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27 ナイトメア


 弘志は初体験の期待と緊張に張り詰めた気分の中、必死で「慣れた男」を気取っていた。初めてだとばれたらどうしようとか、うまくいかなかったらどうしようとか、どういう手順でことを進めればいいんだろうとか、とにかくいろんなことを考えながら平静を装った。テレビを見ながら笑って、他愛ないことをしゃべって、そうしながらこの後の展開とその運び方を考え、態度が不自然じゃないかを逐一チェックし、遥の様子をうかがっていた。

「燕さん、料理もうまいんだ。ダンスの飲み込みも早かったし、和佐田の才媛だし、多才だね、キミは」

「えーそんな、でも、光栄です~。やった、料理うまいって言わせた~!」

 弘志は舌を巻いた。どうも遥は自分にとっても結構レベルの高い女性らしい。

(…ま、相手に不足はないってことで。胸を借りるつもりでいくか)

 美恵子には悪いが、これは男のプライドの問題だ。

 食事をしながら、それと食事の後に、遥は熱心に自分の興味を持っていることを話していた。最近のお気に入りは経済と産業。弘志にはいささか芝居じみて感じられなくもなかったが、部屋の隅には一応、実際に経済雑誌数冊と日経産業新聞などが置いてあった。

(そこで日経でなく日経産業新聞ってところが、この子の、むやみに賢くて、その分ミエミエなところだよな…。大学生なんだから、素直に「日経読んでみました」でいいのに)

 本と新聞の山をほんの1秒見ただけで、遥がツッコんできた。

「江藤さん、今雑誌の数、数えたでしょ」

「え、なんで?」

「ホントは興味ないクセに、何冊も雑誌置いて、背伸びしてる…みたいに思ってるんじゃないですか?」

「そんなこと思わないって。だってソレ、飾ってあるわけじゃなくて実際読んだんでしょ」

「時々自分でも思うんですよね、なんか私、好奇心があって私って可愛いのよ! っていうフリしてるみたいだなって。でも、経済とかいうと難しいことみたいだけど、私にとっては、おいしいお店とかオシャレなお店がどういう風に経営してるのかなとか、インテリアはどうだとか、メニューは…とか、そういうのに興味がわいただけなんですよ。それで雑誌を買ってみたら、工場の運営がどうのこうのとか書いてあって、それにも興味もっちゃう。ただの注意力散漫なんです」

 弘志は話を聞きながら、遥の背後にある本棚のとある傾向に気付いていた。

「…で、その注意力散漫な燕さんが一番好きなのって、植物なんだ?」

 遥の本棚には明らかに植物学の本が多かった。けれど遥の話に草花や樹木が出てきたことはないなと弘志は思い返していた。

(この子は結局何がやりたいの?)

 燕遥というこの女の子は、いったいどういう素顔をもっているんだろう。口から出る言葉が個性を作り上げすぎていて、どことなく人工的なものを感じてしまう。

 こころもち遥の声がゆっくりになった。

「実は、父が、そっち方面の学者なんです。子供の頃から山に行っては植物を調べ、野原に行っては植物を調べ、庭には植物のビニールハウス、なんて環境だったから」

「学者、って…大学の教授とかなの?」

「えー、なんかオシャレじゃなくて恥ずかしいんですけど…農大の教授です。専門は藻だし…でも私、藻はあんまり教わってないですね~。綺麗な草花の話をよく聞いてました。父が、トリカブトの花をお花屋さんで買ってきて、玄関に飾ったりするんですよ。私、それがトリカブトだなんて全然知らなくって。毒があるのは根ですけど、出荷する時ってはじめから切花の状態なんでしょうか? 花農家は根を持ってるし、花屋も根を扱ってる可能性がありますよね。…ということは、トリカブトの根の販売ってすごく簡単にできるんじゃないかって思いませんか?」

「トリカブトって…山奥に行って探さないといけないような、珍しい植物じゃないの?」

「いえ、生け花とかでも普通に使いますよ。夏頃、青紫色の綺麗な花が咲くんです」

「へえ、そうなんだ。トリカブトは根っこ以外、全然毒ないの?」

「残念ながら、根以外は完全に無毒です。でも、私、すずらんは栽培してました。すずらんも毒草なんです」

「えーっ、そうなの?」

 遥は楽しそうに植物の話を続け、弘志はなんだかホッとした。植物に関しての興味は他のものと明らかに違って、とても自然に遥に根付いているのを感じた。

 遥の頭の回転はびっくりするほど速かったし、感覚も鋭かった。会話に知的好奇心とプライドを心地よく刺激される。弘志は良貴に思いを馳せた。

(…典子に比べたら、退屈しないかもな。美恵子もさすがにこうはいかないし)

