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22 偵察飛行


「かーさん、俺のスーツない?」

 廊下の向こうで聞こえた声に、典子は飛び上がるほど驚いた。

 8月のある水曜日、その日に典子が家にいたのはたまたまだった。その前日と翌日は遊びで不在だった。

(…わー、危ない、危ない!)

 典子はパソコンの電源を切った。弘志が行くクラブは以前皆で行ったところに決まっていた。弘志が出かけたら、少しして自分も出かければいい。

「何、着ようかな」

 典子はタンスをのぞいたが、ひと目で典子とわかるような、以前クラブに行ったときの服や学園祭のステージ衣装は着られなかった。美恵子に電話をかけて、服を借りたいと言った。いいけど、サイズが合わないよと美恵子は答えた。

 典子は、夕方遅くに弘志が「いかにもクラブ」という格好で出かけるのを確認してから美恵子の家に行き、黒のタイトスカートと黒の色っぽいビスチェを借りた。

「あとさあ、髪をテキトーに切ろうかと思ってるんだけどね。美容院に行く時間じゃないから、自分で」

 典子が何気なく言うと、美恵子はびっくりして、

「せめて私が切ってあげるよ。自分で切ったらとんでもないことになるかもしれないじゃない」

 と言った。そして新聞紙を敷いて典子の散髪会をやった。

「なんか、失恋したんだーって感じがするね~」

「何、言ってるの。取り返すための戦いでしょ」

 適当に切った怪しい髪形に整髪料をつけてまとめたら、なんだかそれっぽくなった。そして典子は家に帰り、弘志の黒のジャケットを勝手に借りた。

(ジャケット、でかい。でも、ボディ・ガードにスーツの上をかけてもらったヒロインみたいだよね)

 典子は気取って鏡の前でポーズを取って、それから眉と唇を描いた。化粧はいまだによくわからなかったから、それだけにしておいた。


 弘志は待ち合わせ場所にたどり着いてびっくりした。大学で見たときは、遥がここまで綺麗な子だとは思っていなかった。隣で所在なさげにしている良貴とはおおよそ釣り合わない…と、親友ながら思ってしまった。

 遥は極上の化粧をして、髪はまとめてアップにして、後れ毛まで見事に色っぽく仕上がっていた。服は、薄い透けブラウスの下に水着のような露出の高いデザインのワンピースを着ていた。ワンピースは黒で、濃い青の大きな花が散った柄。それとおそろいの生地の太めのスカーフをすらっとした首にキュッと巻いていた。綺麗な子は美恵子で見慣れている弘志でも、これはこれはと恐縮した。

「燕さん、きれーだなー」

 弘志にあいさつより先にそんな声をかけられたので、遥は慌てて声のした方を見た。

「あ、ありがとうございまーす」

 遥はわざとらしいくらいしっかりと目を閉じて、大きな笑顔を見せた。

 良貴は卑屈な気分になった。弘志が現れた時、もう勝負がついているような気がした。

(…燕さんは、弘志先輩とちょっと似てるのかな…)

 自分に酔ってもそれがサマになる2人の背中を見ながら、良貴はどうしても一歩退いてしまって、弘志に気を遣われてもいつの間にか少し後ろを歩いた。

(確かに典子なら僕について来てくれるだろうけど、…典子は男として弘志先輩と僕を比べることはなかったわけだから。そして、僕のことなんか簡単に忘れて…、そう、もっと、…別れたくないとか…そういうことも何もなくて…。そんなに簡単に、別れようって言われたから別れますなんてわけにいくの?)

