25 接近遭遇
弘志は龍一郎のメールを読んで、
「…あのヤロー」
とつぶやき、早速返事を出した。
『メール拝見。典子は難攻不落だよ。「友達から」っていう感覚は全然ないと思う。あいつにとって友達はあくまでも友達だよ。健闘は祈ってやるけど、多分文化の違いがあって難航すると思うよ。参考文献は、少女漫画だな。本気なら勉強してくれ』
龍一郎からは翌日すぐに返事が来た。
『まっとうな返事ありがとう。ふざけんなで済まされるかと思った。
でも典子ちゃんも、いつまでも少女漫画やってるわけにもいかないでしょ。おまえがいつまでも典子ちゃんを子供扱いしてるんじゃない? …なんて言うとおまえが怒るからやめとこう。それに男と付き合った経験があれば子供でもないでしょ。
典子ちゃんに俺のこといい奴だって宣伝しといて。よろしく。じゃあおやすみ!』
弘志は読んで最初にまず、
「…甘いんだよ、おまえはー」
とメールに向かって言った。
「典子は子供だぞー」
男とつきあったら子供でもない、すなわち典子だって男を知っているだろうというニュアンスに、弘志は思いっきり渋い顔をした。
(おまえとは違うんだから、ちょっと男とつきあったからって、すぐにそーいうことにはならないんだって)
なんたって自分自身がいまだに童貞で、しかも実質的に彼女と言える立場にある美恵子にてんで手が出せない。弘志は「ベッドに入るのが先」という恋愛もあることを聞き知ってはいたが、実のところあまり理解できなかった。龍一郎にとって、恋愛になれば当然体のことは折り込み済みで、単に「いつ」という問題でしかない。弘志のように「そこまでいくか、いかないか」という問題ではなかった。そんな龍一郎を知っているから、弘志は典子を簡単に渡す気にはなれなかった。
(つきあってるから当然してるとは、限らないんだって。彼女がいれば済ませてるってんなら、俺だって高校で済んでるよ…)
そんなことを考えていたら、弘志の心の中にしみのような不快な点が現れ、次第に大きくなっていった。
(…あいつら、済ませてないよな? まさか…)
「僕だってキスくらいします」と当てつけるように言っていた良貴の顔が浮かんだ。
(それを言うなら、其田にキスの経験があることだって、典子にキスの経験があることだって、俺としてはピンと来ないんだよな)
良貴が自分よりずっと早く女を知っていたら? 典子がもうオトナだったら? 弘志はこみ上げてくる不安に頭を抱えた。
(…まさか、俺だけ取り残されてるわけじゃないよな?)
それでも、美恵子だけは絶対に大丈夫だと思うことができた。なんだか弘志はいつも美恵子に救われているような気がした。
弘志がベッドに仰向けにひっくりかえってぼんやりと美恵子のことを考えていたら、ドアにノックがあって典子が顔を出した。
「ひろしー」
弘志はむっくり起き上がった。
「ねー、あのさー、相談に乗ってよー」
「なんだ、龍一郎のことか?」
「あらー、やっぱそっちにもそういう話が行ってるんだ」
「来てる、来てる。いい奴だって宣伝しといてってさ」
「うーん、いい人なのはわかってるよー」
弘志が起き上がってベッドに座ると、典子がその隣に飛び込んで座った。
「ねえ弘志、友達から始めよう、ってやつなんだけど、そもそもどういうことなの?」
典子は、弘志だったらそれも含めて恋愛全般に詳しいだろうと思っていた。
「あのな、典子、普通は男も女も、みんな仲がいいんだって。おまえは女の子とはすぐ友達になるけど男とはあんまり友達にならないじゃん。でも、世間の男女はそういう垣根を越えてどんどん仲良くなるんだよ。それで、友達からだんだん特定の奴がピックアップされていって、恋愛っていう形になったりするわけだ。龍一郎が言ってるのは、そういう可能性がある友達だよ。きっかけがなければ単なる友人だけど、常にきっかけにさらされてる、まあ微妙な友人関係だよな。
世の男女っていうのは、Hしたけど恋愛じゃないとか、特に何の言葉もなくてもお互いに大切な存在とかもあって、もう、そのへんは難しい。好きです、つきあってください、そういうハッキリした世界じゃないんだよ。俺たちには難しいの」
