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20 過去と未来


 良貴は、遥に声をかけようと思って教室の後ろの方に陣取った。遥は1人で教室に入ってきた。どうやらいつも一緒の子とは教室で合流するらしかった。

「燕さん」

「あ、其田さん、お久しぶりですね~」

「隣って、あいてる?」

「…友達、来るんだけど…3人で座ります?」

 遥の上目づかいは良貴を歓迎していなかった。

「あ、それならいいんだけど…」

 良貴は話題を変えた。

「それからさ、なんで僕にですますつけるの? 同じ学年だよね」

「そうなんですか。般教だと2年生ってこともあるから、私、授業で知り合った人ははじめのうち必ず2年生扱いすることにしてるんです。タメ口きいてから2年だったら気まずいから」

「僕、1年だよ。普通にしゃべってよ」

「なーんだ、じゃあそうするね」

 あまりに簡単に切り替えられたので、良貴はかえって変な気がした。

「…でも、今まで其田さんって言ってきたから、いまさらちょっと、其田くん、とか言いにくいな~」

 明るく元気な「其田くん」という響きに典子のことを思い出して、良貴は一瞬ドキッとした。その「ドキッ」が顔に出てしまい、遥は自分がくん付けしたことで良貴がちょっと「ときめいた」のではないかと感じた。

「…其田さんは其田さんのままでもいい?」

 遥の心に警戒信号がともった。別に、はじめから良貴に好意を示して声をかけたわけではないし、2人っきりで話し込んだことだって大した意味はない。

「え、なんでもいいよ」

 良貴が戸惑いながら答えたとき、ちょうど遥の友達が入ってきた。

「あ、佐和~」

 遥は大きく手を振って、友人が来たことをあからさまに良貴に伝えた。

「あ、じゃあ…」

 良貴は自分の座っていた場所に戻った。

 遥にしてみれば、良貴に話しかけた時の相手は誰でもよくて、そうして知り合うことに特別な意味など何もなかった。

(其田さんって冴えないマジメ系の人じゃん。服のセンスも「ただ着てるだけ」って感じだし、私とほとんど背も変わらないし。とりあえず、却下だよね)

 遥は残酷な冷静さで思った。

 それから何度か、良貴は遥に声をかけた。でも、そのたびにうまい口実で逃げられ、友達を理由に去られてしまった。


 弘志は、大学やオレラの女の子に恋愛的な気配をもたらされても、どうも食指が動かなかった。高校の時までは女の子が真剣勝負をかけてきたが、大学に入ったら男女関係はどこか実務的になった。好意を示して、反応がいまいちなら「可能性なし」と見て他のターゲットに移る。弘志はその様子を見て、滝野川が体操部で見せていた態度は大学生ならありがちなことだったんだなと思った。「彼女がいる・いない」という現実が、「相手を好き・嫌い」という恋愛感情より優先された。なんだか空しくて、自分がその一員になりたくなかった。

 良貴が大学の誰かに恋をしたことで、弘志にとって良貴に「知らない部分」「踏み込めない部分」ができた。そして、良貴と別れた典子が少し大人になったような気がした。周りでいろんなことが変わっていく中で、高校時代、自分が一番楽しかった頃と変わらない存在でいてくれるのは美恵子だけだった。

 弘志はもう一度、美恵子と恋人同士に戻ろうかと考えることが多くなった。けれど、恋人という肩書きになることで、またいつの間にか心がすれ違ってしまうのが怖かった。

 ただ、弘志も十分そういうお年頃で、美恵子に少なからずある種の欲望を感じていた。その悩みを打開するには「他人」という肩書きを変えなければならない。弘志は過去を守るか未来を拓くか悩みに悩んでいた。

 弘志の揺れる気持ちに、美恵子はちっとも気づかずにいた。美恵子としては復縁なんていつでもウエイティング状態だったし、そうなったらもちろんキスで終わりだなんて甘い考えはもっていなかった。