 遥の背中をまるで典子に見立てるかのように、良貴は心の中で言葉を投げた。

(弘志先輩が魅力的なのはわかるよ。でも、…カッコいいっていう意味ではかなわなくても、僕にだってそれなりに…)

 良貴ははたと立ち止まった。自分には何があるんだろう。今までは体操だと思ってきたけれど、今後は競技に出るでもなく、他の、オリンピックを目指した経験もない人たちと「スポーツ科学」を机上で学ぶ。熱心に頑張れば、実績なんかなくても、いくらでもいい成績がとれる。

 遥の背中が良貴に何かを告げているように見えた。

『自分に何ができるかわかんないから、探してるんです』

『何でもやってみるだけですよ。自分が何を知らないのか知りたいから』

 弘志は良貴が黙って後ろを歩いているのをずっと気にしていた。遥はなかなかの強敵で、自分が主役になり、弘志が相手役になるように上手く話しつづけていた。

(こりゃ、俺は途中で帰らないとマズいな)

 軽食で腹を満たしてからクラブの入口を入ると、三十代前半くらいの従業員が、

「あれ、弘志くん?」

 と声をかけてきた。滝野川が親しくしている店員だった。

「あ、どーも。ご無沙汰です」

 弘志が挨拶すると、良貴も声をかけた。

「僕も来ました。どうも」

「お、其田くんも来てるんだ。あれー、今日は滝野川、いるはずだよ~?」

「あ、いいですいいです。会えたら話します。会えなくても、また次の機会に」

「じゃあ、ゆっくりしてってねー」

 遥は、弘志だけでなく良貴も常連のようなのでびっくりした。良貴がクラブに誘ってきたのは、背伸びしているだけとしか思っていなかった。

「なんだ、滝野川来てるのか~」

「まあ、いいじゃないですか。それに、滝野川先輩いた方が、話も早いですよ」

 フロアに出ると、水曜日ということもあってそれほど混雑はしていなかった。

「とりあえず、飲もーぜ。コレ、ドリンクチケット」

「あ、そうなんですかー。2枚ありますねー」

「まあ、ここは2枚だけどね。店によるけど」

 それぞれドリンクを手に、空いていた席に3人で座った。

「で、来たはいいですけど、私、踊れませんよ~?」

「そんなのテキトーだよ。動いてりゃいいの。な、其田」

 良貴はついぼんやりとしていた。慌てて答えた。

「ああ、そうですね。別に、審査があるわけじゃないから…」

「とりあえず、其田、踊ってたら。俺、話つけてくるから」

 弘志はさらっといなくなった。ドリンクを置いていったので、遥は弘志がそんなに長く席を外すとは思わなかった。

「…踊らない?」

良貴はやっと遥との会話を許可されて(そんな気分だった)、声をかけた。

「え、でも、江藤さん帰ってきますよ」

「じゃあ、1曲踊ったらすぐ戻ろうよ」

 良貴は遥をフロアに連れ出した。

「じゃあさ、ウチの体操部で最初にやるステップ、覚えるといいよ」

 大きなサウンドにかき消されそうになって、良貴は遥の耳元に口を寄せて言った。その時、良貴は遥に囁きながらわずかに背伸びをしている自分に気がついた。典子に囁く時は少しだけかがむくらいの背に伸びたはずだったのに、また同じ悩みが戻って来た。

 なんとか振り払って、ステップを踏んだ。サウンドの2拍分を1拍にしてゆっくりと脚を躍らせた。

「…わー、軽やかだね~」

 遥は感心した声で言った。良貴はホッとした。

「…まだまだ、こんなもんじゃないよ」

 遥は飲み込みが早かった。良貴は少しずつステップを教えた。

「うっそー、其田さん、すごいじゃ~ん!」

 遥の賛辞に良貴は苦笑した。この程度でこれだけ感心されるのは、よっぽどナメられているんだろう。

「じゃあ、1曲普通に踊ってみようよ。さっきのステップを適当に組み合わせてれば格好はつくよ。別に、こう踊るっていうのが決まってるわけじゃないし」

 その曲が終わってから一度席に戻った。弘志はまだ戻っていなかった。

「其田さん、すごいすごい。やるじゃない。さすが、通ってるだけあるね~」

 良貴は苦笑した。常連の連中だって、良貴ほど踊れる人はそういない。父親が、元体操コーチとして「体操の表現力の足しになるから」と(大ケガをするまで)個人レッスンしてくれていた。ハイレベルのクラスを辞め、一般のクラスに移ったあとも、ずっとダンスの練習は続けていた。15年以上費やして練習してきたものを、クラブの常連と一緒にされるのは心外だった。