「弘志にも?」
「…俺も、好きだとかつきあおうとか、そういう言葉なしで恋愛するのは苦手だよ。仲がいい、っていう尺度があって、そのレベルの中に他人、友達、恋人っていう目盛りがあって、みんながみんなそのレベルを上下してるわけ。ホラ、おまえって化学部の奴を、完全に友達だって思ってたろ。あの関係を、化学部の奴って今は友達だけど、恋人としてはどうなのかなって考えながら、友達としては楽しく平和に遊んでるのが『友達から始めよう』ってやつじゃない?」
「うーん。じゃあ、私じゃダメだね。私、そういうビミョーな友達にはなれないよ」
「友達のままでもいいんだゼ? それはそれで、友達が増えていいんじゃねーの?」
「でも私、根本さんとつきあうことって絶対にないよ」
「なんで?」
「…いや、なんで、っていうか…なんとなく」
「それって、…其田のことが好きだから?」
典子は答えなかった。
「あのな、だったら、かえって…他の奴とそういう友達にでもなってみたら。其田に固執しすぎだって。それって、すっげー重荷だぞ」
「え」
「…あのさ、其田は、今、自分の世界を広げたいって言ってるんだよ」
「あ、聞いたよ、世界を広げたいっていう話」
「そっか。だから、おまえって其田がすべてで、其田の上に乗っかってるだけで、重いんだよ。おまえは、其田にただついていってただけで『自分』がなかったんじゃない? 俺も、美恵子が俺しか見てないときは重かった気がするもん。今はさ、…他人だから、俺は俺だしアイツはアイツ。距離をおいて向かい合ってみると、美恵子もおとなしいだけの女じゃなくて、面白いよ。合コン行って怒って帰ってきたりさ」
典子の頭の中では繰り返しガーンという釣鐘のような重い音が響き渡っていた。
「美恵ちゃん、合コンなんか行ったんだ。弘志は嫉妬したりしないの?」
弘志はちょっと躊躇したが、正直に答えた。
「まあ、気が気じゃなかったけどね。でも、結局それでもアイツはここにいるわけだし。ああ、いてくれるんだなって思えるよ。自分だけを見てくれるってのもかわいいけどさ、なんか、…俺だけを見てくれる女より、俺を選んでくれる女の方がいいな」
典子が呆然としているので、弘志は典子の背中をよしよしと叩いてあげた。
「おまえも其田のこと好きなら、逆に、自分が其田から離れて広くなれよ。龍一郎みたいな奴と、発展的要素を含む友人やってみるのもいいし。俺はもう、おまえが恋愛するの、バカみたいに嫌がったりしないから。その『友達』っていうのも、恋愛になるかはわからないし、気負うことないよ。自分のこと、自分で勝手に決めるのはやめたら」
なんだか不思議なことを言われているような気がして、典子はぼうっとしていた。弘志が言うと、なんだか良貴の気持ちを間接的に伝えられているように感じた。
弘志は慰めの言葉をかけたかったが我慢した。そうして満足するのは自分だけだ。
しばらく黙っていた典子が、やがて自分に言い聞かせるかのようにつぶやいた
「其田くんと、なんでも言われるまま、されるままで1年間、つきあってきちゃった。それでいいんだって思ってたけど…」
その言葉で、弘志は冷や水を浴びせられたように肝が冷えた。息継ぎも忘れて思わず口を開いた。
「典子、されるままっておまえ、…」
口ごもる弘志の深刻な表情に、典子は面食らって思考を停止せざるをえなかった。
「え、何」
「…お、怒らないから正直に答えろよ? おまえ、…其田と、そういう…なにか…」
どうしても妹に生々しい言葉は使えなかった。弘志はありとあらゆる言葉を浮かべては打ち消し、あっけにとられる典子を見つめて逡巡したあと、やっと言った。
「押し倒されたりとか、それからなんかとか、されたりしなかったか? そーいうの、なんでもされるままにとかしたりしてないだろーな?」
わけのわからない言い方になったが、意味は伝わった。典子は真っ赤になった。
「弘志、何考えてんの~!?」
