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21 協力、または罠


 弘志は早速良貴を探し出した。以前偶然見かけた時刻に同じ場所を張っていたら、すぐに見つかった。

「其田」

 弘志は声をかけた。

「あ、弘志先輩」

 良貴も少しは気まずさを解消していた。いつまでも典子のことで気を遣っているのは、友人として失礼だと考えていた。

「どう、その後、例の好きな女」

 弘志はわずかに口元に笑みを載せて訊くことができた。良貴は弘志の表情にホッとして、でも次の瞬間に自分の状況を思い出して暗い顔になった。

「…全然ダメです。きっかけも何もつかめないんです…」

「協力するゼ。そういうの。おまえ口下手だし、女の扱い慣れてないもんな」

 弘志は兄貴の顔で笑った。良貴は意外に思って少し逡巡した。

「典子がさ。力になってあげて、だって。余計なお世話かもしれないけど…典子は、おまえが幸せならそれでいいんだろ」

 良貴の胸が痛んだ。そして、不思議な気分になった。

(じゃあ、もう…僕のことは忘れたってことなのかな…)

 典子が他の女の子と自分の未来を応援してくれるのは淋しかった。とても傲慢だけれど、いつまでも自分を想っていてほしくて、そして、多分…泣いていてほしかった。

 神妙な顔をして黙った良貴の気持ちを、弘志は典子への気遣いと取った。

「気にするなよ。典子がどうこうとか関係なしに、俺自身、折角おまえがまた後輩になったんだしさ。チャンスがあれば協力するよ。少なくともおまえよりは口はうまいからな」

 弘志には、男として勝っている自信があって、それをひけらかすような気持ちもどこかにあった。良貴はそのことには気づかず、聞かれるままに状況を話していた。弘志はウンウンとうなずいた。

「だったら、話すきっかけ作って、そのあと2回話せるチャンス作ってやるよ」

「…え、どうやって…」

「定番のワザがあるんだよ。次の生物の授業のあと、なんでもいいからつかまえとけ。俺が行ってまとめてやるから」

 情けなさに拍車がかかるような気がしたが、良貴は弘志に協力を頼むことにした。今はどうにも方法がないのと、それから…弘志の後ろにやっぱり典子が見えて、新しい恋がみじめな結果に終わるのが嫌だった。

 次の生物の授業の終わりに、良貴はなんとか友人と一緒にいる遥をつかまえた。

「ノート、一部とりそこなったところがあるから…見せてくれない?」

「え、いいですよ。貸しましょうか。次の授業の時に返してもらえればいいし…」

「本当にちょっとだから、すぐに今見るよ。試験も近いから…」

 遥は快く貸してくれたものの、友人の狛江佐和子とずっとしゃべっていて、良貴につけいるスキを与えなかった。良貴はひたすら自分のノートと遥のノートを見比べていた。

「あ、いたいた、其田~」

 そのとき後ろから聞こえてきた声は、救世主にも感じられた。良貴は弘志の声の方を振り返った。

「なにやってんの、おまえ。ノート借りてんの? 誰の?」

「え、…あ、この授業で一緒の子ですけど…」

 良貴はどう応対していいのか迷いつつ言った。佐和子は良貴と知り合いでないので、やや遥の背後に隠れるような様子を見せた。

「あ、その子の?」

 弘志は遥を指さした。遥は図々しい闖入者に驚いたが、最初に思ったことは、

(…あ、結構悪くないじゃん)

 だった。

「ああ、…ええと、彼女は燕さんっていって…。この授業で一緒なだけなんですけど…」

 良貴は大した知り合いではないことを強調した。そうしなければ遥が逃げてしまいそうな気がした。

「ちょうどいいや、君さあ、般教、なにとってる? えと、燕さん? 変わった名字だね」

 遥はいきなり話をふられて驚いたが、弘志の軽い調子に引っ張られて、

「…文化人類学と…国際関係概論と…マス・コミ論と倫理学概論ですけど…」

 と答えた。弘志がぽんと手を叩いた。

「マス・コミとってるんだ! 悪いけどノート借りられないかな。俺、つまんないからマス・コミ論切っちゃったんだよね。そしたら単位危なくなっちゃってさ。マス・コミ、出席とってないじゃん。レポート出せば前期の成績つくし、絶対単位落とせないから授業聞いてるフリくらいしたいんだよね。お願い」

