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17 クリスマス


 典子、良貴、美恵子、3人にとっては受験勉強もたけなわな冬に、クリスマスはやってくる。弘志は12月24日の未明、「チーン」という不審な物音で目が覚めた。

 弘志が足音を忍ばせて階段を下りていくと、いつも開けっ放しの台所が締め切られていた。慎重にドアをずらしてのぞき込むと、典子が焼き上がったケーキを型から取り出していた。

(…こそこそ作ってるのは、どこかの男にプレゼントするのか? 誰だろ?)

 予備校は週に2日だけつまらなそうに行ってすぐに帰って来ていたから、予備校の誰かとは考えられない。典子は大概家にいて、せいぜい行くとしたら体操部くらいだ。可能性としては、消去法にするまでもなく良貴くらいしか浮かばなかった。弘志は首をひねりつつ、とりあえず部屋に戻った。

 典子は、ケーキが焼けるチーンという音に肝が縮む思いをした。

(あー、びっくりした)

 すぐに使ったボールや泡立て器を洗って片付け、自分の部屋にケーキを隠した。台所から階段、廊下とケーキの匂いが充満していたので冬の朝の窓を全開にして換気をして、しばらく待ってから窓を閉めて部屋に戻った。おかげでその日の江藤家の室温は普段より少し低めになった。

 良貴と美恵子は高校の終業式で、そのため二組とも、会うのは午後遅い約束になっていた。大学が休みでヒマな弘志と浪人の典子は家にいて、弘志はケーキが隠してある典子の部屋に遠慮なく入ってきた。

「おまえ、今日出かけないの?」

「え、出かけるよ?」

「どこへ」

「友達と、パーティーやるの」

 友達とパーティーなら、ケーキ作りは堂々とやればいい。弘志は訝った。

「何時に出かけるんだ?」

「夕方」

「そうか、あんまり遅くなるなよ」

 弘志は疑問こそ残ったが、それ以上追及できなかった。

 美恵子は予定どおりの時刻にやってきた。典子が玄関に出て出迎えた。

「弘志なら部屋にいるよ~」

「…ありがとう。典ちゃんは、何時に出かけるの?」

「5時に着くように行く。お互いに、ハッピーに過ごせるといいね!」

「…私と弘志先輩はともかく、典ちゃんと其田くんはちゃんと恋人同士なんだから、ちゃんとそれなりに気をつけてね。なんか間違いがないように…」

「其田くん、そういうことしないよ」

 美恵子は「男なんて、わからないんだから」と言いたかったが、典子は「私と其田くんは違う」くらいにしか考えないだろうと思ってあきらめた。

 美恵子はおずおずと、でも感情が出ないように弘志の部屋をノックした。

「どうぞー」

 弘志の声が答えた。美恵子が部屋に入ると、弘志はテーブルだけ用意して、ベッドに背中を預けて座っていた。ベッドというものは存在するだけで警戒心を起こさせる。美恵子はとっさに顔がこわばりそうになり、必死で表情を動かさないように努力した。

「お茶とか用意したいんだけど、勝手がわかんねーんだよな」

 弘志はベッドの側面から体を起こして立ち上がった。

「下の台所、手伝ってもらっていいか?」

 美恵子は荷物を床にそっと置き、「いいですよ」と微笑んだ。

 誰もいない台所で弘志と美恵子はお茶の支度をはじめた。弘志は台所を全くわかっておらず、美恵子はこっそり「結婚したら世話が焼けそう」と思った。

「そういえば、お母さんは?」

「クリスマスイブは稼ぎ時だから、パートだよ」

「何時に帰ってくるんですか?」

 美恵子はさりげなく訊いたつもりだったが、弘志にあっさり、

「あ、警戒してるな」

 と言われてしまった。

「よく、平気でそういうことが言えますね」

 美恵子は赤くなった。

「あ、ゴメン、警戒じゃなくて、期待してた?」

「…信じらんない。もし私が彼女でも、そんなこと、普通言いませんよ!」

「彼女だったら、言わねーよそんなこと」

 美恵子は思わず立ち尽くし、少ししてから低い声でつぶやいた。

「…帰ります」

「冗談のわかんねー奴だな~。おまえに限って、絶対『期待』とかナイから冗談になるんだろ」

(彼女じゃない、って断言されたのがショックだったんだけど…)

