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23 伏線


 典子の報告に、美恵子がキレた。

「信じらんない、なんなの、それ~!!」

「まあ、まあ、美恵ちゃん、落ち着いてよ」

「だって、彼女でもないのにキスするなんて~!!」

 そこで2人とも、はたと気付いた。

「…なんか、昔もこんな光景があった気がするね」

「…そうね、なんか私と典ちゃんが逆だった気がするけど…」

 それはもう、3年も前の記憶だった。

「そうかあ、3年もなるかあ。美恵ちゃんが弘志に告白してから。…それで、私も美恵ちゃんもうまくいって、でも2人とも別れたわけだねー。…でも、美恵ちゃんは別れてうまくいってて、私はダメ…」

「…でも。まだわかんないよ。がんばってよ」

「うん、…まあ、…がんばるけど」

 典子はあのクラブでのキスでかなり満足していて、戦闘意欲がちっともわかなかった。美恵子はふーとため息をついた。

「なんだか今こうして考えてみると、あの2人って、似てるのかもね~」

 典子はびっくりした。

「えー!! あの2人って、どの2人??」

「弘志先輩と、其田くんよ。どこで気が合うのかなってずっと不思議だったんだけど、そういえば似てるかもね~。どっちも傲慢なとこあるし、でも結局真面目だし。自信過剰なとことか、カノジョに対する態度とか、おんなじよ」

「えー、認めな~い。其田くんは全然傲慢じゃないし、自信過剰でもないし、優しくて真面目で穏やかで落ち着いた、いい人ですー。弘志とは違いますー」

 典子は人相が変わるほど口をとがらせた。美恵子はよっぽど典子の言い方のほうが納得いかなかった。

「そうかしら。其田くんっていつもさりげなく人の目気にしてるし、クラブとか行くと一番調子に乗るし、なんだかんだ言って自己顕示欲強いのよ。典ちゃんに対しても、僕は年上の女の子を従わせてるんだ~、みたいな感じするし。真面目で優しいのはわかるけど、でも、実はそれは弘志先輩だってそうなんだから」

 2人とも自分の「元彼氏」が好きでしょうがなかった。

「…でもさー、其田くんの好きな子って、なんかすごいキレイだったよ」

「なに、それ。私、すっごくガッカリだわ。其田くんって、女の子を顔で選ぶ人じゃないって思ってたのに。典ちゃんが美人じゃないっていう話じゃないよ、でも其田くんは、典ちゃんの内面をじっくり見て好きになって付き合ったのに、大学に入ったら、ろくに知り合う時間もないような相手を、見た目で選んだのかなって思うと釈然としないな」

 美恵子は典子を思って力説したのに、当の典子は良貴を悪く言う美恵子をじっとにらみつけていた。

「あー、怒ってる。もう、典ちゃんもさあ、もうちょっと冷静に、それから、大人になりなよ。其田くんのこと、勝手だとか、卑怯だとか、思わないわけ。典ちゃんにキスして、どうするつもりよ。自分は他人だけど、典ちゃんは他人になるなって言うわけ?」

「…んー…、そう思ってくれるんだったら、それでもいいかな~」

「もう、典ちゃ~~ん」

 典子の戦闘意欲は完全に消えていた。

「ねえ、典ちゃん。其田くんに、典ちゃんはもったいないよ。他にいい人いたら乗り換えちゃいなよ~?」

 美恵子のそんな言葉に、典子は困ったような笑顔で答えた。

「…うーん、私、無理だと思う~~」


 遥は大学の悪友たちと旅行に来ていた。夜、ペンションでは早速恋愛話がはじまった。

「きいて、きいて~」

 遥は真っ先に声をあげた。

「本命の人と、クラブに行ってきましたあ!」

 同行の友人3名から感嘆の声があがった。

「へー、進展じゃん」

「クラブとか行く人なんだ~。なんかダイガクセイって感じだね~」

「そうでしょ。ダンスも、ちゃんと踊れててかっこよかったよ~?」

 そう言いながら遥は良貴のことを思い出した。多分、ダンスのウデは良貴の方が上なんだろうと思った。「でも、トータルのカッコよさで言えば江藤さん」と自分に言い訳をしなければならないくらい、本当は、良貴が桁外れにカッコよかった。