 良貴はあっけにとられた。マス・コミ論は去年、弘志がしっかり単位を取ったのを知っていた。「やる気のない授業で、出なくても適当なレポートで単位が取れた」と教わったが、良貴は「もっと面白い授業に出たい」と言って登録しなかった。

 弘志は突然気付いたように教室を見回し、

「もう誰もいないから、とりあえず出ようよ。この後、授業ある? 俺、留年かかってるんだよね。話の続きできないかな。明日とかでもいいんだけど」

 と言って良貴を押すと、遥を目で促しながら出口の方へ向かった。遥は佐和子に目配せして教室を出た。

「お願い、其田の友達でしょ? ここは其田に免じて、俺に貸してやってよ」

 弘志が廊下で遥に手を合わせたタイミングで、佐和子は「次の授業があるから」と去っていった。

「あ、君は? 大丈夫?」

 佐和子の背中に視線を送り、弘志はすぐに遥に目を戻した。生物の後に授業がないことは良貴がよく知っているので、遥は嘘がつきにくかった。もちろん、弘志はそれを承知で話をしていた。

「…あ、私は授業ないんで…」

「学食行かない? お茶くらいおごるけど。其田、おまえも来いよ。俺がいきなり2人っきりになろうとしてる不審人物みたいじゃん」

 良貴は「行きます」と即答したかったが、遥の目を気にして、

「…でも、僕は一応…次の授業が」

 と言った。弘志は良貴の心理と状況を素早く見て取って、

「おまえなー、ノート借りられなかったらどうしてくれるんだよ。おまえと同じ学年になるのはイヤだゼ?」

 と良貴を引き止めた。

「2年生なんですか?」

 遥は弘志に訊いた。

「ん、2年だよ。社会学専攻の2年」

 遥の表情がぱっと変わった。

「私も社会学専攻ですよ。じゃあ、専門の講義のノートだったら逆にお借りできるんですね」

「あれ、そういや俺名乗ってないじゃん。ゴメン。江藤弘志です。よろしく。…えっと、スズメじゃなくて」

「燕です」

「ツバメさん。とにかく学食行こうぜ。立ち話、しててもしょうがないから」

 弘志はしっかり3人で学食にしけ込むことに成功した。好奇心の強い遥は、初対面の「悪くない」男の子を偵察してみよう…くらいの気にはなったし、「其田の友達でしょ?」と言われて、本人を前にして「違います」とは言いにくかった。弘志の言い方にはそんな小細工が各所に施してあった。

 学食でコーヒーを買った。遥のコーヒー代は弘志が払った。良貴が何か言いそうだったので弘志は良貴に渋い顔でウインクを投げた。

(コーヒーの100円くらいで、チャンスをぶち壊すなよ。今は、俺がノートを借りる話してるんだから、俺がおごらないとおかしいだろ)

 弘志はこっそりと呆れたため息を吐いた。

 3人で座ると、弘志が手短にノートの話を済ませた。

「来週、生物の授業の時に其田にあずけてもらってもいいんだけど、それでさらに返すとかやってたら試験期間になっちゃうから、2、3日中くらいに、昼休みに持ってきてもらえないかな」

