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2 四人のバランス


 合宿が終わると、弘志は美恵子に対する態度を元に戻してしまった。美恵子は告白が宙に浮いて困惑したが、キスを奪われたことが嬉しくて、結局そのままにしていた。

 典子は、良貴への気持ちが育たないように育たないように過ごしていた。

「合宿のとき、肝試しで、超男らしくて頼りがいがあったんだから」

「もう、合宿で私、其田くんファンになっちゃったよ」

 部活の場で堂々とそんなことを口にしてみたら、良貴は冗談を聞くかのようにわずかに笑いつつ、恐縮して会釈で受けていた。周囲も笑ってくれた。だから、典子は「大好きだけどなんでもない先輩後輩」という気分になれた。

(本気で好きだったら、こんなこと堂々と言えるわけないじゃない。ねえ)

 でも、困っていることがひとつだけあった。床運動の練習では、空中技を覚えるために1人か2人補助がつく。事故防止のため、男子も女子も、力がある男子が補助につくことが決まっている。典子はまだバック転ができず、補助は良貴がつくことが多かった。良貴は補助につくのも慣れていて上手かったが、今の典子にはプレッシャーだった。

 良貴に腰に触れられると、典子は言いようのない恥ずかしさがこみ上げた。それでも、体操部は容赦なく典子にバック転の練習を強いた。

「なんか、いつも其田くんばっかりで、悪くない?」

 典子は多少遠慮したりもしてみたが、良貴は、

「あ、気にしないでください。補助やるのも、結構筋トレになるんで」

 と快く役割を担ってくれた。

 その日も、体育館の片隅のマットの上で、良貴は大まじめに典子の腰にしっかり手を当て、ズボンのゴムの位置を確認してつかんだ。おかしな態度を取るわけにはいかず、典子は真面目に練習すべく、一生懸命後ろへ飛んだ。

 良貴の掌に力がこもる感触が伝わり、一瞬典子の体がこわばってバランスを崩した。良貴はなんとか支えきろうとしたが、体重の乗ったジャンプの勢いは止められず、最低限典子が怪我をしないように支えた状態でマットに倒れた。

「大丈夫ですか?」

 良貴は典子をのぞき込みながらすぐに起き上がろうとしたが、片手が典子の体の下敷きになって動けなかった。

「ご、ごめん」

 典子は動転しつつ、目の前の良貴を見上げてどぎまぎしながら謝った。

「こらそこー。其田、ウチの妹を押し倒すな~」

 弘志がチャチャを入れ、笑いが起きた。典子は慌てて起き上がって、真っ赤な顔で、

「なによ、私がコケたのを守ってもらったのに、そんな言い方しないでよ!」

 と言い返した。手の重しが取れたので良貴も起き上がった。

「典子先輩、ホントにすみませんでした」

 良貴が詫びると、典子は体操以外に意識がまるで向いていない良貴の様子にひっそり落ち込んだ。

「あー、今日はなんか不調だわ。逆立ちしてよっと。其田くん、自分の練習に戻ってー」

 典子はマットから逃げ出し、体育館の壁に向かって逆立ちしたまま体操部の練習を眺めた。別のマットでは美恵子が倒立前転をやっていた。まだまだ初歩的な練習ばかりで、弘志に補助してもらうほどの練習はない。それは不幸なのか、幸せなのか…と典子は思った。

 壁で倒立をしていると良貴が歩いてくるのが見えた。典子は頭に血が上った顔で無様に髪を逆立てている自分が恥ずかしくて、慌てて壁を蹴った。足が重そうにドスッと床に落ちて、練習用のバレエシューズがキュッと音を立てて滑った。

「イテ」

「先輩、練習しないんですか」

 良貴は声をかけてきた。典子はあわてて、

「ウン、今日は本調子じゃないみたーい」

 と言った。

「でも、あと少しでバック転できるのに、もったいないですよ。ああいうのって、なんか気が抜けたみたいにふっとできるようになりますから、集中してやった方がいいですよ。僕、ちゃんと補助しますから…さっきはほんと、すみませんでした」