「えー、いきなり2人っきりで夜のデートだったの?」

「…ま、実は3人だったんだけどさ…」

 遥は渋々答えた。

「3人目は、誰よ」

「んー、生物学の人。声かけてくる人いるって言ったじゃん」

 生物で一緒の狛江佐和子はすぐに、

「あー、却下くんか~」

 と言って笑った。遥は「却下」を否定しかったが、手のひらを返して「実はカッコ良かった」とは言いづらい。

「あれ、本命くんって、却下くんとどういうツナガリだっけ?」

 他の友人の疑問に、佐和子が遥に代わって答えた。

「あ、却下くんの知り合いなんだよね。本命の彼」

 遥も補足した。

「高校の先輩なんだって。あ、しかも、本命の人、社会学部だったよ。ラッキー」

「マジで~。ノート借りるしかないでしょ」

 盛り上がる中、佐和子が奇妙な間を空けて声を上げた。

「ちょっと待って、じゃあ却下くんも一緒にクラブ行ったの?」

 良貴を何度もじかに見ていたので、クラブとかダンスとかいうタイプにはとうてい思えなかった。みんなもめいめい勝手に抱いている良貴像を思い浮かべながら言った。

「却下くんて、真面目系じゃなかったっけ?」

 遥は困った顔をしたまま黙っていた。

「ムリしすぎ~」

「クラブなんて、行っていい人と悪い人いるよね~」

 友人たちが次第にひどいことを言い始めたので、遥はさすがに割って入った。

「見た目マジメ系だからナメてたら、結構すごかった。宙返りとかバンバンやって、プロのダンサーみたいだった」

「うっそー!」

 友人一同は一斉に黙って遥を注視した。遥は気まずそうに首をすくめて言った。

「…そりゃあさ、本命の人――って、江藤さんっていうんだけどさ――江藤さんは何やってもサマになってカッコいいんだけど、其田さん…って、これがその生物の人なんだけどね、其田さんは玄人っぽかった」