 その頃、弘志は滝野川と立ち話をしていた。

「滝野川さん、いるってのは聞いたけど、従業員になってるとは思いませんでしたよ~」

 弘志がステージを使えないかと打診しに来たら、スタッフルームからのこのこ出てきたのは店の制服を着た滝野川だった。

「まーな、就職先もなかったから、とりあえずバイトで入った。一応、正社員候補として入ってるから、いずれはなんとかなるかと思ってさ~」

「いいんじゃないすか? 滝野川さん、こーゆー環境大好きでしょ」

「でも、客がどんどん自分より若い奴になっていくのはサムいゼ?」

 弘志はなるべく時間をつぶしたかったので、無駄話を振ってみた。

「ところで、谷口はどうしてます? もしかして、まだつかまってるんですか~?」

 滝野川は苦笑いになった。

「俺も年貢の納め時だよ。そーいう意味では、もう俺は若くない」

「そうですか、覚悟を決めましたか~」

 3秒くらい言いようのない間があって、それから滝野川は渋い顔で言った。

「…堕ろさしちゃったからな~」

「えーっ!!」

「アイツがこの春大学入ってすぐ、妊娠してることわかってさ~。やっぱ大学は出たいって言うから、生まないことに決めて。幸い、緑が親に黙っててくれたから血を見ないですんだけど、ウチの親には白状して堕ろす金借りて…これで、結婚しないなんてわけにいかねーだろ?」

「へー。で、いつ結婚するんですか?」

「さあなー。アイツまだ大学1年だしな。まあ、とにかく定職にはついとかないとな~」

 自分の打ち明け話をしたから反撃と思ったか、滝野川は弘志に、

「で、おまえは、須藤はどうよ?」

 と訊いてきた。この質問の返答はいつだって同じだった。

「他人ですって。…確かに以前つきあってたことは認めますけど、それも1年もたずに別れてますから。ホントに、今は他人」

「まったまた~」

「ホーントですって。須藤にも訊いてください。ホントだから」

 弘志は久しぶりに美恵子を「須藤」と言ったので、なんだかピンと来なかった。その感情がわずかに顔に出たのか、滝野川は訝しげな顔をやめなかった。弘志は、胸を張って、

「もー。じゃあ、典子に訊いてみてください。あいつは嘘、つけないから」

 と自信ありげに言った。滝野川は失笑を漏らした。

「弘志、おまえは甘い」

「え、何がですか?」

「須藤とおまえをシロとは認めるけど…典子だって女なんだから、嘘はつくよ。おまえ、妹、ナメない方がいいぜ」

「ナメてるなんて、あんな素直なのはいないって信用してるんですよ」

 弘志は笑ったが、一瞬、良貴との交際を秘密にしていたことがよぎった。

「そうだ、滝野川さん、今日はステージ使う予定なしですか? 其田、上げてくれませんか。いいとこ見せたいんで」

「其田、女連れなの? あいつなら折り紙つきだからいいけどさ。おまえは?」

「俺はパス。いいとこ見せたら、まずいんですよ」

「――3人?」

 滝野川は事情を即座に理解した。

「ええ、3人です」

 商談は成立した。弘志が席に戻ってくると良貴と遥はいなかった。ひとりでちびちび飲んでいると、しばらくして二人は揃って戻ってきた。弘志の姿を見ると遥はさっと良貴を離れて足を速めた。

「遅かったんで、踊りに行っちゃいました~」

「あー、いいよそんなの。踊れた?」

「其田さん、すごいんですよ~。びっくりしちゃった~」

 すぐに追いついた良貴は内心で、

(じゃあ、一体今までどう思ってたわけ?)

