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19 春の嵐


 4月も終わりに近づいたある日、一般教養「生物学」の講義が終わると、良貴の前を一人の女の子が颯爽と通り過ぎて教壇で講師をつかまえた。良貴は前から3列目の中央寄りに座っていたので、会話の内容がすべて聞き取れた。

「先生、例えば消化酵素のカタラーゼの研究で実験をするとしますよね。正確を期すためには動物の個体差による肝臓の状態の誤差を検証しないと本当に正確な数値って出ないような気がするんですけど、肝臓の酵素について科学的に成分分析をするのは、生物の分野になるんですか、化学の分野になるんですか? そういう実験環境の精密な分析って、どうするんですか?」

 彼女の質問に、単なる非常勤の一般教養専門の講師はびっくりしていた。

「…キミ、人間科学部の学生さんだよね?」

「そうですけど。高校で実験やったんですよ。ブタの肝臓で酵素の実験。みんなはテキトーな数値書いてたんですけど、私は正確に実験をやったんです。そしたら、みんなのテキトーなデータは先生がOK出したのに、私の結果には誤差が大きいって言ってきたんです。他の人は、そりゃでっち上げデータだから誤差もほとんどないですよ。だって、わざと、理想値に少しだけ誤差つけて提出してるんですから。でも、私の実験は絶対、ちゃんととった数値だったんです。納得いかないまま卒業しちゃったんで、大学で絶対に誰かに訊こうと思ったんですけど」

 講師は困った顔をした。彼女はその反応を見てちょっとだけ眉をしかめた。

「…大変申し訳ないんだけど、僕にはそこまでのことはわからないな」

 講師は早々に白旗をあげた。

「申し訳ないけど僕は教授じゃないし、一般教養としての生物しか教えてないんだ」

 彼女はあからさまにガッカリした。そしてすぐに態勢を立て直した。

「じゃあ、この大学で誰に訊いたらいいか教えてください」

「…わかったよ。でも、よくわからないから、次回までに大学で訊いておくよ。…あ、それから、君の名前は?」

「ツバメです。鳥のツバメを漢字で書いて、燕・はるか。冗談みたいな名前だから、覚えやすいですよ。忘れないでくださいね」

 そして彼女、遥は颯爽と去っていった。講師はあっけにとられて後ろ姿を目で追い、それから気を取り直して教室を出て行った。

 大学にはいろんな人がいる。良貴は目の前で起きた椿事に小さく笑った。

(…なるほど、ツバメみたいだな…。でもちょっと、変わってるよね)

 その次の生物学の時間、良貴は前から3番目のいつもの席に座って授業の開始を待っていた。チャイムの音と同時につかつかという音がして、横にとても長い机の反対側に女の子がどっかり腰掛けた。

(…あれ、このまえの…ツバメさん、だったかな?)

 良貴はすぐに思い出した。そして、質問の答えが気になった。

 講義が終わってたくさんの学生が教室を立ち去る中、良貴はゆっくりと片付けをして遥が行動するのを待った。講師はすでに目の前の遥に気付いていて、懐から小さなメモ用紙を取り出した。遥が席を立った。

「先生、調べてもらえました?」

「ああ、教授を何人か聞いて来たよ。みんな理工学部の先生だからここのキャンパスじゃないんだけど…。どうもね、生物学で扱ってるところもあるけど、それとは別に、数物科学、っていうのがあるらしいよ。あとは教授に聞いて」

 遥はメモ用紙を受け取った。講師は「やれやれ」という安堵の表情を浮かべた。

「先生、じゃあ、もう一つ」

 遥の声に講師が息を飲むのが良貴にもわかった。

「脊椎動物、しかも哺乳類くらいになると、動物社会の中で生きるためのルールができてますよね。動物の社会学っていうのは多分あると思うんですけど、『動物心理学』っていう分野はあるんですか?」

 幸い、今度は講師もわかったようだった。

「ああ、あるよ、動物心理学」

 でも、質問はそれだけではなかった。

「…それって、人間の心理学と動物の心理学、ジャンルが完全に分かれてるんですか? 例えば動物たちと人間とで同じような心理の傾向が見られる場合、心理学と動物心理学、どっちの分野になりますか?」