 弘志は話しながら、視線を動かさないように視界の隅をうまく使って時計を見ていた。時間は着々と過ぎていくが、勝負の時間にはまだ少し早い。

「ちょっと片付けますね」

 遥はそう言ってテーブルを片付け始め、弘志にテレビのリモコンを渡した。

「…あ、それより、植物図鑑見せてもらってもいい?」

「どうぞ」

 本棚から抜き取ると、ページをめくるあたりが変色していた。指の跡だろう。しかも、二冊にはマジックで父親の名前が書かれていた。弘志は遥の素顔の片鱗をつかんだ気がして頬をゆるめたが、即座に不安を感じた。それすらも「戦略」だったら…。男はこうして遥のことを理解したような気になり、また一段と彼女にハマる…。家族の話を聞けただけで、ちょっとばかり近づけた気になった。美恵子より話が知的で面白いとも思った。

(…怖い、怖い。こう見かけが綺麗だったら、まあ、だいたいの男はいい方に評価するんだろうな。そんでますますハマってくワケだ…)

 弘志は良貴の真後ろを歩いている自分に気付いてひっそり苦笑した。良貴の後ろ姿が見えなかったら、自分も同じ道に迷い込んでいたかもしれない。

 台所の水音が止み、弘志がその静寂を気にしてテレビをつけると、遥が見計らったようにさりげなくトイレに行った。確実にドアが閉まったことを耳で確認して、弘志は電光石火で携帯電話を取り出した。

「あー、かーさん、今日、友達んとこ泊まるから」

 テレビの音を大きくして、口元を覆いながら弘志は大急ぎで言った。遥と見事「そういう雰囲気」になってからではこんな電話はできない。

「あー、そうなの? ご迷惑じゃないの?」

「うん、いつもの奴のとこだよ。毎度、毎度」

「なら、いいけど。気をつけてね」

「何にだよ。まいーや、じゃね」

 弘志は焦って電話を切った。遥には聞こえなかったはずだ。

 遥がトイレから出る気配があったので、弘志は慌てて携帯電話を元の場所に放り込んだ。


 母が玄関の鍵をかけに行ったのを見て、典子は何気なく訊いた。

「あれー、お母さん、弘志帰って来ないの?」

「うん、いつものお友達のところに泊まるんだって。大学生になったら、もう、遊び歩いちゃってしょうがないわね~」

 澄子はすっかり弘志の泊まりに慣れっこになっていた。

「いーなー、私も泊まりで遊び歩きたい~」

「典ちゃんはダメ、女の子でしょ」

「男女差別だー」

「どうしてもっていうなら、ウチに美恵子ちゃんを呼んで夜通し遊びなさい」

 典子は「また、根本さんのとこか」と思った。龍一郎は集まりに車で来ては友人を送り歩き、残り数名を泊めることが多かった。その数名に弘志が含まれることも多かった。

 典子は部屋に戻り、パソコンを立ち上げた。時計を見ると、デジタル表示がパッと23:50に変わった。


 弘志は「時計を見る」という行動をとるべきか否か決断を迫られていた。時計を見て帰るふりで誘いを待つか、このままなし崩し的に終電を逃すか。東急東横線の終電の時刻はわからない。でも、今なら確実に終電に間に合うだろう。「帰る」と言うなら最後のチャンスだ。結局、弘志は少しでも責任の軽くなる方をとった。

「…あ、もうこんな時間じゃん」

 弘志は「明らかに思惑があるくせに、帰るそぶりを見せる男」のしらじらしさを演じた。本当は期待と不安でいっぱいいっぱいだなんてことは、慣れたハッタリで隠しおおせる。

 遥は、しっかり弘志の言葉の中にある違和感を感じ取った。

(…ここまできたら、さすがにその気なんだ?)