「ホントごめーん。補助が其田くんじゃなかったら、死んでたよね~。補助ばっかじゃ申し訳ないから、自分の練習して!」

「…今、足ひねりませんでした? なんか、かえって怪我させちゃったみたいな…」

 良貴に心配されて、典子はますます気後れした。

「ゴメン、大丈夫。でも、バック転は今度にする。気にしないで」

 典子は元気に立ち上がり、足は平気だよと言うかわりに跳ねてみせた。良貴は自分の練習に戻っていった。

 典子は平均台の上で美しいV字バランス(腰だけを地につけて上体と足をピンと伸ばしてV字を描く)を決めた。そして今度はその格好で練習を見ていた。

 良貴が高鉄棒に上った。1回、2回、3回と大きく振って、大車輪を始めた。そして、そのまま倒立で静止した。まっすぐ伸びた体がきれいだった。

(もし、事故がなかったら、きっとオリンピックだったのにね)

 もう一度大車輪をして、良貴は大きな1回宙返りを軽く決めて着地した。高鉄棒から宙返りで降りるのは、良貴以外は皆、まだこわごわとしている。あんなにゆったりと跳べるのは良貴だけで、小柄なジャージ姿が、宙を飛ぶととても綺麗にしなって大きく見えた。兄の弘志をカッコいいと思っていたが、良貴に比べたら所詮は初心者だった。

 その日、典子はぼんやりと良貴の練習を見て過ごした。


 典子には友人が多いが、内訳は女の子ばかりで、男の子全般とは一定の距離をおいている。でも、1人だけ「男の子の親友」がいた。部活の書類を書いたりする関係で、生徒会の庶務の男の子と仲良くなった。典子は「男女間に友情は成立しない」と思っていたので、当初はその彼・飯田聡史のことを警戒したりもしたが、結果としては信念を「男女間に友情は成立する」へ変更することになった。

 聡史は身長一七〇センチの中肉中背、眼鏡の似合うやや大人びて落ち着いた風貌の少年で、子供っぽい典子より三歳も五歳も上に見えた。

「ねえ飯田くん、高校生で、女の子のほうが年上の恋愛ってあると思う?」

 休日に並んで歩きながら、典子はぐっと聡史を見上げ、訊いてみた。聡史は怪訝な顔で典子の表情をじろじろ見つつ、問いかけた。

「何。おまえ年下が好きなん?」

 聡史は出身が滋賀なので、ちょっと関西系の訛りがある。けれど人生の大半は東京住まいなので、関西訛は「キャラ作り」らしい。典子はそんな演出を「短絡的だ」と言ったのだが、東京に引っ越してきた小学校三年のときにこの話し方で「おもしろい転校生」として人気者になって以来、やめられないのだという。

 思いがけない聡史の問い返しに、典子は心の中で大いに慌てた。良貴のことは好きと認めていなかったし、好きな人ができたとしても人には何が何でも言わないつもりでいた。

「え、別に私には関係ない話だよ。好きな人とか、いないし」

 典子は口をとがらせるようにして言った。

「年齢とか、関係ないんとちゃうか? でも実際のとこ、高校生で男が年下は、案外聞かんかもな」

「なんでかなあ」

「高校一年の男と高校三年の女やったら、中身は中学生と大学生くらい違うしな。女の子の方が大人やから。まあ、おまえはトモカク」

 一年生と三年生までは違わないんだけど、と典子は思った。聡史は、からかったつもりなのに典子のリアクションがなく、ますます怪訝な顔になった。

「何、そんな話始めて。年下の男とナニゴトかあったんか?」

「ないよ! 変なこと言わないでよ!」

「変な奴。おまえが変なこと訊いたんやろ」

 その日、典子は聡史と「変な映画を見る」というテーマで映画館に来ていた。知る人ぞ知るマニアックな漫画のアニメ化で、案の定、映画館はがらがらだった。「映画らしさの演出」と言って典子が面白半分で買った大きすぎるポップコーンを二人で食べながら上映を待った。

