24 それぞれの出陣
良貴が最寄り駅を出ると、背後から声をかけられた。振り返ると典子が立っていた。
「…あれ、どうしたの?」
良貴は平静を装った。
「友達がこの辺に住んでるの。久しぶりだね。お茶くらい飲んでかない?」
典子は精一杯明るい笑顔を作ってみせた。
(…まあ、いいか…。僕が態度を間違えなければいいだけだから)
典子は駅の近くの喫茶店に向かった。良貴はその後について歩いていった。
2人ともコーヒーを頼んだ。典子はいつもケーキやクレープだったから、良貴は意外に思った。2人ともコーヒーだったのは、良貴が典子に気持ちを伝えた時だけだ。
「…コーヒー、飲むようになったの?」
「うん、ちょっとは大人になろうと思って」
典子の態度は落ち着いていたが、本当は、心の中では一つ一つの行動が不安との戦いだった。
「ひさしぶりだねー」
はじめに決めていたとおり、典子は高校で「典子先輩」だったときの顔で、先輩らしくちょっと偉そうに笑った。良貴はちらっと典子の顔を見て、答えた。
「…そうだね」
恋愛関係を解消したらただの先輩後輩のはずなのに、良貴は「です・ます」口調には戻さなかった。「典子先輩」と扱われなかったことで典子はホッとした。
「どう? 大学。楽しい?」
「…そうだね、楽しいよ」
「そっかー、和佐田行きたかったなー。弘志とは、学校でよく会うの?」
「うん、月に2、3度は見かけるかな。帰り時間が一緒の日とかあるし…」
「そうなんだー」
カラ元気でニコニコしている典子を(もちろん、カラ元気なのはすぐにわかった)、良貴はやっぱりかわいいと思った。
今度は良貴の方が訊いた。
「大学、楽しい?」
「うん。同じクラスの連中とつるんで、食べ歩きばっかりしてる。ちょっと太ったよ。もう、バック転できないかも」
典子はへへへと笑った。良貴も目を伏せて微笑んだ。
しばらく普通に何でもない話をした。良貴は、待っていれば飛び込んできてくれる典子に、肩の力が温かく抜けていくような気がした。
「あのさ、…ねえ、訊いてもいい?」
「何?」
「…其田くんの、今好きな子のこと…」
「え、訊いてどうするの」
「次の恋のために、私の何がダメだったか、知っておきたいの」
典子はカラッポになったコーヒーカップを見つめて一生懸命言った。本当は、遥のことを訊くのは怖かった。
(…彼女が、綺麗で、お化粧もうまくて、おしゃれで、背も高くて、スタイルもいいのは知ってるけど…)
典子は、このうえ何が負けているんだろうと思うとうんざりした。良貴はしばらく迷っていたが、典子の「次の恋」という言葉に少なからずショックを受けている自分に気付き、その弱さに打ち勝つために話す気になった。
「いいけど、…ちゃんと聞ける?」
その言い方は絶対に年上の女の先輩に対してとる態度ではなかったが、そのどこにも間違いはなくて、典子は一生懸命勇気を出して、
「…うん、聞ける」
と答えた。
「でも、彼女の顔は見てるよね」
「…うん、見た…。ゴメン」
「綺麗な子だけど、僕にとって、それはかえって気後れするだけなんだ。僕は、本来は、ああいう華やかな子は苦手な方だから…」
典子は少しホッとした。ルックスで勝つのは絶対に無理だ。
「彼女、すごくアグレッシブなんだよ。生き生きしてて、夢があって、いろんなことに好奇心があって、知りたいことがいっぱいあって、いつも何かを追って駆け回ってるような…。今の自分に満足していなくて、もっともっと広い世界を欲しがってる子なんだよ」
弘志に話したときに比べて、いささか典子を子供扱いしすぎたかなと良貴は思った。典子が黙って聞いていたので、良貴は言葉を続けた。