 やっぱりちょっと緊張した。相手は彼氏じゃない。遥だって「カラダで男をオトす」なんてことは初めてだった。でも、体のつきあいが大した事件じゃないことも知っていた。…本当のところは、弘志にとっては大事件だったのだけれども。

「え、帰るつもりだったんですか?」

 遥は自然体を装って、びっくりしたふりで言った。弘志は「獲った!」と思ったが、遥に決定的な誘いをさせるまでは自信が持てなかった。

「さっきからそこのハムスターが、男は帰れって言ってるから。俺、動物の言葉わかるし」

 弘志は「誘うなら、ちゃんと誘ってよ」という思いをこめた大仰な笑顔で、バカバカしい冗談を言った。

「えー、うそー。私、動物の言葉、わかんないんですよね~」

 遥はハムスターのカゴのそばに行き、膝をついて座ってのぞき込んだ。

「江藤さん、話してみてもらっていいですかあ?」

 弘志はそろそろと遥の背中に近づいた。遥もカーペットの微妙な沈み具合でそれを感じ取った。

「…何か、言ってます?」

 わずかに振り向いた遥の声は艶っぽくかすれ気味で、抑揚は思わせぶりに沈んでいた。

「そのまま目をつぶって、十秒待ってほしいって」

 弘志は遠慮なく遥の肩を抱き寄せ、遥が目を閉じていることを確認してから(そこが弘志のまだまだ自信のもてない表れだった)、慣れたフリをして唇を重ね、ゆっくりと床に倒れこんだ。十秒を過ぎても、遥のまぶたは開かなかった。


 典子は美恵子に電話をかけた。でも、すぐにそれが役に立たないことに気がついた。

「もしもし?」

「…美恵ちゃん、ゴメン、典子ー」

「どうしたの?」

「ゴメン、遅くに。でも、美恵ちゃんに電話しても、しょうがなかった」

 典子がメールチェックをすると、龍一郎から長いメールが入っていた。今日起こった面白かった出来事の報告の後、次はどこに行こうか…と二人で出かける時用の選択肢が3つ示してあって、送信時刻を見るとほんの5分前だった。

(…え、弘志がいるとこで、私宛にこんな長いメールうつわけないじゃん!)

 典子は即座に机の上の子機を手にして、美恵子の携帯電話を呼び出していた。弘志が今夜いるのは龍一郎の家ではない。

「…今日、弘志、帰って来ないんだけど…」

 典子は、やっぱり言わなければよかったと思った。美恵子は以前「言ってくれれば対処できる」と言ったが、今夜弘志が「どこか」にいるというだけでは何の対処もできない。

 美恵子はすぐに事態を察した。

「典ちゃん、弘志先輩って、其田くんのとこにいたりしないの?」

「…うん、あんま家族いるとこには泊まらない…。もちろん、弘志の泊まり込むとこ、全部知ってるわけじゃないけど…」

 しばらくの沈黙の後、いろいろ話し合ったが、やがて電話していても何にもならないと結論して電話を切った。それから、典子はさんざん逡巡して良貴の携帯に電話をかけた。

(だって、非常事態だから)

 良貴の家にいる可能性はゼロ。弘志は、良貴のことを母に伝えるなら名前で言うし、泊まりに行くことはまずないので「いつもの友達のところ」という言い方と合わない。でも、典子はそ知らぬふりでコールの音を聞いていた。声が聞きたかった。

 良貴は携帯電話の窓に「江藤典子」と出たので(江藤家の家電話は江藤典子で登録してあった)一瞬躊躇したが、妙に遅い時間にかけてきたので不安にかられ、すぐにとった。

「もしもし、其田です」

「ゴメン、典子です。あのさ、弘志ってそっちに行ってない?」

 典子は不審電話と思われないように一気に用件まで言い切った。

「…え、弘志先輩? なんで?」

 案の定、いない。わかっていたことではあったが、典子は不安を感じた。しかしそれを良貴に共有させる理由はないので明るく振る舞った。

「…あ…ゴメン。多分、どこかの友達のところにしけ込んでるんだな…。ちょっと連絡とりたかったんだけど、つかまらなかったの。それだけ」

「そうなの? 何かあったとかじゃなくて?」

「うん、今日は帰って来ないって電話はあったの。行方がわからないだけ、でも平気平気。男の子だもん。ゴメンね、こんな時間に。ホント、それだけ。じゃあね」

 典子はそう言って慌てて電話を切った。

 ちょっと不可解な気もしたが、良貴は気持ちをすぐに切り替え、遥にメールの続きをうち始めた。

『今度の週末かそのあたりで、一度どこかに遊びに出ない? 燕さんが今興味をもってることが何かあったら、それにつきあってもいいし…』

 良貴の手が止まった。今日、噴水のところで誰かを待っていた遥の姿を思い出した。

(…僕を追い払ったみたいに感じたけど…)

 待ち合わせの相手が来たら、その人と一緒に立ち去ればいいだけなのに、良貴がその場にいると困るような態度だった。

(…僕とハチ合わせたら困る誰か?)