「あー、そういえば、この前行っちゃいました。合コン」

 美恵子は話しはじめから苦笑いになった。弘志はちょっとだけ気になったが、美恵子がこうしてデートに応じているのだから大丈夫なんだろうと思った。

「東大生ですよ。全員。ずらっと」

「騙りじゃねえの?」

「ホンモノですよ。大学名で話つけてるんですから。こっちはちゃんと全員セリスだし。暗黙の契約みたいなのがあるんです。欺いたら、次はないぞ、みたいな」

「はー。女子大の連中は、大変だな~」

「ホント、大変そう。よくやるなー、って思いました」

 他人事のように話す美恵子を見て、弘志は心の中でウンウンとうなずいた。

「で、おまえはちゃんと言っといた? カレシいるからダメって」

 自分たちの関係をどうしようかなと思いながら、弘志は訊いた。

「何言ってるんですか。彼氏なんかいないから、ひどい目にあいましたよ」

「お、それなら俺をカレシに戻しとくか?」

 弘志は半分本気だったが、美恵子は弘志をにらんで、

「なんか、そうやって調子いいこと言う人がいっぱいいて、もう、サイアクでした」

 と言い返した。弘志は美恵子を釣り上げ損なって、普通に言葉を返した。

「どうだった? 東大諸君」

「あの人たち、東大がだーい好きなんですね。東大だから女の子が飛びつくとでも思ってるのかしら」

 弘志はだいたいの様子を察して大笑いした。美恵子はムッとした。

「何がおかしいんですか?」

「それは、おまえらがわざわざ東大の中から肩書きバカを選りすぐって合コンしたんだから、しょーがないだろ」

「…え?」

「『セリス女子大』って肩書きで東大生を釣ろうとした女と、『東大』って肩書きでお嬢様大学の女を釣ろうとした男の見合いなら、大学自慢な奴ばっか来るよな。必然、必然。来た奴らが肩書き自慢の奴だったからって、文句言う筋合いじゃないよ。おまえは、お嬢様大とか、そーいう肩書きに頼らないでいいって」

「でも、そういう場にだって、いい人もいるかもしれませんよ。出会いのきっかけなんて何が幸いするかわからないんですから」

 美恵子は合コンに誘われた時の友人の言葉をそのまま引用した。

「どうせ、おまえは男を漁る気なんかないんだから、合コンなんかやめとけって。ここはひとつ、和佐田のカレシで我慢しろよ」

「元カレ」

 美恵子は即座に言い返した。弘志は美恵子が釣れてくれないので、復縁を匂わせるのはやめにした。

「俺がたまにデートの相手してやるから、男はそれで我慢したら」

「私、弘志先輩もちょっと合コン男にかぶるんですけど」

「え! どこが」

「調子いいし、女の子にうまいこと言って気を引こうとしたりするし…しかもさっき、『和佐田のカレシ』って言いましたよね。自分だって和佐田だっていうのが自慢なんじゃないですか?」

「おまえなー」

「しかも、手は早いし」

「えー!! どこがだよーー!!」

 会うたびに、いや会わなくても、若い情熱を押さえつけてストイックに頑張っているのに、その当の本人にそんなことを言われるのは心外極まりない。弘志はここ十年で一番というくらい感情が突沸した。

「早いじゃないですか。肩抱いたり、押し倒したりするし。彼女でもないのに」

 美恵子は押し倒されたことを根に持っていた。正確には、それで何もしなかったことを根に持っていた。

「すっげーハラたつ! おまえは俺を19歳の若い盛りの男だってわかってないだろ」

「知ってますよ、そんなこと」

「…おまえな、…表に出ろ。いいから」

 弘志はさっさと伝票を手にして、長居していた喫茶店をそそくさと出た。美恵子は「何よ、急に」と思いつつ追って店を出た。

 美恵子は繁華街を通り抜ける舗装道路を小走りについていった。弘志は周りの様子を見回して、半歩後ろの美恵子を視線だけで振り返り、

「あのなー。俺は単に、我慢してんだよ。ホントに手が早かったら、おまえのこと、もうヤッてるよ」

 と言った。とても顔を見られそうにないので背後に届くようにちょっと大きな声で、でも他人に聞こえないようにほどほどの声で。

 美恵子は一応立場上怒ったような反応を示さざるを得なかったので、無神経な発言に息を呑むようなそぶりをした。でも、我慢できずにちょっと相好が崩れてしまったので、弘志から見えないようにそっと真後ろに位置を取って隠れた。