「…え…」

 講師は沈黙した。そして、重苦しい口を開いた。

「…ここは人間科学部だし…、理工学部の生物学科ならともかく、ちょっと、そこまではわからないな…」

「あ、そうなんですか~。すみませんでした~」

 案外あっさりと遥は引き下がった。講師は逃げるように去っていった。

 良貴は講師の背中を目で追い、それから立ち上がった。見回すと教室はいつの間にかカラッポだった。視線を戻す途中で壇上の遥と目が合った。

「どう思います? そういうの」

 いきなり遥は声をかけてきた。

「え?」

「聞いてましたよね、今の」

「え、…ああ、聞いてたけど…」

「一般教養の先生だから、専門的には知らなくていいけど、逆に、学生に知りたいことがあったら、何をどう調べればいいかくらい、ちゃんと知ってるべきだと思うな。私はそう思うんだけど、どう思いますか?」

 壇上から良貴を見下ろしながら、遥は胸を張って片方の腰に手を当て、ちょっと高飛車な感じで主張した。

「でも…あの人、非常勤の講師でしょ? 多くを望んじゃいけないんじゃないかな…」

 良貴はこんな風に馴染みのない女の子から話し掛けられるのは苦手だった。遥は名字のとおり燕のごとく颯爽として、しかものぞき込むようなちょっと媚びの入った瞳の女の子だった。服装も、いかにも大学生らしく垢抜けていて、うまく斜めに分けた前髪と、耳の辺りからウェーブがかかったセミロングの髪がしっかりと決まっていた。折角おしゃれで綺麗な女の子だったのだが、良貴はこういうタイプじたいが少々苦手だった。

「そうですか? 生物学にどういう分野があるのかわからないなんて、私は納得いかないな」

 独り言とも良貴に訴えているともとれる言い方で遥は言った。

 じゃあとかさよならとか、会話の終了を示す言葉を何も言わずに遥はバッグを持って去っていった。

 良貴は自分のペースでゆっくりと立ち上がり、教室を出た。


 次の講義の時も、良貴の反対側に遥が座った。

「いっつも、ここに座るんですねー」

 講義が始まる前に、遥が声をかけてきた。良貴は幾分気後れして、

「ああ、あまり目がよくないから…」

 と答えた。大概どの授業も大教室の時は前の方に座っていた。

 折角声をかけられたので、良貴はずっと気になっていたことを訊いてみた。

「それで、カタラーゼの実験の精密な検証は、生物だったの、化学だったの?」

「数物科学の中の構造分子科学に当たるんじゃないかって教授は言ってました」

「理工学部まで調べに行ったの?」

「行きましたよ。私、フットワークが軽いのだけが自慢ですから」

 遥は誇らしげに言った。

「すごいね」

「でも、もっとすごかったのは教授の答えですよ。自分の専攻した数物科学の構造分子科学の分野でもそういう研究はあるって。でも、他の分野でも似たような研究してる人はいるから、どの分野に所属するっていうものじゃないらしいんです」

 遥は一気にまくし立てた。

「…ああ、じゃあ、生物かもしれないし、化学かもしれないんだ」

「生化学とか、あとなんか難しい名前を言ってたけど、そういうところでも扱ってたりするそうです」

「そうなんだ、じゃあ、わからないね」

「わからないんですよ。つまり、自然界に、とある事象があって、それを研究するのが科学で、その中の分野っていうのは視点のあり方を大ざっぱに区切ったものでしかないんだそうです。要は、はじめに研究対象と研究したい視点があって、あとからその研究に名前をつけたり分野を当てはめたりしてるから、厳密に分けることはできないそうです」

「なるほどね」

「…えー、納得したんですか~?」

「うん、だって、微生物ひとつとっても、生物学で生理学で生態学で、有機化合物の集合体として考えれば化学、これは化け学の方ね、それから分子、エネルギー、いろんな視点で見られるじゃない。そうしたら、研究の視点は無限にあるし、それを全部綺麗にジャンル分けするのは、なんだか無理な気がするな」

 良貴の返事に遥は釈然としないようだった。そこに、ちょっと遅れて生物の講師が入ってきた。良貴と遥は慌てて話をやめた。

 授業中、遥がメモを投げて寄越した。

『授業の後、話の続きをしましょう!』

 授業が終わってから、良貴は次の授業をサボって遥の話につきあった。遥は難しいことを話していたが、決してインテリぶっているわけではなくて、話の大半は難しいことについての「疑問」だった。好奇心旺盛で、問題意識をもつことにかけては目のつけどころがとても鋭かった。

