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26 勝負の夜


 美恵子は弘志を「いつもの店」に呼び出した。弘志は、前回の別れ方があんなだったのでかなり緊張していたが、もちろん美恵子には余裕の態度を見せていた。

「なんだ、早かったな」

「先輩が5分遅れなんです」

「許容範囲、許容範囲」

 弘志は平静を装って美恵子の正面に座った。美恵子は窓の外を見ていた。

「で、何か用?」

「…自分は用がなくても呼び出すのに?」

「おー、なんか初めから怒ってるな?」

 美恵子は弘志にちらっと怒りの視線を投げた。

「…ご自分が前回、何を言ったかわかってるんですか?」

 弘志は思いっきり焦ったが、笑顔で、

「…あら、やっぱ覚えてた?」

 と返した。それで、やっとホッとした。

「どーいうつもりなんですか?」

「え、何が?」

「…怒りますよ」

「怒ってるじゃん」

「…わかってるんだったら、何か、弁解とか、したらどうですか?」

 弘志は、次に会ったらそうしようと思っていたそのとおりにした。

「美恵子、…ゴメン」

 弘志はマジメに頭を下げた。美恵子は逆に、びっくりした。弘志はゆっくり起き上がって、目を伏せて困ったような笑顔を見せた。

「魔がさした…って言ったら怒るかもしれねーけど。あんときは、そういう気持ちがあった。でも、まあ、おまえがそーいう女じゃないのはわかってるのに、無神経だったって反省してるんだよ。ホントに」

「…え、…あの…」

 弘志がいつになく素直に謝るものだから、美恵子の戦闘状態はどんどん解除されていってしまった。

「まあ、…そういう気持ちが、今もないとは、言わない。でも、俺たちはそういう関係でも、そういう段階でもない。ホント、ゴメン」

 美恵子の胸がうずいた。こんな言葉が一番嬉しい自分が不思議だった。怖くて泣いたのに、なんだかそういう関係になることを考えると甘い痛みが走る。弘志に自分を与えてあげたいような気がした。なんだか、そうして壊れてみたいような気がした。

 美恵子はちょっと困った笑顔になり、

「…私、そんなに弘志先輩を立派な人だと思ってませんから」

 と「いつもの」悪態をついてにっこり笑った。弘志は、どんな優しい言葉をかけられるよりも安心した。

 美恵子は来た目的を半ば忘れかけていた。本当は、他の女の子(おそらくは遥)と「そういうこと」をするつもりなのかと、正面きって訊こうと意気込み、また覚悟していた。けれど、弘志が自分に対して「そういう気持ちがある」と白状してくれたのに、そのすぐ後に「よその女の子とそうしたいのか」と訊くのはあんまりな気がした。

 美恵子は帰りがけに、わずかにひと言だけ訊くことができた。

「…弘志先輩、今は…彼女はほしくないんですか?」

 美恵子はあまりに貧弱な質問に自分で呆れ、言ってからそっと肩を落とした。

 弘志はしばらく黙っていた。もう、美恵子と自分の関係が、長すぎたさなぎを出て恋人同士に羽化できるような気がした。

(…そうだな、二十歳になったら…ハッキリするか、俺も…)

 やっぱりどうしても、十代のうちに童貞は脱出したかった。恋人同士になったとたんに童貞脱出のために美恵子に手を出すなんて不誠実なことはしたくない。美恵子と他人でいられるうちに、自分のプライドを守るための戦いだけを上手く済ませたい。

「…んー、『彼女がほしい』とは思わないねー」

 弘志は答えた。ほしいと答えてくれたらもう一度立候補するつもりだった美恵子はガッカリした。でも、弘志の意図は、美恵子が思ったのとは違っていた。

「彼女って、『彼女がほしい』から手に入れるもんじゃないだろ。彼女にしたい女がいるからほしくなるもんだろ。俺、真面目だから、『彼女がほしい』っていう発想はないゼ?」

 美恵子はその言い方になんだか妙にドキドキした。弘志は美恵子が何か言い出さないうちに、美恵子の頭に手を置いて瞳をのぞき込んだ。そして手を離しながら、

「…そのうちな」

 と言った。

 美恵子の心臓を直撃しておいて、弘志はぱっと背中を向けた。そして、振り返らずに手だけを振った。

(…そのうち…?)

