弘志は苦笑した。

「あいつはあいつで、他に用事があるんだよ。それなりに」

 弘志の意味深な響きは、そういう、とてもクリスマスらしい用事だった。美恵子はびっくりした。典子にそんな話があるなんて、カケラも聞いていない。

「もう、ホントに、典ちゃんって友達がいがないんだから」

 そう言って、美恵子はふくれた。


 遥は弘志からの連絡を待っていた。でも、クリスマス直前になっても連絡は来なかった。

(…何が忙しくなったんだろう?)

 当然、そういう「NO」の言い方があるのは知っている。でも、やっとフォローがきいて「いい雰囲気」に戻ったのに、今さら断られる理由がわからなかった。

 クリスマスイブの昼まで待っても何もなかった。夕方、遥は良貴に電話を入れた。

「…急に予定がなくなっちゃったんだけど、今日って空いてる?」

「え、空いてるけど」

 良貴は急にふってわいた幸運に、戸惑いながらOKした。


 お手製のケーキを抱えて、美恵子は江藤家の呼び鈴を押した。

「あら、美恵子ちゃん。今日はどっち? クリスマスだから弘くんの方か。ちょっと待ってね。あ、いいや、あがっちゃって」

 江藤澄子はニコニコしながら息子の彼女を出迎えた。美恵子は子供の頃からのお馴染みで、娘の親友で、美人で礼儀正しいお嬢さんだ。息子の相手としては申し分なかった。

「あ、弘志先輩」

 美恵子は足音で階段の上に弘志が出てきたことに気付いた。もうこの光景にも慣れてしまって、弘志は母親と美恵子が対峙している様子にも動じないで美恵子に声をかけた。

「なんだ、かーさんが出たのか。いいよ、あがれよ」

「あの、どうも…」

 美恵子が澄子に恐縮してお辞儀をすると、澄子はニコニコして、

「いつでも弘志のとこにお嫁に来てね~」

 と言った。美恵子は困惑しつつもはにかんだ笑顔を見せたが、弘志は階段の上から、

「まだ学生だよ」

 とぶっきらぼうに言葉を投げて消えた。

(あら、いつもと反応が違う)

 澄子は思った。いつもは「そーいうんじゃねーよ」だったのだけれど…。

(でも、弘くんなら大丈夫でしょ)

 澄子は頭が固い方ではない。いつものように、邪魔をせずそっとしておくだけだった。

 こういう関係になってみると、美恵子はなんだか部屋に入るのも恥ずかしい気がした。来るということは、もちろんOKという前提に思える。

(…別に、そんなつもりじゃないんだけどな)

 でも多分そうなるだろうとは思っていた。

 そのへんはちゃんとしらじらしくケーキなど切ってみたりして、けれど、もちろん弘志はそのつもりだった。ただ、「年が明けたら」と思っていたことについては、予定よりやや早まったがちゃんとしておきたかった。しばらく無難で楽しいクリスマスを過ごした後、本題に入った。

「美恵子」

 弘志の真剣な声に、美恵子は焦って、

「はいっ」

 と気合いが入ってしまった。そんな自分に赤面したけれど、「そういうこと」を意識するのは仕方がないと開き直った。

「こっちに座れよ」

 去年と同じだった。弘志はベッドを背もたれにして、美恵子をその隣に呼んだ。押し倒された時のことをリアルに思い出して、美恵子はなんだかものすごく緊張した。弘志は去年の光景を思い出して苦笑した。

「…去年は、悪かったな」

 弘志が笑ったので、美恵子はちょっとホッとした。

「ええ、悪かったです」

 すました笑顔を見せてから、美恵子は席を立ってそっと弘志の隣に座った。

 弘志はいきなり美恵子の肩を抱き寄せて、遠慮なくキスをした。唇を離す頃には、美恵子はドキドキして平静でいられなくなっていた。

「それと、…」

 弘志はためらいがちに言った。

「今まで、悪かったな」

 何の話だろう、と美恵子は思った。

「…おまえ、俺がカレシでもいいか?」

 美恵子はまばたきをしてから顔を上げた。弘志を見ると、真剣な瞳が怖いくらいだった。

「え、なんのことですか?」

 言いたいことはわかったけれど、なんだかあまりに長い間待ちすぎて、なかなかピンと来なかった。弘志は戸惑うように目を伏せた。

「なんとなく特別な関係なんだとか、言わなくてもわかってるだろうとか、それで済ませるのもアリなのかもしれないけど、俺はそういうの、苦手なんだよ。…そりゃあ、今までそうやって恋愛から逃げてきたんだけどさ」

 美恵子は、長い間待っていた瞬間の到来を黙って待った。

「…でも、もう、…いいだろ、俺も。ここらでハッキリしておくよ。おまえはホントは、もっとずっと前からわかってたと思うけどさ」

 なかなか決定的な言葉が言えなかった。最後の瞬間まで腰が引けている自分が可笑しかった。自分を鼓舞するつもりで、もう一度美恵子の肩をギュッと抱き寄せた。

「俺はおまえが好きだよ。ホントは、ずっと好きだった。言えなくてゴメンな。だから、もう、他人だからとか…そういう冗談を言うのはやめよう。俺の彼女になれよ」

 美恵子は返事をしようと思ったが、声が出なかった。本当は感動で涙を流す自分を演出したかったけれど、それよりはむしろ嬉しくて、どうしても笑みがこぼれてしまった。

「おまえな、笑うなよ。そりゃあ、可笑しいだろうけど」

 弘志は顔をそらしてふてくされた。美恵子は一生懸命首を横に振った。

「可笑しいんじゃないの」

 そう言った途端、急に涙腺が決壊した。

「嬉しいの。やっとお願いがかなったから」

 美恵子は笑いながら泣いた。弘志はちょっと気恥ずかしい気もしたが、こんなのも悪くないと思った。

 涙が止まるまで待って、弘志は美恵子のほうに向き直った。

「じゃあ、おまえも、俺のお願いかなえて」

 言い終わるより早く、弘志の指は美恵子の服のボタンに伸びた。

「え…あ、でも」

 やっぱりドキドキした。弘志の体が覆いかぶさって、美恵子は床に押し倒された。

「大丈夫、おまえもしっかりシャワー浴びてきただろ」

 デリカシーのない言葉に美恵子は真っ赤になった。でも、しっかりそのつもりでシャワーも浴びたし、出掛ける直前に上下おそろいの下着に替えて来ていた。くやしいから抵抗していると、弘志の声が囁いた。

「照れ隠しくらい、言わせてくれよ。これでも結構緊張してるんだよ」

 美恵子は少しだけ笑ってしまったけれど、そう長くはもたなかった。そのつもりでいた体は初めから熱くて、この前は味わえなかった気持ち良さがすぐに美恵子の感情を飲み込んだ。まだ性的な快感まではいま一歩足りなかったけれど、こんどはそこまで痛くもなかったし、女としての幸せは満喫することができた。

 終わってから美恵子は、隠れるように弘志の耳元に深く唇を寄せて、

「…約束は?」

 と訊いた。

「おまえな~、めちゃめちゃ怒ってたろ~?」

 そう言いながら弘志は、しっかり美恵子を抱き寄せて

「愛してる」

 と言った。

「…なんか、屈辱」

 弘志は不満そうだったが、美恵子は弘志のすべてを手に入れて幸せ一杯に微笑んだ。

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