「なんでそんなに赤くなるんだよ~、まさか、おまえら、最後まで…」
「いってない! いってないよ! 弘志が知ってるとこまでだよ!」
弘志は一生懸命思い出した。キスまでだ。
「…キスしかしてない?」
典子は口頭では恥ずかしくて答えられなかったので、とにかくうなずいた。
「…そうか、びっくりした」
「びっくりしたのはこっちだよ~! そういうこと、考えるかな~!」
目を丸くする典子に向かって、弘志はマジメな顔になって言った。
「考えてるんだよ、男は。それは、絶対にそうなの。絶対。絶対絶対。おまえは、それだけは今から認識しておけ。龍一郎もそうだからはじめから認識しておけ。OKしたと思われかねないから部屋には絶対に行くなよ。あと、帰りたくないとか、眠いとか、うかつに言うな。状況によってはHしたいって意味になるからな、ホンっトに気をつけろよ」
「…私、其田くんの部屋に何度も行ってるし、帰りたくないなーとかいっつも言ってたし、夜更かしした次の日とかひっきりなしに眠いって言ってたよ?」
「あーもう!」
弘志は、相手が良貴だったことに心から感謝した。
「あのなー、暗黙のルールがあるんだよ、男女の間には~!! はるか古代から日本はそういう遠まわしな表現で恋愛するものなの。いいか!?」
「そんなルール、誰も教えてくれないよ。ルールブックとかないの?」
「スポーツじゃねーんだぞ~、頼むよ、典子~」
弘志が勝手に騒いだので、典子はすっかり毒気が抜けてしまった。
典子は弘志の部屋を出てから、ふと思った。
(…こないだ、ドタキャンして別のサッカーに行ったのは、誰とだったの?)
なんだか怖くて訊けなかった。無理に「美恵ちゃんかもしれない」と思うことにした。
典子が帰宅途中に乗換駅で電車を待っていたら、偶然やってきた美恵子に声をかけられた。2人は入ってきた電車に並んで乗り込んだ。
「ねえ、美恵ちゃん、あのさ…弘志とサッカー行った?」
典子は緊張を隠して訊いた。弘志があの日「デート」に行った相手を美恵子だと思い込もうとすればするほど、美恵子じゃない気がしていた。
「え、行かないよ」
答えながら美恵子は嫌な予感が胸をよぎるのを感じた。
「何かあったの?」
「…え、いや、別に、デートでそういうとこ、行くことあるのかなって思って」
典子はごまかしたが、そんなことで騙される美恵子ではなかった。
「典ちゃん、気を遣うのはやめて。何の意味もないから。何かあったの?」
しばらくおかしな問答になったが、典子は渋々白状した。
「…弘志、こないだ一緒にサッカー行くのドタキャンして、別のサッカーに行ったんだ。デートとか言ってたけど、そういう冗談言いそうじゃん。別に、弘志に女の子から電話来たりしてないし、そんなこと言ってたのも1回だけだよ」
典子は一生懸命訴えたが、美恵子は真剣な顔でつぶやいた。
「家の電話使ってないなら、ケータイ教えてるってことかも。だとしたら、相手の女の子が一歩踏み込んでるってことだよね」
「えー、そんなことないよ、弘志は美恵ちゃんひとすじだよ~」
典子は弘志と話したときにそう実感していた。でも、美恵子には通じなかった。
「…あはは、弘志先輩が私ひとすじだったら、すっごく嬉しいんだけどね」
電車を降りて近所まで一緒に歩き、典子と別れてから、美恵子は状況分析を始めた。何より、この前会ったときに「他の女の子と歩いてたら」という話をしたのが気になった。
(…やっぱり、一緒に歩いたり、デートしたりする女の子はいるんだ)
でも、それは決定的なものなのかと考えると、違う気がした。わざわざマジメに「安心しろ」と言ってくれたことは信じていい気がした。
美恵子はパズルを延々と組みつづけた。そして、最後のピースを見つけた。
(あのとき突然「やらせてくれる?」なんて言ったのは…)
なんで突然弘志がそんなことを言い出したのかわからなかったが、違和感と違和感をつないでいくと、ある不安が浮かび上がってきた。
(…恋愛とは別に、そういう関係の相手がほしい、なんて…?)