 美恵子は完全に弘志に篭絡されていた。弘志の瞳には美恵子を期待させるのに十分な愛情が惜しげなくこめられていた。おかげで、待つことしかできなくなった。


 久しぶりに「オレラ」の大半のメンバーが集まった。人数は20人近くになっていた。

「なんかさー、スポーツ観戦とかいうと、少人数に分割されるよな~」

「だって、そんなに席取れねーもん」

「だから、J2行こうって言ったのに」

「やだよ、そんなカード」

「じゃあ春が来たらプロ野球のオープン戦だな。パリーグなら、外野席でみんな入れる」

「マリンは嫌だぜ、あそこ、シーズンオフは寒いんだもん。今月アタマ頃行ったら、もう冬みたいだったぜ~?」

「何行ったの?」

「ロッテの最終戦だよ。寒くて、豚汁、5杯も買っちゃったよ」

 一同は大笑いした。

 この日は純粋に飲み会だけで集まっていた。マニアックなスポーツ談義でさんざん盛り上がった後、「次行こーぜ、次」と店を出た。

「おまえも、次行く?」

 弘志は典子に訊いた。典子は時計を見て、

「うん、行く」

 と言った。もうすぐ22時だったが、弘志と一緒なら遅くなっても大丈夫だろう。

「弘志ー」

 弘志は後ろから上着のすそを引っ張られた。振り返ると、龍一郎が立っていた。指でしきりに典子と話をさせろとジェスチャーしていた。仕方なく、弘志は龍一郎に典子を明渡して後ろを歩き始めた。

「…ボクとお友達になってくれない? の件なんだけど?」

 典子は観念した。実は、訊かれなければごまかそうかなという気分になっていた。

「私、ホントに友達にしか、なれないと思いますけど…」

「そういう意味では典子ちゃんが明日彼氏つくっても俺が今晩彼女作ってもいいってことだし。たださ、もっと仲良くなろうよ。それだけ。難しく考えないでよ。いきなり電話かけて遊びに行こうって誘ったりして、なし崩し的に仲良くなってみるのも考えたけど、典子ちゃんそういうの苦手そうだったからこうやってちゃんと頼んでるの」

(…そうか、一応、私に合わせてくれたんだ…)

 典子はやっと覚悟を決め、ようやく答えた。

「…じゃあ、お友達っていうことで…よろしくお願いします」

「あーホント? 良かった、よろしくね」

 龍一郎は人の良さそうな笑顔で手を差し出した。典子も恐る恐る手を出した。龍一郎の手がギュッと典子の手を握って握手になった。龍一郎の肩に弘志のひじがかかった。

「…おまえ、いきなり手を握ろうとは、いい度胸じゃねーか」

 弘志は憮然として龍一郎に体重をかけた。

「これは握手だろ握手」

 龍一郎が言い返しても、弘志は全然聞きもせずに、

「な、典子、気をつけろよ」

 と言った。典子はそんな雰囲気が可笑しくて、ちょっと照れ笑いした。なんだか不思議な「友人関係」の始まりだった。

 そのまま飲み歩き、夜も更けて23時半を回った頃、弘志の携帯電話が鳴った。

「お、母ちゃんだよ。心配性なんだから~」

 弘志は盛り上がっている席を立って、窓辺に行って片耳をふさぎながら電話をとった。

「はーい、何、かーさん」

「弘くん、典ちゃんもいっしょなの?」

「一緒だよ」

「あのね、弘くんだけだったら帰って来ない時だけ連絡くれればいいけど、典ちゃんは女の子なんだから、弘くんと一緒なら一緒だよって連絡して? 心配なんだから」

「あ、ゴメン。一緒だから心配しないで。ちゃんと、典子連れて今夜中に帰るからさー」

「鍵、いっこにしとくからね。泊まりになる時は言ってよ、鍵もう1つかけるから」

「わかってるって。典子連れたまま外泊はしないって」

 弘志は席に戻ると、典子に、

「母さん心配してたよ。もう少ししたら帰ろうか」

 と言った。典子はうなずいた。オレラの女の子から声が飛んだ。

「弘志くん、相変わらず保護者だよね~」

「典子ちゃんも、たまにはお兄さんなしで夜遊びしないと~」

 彼女たちは、典子がいると弘志が早く帰ってしまうので、ちょっと残念なようだった。

「…弘志、私、一人で帰れるよ?」

「バーカ、気なんか遣うなって」

 そこに、龍一郎がニコニコしながら口を挟んだ。

「…だったら俺が典子ちゃん送ろうか?」

 弘志はじろっと龍一郎を見返した。

「そんな危ねーこと、できるか。おまえ今日も車だろ」

「だから送るって言ってるんだけど。お酒も全然飲んでないよ~?」

「ふざけんな、車でその辺入られてたまるか」

 2人のやりとりに周りの連中はウケていた。典子は「その辺?」と考えて窓の外を見て、やっと理解した。居酒屋の群れの向こうにラブホテルの看板がたくさん見えた。

(…うわー、そういう会話なんだ~)