「…あれ、マス・コミの講義には出ないんですか?」

「えー。折角ノート借りられるアテもできたし、レポート出せば何とかなるのわかってるのに、なんで出るの?」

 遥は弘志の言い草に呆れた顔をして、それからくすくす笑った。

「だって、人にノート借りようっていうのに、ひどいですよ」

「マス・コミ5限なんだもん。出たって、絶対寝るよ。絶対ヤダ。お願い、ノートだけ貸して。特定食おごるから」

 弘志は甘えるように言って手を合わせた。

「えー、特定食だけですか~?」

 遥も少し甘えるような、からかうような声で返した。

「じゃあ、特製プリンつける。そしたら、前期のあと2回の講義の分も貸してよ」

 良貴はひっそり驚いた。これで、何回会える算段がついたんだろう。

「あ、そういえば燕さんは高校、どこなの?」

 そのまま弘志は強行トークに突入した。

「え、十字学園女子高校です」

「へー。あそこも結構お嬢さん学校だっけ?」

「え、全然ですよ~」

 弘志は良貴を気づかって話に巻き込んだ。

「俺らは、高校が一緒だったんだよね。都立千加川高校、知ってる?」

 遥の視線が弘志の指先に導かれて良貴に向いたが、良貴がそのまま聞き役の顔をしていたので、弘志が先を続けるしかなかった。

「たしか十字学園って、ウチの隣の駅じゃなかったっけ?」

「あ、そうですー。千加川って、都立の中ではトップの方じゃなかったですか?」

「一応、都立ではトップクラスだよ。謙遜なんかしないよ。変に謙遜したら、同じ和佐田の君も大したことないことになっちゃうから」

「そうですよね、よくいますよね、大したことないよとか言って、同じ学校だったりする奴。大したことなくてゴメン、みたいな」

 遥は気持ちよさそうに笑った。なにか心当たりがあったらしい。

 良貴は時々弘志の足にこっそりつつかれていた。話に加われということらしい。でも、入るタイミングも、きっかけになるセリフもうまくつかめなかった。

「それで、お2人は高校の何で一緒だったんですか? 部活ですか?」

 遥の方が乗り出してきた。良貴は忸怩たるものを感じた。弘志と自分と、この差は一体何なんだろう。足がまたつつかれたが、ここでいきなりこれ見よがしに参加するのも恥ずかしい気がした。今まで弘志と遥が盛り上がっていたのに、あまりに唐突すぎる。

 ちらっと良貴の方を見て一瞬渋い顔をして、弘志が答えた。

「うん、部活。何だと思う?」

 遥は弘志と良貴を交互に見て、「うーん」と考え込んだ。

(其田さんだけだったら、卓球とか…。でも、江藤さんは卓球じゃないよね。バスケとかかな。あ、でも其田さんが身長的に、バスケはないか)

「ヒントとか、ないんですか? 結構メジャーな部活? 運動部ですよね?」

「うん、運動部」

「メジャーかどうかは?」

「…そこは微妙だな~。其田、メジャーかな。どうかな」

 やっとこれなら良貴も入れそうだった。

「あんまり、運動部って言ってすぐにイメージできるところじゃないですよね」

「そうだよな~。みんな、バレー部とかバスケ部とか、野球部とか考えるもんな」

「じゃあ、マイナーなんですか?」

 遥の質問に、今度は頑張って積極的に良貴が答えた。

「マイナーかなあ。僕は、どこの高校にもある普通の部活だと思うんだけど…」

 遥はさんざん悩んだあげく、

「…バドミントン、とか」

 と答えた。

「んー残念」

 弘志が言って、良貴の足を蹴った。良貴は慌てて口を開いた。

「…あのね、体操部なんだよ」

「えーと、…新体操じゃなくて、宙返りとかやるやつ…だよね」

 遥はあまり体操にはなじみがないらしかった。

「うん、そう。床とか鉄棒とか、女子だと平均台とかやるやつだよ」

 良貴はやっと自分のついていける方面に話題が来たのでホッとした。弘志は良貴の肩にポンと勢いよく手を置いて、

「こいつ、すげーんだゼ。昔、オリンピック目指してたの。金メダルまであとちょっとだったんだぜ~」

 と大げさに言った。良貴は気が引けて、肩をすぼめた。

「えー? オリンピックって、体操で? うそー!」

 遥の目がいきなり輝いた。良貴は気まずくなってフォローした。

「…いや、ケガして、リタイヤしちゃったんだよ。だから、結局、高校に入ったときにはオリンピックなんて関係なくなってたんだ」

「えー、そうなんだー。残念だったね~。でも、やっぱりすごいよ~」

 遥の態度は明らかに変わっていた。弘志がダメ押しをした。

「高校の部活にそんな奴が入ってきちゃったじゃん。もう、いきなりレベル上がっちゃってさ~。1年の時から大会に其田を出すかどうかでモメる騒ぎで、出たら大会の団体戦、19位からいきなり3位だよ」