 美恵子は拍子抜けした。そばで過ごしてみると、弘志がけっこう鈍感なことに気づく。

「女の子なら、普通誰だって警戒します。期待するとかしないとかいう話は、それだけでセクハラです。不快です」

「わかったよ、悪かったよ。…シャレんなんねえってことは、期待してたのか」

「何か言いました?」

「ん、いーや?」

 美恵子はもちろんしっかり聞こえていたが、聞き流した。だって、本当のところ何か考えなくもなかったし、もしそういう事態になったらアリかもと思っていた。しっかり買ったばかりの勝負下着を着けて来ていた。

(…私のこと、ちゃんと好きだって言ってくれたら、そういうことがあってもいい)

 お湯が沸くのを待つ間、弘志は廊下を気にしていた。

「…典子、まだ出かけないよな~」

 美恵子はちらっと弘志を見て、

「早く2人っきりになりたいんですか?」

 と冷たく言った。

「あ、根にもってるな」

「え、別に。私、先輩を信じてますから」

 美恵子は江藤家の食器棚をのぞいてティーカップを発見した。隣にティーポットもあったので、取り出した。それでもなお弘志が廊下を見ていたので、美恵子は憮然とした。

「なー、おまえ今日典子がどこに行くのか、知ってんじゃねーの」

 弘志は訊いた。

「…なんで、先輩ってそんなに典ちゃんのプライバシーに踏み込むんですか?」

「妹のことだもん、気になるだろ~」

「そんなことないですよ。世間一般の兄妹は、そのくらいの歳になったらほとんど他人です。弘志先輩が妹離れできてないんですよ」

 美恵子はつんとしてお盆に食器を詰め込んだ。

 お湯がわいたのでティーポットに紅茶を作り、弘志の部屋へ戻った。美恵子は部屋に入る前に、

「…今日は、ひとりもの同士の残念会ですから」

 と弘志に念を押した。弘志はちらっと美恵子を見て、

「…そこまで警戒されると、俺も男冥利に尽きるな~」

 と言った。美恵子はふんと顔をそらして弘志の部屋に入り、ドアを閉めた。

 さすがに弘志もクリスマスに女の子を部屋に引っ張り込むと妙な緊張を感じた。美恵子もやけに姿勢を正して座っていた。

「まあ、お互い彼氏も彼女もいなくて残念、ということで、楽しくやろうぜ」

 紅茶に口をつける間の静寂も、微妙に気まずい気がした。その気まずさが危険な方向に転がりそうな気がして、美恵子は少し怖かった。

「…体操部、楽しいですか?」

 静寂を破るために美恵子は訊いた。弘志は嬉しそうに答えた。

「あー、やっぱり体操部はいいな~。過去にしがみついてるみたいで後ろ向きな気はするんだけど。まだ大学生になりたくないし、…まあなっちゃったんだけど、その先に社会人にもなりたくない。典子見てると、浪人した方がよかったかな~って思うもんな」

 美恵子はあまり深刻にならないように言った。

「…先輩は、将来何になりたいんですか?」

「何、っていうと、野球選手とかおまわりさんとか、スーパーヒーローとかか?」

「茶化さないでください。本当に、近い将来社会に出たら…っていうことです」

「…ふーん、結婚相手の品定め?」

「自信過剰すぎるんじゃないですか? マジメな話の時は、マジメに聞いてください」

「…はいはい。…でもな~、実のトコ、答えられないんだけどな」

 弘志も真面目な顔になって紅茶の深い色を見つめた。大学に入ってからずっと、自分でも考えていた命題だった。

「大学に入ったら何か見つかるかと思ったけど、かえって自分まで見失った気がする」

 美恵子は伏せた目をさらに深く伏せて、

「弘志先輩、以前より魅力的じゃなくなりましたよ」

 と正直に言った。

「…先輩って、何かを手に入れると…どこか自分を見失うところ、ありますよね」

「そうかな。俺は俺なりに、そういうの…『何かが始まった時』だから戸惑いもある、と思ってるんだけどな」

 弘志は静かに反論した。美恵子はちらっと目を上げて、

「…でも、それから1年近くたっても戸惑いのまま、なんとなくそれでいいやって感じで済ませちゃいますよね、先輩って」

 と言った。

「…おまえは、結論が早すぎなんだよ」

「先輩が呑気なんですよ」

 珍妙な雰囲気だった。元恋人同士だから部屋の中には一定の緊張感があったし、かといって恋人同士の気配はなく、妙な馴れ合いと不思議な遠慮があった。それは心地よくもあったし、息苦しくもあった。