 次の週にGWをはさみ、その次の週の講義では、遥は机の反対側に来なかった。良貴は講義が終わるとすぐに振り返って、広い教室中を見渡した。

 それから次の授業までの間、良貴は、キャンパスを歩くたびに遥の姿を探している自分に気付いた。けれどそれを深く考えることはしないようにした。


 大学に入ってすぐはけっこういろいろと忙しくて、良貴と典子はあまり会っていなかった。ゴールデンウィークは、良貴が教授主催の愛好会(「スポーツ科学・スポーツ心理学研究会」、略称「スポスポ研」と呼ばれていた)の新人歓迎セミナー合宿に行ってしまったので会えなかった。

 久しぶりに2人っきりで会うと、なんだか何年も会わなかったような気がした。典子は良貴の「スポスポ研」の話を聞いて、そのおかしな略称に大笑いした。

「どう? 大学の勉強とか、楽しい?」

 良貴は典子に訊いた。典子はウーンと首をかしげて、

「…まあ、それなりに」

 とだけ答えた。

「ねえ、典子は大学で何をやりたいの。別に、勉強だけじゃなくて」

「うーん…」

「将来何になりたいとかって、考えなかった?」

「…実は、昔は小説家になりたいとか、思ったこともあるんだけど…。才能なさそうだからやめちゃった」

「ふーん。でも、今は? 自分の10年後とかって、どう思ってるの?」

「…うーん。怒らないで聞いてくれる?」

「怒らないよ」

「あくまでもただの夢だからね。…あのね、其田くんと結婚して、普通に暮らしたい」

 典子はもじもじしながら言った。良貴は典子に微笑みかけて、

「じゃあ、大学卒業までこのままつきあってたら、その時にはちゃんと考えようよ」

 と言った。深い意味はなく、「時期が来たら検討しよう」という程度のことだったが、典子は嬉しそうな顔をした。けれど、良貴はその典子の反応に、なんだかちょっと不思議な虚無感があった。

(夢は、好きな人のお嫁さん…か。すごく女の子らしいんだろうけど…)

 典子をそっと見ると、座って投げ出した足をじっと見ながら顔を紅潮させて、しきりにまばたきをしていた。良貴は肩を抱き寄せたが、自分の中で何かが少し変わったことを感じずにはいられなかった。

(僕たちにはまだまだ勉強しないといけないこと、経験しないといけないことがあるんじゃないかな。…夢、なんて…なんでもいいのかもしれないけど。結婚とか、そういうのでもいいのかもしれないけど…、でも)

 その日は春の国立公園をひたすら散歩した。のんびりした一日だった。

「典子、あのさ」

「何?」

「今度は、プラネタリウムに行こうか」

「うん、いいよー。でも、寝ちゃったら、ゴメンねー」

 典子のいつもの冗談に、良貴はいつもと違う印象を感じていた。

(興味は持てないの? 寝ちゃうの?)

 体操をやっていたとか、ゲームが好きとか、国文学を専攻しているとか、小さい頃習ったから少しだけピアノが弾けるとか、典子の好きなことやできることはいろいろ知っていた。でも、いったいそれらの何が、彼女のアイデンティティを構成しているのかわからなかった。自分の恋人がいったいどんな夢を持っているどんな人物なのか、良貴には急に見えなくなった。


 その週の生物の授業の時も、良貴の机の反対側は空いていた。授業が終わって教室を見渡すと、遥は女の子の友達と2人で座っていた。

(ああ、友達ができたのかな…)

 なんだか残念だった。そして、自分の心の中で起きている変化について考えた。

(僕は、スポーツ科学科で体操についていろいろ研究したいと思ってる。結局僕はずっと体操をやってきたし、やっぱり、好きだから…。そう思ってきたけど…)

 遥は弘志と同じ社会学専攻だった。数週間前、講義をサボって話したとき、良貴は遥に訊いた。

「社会学専攻なのに、なんで生物とか化学とか、そういうことばっかり熱心なの?」

「そんなことないですよ。なんにでも熱心なだけです。私、まだ、何がやりたいっていうの、わかんないんです」

 遥がそう答えたときの強い瞳が印象的だった。

『其田くんと結婚して、普通に暮らしたい』

 典子の夢はわかる。そしてそれはもちろん嬉しい。けれど、良貴は遥の言葉を思い出していた。

『何がやりたいかわからないから、何だってやってみるんです。わからないことは、人に訊く。だって私、私が何を知らないのかわからないんですよ。自分が何を知らないのかを知らないと、もしそこに夢があったら一生手に入れられないじゃないですか』