「おまえ、なんでこんなの見たいの」

「え、だって変じゃん」

「なんで変なの見たいの」

「飯田くんだって、なんでつきあって見に来てるのよ」

「変なのを見たがる変な奴を見に来ただけや」

 結局、映画は、眠くまではならなかったが、漠然とした場面がなんとなく続き、これから盛り上がるのだろうと期待しているうちになんとなく終わってしまった。二人は狐につままれたような顔で映画館を出た。

「つまんなかったね~」

「いわゆる、映像美を追求したってやつか?」

「奇はてらってたけど、美だった?」

「微妙やな。そんなもんに千いくら、えらい散財やな~」

「別に、飯田くんにつきあってもらわなくても良かったのに」

「今更、そんなことゆうな。一人で行ってつまらんかったら空しい、言うたのはおまえや」

 二人はアイスクリーム屋でアイスを買い、道端におざなりに設置されたベンチに並んで座って食べた。会話があってもなくても気にならない、のんびりした雰囲気が流れた。

「おまえさあ、こういうとこに連れてくる男っておらんの?」

「飯田くん、男じゃん」

「いや、そういうのじゃなくて、男~」

「おらんよ」

「あっそう。じゃ、こういうとこでこんなんしてんの見られて困る男っておらんの?」

「おらんよ」

 ちょっと良貴の顔が浮かんだが、他の男の子と一緒なのを見て、むしろなにか思ってほしいくらいだった。

「なんや、枯れた青春おくっとるな」

「飯田くんだって、人のこと言ってる場合じゃないよ。じゃあ自分はこんなんしてんの見られて困る女の子はおらんの?」

「俺はいいんよ。男はあと四十年、青春できるからな。おまえは、あと四十年はもたん」

「そんなの、男女差別だよ」

 聡史はよく、典子を「妹みたいなやっちゃ」と言った。そういうとき、典子は「妹だもん」と答えた。ありのままの自分を出して甘えれば、たいがいの男の子はみんな世話を焼いてくれることを、典子はなんとなく感覚でわかっていた。でも、良貴は年下で、典子を「先輩」と扱い、丁寧語で話しかけてくる。典子は、年下の男の子に対して自分の自然体である「妹」になる方法がわからず、戸惑いつつ「別に、其田くんのことは好きじゃないよ」と一生懸命思っていた。

 典子がいろんなことをモヤモヤ考えながら帰ってくると、弘志のところに遊びに来ていた良貴が丁度帰るところだった。

「あ、典子先輩、お帰りなさい。お邪魔してました」

 良貴は軽く会釈をして靴を履いた。

「えー、帰っちゃうの」

 典子は残念そうに言い、弘志を押しのけて手を振りながら良貴を見送った。

(しまった、其田くん来るってわかってたら、出かけなかったのに)