「僕も、彼女を見ていると、男としても人としても、もっと大きくならなくちゃいけないと思うんだ。僕はずっと体操のことばかり考えてきたけど、それだけで終わりたくないなって思って…」
典子は顔を上げて、慌てて、
「体操、捨てちゃうの?」
と訊いた。良貴はその切ない顔が愛しかった。体操を「たくさんのうちの1つ」と切り捨ててしまうよりも、こうして大事に思っていたかったし、思われていたかった。
「いや、わかんないよ。最後には体操に還ってくるかもしれない。でも、はじめから体操しかできないとは思いたくないんだ。だからいろいろ勉強してみようかなと思って。例えば、弘志先輩のとこの社会学なんかも、面白そうだし」
社会学は遥も一緒で、だからすごく興味があった。聴講に行こうかとも思っていた。
「…私、…体操やってる其田くんが好きだな…」
典子はうなだれた。良貴は、自分の弱さを感じつつも、やっぱり嬉しかった。
「でもね典子、…僕は、…だから彼女を選んだんだよ。僕は、体操では、エリートの道から転がり落ちたんだよ。実技で言ったらもう昔の自分に勝てない。だからスポーツ科学を選んだけど、周りの人は別に金メダルを目指した人じゃなくて、今僕は、僕じゃなくてもできることをやってるだけなんだ。…もしかして、僕が今から考古学を始めたら、僕にしか発見できないすごい遺跡を見つけるかもしれない。経営学を学んで会社を興したら、すごい会社になるかもしれない。他にも可能性を探したいんだ。
もちろん、スポーツ科学の第一人者になれるかもしれないし、体操のメダリストを育てるスタッフの一員になれるかもしれない…それもすごく魅力的だし、だから大学にいる間、専攻も全力で頑張るよ。でも多分、彼女を好きになったのは、アグレッシブな気持ちにしてくれた彼女への憧れと、自分を試してみたいっていうのがある気がする。
君といる僕は、どこまでも体操しかとりえのない僕みたいな気がして…それだけの人で終わりたくないんだ」
悔しいけれど、典子は、そう語る良貴を素敵だと感じた。同時に自分がとても退屈な女に見え、なんだか戦う意欲がまた薄れてしまった。
しばらく沈黙が訪れた。良貴は、典子に向かって遥への熱い気持ちを直接ぶつけてしまったことに気づき、酷だったなと反省した。
店を出て、少しだけ前を歩く良貴の背中を見ていたら、典子はやっぱり戦いたいと思った。夢はわかったけれど、それは良貴自身の夢であって、遥がいなければかなわないものではない…きっと。
元の駅前に戻ってきて、良貴は静かに典子が帰ると言うのを待った。
「…ねえ、其田くん」
典子は静かに口火を切った。
「…其田くんの新しい夢、私も応援するね」
良貴はちょっとホッとして、それから典子に温かいものを感じた。でも、それは次の瞬間に打ち破られた。
「…でもね、私の夢は、やっぱり其田くんと一緒にいることなの。だから私も負けないことにしたの。私も変わるから。其田くんの夢についていける人になる。今日は、それを言いに来たの」
典子はじりじりとあとずさりをした。
「私、其田くんのこと、絶対にあきらめないから。ずっと好きだから。大好きだから」
それだけ言って、典子は全力で走って駅の改札を抜けた。そしてそこから振り返って、良貴に大きく手を振って駅の階段に消えた。
街灯の陰の落ちたアスファルトに目を落として、良貴はしばらく立っていた。典子が想ってくれることはやっぱり嬉しかったが、その想いに応えることはないと感じていた。
『其田くんの夢についていける人になる』
そうじゃないんだ、と良貴は思った。
