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16 戸惑いと、素敵な時間


 良貴と典子がつきあいを始めてから3ヶ月は、あっという間に過ぎた。良貴は携帯電話を持つようになって、典子の方から電話をかけるようにしていた。最初は普通の若者のようにデートに行っていたが、次第に良貴の部屋でいっしょにゲームをしたり、近くの区民体育館で泳いだりトレーニングをしたりすることが多くなった。なんだか典子も良貴も恋人然としているのは照れくさかった。

 典子はそんなつきあいを美恵子や別の友達に「色気がない」と言われたが、べつにそれで満足していた。良貴はそういう指摘をしてくれるほど女の子に詳しい友達がいなかったから、ずっと、疑問に思うことすらなかった。

 典子は受け身な性格なので、何事も良貴任せでのんびりしていた。その分良貴は最近になっていろんな悩み、…前向きな悩み、を抱えるようになっていた。

 2人は良貴の部屋で2人っきりでいても、全く、いわゆる「そういう雰囲気」にならなかった。たいがいゲーム機の電源が入っていたし、良貴の家はマンションだったから同じ階でいつも家族の足音がしていた。

(…まずいのかな、こんな風に何事もないのは)

 このままでは恋愛というより家族、それも同性の兄弟みたいだった。安定しすぎた関係をマンネリだとかときめきがなくなったとか問題視する気持ちはさらさらなかったが、男として自分があまりに甲斐性がないのではないかとは思った。

(…なんかするべき? でも、なんかって…)

 もちろん普通の恋人同士がどういうプロセスをたどり、どんなことをするのかということは知っていた。でも、正直言って良貴は「ピンと来ない」という状態だった。典子は、良貴にとって、とても微笑ましく、可愛らしい存在だった。

(こうして停滞しているの「つまらない男」なのかな。これは僕の責任なんだろうか?)

 典子は良貴と一緒にいられればそれで満足らしく、いつも嬉しそうにしていた。おおよそ変化を求めているようには見えなかった。

(…なにか行動したりした方が、かえって関係を壊してしまうのかもしれないし…)

 良貴は真剣に悩んでいた。

 典子は現在の関係に満足していた。18歳の女の子にしてはてんで恋愛に疎くて、それこそ聡史に抱きしめられてやっと少し自覚が出てきた程度だった。

 典子だってもちろん恋愛の進む先は知っていたが、世間一般の認識とは逆に「まだ、18歳だし」と思っていた。ずっと片想いをしてきた分と同じ、2年くらいこのままでもいいと思った。典子は何も考えていなかった。

(其田くんさえいてくれれば、それでいいの)


 弘志は大学生になった。

 弘志は和佐田大学人間科学部に社会学専攻で入った。とくに社会学が学びたいというわけではなく、受かったから入ったにすぎない。

 サークルには入らなかった。分厚いサークルガイドを細かく読む気になれず、選ぶのをやめた。そして高校で仲良くしていた連中と学外サークルのようなものを作った。運動部の連中が多かったせいもあり、スポーツ観戦サークルになった。仲間が仲間を誘って友人の数は増えた。

 授業は退屈で、どうしても受け身になった。授業のたびに生徒が入れ替わり、何人か同じ授業で一緒に座る仲間ができた。声をかけてくる女の子もいたが、弘志はそういう女の子相手にはやや人見知りをした。「部活で一緒」など、仲間になれる環境があるのならいいが、大して親しくもない女の子にむやみに調子のいいことを言うのは得意ではなかった。男子とはそれなりに親しくなったが、授業が別々の日は顔も合わせなかった。高校時代に比べて、なんだか生活が希薄になったような気がした。自分が根を下ろす場所がどこにもないような、帰る場所がどこにもないような生活だった。

 典子がいて、良貴がいて、美恵子がいた高校時代が懐しかった。大学にはあまりにもたくさんの人がいて、あまりにも広くて、どこに行っても過ごす場所はあったが、自分が自分になれる「居場所」はどこにもなかった。

「ねー、なんでこの頃、いつもそんなんなの?」

 典子はベッドを占領して本を読んでいる弘志に向かって言った。

「気にすんなよ。俺がいるからって、気になって勉強できないなんてことないだろ?」

「そうでもないよ~。気が散るよ~」

「でも、俺がいないとゲーム始めたりするだろ~。結局プラスマイナスゼロだって」

「もー」

(…でも、弘志がいると、其田くんに電話がかけらんないんだけど…)