 ちょっと悲しい気分でドアの向こうに消えた良貴の残像を見ていると、弘志が背後で、

「おまえ、其田、好きだよな~」

 と言った。典子は一瞬動揺したが、すぐに元気な笑顔を作って振り返り、

「うん。大好き」

 と言った。

 弘志はふと、典子が、良貴のいるとき特に熱心に世話を焼きにくるような気がした。典子の瞳をじっとのぞきこんでみたが、笑顔の中に特別なものは読み取れない。

「案外、気が合うんじゃん? つきあってみたら?」

「え~、やっだ~。そんなこと言わないでよ、照れちゃうじゃんもー」

 典子は大げさに弘志を叩き、笑ってみせた。弘志は、女の子の意図を見抜くのはうまかったが、典子の気持ちを読むのだけは苦手だった。気まずさをごまかすように、

「おまえもカレシとか、ほしい年頃かな~と思ってさ~」

 と言うと、典子はちょっと冷静そうな顔を作って、

「私はお年頃でも、其田くんじゃあ、まだ中学校出て半年だよ。若すぎない?」

 と笑って自分の部屋に戻っていった。

「…そうだよ、私、ひとりでお年頃でもしょうがないじゃん」

 典子は自分の部屋に戻ってつぶやいた。

「それに、けっこう『年下の男の子』扱いしちゃったような気がするし」

 だって、内気で子供っぽい新入生だと思っていたから。

「だからきっと、私の態度、カチンと来たりもしただろうな」

 良貴のことをよく知らない時に、年下扱いしすぎて気に障る言動をした気がした。

「ただの先輩後輩だよ。其田くんって、年上の女性に憧れるようなタイプには、見えないじゃん」

 弘志はごまかせても、自分はごまかせなかった。典子はどんどん良貴に魅かれていく自分を止めることができなかった。


「ねー美恵ちゃん、それでいいの~?」

 典子が一生懸命言っても、美恵子は「うーん」と言っただけで、夢見る瞳のまま返事をしなかった。高校のお昼タイムはときどき、恋愛相談会議の場となる。藤棚の下の石のベンチに典子と美恵子は二人で座って、お弁当を食べていた。

「弘志も弘志だよね、キスまでしといて」

 典子が憮然としていると、美恵子はうっとりと言った。

「でも、追い詰めたらきっと逃げられちゃうから、いいの…」

「あー、もう!」

 典子はじれったくてイライラした。

「わかった、なんとかしよう! デートしようよ。ね」

 典子は、部の女の子からの「体操部のことを聞きたい」という電話を何度か弘志に取り次いでいた。副部長としてはそんな言い方をされるとシャクにさわった。自宅に電話してくるんだから、弘志に携帯電話の番号を教えてもらえない女の子に決まっている(とはいえ、弘志は女子には誰一人教えていなかったが)。そんな連中を蹴散らし、絶対に美恵子に勝ってほしかった。

「…え、だって、江藤先輩、その気なさそうだもん…」

「だったら、なおさらデートくらい、いいじゃん。大丈夫、私も行くって言っといて、当日風邪ひくから」

 典子は気合が入ったのか、そのまま一気に弁当を食べきった。美恵子は「うーん」「えー」「でも」と繰り返しながら、モゾモゾと弁当をつついていた。

 渋る美恵子を押し切って、典子は計画を実行することにした。弘志が部屋に一人でいるときにもりもりと押し掛け、普通ぶってアタックを試みた。

「弘志~、映画行かない?」

「なんだよ、おまえこの前、カレシと行ってきたじゃん」

「飯田くんのこと? だから、カレシじゃないってバ」

「知ってるよ」

「だったらカレシって言わないでよ。マブダチだもん」

「あっちはその気だろ」

「残念ながら違いますぅ。誰か、江藤典子に彼氏がいると誤解してたら、彼氏じゃないんだってちゃんと言っといてよ。私、彼氏募集中なんだから」

 良貴に誤解されたくなくて、典子はことさら弘志に強調した。

 それからしばらく「映画に行こう」「なんで」と押し問答をしていたが、典子の執拗な言い方に、弘志は思惑を察知した。

(須藤と行かせたいわけね…)

 典子がお膳立てしてくれるなら、自分の責任ではない。ぜひ進めてほしい話だった。

 弘志が映画行きを了承すると、典子は2日たってから「美恵ちゃんもあの映画見たいんだって。3人で行かない?」と言った。弘志は念の入れ方に失笑しながら「なんでもいいよ」と答えた。

 当日は予定通り、典子は朝から具合が悪いと言いだし、やがて「熱が出た」と言って寝込んだ。弘志は、顔色つやつやでベッドに伏せる典子を一応心配してみせた。典子は、元気に澄んだ声を懸命にくぐもらせ、主張した。