(同じ夢を見たら、夢は1つしかないんだよ。別々の夢を見れば、夢は2つになる。燕さんと僕がそれぞれ世界を広げていければ、僕が広がった分と彼女が広がった分で、世界はお互いの倍の大きさになる。分かち合ったら半分なんだよ)
典子が間違っているのではなく、ただの違い。そういう典子を選ぶ人だってもちろんいるだろうけれど、自分はそうしない、それだけのことだった。
典子はどこまでも可愛い恋人だったけれど、良貴が欲しいものは違っていた。
弘志はただ待っていた。きっと遥は、逃げようがない罠を張ってきてくれる。罠にかかっただけなら自分のせいではない。遥の媚びた態度は弘志に十分な期待をさせてくれた。
初体験の年齢をあとから下げることは絶対にできない。自分はいっぱしのいい男だと思っていたかった。美恵子のことを考えると心は痛んだが、あと3ヶ月で二十歳だ。金を握ってお店屋さんに行くのは「経験」とは言えない。普通の女の子とまっとうに経験したかった。本当は美恵子を抱きたかったが、本気で打診したら思いっきり叩かれた。怖くて、正直な気持ちはもう言えない。好きだというスタートの言葉も言えない。美恵子に対しては、どうしようもないくらい臆病な自分がいた。
できれば、「貞操観念」なんて言葉を笑うようなタイプの女の子と、「ちょっとした間違い」くらいの感覚で済ませたい。そして遥はそういうタイプの女の子に見えた。
「あー、見つけた! じゃあ、私はこれで!」
遥はクラスメイトの群れをダッシュで飛び出した。
弘志は、遠目に様子をとらえ、おいでなすったなと思った。
「えとうさ~~ん」
遥は弘志の胸にそのまま飛び込みそうな勢いでやってきた。
「お久しぶり、クラブのお礼言いたかったのになかなか会えなくて…次、授業ですか~?」
「ん、そーだよ」
遥は弘志の顔をまじまじとのぞき込んだ。そして、十分に間をとってから、
「…ブッチしましょうよ。お茶、しません?」
と誘った。弘志も迷ったようなふりで十分に間をとってからOKした。
のんびり歩いて、遥はいつもの「AndoA」に弘志を連れてきた。
「ここ、私たち、いつも集まってお茶飲んでるんです~。なんか、植え込みが仕切りみたいで、隠れられるじゃないですか。この、誰からも見つからない感じがいいんですよね~」
遥は勝手知ったる様子で店員に指を2本立てて見せた。店員は窓際の絵をちらっと見て、空いていると見るや遥と弘志をそこに案内した。
(…ふーん、いつもここに座ってんだ)
遥は大学でいつも、似たような文化圏に生息していそうな3人組と一緒にいた。遥を足して4人、この席にちょうどいい。
「いつも隠れて、何話してるの? 今日も隠れなきゃなんないわけだ」
「だって、江藤さんとしゃべるのに、邪魔が入ったら嫌ですもん」
ライトに好意を示してみせつつ、遥は実際のところ、良貴に見つかりたくなかった。弘志と仲良くしているのは隠しておきたい。もちろん弘志にそれを悟られるわけにもいかなかった。
注文を済ませると、遥が怪しい微笑みを浮かべた。
「…何?」
弘志が涼しい顔で訊くと、遥は、
「…あのう、江藤さんって、マス・コミとってないですよね?」
と訊いた。弘志は涼しい顔を崩さなかった。
「いろいろあってね~」
「どういういろいろですか~?」
「どんなのがいい?」
「…えー、ごまかすつもりですか~?」
「いや、別に? あの、マス・コミのノートに用があったのは確かだし」
「どういう理由で?」
「ん、書いてもらったじゃん。最後に一行」
弘志は恋愛の気配を完璧に消し去って純な笑顔を見せた。こういうときは気負ったそぶりを見せず、無邪気に振舞うに限る。遥は弘志の魅力に食われそうになり、焦った。
(…なんで、私が動揺してるの! 攻めないと!)