 と言い返していた。

「だから言ったろ、其田はウチの体操部で一番星。なにやらせてもナンバーワン」

 弘志はさりげなく良貴を持ち上げた。

「えー、じゃあ、江藤さんは?」

 良貴はカチンと来た。弘志には悪いが、体操だってダンスだって実力では格が違う。

「俺はシロート。其田はクロートだよ。レベルがそもそも、段違いなんだって」

 弘志が言うと、遥は笑った。明らかに謙遜か冗談だと思っている風だった。

(僕は実際に踊ってみせて『すごい、イメージ変わった』で、弘志先輩は見ないうちからできることになってるんだ…)

 良貴の中で、また典子の声がした。

『ヒミツだけど、弘志よりカッコよかったよ。ホント』

 自分が可笑しくて良貴は目をそらした。思い出に流されるように、あの「クラブ遠足」に来た日に典子が隠れて自分を見ていた円柱をちらっと見た。

 一瞬だけ見えた光景に良貴の表情が凍った。典子によく似た視線が、目が合った瞬間物陰に消えた。ずっと昔、片想いをしながら心の奥底で「もしかしたら」と思っていた頃のように、良貴はそれが典子であることを期待した。

「其田?」

 弘志の声で良貴は我に返った。

「あ、はい」

「10時半から、『出』ってことで」

 良貴にはすぐに通じた。遥はよくわからず、2人の顔を見比べた。

 それからも、遥が弘志の方ばかり見て話すので、良貴はカヤの外になっていた。でも良貴はさっき見かけた「典子に似た」女の子が気になっていた。

 典子は慌ててトイレに逃げ込んでいた。

(あー、びっくりした)

 慌てて逃げない方がよかったのかもしれない。髪形も違うし、今日はちょっと大人っぽい。きっと気付かれないだろう。

(いいな…。彼女、ステップ教わってた…)

 体操部の後輩たちも良貴にステップを教わった。でも、典子は先輩だったし、良貴が入ってきた次の年にはもう学園祭には出なかった。遥がとてもうらやましかった。

(綺麗な子だな…。美恵ちゃんと同じくらい綺麗かも…)

 典子はため息をついた。どう見ても勝ち目はなさそうだ。

(やっぱ、ステージ見たら、彼女も其田くんに傾いちゃうかな…。見せない方法なんて、ないよね…)

 典子は洗面台の鏡に向かって大きなため息をつき、気を取り直してフロアに戻った。もし今日何の収穫もなくても良貴のステージは見たかった。

 10時半少し前になって、良貴はさりげなくスタンバイにステージ脇へ行った。遥は弘志と二人になれて嬉しそうだった。弘志としては良貴のためにこの場で退散したいくらいだったが、さすがに遥をクラブで一人にするわけにはいかなかった。

「そういえば、其田さんって江藤さんのこと下の名前で呼びますよね。江藤さんは其田さんを名字で呼ぶのに、なんでですか?」

「んー、俺、双子の妹いるから。其田にとっては江藤先輩が2人いて、下の名前で呼び分けるしかないんだよ」

「え!! 江藤さん、双子なんですか~? 驚きました~! えー、えー、似てます?」

 遥は大げさに喜んでみせた。

「俺は似てると思うんだけどね。あんま言われないけど」

「見たい~、妹さん。遊びに行ったら、妹さん紹介してくれますか? 会ってみたーい」

 弘志は静かな笑顔を装いつつ肝をつぶしていた。

(…冗談はやめてくれ、キミのおかげで典子は失恋したんだから…)

 その時、DJが語り始めた。

「毎日やってるイベントタイム、これ楽しみに来てくれる人増えて、毎度アリ! 今日のウチのベストダンサーを引っ張り上げて見世物にしようっていう安上がりなイベント、ご協力アリガトウ! これからめぼしい人、スタッフが拾いに行くからウデに自信のあるヒトは覚悟しといてね~? …じゃ!