まさかと思った。弘志は、なんだかんだ言っても、最後には真面目な人のはずだった。
(もうすぐ二十歳)
美恵子は愕然とした。もし弘志が足を踏み外すとしたらそこだという気がした。でも証拠はどこにもない。恋人でない以上、問いつめるわけにもいかない。
美恵子は真実を突き止めるためにできることを考えた。そしてまずは典子に電話をかけ、「いけないのはわかってるけど」と前置きして、弘志の携帯電話のリストを調べてくれるよう頼んだ。典子はOKして弘志が風呂に入った隙に部屋に侵入した。人の携帯電話の操作がわからずに四苦八苦したが、なんとかアドレスが開いたら、人の名前を片っ端から見ていくのは簡単だった。
弘志の携帯には、見事に女の子の名前がなかった。
「感心、感心」
典子がめくっていくと「須藤美恵子」が出てきた。そういえばわけもわからずにいじっていた時、短縮ダイヤルにも入っていたのを見た。
「…ね、弘志には、美恵ちゃんだけなんだって」
そう言って「た行」に入ったとき、典子の手が止まった。
「…なに、これ。中国の人?」
表示は「燕遥」だった。典子はしばらく、いろいろな読み方を考えた。
「チョウヨウ? つばめよう? ツバメハルカ? …つばめ」
これだ、というサイレンが鳴った。
「…つばめさんと知り合いなんじゃねーの?」
思わず、弘志の口真似が出てきた。
「はるかさんだ、つばめ・はるかさん」
思いがけず、典子は恋敵のフルネームを手に入れた。でも、結局それ以外に女の子の名前と思しきものはなかった。「薫」とか「正実」とか、どっちつかずの名前もなかった。
典子はダッシュで自分の部屋に戻った。
美恵子の探しているライバルはどうもいなそうだ。見つかったのは、自分のライバルだけだ。でも、考えているうちに、典子はある可能性に思い当たった。
(其田くんとツバメさんを引き離せればと思って弘志にいろいろ言ったけど、それでツバメさんは弘志の方に向いちゃったんだよね。それで3人でクラブ行って、それからは? 弘志のほうは、どうだったんだろう)
男の子なら誰でも、遥に一目置きそうだ。弘志もそうだろうか。
(其田くんと美恵ちゃん両方を裏切って、そんなこと)
でも、弘志がとられてしまう可能性が万に一つでもあるのなら、美恵子に危険を知らせなければならない。典子はすぐに美恵子の携帯電話に電話をかけた。
「美恵ちゃん、調べたよ、ケータイ」
「ごめーん、そんなすぐじゃなくてもよかったのにー。で…どうだった?」
美恵子は不安に苛まれながら気丈に訊いた。典子も勇気を出して言った。
「…女の子の名前、あったよ。でもね、それ…、其田くんの好きな人なんだよ。だから、違うのかもしれない。でも、違わないかもしれない」
「どういうこと?」
「…あのね、弘志が其田くんに協力して、3人でクラブ行ったりした話は、したじゃん。…それで、3人で仲良くなったみたいなの。其田くんだけじゃなくて…」
典子は美恵子にクラブでの話はしていた。ただ、その話の中では、弘志はあくまでも脇役のはずだった。自分が弘志をけしかけたなんてとても言えない。典子は後ろめたくてぎゅっと目をつぶった。
(美恵ちゃん、ゴメン)
「でも、其田くんのために何かの用事で使うのかもしれないし、それはわかんないんだよ。ただ弘志のケータイに入ってた女の子の名前は美恵ちゃんと2つだった、ってだけ」
典子は弘志の分も一生懸命言い訳をした。
「そうなんだ。燕さんって、綺麗な子だったって言ってたよね。スタイルも良くて、お洒落な、イマ風の子」
「うん…」
典子は身をすくめた。美恵子は「イマ風の子」という響きにめまいを感じた。
(じゃあ、結構簡単に男の子とそーいう関係になる人なのかもしれない…)
しばらく2人は沈黙した。そして、美恵子はつぶやくように、
「その子、見てみたいな…」
と言った。典子は、美恵子のために何でもしようと思った。
「大学、潜入してみようか?」
「ダメよ、弘志先輩に見つかっちゃうもん。何しに来たって答えるの?」
典子も良貴に会うのは気まずい。気持ちは沈んだが、もう一つの報告を思い出した。