「ううん、私はいいから、映画見てきて。せっかくだから、一緒に見てあげて」

 これ以上話していると笑ってしまいそうだったから、弘志はそそくさと待ち合わせに出かけた。

 美恵子は駅前の待ち合わせ場所でぽつんと立っていた。弘志が背後から声をかけると、美恵子は振り返って、

「あ、江藤先輩」

 と言った。典子はどうして来ないのかと訊いた方がいいかとも思ったが、しらじらしくてとても言えなかった。

 弘志は左右に揺れる瞳とうかない顔色から、美恵子も強引に典子にセッティングされたらしいと感じて、好感を持った。

「悪ィ、典子が熱出しちゃってさ。2人で見てきたらって言ってたけど、どうする?」

「え、でも…」

 美恵子はあっさりと「そうしましょう」とは言えなかった。弘志に嘘をついていると思うとたまらなく居心地が悪かった。

「二人で見ちゃってもいいけど、これは典子の来られるときにするか。せっかく出て来たんだから、今日は別の映画にでも行く?」

 弘志はYESの返事を期待する目くばせをした。「行こうよ」と語るそのまなざしに、美恵子は「はい」と答えざるを得なかった。

「じゃ、何見ようか」

 弘志の少年らしい笑顔が美恵子をドキドキさせた。普段はちょっと意味深なまなざしが気になるズルい男の子なのだが、弘志の表情は時折とても素直に輝いて見えて、その2つの顔のギャップが女の子たちを惑わせる。

 2人は予定を変更して話題の邦画を見ることにした。北海道の豊かな自然の中で切ない恋が描かれる叙情的な作品で、少年と少女はお互いを意識しながら言葉を交わせずに戸惑い、大人の事情に翻弄されてすれ違っていった。

(俺は、こういう恋はできないな~)

 弘志はそんなふうに思ってスクリーンを眺めていた。美恵子はヒロインに感情移入して見ていた。

「このまま何も言わなかったら、卒業して、この恋は終わっちゃうんだよ」

 鏡の中の自分に向かって主人公の女の子はつぶやいた。美恵子の胸は痛んだ。

(「このまま何も言わなかったら、卒業して、この恋は終わっちゃうんだよ」)

 美恵子はセリフを反芻して、そして思った。

(…好きだって言ったって、このまま卒業して終わっちゃうのかもしれないよ?)

 ハッキリさせなければ、いつまでも「そのうち、きっと…」という希望を持っていられる。でも、時折泣けてくるほど悲しい気分になることもあった。

 映画を見て、お茶を飲んで、結局美恵子は恋を何も進めることができないまま、弘志の「じゃあ、またな」という言葉を胸に帰宅した。

「じゃあ、またな、って…」

 美恵子は切なさに涙が出そうだった。

「またなって、どう、『また』なの?」

 でも、やっぱりその「また」という言葉のほんのかすかな希望にどうしてもすがっていたかった。美恵子は唇にそっと触れ、弘志の感触を反芻した。それはとても甘くて、でもその何倍も切なかった。


 美恵子は典子と一緒に高校から帰ってきて、典子の部屋のテーブルに、途中で買ったケーキを並べた。弘志とのデートについては「一緒に映画を見られてよかった」という以上の報告はできなかった。けなげな微笑みを見せる美恵子に、典子はもっと何か力になりたいと思ったが、弘志のほうが明らかに上手うわてで、目下のところお手上げだった。

「…ねえ、典ちゃんは、好きな人とかいないの?」

 一息ついて、美恵子は質問した。典子はぎくりとした。

「うーん、いまんとこ、いないね」

 典子はこんな風に訊かれて良貴しか浮かばないことを「困った」と思った。

「あのさあ、飯田くんって、典ちゃんに気があるんじゃないかって思うんだけど…」

「まさか、美恵ちゃんまでそんな誤解してるなんて…。私、これでも最初、ちょっと疑ってかかったのよ、恥ずかしながら。でも、ことごとく期待外れだったもん。彼はちょっとなれなれしいだけの友人よ」