 遥は感心して良貴をじっと見た。良貴は目を上げられなかった。そんな調子で延々と他愛ない話をしていたら、講義終了のチャイムが鳴った。遥は次に5限があった。

「ノート、忘れないでよ~?」

 弘志が念を押すと、遥は振り返ってお辞儀をした。途端、弘志が、

「あ、いけね、忘れてた」

 と言って遥を追いかけ、何か言って戻ってきた。

 遥が行ってしまってから、良貴は弘志に訊いた。

「今、最後になにを言いに行ったんですか?」

 弘志はニカッと歯を見せて笑い、

「…それは、ノート借りられたらな」

 とはぐらかした。弘志と良貴は帰途についた。

「おまえな~! 話に加われよ! 体操の話以外は全然口出さないでさ~」

 弘志は良貴の背中を思いっきり叩いた。

「すみません。でも…弘志先輩、よくそれだけいろいろ話が尽きませんね…」

 良貴は苦笑した。その様子に、弘志のほうがもっと苦笑した。

「あのなー。決まってるの。大学で知り合ったら、受験した時の話、般教の話、高校の話、高校の部活の話。これで数時間もつの。会う口実はノートに決まってんの。おまえだって、今日彼女にノート見せてもらって時間稼いでたじゃん」

「じゃあ、僕がノート見てるとはじめから思って、話の展開考えてきたんですか?」

「おーいおい。事前に決めてたのは般教のノートをダシにしようってことだけだよ。あとは全部テキトーに、その場でやるんだよ」

「…はあ…。そうなんですか」

「だから、俺の方からは般教の科目名言わなかったじゃん。どうせ1つは人気科目とってるから、自分も去年とってて勝手がわかってる奴、しかも一番都合が良さそうな奴をネタにすれば、どうにでもなるし」

「出席とってないとか、レポートでいいとかの詳しいことは、去年のまんまですか?」

「どうせ今年も同じことやってるよ。奴ら、どうせ講義に工夫なんかしないんだから」

「留年の話もやっぱり嘘ですか」

「あたりまえじゃん。去年、単位一つも落としてねーよ」

 良貴はそういう会話術を身につけたいとは思わなかったが、弘志が親友だったことには大いに感謝した。

「…弘志先輩は、不思議な人ですね」

「え? なんだよ、唐突に…」

「その気になれば、女の子、好きなだけひっかけられそうなのに、すごくマジメですよね。遊び人じゃないってちゃんと知らなかったら、今日の彼女との話を見て、呆れてたかも…」

「おいおい。そんな感覚だからモーションかけても重いんだよ。重いのは、相手も退くって。ついで、みたいな顔してた方が、あっちも楽でいいんだよ」

「そうですね…。多分そうなんでしょうけど…」

 良貴は静かに言った。

「弘志先輩がいなかったらダメだったかもしれないけど、これで弘志先輩がノートを返す頃には、2人で話ができるよう、重くても真正面から努力します」

 弘志はまた、兄貴の顔になった。

「そりゃ、そうだよ。おまえはおまえでいいんじゃねーの。それで、こーいうときのために俺がいるんだと思ってくれよ」

 2人で笑っていろいろな話をしながら帰る道のりは、高校時代と同じ空気が漂っていた。典子のことでしばらく漂っていた緊張感がなくなって一番ホッとしたのは、良貴ではなく弘志のほうだった。


 水曜日に講義がないので、火曜日の放課後は、遥をはじめ社会学専攻の悪友たちが集まって結構遅くまで恋愛談義をするのが定例になっていた。5限がクラス単位の必修の授業だったから、いつもそのまま流れて駅裏にある喫茶店「AndoA」にたむろしていた。