(…僕だって、体操以外に何かできるかもしれない)

 自分の夢を強く抱いていたつもりが、狭い領域の中でくすぶっていただけなんだなと良貴は最近思っていた。体操ができるから体操をやる、それは本当に自分が好きで選んだものなんだろうか。強い志は持っていても、広い志を持っていなかった自分に気がついた。良貴の中に小さなつむじ風が起こっていた。

(…そして、僕には、典子だけとは限らない…)


 生物の講義で良貴の近くに遥が座ることはなくなった。遥はいつも同じ女の子と一緒に座っていた。それが2度、3度と続くうち、良貴の心の中のつむじ風は嵐になった。

 毎日遥を探す自分。遥の言葉を思い出す自分。そして、典子に対して静かになっていく気持ち。典子への気持ちは、必死にかきたてようと努力していた。まだ典子とつきあい始めて1年とちょっとで、自分がそんなにこらえ性がないとは思いたくなかった。けれど、典子に会っている時、態度を偽るのがつらくなっていた。典子がのんびりと何も考えていないような態度を見せるたびに、良貴の心に溌剌とした遥が蘇った。

(まだ、僕は彼女の何を知ってるわけでもないのに…)

 でも、恋心を必死で否定しなければならなくなったら、それはもう明確な結論を示していた。典子を可愛いと思う気持ちはあっても、恋ではないような気がした。遥に会いたくて、話がしたくて、隣に来ないことを何度も恨めしく思った。

(たった2度、話をしただけなのに。それも、ちゃんと2人で過ごしたのはたった1度だけで…。ほんの1時間半くらい、話しただけで…)

 良貴は自分が信じられなかった。そんな軽薄に恋をしたりはしないはずだった。自分自身に対しては、ハッキリ気持ちに結論を出す必要はない。けれど、典子を前にしてそんな気持ちでいることは、嘘をつくことだと思った。


 約束どおりプラネタリウムに行った日、良貴は静かな決意を秘めていた。

 2人で並んで天球を眺めた。典子は一生懸命見入っていた。良貴は、典子の「寝るかも」という冗談にガッカリしたことを思い出し、後ろめたくなった。典子はなんでも冗談にするところがあるが、つまらない映画だって寝ていたことなんか1度もない。むしろ良貴以上に楽しんでいることの方が多かった。与えられるものは何でも受け入れる、典子はそういう子だった。良貴は自分が典子を見失っていることに気付いた。

 これは自分のためでもあるけれど、典子のためでもある…、そう思って良貴は、初めて手を握った公園へ典子を連れてきた。最近はデートスポットとして名が知れてきた、貯水池のある公園だった。

 何も感じていない、いつもどおりの典子の笑顔に良貴は胸を痛めた。

「…座らない?」

 良貴の声はいつもより低く響いた。典子は柵から乗り出して池をのぞき込んでいたが、あわてて飛び降りて良貴の隣に座った。

「あのさ、落ち着いて聞いてほしいんだけど」

 典子の笑顔が消えた。声の調子で、普通の話でないことはすぐにわかった。

 良貴はもったいぶってもしょうがないと思い、簡潔に宣告した。

「…僕、好きな人ができたから…、別れたいんだ」

 典子の心臓をつららのような冷たいものが貫いた。良貴は静かに典子の反応を待った。

 長い長い、長すぎる沈黙が流れた。でも、どうしても典子は言葉を返すことができなかった。良貴が仕方なく口を開いた。

「典子のこと、嫌いになったとかそういうわけじゃないんだ。ただ、もっと他に好きな人ができただけ」

 できればこのまま時間をおいて、自分の気持ちを客観的に見極められるまで待ちたかった。典子は可愛かったし、不幸にしたくはなかった。恋の燃えるような熱さは静かになっても、優しく温かい気持ちはそのまま残っていた。

 典子が何も言わないので、良貴は語りつづけるしかなかった。

「ゴメン。いろいろ考えたんだけど…、中途半端な気持ちでつきあいだけ続けるのは、できないから。例えば、嘘をついてつきあってたとか、典子に対しても、自分に対しても、そういうことをしたくないんだ」