 弘志は今夜、どこともつかないところに外泊しているらしい。

(まさか)

 絶対にそんなはずはない。弘志には美恵子がいる。

(…でも、実際のところ、須藤さんとは他人だってことになってる)

 キーボードを叩く指が止まった。否定するたびに良貴の手は動き始めたが、それからだんだん止まる頻度が高くなっていった。


 弘志の方は目下順調に進行していた。幸いにして勉強は十分だったので、お手本どおりの態度で進めればよかった。あとは急がないこと。夜は長い。

 遥はいつ「シャワーを浴びたい」と切り出そうか迷っていた。早いうちからそんな風に言うと、あまりに積極的に見えるんじゃないかと思った。でも、胸元のフロントホックはすでに積極性をみせていた。弘志は遠慮なくそのご厚意を受けた。

 いつベッドに行こうかと思いながら、弘志は遥のスカートに手をかけた。申し訳程度に遥の脚が閉じられ、その内股に掌をねじ込んだ瞬間、いきなり電話の音がした。弘志の携帯の着信音だった。

(うっわー、切るの忘れてた!!)

 最悪だったが、弘志は慌てないように繕いつつ、遥の目が慌てて見開かれて自分を見返すのを見てから、

「…ゴメン、忘れてた」

 と肩をすくめて起き上がり、すぐに電話を切り、電源も切った。遥はゆっくり上半身を起こした。上気した顔はまだうっとりとけだるいままだった。

「…あの、シャワー浴びてもいいですか?」

「あー。ゴメンな、コレ」

 弘志が額に携帯電話を当てて苦笑いすると、遥は潤んだ目でほんの少し微笑むような顔をした。

 遥が浴室に消えると、弘志は放ってあった上着を着込んだ。

 志半ばにして大変残念だったが、弘志は今のうちに消えることにした。携帯のウィンドウには「須藤美恵子」と出ていた。電話が鳴ったときよりも、その文字が見えた時の方が肝が冷えた。美恵子が今、一生懸命電話をかけてきているだろうと知っていて、平然と他の女の子とよろしくやれる度胸は、残念ながら江藤弘志には備わっていないらしかった。

「ご主人によろしくな。また、来るよ」

 ハムスターにそう声をかけたものの、もう次はないだろう。ケータイは鳴るわ無断でいなくなるわ、最悪だ。特に、その気にさせておいて無断退出なんて失礼極まりない。

(でも、今の俺は無理! これで他の女が気になって『ゴメン、俺のほうの用意がデキません』なんて詫びることになったら、俺の生涯最大の恥だ。逃げるしかねぇだろ)

 その時、遥の部屋の固定電話が鳴った。シャワーの水音で聞こえないらしく、遥はまるきり反応しない。電話はしばらく鳴って、留守電に切り替わった。無機質な女声のメッセージの後、知っている声が流れてきた。

「…其田です。別に、用があるわけじゃないんだけど…。たまには電話ください。おやすみ」

 弘志は親友のこの素晴らしい贈り物に感謝した。女がシャワーを浴びている時に他の男から電話が入ったら、「間男」の退出はアリだろう。

(…悪いな、其田。今度、一応しっかり挨拶はさせてもらうから)

 典子と美恵子、典子と良貴が電話で交わした会話のことなど知らない弘志は、美恵子といい良貴といい、計ったようなタイミングだな…と複雑な表情をした。

 弘志は遥の家を出て、すぐに龍一郎に電話をかけた。

「あー、悪ィ、終電逃しちゃってさ。泊めてくんねえ?」

 弘志は車を止めてもらう場所を指定して電話を切った。そして、よっぽど美恵子に電話をかけようかと思ったが、そうはせず、すぐに電源を切ってしまった。遥が浴室を出て弘志がいないことに気付いた時のことを考えると、携帯電話なんか通じちゃ困る。

(…美恵子も怒ってるかな)

 でも、これからアリバイができる。弘志は美恵子にバーチャルな言い訳をしていた。

(いつもの、龍一郎って奴のとこに泊まってたんだよ。電話? 気付かなかった。切った? あ、悪い、そういや昨夜、充電切れてたかもな)

 しばらくたった頃に龍一郎の車がやってきて、弘志を拾っていった。


 遥は鏡を見てできるだけ綺麗に見えるように濡れた髪を下ろし、部分的に落ちてしまった眉毛をおかしくない程度に復元した。弘志がいる部屋でタンスをあさって下着を取り出すのははばかられたし、今までつけていたのをそのまま使うわけにいかなかったので、遥は下着を着けずにシャツ一枚で浴室を出てきた。ここまできたら、もう格好をつけてもしょうがない。

 でも、折角遥が感動的な格好で部屋に戻っても、そこに弘志の姿はなかった。

(…タバコ買いに行ったとか…)

 男の子がふらっと部屋を出るとすればこれだが、弘志はタバコを吸わない。

(え、どういうことなの?)