 典子は、なんだか「友達」の感覚が自分だけ間違っているような気分になってきた。そういうことも想定して、それなりに警戒しないといけないらしい。

 結局、龍一郎は、弘志と典子2人を車に乗せて送り届けるハメになった。

「根本さん、家、遅くなっても平気なんですか?」

「俺、一人暮らしだよ」

「だから、典子、家には遊びに行くなよ」

「また弘志、そういうこと言うなって。変な誤解されるだろ~」

 典子は一応笑ってみせたが、「友達」になった途端こういう話が飛び交い始めたことは偶然じゃないと思った。そこには確かに、微妙な男女の世界が広がっているように見えた。


 良貴は遥の返事を待っていた。毎週、生物学の授業のたびに遥は隣の隣に座った。でも、返事はもらえなかった。

(返事は急がないって、言ったけど…)

 でも、もう気持ちを伝えてからひと月たつ。初めは、断るなら簡単だろうと思い、長くかかることで希望的観測を育てていた。しかし、これだけ長く待たされると、もはや育っていくのは失望だけだった。返事をせかすのは男らしくない気がしたし、悠々と構えて待ちたかったけれど、飼い殺しにされているのはやはり辛い。

 一方の遥は、良貴に返事をするより先に弘志にアタックをかけようと思っていた。もしダメだったら、良貴にOKに近い返事をすればいい。事実上の滑り止めだった。

 弘志は遥が動くのを待っていた。もうすぐ11月、二十歳までの時間を秒刻みで感じて焦っていた。このまま12月を迎えるなら、自分から遥をクリスマスに誘うことだって考えた。時々自分の焦りを冷静にバカバカしいと思うこともあったが、二十歳を過ぎてから後悔しても時間は取り戻せない。結局、気持ちはバカバカしい焦りに戻ってきた。


 典子はつつがなく龍一郎と「友達」をやっていた。龍一郎の態度は友達そのもので、典子はかえって拍子抜けした。でも、高校時代の聡史と同じなのかもしれないとも思った。

 典子の恋愛の感覚はまだまだ子供で、慎重にしているようでもスキだらけだった。龍一郎はそんな関係に新鮮さを感じた。典子があまりに無防備なので、冗談めかしてなにかしようかとも思ったが、典子の顔はやっぱり弘志に似ていて、そこがブレーキになった。

 龍一郎は2人でいて、時折典子の顔に憂いが浮かぶことに気付いていた。

「…典子ちゃん、あの…怒らないでね。その昔の彼だけど、どういう人だったの?」

 龍一郎は訊いた。典子は龍一郎の質問にまぶたを伏せた。明るく無邪気な典子が時折女性の憂いを見せる瞬間は、とても綺麗に見えた。

「そうですね、穏やかで、優しくて、プライドの高い人…。真面目で、誠実で、静かな人です。普段は地味で目立たないけど、これっていう時には最高にカッコいい人」

「欠点は?」

「…どうなんだろ? 思い浮かばないです。私にとって、最高に素敵な人だったから…」

 お手上げだな、と龍一郎は思った。典子への興味は増していて、いつ恋愛になってもよかった。けれど気持ちはとても単純かつライトなもので、目下自分にとって典子が一番可愛いと思えるだけだった。だから典子がダメなら他の人を探すし、必死になるものではない。そんな龍一郎には、一人の男性を絶対視する典子の愛情は不思議なものに見えた。

「そっか、彼の方は典子ちゃんのことどう思ってくれてたの?」

「彼の方が年下なんだけど…落ち着いてるから、なんだか…見守っててくれるような感じだったかな…。可愛がってくれてたなって思います」

「ふーん」

典子のちょっと綺麗なスタイルは、龍一郎も気に入っていた。短めのカジュアルなタイトスカートをはくと腰から脚にかけてのラインがとても格好良かった。龍一郎は、典子がその「彼」に抱かれてどうだったんだろうと考えた。これだけ心から「彼」を思っている典子だから、ベッドではさぞかしいろいろしてあげたんだろうと思うと、龍一郎は極めて男性的な興味を感じた。そのかいがいしい行為を自分に向けてほしいと考えると、典子はなかなか魅惑的な女性だった。