 典子の口元がかすかに動いた。良貴は何も聞こえなかった。

「ゴメン、聞こえなかった。…何?」

 典子の口がもう一度動いた。

「…まだ片想いなの?」

 痛いところを突くな、と良貴は思った。遥が自分に何らかの感情を抱いているとは思えなかったし、それどころか、片想いだなんて言えるほど遥のことを知っているわけでもない。でも、「片想い」以外に自分の気持ちを表す言葉がないのも事実だった。

「うん、今は僕だけの一方的な気持ち」

 典子の口が「そうなの」と動いた。声はちっとも出なかった。

 もっと長い沈黙が流れて、典子がそっと立ち上がった。良貴も重い腰をあげた。

 数十分ぶりに、典子の目が良貴を見つめた。良貴は胸がぎゅっと締めつけられた。この瞳がもう自分に向けられなくなるのだと思うのは切なかった。

「……て」

 典子の唇がかすかに動いた。

「え、…何?」

 良貴は典子の側に近づいた。典子は良貴のとった距離を最後に1歩だけ縮めて至近距離に立ち、

「…最後に、キスして…」

 と言った。良貴は、目の前で震えている典子がひな鳥のように愛しくて、嘘をつかなかったことを悔やみたくなった。このまま遥とチャンスがないなら、何事もなかったように典子の側にい続けたいと思った。良貴はそんな自分の弱さを憎んだ。

「ゴメン。もう、…そういうのも、できないよ」

 良貴は自分の中から典子を追い出すために、強い思いを込めた。そのせいで、語尾が強くなった。典子はその声を、自分に対する苛立ちか怒りと思った。

「ごめんなさい」

 典子はそう言って良貴の側を離れた。無言のまま良貴は駅の方へ向かって歩き、典子はその半歩後を歩いた。

「送ろうか?」

 それでも、典子を一人で帰すのはかわいそうで、良貴はそんな申し出をした。典子はかすかに、

「…いいの。辛くなるから」

 と答えた。

 黙って改札を抜け、連絡通路のところで典子はかすかにお辞儀をして良貴に背を向けた。良貴はまるで罰を受けるかのように典子の背中を最後まで見送った。

 線路を隔てて向かい側のホームに典子の姿がふらふらと現れた。その時、典子の立つホームに電車が入ってきた。良貴は典子が電車に飛び込むかもしれないと一瞬焦った。けれど典子は飛び込まなかった。

 典子が電車に乗り込むのが見えた。車内はがらがらで、どこだって座れたのに、典子は向こうを向いて立っていた。良貴には典子の泣き顔が見えたような気がした。

 ホームに放送が入って、良貴の乗る電車も入ってきた。いまさら、なにもかもが嘘みたいな気がした。


 典子は、メールがあって本当によかったと思った。美恵子に、

「失恋した。好きな人ができたんだって」

 とだけ送信してベッドに入った。そのままほとんど眠れずにじっと天井を見ていた。何も気付かなかった自分を悔やんだが、気付いていたからといって、何をどうすればいいかはわからなかっただろう。

 別れるなんて簡単なんだなと思った。恋が成就するまではあんなにいろいろ悩んで迷って頑張って、お互いに好きにならなければならなかったのに、別れるのなんか片方がそれを宣告すれば成立した。なんの条件も制約もなく、たったひと言あれば十分だった。

 典子は自分の何が悪かったのかを考えた。でも、自分は自分なりに精一杯恋をしてきたつもりだった。一生懸命考えたが、お手上げだった。

 少し前に会ったとき、良貴が「卒業までつきあっていたら結婚もちゃんと考えよう」と言ってくれたのが本当に嬉しかった。もちろん良貴が「条件が成立したら検討する」という客観的な話をしていることはわかっていたが、きっと、ずっと一緒にいられると思っていた。すぐにその「条件」が失われてしまうなんて思いもしなかった。