 慌てて携帯電話に飛びついて電源を入れた。遥は用意周到に、弘志と2人っきりになったときから携帯電話の電源を切ってあった。

 電話しても弘志の携帯の電源は切れていた。考え込んでいると、視界の隅で赤いランプが点滅しているのが見えた。ほとんど使っていない、部屋の電話だった。

(…留守電だ!)

 遥は弘志からのメッセージが入っていると思って飛びついた。しかしすぐに、弘志にこの部屋の電話は教えていないことに気がついた。メッセージが流れ出した。

『…其田です。別に、用があるわけじゃないんだけど…。たまには電話ください。おやすみ』

 遥は顛末を悟った。それは事実ではないが、遥は少なくともそう思った。

(…この電話聞いたら、…帰るか、やっぱ…)

 良貴に対して猛烈に腹が立ったが、あとの祭りだ。その気になった体のことは忘れるしかなかった。でもちょっと切なくて、遥は弘志の掌を思い出した。

(江藤さん、めちゃめちゃ余裕だったな~。やっぱ結構遊んでる方なのかな~。でも、悪い人じゃ絶対、ないと思うんだけど。もてるってことなんだろーな…。電話来ちゃったときの態度とかも簡単に「ゴメン」とか謝ってて、慣れすぎ。よくあることなのかな。だとしたらちょっと、ムカツク)

 弘志に抱かれるのを楽しみにしていた。心の問題とは思っても、恋には必ず「そういうこと」が伴ってくる。弘志はちょっといい体をしていたし、どことなく色気もあって、しかも「上手そう」に感じられた。実際、誘い方なんか適度にわざとらしくて、すごくドキドキした。

(…其田さんは、フェードアウトしちゃおうかな)

 やっとお友達になったばかりの男より、目下H未遂の本命男のほうが断然重要だった。


 美恵子は呆然としていた。電話は確かにつながったが、出ないでそのまま切られた。不自然な切れ方をしたあとは、どんなにかけても電源が切れたままだった。

(…私からかかってきたことは、わかったはずよね)

 こんなことは初めてだ。嫌な想像ばかりが浮かんだ。なんとかして消息を知りたくて、何度も電話をかけた。でも、弘志の電話は一晩中、OFFのままだった。


 良貴は途中まで打ってあったメールを消した。留守電に「電話をくれ」と入れたのに、同時にメールでいろいろ告げてはおかしいだろう。

 遥の携帯電話に何度かかけたが、ずっとつながらなかった。思い出して、次は一人暮らしの(良貴は遥が一人暮らしなのを知っていた)部屋に電話をかけてみた。そこも留守電だった。メッセージだけ入れて切った。

(家は留守…。じゃあ、あんな時間にどこにいたんだろう)

 他の友達の家、あるいは実家だろうか。でも、もしかして…。

(…どこかに泊まり…)

 今この瞬間、弘志も同じように行方が知れない。良貴は弘志の携帯にも電話をかけてみたが、電源は切れていた。

 良貴は、考え込むなと自分に言い聞かせて布団に入った。でも妙に目が冴えて眠れなかった。気にしないことにしていたはずの遥の昔の恋愛遍歴が気になった。

 もし男と一緒だとしたら…。良貴は重苦しい気分に苛まれ、寝返りをうった。恋愛の経験不足、それと体の経験不足。「まずいかなって思わねえ?」…弘志も言っていた。オトナの恋愛、オトナの関係…大学生の女の子とつきあうなら、そういったものを揃えておかないといけないのだろうか。

(…弘志先輩が燕さんとどうこうってことは、絶対にないよ)

 それは自分の意志として疑わないことに決めた。でも、弘志に好意を見せつつ、自分に「友人からなら」の返事をして、今夜の行方がわからない遥は、どこか遠くの星の人に思えた。