「期待外れって、典ちゃんは本当は恋愛感情があったの?」

「あ、ない、ない。あのね、美恵ちゃんみたいにもてるコにはわからないだろうけど、私みたいに男に好かれたことが一度もないような奴にはね、寄って来る男はありがたいものなのよ。でも、残念ながらそういうのじゃなかったわ。ちぇ」

「私、もてないよ」

「謙遜はやめなって。嫌みだから」

「だって本当だもん」

 男の子に人気があるのは客観的事実なのに、美恵子は断固それを認めようとはしなかった。典子はそういう度を越した謙遜を、美恵子の「唯一の欠点」だと思っていた。

「典ちゃんって、なんであんまり好きな人とかいないの?」

 美恵子は不思議だった。美恵子は幼稚園の初恋以来、心に特定の男の子が強く存在していることが多かった。どれも幼さゆえになんとなく消えてしまったとはいえ、何人かとは「両思い」という淡い関係を築いた経験だってある。でも、子供の頃からいつも一緒にいる親友の典子は、いつも「好きな人」という存在がいなかった。

「私って、弘志がいるから、特殊なのよ。よくあるじゃない、なんか兄貴とかカッコいいと他の男に目が行かない、っていうのが」

 美恵子はうーんとうなって、

「そういう感覚って、江藤先輩もおんなじなのかなあ」

 とつぶやいた。典子は、そうかもしれないと思ったが、

「兄妹は他人の始まりだよ。絶対に別々の人生を歩むんだからさあ、だいじょうぶだよ」

 とのんびりと言った。典子は、弘志に自分と違う人生があることなんか、とっくに知っている。美恵子が弘志と幸せになるためには、きっと妹の自分だって邪魔に違いないと自覚していた。

「江藤先輩、典ちゃんに他人だとか言われたら、落ち込むんじゃないかなあ」

「そんなことないよ。だってアイツ、私より大人じゃん」

 でも、世の中たいてい、女の子のほうがシビアなことが多い。ちょうどその頃、弘志は良貴に、典子のことをこんな風に話していた。

「双子って、なんか一心同体っていうか、アイツには俺が必要だなって思うんだよ。嫁にくれとか言う男が現れたら、殴っちゃうね。って、俺は父親かよ」

 良貴はそんな弘志に温かいものを感じていた。女の子を翻弄している姿とは別に、とても純粋に妹を愛している姿があった。

 弘志は良貴を誘って高校の帰りにスポーツ洋品店に寄り道していた。一緒にいると、だいたい弘志が話して良貴が聞き役になる。明るく快活に他愛ないことを話しつつ、友人への配慮を怠らない弘志は、やっぱりいい兄貴分だと良貴は実感していた。

「弘志先輩、本当に典子先輩に対しては優しいですよね。…でも、他の女の人には、そういうふうにはなれないんですか?」

「なんでそんなこと言うの。よりによっておまえが」

「いや、あの、合宿とかでも、僕が見てただけでも、けっこう弘志先輩に好意を持ってる女子がいたみたいだったから…。でも、先輩って、皆になんとなく思わせぶりじゃないですか? そういう態度はまずいんじゃないかなって思ったりもしたんですけど」

「おまえがそーいう視点で人間関係を見てるとは思わなかった…。それとも、おまえの好きな女とか、部活にいたりすんの? だったら協力するけど」

「いえ、いませんよ。でも、やっぱり、期待を持たせるのはかわいそうですよ」

「俺に特定の女がいないのに、わざわざ冷たくしたりする必要ないじゃん? それでも他に男作る奴は、作っちゃうし。始めは俺狙いだったのに、谷口緑、滝野川にキャッチされたぜ。結局は自由なわけ。だから、悪いことしてるとは思わないな」