「ダンス職人、とか、そういう感じ?」

「真剣、ダンスひと筋、みたいな?」

 3人はカン高い声で笑った。遥はおずおずと、

「…うーん、それよりはもっと、マジでカッコよかったんだけど…」

 と言った。

「えー! 遥、オトされた?」

「もしかして、『本命とクラブ行ってきた』って、今や本命はそっちだった?」

 友人たちにそんな風に言われるとムッとして、遥は大きくかぶりを振った。

「却下は、却下。私は江藤さんを狙うって言ったでしょ~」

「クラブ行って3人じゃ、なんもなし? それともなんかあった?」

 遥はニコッといい笑顔になった。

「勝負かけてきたよ~?」

「えー! どうやって~!」

「だって、其田さん、帰っちゃうんだもん。あ、其田さんは生物の人のほうね」

「遥、わかんないから、却下くんって言ってよ」

「なんで却下くん帰っちゃったの?」

 すっかり却下くんが定着してしまったが、遥は訂正をあきらめた。

「なんかね、気分悪くなったとかって…」

「ダサー! ここ一番で、それは情けな~!!」

 友人たちは大ウケした。遥はその点については友人たちと同意見だった。

「でも、おかげで残るは私と本命さんじゃん。感謝!」

「あ、そうだよね、勝負かけてきたって…あんたまさか、イキナリ…」

 女の子たちは乗り出した。部屋中に緊張感がみなぎった。

「夜中過ぎまで一緒にいてさ。私、帰りがけ、言ったのよ。…『どっか寄ってく?』とか、言わないんですか~??? って」

 遥は実際に言ったのより3倍くらい意味深にリプレイした。

「やるじゃん!」

「…で、どうしたの。彼は、釣れたの?」

 遥は眉尻を下げて、顔の前で人差し指をクロスさせた。

「なーんだ、釣れなかったんだ」

 3人は一斉にガッカリした。

「普通、そこはあえて釣られてやるもんじゃないのかね~」

「食わぬはオトコの恥、とかなんとか言うけどね~」

 遥はちょっとふくれて、

「そうなのよ。私だって、結構無茶したつもりだったのに」

 と言った。決して、弘志が考えているほど、遥は軽い価値観の女の子ではなかった。

「しかし、遥もよくやったね」

「本命くんがよく逃げたと誉めるべきでしょう。私が男だったらとりあえずホテルには行くな」

「何て言って、逃げられたの?」

 遥は弘志の口真似をして、ちょっとシャクに障る愛嬌を投げながらさりげなく言った。

「『牛丼屋かラーメン屋?』」

 弘志に対してそれぞれ「いい男」のイメージが出来上がっていた友人たちは、遥の口真似にめいめい勝手な妄想をしてドキドキした。

「くうー、むっかつく~!」

「そうでしょ。もう、全然余裕でかわされたわよ」

「その人、こんど、写真見せてよ~」

 弘志が友人たちの間でも「いい男」で定着して、遥は誇らしい気分に満たされた。

「でも、その人、彼女っていないの?」

 言われて、遥は満面の笑みで答えた。

「いないって。ひとりに縛られたくないんだってさ」

「うわ、嫌な男ぉ」

「サ~イテ~じゃ~ん」

 友人たちは、甘い声で口をとがらせて口々に叫んだ。

「えー、でも、彼の友人の、却下のダンサー君は?」

 ツッコミが入っても、遥はノリノリで拳を握りしめて言い放った。

「あの人は、利用するのよ。私が十分彼と仲良くなれるまで、間にいてもらう!」

「かわいそー」

 今の良貴は遥にとってちょっと気になる存在にはなっていた。だからこそ、良貴と弘志の2人と今後もうまくやっていきたかった。

(みんなは見てないからわからないのよ、クラブで其田さんがどれだけすごかったか。本当に、カッコよかったんだから)

 遥はそう思ったが、やっぱり良貴のカッコよさを伝える術はなくて、弘志のカッコよさばかりが誰にでも、とてもわかりやすかった。


 良貴は憂鬱な気分で後期の授業に向かった。遥とは結局クラブで別れたままになっていた。典子にも言い訳をしたい気がしたが、できるはずもない。

 よりによって後期の授業は火曜日からで、3限は早速生物学だった。遥はまた友達と2人で後ろの方に座るだろう。良貴ははじめの頃の指定席、前から3列目の真ん中よりに座った。

「其~田さん」

 突然遥の声がして、横に長い作りつけの机ががたがたと揺れた。机と椅子の狭い隙間をぬって、遥が横向きに近づいてきていた。

「隣、座ってもいい?」

 良貴が答えないうちから、遥は良貴の隣の隣に座った。

「よかった、元気そうで」

 遥は良貴の顔を見てにっこり笑った。良貴は夢見心地で遥の顔を見ていた。

「其田さん、帰っちゃうんだもん。せっかく、ダンスすっごいステキだったって言おうと思ったのに」

 遥はちょっと甘えるような声で言って、カバンの中からテキストを取り出した。

「…あの日はホントにゴメン。それと…有難う」

 良貴が言うと、遥がは良貴に笑いかけた。その光景は、良貴の目にまるでスローモーションのように映った。ずっと後ろの席では、遥に置き去りにされた佐和子が呆れた顔で遥の背中を見ていた。

 授業が終わるとすぐ、佐和子は一人で教室を出ようとした。すると遥の声が追ってきた。

「佐和~、ひどいよ、おいてくつもり~?」

 佐和子が振り向くと、すぐそこに遥がいて、そのずっと向こうにこっちを見ている良貴の姿があった。

「遥、いいの? 彼」

 佐和子が声をひそめて訊くと、遥はあっさりと言った。

「あんまり調子に乗られても困るもん。今日は、挨拶だけ」

 佐和子は良貴を気の毒に思った。


 帰宅してから、良貴は典子にメールを出した。別れてもアドレスは消していなかった。

『其田です。

 クラブの日はゴメン。謝って済むことじゃないけど、ちょっと動揺してました。

 君には申し訳なかったと思うけど、忘れてください。

 君が君自身の幸せをつかむことを祈ってます。』

 そのメールは典子にとってひどいショックだった。

(変な言い訳なんかしなくてもいいのに。なら放っておいてくれればよかったのに)