 龍一郎は慎重に典子が気を許すのを待っていた。いずれ少しずつスキンシップを図っていけばいい。キスまで時間をかければ、それが「純愛」だと思っていた。

 典子は自分がもうすぐ20歳になる自覚もないまま、キスより先の体のつきあいを「大人」になってからするものだと思っていた。

 2人の感覚は完全にずれていた。龍一郎が動いたらすべてが壊れてしまう砂の城を、2人はせっせと築いていた。


 龍一郎と典子が「友達」を無難に続けていくのを見て、弘志は安堵を覚えた。弘志の心の中には、どうしても良貴への反感が消せないまま残っていた。そんな気持ちが高じて、弘志は良貴に、

「典子も、新しい人を見つけたからさ。もう、あいつも大丈夫だよ」

 と告げた。そして、良貴がポーカーフェイスで、

「そうですか」

 と答えるのを掌を握りしめながら聞いた。良貴の横顔は何も語らなかった。弘志はそんないつも静かな良貴に苛立ちをおぼえた。

 良貴は何も語らなかったのではなかった。言葉が出なかった。典子が新しい恋を見つけたことはショックだったし、ショックを受けた自分自身がまたショックだった。

(…そうだよね、もう、…別れてから5ヶ月以上たったんだから…)

 一方的に自分が別れを告げてから、典子がどんな気持ちで過ごしてきたかはわかっているつもりだ。そして、その辛さからいつかは典子も解放されるはずだろうとは思っていた。それでも、良貴は典子の再出発を喜んではあげられなかった。

(…あきらめないって言ってたのに…)

 振り返るとそこには古ぼけた体操の道具があって、良貴の過去の栄光を飾っていた。でも、もうそこに、それらを大切に守る典子の姿はなかった。

『其田です。新しい人を見つけたと弘志先輩から聞きました。僕もホッとしています。幸せになってください』

 良貴は典子に宛ててメールをしたためた。けれど、なかなか送信することができなかった。なんでそんな文章をつづったのかわからない。並べた言葉は嘘だったし、そんなメールを送ること自体、自分の中にある典子への執着にすぎない。何度もメールを削除しようとした。でも、結局は送信してしまった。

 告白への遥の返事はない。そこに典子のことを聞かされて、良貴の心は孤独につぶれそうだった。過去が遠ざかり、未来があまりに遠くて、居場所を失ったように感じた。

 良貴は典子からの返信を待った。でも、何日待ってもそれは来なかった。


 良貴に届いたのは、メールではなかった。

 良貴の駅のすぐ前の小さな公園の脇を通りかかったときに、典子の声がした。良貴は自分の感情が聞かせる幻聴かと思ったが、次の声がした時には典子の実体を伴っていた。

「…其田くん」

 典子は夏に中途半端に切った髪が少し伸びて、また少し高い位置で髪が結べるようになっていた。下の方はひどい後れ毛だったが、それが元気な感じを引き立てていた。

「典子、…何やってるの?」

 良貴は以前駅で声をかけられた時と同じように訊いた。

「言ったじゃない、友達の家がこの近くなんだって」

 典子の答えは絶対に嘘だと思ったが、そんなことをわざわざ言う必要はなかった。

「ねえ、ブランコに乗らない? すいてるよ」

 典子は言った。良貴は典子の後をゆっくり歩いて公園に入っていった。

典子が一生懸命ブランコをこいでいる横で、良貴はただブランコに腰掛けていた。

「ねえ、弘志に聞いたの?」

 典子の言葉は唐突だった。

「え、何が?」

「私に、次の人ができたって」

 その声はちょっと怒っていた。

「…そうだよ。うまくやってるって聞いてるけど」

 良貴は平静を装いながら、ある期待に身を浸して言った。

 典子はブランコをこいでいた。まっすぐ伸びた脚が綺麗だった。良貴は見るともなしにその足先を見ていた。

「…ただの友達」

「え?」

「弘志が言ってる人。友達は、友達だよ。だからOKしただけ。だって、友達になろうって言われたから」

 良貴はそれがただの友達でないことを理解した。少なくとも、男の方に思惑はある。でも、それほど感情は動かなかった。典子は受け入れないだろうと思った。

 典子のブランコだけがギイギイと音を立てていた。しばらく、とても意味のない時間が流れていった。それから典子が静かに言った。

「…でも、私、其田くんが私のすべてなんだとは、思わないことにしたの」

 良貴はゆっくりと顔を上げて典子を見つめた。典子が自分をあきらめて遠ざかってしまう、それは確かなんだと思った。今度こそ、良貴は自分が平凡なただの男になってしまう気がした。