「あ、でもね美恵ちゃん。短縮のダイヤルってあるでしょ、すぐに電話かけられるやつ。あれね、美恵ちゃんの名前しか入ってないよ。1番はウチの電話で、2番は美恵ちゃんで、3番はスポーツ観戦サークルの根本さんて人。4番とか5番とかはなかったと思うよ」
「…え…そうなの?」
自宅の次、ということは、筆頭だ。美恵子は思わず泣き笑いしそうになった。とにかく、引き続き情報収集を進めること、対策を練ることを約束して2人は電話を切った。
典子は即座に行動を開始した。弘志の部屋に乗り込んでいき、いきなり、
「あのさあ、燕さんってどんな人か見てみたいんだけど」
と言いだした。弘志は典子がクラブで遥を見ていたことを知らない。それを利用するつもりだった。
そろそろ寒さが増してくる10月末だが、湯上がりの弘志は短パン一枚でタオルをかぶって頭をゴシゴシやっていた。
「えー、見てどうするんだよー。あんまりそういうの、感心しないぞー」
「じゃあ弘志は私が毎晩うなされてもいいっていうの? 私、其田くんと誰かが一緒に歩いてる夢ばっかり見るんだけど、その相手にいつも顔がないのよ。すっごい怖いんだから」
とっさに考えた嘘を、典子は口をとがらせて言った。
「俺はおまえを応援したいよ。でも、今のまま其田に一生懸命アタックしても、しょうがないなって気はするんだよ。しかも、そーいう屈折した行動に出るのは…」
「屈折してないよ。私、根本さんとお友達になるつもりだし。悪夢を見なくなりたいだけだよ」
言い訳を作るため、典子はその場で龍一郎の申し出をOKすることに決めた。
「あ、そう、龍一郎には返事したの?」
「…いや、それはまだだけど、次に会ったらそうするよ」
弘志は典子の瞳をのぞき込んだが、本音は読み取れなかった。
「うーん、それはそれで心配だけど…、まあ、其田以外の男を知るのも大事だからな」
弘志はそう言って「男を知る」という響きにギクッとした。龍一郎には徹底的にクギを刺さなければならないなと思った。
「ねー、なんか、必ずここで見張ってれば通るよとか、そういうのない? ホントは和佐田に探しに行きたかったんだけど、其田くんに会っちゃったら気まずいじゃん?」
弘志はちょっと不思議そうな顔をして、
「…探しにって、おまえ、見てわかるの?」
と言った。典子は内心で「ギャー」と叫んだ。つい、ボロが出る。
「そのへんは、弘志に協力してもらうの」
「おーいおい、俺は、嫌だぞ~。其田に何て言い訳すればいいんだよ~」
「だからさー、彼女が何時ごろにこの辺を通るよって言ってくれれば、偶然通りすがったら見かけちゃったとかいって、いいじゃん。たまたま。偶然」
「…だから、おまえは見て彼女がすぐにわかるのかって…」
「いや、まあそうだけど」
今回はちょっと下準備が甘かった。ぶっつけ本番でたくさんの嘘をつけるほど、典子は人を騙すことに慣れていない。それでも、だいぶ慣れてしまったけれど。
弘志は真剣な顔をして言った。
「ホントにおまえ、変なことしないか? 其田くんと別れてーっていきなり叫ぶとか…」
「ちょおっと。弘志は、私をそういうひとだと思ってるわけえ? 悪いけど、其田くんに嫌われるような真似はしません。ぜええったい」
それは、たぶんそうだろう。だから弘志は、結局典子がかわいそうで負けてしまった。
「…絶対ってわけじゃないけど、知ってるよ。彼女がいるとこ。おまえ、受験に来たからウチの大学に来る道はわかるよな」
「わかるよ」
なんたって、2年連続で受験している。落ちたけど。
「その途中に、狭いコーヒー屋あるのわかるか? 細い道に曲がる角のとこ」
「わかる、わかる。受験の帰り、寒くて入ったよ」
「そこの道を入って少し行けば、『AndoA』って喫茶店があるから。はじめと終わりのAが大文字で、間のndoが小文字。それで、アンドア。植物で埋もれそうな緑だらけの店だから、すぐわかると思うよ。そこが、彼女たちのたむろする場所。女の子4人くらいで来るだろうけど、その中では目立って綺麗な子が、彼女」
「待って、メモするから」