 弘志は大学で過ごす孤独を埋めるように典子の側で過ごした。典子は、同じ記憶を持ちながらまだ高校を卒業していない自分の片割れで、弘志はそこにまだ楽しかった自分がいるような気がした。

 大学がつまらないわけでは決してないが、体操部で仲間たちに囲まれていた頃のような濃密で温かい小社会はもうどこにもなかった。弘志は、その先に待っているもっと広い「社会」という世界を感じると、さらに激しい孤独に襲われた。大学よりも広くて、大学よりも人間関係が希薄な世界。そしていつか、自分の住んでいる空間から典子もいなくなってしまう大人の世界。

「…典子、高校に戻りたいな…」

 弘志は時々そんな弱音を吐いた。

 美恵子との関係は不思議な安定を保っていた。いつかその世界も変わっていくのだろうとうすうす知ってはいたが、そんなことからは目をそらしていればよかった。弘志にとって今、美恵子の存在は「永遠の停滞」と錯覚できる心地よいものだった。

「大学、面白くないんですか?」

 美恵子に訊かれて、弘志は情けない笑みを浮かべて答えた。

「そうだな~、思ってたほどはな~」

「もう、目的意識も持たずに入るからですよ」

 美恵子は大学に入ってから少し元気のなくなった弘志を心配していた。弘志の目から、人を見つめるまなざしの輝きが消えていた。


良貴と典子は夕暮れの公園を歩いていた。2人の家の中間辺りにある駅のそばに大きな貯水池があり、最近そこが公園に整備された。まだ地元民くらいにしか知られていない、意外とひと気のない穴場デートスポットになっていた。

「ねえ其田くん、なんで体操を始めたの?」

歩きながら典子は訊いた。

「ちゃんとした理由はないですよ。僕の母は、全日本の選手だったんです。だから」

 典子は良貴の母と何度も顔を合わせていた。小柄で地味な人だった。

「へー、お母さんって、そうなんだ~」

「父は体操のコーチだった人ですから。必然ですね。もう、両親とも、僕に金メダルを獲らせたくて、物心つく前から体操やらせてたみたいですよ」

 少し考えてから、典子は訊いた。

「ねえ、…事故の時の話とか、聞いてもいい?」

「ああ、…なんかみんな、気を遣って訊かないですね。僕は、別に…、自分が金メダルをとりたかったわけじゃないから、もういいんですけど。

 僕はその頃もうジュニアで結構いいセンいってて、中学に入ったら選考会にも出られるんじゃないかってところだったんですよ。もう、学校が終わるとジムに行って、ずっと練習ばっかりやってましたね。…その頃、僕は別に自分が何をやりたいとか何にもなくて、…そうじゃないですか? 小学生の頃とかって、自分が何をやりたいから夢に向かってこれを頑張ろうとかって、あまり考えませんよね」

「…うん、私、小学生の頃の夢はおよめさんだったと思う」

「だから、親の与えた課題を黙々とこなしてました。疑問なんてもたなかったし、あの頃はそれでよかったんじゃないかって、今でも思ってますよ。

 だから、その日も普通に学校が終わったらジムに行って、そこでトランポリンを使って宙返りの練習をやってました。前方3回宙返りがやりたかったんです。そのことは、すごくよく覚えてるんです」

 その日良貴は、まだジムでは誰もできない前方3回宙返りを必死で練習していた。トランポリンを使えば案外簡単にできた。だから、それを地上でやるにはもっと前に向かって回転力をつける必要があった。

「もう、3回をやりたくて、気ばかりはやって前に回転をつけすぎて、トランポリンをはみ出したんです。あれっと思ってどこか、…僕の記憶では頭からなんですけど、ぶつかる衝撃があって、真っ暗になったから何も覚えてません。トランポリンの端で頭を打って、背中から地面に叩きつけられて肋骨の背中側が折れて、もう少しで折れた骨で脊髄を傷つけるところだったんです」