 典子は靴を地面に滑らせてブランコを止めた。

「私がもっとイイ女になったら、また考えてくれる?」

 典子は足を地面について、膝だけでブランコを前後させた。

 良貴は現在の自分を考えた。遥にいいようにあしらわれて、待たされて、どうにもできずにいる。自分の夢はもうとっくに消えて、名残をつついている。そして、別れた彼女に他の男の存在を告げられて肩を落としている。さらに、今典子がつぶやいた一言にすがりたくなっている。新しい夢も、新しい憧れも捨てて、もとの自分自身に戻ればいい。それはとても自分らしい自分で、とても楽だった。

 良貴は深く息をついた。ともすると力尽きてしまいそうな自分を奮い立たせて、それが虚勢でもいいから強い自分でいたいと思った。

「…今の僕は今の僕だよ。未来の僕が典子に対してどういう気持ちを抱くかはわからないけど、今の僕にとっては、君は、過去の人だから…。今の僕には新しい世界がある、だから、返事は、『もう、君とやり直すことはない』…だよ」

 少しだけ、未来への含みを残してしまった。それが最後の良貴の弱さだった。

 典子のブランコが止まった。

「彼女とうまくいかなかったら、また考えて」

 そして典子はブランコから立ち上がり、良貴を振り返らずに

「…私、帰るね」

 と言って歩いて行った。その背中はちっとも泣いていなかった。

 典子は自分が枯れ果ててしまったような気がした。良貴につれない言葉を言われても心が動かない。ただそれが自分の使命だから良貴に付きまとっているみたいだった。

(…私は、今の其田くんのこと、本当に好きなのかな)

 ただの意地なんじゃないかと思った。熱い気持ちが消えて、かさかさした思い出ばかりが散らばっていた。

 もう良貴に恋をしていないなら、これから自分はどこに行こう…。典子はそんなことを考えながら電車に乗り込んだ。


 典子に会うたびに勇気をもらっているような気がした。

 良貴は、遥にハッキリ答えを訊くことにした。もしNOの返事を遠まわしに伝えているのだとしたら、こんな時間を過ごしていても無駄だ。

 遥はいつか答えをせかされると思いながら、少しずつ期待をもたせておくために隣の隣に座りつづけていた。講義が終わって片付けをしている時、良貴は遥に静かに言った。

「…もう、僕は十分待ったと思うんだけど…。答え、聞かせてくれないかな」

 そう言いながら良貴は最後のペンケースをカバンに仕舞い、立ち上がった。

(うわ~、来ちゃったよ~)

 遥も鈍い動きで立ち上がった。

「…うーん…。じゃあ、このあと、ちょっとお話でも…」

 弘志をどう攻めようか、作戦は決まっていない。良貴を煙に巻けるものなら巻きたい。そう思って渋る遥に、良貴はきっぱりと言った。

「もうひと月もたったし、時間をかけたってかけなくたって、本当は答えは決まってるんでしょ? だったら、ハッキリそれだけ伝えてくれればいいよ」

 典子に「やり直すことはない」と告げたことで何かがふっきれた。恋愛は自分の全部じゃない。遥とうまくいかなくても、そばに誰もいなくても、一人で歩くことはできる。

 良貴の強い態度に遥は戸惑った。「ごまかしてけば、なんとかかわせるっしょ!」と友人たちに豪語していた。良貴のことは友人たちの間で「キープ君」と語られていた。でも、今目の前に立っているのは「キープ君」でも「なんとかかわせる」存在でもなかった。

「…あの、…お友達から…ってことで、いいかなあ…。まだ、其田さんのこと、それほどわかってるわけじゃないから…」

 遥は戸惑いつつそう答えた。良貴はその言葉の意味を噛みしめた。典子の「友達になろうって言われたから、友達になった」とは違う。その先に、必ず恋愛関係が意識される関係。断るためだけの「お友達でいましょう」とも違う。友達ひとつをとっても、たくさんのニュアンスがある。良貴は遥の言葉の意味を間違えないように認識した。

「それは、ありがとうって言ってもいいんだよね。僕は、単なる知り合いのエリアから、友達のエリアまでは入れたってことでしょ?」

 良貴は訊いた。遥はちょっと照れたような、困ったような顔をしてうなずいた。

「…ありがとう」

 良貴は静かな微笑みで遥にそう言った。一歩前進したことは間違いない。

 遥は良貴の落ち着いた様子にドキッとした。どうしても良貴は情けない内気なイメージで、だけどこうして実際に見ていると、ことごとくそのイメージは裏切られた。

「遠慮しないで、電話とか、かけてもいいかな。遊びに行こうとか、話がしたいとか」

「…あの、まあ、それは、…うん、…待ってるね」

 遥は自分でも不思議なくらいドキドキしながらそう答え、2人は並んで教室を出た。そして、良貴は次の授業に向かった。

(…知れば知るほど、案外、素敵なのかな…)