「…そうだ、おまえに一つ、謝りたいと思ってたことがあるんだ」

 弘志は穏やかな表情になって言った。美恵子は顔を上げた。

「…つきあってた時、俺、おまえのことどう扱っていいかわかんなくてさ。彼女なんか、できたの初めてだったし」

 美恵子はドキッとして目を伏せた。長いまつげが憂い顔を飾った。

「後悔はしないことにしてるんだけどな。何事も、人生経験だからさ。ただ、ひとつだけ気になってるのが、おまえに結論を出させちゃったこと」

 弘志は紅茶を一口飲んだ。

「俺にとっては、おまえが別れようって言った時、青天の霹靂だったんだよ。おまえがずっと悩んだり、傷ついたりしてたのに、全然気づかなかったんだなって…いまさらさ、思うわけ。それを謝りたかったんだけど、あんまりガラじゃないから、なかなかチャンスもなくて。…悪かったな。つきあいがいのない男で」

 美恵子は静かに聞いていたが、突然涙がこみ上げてきた。必死で止めたが、目が少し潤んだ。何か言いたかったが、声が震えそうで口が開けなかった。

 弘志はそんな美恵子の気持ちを感じ取れるような気がしていた。美恵子が「彼女」だった頃は何も気付いてやれなかった。あの頃は気遣えば気遣うほど相手の気持ちが見えなくなったし、優しくすればするほど自分が見えなくなった。今、他人だからという言い訳が弘志を冷静にしていた。

 弘志は「こっちに来いよ」と言おうとした。その瞬間、廊下でドアの開く音がした。

「あ、ちょっと悪ィ、典子が出かけるみたいだから」

 弘志が部屋を出た後に美恵子がそっと時計を見ると、夕方4時半をさしていた。そろそろお出かけの時間だった。

「典子、出かけるのか~」

「なんだ弘志、私勝手に出て行くから、美恵ちゃんとクリスマスやってなよ」

典子は大きな紙袋を下げていた。その底の面積の広さから、弘志はケーキだなと思った。その上には別の包みも載っていて、プレゼントらしかった。

「何時ごろ帰ってくるんだ?」

 弘志が訊くと、典子は怪しい微笑みを浮かべて、

「大丈夫だよ、しばらく帰って来ないから。でも美恵ちゃんに変なことしちゃダメだよ」

 と言った。弘志はさすがに赤くなって、

「バーカ。俺らはシングルベルの悲しみにひたってるんだよ」

 と言い返した。

「どうせ、かーさんに典子が何時に帰ってくるんだって訊かれるんだからさ。何時?」

「わかんない、お開きになったら」

「…泊まり込みは禁止だぞ。遅くならずに帰って来いよー」

「わかってるよ~」

 結局弘志はみすみす典子を行かせてしまった。美恵子に「なぜそんなにプライバシーに踏み込むのか」と言われたのが気になって、しつこく訊くことはできなかった。

 元恋人同士を2人っきりで残した江藤家とは対照的に、典子が訪ねると其田家は家族皆が揃っていた。典子はちょっと緊張気味に家族の皆さんに愛嬌を振りまいて居間を通り過ぎ、良貴の部屋にたどりついた。

「すごい、お父さんはじめて見た。あとさ、弟さんよく見たの初めてなんだけど、ちょっと歳、離れてる?」

「うん、5つ違うかな。まだ中1だよ」

「緊張した~。なんで、皆揃ってるの~」

「ウチは例年、家族でクリスマスやってたから。今年は典子先輩が来るから、僕だけのけもの」

「えー! じゃあ私、邪魔者じゃない」

「大丈夫だよ、僕だってそういう年頃なんだってことは、わかってるでしょ」

 良貴の口調からは典子に対する先輩扱いが消えていた。いわゆる「進展」という意味では全く何事もなかったが、そういうささやかな変化はいたるところに見られた。

「その服、似合うよ。イメージ違うけど。典子先輩っていろいろなの似合うんじゃない?」

 良貴は普段女の子のおしゃれには全く気付かなかったが、今回の典子の努力は実を結んだ。

「え~、本当~?」

 へなへなっと笑うとやっぱりいつもの典子だったが、今日はすましているとちょっとエレガントだった。髪は、がんばったもののうまくいかなかったのでまっすぐおろしただけだったが、くせっ毛が軽くウェーブしてセットしたように見えた。