 良貴は淡々と語った。自分の記憶は、あれっ、という一瞬の焦りと、頭に感じた衝撃、それからあとは全部病院の記憶だけだ。

「肋骨の骨折がちょっと難しくて、脊髄の近くだったから、もう、そこが完治するまで絶対安静でした。…筋肉って、ひと月も使わないと、びっくりするくらい落ちますよ」

 典子はたった今良貴がケガをしたような顔で、時折良貴の方を見ながら隣を歩いていた。

「背骨と肋骨がちゃんとくっついて、それからはゆっくりゆっくり、深呼吸するところからリハビリでした。ひと月何のトレーニングもしなくて、普通の人が筋力を落とさないようにやるエクササイズくらいしかできなくて、その時落ちた筋肉は結局戻らなかったし、…これは、今でもそうですよ。小学生の時の方が、腕が太かったんじゃないかってくらい」

「えー!」

 良貴は、ちょっと木陰になっているベンチを見つけ、

「座りませんか?」

 と言って、典子をそこへいざなった。

「…ねえ、それで、ご両親はどうしたの?」

「あきらめは早かったですよ。入院してる時、両親に真っ先に言われたのが『体操は、もうがんばらなくていい』だったから」

「そうなんだあ。よかったね」

「僕としては、その逆だったんですけど」

「え、そうなの?」

「それでも死ぬまでやろうって言ってほしかったですね。ちょっとケガしたからって、あまりに簡単すぎませんか?」

「…え、ちょっとケガしたってレベルじゃないじゃん…」

「親の気持ちはわかるんです。今はね。両親は本当に僕に愛情を注いでくれてて、だからもう体操なんかいいんだって言ってくれたんだなって思いますよ。でも、当時は、僕には体操しかなかったし、ホントにオリンピックとか金メダルとか、そういうのをひたすら目指してたんです。もう、手の届く距離まで来てたんですよ。それで、手を伸ばして、手を伸ばして、その結果のケガだったのに、もういいよなんて、ショックじゃないですか」

「…でも…やっぱり、命には…」

「…もちろん、わかりますよ。僕が親でもそうでしょう。だから、今はわかりますが、当時はホントに悔しかったんです。それで、体操はやめるもんかって思って、ずっと中学の間はそこに通ってましたよ。元いた、オリンピックの期待がかかってるクラスの奴らの練習を横目に、普通の生徒たちがトレーニングしてるところに、ずっと」

「そうなんだ…。なんか、すっごく月並みだけど、大変だったんだね。なんか、…残念だね…。其田くんがオリンピック出るところ、見たかったよ…」

「でも、そうやってオリンピックとか金メダルとか可能性がなくなってみると、結局は僕の中で、体操って親のためにやってたようなものだったんです。中学の時は意地でジムに残ってたけど、中3の夏に受験を理由にしてそこをやめて、半年は体操のことを忘れてました。僕自身の目標じゃなかったなーって、なんか解放されたみたいに感じました」

「だったら、どうして高校で体操部に入ったの?」

「…目標も何もなくて、ただの体操をやってみたくなったんです。高校受験って、最初に自分の将来について真剣に考える時じゃないですか。それで、今まで体操やってきて、これからはただの少年で、じゃあ僕はいったい何をやろうかって。…そしたらやっぱり、僕には体操しかないのかなって思ったから」

 典子は夕暮れの光に照らされる良貴の横顔を夢見るような瞳で眺めていた。自分の今までの人生は普通に小学校に行って普通に中学校に行って、勉強をして高校に合格して、そのまま普通に流れてきただけだった。勉強と遊び以外に何かやったなんて言えるものは何もなかった。

 良貴は典子を見て、少しだけ笑って言った。

「…正直言って、一番初めに部の練習見たときは、『こんなに、ものすごいレベルの低いところがあるんだ』って思ったんですよ。ジムでは、最低レベルの人でもウチの部員とは比べものになりませんでしたから」

「…まあ、そうだろうね~」

「でも、その時、すっごくうらやましかったんです。あの、悪気はないんですよ。『ああ、こんなレベルだったら、楽しいだろうな』って。だって、オリンピックで金メダルとろうと思ったら、全世界で寝食も忘れてトレーニングに励んでる大勢の人がそうそうできないような技や表現力を身につけないといけないじゃないですか。でも、体操部では、今日は倒立で10秒止まっていられたとか、バック転が補助つきでできるようになったとか、ささいなことでみんなが喜んでるんですよ?」

「女子は、段違い平行棒すら、ないしね。ただの鉄棒で」

「空中逆上がりができなくて一日やってるなんて、本当にびっくり」

「私なんか、入部したとき、普通の逆上がりができなかったよ」

 2人は笑った。

「だからすごく楽しかったんです。僕は、気付いた時にはもう逆立ちも宙返りもできてたから、逆立ちとか逆上がりとかが練習してできるようになっていく記憶がないんです。それで、なんていうか…自分の失われた記憶を見ているみたいで」