(なーんだ、そういう風には、思ってるんだ)

 美恵子のハッピーな気分とは裏腹に、弘志は肝をつぶしていた。

(…これでしばらく復縁話はナシだな~。ヤリたいだけだと思われるのがオチだ)

「帰るぞー」

 弘志は美恵子を振り返りもせずに駅までの道を足早に歩いた。美恵子はその後ろを満面の笑みでついていった。静かな喫茶店で、面と向かっては言えなかった弘志の臆病さが可笑しかった。

(ホント、弘志先輩って、口ほどにもないんだから)

 やっぱり美恵子には、合コンの連中なんかより、弘志のほうがずっと魅力的だった。


 典子は部屋でボーッとしていた。こんな時間が増えすぎて、時間が自分を追い越してあっという間に過ぎていくのが不思議だった。恋のほかには何もしていない、典子はそんな風に思った。でも、そういえば、今まで自分は何をやっていたんだろう。良貴がいなくなったら、何もなくなった。

(そういうのが重荷だったのかな…。全部、其田くんによりかかってたような気がするから…)

 だったら何かを始めればいいんだろうか。でも、とてもそんな気力はもてない。そして、今から何かを始めたって良貴が戻ってくるわけではない。

 典子が漠然と考えていると、弘志がノックをしてそっと顔を出した。

「典子ー、今、いい?」

 今までみたいに無神経に部屋に侵入できなくなったことも、弘志の中で少し典子が遠ざかった証拠だった。

「んー、何?」

 弘志は部屋に入ってきて典子のベッドに腰掛けた。

「今週末のサッカーのチケット5枚取れたんだよ。『オレラ』の連中で行こうと思うんだけど、行かねー?」

 典子は不思議そうな顔をした。

「…オレラ?」

「あれ、言わなかったっけ。いつもの、スポーツ見に行ってる連中、サークル名つけようかって話になって、前集まったときに『オレラ』って名前つけたんだよ。いつも『俺らさー』とか『俺らで』とか言ってたの、そのまま名前にしただけ」

「変なの~。変な名前のサークルって、多いね~」

 典子は良貴の「スポスポ研」を思い出して笑った。

「それでさ、その『オレラ』の連中で、行こうぜ、サッカー」

「うーん…」

「たまには気晴らししろよ。この前も龍一郎に典子誘うように念押されたのに、俺が伝えてないみたいじゃん」

 恋のほかには何もしていないという、さっきまで考えていた言葉が浮かんだ。

(恋のほかに、何かしないと…)

「そうだね。久しぶりに、行こうかな…。みんな、忘れてないかな。私のこと」

「俺の顔見て、毎回嫌でも思い出してるよ」

 弘志はうれしそうに笑った。典子もつられて、ちょっとうれしくなった。


 良貴は遥が自分をうまくかわしているのだともう気づいていた。時々、典子と別れたことを悔やみそうになる自分が情けなかった。

 高校に入るまで女の子と話をしたことすらほとんどなかった。異性に興味がなかったのは事実だが、それ以上に自分の容姿にコンプレックスがあり、はじめから女の子や恋愛を「自分には縁のないもの」と排除していた。でも、典子は良貴を「カッコいい」と言った。その言葉で、自分が男らしく振舞うことがおかしくはないのだという自信が持てた。

(だからって、僕の良さを認めてくれるのが典子だけだなんて思ってない。燕さんにだって、わかってもらう方法はあるはずだ)

 でも、アプローチはことごとくかわされたし、遥の瞳からは人なつっこさが消えて、警戒したような斥力がちらつくようになっていた。

(それで結局僕には典子しかいなかったなんて、あまりにみじめじゃないか)