 今日のトップバッターは、来ちゃったら必ずステージ上げてる彼! Here We Go!」

 良貴が出ると、何人かが「おっ」と声を上げた。この小柄な少年は、皆が一度見たら覚えていた。

「其田さんのこと、なんか周りの人も知ってるみたい。有名人なんですか!?」

「ここではけっこうね。踊れるから」

 ステージが始まっても、遥は弘志に一生懸命話しかけていた。でも、次第に遥はステージに気を取られ、弘志に話しかけるのを忘れていった。

 良貴はステージの上で不思議な気分になっていた。遥のために踊りにきたはずが、スポットを浴びながら広いステージに立っていると、どこかに典子の視線を探していた。

(さっきのは…)

 やっぱり典子なんじゃないかと思った。遥のためと思って踊ったら緊張して失敗したかもしれないが、良貴は、典子のことを考えながら踊った。

「ムーンサルト!」

「後方2回!」

 勝手なリクエストが常連客の中から飛んだ。良貴は上着を放り、客席に自信ありげな視線を向けると、狭いステージの上でほとんど助走なしで簡単な空中技をこなしてウォーミングアップしてからロンダード・バック転・後方宙返りを飛んだ。口笛に背中を押されて、良貴は前方転回・前方転回・ムーンサルトを決めて締めた。

 口笛に賞賛されながらステージの階段を下りると、滝野川が店員の格好で出迎えた。

「相変わらず、手堅ぇな~」

「あれ、滝野川先輩…、あれ?」

「バイトだよ、バイト」

 次に客の中から男の2人組がステージに上げられたが、良貴の後ではかわいそうだった。良貴がステージを降りるとすぐ側に弘志と遥の姿があった。弘志が引っ張られて店員に連れて来られ、遥はそのあとをついて来ていた。

「今日は、俺、出ないって」

「出てよー、今日はステージに引っ張れる客がホントにいないんだよ。この次は滝野川に出てもらうんだから。これ、人数少ないと盛り上がんないんだよ」

 店員は弘志をステージに上げようとしているらしかった。遥が、

「江藤さん、全然踊らないじゃないですか。踊ってくださいよ。ずるいですよ」

 と店員と一緒になって弘志を押していた。

「弘志先輩、いいじゃないですか。出ましょうよ」

 良貴は声をかけた。

「3番バッターは、ウチワでモウシワケナイ! 出たがり屋のスタッフ・T! ウデの方は確かだから石投げないで~? Here We Go!」

 DJの声が響き、滝野川が店員の格好でステージに上がった。

「弘志くん、次がもういないんだって。スタッフでシメるわけにいかないでしょ」

 店員が泣きついて、弘志は良貴を見て困った顔をした。良貴は弘志に穏やかに言った。

「いっときましょうよ。僕も、久しぶりに見たいですよ、先輩のダンス」

 その直後、遥の声が良貴の胸を貫いた。

「江藤さん、出ないんですか? それじゃ私、何のために来たんだかわからないじゃないですか」

 弘志も一瞬凍りついた。良貴は慌ててフォローした。

「そうですよ、来たら踊らないと」

 そして良貴は、音楽に隠れながら、弘志の耳元で言った。

「僕1人でいいカッコしても、フェアじゃないから…」

 弘志が踊らなかったら、遥の中で弘志は良貴よりダンスがうまいことになってしまうのだろう。だったら、実際に見てもらったほうがいい。それで遥が結論するなら仕方ない。

 弘志は渋々OKした。良貴は嬉しそうな遥の横顔に掌を握りしめた。

(…今、僕のステージを見た後でも、僕は眼中にないんだ…)