 少し黙ってから、良貴は慌てて、

「…あの、ホントに、バカにしてるなんて思わないでください。…優劣とかそういうのじゃなくて、ホントに違う世界のことなんですから」

 と言った。典子はびっくりした。

「えー、そんなの、わかってるよ~」

 良貴は少し遠い目をして言った。

「自分はトップ集団から落ちたんだっていう気持ちはいつだって持ってますよ。だから、コンプレックスという意味では、多分周りの普通の人たちより強いと思います」

 典子は、良貴がケガをしてから今までに抱いてきたであろう様々な気持ちを考えて切なくなった。典子がちょっと淋しそうに黙ったので、良貴はここのところずっと考えていたことを実行にうつす決意をした。

「…典子先輩」

神妙に語りかけたのに、典子は元気に、

「はい?」

 と言って良貴を見た。良貴は唐突に、そして久しぶりに聡史のことを思い出した。

(…あの人も、ずっとこの調子で「友達」を続けざるをえなかったのかな…)

 良貴はゆっくりと息を吸い込んで止め、おもむろに典子のひざの上の手に手を伸ばした。良貴の顔を見ていた典子は、良貴の手が伸びてくるところから自分の手がぎゅっと握られるところまでを目で追って、びっくりして、そのままベンチの足元まで目を落とした。もう3ヶ月もつきあっていたのに、恋のプロセスとして手を握られたのははじめてだった。

 良貴は少し座る位置を典子の方に近づけた。

「…夏合宿の夜、岩場で隠れてたとき、僕が言ったことを覚えてますか?」

 典子はしばらく黙って、それから小さい声で、

「…どれ?」

 と言った。

「もう少し緊張感を持ってください、って言ったんですよ」

 良貴は、自分がこんなことをしても案外落ち着いているので驚いた。

「…あの時、岩場でも、こんなふうにしたかったんです。…先輩も、もう少し、こういうこと…考えてください。僕と一緒の時だけじゃなくて、他の人と一緒の時はちゃんと警戒するとか、そういうふうに…」

 ふとしたきっかけで聡史のことが浮かんだせいで、典子が「抱きしめられた」と言っていたことを思い出した。そこは先を越されてしまったなと、くやしくなった。

「だから、他の人にもそういう隙を与えちゃうんですよ。…気をつけて…」

「…はい」

 典子はすごく緊張していたが、それよりもなによりも嬉しかった。

「…其田くんって…普通に、こういう風にしたいとか、私に対して思ってくれてたんだ…」

 つぶやくような典子の声に、良貴はしょっぱい顔をした。

「典子先輩は、僕のこと、何だと思ってるんですか?」

 身を縮めて戸惑っている典子を少しのぞき込むように見ながら、良貴はふっと笑顔を浮かべて言った。

「僕だって、男ですよ。あんまりバカにしないでください」

 典子のうつむいたまなざしがほんの少し良貴を見返した。そして、良貴の瞳の強さに慌てて目をそらした。良貴はそんな典子の戸惑いを可愛いと思った。そして、もっと戸惑わせてみたいと思った。

(…そのへんは、次回以降にね…)

 良貴は心の中で、典子にそっと宣告した。


 美恵子はどこか物憂い顔をして、校舎の手すりにもたれて廊下の窓から外を見ていた。そこへ良貴が通りかかった。良貴は最近弘志に元気がないことに気付いていて、なんだか美恵子も同じように見えたので声をかけた。

「須藤さん」

「…あれ、其田くん、なんか久しぶりだね」

「そうだね、部活出てないから。…元気ないね」

「あ、うん、…大したことじゃないんだけどね…。江藤先輩がこのごろ、元気がなくて」

「あ、僕も思う。折角大学に入ったのにね」

「…ううん、それが原因みたい。…なんかね、大学では、高校にいた頃みたいな居場所を見つけられないらしくて。今、どことなく孤独なのよ。でも、それをどうにもできない私って、なんだか淋しいなって思って」