 その喫茶店の席は人の肩の高さくらいまである植え込みで仕切られていて、ボックス席のようになっていた。その閉ざされた空間が秘密基地みたいで居心地が良かった。

 佐和子は遥に、

「ねえ、例の生物学の人はどうなの?」

 と訊いた。みんなが、

「え、なに、なに」

 と乗り出してきた。遥は幾分ご機嫌になりつつも、困った口調で答えた。

「般教の生物の授業で、よく声かけてくる人いるんだよね。別に、私はパスなんだけど…、向こうはちょっとなんか、考えてるかも」

「えー、あれは絶対、狙いだよ」

 と佐和子が追及した。友人たちの興味はまず、この質問からだった。

「かっこいいの?」

 遥は苦笑いした。

「私とほとんど身長変わらなくて、いつもチェックのシャツとか着てて、髪とかも普通に切ってるだけの、地味でマジメそうな人」

「…うーん、ビミョーだねえ」

「で、どうすんの?」

「別に、般教で一緒なだけだし。あ、でも思ってたよりはイイらしい。なんか、体操でオリンピック目指してたんだって。そうは見えなかった~。ちょっとすごいよね」

「すごいね。でも、それって過去形なんだ?」

「うん、なんかね、ケガしてリタイアしちゃったらしいよ」

「へー。でも、それだけじゃね」

「まーね。過去の栄光でしかないけど」

「でさ、遥、それが却下だったら、どうすんの。アンタ大学で見つけるって言って、もう前期終わっちゃうよ?」

 遥はそんな質問ににっこりと笑って答えた。

「…んー、でも、ちょっとイイかな? みたいなのは見つけたよ。佐和、今日、生物の時、ノート貸してって言ってきた人いたじゃん」

「あー、まあまあていうか、結構悪くなかったよね」

 佐和子も弘志のことを覚えていた。遥は友人たちに宣言した。

「あの人いいよ。頭の回転速いし。話してて楽しいし。ちょっと遊んでるかもしれないけど、もてるんだったらいい男ってことでしょ。目下のイチ押しはあの人にする」

 遥は高校3年の時、半年にわたって男2人にはさまれていざこざして、卒業を機にきっぱり清算した。大学でいい男を見つけるつもりだったが、チェックした男にはみんな彼女がいた。めげずにフリーのいい男を捜して頑張ってきたが、前期も終わりを迎えてやや消沈気味だった。弘志はそんなタイミングにうまく入り込んでしまった。

「今度の人は、きっと彼女はいない。うん。頑張るぞ~」

 遥は気合いを入れた。恋をしていないなんて格好がつかない。カレシがいないなんて淋しい。だから、遥は弘志をターゲットに定めた。


 木曜日、昼休みの学食の前で遥が立っていると、良貴が先にやって来た。弘志に「ちょっと先に行って2人でしゃべれ」と言われていた。

 遥は良貴の姿を見て、

(あれ。今日は其田さんには用はないんだけど…)

 と思った。

「…あ、まだ弘志先輩来てないんだ…」

「まだだねー。特定食おごりたくなくて、逃げたのかなー」

 遥は社交辞令程度の冗談を言った。良貴は何を話そうか迷った。意識すればするほど、何を話していいかわからなかった。

「其田さんは、学食のメニュー何が好き?」

 遥の方が沈黙に耐えきれずに話しかけてきた。

「ああ、いつもサービスランチか日替わり定食食べてるんだよね…」

 良貴は正直に答えた。両方とも日替わりメニューだった。

「もー、それじゃ話にならないじゃない。じゃあ、サービスランチと日替わり定食の中では何が好き?」

 一生懸命話さないとなかなか会話が続かない気がした。遥は春に良貴に声をかけたときのことを思い出していた。良貴は、ていねいに答えはするが、答えが端的すぎる。

(最初の頃やたら話が続いたのって、私がしゃべってたから?)

 10分ほど遅れて、弘志がやって来た。

「ゴメンなー。講義、今までかかったんだよ」

 開口一番で、弘志はハッタリを言った。本当のところは、良貴を送り出してから購買部で時間をつぶしていただけだった。

「で、特定食な。今日は何?」

「うなぎなんですよね。なんか、この暑いのに、食べられるかな」

「暑い時に食うんだろ? うなぎ」

「男の人はいいかもしれませんけど、あんまり女の子で夏にがっつりうなぎ食べてる人、いませんよ」

「男は、夏だからまぐろでゴメン、じゃ済まないからな」

 弘志はさらっとさわやかに言った。単純に食べ物としてのうなぎとまぐろの話ということにして流そうか、それともそういう冗談ととって笑うか突っ込むかしたほうがいいか、遥は瞬間悩んだ。その途端に弘志が食券を2枚手にして、