 弘志は龍一郎の部屋に転がり込み、やっと落ち着いた。

「…おまえ、あんなとこで何終電逃してんの?」

 龍一郎は訊いた。弘志を拾うために車を止めたのは、住宅街を通る国道の、何にもない交差点だった。

「んー、ちょっとね~」

「女?」

「典子には黙っててくれよ~。第一、未遂なんだから」

「なんで泊まらなかったの。その予定だったんだろ?」

「彼女がシャワー浴びてるとき、部屋に他の男からデンワかかってきて、留守電に録音入るの聞いちゃったよ。そんで出てきた。今頃どうなってるかな~」

 苦笑する弘志を見て、龍一郎は不思議そうな顔をした。

「おまえって、マジメなのかと思ったら、そういう事件起こすこともあるんだ」

「まあ、いろいろと、何事もないわけじゃないってことで。据え膳は食うけど、基本的には真面目よ。フリーの男女間に、事故くらいあるでしょ。事件じゃないよ、事故」

 弘志は見栄を張って口だけは達者だった。

「…典子ちゃんとはえらい違いだな~」

「何よ、どう違うって?」

 弘志は首をかしげ、龍一郎は自分の首尾の悪さに苦笑した。

「彼女、けっこう流されやすそうだから簡単かなって思ってたんだけど、恋愛エリアに全然入れないよ。前の男、よくオトしたね~。いろいろ期待してたんだけどな~」

 弘志は途端に頑固オヤジみたいな渋面になった。

「…何、期待してんだよ、おまえ」

 龍一郎は照れ笑いでごまかしながら頭をかいた。

「普通に恋愛だよ恋愛」

「オマエが期待するよーなことは、あと十年はないぜ。絶対に」

 弘志は脅すような口調で言った。龍一郎は弘志を憐れんだ。

(…ああかわいそうに、妹は無垢だと思ってるんだな~)

「いや…でもね、そーいうのなくても俺としてはすごく新鮮。デートの勘定はワリカンだし、何でも楽しんでくれるし、すっごい楽。ちょっと段取り失敗しただけで『つまんない男』だとか、財政が厳しいと『貧乏人』だとか、そういう評価になるの気にしなくていいんだもんな。この前なんかデートでメシ牛丼よ牛丼」

 龍一郎ははしゃいだ。弘志は「当たり前だ」と思いながら相槌を打った。

「ウンウン。おまえの今までの女の選び方がなっちゃいなかったんだろうけどな」

「…俺おまえみたいにもてねーもん」

 龍一郎は憮然として言ったが、真実は逆で、龍一郎の方がそうそうたる戦歴だった。弘志はそれを自覚していたが、そのまま間違えさせておいた。

「昔のカレシどういう奴よ? そいつが邪魔でどーにもならないんだけど。俺はマジ恋愛にもっていきたいと思ってるんだけどな。彼女いい子だよ。自然体でOKなんて感動的。ヨゴレてしまった俺のささくれ立った心が洗われるようだよ」

「まあ、まあ、そう誉めるな。可愛いだろ、俺の永遠のアコガレだもん」

「…いや、妹に対してそういうのはちょっとアブナイと思うけど」

「危なくないアコガレだよ。小鳥や小動物を慈しむような気持ち。奴らはひたすら可愛いだけで、心を手に入れることはできないのよ。俺にとって、典子はそーいうもん」

 龍一郎は感慨深げな弘志の顔をのぞき込んだ。

「なかなか淋しいね、双子っていうのも。来年のゼミ、兄妹愛の研究とかにしてみようかな。典子ちゃんも女性として非常に興味深い研究対象だし」

 龍一郎の発言はいちいち不穏だった。弘志は妹の身を案じた。

「…あのな、龍一郎。おまえは本当に典子のことをわかってないんだって」

「そう? わかってなさ加減はおまえと大差ないでしょ。おまえって典子ちゃんが処女だと思ってるし」

 弘志はめちゃめちゃ不愉快そうな顔をした。

「…おまえ、そーいうこと考えながら典子と会うな。典子はそういう方面に関してはマジ初心うぶだから、やめてくれ」

 弘志の盲目ぶりにも困ったもんだ、と龍一郎は思った。

「1年もつきあっててそうならなかったら問題でしょ。おまえの気持ちはわかるけど」

「一般的にはそうでも、典子はナイ」

 どんなに言っても無駄だと思い、龍一郎はあきらめた。

「俺は彼女を一人前の女性として扱うだけだよ。仕掛ける時は仕掛けるけど、恨むなよ」

「マジで、そーいうのイキナリぶつけるなよ。順序は絶対に守れよな」

 龍一郎は、どうして弘志がこうもかたくなに典子の純潔を信じているのかまったくわからなかった。そんな龍一郎の横で、弘志は絶対に言えない根拠を頭の中で述べていた。

(…1年つきあったからってそうなるとは限らねーんだよ。俺は、自分がデキなかったから言ってんだ!)