 そこまで話して、美恵子は気付いたように顔を上げ、

「あれ、其田くんって今の私と江藤先輩の関係ってわかってるんだっけ?」

 と言った。良貴は、

「ああ、弘志先輩から聞いたよ。なんか複雑だけど、うまくいってるみたいだね」

 と言った。美恵子はちょっとだけ嬉しそうに笑ったが、すぐに目を伏せた。

「…でも、江藤先輩、ホントに今淋しいみたい。そりゃあそうよね、だって、高校時代は部活に典ちゃんもいて、其田くんもいて、…さて、そこに私が入ってるかどうかはわかんないけど、なんか、濃かったもんね。男にも、女にももててたし。

 …だけどね、私、思うの。あの、体操部の頃って、特殊だったんじゃないかな。それこそ、あの頃の江藤先輩が『水を得た魚』だっただけで、そんなにいつもいつも自分のいい環境にいられるわけでもないでしょう?」

「そりゃあ、そうだけど」

「…私、都合のいい環境じゃなくて、『普通の』環境にいる江藤先輩に、どれだけつきあえるのかな…。彼女でもないのに」

 良貴は不穏な響きにドキリとした。美恵子はそんな良貴の様子に気付かずに続けた。

「なにかできるならいいけど、心配しかできないの。そして、私自身、自信満々でシャクにさわるくらい傲慢な江藤先輩が好きだから、何かが変わってしまいそうで怖いな…」

 美恵子はそこまで独白して急に顔を上げて、

「あ、ゴメンね、愚痴言っちゃって。其田くんには、つい変なところで頼っちゃうね」

 と言った。良貴は、

「え、そんなの、いいよ気にしないで。弘志先輩は、僕もいい友人だから気になるし」

 と優しく言った。

 美恵子の言葉はやっぱり気になった。良貴はその日、帰りがけに体操部に寄って今の部長に声を掛けた。良貴を含む3年生やOBはほとんど来ていないということだった。

 部長は言った。

「俺らも体操始めて1年ちょっとだし、上の人来てくれると助かりますね~。俺ら、秋の大会に向けて練習したくても、1年生の面倒見る人がいなくって。やっぱ弘志先輩とか其田先輩とかいると、違いますよ~。たまには、来てくださいよ」

 ある程度はお世辞なのかもしれないと思ったが、良貴は素直に受け入れることにした。その夜、良貴は早速弘志を体操部に誘った。弘志ははじめ遠慮していたが、比較的すぐにOKした。

 数日後、良貴と弘志は一緒に体操部を訪れた。

「うわ~、弘志せんぱーい、久しぶりじゃないすか~」

「大学どうですか~」

2年生の連中は、朝川リエだけはちょっと複雑そうだった(結局、弘志に最後まではぐらかされて終わっていた)が、弘志に忌憚ない歓迎を見せた。1年生は弘志の人となりを見定めようと興味津々で眺めていたが、2年生の歓迎ぶりからいい先輩と判断したようだった。女の子の間では「ちょっとステキかも」という囁き声も交わされていた。

 弘志は久しぶりにその日の午後いっぱい練習につきあった。1年生の顔も覚えて、弘志は満足して帰っていった。良貴は美恵子と典子も、たまに練習に出ようと誘った。


 それから、体操部で時折江藤兄妹と良貴の姿が見られるようになった。美恵子は帰りがけにちらっとのぞきに来るくらいで、練習には参加しなかった。

 典子は少し千江美に気を遣ったりもしたのだが、千江美はむしろ2人に気を遣うような態度に変わっていた。良貴と典子は、自分たちの関係を表に出すようなことはしなかったが、千江美は良貴のリラックスした態度でなんとなく気付いたようだった。

「そういや、滝野川来ないんだな~」

弘志が言うと、部長は小声で言った。

「…なんか、3年の谷口先輩とモメてから、来ないんですよ」

「え? 谷口、滝野川をよく乗りこなしてると思ったんだけど、なんかあったの?」

「滝野川先輩、春はまだ来てたんですけどね、ちょっと1年生にちょっかいかけて、またそれがうまくいきかかっちゃって。谷口先輩と修羅場になったみたいですよ。それでどうも1年の子たちからも総スカンくってるみたいで、来にくいんでしょう」