 自分はそうはしないけれど…と断ったうえで、良貴は、特定の相手も好きな女の子もいなくて、誰にでもチャンスがある状態なら、好意を寄せてくれる子みんなにそれなりの態度をとるのも自由なのかなと思った。弘志の考え方は基本的に自分と違うが、思考回路の構造が違っているだけで、納得しようと思えばできることが多かった。

「とは言ってもね、俺、もうそういう段階じゃないのかもしれないけど」

 弘志は今の自分の気持ちを白状してみる気になった。誰かに聞いてもらうなら良貴のような気がした。

「おまえ、恋愛の話って、したくない奴?」

「僕、そういうの、全然わかんないですけど…」

「わかってほしいとか思ってるわけじゃないよ。悪いけど、おまえってあんまり女に縁なさそうだし。俺が勝手に話をしたいだけ」

 良貴としては「女に縁がなさそう」にカチンときたかったが、事実そのものだったので甘んじて受けた。

「話し相手に選んでもらえるのは、光栄です。聞き役でよければ」

 店の中で話の続きをするのがなんとなく気恥ずかしくて、弘志はTシャツを一枚買うと良貴を促して近くの喫茶店に入った。二人でコーヒーを頼むと、ふーっと息を吐き、弘志は話しはじめた。

「実は、合宿で須藤に告白されてるんだけどさ、俺としても、まあ誰か選ぶとしたら須藤かな~と思わなくもないんだよな。高校二年だし、そろそろ彼女くらいいてもいいなって思うんだけど…。その程度の気持ちでつきあうのって、アリかな?」

 自分であればその程度では良くないのではないかと思ったが、弘志の視点に考えを切り替えて、良貴は答えた。

「…はあ、いいんじゃないですか。須藤さんって結構綺麗だし、お似合いですよ」

 弘志には「カノジョ」がいてしかるべきな気がしたし、そのお相手ならそれなりに周囲に羨まれるような女の子がふさわしいなと、良貴にはそのくらいのイメージだった。

「え、おまえも綺麗とかそういう目で見るんだ」

「僕だって、綺麗な人は綺麗だなって思います。興味をもつのとは違いますけど」

「まあな、綺麗な子なのは確かだよな。性格もそれなりに控えめでカワイイし。典子も須藤と俺をくっつけたいみたいだし、一番いい選択かな、と思うんだよね」

「この場合、典子先輩は関係ないんじゃないんですか?」

「そんなことないよ。ヤじゃん、典子が嫌いな相手だったら」

「関係ないですよ。典子先輩と恋愛するわけじゃないんですから」

「おまえって、冷たいのな~。家族が反対する相手なんか、俺、好きになれないよ」

 典子は「兄妹は別々の人生、他人」とわかっているのに、弘志はまだわかっていなかった。典子の嫌いな相手だったら、自分も好きにはなれないに決まっていた。

「須藤のことを好きかって言われると、それはちょっと違うんだよな。目下一番条件のいい相手だけど、好きまで思ってない、そういうつきあい方って、アリかな」

「須藤さんがそれでいいって言えば、いいんじゃないですか? 弘志先輩を好きなら、それでも、つきあえればうれしいのかな…って思って」

「俺、おまえのことまだ好きじゃないけど、いい? って訊くの?」

「それはそれで、誠意…っていう考え方です。ごまかすよりはいいと思って」

「そうだな~。さすがに、キスまでして、ほったらかしてるのも申し訳ないからな~」

「え」

 良貴は度肝を抜かれた。弘志はちょっと傲慢な笑顔で言った。

「肝試しで告白された時に、ちょっとね。まあ、雰囲気、雰囲気」

 そういえば、高校生はそういう年頃だったなと良貴は思った。そして、今更ながら自分がそういう年頃になったことを、ちょっとだけ、なんとなく、自覚した。

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