 翌日、寝不足で顔がむくんでいたが、何食わぬ顔で朝ごはんを食べて、典子は普通に大学へ行った。


 それからしばらくたった日曜日、美恵子は弘志を呼び出した。

「よう、合コンの首尾はどうだ?」

 弘志は自分が一番気にしていたことから話題にした。

「そうですね、引く手あまたでホントに困っちゃう。どうしたらいいと思います?」

 美恵子はにっこり笑って答えた。弘志は焦ったが、平気な顔で、

「俺と天秤にかければ、答えも出るだろ」

 と言った。美恵子はくすくすと笑った。

「えー、元カレとお友達を天秤にかけるなんて、お友達に失礼ですよ」

 美恵子はことさら「お友達」というところを意味深に言った。

「お友達って…そういう存在ができたのか?」

 不安そうな弘志の顔に一瞥を投げ、美恵子はちょっと間をあけてにっこり笑って、

「女の子のお友達から合コンのお誘いがいっぱいで、引く手あまただって言ってるのに」

 と言った。弘志は渋い顔をした。

 美恵子は少し沈黙してから、おそるおそる、

「…典ちゃん、どうしてます?」

 と訊いた。

「典子? …普通に暮らしてるけど?」

 弘志はごくごく普通に答えた。美恵子はため息をついた。

「弘志先輩、無駄な愛情注いだり変なときに気にかけたりしてないで、本当に辛い時に支えになってあげてくださいよ…。もう」

「無駄な愛情って、おまえな~、…」

 弘志は憤慨したが、すぐに言葉を止めた。美恵子はゆっくりと息を吐いて、気を落ち着かせてから言った。

「…典ちゃん、其田くんと別れたみたいです」

「え?」

 時間をかけても飲み込めず、弘志は美恵子をじっと見つめていた。

「其田くん、大学で好きな人見つけたみたいですね」

 弘志には、典子と良貴がまだ始まったばかりに感じられていた。弘志がそのことを知ってから、まだ3ヶ月とたっていない。倉庫で寄り添っていた2人の姿が浮かんだ。

「え、…だって、この春はまだ…」

 美恵子は淋しそうに言った。

「でも、環境が変わって3ヶ月もたてば、人は変わりますよ」

 弘志はまた言葉を失った。良貴のことがわからなくなった。

「典ちゃんは家でも強がってるんだと思います。だって、普通にしてるんでしょ? …多分、死ぬほど辛いと思う…。泣かないで我慢してると、壊れちゃうから…」

 美恵子の言葉を聞いて、弘志の胸の中に、一人で別れを決めて一人で耐えていたかつての美恵子の姿が浮かんだ。そして典子の今の悲しみよりも先に美恵子の過去の悲しみに思いを馳せている自分に気付いて、軽いショックを感じた。

「…そうか…」

 典子は朝の食卓でも普通に明るく楽しく食事をしていた。でも、ひとつだけ心当たりがあった。最近はいつも、食事を残していた。

 重苦しい雰囲気にいたたまれなくて、弘志と美恵子はそれから間もなく帰宅した。典子が部屋にいるのを確かめて、弘志はドアをノックした。

「何?」

 典子の声はどう聞いても普通だった。弘志はそっとドアを開けた。典子は机に向かっていた。その姿勢のまま後ろに伸び上がるようにして振り返った。

「何よ、ノックなんかして。キモチワルイ」

 机の上には何もなかった。典子は一体机に向かって何をしていたんだろうと思うと、弘志は自分のことのように切なくなった。典子に歩み寄って、自分の胸に押し当てるようにして片手で頭を抱きかかえた。

「…残念だったな」

 典子が弘志の胸で苦しそうに、

「えー、なんのことー」

 と言った。弘志はちょっとだけ腕を緩めたが、典子はそのまま動かなかった。じっとしていると、典子のひざにしずくが落ちた。

 弘志はずっと、腕が疲れるくらい長い間、典子の震える肩を優しく叩いてやった。その間中、しずくは典子の膝に落ちつづけた。

「…弘志」

 だいぶたった頃、典子のくぐもった声がした。

「ん?」

 弘志が優しく答えると、典子の声が続いた。

「鼻紙、とって」

「おまえな~…」

 弘志は身を乗り出してティッシュボックスをとってやった。勢いよく鼻をかんで、典子は顔をあげた。

「ゴメン。ありがとー」

 弘志はもう一度、今度は自分のために典子の頭をぎゅっと抱き寄せた。自分の方がもらい泣きしそうになったのを隠すためだった。


 弘志はキャンパスを歩きながら、視線で一生懸命良貴を探した。偶然会った風を装わなければあまりに大げさになってしまいそうだった。努力は1週間ほどで実を結んだ。良貴は一人で歩いていた。弘志は深呼吸をしてから、近づいて行った。