典子は弘志の机を勝手にあさって筆記用具をつかみとった。
「いつも窓際の綺麗な絵の下に座るみたいだよ。植物で仕切られてるから、見えにくいかもしれない。店が、階段上って入っていくようになってるから、早めに行って待ち伏せしてれば来るのが見えるよ」
「詳しいね」
典子は訝しげな顔をした。まるでこうして教えるためにチェックしていたみたいだ。
「そのくらい普段からなんでも見てるよ。場合によっちゃ、そのささやかな知識を使って女の子を逃げたりまいたりかわしたりしなきゃならないからな」
弘志は得意げに言った。高校でうさんくさい色男を気取ってきたのはダテではない。
「…あ、…そ」
典子は思いっきり軽蔑のまなざしを向けた。でも、内心では思いっきり感謝していた。
「でも、いつ頃そこにいればいいの? …そこまでは、わかんないか」
「わかるよ」
「えー!!」
「そりゃあもう。火曜の夕方。えーと…5限が終わるのって何時だっけ…、その後だな」
「なんで知ってるの? 弘志のほうがストーカーじゃないの? 彼女に聞いたの?」
「そんなの訊くか。俺が彼女に興味もってるみたいだろ」
典子はそのセリフに反応した。
(弘志はその気じゃないんだ、だったら、…大丈夫じゃん、美恵ちゃん)
「おススメは火曜の6時かな。その喫茶店では、毎週、休みの前日結構遅くまでしゃべってるって言ってた。ウチの社学は1年の水曜日必修ないから、『休みの前日』は火曜か金曜のこと。金曜はよく飲みに行くって言ってたから、喫茶店で毎週毎週夕方からしゃべってるのは火曜。其田と彼女が生物学の般教で一緒なのが火曜3限。4限は彼女授業ない。その後は授業がある。じゃあ、火曜の5限のあとでクラスメイトと流れてくるんだろ」
典子はしっかりメモをとると、顔を上げて弘志に単刀直入に訊いた。
「ねえ弘志、それで、そのツバメさんはどうなの、弘志のこと好きになっちゃったの?」
弘志は視線をちらっと天井に向けて、
「さーな。しっかり、其田にもちょっかいかけてるみたいだけど」
と言った。典子は思わず叫んだ。
「えー、そういう人なの? 其田くんをどうするつもり?」
「…おまえ、やっぱ彼女のことどうにかしたいと思ってない?」
弘志は訝った。典子は慌てて顔の前で手を振った。
「何言ってんの、見るだけだって言ってるでしょ!」
そして今手に入れたメモを急いでポケットに入れた。弘志は何とも言えない表情で典子に言った。
「…彼女は、真面目で一途で純粋ってわけではなさそうだな。フツーの華やかな子なんだろ。俺のこともまあまあだけど、其田も捨てがたいんじゃないの」
典子は釈然としなくてぶすったれた。
「おいおい、ブスになるぞ。俺も、そういう彼女よりはおまえのほうが其田にはちょうどいいと思うけど、それでも、今はどうしようもないって。もし其田と彼女がうまくいっても、そう長くはもたないと思うから、自分磨きをしながら待ってればチャンスはあるよ」
「そうかー」
弘志が遥をそれほど買っているわけではないことがわかり、典子は嬉しくなった。美恵子の心配はきっと杞憂だ。そして、きっと良貴と遥はうまくいかない。良貴との糸は、弘志がいる限り切れない。いつかその糸をたぐって、独りになった良貴にたどり着けるだろうと思った。
典子の話を聞いても美恵子の気持ちは晴れなかった。弘志が「簡単な」女の子に体だけ求めたんだとすれば、遥に対する弘志の評価はそんなものだろう。
早速、典子と美恵子は次の火曜日に「AndoA」に行って彼女たちを待った。ただ、誤算は、店員が「こちらへどうぞ」と言って2人を隅っこの2人席に案内してしまったことだった。そこから窓の外は見えなかったし、他の席をのぞくのも、植物の仕切りがあって難しそうだった。しかも店内は混んでいて、弘志が教えてくれた「絵の下の席」は使われているようだった。彼女たちが来ても、どこに座るかわからない。
6時を回ってだいぶたっても、彼女たちは来なかった。
「来ないね」
「でも、授業終わるの6時だって。それから歩いてくるんでしょ? そのくらいかかるんじゃないかな。女の子って、トロいし」