 遥はしばらく、良貴と何かが始まりそうな気配に胸を躍らせていた。


 弘志のタイムリミットまで、あと2ヶ月を切った。

 遥への期待が消えたら、美恵子とのまっとうな恋愛の行き着く先として男になってもいいかなと思った。大学に入ってからは大した恋愛沙汰に巻き込まれていない。みんなライトに寄って来てはライトに離れていった。自分の「いい男」の時代は、高校時代で終わっていたのかもしれない。そのことにうすうす気付いて、弘志は苦笑した。

 美恵子と新しく恋を始めることは、考えるだけでドキドキした。ずっとそばにいてくれた。ずっと想ってくれた。きっとこれからもうまくいくだろう。美恵子のことだけ考えるなら、十代での脱・童貞にこだわる理由もなくなる。

(女は、美恵子だけとは限らねーって。俺は、30までは結婚しないからな~)

 弘志は自分に言い聞かせながら、同時に「俺が30なら、美恵子は29」と計算していた。あと10年、気の長い話だったが、そこには不思議な安らぎがあった。

 それでも、やっぱり年齢に対する焦りは消滅しなかった。それは強くなったり弱くなったりしたが、間違いなく弘志を苛んでいた。

 それらしい場所をウロウロしていたら、遥以下3名の社会学部仲良しグループを発見した。弘志はてくてくと近づいていった。

「燕さん、久しぶりじゃん」

 気軽に声をかけた。自分に対する興味を失っていたら、それでも別に構わなかった。

「えっ、あっ、江藤さん!」

 遥は思わず声が上ずった。もしこの時弘志が声をかけなかったら、終わっていたかもしれない。遥の中ではすでにそんな状態だった。

 佐和子は以前も見ていたから知っていたが、あとの2人は即座に弘志を遥の「本命くん」だと理解した。そして「イメージよりは、ルックス的にそれほどでもないかな?」と感じた。遥の話から美形のスカした色男を想像していた。

 弘志はちょっとすまなそうな顔をして周りの子達に言った。

「あ、ゴメンね、彼女、今ちょっと借りてもいい?」

「はあ、どーぞどーぞ」

 友人たちは快諾して、少しだけその場を離れた。遥の本命をこんな間近で品定めする機会なんてなかなかない。

(…あ、なんだ、思ったよりずっと誠実で、いい人そうじゃん)

 佐和子を除く2人は思ったが、そんなのは弘志の思うツボだった。

 弘志は遥に、

「サッカー、つまんなかった?」

 と話をふった。

「えー! なんでですかあ?」

「いやあ、サッカー行ってから、冷たいからさ」

「えー、全然!」

 遥は次のデートで勝負をかけようか迷ってもいたが、良貴に告白されてからは気持ちも微妙だった。気持ちが受け身になっていた。

「じゃあ、また、電話とかしていいですか~?」

 遥はこのチャンスにしっかり食いついた。弘志はその熱心な目を見てホッとした。

「ん、いーよ」

「なんだー、私、遠慮してたんですよ~? じゃあ、またどっか行きましょうよ~」

「そうだね、この前俺の行きたいとこだったから、今度はキミの行きたいとこでも行く?」

「わー、じゃあ選んどきます~」

 遥が決めれば遥の責任だ。

(…うまく状況設定してくれよ。期待してるよ)

 弘志はそんなメッセージを心で投げながら、

「ごめんなー、友達と一緒のとこ。お友達も、ありがとーね」

 と挨拶してその場を去った。遥の友人一行は、弘志が少し遠ざかると同時に遥を取り囲み、騒ぎはじめた。

「遥、なんか、狙えそうじゃない?」

「でも、彼、そんな悪い男風じゃないじゃん。ホントになんか、カワイイっていうか、感じいい人じゃん?」

 遥はちらっと良貴のことを思い出し、

(其田さんを友達で止めといてよかった)

 と思った。そして、嬉しそうに笑った。

「…なんかさ、ちょっとイケそうだったよね。よし、かけるか、勝負!」

 弘志を信用したわけではない。誰にでもあんな風に可能性を見せるのかもしれない。

(つまりは、一線を越えて飛び込んだ者勝ちでしょ!)