 それから2人は典子の焼いてきたケーキを取り出して切り、家族の元へも届けた。それから道の途中で買ってきた子供用のシャンパンで乾杯した。2人っきりで部屋にいても、同じ階のすぐそばで親子3人が団欒していると全然恋人同士の雰囲気にはならなかった。

 夜の9時を迎えて、先に動きがあったのは江藤家のほうだった。

 美恵子は弘志のアルバムを見てあちこちに典子を見つけては喜び、見終わって本棚に丁寧に戻した。そして元座っていたところに戻ろうとすると、弘志がさりげなく、

「…こっちに来いよ」

 と言った。美恵子は焦り、表情を取り繕うタイミングが一瞬だけ遅れてしまった。

「別に、変なことしようとか思ってねーよ。真っ正面から向かい合ってるのも、対決みたいで疲れるだろ」

 弘志はベッドの側面によりかかったまま、その隣にあいていたスペースに美恵子を掌で呼んだ。

「おまえもそんな上品ぶって座ってるの、疲れただろ」

 弘志はそう言って笑った。美恵子はしらっと、

「私、上品だから大丈夫ですよ?」

 と言ったが、しっかり言われたとおり隣にやってきた。

 ベッドを背もたれがわりにして2人で座ると、なんだか突然しみじみした。

「あれから、いろいろあったな~」

「そうですね」

「なんか、年よりくさいな~」

「そうですね、先輩なんかもう大学生だし」

 美恵子がちょっとだけ「恋人同士に戻ろうか」なんて言葉を期待した瞬間、弘志が、

「…おまえ、彼氏つくんないの?」

 と訊いた。美恵子はその真意を測りかねた。要らないと言うべきか、淋しいと言うべきか…。結局、返答から逃げた。

「他人のことより、ご自分はどうなんですか?」

「べつに、要らない」

 弘志は即答した。美恵子はガッカリした。

「俺は別に、今のままでいいよ。とりあえず、おまえもいるし」

 そう言って、弘志はいきなり美恵子の肩を抱き寄せた。

「ちょっと待ってください、とりあえずってなんですか?」

 美恵子は慌てて肩に回った弘志の手を外そうと(するふりを)した。

「たまにはこういう気分もつきあえよ。どうせ、彼氏もいないんだから」

 弘志は美恵子をもっと強く抱き寄せた。

「どこかに、好きな人がいるかもしれないじゃないですか」

 美恵子はちょっと口をとがらせたが、ゆっくり弘志にもたれかかった。

(…もしかして私って、都合のいい女なのかしら…)

 どうしても恋愛に逃げ腰な弘志に美恵子はいささか不満を感じたが、それでも抱き寄せられるとたまらなく心地よかった。

「こーいうの、…好きな男じゃなきゃイヤか?」

 弘志は緊張を隠して軽い声で言った。美恵子はやっぱりシャクに障ったが、

「…別にいいですよ、昔好きだったオトコでも」

 と答えた。

(…ねえ、私たちの関係って何? 何か決めちゃったら、やっぱり壊れちゃうのかな?)

 美恵子は心の中でそっと訊いた。2人はしばらくそのままじっとお互いのぬくもりだけを感じていた。

 其田家の方では、すばらしく色気のないクリスマスが展開していた。良貴は典子のプレゼントのセーター(残念ながら買ったものだったが)を着ていたし、典子は良貴のプレゼントのペンダントをしていたが、ただそれだけのことで、クリスマス商戦を当てこんで発売されたゲームを2人でプレイしていた。

「…典子先輩、なんか…ゴメン」

「え、何が?」

「…うん、あんまり、クリスマスって感じじゃなくて」

「ん、でも、…クリスマスにしか会えないとか、そういうわけじゃないし」

 良貴は典子のその言い方に、ちょっとだけ残念な気持ちを感じ取った。

 手を伸ばした時の典子の戸惑いや恥じらいを見るのは好きだったが、良貴にとってはそれだけだった。16、17歳の頃まで恋に縁がないほど恋愛に無欲だった良貴と典子は、いきなり世間一般の高校生たちのような恋愛には入っていけなかった。でも、恋愛は行動を要求する。それは、「少しは進展しなければ」という強迫観念に近かった。