「は~。谷口は強いな~。こりゃ、滝野川も覚悟したほうがよさそうだな~」

 弘志が卒業しても、相変わらずな連中だっていた。弘志は久しぶりに滝野川とも話がしたいと思った。

 典子も浪人生活にくさくさしていた。やっぱり、体操部は居心地がよかった。

「…江藤・妹先輩」

1年生ははじめ、気後れして典子をそんな風に呼んだ。

「典子でいいよ、典子で。『先輩』だってつけなくていいよ」

 そう言って笑いながら、簡単な倒立ブリッジなどの補助を一日中やってくれる浪人生の先輩に、後輩たちはすぐになついた。結局みんな弘志を「江藤先輩」、典子を「典子先輩」と呼ぶ現2年女子スタイルに落ち着いた。

 弘志は男子部員たちに合宿の時の恋愛チャンス指南をしたりしていた。一部そういう方面に熱心な男の子たちは、弘志のポイントアドバイスを真剣に聞いていた。ひとしきりレクチャーしたあと、弘志はニヤッと笑って、

「…去年は、腕枕で女抱えて寝てたツワモノもいたゼ?」

 と言った。

「えー、マジすか~。誰、誰?」

「俺」

 弘志はもっと意味深に笑った。

「え! …相手は」

 一同は乗り出した。弘志はさんざん溜めを作って、満面の笑みで、

「…典子」

 と種明かしをした。

「って、センパーイ」

「期待しましたよ~」

 と、一同は一度は「なーんだ」と思ったものの、しばらくしてからまた乗り出して、

「…お2人って、そーいうノリで仲いいんですか?」

 と恐る恐る訊いた。弘志は典子と必要以上に仲がいいと思われるのが本当に嬉しくて、

「そうだな~、俺は目下女では典子が一番好きかもな~」

 と言った。「かもな」のところに美恵子の存在が影響していた。

「えー、それは恋愛感情ですか?」

「んー、かなり近いよ~」

「典子先輩のほうは…」

「ん、アイツは、其田が好きなの」

「えー! マジで?」

「典子は其田の大ファンでさ~。でも、其田もああいう、枯れたヤツだからな~。典子に恋愛ってモンを教えるのは、やっぱ俺かな~」

 話を聞いていた連中は混乱の極みだったが、そんな話の中で弘志にどんどんなついていった。

 良貴は弘志と典子のいる体操部が好きだった。体操部は今までもずっとこうして3年生やOBが気軽に出てくる部活だったし、幸いその伝統は守られた。

「…其田先輩」

 千江美が声をかけてきた。

「あ、俵田さん。久しぶりだね」

 良貴はちょっとだけ後ろめたさを感じながら、平静な顔で答えた。

「…江藤先輩も典子先輩も、其田先輩も元気そうですね」

「うん」

 千江美は良貴の笑顔にやっぱり少しだけドキドキした。でも、終わったことだった。

「…あの、また来て下さいね。…江藤先輩たちも」

 千江美はそれだけ言って練習に戻った。

 なんだか去年と変わらない体操部がそこにあった。弘志のためにと思ってここに来たつもりが、良貴自身も安らかで温かい気持ちになった。


 弘志に「例の彼女と、どう?」なんて訊かれても、良貴は「まあ、それなりに」と答えてごまかしていた。弘志には大学があったし、良貴には受験勉強があったので、体操部で一緒に練習する以外にほとんど個人的な話はしていなかった。

 典子と美恵子は時々一緒に図書館へ行ったりして、そのついでにいろいろ話もしていたが、穏やかな停滞の中にいて特に新しい報告などもなかった。唯一、典子が良貴に手を握られたと話したことくらいだった。

「すっごいびっくりしちゃった」

「びっくりって…つきあってれば、そういうこともあるでしょ」

「そう? なんか自分の身に起きるとは思わなかったから。あのさ、…美恵ちゃんと弘志って、どういうつきあいだったの?」

 美恵子は翳った笑いを浮かべた。

「…マトモじゃなかったかな~。江藤先輩がしゃべりながら歩く。でも、私の顔は見ない。2人して黙って映画を見る。そのあと喫茶店に入る。やっと江藤先輩が私と向かい合う。でも、あまり目は合わせない。ときどき、優しい。でも、なんだか冷たい。私が手をつないで歩きたいって言っても『恥ずかしいよ』。なんか私の顔見てるな~と思ってぱっと見ると目をそらす。典ちゃんの話だけ一生懸命。好意を示すと困ったような、なんか迷惑なのかなって顔するし、私がすねたりふてくされたりすると、変に気を遣って優しかったり、逆に無言になっちゃったりして、もう、全然わかんないの」