 典子は黙々と返事をうった。

『其田くんへ。

 忘れろっていう言い方はひどいです。もともと放っておいてくれて良かったのに。

 ご心配いただかなくても、其田くんが其田くん自身の幸せを追求しているみたいに、私も自分の幸せを追求します。とりいそぎ、お返事まで』

 典子は目を閉じて深呼吸をして、「送信」を押した。

 そして静かに画面を見下ろして、画面の向こうの良貴に言った。

「…宣戦布告だよ、其田くん」

 そして、心の中で追伸した。

(私の幸せは、其田くんと一緒にいることだから)

 まずはクラブの日の首尾を、今更ながら弘志に訊くことだな…と思った。


 クラブに行った翌日、弘志の元へは、滝野川から不思議なメールが来ていた。

『…というわけで、また店に来てくれ。歓迎するよ。このメールは店のだけど、一応俺のだから私信送ってくれてもOK。

 P.S.其田って典子とどーいう関係?』

 弘志は首をかしげた。

(其田と典子のこと知ってたのは体操部では俺と美恵子だけだし、もうあいつら今は別れてるしな。しかも、なんで今ごろそんなこと訊いてくるんだ?)

 弘志は最後までクラブに典子が潜入していたことに気付かなかった。だから滝野川のメールは謎のまま放っておいた。そんなことだってとっくに忘れかけていたのに、そこへ典子がのこのこやってきた。

「弘志ー。其田くん、元気?」

「まだ、大学で会ってねーよ」

「…夏休みとか、会わなかったの?」

 典子はわかっていて訊いた。

「ああ、一度会ったけど…」

 そして弘志はクラブのことを思い出し、滝野川のことを思い出し、謎のメールのことを思い出した。

「おまえ、まだ、其田のこと気になるんだ」

「うーん、まーね。弘志がいなかったら忘れてると思うんだけど…。例の彼女と、もうデキてる状態?」

 典子はへらへらした態度で言った。弘志は恋愛用語の使い方がいまだにきわどい典子に呆れたが、説明するのも典子を傷つけそうなのでやめておいた。

「どーなんだろな、そのへん。俺も、クラブ以来しばらく会ってないしな」

「ふーん。ねえ、そのクラブのときって、彼女のほうはどんな感じだったの?」

 弘志は一瞬違和感をおぼえて典子を見返した。

「俺、其田と最後に会った時に、彼女も一緒だったこと、今、言ったっけ?」

「え? …い、言わなかったっけ?」

「其田とは、クラブに一緒に行って以来会ってない、としか言ってねーよ」

「そうかな、話の展開でそう思っただけなんだけど。あ、そうだ、だって前に、3人でクラブ行くことになったって言ってたから、クラブ行ったって言ったら3人だと勝手に思っただけ。違った?」

 手痛い失敗だった。辻褄は合っているはずだが、弘志は違和感を読み取るだろう。

「其田と2人でクラブ行くことだって時々あるのに。なんか知ってるのか? …おまえ、…まさか…」

 典子はクラブに潜入していたことがバレるのを覚悟したが、弘志の質問はまるきり見当違いだった。

「…実は燕さんと知り合いなんじゃねーの?」

「…ツバメさん? …彼女、ツバメって名前なの?」

 典子は遥の名字を下の名前だと思い、「○○つばめ」なんて変わった名前だなと思いながら記憶に刻み込んだ。シャープで綺麗な容姿は、つばめっぽいと言えばそういう感じがしなくもなかった。

 弘志は、典子が遥とさりげなく知り合って何事か画策している様子を想像したが、名前も知らないのだからそんなことはないらしい。でも、やっぱり違和感があった。典子の視線の先に、遥の姿が思い浮かんでいるように見えた。

「彼女、彼女って、知ってるみたいなこと言うな、おまえ…」

「夢では何度も見たよ。ぼんやりと。それで、なんかこういう人なのかなーって勝手に思ったりしてるんだけど」

 典子は無理な言い草でごまかした。弘志はすっかり呆れ顔になった。

「結局おまえは、其田のこと、全然忘れてないんじゃん。だったらそんな回りくどいことしないで、俺にはっきり言えば? 其田のこと、取り返したいから協力してって。なら俺だっていろいろ話してやれるのに」