(…普通はどのくらいつきあったら、キスとか…するんだろう。今日、何もしないで帰したら、それって男として情けないかな)

 もう、4月につきあい始めて9ヶ月がたとうとしていた。

「あ、もう9時すぎちゃった。そろそろ、帰るね」

典子はコップやゴミを片付け始めた。良貴はゲーム機を片付けに立った。

 おしゃれをしてきた典子の背中が気にかかった。テーブルの上に乗り出した典子の背中から腰にかけてのカーブが綺麗で、ドキッとした。綺麗におめかししてきてくれた彼女にゲームだけで時間を費やさせてしまったことに、急に罪悪感が湧いてきた。

(…じゃあ、キスだけ)

 良貴は一瞬、自分の考えたことの醸し出す甘い空気にゾクッとした。胸に迫るような、寒気に似た感覚だった。

「典子先輩」

 さりげなく声をかけたつもりが、どこかうわずった。典子は片付けの手を止めて、膝をついたまま良貴を振り返った。良貴がいつもよりぐっと近くまで近づき、典子が慌てて目を伏せた。良貴はそのままの姿勢で典子を抱きしめた。立っている良貴と膝をついている典子の身長差は30センチ以上あった。

(…せめてこの半分の差でも、僕の方が背があれば…)

 良貴の腕が緩むと、典子はドキドキしながらそのまま正座する形で座った。良貴はそれを追うように膝をついた。そして典子の肩に手をかけた。

「…目を閉じて」

 典子は一瞬良貴を見上げ、まるで叩かれた子供のように反射的に目を閉じてややうつむいた。ちょっと下を向いた典子の唇に、良貴はそっと唇を寄せた。典子の背中が少し逃げるように後ろに下がって、そのせいで少し顔が起きた。良貴は容赦なく唇を奪った。かすかでとても軽い、けれど長いキスになった。

「…驚いた?」

 典子をぎゅっと抱きしめて良貴は言った。典子がかすかにうなずくのがわかった。

「少しは、クリスマスらしくなったでしょ」

 典子はまた、素直にうなずいた。

「典子先輩。あのさ…呼び捨てにしてもいい?」

 典子は同じように良貴の腕の中でうなずいた。良貴はそっと息を吸い込んで、

「…典子」

 と呼んだ。典子の腕がそっと良貴の背中に回った。良貴は抱きしめる腕に力をこめた。

「其田くん、大好き…」

 胸元に抱かれた典子の唇がかすかに動いた。良貴は思わず顔がほころんだ。答えようかと思ったが、言わせっぱなしにした方が気持ちよかったから、何も言わなかった。

 良貴はそれからゆっくり腕を離して、小さな子供に言うように優しく、

「…帰らないとね」

 と言った。

 それから二人で其田家を出て、良貴は典子を駅まで送った。道すがら、良貴はゆっくりと訊いた。

「…これからずっと、典子…って呼んでもいい?」

 典子は唇を隠すように口元に手を添えたまま、はにかみながらうなずいた。

「あ、でも、弘志先輩の前でとか、部活では、典子先輩って言うけどね」

 良貴はニコッと笑って典子を見た。典子も笑ってうなずいた。

「それから、弘志先輩にはキスしたなんて言わないでよ。ただじゃすまなそうだから」

 典子は蒸し返されて真っ赤になった。良貴は、自分にもキスのできる相手がいることにじわじわと幸福を感じた。

 典子は夢見心地の潤んだ瞳で良貴を見つめ、星に願いをかけるような声で、

「…今日はありがとう…。嬉しかった…」

 と言った。

「これから受験とかで、忙しくなるとは思うけど…また電話して。体操部に出る時は、声かけてよ。僕も出るから。…ね、…典子」

 ちょっとわざとらしかったかなと思いながら、良貴は典子をもう一度名前で呼んだ。典子は嬉しそうに、でもやっぱりはにかんでうなずいた。

(…みんなは典子を元気で明るい女の子だと思ってるけど…、僕だけが知ってる、おとなしくてはにかみやな一面)