すぐに気を取り直して、詰め寄ってみた。
「それって…江藤さんがそれに用があったんですか?」
どうせ答えはNOだろう。どう考えたって、あれは其田良貴からの質問だ。遥は弘志がそういう意味の回答をするのを待った。だが、弘志はしゃあしゃあと言い放った。
「単なる学術的興味じゃマズかった?」
遥の中に、切り返すためのいろんな言葉が浮かんだ。だが、どれも殺傷力に欠けていた。
「…興味もってくれたんですね~。それは光栄です~」
遥は仕方なくそう言ったが、それ以上発展できる要素はなかった。
弘志に対して、ハッキリと良貴との恋愛は「ない」と意思表示したい。だが、良貴自身には「NO」の意思を伝えずにおきたい。良貴をキープしつつ、弘志をとにかく「協力役」から降ろしたい。
(…其田さんが私のことどうこう思ってるのなんか、わかりきってるのにな。ハッキリ言っちゃおうかな。一足飛びに)
でも、「あの人って、私のこと好きですよね」と言うのはさすがにはばかられた。さまざまなことを画策している「間」を悟らせないよう、遥は弘志に訊いた。
「江藤さんって、クラブとかのほかに、どういうとこ遊びに行くんですか?」
弘志は、答えたところが遥との次のデートの場所になるだろうから、慎重に答えた。10月を1週間も過ぎた今、うっかり「野球」などと言ったら残るはポストシーズンゲームだけでチケットはまず取れない。それでは「じゃあ、行きましょう」に続かない。
「やっぱサッカーかな。スポーツ観戦サークルみたいの作ってるから。しかも、J2とかの、ちょっとマイナーな方に行くのが楽しいんだよな。どこもスタジアムが遠いけど…」
「えー、サッカー、見に行ったことないです~。行きたい、連れてってくださいよ~」
「…んー、じゃあ、また3人で行こうか?」
「え、其田さんも?」
「うん」
「…でも、あの、別に…無理して誘わなくても。…別に、江藤さんは、其田さんと一緒じゃないとダメっていうわけじゃないですよね?」
微妙にしどろもどろになり、遥はちょっと積極的に感情が出すぎたなと反省した。もっとスマートに、かつ露骨に態度に出さなければ。
「ホラ、一応俺って、其田通じてキミと知り合ってんじゃん。だからさ」
「知り合いの知り合いだって、もう十分知り合いですよ。江藤さんが連れて行ってください、江藤さんの好きなカードでいいですから」
「…うーん…」
弘志が悩んでいた(ふりをしていた)ので、遥はさっさと手帳を取り出した。弘志は良貴に「俺は3人で行こうって言ったんだけど、押し切られちゃって」と言えれば十分だったので、遥が強引に決めてしまうのを黙って待っていた。
「日程ってどうなってるんですか? 土日ならだいたいやってるんですか?」
「土曜にやるとこと、日曜にやるとこがあるよ」
「じゃあ、今週末!」
「…おいおい、早いな~」
週末、すでに「オレラ」でサッカーに行くことにしていてわずかに躊躇した。だがメンツは典子を含むごく親しい面々だし、当日券を買う予定だったので、弘志は腹をくくった。
「…じゃ、今週の土曜。いいよ」
「何時から始まるんですか?」
「だいたい、土曜だとデーゲームだな。遅くても、夕方明るいうちに始まるよ」
じゃあ、夕方試合が終わってから、ちょっとイイカンジになれる行き先を決めておかないといけないなと遥は思った。そして、その気配を読み取って弘志も得心した。
「じゃあ、詳しくはケータイで連絡するよ」
「待ってます~。言っときますけど、行くのは二人でですよぉ?」
遥は思惑どおりにいって喜んだが、もっと思惑どおりだったのは弘志のほうだった。
弘志がドタキャンになって、典子は仕方なく1人で待ち合わせに向かった。待っていると、龍一郎がやってきた。
「あれ? 弘志は?」
「ドタキャン。『デート』とか冗談言ってたけど、多分違う」
「…こっちの連れも来ないんだけど」
「うそー」