「あー、そういうつもりじゃなかったんだけど…。ホント、…あきらめてるし」

 弘志はあえて突っ込まなかったが、もう、典子の気持ちなんか伝わっていた。

「そーいや、滝野川が、おまえと其田ってどういう関係なんだ、ってさ」

「はい?」

 典子は滝野川がクラブの従業員になっていることを知らなかった。だから、弘志の話の展開はあまりに突拍子もなく聞こえた。

「なんで、滝野川先輩なの?」

「それは俺だって訊きたいよ」

 2人とも疑問を口にしていたが、微妙に論点が違っていた。典子の記憶の中ではこの前のクラブに滝野川はいなかったし、弘志の記憶の中では典子がいなかった。微妙にかみ合わないまま話は続いた。

「おまえ、心当たりはないの?」

「えー! ぜーんぜん! だって、いまさらだよ?」

「そうだよなあ、いまさらだよな。…そうか、おまえもわかんねーか。おまえと其田に最近またなにかあったのかと思った」

 典子は一瞬ギクッとしたが、自分の中の記憶と滝野川がどうしても結びつかず、何か言われるような覚えはなかった。

「うーん、全然わかんない。心当たりがない。なんだろ」

「まーいーや、滝野川のことだから、またとんでもないルートから情報入手したんだろ」

 そのまま違う話になって、それから典子は部屋に戻っていった。

 いろいろわからないことはあったが、弘志にはたった一つだけわかったことがあった。

(…無理してたんだな、ずっと。いい子ぶりやがって)

 弘志は、典子の「健気な」言葉が本当は「奪還計画」という策略の一環として発せられたものだなんてまったく気付かずに、本当に典子が良貴を素直に好きで気にしているだけだと思った。そして典子の期待にまんまとハマっていった。

(…てことは、俺がツバメちゃんをその気にさせて、其田から取り上げるってのはアリ?)

 男同士の友情は恋愛感情とは別物だ。それが原因で気まずくなるなんて、もちろん気持ち的にはあっても、お互いの性格を考えればみっともなくてできるはずはない。友情を失うことはないと、弘志は勝手に結論づけた。

(そうだよな、アイツだって俺から典子を取って、しかもツバメちゃんに乗り換えて捨てたわけだし。俺には多少、権利があるよな?)

『どこか寄ってく? とか、訊かないんですか?』

 弘志の胸が甘くうずいた。美恵子は失いたくないが、遥との「事故」くらいはアリなのかもしれない。

(其田には悪いけど、…典子のためにも、燕さんと俺が進展して…)

 大義名分と言い訳は、すでに十分揃っている気がした。


 弘志はすぐにその週末、美恵子を呼び出した。すっかり駅裏のハーブティーの店が「いつものとこ」になっていた。

「すっかりご無沙汰してしまいましたね」

 美恵子は夏場に弘志があまり会ってくれなかったのでちょっとすねていた。

「おまえな、一緒に海に行こうって言ったじゃん」

「私、安売りはしませんから」

「俺は海行ったってなんもしねーよ、先走るなよ」

 下心を見透かされたかと弘志が焦ると、美恵子は不思議そうに首をかしげた。

「あれ、驚いてる。なんだ、海で、なんにもしないでよかったんですか。私、泳ぎに行こうって言われたんだと思ってました。泳がないで、何もしないなら行ってもよかったな…」

 弘志もポカンとした。

「は? 何、おまえ、何が嫌で海を拒否してたの?」

「水着が見たいとか思われるの、やだなって思って。変なこと考えてないなら、海に行こうじゃなくて、海を〝見に〟行こうって言ってくれれば行ったのに」

 美恵子が残念そうに言うのを聞いて、弘志は猛然と心の中で言い返した。

(水着が見たいとか、中学生じゃねえんだから。その水着をデートの最後に脱ぐか脱がせるか、って話だ! 男なら変なことしか考えてねえよ。でも…そしたら「安売りはしない」ってことで結局アウトか。ピントはズレててもしっかり警戒してるな…さすがですよ、まったく…)

 最近弘志は、美恵子と会話が微妙にずれることが増えていた。そして、自分が実に男の子らしい何事かを考えていたことに気付いて冷や汗をかくことが多かった。

「折角免許とったから乗せてやるって言ってんのに、ドライブにも行かねーじゃん」

「車は、ちょっと、不安だから…二人だけだし」

「普通のドライブだけだよ、おまえは何を考えて…」

 弘志がドッキリして言い返そうとしたら、美恵子はぱっと恥ずかしそうに下を向いてしまい、弘志はますますドッキリした。美恵子はやがて、うつむいてもじもじしながら言った。