「よー」

 声に不自然さが残った。どうも自分は典子ほど役者になれそうもないな、と弘志は思った。女の子をごまかすのは得意なんだけど、と苦笑した。

「あ、どうも…」

 良貴は遠慮気味に頭を下げた。いつもの親友同士ではなかった。

「久しぶりだなー、なんか。今帰るとこ?」

「あ、はい」

「一緒に帰ろうぜ」

 2人は並んで歩き出した。どうしても空気は重くなった。

「典子と別れたんだって?」

 弘志はさりげなく言った。

「…すみません」

 良貴はそう答えた。良貴自身、弘志との対面が一番辛いだろうと覚悟していた。

「こんなこと、訊けた義理ではないですけど…、典子先輩、大丈夫ですか?」

 もちろんそんな言い方はシャクに障ったが、弘志は努めて冷静に、

「…そりゃあ、大丈夫ってことはないけど、死にゃしないよ」

 と言った。

「そうですか…」

 良貴はもう一度「すみません」と言いそうになったが、謝るのは一回だけと決めていた。

「で、どうなの。うまくいきそうなの」

「え、何が…」

「好きな女、できたんだろ」

 弘志の言葉に良貴は重い気分になった。でも、典子の兄に対してではなく、親友として答えようと思えば少しは気が楽になった。

「そうですけど、まだ、全然…。何も」

「そうか。典子の兄貴としては何も言えないけど…、友人としては、まあ、…頑張れよ」

「…どうも…」

 話題が変わっても、重い空気は払拭できなかった。弘志は、こんな気持ちで良貴と大学時代を過ごすなんて夢にも思わなかった。


 弘志たちのスポーツ観戦サークルに、典子はしばらく顔を出していなかった。弘志は「あいつも、いろいろ忙しくて」とごまかしていた。

 サークルの仲間の一人が「俺らも、何か名前つけねー?」と言い出し、仲間たちで話し合った挙句、結局名前は「オレラ」になった。賛否両論だったが、当面はスポーツ観戦愛好会「オレラ」ということになった。その日集まった人数は10人あまりで、千葉にロッテ×オリックスを見に行った。

 弘志は根本龍一郎と並んで座った。

「なー、典子ちゃんこんどいつ来るの?」

「わかんねーよ」

「…なんで怒るんだ?」

「…怒ってねーよ。別に…」

「…あれ…なんかあったの?」

「べつに、なんにもねーよ」

「やっぱ怒ってるよ」

 弘志はそのまま答えなかったが、龍一郎はなにかあったのかなと思った。龍一郎にとって江藤兄妹は気になる存在だった。周辺の、外見ばかりを飾りつける「女子大生」という生き物にやや辟易していたのもあって、素朴で素直な典子に好感を持っていた。

 龍一郎は、高校のバスケ部や大学のサークルで華やかな恋愛をしてきた。高校時代、バスケ部という環境は、「男子バスケ部」「女子バスケ部」の間でかなり恋愛騒ぎを起こしたし、龍一郎も惚れられるとほだされるきらいがあるのでつきあうことにはなったが、真剣な交際とはいえなかった。大学でも、テニスサークルに入って1人とつきあってひと月で別れ、遍歴ばかりが増えていく恋愛がやや空しくなっていた。テニスサークルをやめて、5月半ば頃からこの「オレラ」の方を楽しんでいた。

 つきあった女の子は合計6人に及んでいたが、そのすべてが、振り返ればそう大した恋愛ではなかった。彼女たちは龍一郎に多大なる要求をふっかけてきて、たくさんの時間と手間、そしてお金がかかった。自分も簡単に飽きたし、向こうも簡単に去っていった。初体験も高校時代に済ませたし、それは何も知らない頃に憧れていたようないいものではなかった。繰り返されて当たり前になってくると、惰性の作業のように思えた。

 のんびりした純粋なスポーツ少年だったはずが、振り返ってみると恋愛というものに対してだけスレて醒めていた。龍一郎は自分の中の恋愛の記憶をリセットしたかった。そして、恋愛に貪欲で男に媚びすぎる女の子を見慣れてしまったせいか、典子を見ると「こういう女の子もいるんだな」と思えた。

 解散間際、龍一郎は弘志に、

「なあ、典子ちゃんに出ておいでよって言っといて。淋しいじゃん。やっぱ」

 と言った。弘志も、その方が典子の気がまぎれるだろうと思った。

 環境が変われば、人は変わる…。美恵子の言っていたことを思い出した。典子は変わった方が幸せなのかもしれないと感じた。


 美恵子は無理矢理引っ張るようにして合コンに連れて来られた。とにかく「無条件で合コンはお断り」と言い張っていたのだが、3人がかりで泣きそうな勢いで懇願され、「何もしゃべらなくていいなら」と仕方なくOKした。