「えー。そうなんだ、万事、図々しいあの調子かと思った」

「んー、私もね、そうなるだろうと思ってたんだけど」

 でもちょっとだけ、今はわかるような気がしていた。

「…でも、多分、考えすぎちゃってたんじゃないかな~。彼女がいるってこと。私の存在が重すぎたんだよ。ああ見えて、意外とマジメだもんね。弘志先輩」

「マジメねえ。…まあ、大学も現役で受かるし、実はちゃらけてるのは態度だけかな~。…って、アレ、今『弘志先輩』って言った?」

「…あ、…やっちゃったか。うん、もうだいぶ前から、名前で呼んでる。さすがに慣れたから、つい他の人の時も出ちゃうな。気をつけなくっちゃ」

「じゃあ、弘志は美恵ちゃんのことなんて呼ぶの?」

「『美恵子』。いいでしょ」

「うん、いいな~。じゃあ、今はすっごいいい状態なんだ?」

「…そうでもないかな」

「また、弘志が悪いの?」

「…ちがうな。私自身の問題。弘志先輩がね、大学でただ漠然と日々を送ってるでしょ。それが、私個人的にガッカリなの」

 名実ともに体操部のリーダーをやって、その傍らでしっかり大学に現役で合格する先輩。人望も人気もあって面倒見がよくて、妹思いの兄貴。美恵子にとって高校時代の弘志は憧れるのにふさわしい男の子だった。でも、目的意識もなくただ大学名だけで入学して、やりたいことも見つけられずにぼうっと過ごしている弘志に「憧れ」は感じなかった。

「だからって、じゃあ私に何の夢があるのかって言われると、何もないんだけど」

 美恵子は困ったように言った。典子も、自分に何も目標がないなと思った。典子は良貴の昔の話を思い出した。例えば、親に与えられた目標でも、そのために頑張れれば生きる輝きになる。

『今まで体操やってきて、これからはただの少年で、じゃあ僕はいったい何をやろうか』

 そんな良貴の言葉が蘇った。

 美恵子がぽつりと言った。

「なんか、今まで、恋愛しかしてこなかった気がするの」

 典子も、自分をそう思った。


「其田くんって、どこの大学受けるの?」

 珍しくその日、典子は良貴の家で向かい合って参考書を広げたりしていた。「一緒に」勉強するというのは実質的には難しい。それぞれ別々に勉強しているだけだけれど、やっぱり一緒にいたかった。典子の問いかけに、良貴は即答した。

「駒場体育大学の、実技じゃなくて理論の方をやるか、それか和佐田の人間科学部スポーツ科学科に進みたいんですけどね。将来は体操関係の仕事をしたいし」

「…あ、そうなんだ…」

 良貴が夏休み前に具体的な大学の学科名まで挙げたので、典子は自分をものすごく恥ずかしく思った。去年受験してみて、国語の配点が高いほうが合格可能性が高そうだという理由で、典子は今年漠然と「国文学科か日本文学科」と考えていて、あとは「受かればどこでもいいや」と思っていた。

「和佐田の人間科学部だと弘志先輩と一緒ですけどね。典子先輩は?」

「…え、私は…」

 よっぽど適当なことを言おうかと思ったが、正直に答えた。

「…国文か、日文で、入れればどこでも…」

「そうですか。今年は後がないですもんね」

「…でも、できれば和佐田の一文…かな」

「何を専攻するんですか?」

「…うーん、…まあ、日本文学」

「そうですか」

 良貴は淡々としたものだった。典子の進路は良貴には全然関係のないことで、それは冷たい意味ではなく、一緒にいようと思えばいればよかったし、大学名や目標が理由で別れてしまうなんて思っていないせいだった。

 典子は自分をものすごく情けないと思った。受験だって2年目なのに、全然「大学に入る」以外の目標がない。将来も、「普通に就職」すればそれでいいと思っている。やっぱり何かに打ち込んできた人は違うな、と典子は思った。

 夕方、典子は時計を少しずつ気にし始めた。その様子を見て、良貴はノートを閉じた。

「…典子先輩」

「なに?」

「そっちへ行ってもいいですか?」

「え、なに?」

 相変わらず、典子は鈍感だった。良貴はヤレヤレと思った。

(…弘志先輩に、少しは男のこと、レクチャーしてもらった方がいいんじゃないの?)