「買っちゃったよ。特定食」

 と遥を振り返った。

「あー、他のものにしてもらおうかと思ったのに!」

 遥は弘志の元へ走った。良貴も食券を買ってあとを追った。

 良貴が追いつくと、2人はまぐろの話をしていた。

「江藤さんは、夏、まぐろはナシですか? 目の前に出されちゃったらどうするんです?」

「まぐろはまぐろで、いいよね、アッサリして。それに、料理のウデ次第でどうにでもなるんじゃない?」

 2人の表情には少し怪しげな笑みが浮かんでいて、良貴にはそれが男女の含みのある冗談なのか、本当にまぐろの話なのかはかりかねた。

 遥は弘志の様子を横目でのぞき込み、男性としての資質や本性を探ろうとがんばっていた。そこに良貴が来たので、面白半分で、

「其田さんは、まぐろ好き?」

 と訊いてみた。良貴は一瞬動転したが、もしそれが男女関係ネタ的なジョークだとしても自分はしらばっくれるべきだと判断して、

「まぐろ? 刺身の話でいいのかな」

 と真面目な顔で言った。遥は笑いをこらえながら、

「煮魚の話でもいいよ」

 と言った。

「うーん、そうだね、魚の中では好きなほうかもしれない」

「そう」

 遥はあははと大笑いして、弘志の後を追いかけて歩き、弘志の正面に座った。

(其田さんは絶対、童貞。江藤さんは、真面目な人なのか、遊び人なのか…)

 遥はうな重のごはんだけを半分残した。

「あと、プリン」

 弘志が言うと、遥は勢いよく顔の前で手を振った。

「もう食べられません」

 弘志は嬉しそうに笑った。

「やった、出費が減った」

 遥はすぐに伸び上がって言い返した。

「ダメです。ノート返すときに、プリンですよ」

 昼休みの終わり際、遥はやっとマス・コミのノートを出した。

「…あの、答えは最後のところに書いてありますから」

 遥はやや意味深な表情で弘志を見返して、足早に去っていった。

「さーて、運命の扉」

 弘志は遥のノートをめくった。

「何ですか?」

 良貴は弘志の手元をのぞき込んだ。

「『深い意味はないけど、カレシいるの? 答え、ノートにでも書いといてよ』」

 弘志は遥に訊いた時と同じ言い方で良貴に言った。パラパラめくると白紙のページになったので、弘志は手際よく戻して、書いてある中で最後のページを開けた。

『問の答え:いません。募集中です』

 弘志は満面の笑みをたたえた。

「其田、よかったな。あの子に男いたら空しかったじゃん。訊いてなかったんだろ?」

「あ、…はい、訊いたら、僕の気持ちがわかっちゃうんじゃないかと思って…」

 でも、良貴は暗い気分を振り払うことができなかった。遥は昼休みの間ずっとですます調で話をしていた。ノートの「問の答え」もですます調だ。

(…弘志先輩に向かって話してる)

 席だってそうだ。遥は弘志の正面をとった。

「…あの、でも、ありがとうございます。彼氏がいないってわかったのは、収穫でした…」

 良貴は弘志に心からのお礼を言ったつもりだったが、心のどこかが冷たくとがっているような気がした。弘志は良貴の表情には気付かず、叱咤した。

「おまえなー。次は、俺がノートを返すって名目でプリン食うだろ。その時にはデートに誘えよ。俺は早々に外れないとイミないだろ」

「え、でも…。いきなり2人っきりになろうとすると警戒されませんか?」

「俺がいたんじゃ邪魔だろ」

「でも、会話とか…。典子先輩とは部活とかゲームのことで話もできましたけど、彼女とは…話題が探せなくて」

「あのな。おまえはツバメちゃんを選んだんだろ。もっとなんとかしろよ」

「なんとかですか…。彼女、どういうところに誘ったら喜んで来てくれると思いますか?」

「相手が喜ぶところもいいけどさ、おまえがいいカッコできるところに行ったら? 口説くかわりに」

 良貴は首をかしげた。弘志は人差し指を立てて、

「クラブ行きゃいいじゃん。踊れよ」

 と言った。

「え、でも」

 クラブ自体は滝野川に連れて行かれてから何度か体操部の男同士で行っていた。弘志と良貴は2人で行くこともあった。例の滝野川の行きつけのクラブではもう顔を覚えられていた。