「一度、昔、悲惨に車酔いしたことあるから…。二人しかいないと絶対、弘志先輩が介抱することになりますよね。吐いちゃったりしたら絶対、嫌だから…」

 美恵子は子供の頃に家族旅行で車酔いして、吐くのをガマンできなかったことがトラウマになっていた。弘志の前で吐くとか、始末をさせるとか、そんなことは絶対にあってはならない。十年以上前のことが気になって、どうしても車でのデートに「行く」と答えられずにいた。

 弘志は拍子抜けした。微妙な言い回しで断られるたびにモヤモヤしたりドキドキしたりしていたのは、全部空振りだったらしい。

「え? …あ、…そ。酔うかも、なの」

(カーなんちゃらとか、ホテルに車で入られちゃったらとか、そーいう「不安」…じゃ、ないわけね)

 気まずいような表情で宙を見上げる弘志に、美恵子は目をしばたたかせて訊いた。

「なんかおかしなこと、言いました? 私…」

 海やドライブに誘う際、何も期待しない男なんているものか。それを悟られないために全力を尽くしたつもりが、美恵子にまだまるっきり男女の関係についての認識がないのを思い知っただけだった。美恵子は「好きだ」とか「付き合いたい」というレベルの男の好意には慣れていたが、「抱きたい」「ヤリたい」という欲望にさらされる経験はまるでなかった。

 弘志にはまだ、十分な勇気が備わっていなかった。もしも美恵子とどうにかなれたら…という淡い期待はあっけなく消えた。弘志は思いを振り払うようにふうっと軽くひと息ついて、美恵子に訊いた。

「ところでさ。…俺がどっかの女の子と2人で歩いてたら、おまえって、怒るの?」

 美恵子は一気に不安になったが、恋人の顔をするわけにはいかない。

「え、怒るって、なんで怒るんですか?」

「いや、妬くのかな~と思って」

「なんで、妬くんですか?」

「そりゃあ、俺を独り占めしたいから」

「え! 私がいつ、先輩を独り占めしたがったんですか? つきあってる時だって、先輩は好き放題、自由にやってたじゃないですか。私ひとりが束縛されて」

「おまえの中で、つきあってた時の記憶って、悪い方にねじまがっていってない?」

「そんなことないですよ、先輩冷たかったですもん」

「優しくしてたんだけどな~。少なくとも、今よりは」

「じゃあ、その優しさは失敗でしたね。全然、伝わらなかったから」

「いっつも、おまえって俺ばっかり悪者にするのな」

「好きでもないのに、つきあおうなんて言うからですよ」

「だって、お前がそれでいいって言ったじゃん」

「1年もたてば好きになってくれると思ってたんです」

「おまえ、1年たつ前に別れるって去ったじゃん。11ヶ月つきあってないよ、俺ら」

「じゃあ、あとひと月ふた月一緒にいたら、好きになってくれたんですか?」

「うん、間違いなく」

「嘘ばっかり」

「残念だな、俺には証明する手段はないからな」

「それが正か否か、どっちにも証明する手段はないですもんね~。良かったですね~」

「信用しろよ」

「しませんよ」

「じゃあ、例えば俺が全然カンケーない女の子と歩いてて、事実全然カンケーないんだよって言っても、おまえって俺を信じないの?」

「信じるって、何をですか? 私に何の権利があるわけでもないし、先輩が言い訳する必要だってないじゃないですか。他人だもの」

「じゃあ、怒る? 怒らない?」

「なんで怒るんですか?」

「じゃあ、泣く?」

「絶対にないですね」

 思いどおりの言葉は引き出せなかったが、弘志は「他の女の子と一緒にいても怒らない、泣かない」と約束させたぞと自分に言い聞かせた。遥とこれから何かあっても永遠に秘密にするしかない。「ただ、たまたま一緒にいただけ」でしかないから、それで美恵子に怒ってほしくなかったし、泣いてほしくなかった。