思いがけず2人っきりになり、龍一郎は漠然と抱いていた思惑がだんだん形をなしてくるのを感じていた。今日を逃したら、弘志抜きで直接話をするチャンスはなかなかないだろう。時々メールのやりとりをしていても、どうも典子はメールで「語り」をすることが苦手らしく、連絡の延長くらいにしか通信を寄越さなかった。だから龍一郎もあまり用事以外のことを送れずにいた。
前半を1-1で終え、ハーフタイムに入ってから龍一郎は典子に話を始めた。
「…昔のことで覚えてるかわかんないんだけど、ちょっと訊いてもいい?」
「えー、何ですか?」
「ずっと前に俺がメールでいろいろ書いて送ったじゃない。高校時代に俺がどうだったとかこうだったとか、そういうの。あれどう思った?」
典子はすぐに文面を思い出した。
「あー、なんか、返事短くてすみません。でも、根本さんのメールでだいぶ私も元気になりましたよ。…私の反応がコンパクトだったから、気を悪くしてました?」
龍一郎は慌てて言い返した。
「ちがうよ、そうじゃなくて典子ちゃんが俺のことをどう思ったのかなって思ってさ。結構いろいろたくさん、それも軽い恋愛してたみたいに書いちゃったから典子ちゃんが俺のことあまり良く思わなかったんじゃないかと思って気にしてるんだよ」
「…え、別に、なんか良くないこととか、書いてありましたっけ」
典子が難しい顔をしはじめたので、龍一郎は慌ててそれを制した。
「いや何も思わないでくれたんならいいんだけど」
「私、自分が恋愛経験全然ないから、私よりいろいろある人って普通だと思ってるんですけど?」
「恋愛経験が全然ないって、…あのさ、ぶしつけな質問してゴメン。典子ちゃんって今まで、片思い両思い合わせて、恋をした人って何人くらいいるの?」
典子は即答した。
「1人」
龍一郎は驚いた。
「それって純粋に1人なんだ。すぐ答えたもんね。なんかちょっと好きだったかもとか、友達以上恋人未満で終わった人とか、全然いないんだ」
「いないですよ~。私にとって、好きな人って、昔も今も1人です」
「じゃあもちろんそれが失恋した人ってことだよね」
隠すつもりも、恥じる必要もなかった。典子は胸を張って答えた。
「そうですよ」
「そっか…1人か…。いいね」
しみじみと龍一郎が言ったので、典子はびっくりした。
「そうですか? なんか、普通の人って、多いほうがいいみたいに言いません?」
「ん、…それがみんな、素敵な出会いならね」
龍一郎はため息をつき、自分の中にかつてあった青臭くてピュアな恋愛観を思い出した。
「…ねえ典子ちゃん。…その人のこと今も好きなの?」
「うん」
問答無用の速さで典子は答えた。龍一郎は、飾らなくてまっすぐな典子の態度がまぶしかった。自分には言えない。過去の恋愛をそんなふうには思えない。
「…そうなんだ、いいね」
しかしこれでは期待薄だ。龍一郎は言葉の調子を「オレラ」の「根本さん」に戻した。
「典子ちゃん、お願いがあるんだけど」
含みのないその口調に、典子は安心して返事をした。
「何でしょう?」
「あのさあ、友達になってくれないかな。オレラでみんなでワイワイやる仲間っていうだけじゃなくて俺の話とかも聞いてほしいし、典子ちゃんの話もいろいろ聞きたい。今、弘志抜きで二人で話すとかいう機会は全然ないじゃない。そうじゃなくて個人的にさ…」
典子はしばらく龍一郎の顔を見ていた。
「…ダメ?」
龍一郎は恋愛の気配を可能な限り消して典子を人なつこい視線で見返した。でも、典子は小首をかしげた。
「…あのう、変なこと、確認していいですか?」
「え、何?」
「…あの、高飛車だとか思わないでくださいね。それで、実は後から恋愛だったとか、そういうことはありますか?」
龍一郎は苦笑するしかなかった。言下に可能性を察するか、鈍くて何も通じないか、そのどちらかは想定できるが、こんな質問が返るなんて初めての経験だ。ウーンとうなってから龍一郎は答えた。