 世界中で自分だけがそんな典子を知っている。そう、弘志だって知らない一面だろう。良貴はじっくり優越感に浸った。

「…じゃあ、気をつけてね」

 良貴が背中に声をかけると、典子は本当に嬉しそうに笑顔を見せて手を振った。いつもの典子よりずっと力なく見えた。良貴はその背中を見送って、駅に背を向けた。


 それからしばらくして、江藤家の玄関で、ドアの開く音がした。

「あれ、典子かな」

 美恵子を抱き寄せる弘志の腕が緩んだ。

「ちょっと、見てくるよ」

 弘志は遠慮なく美恵子の隣を立って部屋を出て行った。

(…典ちゃんを迎えに出る必要がどこにあるの? 子供じゃないんだから)

 美恵子は憤然とした。至福の時間を唐突に終了されるのは釈然としなかった。

(典ちゃんも、こんなときに帰ってくることないのに)

 そう思ったとき、弘志が部屋に戻ってきた。

「んー、母だった。典子、遅いな~」

 時計は21時半を回っていた。

(…だったら、私だって、遅いんですけど)

 そのまま弘志がまた隣に来てくれれば美恵子も良しとしたのだが、弘志はダメ押しに、

「…いつの間にか帰ってきた様子とか、なかったよな?」

 と美恵子に訊いた。美恵子はうんざりして、

「…さあ。でも、まだ9時半でしょ?」

 と冷たく言って立ち上がった。弘志はしばらく美恵子を見つめて黙った。美恵子は「気にしてくれたかな?」と思った。

「…おまえ、典子が今日誰と会ってるか、ホントは知ってるんじゃない?」

 なのに弘志が口にしたのはそんな言葉で、美恵子は頭に血が上って強く言い返した。

「…知りませんよ! なんで、私より、いっつも典子、典子って、典ちゃんだってもう大人でしょ? なんで先輩がそんなに気にしないといけないの? 一秒でも目を離すと死んじゃうの? そりゃあ、私より、…」

 美恵子は少し口ごもった。

「そりゃあ、私は彼女でも何でもないし、…警戒してるとか期待してるとかってからかわれちゃうような存在だし、どうせ、…」

 弘志が一番傷つく言葉を一生懸命探した。悔しかった。

「…先輩なんか、だから私にも逃げられちゃうのよ。私なんか誘わないで、典ちゃんと近親相姦してればいいじゃない、…」

 弘志は眉をわずかに動かすと、無言でつかつかと美恵子の側に歩み寄った。美恵子はもっと険しい顔をしてみせたが、内心は怒らせたかと慌てていた。弘志は無言で美恵子の両腕をつかんで体重をかけた。美恵子があっと思った時には、ベッドに押し倒されていた。

「…おまえは、じゃあ俺がどうすれば満足なわけ?」

 弘志の落ち着いた目が怖かった。美恵子は負けるもんかと必死で見つめ返した。

「なんで近親相姦とか言うの。おまえがそーいうこと、してほしいからじゃないの?」

 弘志の体重がじわりと増した。

「男がそーいうこと、考えないわけないだろ。でも、おまえと俺じゃ、そーいうワケにいかないだろ。だから、冗談にしてやってんだ。おまえが彼女だったら、何も言わないで押し倒してんだよ。…それとも、冗談より、そうされたかったか?」

 美恵子は自分の体が震えているのに気がついた。こういう事態だって想定していたはずなのに、いざベッドに押し付けられてみると怖かった。抵抗しようにも、弘志の腕の力はとても強くて、首を横に振ったが、かすかにしか動かなかった。

 長い髪をシーツにたなびかせて横たわっている美恵子はあまりに綺麗で、それこそ壊してしまいたいくらいの劣情をそそった。激痛に耐えるような力をこめて、弘志はなんとかブレーキを引いて、引いて、ギリギリ踏みとどまった。