 良貴は打開策を考えていた。


 久しぶりに「オレラ」の連中と顔を合わせた典子は、やっぱり来てよかったと思った。誰かと会って話をしていれば、悩みに自分を浪費し続けてはいられない。その日のメンバーは弘志と典子と龍一郎、それから「オレラ」公認のカップルの2人だった。とれた席が3つと2つで二列に分かれていたので、自動的に座る組み合わせは決まった。

「典子ちゃん久しぶりだねー。どうしてたの?」

 龍一郎は忌憚なく訊いた。典子は、

「うーん、五月病かな~」

 とごまかした。良貴を追う気持ちが心から消えず、明るく振舞うのには体力と気力を使った。注意がそれると、自然に心が沈んで目を伏せていた。

 事情のわからない龍一郎には、それまでの天真爛漫さと対照的な典子の憂い顔に違和感があった。大人の女性が見せるような伏せたまつげが意外で、とても魅きつけられた。だから試合の間中、ちらちらと典子の顔を見ていた。

 帰りがけ、龍一郎は典子に連絡先を聞いた。「一番、確実に典子ちゃん本人に連絡がつくのは?」と問われて典子が答えたのはパソコンのメールアドレスだった。典子はニコニコして龍一郎に手を振り、背を向けてからすぐに自分の世界に閉じこもった。明るく振舞ってとても疲れた。でも、何時間でもひたすら記憶をたどって同じところをちくちくやっているよりもまだいいような気がした。

 典子の暗い表情にしばらく気を遣って黙っていた弘志が、恐る恐る口を開いた。

「…楽しめたか?」

 典子は慌てて「元の自分」に戻った。

「あ、ゴメン。うん、楽しかったよ。何かと忙しい方がいいよね」

 いかにも付け焼刃であまり典子らしい答えではなかった。弘志は良貴を恨めしく思ったが、本人同士のことだからと、なんとか理性的になろうと努めた。

 典子が家に帰ってメールチェックをすると、早速龍一郎からメールが入っていた。

『今日は本当に楽しかった? なんだか、時々つまらなそうに見えたんだけど。余計なお世話かもしれないけど、典子ちゃんが早く元どおりに明るくなってほしいなと思います。とりあえず初通信ということで、ごあいさつまで』

(やっぱり、態度に出ちゃってたかなあ…)

 自分の悩みごとで他人に嫌な思いをさせたりしないようにと心がけてきたつもりだったが、今回はなかなかうまくいかなかった。

『メールありがとうです。今日は久しぶりにシャバに出たのでちょっと本調子じゃありませんでした。ごめんなさい。次回は乞うご期待です。どうぞよろしく!』

 龍一郎に簡単な返事を出して、典子は肩で大きく息を吐いた。少し気を抜くと体の中に腐った臭気がよどんでいくみたいだった。もう7月も近いのに寒さを感じて温かいものが飲みたくなった。

 台所に行くと弘志が冷蔵庫を開けていた。

「なんだ、おまえもなんか飲む?」

「私はお湯沸かすから…」

 典子は親の前では元気にしていたが、弘志の前ではもう強がるのをやめていた。

「おまえがそんなんだと、俺も調子出ねーぞ。双子は精神がつながってるって言うしな」

 弘志は心配そうに言った。

「ゴメンね。根本さんにも、元どおりに明るくなれって言われちゃった」

「何かあいつにも話したの?」

「ううん。なんか、落ち込んでるの、態度に出ちゃってたみたい」

「そっか。でも、あんまり無理して明るく振舞ってもな。疲れちゃうだろ」

「そうでもない。脳の中の、疲れる場所が違うからいいよ」

「まあ、ゆっくり元気になってくれよ」

 弘志は典子の頭をよしよしと軽く叩いて、ペットボトルをぶら下げて部屋へ戻った。

 弘志の元へも龍一郎からメールが入っていた。

『今日はチケットの手配ありがとう。実は2本目のシュート見逃した。サッカーはマジ気が抜けない。

 ところで、典子ちゃんは一体どうしたの? ほとんど試合見てなかったんじゃない? 心配メール出しといたんだけど、もし出すぎた真似だったら謝っといて。でもやっぱり典子ちゃんは明るく楽しく元気なほうがいいよ。って、おまえのほうがそう思ってると思うけど。でも、俺も心配です。次回は皆が元気に会えることを祈ります。じゃ、また』