「ま、もしそんな状況を見ても、焦るな。それは俺がもてるだけ。俺が他の女追っかけてることはねーよ。だから、…安心しろ」

「何、言い訳してるんですか?」

「言い訳? なんで俺がおまえに言い訳しないといけないわけ。ユーアーフリー、そして、アイムフリーよ」

「知ってますよ。だから、なんでそんなに必死になって言い訳してるのかなって思って」

「言い訳じゃねーよ。ただ、俺、恋愛しないよって言ったじゃん。それは撤回しないし、女の子とちょっと歩いてるだけでウソツキって思われるのも、やだなと思って」

「…ふーん、一緒に歩く女の子がいるんですか。じゃあいつ何があっても…」

 美恵子は不安になったが、顔に出さないように頑張った。けれど弘志はすぐに気持ちを読み取った。

「俺をオトせる女なんて、そうそういねえよ」

「でも、何十人、何百人に一人くらいはいるでしょう?」

(まあ、おまえとかな)

 弘志は心の中で思ってから、

「ほかで見つけたら報告してやるよ」

 と言った。「ほかで」のところに美恵子への気持ちをちょっとだけこめた。

 帰りがけ、弘志は分かれ道で立ち止まり、いきなり振り返って美恵子の瞳を真正面から見据えると、

「…なあ、おまえ、俺がやらせてって言ったら、やらせてくれる?」

 と訊いた。美恵子はまっすぐ自分を見下ろしている弘志に向けて、思いっきり平手を見舞った。

「最低!」

 走って逃げていく美恵子の背中を見ながら、弘志は、

「そりゃ、そうだよな」

 とつぶやいた。


 美恵子は帰り着くなりわっと泣き出してしまった。言葉にできない動揺が体を包んで、震えが止まらなかった。枕を抱きしめてワンワン泣いた。なんで泣いているのかわからないのに、涙は止まらなかった。

 しばらくするとさすがに涙も涸れて、美恵子は枕を手放した。目が腫れるといけないので、洗面所に行って顔を洗った。

 クリスマスの時は一応脅しだったし、この前は「もしも」の話だった。でも、今日は違った。明らかに本気だった。弘志ならいいと思っていたはずなのに、頭で考えるのと直面するのは違った。

 自分の歳と、弘志の歳を確かめた。美恵子は7月生まれで弘志は1月生まれだから、今は2人とも19歳。

(…多分、早くはないんだろうな。…それとも、遅い方なのかな?)

 想像するとドキドキした。それはとっても素敵な気もしたし、自分を包む純粋無垢なガラスのカバーが壊れてしまうような気がした。きっと粉々になって、2度と元に戻ることはないんだろう。

(でも今日、あれだけ他人だとか言ってたのに、なんでいきなりそんな話になったの?)

 美恵子は首をかしげた。でも、

(それは…やっぱり弘志先輩も、いろんな意味で、怖いことなのかもしれない)

 と思って納得した。


 美恵子に対する言い訳は自分なりに済ませた。あとは良貴に伏線を張っておくことだ。弘志は少しの間、立ったまま待っていた。良貴の発見ポイントは決まっていた。

「其田ー」

「…あ、どうも」

 良貴もこの時刻は弘志とハチ合わせるのではないかとうすうす思っていた。

「あの、すみませんでした。クラブの時は…」

 メールのやりとりは多少あったが、二人が会うのは久しぶりだった。

「なんだよ、あん時。珍しいじゃん、酔ったの?」

「…多分、少し…」

「あのあと滝野川から変なメールが来たゼ。おまえと典子はどういう関係だって。なんで今さら? と思ったんだけど…クラブで滝野川にそんな話、したの?」

「いえ、…別に?」

 良貴はさりげなくしていたが、背後ではこっそりと血の気が引いた。

「そうだよなー。典子もなんでだーって言ってたんだけど。ま、別にわざわざ教えてやることでもないから、なんも返事してないけど」

「まあ、…つきあってたってわかったところで、いいんですけど」

 もしなにかそうとわかる瞬間があったとすれば、キスの時だけだ。

(店員だったら、どこから何を見てても不思議じゃないな)