 女の子たちとしては、本当は綺麗な子なんか呼びたくないのだが、合コンにはどうにもならないジレンマがあった。

「可愛い子、連れて来てよ~?」

 女性側に投げかけられるこの言葉は、女性から見て「可愛い」ではなく、男性目線で美人な子を連れてくることを要求している。綺麗な子を連れて行かないと次から応じてもらえなくなる。でも、綺麗な子を連れて行くといい男が取られてしまう。つらいジレンマだったが、その点美恵子は非常にいい人材だった。美恵子は、寄ってきた男の子を絶対に切り捨ててくれるだろう。

 美恵子はそんなことに巻き込まれたくはなかったのだが、どうしてもつきあいというものはあった。ある金曜日の夜、まったく気が乗らないまま、合コンの席に身を置くこととなった。

 コンパでの、一定時間ごとに少しずつ席をずらしていくというやり方を、美恵子は回転寿司みたいだと思った。

 セリス女学院は人気の高いお嬢様学校だったから、相手だってそれなりのネームバリューでないとコンパのOKはもらえない。この日のお相手は東大生。東大生は、勉強ばかりしていた冴えないマジメ男くんばかりではない。その日の彼らはまあ悪くない顔ぶれだったといえたが、美恵子はバカバカしいなあと思って座っていた。

(合コンに来るような連中は、みんな嫌い)

 ただ、弘志が果たして合コンに行かないタイプかと言われるとそのへんはかなり疑問だったので、目の前の連中についても少しは寛容になることにした。

 そうしてなんとか会話に参加したものの、席替えをしながらひと通り話をする間に美恵子はすっかり嫌になっていた。

(この人たち、そんなに東大が自慢なんだ)

 彼らの言葉の端々にそういう気配が見て取れた。しかも、セリスの女の子と会えるなんて光栄で、でも俺たち東大生に比べると私立一流大学はダメらしい。

(…私、和佐田落ちてセリスに来たんだけど)

「フリータイム」に入る頃には、美恵子はすっかり(酒でなく、雰囲気で)できあがっていた。最初に声をかけてきた男の子は、いろいろと前フリに世間話をしてから、

「結構、合コンとか行ってるの?」

 と切り出した。美恵子は、ただでさえうんざりしていたのに、さらにムッとした。

「…いえ? 全然」

「そっかー、今日は特別来てくれたんだ、なんか今日、初めて東大に入ってよかったと思ったよ~」

(誰も、相手が東大だから来たとか、言ってないわよ)

「別に、わざわざ今日を選んで出てきたわけじゃないですよ」

「あ、いや…偶然今日出会えてよかったなってことだけどさ。ねえ、なんで女子大に入ったの?」

「他にいいとこ受からなかったからですよ」

「えー、でも、セリスだったら十分じゃん」

(…バカじゃないの。…っていうか、私がバカにされてるんだな)

「十分じゃないですよ。もっといい大学に入りたかったんですけどね。和佐田とか」

「え、そう? 何で和佐田なの? 貧乏くさくて汚そうじゃない?」

「和佐田に行った友達、おしゃれでお嬢様で可愛い子結構いますよ」

「あ、そうなんだ。でもさ、いいじゃん、セリス入れたんだから」

「そうですよね、私、和佐田をふた学部も受けたのに落ちるような頭なんで、セリスに入れただけで有難く思うべきでしょうね」

「ゴメン、そういう意味じゃなかったんだけど」

「いいんですよ、東大よりも下の和佐田落ちたようなレベルですから、東大の人にバカにされてもしょうがないですよ」

 すっかり気分が冷めきっていた美恵子は、礼儀としてほんのわずかの笑顔は絶やさないものの、誰に話しかけられてもこの調子だった。少しばかりまずいかなと思ったが、彼らは単に美恵子がダメなら他の子を狙うだけだったし、この合コンで相手が見つからなくても、彼らには次の合コンがあった。

 美恵子が男子一同に見事相手にされなくなった頃、一緒に来た女の子たちはそれぞれそれなりに相手を見つけていた。彼女たちが美恵子に「よくやった」と思っている気配が伝わってきた。その時美恵子は、普段から「合コンに来るような男は嫌い」と強く言っている自分をどうして友人一同が熱心に誘うのかを、やっと正しい意味で理解した。

(もう、2度と来ない)

 美恵子の合コン参加は、この日が最初で最後になった。

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