「…大学1年の子をいきなりクラブに連れて行ったら、不良への手引きをするみたいで、まずいんじゃないですか?」

「いいじゃん、新しいこと好きな子なんだろ? クラブなんて縁がない子は永遠に行かないし、社会勉強とか言って誘えば。ステージに上げてもらって、いいとこ見せとけよ」

「…あの…弘志先輩も来てもらえないですか?」

 良貴は思わずそう言っていた。

「おまえなー。…うーん…。とりあえず3人で行って、あとで俺が抜けるか」

 弘志は遥の好意が自分に向いて来ないうちに疎遠になりたかった。良貴を裏切りたくはなかったし、典子の言ったとおりにちゃんと応援してやりたかった。

 果たして、プリンの日、良貴はなんとか、

「…あのさ、クラブとかって、行く?」

 と自分から切り出した。

「えー? クラブ? 行ったことないけど…。なんか、怖くない?」

「燕さん、好奇心旺盛なほうだって言ってたよね。クラブ行ってみない?」

 弘志は良貴の横で、できるだけ関係ないふりをしていたつもりだったのだが、遥はあっさりと、

「えー、この3人で、ですか?」

 と弘志に向かって言った。良貴の胸にその声が刺さった。弘志は仕方なく言った。

「まあ、引率してやってもいいよ」

「そういうところって、どういう服装していったらいいんですかー? 全然わかんない、悩んじゃうな」

 あっけなくOKの流れになって、良貴は拍子抜けした。気負った自分が間抜けに見えた。

「じゃあ、来週から試験だから、夏休みに入ってから行こうよ」

 良貴が言うと、遥は、

「いいよー」

 とあっさり笑顔になった。そこですかさず弘志は、

「じゃあ、連絡先、教えといてよ」

 と言った。良貴のことだから、連絡先も聞かずにこの場で日時と待ち合わせ場所を決めてしまうのではないかと思った。

「え、じゃあお2人のも教えてくださいよ~」

 遥としては弘志の携帯番号が知りたかっただけだが、ここは2人を相手にしておかないといけない。

 弘志は「あんまり女の子に教えたくねーな」と思ったが、この際仕方がなかった。美恵子だって彼女だったから教わっているだけで、弘志の携帯番号は、女の子にとっては典子経由でも手に入れることのできないプレミアものだ。そんな事情を知っていたから、良貴はどうしても心配そうに弘志を見てしまった。遥はその様子にしっかり気がついた。

(もしかして江藤さんって女の子にあんまり連絡先教えない人? 江藤さんも私狙いとか? 困るな~)

 男の子が自分を巡って争うのは悪くない光景だ。遥は心が弾んだ。高校時代の反省はあまり生かされていなかった。

 学食を出てすぐ、遥は弘志に訊いた。

「江藤さんは彼女いないんですか? 自分だけ訊いて、ずるいですよ」

 弘志は良貴を気遣ってやや焦ったが、うかつな態度もできなかったし、こう答えるしかなかったからすぐに答えた。

「いや、いないけどさ」

 遥はニコッと笑顔になり、また颯爽と、ツバメのように去っていった。

 良貴は自分が同じことを訊かれなかった理由を噛みしめていた。弘志は、

「其田、クラブでいいとこ見せようぜ」

 と声をかけることしかできなかった。

「そうですね。頑張らないと…」

 弘志を相手に勝ち目があるかはわからなかったが、良貴は、少なくとも自分に対する遥のちょっとナメたような態度だけは変えさせてやると思った。

『其田くん、頑張って!』

 良貴の心に一瞬典子が蘇った。忸怩たる気持ちや悔しさから立ち直る時、いつも典子の声を思い出していたから、別れたのに久しぶりにそのクセが出てしまった。でも、その声は今は古ぼけて淋しくて、どこか苛立たしかった。