 あの日のことが弘志に知れたらと思うとゾッとした。弘志に余計な告げ口をしなかった滝野川に感謝した。そして典子が何も言わなかったことにも感謝した。

「ツバメちゃんとはあれから会った? 俺、ちゃんと電車に乗せて帰したから、生きてただろ?」

「ホントに、すみませんでした。授業で会いました」

 良貴の口の端がわずかに緩んだのを弘志は見逃さなかった。

「…なんだよ、嬉しそうじゃん」

 良貴が落胆していることを想像していたので、弘志は驚いた。いささか釈然としない思いが胸に渦を巻く。

「ああ、授業の時、隣に来てくれたんで。一応、一緒に行ったかいはあったみたいです。おかげさまで…。ありがとうございました」

「あ、そう! …へえ、良かったな~」

 弘志は自分の顔がこわばるのを感じた。なんとか表情を殺した。

(へー、ツバメちゃん、しっかり其田にもフォロー入れるわけ…)

「でもさ、思ったんだけど、おまえ、ツバメちゃんのどこがいいの?」

 ちょっと挑発的に、弘志は言った。

「え、…綺麗な子じゃないですか?」

「おまえ、見かけで選んだの? らしくないじゃん?」

「そりゃあ、もちろんそれで気になったわけじゃないです。彼女に、ちょっと、感動したから…。彼女、授業の終わりに講師にいろいろ質問してたんです。いろいろとアグレッシブに疑問をもつ子で、安閑と講義を受けてるわけじゃないんですよ。やりたいことを探してて、『自分が何を知らないのかを知りたい』って言ってたんです。いろいろ知りたい、何でもやってみたい、そして自分の世界が広がってから、その中でやりたいことを探したいんだそうです」

「…ほー」

 弘志は、夢を探すと言いながらただ安閑と日々を過ごしている自分を感じて耳が痛かった。

「僕は自分のことを、夢のある人間だって思ってたんです。でも、彼女に出会って、その考え方は変わりました。僕は、僕が今できることしかやろうとしていなかった。僕には体操しかないって決まったわけじゃない。まだ、今なら迷っていても大丈夫なんだから、いろいろな世界を見て、自分の世界を広げて、それから最後に体操に戻るならそれでもいいし、新しいものが見つかるならそれでもいいし…」

 語る良貴の横顔が輝いて見え、弘志は気後れした。

(典子は、こういう感動を其田に与えることはできなかったんだろうな…)

「…そうなんだ、ハルカちゃんか、…なるほどね。おまえが帰った後結構話したけど、あんまりそういうこと、話さなかったからな。わからなかったよ」

 良貴は弘志が遥を名前で呼んだことがちょっと気になったが、遥が自分に語ったような志を弘志には話さなかったことにいくらかの優越感をおぼえた。

「それで僕は今、燕さんの世界に入りたくてこうしてるわけなんですけどね。いろいろ、昔は読まなかった本とか、読み始めましたよ」

「ふーん。俺も、じゃあ、新しい世界とか言って典子の本棚から源氏物語でも借りて読んでみようかな…」

「典子先輩は、源氏物語とか好きなんですか?」

「いや、まだるっこしいって言ってたな。徒然草とかの方がいいらしい。笑えるから」

 2人で笑いながら、良貴はふと思った。

(僕は、典子の本棚に何が並んでいるかも知らないな…)

 典子の好きなもの、例えばそんなちょっとした本の一冊にだって、良貴の知らない世界はあった。そういえば、典子は野球もサッカーも好きなのに、一緒に見に行ったことすらない。典子から何かを得ようと思わなかった。遥に先に出会って、それから典子に出会っていればもっとなにか違っていたかもしれない。でも、もう過去はすでに過去だった。

「なあ、其田」

 弘志はできるだけ重くならないように言った。

「ハルカちゃんって、ちょっと気になる存在かもな」

 わざと口調に載せた違和感は、少しだけ重い響きで良貴に届いた。もちろん遥に対して何らかの行動を起こすわけではない。ただ、愚直な友人であろうとするのをやめるだけだ。それでも、手がかりを与えておいて、何かあった際に「突然」こうなったわけではないという演出をすることは重要だ。

「…そうですか」

 良貴はそれだけ言った。不安がよぎらなくもなかったが、弘志が自分から積極的に女の子にアタックするとも思えなかったし、それに弘志には美恵子がいるからと思った。

「まー、引き続き頑張れよ。応援してるから」

 弘志の声はもう元に戻っていた。でも、弘志の声に一瞬感じた不穏な響きは、小石のように確かに心の奥に沈んでいた。

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