「わかったよ、友人の妹にチョッカイかけたのを不運だと思って、そうするよ」

 龍一郎は弘志の忠告を一応胸に刻み込んだ。


 弘志は午前中のうちに龍一郎の家から帰宅した。母の澄子は、

「あら、早かったのね」

 と言った。典子はそれを聞いて、

「早くないじゃん。朝帰りだよ」

 とツッコんだ。

「弘志、どこ行ってたの?」

 典子はちょっとドキドキしながら訊いた。

「ん、龍一郎んとこ」

 弘志は病ましい気持ちの全くないさわやかな笑顔で答えた。典子はその顔を信じかけたが、状況証拠があることを思い出した。

「…でも、根本さんから、メール長いの入ってたよ。普通、人来てるときにそんなのうつ?」

 弘志はありのままを素の顔で答えた。

「ふーん、俺があいつんち行ったのも遅いからな。着いたの1時だから」

「あ、そうなんだ。メール来たのもっと前だ。そっか」

 事実はやはり強い。典子は簡単に安心した。

 でも、美恵子はそうはいかなかった。典子に話を聞くと、しばらく考え込んでから、

「…でも、泊まったのはその根本さんて人のとこでも、それまでどこにいたかだよね…」

 とつぶやいた。

「なんで?」

「…典ちゃん、そーいうのって、泊まりで一緒にいないとそうならないってものじゃないんだから…。2時間もあれば十分すぎるわけだし…」

「2時間って、何で?」

 美恵子はガックリ肩を落とした。

「典ちゃん、普段どーいう生活してるの? そーいうホテルが2時間いくらってなってることくらい、知らない? 行ったことは私もないけど、雑誌とか漫画で読むとか、友達の話とかで出て来たりしないの?」

 典子は堂々と「知らない」と答えた。友人と恋愛の話はするが、そんな「リアル」な話はしない。

 美恵子は典子が語ってくれた状況を整理し、推理しようとしたが、重く立ち込める心の雲を押し込められず、まともに考えることができなかった。


 やっと弘志の携帯電話に電源が入ったので、事件の翌日には、遥は弘志に連絡をとることができた。

「江藤さん」

「ああ、こっちからかけようかな~と思ってたんだけど」

 弘志も夜になったら電話するつもりでいた。

「…なんか…あの、…すみませんでした」

 遥は、弘志が普通に話してくれたから一応は安心したものの、こういう場合に一体なんて言ったらいいのかわからなかった。

「いや、かえってゴメン、そういうことになってたの気がつかなくって。其田と仲良くやってよ。あいつ、いい奴だからさ」

 弘志は良貴に内心で詫びつつさらっと言った。遥は心から良貴を恨んだ。

「其田さんとは、ただの友達ですから」

「…ん…でも、ただの友達の電話? あれって」

 遥は唇を噛んだ。良貴は恋愛を前提とした友人なのだから「たまには電話がほしい」くらい言ってもいいだろう。そうした事態を回避しなかったのは自分だ。

 でも、それなら今から対処するだけだ。遥は果敢に言い返した。

「其田さんがどう思ってるかは知りませんけど、私は、本当にただの友達です」

 遥の口調が強くなったのを感じて、弘志は電話口でわからないように笑みを浮かべた。

「そうなんだ。気を遣いすぎちゃったかな。…じゃあ、また、そのうち会おうよ」

 いったいそれがどういう「会う」なのかは、はなはだ微妙な問題だ。もはや他人ではないところまで、進んだといえば進んでしまっている。

「そうですね、また電話しますから」

 2人は微妙なトーンのまま電話を切った。弘志は満足の笑みを浮かべ、遥は次に弘志をどう誘おうか熱心に考えはじめた。遥は甘いため息をついた。

(…また会おうって…、もちろん、続きも期待してるよね?)


 弘志はその夜のうちに良貴に電話をかけた。

「ちょっと出て来ねー? たまには飲もうぜ」

 そう誘って、良貴の家がある駅の近くの飲み屋に入った。そして遥のことは一言も話題にせずに楽しく飲み交わし、帰りに駅前の広場でやっと「挨拶」に入った。

「実はさ、今日は話があったんだ」

 弘志はあらたまって言った。

「え? なんですか、いきなり…」

「俺、燕さんに関してはもう協力できねーワ。悪いけど、少々敵対させてもらうから」

「…え?」

 意味はわかったが、こんなに明白に弘志が自分の意志で敵に回るなんて思っていなかった。良貴は呆然と弘志を見ていた。

「黙ってて悪かったけど、実は何回か、2人で会ってるんだよな。俺も最初は誘われて断らなかっただけだけど、まあ、最近はそうでもないんだよね。だからって別に、つきあおうとか、そーいう話が出てるわけじゃないけど。ただ、いつ、どこで、なにが、どう転ぶかはわかんないってこと。もしそうなった時、おまえに後ろめたいのは嫌だからさ。ちゃんと宣言しとこうかなって思って」