 良貴はそう思った。弘志が女の子に真っ向から手を出すなんて経験はほとんどないことは、知る由もなかった。

 話をしてもしょうがないので、良貴はおもむろに立ち上がって典子の隣に座った。それで、典子はやっと何か感じたようだった。

「…この前、言ったじゃないですか。こういうこと、考えてって」

 良貴はそっと典子の肩を引き寄せた。典子はされるままに体を寄せた。典子の態度を見て、良貴はふと、

(…この人、このまま押し倒されたりしたら、そのままいっちゃうんじゃないの?)

 と思った。それから、そんなことを考えた自分に罪悪感と気まずさを感じた。

 典子は、ずっとびっくりしたような顔をして良貴に肩を抱かれていた。うっとりと目を閉じるでもなく、自分からも良貴の方へ手を伸ばすでもなく、はじめて人間に抱っこされた子猫のようにちょっと緊張気味に身を任せていた。

 良貴は典子の肩を抱きしめながら、違うことを考えていた。

(…僕は、こんなことをしていると、はたから見てみっともないんじゃないかな…)

 並んで座った時、典子の肩は自分とあまり変わらない高さにあった。

(…もっと背があれば…)

 良貴は思った。なんだか自分の包容力のなさが露骨に表れているような気がした。

「…先輩、僕の背…とか、気にならないですか?」

 良貴は沈痛な気分で訊いた。

「え? なんで?」

 典子の頓狂な声が返った。典子が身動きしたので抱き寄せる腕を緩めると、典子は顔を上げて良貴を見た。そして、あまりに顔同士が近かったので慌てて下を向いた。

「…だって、私より高いじゃん」

 典子は素直に答えた。典子の声にはなぜそんなことを訊かれたのかわからない疑問の響きがこもっていて、良貴は素直に嬉しいと思った。

(でも、…もっと大きく抱いてあげたい)

 典子を守ってあげたい、暖めてあげたいと思っても、いつも自分の大きさが足りなかった。体を近づければ近づけるほど自分を小さく感じた。ずっと身長はコンプレックスだった。でも、こんな形で直面するものだとは思わなかった。

 良貴の腕の中でずっとドキドキしていた典子とは裏腹に、良貴は悔しさに似た切なさを感じていた。


 多分そのせいもあって、良貴はそれ以上のことを典子に求めなかった。何度か「キスくらいは」と考えなくもなかったが、それこそほんの5センチ強の身長差がきっかり測られてしまう気がした。

「ねえ、典ちゃん、其田くんって、キスしたいとかそういうの、全然ないの?」

 美恵子は典子に訊いた。典子は記憶をひと通り呼び覚まし、答えた。

「うん、全然ないみたい」

 典子は「何をされてもいい」なんて漠然と考えていたが、時折一方的に手を握ったり肩を抱き寄せたりしてくれるのを待つので精一杯だったし、それで十分幸せだった。

「…典ちゃんはそういうの、なんかもどかしくない?」

「なんで? マジメなのよ、其田くん。だいたい、弘志だってあれだけ手が早そうなクセして、つきあってるとき全然だったんでしょ?」

「…そりゃあ、…そうだけど。だけどね、…こんな風に、別れてから会うようになってすぐの時、2度目のキスはしてくれたもん」

「…えー。ホントにアイツって、なんなの~? なんで別れてからなの~?」

「私だって、わかんないわよー」

「美恵ちゃんこそ、そんなんでいいの~?」

 典子の質問に、美恵子は神妙な顔で答えた。

「…よくないけど、彼氏・彼女じゃないんだからしょうがないでしょう?」

「いつまで、そんな変な関係でいるつもりなの?」

「わかんない。でも、恋愛関係に戻ろうなんて言ったら、同じ末路をたどると思う」

「末路なんて言い方して~」

「でも、次に壊れたら、多分おしまいだよ」

「そうかな、今の関係のままうまくやり直せないかな」

「わかんない。でも、それができるなら弘志先輩のほうから言ってくれると思うから…」

 典子は眉をしかめて、

「…私、キミたちの関係って、全然わかんないよ」

 と言った。

 夏が来て、体操部は夏合宿に行った。良貴はついていったが、それだけだった。秋にはまた、弘志と典子、それから良貴と美恵子の4人で学園祭を見て回る姿があった。

 特に何事もない「等速直線運動」のまま、冬が近づいていた。

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