果たして、彼女たちがやってきたのは6時30分ごろだった。入り口のベルが鳴り、美恵子が伸び上がって様子を探った。
「典ちゃん、4人組の女の子、来たけど」
典子は植え込みの隙間からドアの方をのぞいた。しばらく必死で見ていると、1人、見覚えのある綺麗な女の子が見えた。
「あー、あれだ」
「しーっ」
「一番綺麗な子が、そう」
その日遥は、かかとも高いし底も厚い靴をはいて、身長が170センチ近くに伸びていて、通路を歩いてくるところがよく見えた。美恵子はしっかり遥の顔を覚えた。4人は、すでに空いていた「いつもの」席に案内されて、座った。
美恵子は、思っていたほど遥が綺麗ではなかったのでホッとした。そのまま、遥たち一行は延々と恋愛の話をはじめた。最近は1人の女の子が彼氏を取り替えたばっかりで、最初はその話でもちきりだった。
「…で、遥は?」
話が遥の方に向いたが、残念ながら典子と美恵子にはよく聞こえなかった。
「んー。どうしよっかな、其田さんの方」
「却下くん、〝却下〟じゃなくなったんだっけ」
「却下くん、どうすんのよ。つきあうの?」
「うーん、まだ返事してないんだけどさ。…でも、つきあっちゃったら江藤さんにアタックできないじゃん。やっぱり、『お友達』になるしかないかな~と思って」
「滑り止め~?」
「え、でもねー、其田さんも、思ったよりは良かった。案外、ハッキリしてた。江藤さんに手伝ってもらわないと何にもできないのかと思ってたら…」
「やるじゃん、却下くん、自力で却下抜け出したんだ~」
「じゃあ、却下くんじゃまずいじゃん」
「滑り止めくん?」
「ちょっと、やめてよ。名前覚えてよ、其田さんって言ってるのに」
「だって、知り合いじゃないから名前なんか忘れるもん」
「安全パイくんとか、どうよ」
「お友達か、…まあ、悪く言えばキープだけど…」
「キープ君か」
わかりやすいから、友人間ではこういう呼称で男を区別することになる。遥だって他の子の話の時には「モト彼くん」とか「追っかけくん」とかやっていた。
「本命くんは、どうやって攻めるの?」
「彼、私のこと自宅だと思ってんの。だから、そーいうのじゃないよって雰囲気で、家に呼んでみようかなって思ってるんだけど」
「えー、体張るの、やっぱ!」
「ちょっと、大きな声出さないでよ」
「大きな声」は美恵子と典子にも届いた。2人は一瞬目を合わせ、それから気まずく目を伏せた。2人の元に、再び彼女たちの声は届かなくなった。
何も聞き取れなくなったので、典子は恐る恐る口を開いた。
「…どーいう意味だと思う?」
美恵子は青い顔をしていた。
「弘志先輩のことじゃないかな。弘志先輩ときっかけ作るのに、体張るんじゃないの?」
「だって、体って」
「そんなの、平気な人は平気だよ」
「うそー」
2人は、自分たちの会話は彼女たちに絶対に聞こえないのに、顔をつき合わせて声を潜めていた。
「でもさ、体張るってことしか聞こえなかったし、あの燕さんって子とは限らないじゃん」
典子は首を傾げたが、美恵子は深刻な顔で、
「…なんにしても、弘志先輩に、そーいう可能性が持ち上がってるのはわかった…」
と言った。それっきり、美恵子は口を開かなくなってしまった。黙りこくった美恵子の向かいで、典子も暗い気分で座っていた。
(もしうまくいったら…彼女とそーいう関係になっちゃうのかな)
弘志だって言っていた。『考えてるんだよ、男は。其田だって考えてたよ。それは、絶対にそうなの』…。
(私には手を出さなかったけど…)
クラブでたどたどしいステップを踏んでいた遥は、とても綺麗な体をしていた。典子はみじめな気分になった。
帰り道、典子はぽつりと言った。
「…ねえ、今日、来たのって…正しかったのかな」
美恵子はしばらく何も言わなかった。だいぶたった頃、やっと答えた。
「でも、知らないといつの間にかすべてが終わっちゃうもん。知ってれば、動けるよ。戦うには情報がないと」
典子は、やっぱり自分が恋愛のバトルに向いていないなと反省した。