 弘志は遥とつきあう気なんか相変わらずなかった。だから、こんな言い方になった。

 良貴はすぐに金曜の夜のことを思い出した。こうなってみると、結果的にそのセンが一番怪しい。

(…これから何がどう転ぶかじゃなくて、もしかしたらもう、なにかあったんじゃないかな。それで、こんなことを言ってきたんじゃ…)

 脳裏に弘志と絡み合う遥の姿が浮かんだ。すーっと血の気が引いていった。

「…弘志先輩、須藤さんは…」

 やっとそれだけ言った。弘志は焦り、一瞬待って態勢を立て直した。

「何度も言ってるはずだけどな。美恵子とはつきあってないって。他人なんだって」

 良貴は、そんなのは言い訳だと思った。でも事実はそうなのだから仕方がない。

「…そうですね、…他人だって言ってましたね…」

 息ができないほど胸が詰まった。そして、何かあったとしたら遥の方が弘志を堕としたんだろうと思った。

(じゃあ、僕って何なの)

 誰に対して怒っていいのかわからなかった。自分は正々堂々と正面からぶつかって、やっと友達の立場を手に入れたのに、その裏で遥と弘志は「なんとなく」仲良くなっていた。そして今後も、「なにがどう転ぶかはわかんない」という関係を続けるらしい。

(僕は何なの? 僕の気持ちは伝えたのに、それは保留で、その間に他の男と親しくなるの?)

 弘志を恨みたい気もしたが、絶対に遥の態度が間違っていると思った。

 弘志を見上げると、なんだかみじめな気分が増した。対等に話をするのに、見上げなければならない。でも、だったらなおさら強がるしかない。

「…弘志先輩の言ってることは、わかりました。フェアに伝えてくれたのは感謝します」

 良貴は負けないように強い瞳で弘志を見返した。弘志は、少しだけすまなく思ったが、その心を裏返せば典子の泣き顔があった。良貴に対し、容赦は要らなかった。

 良貴は掌をぎゅっと握ってポケットに仕舞いこみ、感情を閉じ込めた。

「でも、僕は僕なりに今後も努力しますから。…まさか、弘志先輩がライバルになるとは思いませんでしたけど…」

「うん、俺も、おまえのために協力するとか言って知り合ったから、後ろめたいんだけどさ。でも、まあ、出会いは出会い、その後はその後だ。それから、…こんなこと言うと、ふざけるなと思われるかもしれないけど…、友人としての部分はあくまでも友人でいたいんだけどな、俺は」

 遥と決定的な仲になるつもりはない。もし逃げきれなかったとしても、すぐに何か理由をつけて別れてしまえば済む。そのために親友を失うことは避けたかった。良貴はそんな弘志の思惑には気付かず、男の友情にちょっと感激した。

「…そうですね、恋愛に関するごく一部だけにしましょう、敵対するのは」

 良貴の心は、弘志のこの申し出にだいぶ救われた。

 2人はちょっと気恥ずかしいような男の友情に酔いながら、ライバルとして別れた。


 良貴は夜通し考え込んでいた。

 結局、遥の方が上手うわてだった。弘志のことを遥に問いただしたかったが、自分にだってそれに対する答えは返せた。

『だって、友達って言ったじゃない』

 良貴はあくまでも友達だ。恋愛的に何の権利があるわけでもない。

(…そういうことか、友達っていうのは…)

 良貴は遥が自分を中途半端な位置にキープしていることに気がついた。悪夢のようだった。自分の真剣な気持ちに対して、遥も、そして弘志もあまりに中途半端で煮え切らなかった。でも、それで全く構わないみたいだった。

(燕さんは、弘志先輩のことを好きなの?)

 これだけが唯一良貴に許される質問だった。でも、その答えを聞きたくはなかった。

(…そうだよ、まだ弘志先輩が勝ったわけじゃない。燕さんがはっきりと結論を出したわけじゃないんだ)

 血ヘドを吐きそうな胸の痛みの中で、良貴は自分を奮い立たせた。そして少しして、それが「あきらめない」と言った時の典子の気持ちと同じだと気付いた。良貴の胸の、別の部分がちくりと痛んだ。

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