 弘志がスタンバイの定位置に連れて行かれてから、良貴は遥に、

「燕さん、僕ちょっと外すから、ここにいて。終わったら弘志先輩、ここから降りて来るから」

 と言い残して消えた。遥は「其田さん」と呼び止めたが、良貴は振り返らなかった。

(なんだ、折角、ダンスの感想言おうと思ったのに)

 遥はガッカリした。

(却下とか言っちゃったけど、撤回。ゴメンナサイ。さすがオリンピック、ステキかも。カッコいいかも。…そうだよね、よく見ると、けっこうカワイイし)

 良貴に言うはずだった言葉と、言わないつもりの言葉を脳裏で転がしていると、弘志のステージが始まった。次は弘志へのドキドキするような期待に身を任せた。

 スポットに時々照らされる暗いフロアで、良貴は、ステージを見上げる客、そのサウンドに合わせて踊る客の間を縫って「典子に似た」女の子を捜していた。きっと今、もしそれが典子なら、弘志のステージを見ているはずだった。

(…捜してどうするんだろう。もう、戻ることはないのに)

 それでも、空しさが良貴の心を苛んでいた。悔しさに押しつぶされそうだった。だから典子を探していた。一周ても見つからず、やっぱり見間違いかとあきらめかけたが、もう一周だけしてみることにした。

 何歩か踏み出した途端、遠目に、目を輝かせてお兄ちゃんのステージを眺めている妹の顔を見つけた。やっぱりいた――と思うと良貴はどうしようもない感慨に掌を握りしめた。それから深呼吸をして、群れの外周を回って、典子に近づいていった。

 弘志の姿が消え、典子はステージに背を向けた。一瞬、視界にいつも追いかけていたシルエットを感じ、一度伏せた目を「まさか」と思って上げた。遠目に、良貴が自分を目指して歩いてきているのがわかった。典子は反射的にトイレへ逃げ込むと、そのままじっと時間が過ぎるのを待った。

 典子がそっとフロアに出ると、店内は元どおりのハウスが流れるダンスフロアになっていた。暗くて騒がしいホールに、人ごみにまぎれて無事出られてホッとした。

「セーフ」

 典子がつぶやいた途端、肩に手がかかった。

「…典子」

 典子は昔したように、ホラー映画のヒロインみたいに目を見開いた。

「…何やってるの…?」

 良貴はゆっくりと訊いた。典子は後ずさりしながら必死で言い訳をした。

「ゴメン、悪気はなかったんだけど、あの、弘志が今日来るみたいだったから、それで、其田くんも一緒だって知ってたから、…ゴメン、踊るの見たかったの、久しぶりに…。それだけだよ。ゴメンね。もう、帰るから…」

 良貴は典子の手首をつかんだ。典子はさらに後ずさりして、背中が壁にぶつかった。

「こんなとこにいたらダメじゃん、彼女、帰っちゃうよ…」

 典子はこみ上げてくる気持ちに飲み込まれた。良貴につかまれているのと反対の手で一生懸命涙をふいた。

「典子、…ステージ、見てくれた?」

 良貴は訊いた。典子は涙顔を上げて泣き笑いした。

「…私、其田くんを見に来たんだもん。すごく見たくて、それで、やっぱり絶対的にステキだったよ、それから、…やっぱり、大好き…」

 そう告白して、典子は慌てて良貴の手を振り払おうとした。もう良貴には他に好きな人がいて、だから、好きだなんて言ってはいけなかった。でも良貴の腕は典子の力で振り払えるほど弱くはなかった。良貴はつかんだ手首をギュッと引いて自分が前に進んだ。