 遥は半年以上ずっと独りだった。夜は体が淋しいこともあった。自分自身ではそんなことを認めたくなかったが、心だけでなく体も弘志を求めていた。


 弘志と約束した日、遥は一人暮らしの部屋で夕食を2人分作った。それから飼っているジャンガリアンハムスターに野菜くずをあげた。

「ゲンキ君、今日は男連れて帰ってくるからね~」

 キャベツの芯に猛烈にかぶりついているハムスターに微笑みを投げて、遥は家を出た。

 待ち合わせは金曜日の夕方で、4限が終わる時刻に校内の噴水前。弘志は簡単にことが運んだので驚いていた。夜のデートは、何かを期待しても構わないだろう。遥を自宅だと思っていたから、なにかあるとしたらホテルの「ご休憩」だし、遥は終電までには帰るだろうとふんで、母親に帰宅時刻のことはあえて言わなかった。

 4限を終えると遥は猛ダッシュで噴水に向かった。何人もの男女が恋人を待っていた。遥は自分もその中の1人であることがとても嬉しかった。

「燕さん」

 真っ先に聞こえたのは弘志の声ではなかった。遥が驚いて振り返ると、良貴が立っていた。遥は心から「しまった」と思った。駅に向かう人波は、必ずこの噴水の脇を通る。

「…あれ、其田さん。其田さんって、金曜日、3限で終わりって言ってなかったっけ?」

「今日は、図書館に寄ってたから…」

 遥の反応が「なぜ通るんだ」と言わんばかりだったので、良貴は違和感を覚えた。

「待ち合わせ?」

「うん、ちょっとねー」

 遥の笑いは引きつった。「3人で行こう」なんて話になったら冗談じゃない。

 良貴は遠目に校舎の壁の作りつけの時計を見た。授業が終わって5分。4限が終わってから噴水で待ち合わせる相手は、このキャンパスの誰かに決まっている。でも、いつもの子たちを待つ感じでもない。

 遥は一刻も早く良貴にこの場を立ち去ってほしかった。良貴もその気配を察知して、釈然としないものを感じた。かといってこのままここに立っているのはよくないだろう。

「じゃあ、僕はこれで…」

 良貴は遥の側を離れた。遥が誰と待ち合わせしているのか知りたかったが、様子をのぞいて探るなんて男らしくないことはできなかった。

 良貴が確実にいなくなったころ、弘志が、

「ゴメン、ちょっと講義が長引いてさ」

 と現れた。遥は弘志の顔色を見てすぐに、良貴の姿が消えるのを待っていたんだろうと思った。そして、良貴がこの場面を見ていたら困ると思ってすぐに対処した。

「…あの、すみません、ちょっとこれから用事ができちゃったんで…、この前の、『AndoA』で待っててもらえませんか。すぐに行きますから」

 弘志は感心しながらも、同時にちょっと否定的な気分で「さすが」と思った。

「わかったよ、ゆっくりでいいよ。じゃあ、俺、先に行ってるね」

 弘志は歩き出した。これで、見かけ上の立場は良貴と同じだ。

 遥はそれからしばらく人待ち顔で噴水に座り、それからその周辺をウロウロして、良貴がいないことを確認してから駅に向かった。

 二人はAndoAで再会した。

「なんだ、早かったな」

「すみません、すぐに済んじゃったんです」

 お互いに微妙な笑顔を交わして、しらばっくれつつも相手の状況は了承した。

「…で、どこに行くの?」

「渋谷のミニシアターでリバイバルやってるんですよ。昔の名作で、映画館で見ておきたかったのがやるんですけど…興味ないですか?」

 そもそも弘志は映画なんかろくろく見ない。デートでもなければ行こうと思わない。

「え、いいよ、何時から?」

「6時に上映開始なんですけど。ミニシアターだから宣伝とかもあまりないと思います」

 弘志は時計を見た。5時を回ったところだった。

「じゃあ、もう少ししたら行くか」

「そうですね」

 弘志は時計を見て一瞬で計算を済ませた。映画と食事のあとでホテルにしけ込む時間はあるだろう。2人は念のためちょっと早めに着くように「AndoA」を出た。ミニシアターは案外混んでいて、早く行って正解だった。