「バーカ、冗談だ」

 弘志は美恵子の上から降りて、そのまま元いたベッドの脇に座った。肩の後ろあたりで美恵子が起き上がってそっと髪を直すのを感じた。

 美恵子は静かな足取りではじめに座っていた弘志の正面に戻り、そっと座った。弘志がちらっと目を馳せると、潤んだ瞳と上気した顔が異様に美しかった。

「冗談にしたって、度がすぎますよ」

 美恵子は必死で言葉を返したが、弘志の顔はとても見られなかった。

「近親相姦なんて言うからだ。他の奴に面白がって言われるのは全然かまわないけど、おまえにそういうことは言われたくない」

 弘志は幾分遠回りに自分の気持ちを伝えた。美恵子も、そんな風に弘志が投げてくる想いをつかまえるのにはもう慣れていた。

 それから少しして、玄関の方から、

「ただいまー」

 という声がした。美恵子はやっと落ち着いて調子を取り戻し、

「スイートハニーがお帰りになったんじゃない?」

 と、わざとらしく冷たい声色で言った。

「…なあ、典子はホントは今日、どこかで男と会ってたんじゃねーの?」

 それでも相変わらずな弘志に、さすがに美恵子は笑ってしまった。もう怒る気にはならなかった。

「先輩、いい加減にしないと、典ちゃんに嫌われますよ。うるさいオヤジみたいで」

「なんだよ、典子がこそこそするから気になるんだろ。そーいう奴がいるなら、俺に堂々と紹介すれば、少しは俺も大人になるよ。ちょっと見てくる」

 そう言って出て行く弘志の背中に、美恵子は気の毒そうな笑いを向けた。

(…あらためて紹介する必要なんか、ない人よ)

 弘志のいなくなった部屋で、美恵子はそっと伸び上がってベッドの上をのぞき込んだ。危機が去ってあらためて振り返ってみると、なんだか惜しかったような気がした。

(…弘志先輩も、意気地なしなんだから…)

 弘志の気も知らないで、美恵子はちょっと口をとがらせた。ベッドに自分の長い髪が落ちているのを見つけると、満面の笑みになった。

(なにかあったみたい。いやだ)

 典子は元気に帰ってきた。首に、出て行くときにはなかったペンダントがかかっていた。

「…典子、それ、どうしたんだ?」

「そりゃあもちろん、プレゼント交換でゲットしたのよ」

 典子は答えた。一応嘘は言っていない。そこに、美恵子が静かに階段を下りてきた。

「あっ、美恵ちゃん」

「…すみません弘志先輩、私、帰りますね」

「ああ、送ってくよ」

 弘志が言うと、典子が、

「美恵ちゃん、私が送るよー」

 と横取りした。

「え、なに言ってんだよ、そしたらおまえも危ないだろ」

「なんで? まだ10時前じゃん。人、いっぱい通るよ」

「典ちゃん、じゃあ、途中まで送ってよ」

「えー、美恵子、おまえな~」

「行こー」

「行こー」

 女2人の結束に入る余地なんかなかった。弘志は複雑な気持ちで2人を見送った。

 典子と美恵子は後ろを振り返って、江藤家がちょっと遠ざかったのを確かめてから、

「どうだった~?」

 と同時に言った。

「何よ、典ちゃんの方がちゃんと恋人同士なんだから、なんかあったでしょ~?」

「えー、弘志の方が手、早そうだから、なんかあったんじゃないの~?」

 さんざんお互いに牽制しあったあと、典子の方が先に口を割った。

「…キスされちゃった」

「え~! しかも、しちゃった、じゃなくて、されちゃった、なんだ。其田くんも、おとなしそーな顔して、やることはやるのね~」

「美恵ちゃんは~?」

「…え、うん、何もなかったって言えば、何もなかったけど…、キスの一つもしなかったよ、そういう意味で言えば」

「えー、そういう意味じゃなくて言えば?」

 美恵子は相当照れて言い渋ってから、やっと言った。

「んー…押し倒されちゃった」

「ギャー、うそ~。なんてことすんの、アイツ~。美恵ちゃん、無事だった?」

「うん。冗談、だってさ」

「冗談なわけ、ないでしょ~! だいじょうぶ~??」

「大丈夫、残念ながら未遂だから」

 肩をすくめて笑った美恵子に、典子は不思議そうな顔を向けた。

「…残念なの?」

 美恵子はくすくす笑った。

「…すっごく残念。無事だったとか大丈夫とか、どうなのかな、そういう言い方って、正しいのかな。むしろ無事じゃない方が、よかったんだけど…」

「きゃー。美恵ちゃん、なんてこと言うの~。どうしよう~、オトナの世界だわ~」

 2人はひとしきり今日の戦況を語り合い、さらに今後の健闘を祈りあって近くの交差点で別れた。

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