「…どうなのかな。弘志先輩より、僕は、…どうなのかな」

 典子を壁に押し付け、良貴は必死に訊いた。遥が弘志のほうを向いていることを、良貴はもうはっきりと理解していた。

 典子には良貴の気持ちが痛いほど伝わってきた。

「弘志だってカッコいいとは思うけど…、だって、其田くんは自然にしていてステキなんだもん。弘志はもてようとして、気を引いて、もててるだけだもん。私、兄妹じゃなくても、弘志じゃなくて其田くんを選ぶよ。其田くんは正直な人だから、優しくて穏やかで、だから私は其田くんが好きだよ。弘志なんか関係ない。比べるようなこと、言わないでよ」

 今、こうしてどんなに想いのたけを伝えても、良貴の気持ちはここにはない。そう思うと心が凍えてしまいそうだった。典子の目からまた涙があふれた。

「彼女、放っといていいの? …もう行って…」

 その声が終わる前に良貴の体が力なくくずおれ、壁と腕の檻に典子を閉じ込めたまま半ば強引に唇を重ねた。そしてゆっくりと唇を離して、逃げるように顔をそらし、良貴は「ゴメン」と言って人ごみに戻っていった。

 典子はドキドキしながら壁にもたれていた。

(…そんなのって、残酷すぎる…)

 心の中で責めてはみたものの、涙は嬉しさにかわっていた。典子は涙を拭いて、夢見心地で店を出た。

 良貴は打ちひしがれて少しふらふらした足取りで歩き回り、やっと弘志と遥を見つけた。

「其田ー、おまえ、何やってたんだよ~」

 弘志が寄ってきて、遥はその後ろでじっと立っていた。良貴は力なく弘志を見上げた。

「すみません。ちょっと気分が悪くて…」

 そう言ってうつむくと、わずかに弘志に頭を下げた。

「すみません、燕さんをお願いします。僕ひとりで帰らせてください。あんまり、カッコ悪いとこ、見せたくないから…」

 そして、戸惑う弘志を肩ですいとやり過ごし、奥にいた遥にも、

「ちょっと、ゴメン。…また、今度」

 とだけ声をかけた。

 良貴はひとりで店をあとにした。酔ってもなければ気分も悪くなかった。ただ自分が情けなかった。

(僕は何をやってるんだ? 典子に、なんでキスなんかしたんだ?)

 典子にそこにいてほしかった。典子が今でも自分を想っていることが何よりの救いで、ただ自分のものでいてほしかった。

 少し頭が冷えてみると、遥を弘志と2人っきりで残してきたのはいい気分だった。弘志には美恵子がいる。遥が何を仕掛けたって、空振りするのは目に見えている。

 良貴は暗い地下鉄の壁をずっと見つめながら、ひとりで長い道のりを帰っていった。

 あとには、弘志と遥が残った。

「大丈夫ですか? 其田さん」

「アイツは心配いらねえよ。でも珍しいな。今までアイツ、ああいうことって全然なかったんだけどな」

「お酒、強いんですか?」

「強いと思うけど、そもそも限界まで飲むようなタイプじゃないから」

「江藤さんは、乱れたり壊れたり、するんですか?」

「どうかな? 自分は理性的なつもりだけど、実際はひどい状態だったりするのかも」

 本当はいつだってまとめ役と介抱役で、江藤弘志が頼りにならないなんてことは一瞬たりともなかった。でも、女の子に「俺は酔うほど飲まないよ」なんて言ったら色気もないしつまらない。酒の量を意味なく誇るような男もいるが、それより隙だらけな男でいるほうが女の子に気にしてもらえることを弘志は知っていた。