 弘志はひとりごちた。

「おいおい、典子の話のほうが長ぇよ」

 そしてじっと考えて、返事を出した。

『典子の見舞いありがとう。実は最近カレシと別れたらしくて、なかなか立ち直れないみたい。あんまりどうしたのとか訊かないでやって。ところで今日の試合だけど、後半15分のあのイエローカードは…』


 美恵子も典子が心配で訪ねてきた。

「ねえ典ちゃん、そんな風にずっと落ち込んでるの、よくないよ」

「ゴメン。結構いろんな人に心配かけてるんだよね…」

 典子は大学の友人にも元気がないことを心配されていた。「彼氏と別れた」と報告してあったのでみんなそっとしておいてくれたが、いい加減長いなと自分でも思っていた。

 美恵子は怒ったような顔で言った。

「典ちゃんがなんとかしようと思ってないから事態が全然変わらないんでしょう? 典ちゃんは、どうしたいの?」

「え、…どうしたいって…?」

「忘れたいの? それともずっと落ち込んでたいの? それとも其田くんのこと、取り戻したいの?」

 典子は驚いたように目を見開いた。

「そうか、取り戻したいとかそういうの…全然考えなかった」

 忘れたいとも思わなかったし、取り戻すなんてことはカケラも考えなかった。ただ毎日ひたすら過去を掘り返していた。

 美恵子は哀しい顔になった。

「どうにかしようと思ったら、どうにかできるかもしれないんだよ。其田くんだって、その大学の人とうまくいくとは限らないじゃない。ダメだった時、もしかして典ちゃんのことを『やっぱり別れるんじゃなかった』と思うことだってあるし、それとも今だって、典ちゃんのところに戻るに戻れないとか、いろいろ可能性はあるんだよ。ひとりで落ち込んでたって、なんにもならないじゃない」

 典子はゆっくりと聞いて、ゆっくりと答えた。

「でも、…それは其田くん次第だから…」

 美恵子はしばらく憤然として黙ったあと、少し興奮気味に言い返した。

「ねえ、典ちゃんはなんで其田くん任せなの? 自分の方に、なにかこうしたいとかああしたいとか、いろいろ意志はないの?」

「うん、それはこの頃考えるんだけど…私、なんにもなかったんだよね。其田くんの思うようにしてくれることが私のしたいことって感じで…」

「それじゃ、前の私と同じだよ。弘志先輩とちゃんとつきあってたとき、私も一生懸命弘志先輩に従って尽くしてて、今思うとホントにつまらない女だったなと思う。黙ってついていくとか、相手に盲目的に尽くすことって、相手のためじゃなくって自分のためにやってることだよ。自分の言いなりになってくれる子が側にいるっていうだけなら、典ちゃんじゃなくたっていいじゃない。だったら、他に好きな人だってできるよ」

 美恵子は一気に言った。典子はゆっくりとしか意味が飲み込めなかったので、しばらく黙っていた。一度に言い過ぎたかと思って美恵子が心配そうにのぞき込むと、典子はゆっくりと口を開いた。

「そうだね、私、私自身がどんな人で何がやりたいとか、なかったな。今までもなんとなく生きてきちゃったけど、高校ではちょっと体操やっただけで、何かって言ったら一生懸命其田くんを追いかけてただけ。…なんかつまんない人間だな~」