 映画館を出て、弘志は当然食事に行くか、飲みに行くと思っていた。

「あのー、ごはん食べにウチに寄りませんか?」

 遥の突然の申し出に、弘志はびっくりした。時刻を確認すると20時半だった。

「だって、もう8時だろ? ご家族もくつろいでる時間だろうし、お邪魔でしょ」

 遥は、弘志の反応を見て、失敗したと思った。実家住まいの雰囲気を醸し出しておくといろいろ便利だったのだが、女が男を家に連れ込む場合にはマイナスになるらしい。

「あ、そんなことないです、私の部屋で、二人で一緒に食べるだけ」

 弘志は困惑した。行ったらすぐに遥の部屋に籠もるとしても、家族にひと言の挨拶もなしで済むとは思いづらい。大変面倒な立場になりそうだ。

(一人暮らしの女の子だったら、部屋に来ないかとか言われたら「ご馳走様」なんだけど…。この場合、どういうニュアンスなんだ?)

「もしかして、いきなり私の家族にかしこまってご挨拶…とか考えてません?」

 遥は弘志を上目づかいで試すように見た。弘志の態度から、自分との関係をほどほどのところで線引きしたいという気配を感じ取っていた。弘志は「つまみ食いで済ませたい」というニュアンスだったのだが、遥には、「どの女の子にも踏み込ませない」というニュアンスに見えた。その二つは似て非なるものだった。

 弘志に踏み込ませたくて、遥はナメたような微笑みを向けた。

「普通に手料理ご馳走しようと思っただけなんだけど、家族に紹介したい、みたいな重い女だと思われちゃったなら、別にいいです。そんな気ないから」

 弘志はホテル行きの期待を捨てた。「家族のいる自宅へ訪問」または「手料理を断る」の二択なら、どちらを選んでもそういうコトは「ナシ」だろう。ものすごくガッカリしたが、態度に出すわけにはいかない。

「俺、真面目だからさ。ほら、菓子折りも買ってないし」

 余裕ぶって茶化してみせると、遥は笑った。

「ホントは私の料理が怖いんじゃないですか? 案外上手いんですよ。そうは見えないかもしれませんけど。せっかくの、特製、なんだけどな~」

 料理の話にずらして、遥は攻撃の名残の棘を消した。同時に、「じゃあ行こうかな」と言ってほしそうな雰囲気をめいっぱい出してみせた。弘志はそれを「今回断ったら、次はない」という意味に取った。だから遥の期待に則った返事をしてあげた。

「その辺で食事でいいと思ってたから、お手製なんて、悪いかなって思ったんだけど…」

(そんで、その辺のラブホテルでよかったんだけど)

 やっぱり簡単には運ばないなと弘志は腹の中でため息をついた。

「悪いかなって思うんだったら、食べてってください。決まりね。絶対美味しいって言わせます」

 上目遣いに弘志をにらんでみせて、遥は弘志の捕獲に成功した。

 東急東横線に乗って数駅を過ぎて降り、明るめの道を5分ほど歩いた。「コーポ」という響きが似合う小さな集合住宅が遥の家だった。

「ここなんですけどね」

 遥がカバンから鍵を取り出した時、弘志は初めて「あれ?」と思った。隣のドアとの間があまり離れていない。建物の大きさから言って、家族で住んでいる気配はない。弘志は一人暮らしの経験もなければ住むところを探した経験もないから、この建物が一目瞭然のワンルームマンションだということに気づきもしなかった。

 遥が玄関の電気をつけて弘志をいざなった。

「どうぞ」

 玄関はどう見ても家族で暮らす仕様ではない。弘志はとりあえず平常心を装って靴のヒモをといた。遥がハムスターに話しかけるのが見えた。

「ゲンキ君、お客さんですよ~」

 弘志は靴を脱いで上がり、遥に、

「鍵は?」

 と訊いた。

「あ、しめてください。2つとも」

 廊下みたいな狭いキッチンと8畳間、それから小さなロフトがあるだけで、他に家族がいそうな部屋はない。弘志は自分の声がうわずるのを止められなかった。

「…あれ…。一人暮らし…なの?」

「私、一度も自宅だなんて言ってないですよ。江藤さんが勝手にそう思ってるから、面白がって言わなかっただけです。それに、家族は、一応いるし。ね、ゲンキ君」

 遥はくすくす笑いながらベッドに放ってあったエプロンを着けた。

「家族に挨拶、したかったらしてもいいですよ。そこのカゴにいますから。座っててください。今、夕食の支度しますね」

 弘志は、あきらめたはずの期待が急転直下で手に入ったことを知った。ベッドはきちんとメイクされていて、いつでも倒れこめるように見えた。

 微妙なすれ違いはあったが、2人の思惑は間もなく第一段階のゴールを迎えようとしていた。

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