「恋愛とかつきあうとか気軽に考えるつもりはないし、典子ちゃんとはとりあえずもっと知り合いたいなって思ってる、そういう意味でしかないんだけど…」
典子は慎重に言った。
「私、そういう友達っていうの、上手に理解できなくって。恋愛的要素っていうか、そういうのはどのくらい含まれることになるんですか? もちろん、百じゃないことはわかりました。ゼロか、それとも1くらいはあるのかを聞きたいんです」
「はじめから『恋愛になるための友達』のつもりはないよ。でも1年後に俺が典子ちゃんを好きになっている可能性がゼロっていう保証はないし、典子ちゃんが俺を…ってことだって絶対ないとは言いきれないわけで、そこを今推測するのは難しいよ。そういう意味では、1くらいはある、でも1しかない、そう思ってもらうしかないな」
龍一郎は諭したが、言っているうちに、自分の中では「1」どころでなく恋愛が混じっているような気がした。典子は難しくて混乱したが、気持ちだけはハッキリ言った。
「…友達って言われて信じてたのに、実は自分が思っていた関係と違ってたとか、そういうのは避けたいです」
しばらく沈黙が流れ、龍一郎は逡巡したが、典子に丁寧に説明した。
「恋愛感情が育ったりしたらその時考えるよ。今はそういう変な感情じゃなくて、文字通り、今よりも普通に親しくなりたいなって思っただけ。可能性がゼロとか1とか百とか、それは変わるかもしれない…それが嫌なら仕方ないけど」
典子はやっぱり、友達が友達になるときのプロセスとは違うものを感じた。「僕は君と親しくなりたい」という気持ちは、どの距離で止まるものなのだろうか。典子は龍一郎の提案をうまく飲み込めなかった。典子の中では、あくまでも「友達」は「友達」という空間の中にあり、恋愛とはまるっきり別のものだった。
「すみません、…友達づき合いにそんなのは変かもしれませんけど…ちょっとだけ、返事待ってもらっていいですか?」
「…うん、あんまり気負わないで、普通の友達だと思ってよ」
試合の後半は1点を巡る争いが続き、終了5分前のゴールが決勝点になった。そのあと、典子と龍一郎は一緒に夕食をとって別れた。
龍一郎は帰り道、1人になってぼんやり考えた。
(典子ちゃん、戸惑ってたな…。それは彼女が真面目すぎるのか、俺がもう自分でも気づかないうちに恋愛感情をぶつけてるってことなのか…)
そして帰宅してから、弘志にメールをうっておいた。
『今日はこっちの連れもドタキャンだったんで、典子ちゃんと2人っきりだった。
俺は、実は典子ちゃんと親しくなりたいと思ってるんだよね。今日典子ちゃんに「友達になってほしい」って言ったらだいぶ警戒された。俺に対して嫌だとかあるなら仕方ないけど、なんで友達になるのにそんなに気負うんだろう? 結果的に、返事は保留された。友達になるのはいいけど、恋愛になる可能性があるのは怖いってことかなと感じた。
彼女もいつまでも昔の恋愛にこだわっててもしょうがないと思う。二人で会ったりするようになったら恋愛の可能性は当然ゼロじゃなくなるよ。
とにかく俺のほうはこんな状態です。じゃあ、また。』
典子は弘志に相談しようと思ってずっと待っていたが、弘志は夜中過ぎまで帰ってこなかった。お風呂に入ったら待っているのが面倒くさくなって、典子は寝てしまった。
良貴はぼんやり考えていた。
本当のところ、典子の好意は嬉しい。でも気持ちには応えられない。やっぱり遥の世界に入り込んでみたい。良貴は心の奥底に潜んでいる自分勝手な思いをあぶりだしていた。
(…多分、僕は典子をそこに置いておきたいんだ。僕にとっての体操と一緒に。いつか、戻れるなら戻りたいんだ)
そんなことは考えていないとムキになる自分がいた。そういう理性やプライドを刺激しないように、そっと良貴は自分の一番奥底の心を掘り返していった。
(…なんで、僕は「典子先輩」でなく、彼女だったときの典子を相手に話したんだ?)