 典子は一息ついて続けた。

「だから、しばらく恋愛はやめて、なにか別のことをしないとね…」

 しばらくの沈黙が流れたが、美恵子が口を開いた。

「ねえ、典ちゃんはそれで、何がしたいの?」

 典子は少しずつ首をかしげていって、首が曲がるほど大きく首を傾けた状態で言った。

「…探す…」

 美恵子はため息をついた。

「弘志先輩もずっと同じこと言ってる。それで、典ちゃんは、それが見つかるまで落ち込んでるの?」

 典子は答えられなかった。

「私、思うんだけど…そんなに恋愛ってよくないのかな。夢を持つとか目的を持つとかは立派で、恋愛に必死なのはバカみたいに言われる気がするけど、そうなのかな。夢がないとか、生きがいがないとか言って落ち込んだり、生きる意味が見つからないって言って死んじゃう人もいるけど、そんなに人生って夢とか目的意識とか、持たないといけないのかな。人の役に立つとか何かを成し遂げるとか、高尚な目的がないと生きている価値はないのかな。

 私も、ずっと弘志先輩に夢はないのかとか言ってきたけど、じゃあ、それを探して生きてる今は意味がないのかなって思ったら、絶対に違うと思ったの。夢がある人はうらやましいけど、自分も夢を持たないとダメなんだって思うのは間違ってると思う。今、十代でしょ。恋愛できる期間って生きてる期間より短いじゃない。私、前に恋愛だけやっててバカだって自分のこと思ってたけど、今は、それでもいいのかなって思う。他に夢がないといけないなんて、押し付けられたり、追い詰められたりして思うことじゃないよ。なにか探してる期間だって大切だよ」

 典子はやっぱり美恵子の言葉をゆっくり、ゆっくり吸収していた。すぐに納得することはできなかった。

 美恵子は典子の顔を正面から見据えて言った。

「好きなら戦おうよ。ひとりで腐ってるくらいなら取り戻そうよ。恋しかしてこなかったなら、恋くらい頑張ろうよ。それでもダメだったらあきらめればいいじゃない。何もしないで落ち込んでるだけだったら、本当に何も残らないよ」

 典子の返事は、

「私は、美恵ちゃんみたいに強くなれないよ」

 だった。美恵子は、

「好きなら動かないと。やっぱりダメならちゃんとあきらめよう。そんな毎日送ってたって、歳とるだけだよ」

 と言い残して帰っていった。


 典子はぼんやりと考えていた。

(好きなら戦おう…か。俵田さんのときも、私って、戦わなかった気がするな…。告白した時も、答えも聞かずに逃げたし…そのまま返事がないならそれはそれで自分をごまかしていられるって思って…)

 どうすれば救われるということもなく、毎日悩んで疲れる暮らしにもうんざりだった。

(戦おう…か。戦いだなんて思ったこともなかった。恋愛しかしてこなくて…その恋愛にすら何もしなかったなら、夢や目的を見つけても、同じように終わっちゃうのかな)

 典子はメールを見るのを忘れていたことに気付いてパソコンを立ち上げた。もう夜明けになっていた。

 見ると、龍一郎から長いメールが入っていた。

『伝えたいことがあるのでメールします。もしそっとしておいてほしかったら、読まずにおいてもらっていいです。

 最近彼氏と別れたって弘志に聞きました。弘志はそっとしておいてくれと言ってたんですが、僕自身の経験から、誰かに何か言われ続けることも大切だと思います。本当に君を思って出てきた言葉だったら、どこかが間違っていたとしても、何かしら立ち直るきっかけになることもあると思います。

 僕自身の話を少し聞いてください。君も見ていてわかったと思うけど、千加川高校のバスケ部は華やかなところでした。毎日男バスと女バスで恋愛沙汰が起きて、カップルができては別れてました。僕もその中にいたから、つきあった数は多いんだけど、今再会してもう一度恋をするだろうと思える女の子は誰もいません。

 だから僕が、たった一人の人を失って傷ついている典子ちゃんに何を言える立場でもないんだけれど、でも、一つだけ言いたいのは、君が幸せなんだねってことです。ステキな出会いがあった君が、僕はとてもうらやましい。