 弘志の部屋にノックがあって、妙にニコニコした典子が顔を出した。

「なんだ、変な顔して」

「弘志とおんなじ顔だよ」

 弘志がそのままパソコンをいじっていると、典子はちょこちょこと入ってきて、弘志のベッドにプールみたいに飛び込んだ。

 典子は、

「ねー、其田くんどうしてる?」

 と訊いた。嬉しそうな顔は平気を装うための芝居だった。

「…なんだ、やっぱり気になるか?」

「そりゃあ、気になるよ。今其田くんが幸せなのかどうか…。私、祈ってるんだから」

 弘志はちょっと不安になって典子の顔を見つめた。

「ホントに?」

 そう訊くと、典子は少し困ったような顔をした。

「まあ、本音を言えば美しい気持ちだけじゃないけどさ。でも、やっぱり気にはなるよ」

 実は大半が美しくない気持ちだった。けれど弘志は、まさか典子の言葉が大半「奪還作戦」のための計画だなんて思わなかった。

「そうだよな、ちょっと恨んだりする気持ちがあるのはしょうがないよな。それでも、頑張ってるのは偉いよ」

 弘志はそう言って目を細めた。心根の美しい(と、弘志は思った)妹がいとおしかった。

「で、どうよ。其田くん」

「…うん、どうもなあ…」

 言い渋った弘志の言葉に、典子は多大なる期待を寄せた。

「彼女、フリーなんだけどさ。其田じゃ勝ち目がないくらい普通の、今時の子でな~」

 典子は上手に消沈した顔を作って、

「…え、じゃあ、あんまりうまくいってないんだ」

 と言った。そして、「ゴメンね、弘志」と心の中で謝った。

「彼女、どっちかっていうと俺の方に興味があるみたいでな~…」

 典子は弘志の言葉に思わず、「え!」と明るい声で言ってしまった。

「おいおい、喜ぶなよ」

 弘志は驚いた。典子は慌ててつくろって、

「ゴメン、一瞬だけ其田くんが好きな江藤典子に戻ってしまった。もとい、そうなんだ…」

 典子だってまさかこんなに早く、しかも本当に思惑通りにことが進むなんて思わなかった。でも、その「例の女の子」が良貴に好意を持たなかったことには腹が立たなくもなかった。

「だからさ、其田に、『いいカッコしに行け』って言ったんだよ。3人でクラブ行くことにした。まあ、そこで頑張ってもらうよ。あ、典子、美恵子にこんな話するなよ。俺、其田の付き添いだからな」

 弘志が必死で訴えた後半部分は、まるっきり典子の耳に入らなかった。

(…クラブ行くんだ。…其田くんのダンス、彼女、見るんだ…)

 典子は胸が深く痛んだ。良貴を奪還するために戦おうと思い始めてから、初めての鋭い痛みだった。

(ダンス見たら、絶対カッコいいから…きっと、何かは変わるね…)

 自分が感じたときめきを他の女の子が感じるのかと思うとつらかった。良貴がその彼女のために踊るのもつらかった。けれど、典子は努めて明るくふてくされて見せた。

「いいな、私も全然見てないのに。いつ行くの~? ずるいよ。私、物陰から見に行くから教えてよ~」

「夏休み入ってからだし、まだ日付決めてないんだよ。…決まったら、教えようか?」

「えっ…いや、冗談だよ!」

 弘志の意外な言葉に典子は思わず否定の答えを返してしまい、直後にものすごく後悔した。

「そっか、冗談か。ゴメンな」

(え、あの…。クラブ行く日、決まったら教えて…)

 典子は何度も口の中で言い直したが、とうとう何も言えずに自分の部屋に退散した。

(弘志も、どこか変だとか思わないのかな!)

 でもとにかく良貴の新しい恋はうまくいっていないようだ。思惑どおり、弘志のほうに気持ちが傾いていることもわかった。

(あとは、其田くんが今、私のことをどう思ってるか…)

 多分それが最大の問題だと思いながら、典子はクラブ潜入の方法を考え始めた。弘志がクラブに行くときのいっちょうらを別のところに仕舞い込んだら、当日に服のありかを訊かれるかもしれないと考えた。

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