ハッキリと他人になってしまうのが怖かった。典子のことを「典子先輩」と呼び、話す語尾を丁寧語に変えたら、2人の関係は本当に終わってしまう。その勇気はなかった。
遥は綺麗な女の子で、しかも遠くて高いところを見ている。自分には不釣合いなほど華やかで、しかも恋愛に関しては及びもつかないくらい〝レベルが高い〟気がした。自分へのあしらい方や、弘志への近づき方に何度もそれを感じた。
(でも、あしらわれるのと、典子をいざという時のためにとっておくのと…どっちがみじめなんだろう。典子に対しても、正しい態度とはいえない…)
良貴は一晩中考えて、1つの結論を出した。
火曜日の昼休み、良貴は遥の携帯電話に電話をかけた。
「今日の生物の授業の後、ちょっと時間もらえないかな」
遥は快くOKした。良貴は電話を切ってからもう一度自分の決意を噛みしめた。
生物の授業の時、遥はまた良貴の隣の隣に座った。講義が終わってから、二人で学内のカフェテラスに移ってお茶を飲んだ。
「其田さん、ホントはこの時間、授業あるんだよね?」
「…うん、まあ、あるけど…」
「大丈夫なの? 単位。結構、この時間ばっかりサボってるけど」
遥はくすくす笑った。この時間にやたら良貴が授業をサボっているのが自分のせいだとわかっていて、それが可笑しかった。
遥は弘志とサッカーの試合に行った。そのまま夜までやっている映画館に映画を見に行き、それから飲みに行った。以前より弘志の逃げが甘くなっている気がした。そのまま力押ししようかと思ったが、まだそこまでの手ごたえはなくて、もう少し手繰り寄せてから一気に攻めることにした。しかし、弘志と決定打がない以上、良貴ともまた別に親しくするのは悪くなかった。
遥は、良貴に対して背伸びして見せてしまう癖がついていて、ひとしきり「私は今、こんな難しいことに興味を持っている」という話をした。遥がさんざん語って満足した頃、良貴が時計を見ながら、
「燕さん、5限あるんだよね?」
と言った。
「あ、そうだ。もう少ししたら、行かないと」
遥がすっかり冷めたコーヒーの様子を確かめようとちょっと飲んだとき、良貴が、
「…それで、話があるんだけど」
と切り出した。
「あ、ゴメン、そういえば、それでここに来たんだよね」
コーヒーは冷めて苦くなっていて、遥は、続きを飲むのをどうしようかと考えていた。良貴の声の調子がちょっといつもと違うことに気づかなくはなかったが、
(2人っきりのデート? 考えてもいいかな)
弘志とのバランスを考えながらそう思った。
良貴が勇気を出そうとわざと肩の力を抜くと、不意に典子の顔が浮かんだ。そんな自分に呆れたが、効果はてきめんだった。典子と決別しなければならない。
「…僕とつきあってくれないかな。僕は、君のこと、ちょっと前から好きだったんだ」
できるだけ静かにさりげなく、そしてできるだけ語尾を強く切って良貴は言った。
「え?」
遥は驚いた。見ると良貴の表情はとても落ち着いていて、強い目の光に思わず息を飲んだ。タカをくくっていた分だけ、無防備だったハートに直撃が入ってしまった。
「返事は急がないけど、考えといて。僕の話はそれだけ」
「…あ、…うん、じゃあ、考えとくね、私、授業だから…」
「うん、それじゃ」
遥はドギマギしながらカフェテラスを出た。
(えーっ。ウソでしょー。いきなりそう来たか~)
どう返事をしよう。弘志ともっと煮詰まっていれば、あるいはもっと明白にかわされていれば、答えは簡単だが…。でもはっきり言われたのは悪くなかった。
(…其田さんって、ホントは、つきあったらいい男なのかもしれないな…。いつも、いい方にばっかり裏切られるな…)
良貴はそのままカフェテラスで遥の後ろ姿を見ていた。そして遠くの校舎の入口に消えるのを見てから席を立った。
無理して落ち着いたふりを装ったから、足に妙な力が入ったままになっていた。それでも平静を装って駅に向かって歩き出した。情けない自分、みっともない自分とも今日でお別れだと思った。そして、過去の自分、典子との思い出にも…。