 本当につらい時はそんなことを言われても腹が立つだけなんじゃないかと思うけど、自分を見つめる視点をかえてみてください。未来の君から見たらまた違う感想があると思うし、ずっと昔、恋愛に憧れていた頃の君から見たらまた違うと思うし、そうやっていろんな角度から考えて、少しでも「幸せ探し」をして、元気になってほしいと思います。

 君は明るいほうがいいよ。そっとしておいたらいつまでも明るくなれないと思って、黙っていられずに勝手なことを書いてしまいました。頑張れって言われるのが迷惑なことってあると思うけど、頑張らなくてもいいから、周りの人が君に頑張ってって思うときの愛情は受け止めてください。

 気付いたらすごく長いメールになってたね、ゴメン。文章が下手だから、簡単にまとめられなくて。

 またオレラで集まる時に会いましょう。それまでに何か君の中でいい変化が起こってることを祈ります。元気出して! じゃあ、また』

 典子はメールを読み終えてから、もう一度読み返した。なんだかじわっときた。

(ステキな出会い)

 とてもありきたりな表現だったが、典子には心に染みた。美恵子の言葉が蘇った。

『恋しかしてこなかったなら、恋くらい頑張ろうよ』

(ステキな出会いを前にして、私は何を頑張ってきたんだろう。別れようって言われて、ただああそうですかって帰ってきただけで)

 日が昇って、家族が起きてきた。典子は、弘志が髪を整えているところへ歩いていって、のぞき込んだ。鏡の中の典子を見ながら、弘志は、

「何だ?」

 と訊いた。典子はにっこりと笑って言った。

「弘志、其田くんの力になってあげて。其田くんの良さってなかなか伝わりにくいところがあるから。弘志みたいに調子良くもないし、女の子にちょっかいなんか、かけられないと思うんだ」

 弘志は櫛を止めてしばらく鏡の中の典子を見ていた。

「それで、おまえはいいのか?」

「うん。いいの。忘れることにしたから。3人で仲良くなって2人をくっつけるとか、協力してあげてよ。私、其田くんの幸せを祈ることにしたの」

 典子の顔に翳りがないか、弘志は振り返ってしっかりと見つめた。

「心配しないで。大丈夫だよ。美恵ちゃんにも言われたんだ、落ち込んでても歳とるだけだって」

 典子の顔に元気が戻っていた。少なくとも弘志には、そう見えた。

「…そうか、…わかったよ。おまえのことがなければ、親友だからさ」

 弘志は典子に微笑みを向けた。典子がニコッと笑顔をこぼすのを見て、弘志は鏡に向き直った。

 鏡の中から消えた典子の背中に、弘志は思った。

(やっぱり、みんな変わっていくんだな。其田も、典子も…)

 美恵子の姿が浮かんだ。

(大丈夫、あいつはどこにも行かねーよ)

 鏡の中の自分にそう言い聞かせて、弘志は洗面所を出た。


 典子は元気に大学への道のりを歩いていた。

(弘志、ホントにちゃんと協力してくれるかな。其田くん自身の問題だとか言って、何もしなかったりするかな。…でも、そのときはそのとき。私は私で頑張るだけ)

 典子は悲壮な元気がわいてくるのを感じた。視界の前方に友人たちを見つけると、駆け寄って、声をかけた。

「一緒に授業行こ~!」

 友人たちは、典子を振り返って少し驚いたような顔をした。

「典子、なんか元気になったね」

 典子はニコニコして答えた。

「私、戦うことにしたの」

 皆は面食らった。典子は目を伏せて口をしっかり結び、一拍おいてから皆を見返した。

「…奪還作戦。この前別れた彼氏、もう一回やり直せるよう頑張ってみる」

 7月の熱いアスファルトを、典子はしっかりと踏みしめて歩いた。良貴と別れてからひと月以上過ぎていた。

(弘志が其田くんの近くにいてくれれば状況が訊けるし、今までのパターンから言って、弘志のほうが女の子に人気がある。其田くんの側に弘志がいたら、弘志のほうを好きになるかもしれない)

 したたかな女の顔で、典子はにっこりと笑った。戦いは幕を開けた。

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