「じゃあ今日、そこまで飲みます?」

 案の定、遥は思わせぶりな上目遣いを向けてきた。弘志は自分の計算が正しく機能したことに満足した。実際に女性をオトすつもりはない。自分はあくまで良貴の後見人だ。

「でももう11時半ちかいゼ。帰らないとマズいでしょ」

「門限、ないですもん」

 遥は両親と住んでいるような言い方をした。本当は一人暮らしだったが、逃げるにしても、迫るにしても、それは隠しておくと便利だ。

「終電は?」

「まだ平気です」

 弘志がどうやって遥を上手く帰そうかと思案していると、実に女の子らしい口調で問いかけられた。

「あのー、江藤さんって、結構もてます?」

 この問いは何度されても気分がいい。回答は決めてある。

「まあ、可もなく不可もない程度には縁はあるけど?」

「でも今は縁がないんですか?」

「まーね、誰かひとりに縛られたくないから」

「じゃあ、ひとりに決めてないだけで、いい人は何人もいるんですか?」

「…だからさ、その、何人も、っていう風に数えられるような線引きはしないから。みんなそれなりに仲がよくて、ほどほどに他人。言ってみればみんな友達だよ」

「ふーん、用心深いんですね」

「そういうつもりはないんだけどな」

 どう「用心深い」かだね、と弘志は思った。それは女の子たちに対して用心深いのか、遥に対して用心深いのか。

 昔はこういう会話も楽しかったが、今はできることなら、ほどほどのところで「彼女がいる」と言ってあっさり逃れたかった。けれど、美恵子は彼女ではない。「彼女はいない」と言うのは面倒の元だし、プライドの点でもそうは言いたくなかった。

「帰ったほうがいいんじゃない? 結構、派手な格好で出てきたろー。心配されるぞ」

 弘志は都内に自宅があって、親元にいる地元の友人が多いため、「門限はない」という発言から遥も自宅住まいだと認識して話していた。遥は笑顔を見せた。

「大丈夫です。それとも、江藤さんが門限ですか?」

「そんなカッコ悪いもの、ないよ。もしあっても守らないし」

「じゃあ、今日はもうちょっとつきあってくださいよー」

 遥は弘志に返事を要求しないように、そのまま手にしたグラスの中味をギューッと飲み干した。ステージを見て良貴に気持ちは揺れたが、こうしていざ弘志と2人っきりになってみれば、「やった、本命押さえた!」と思っていた。

 弘志は腹をくくった。ここは、綺麗なお嬢さんと一緒に過ごせると考えた方が賢明だろう。帰らせようと努力するのはやめて、自分の終電を逆算してリミットを決めた。遥がトイレに立った隙に、自分の財布に遥の分までタクシー代があることもチェックした。

(まさかとは思うけど、終電逃したなんてクラシックなテは使わせないからな~)

 遥が時間を引き延ばしにかかっている以上、警戒するのは男として当然の心得だ。

(でも、これって、其田が相手だったら結構簡単にオトせるんだな)

 良貴はこういう警戒心を持ち合わせないだろう。遥なら、良貴をホテルに引っ張り込むことは可能な気がした。

(其田にはこの子、ちょっとキビシイんじゃねーの? 典子みたいなのの方がいいと思うけどな、俺は)

 深夜まで男を引っ張るなんて、何事かあったらどうするのだろう。いや、何事かとやらが起こってもかまわない、恋愛的に「オトナ」な価値観だということだ。美恵子がこんな時間に、弘志とであっても、男と二人きりになんかならないのとは対照的に…。

(…つまり、俺には美恵子がちょうどいいってことか)

 結局、2人は弘志のリミットの0:15に駅で別れた。遥もまだ終電が残っていた。

「どっか寄ってく? とか、言わないんですか?」

 別れ際、遥は笑いながら弘志に言った。弘志はくわばらくわばらと思いながら、さらりと返した。

「牛丼屋かラーメン屋?」

 遥はくすくす笑って、

「まあ、太るからやめときましょう」

 と言って素直に帰っていった。弘志は平静を装いつつ、実は相当ドキドキした。

(俺、遠まわしにでも、ホテル誘われたの初めてだぜオイ…)

 もしも…と考えると、それはなかなか悪くない気がした。

(…ハタチでドーテイは、江藤弘志君に似つかわしくない気がするんだよな~)

 二十歳まであと半年を切っていた。弘志のマジメなハートにちょっとだけヒビが入った。

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