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15 戦い済んで…


 典子が転がり込むように玄関を入ってきたので、澄子はびっくりして、

「まあ、まあ、典ちゃん、どうしたの?」

 と玄関の見えるDKのドアのところまで出てきた。

「べっつにー」

 典子の明るい声がして、それから階段を駆け上がる音がした。

「…どうしたのかしら。あんなに興奮して」

 澄子は台所に戻った。居間にいて、母のつぶやきを聞いた弘志はいろんなことがいっぺんに頭をよぎった。典子が誰のところから帰ってきたのかはわかっている。

 典子は自分の部屋に入ると、ベッドにすごい勢いで飛び込んだ。

「どーしよう~、言っちゃった~~!」

 そして枕をつかむと、仰向けになって、足まで絡めて枕にしがみついた。

「人は、やっぱ、勢いだよ~!」

 典子はベッドの上でゴロゴロ転がっていたが、暴挙がすぎて背中から床に落ちた。

「痛い」

 でも、とても嬉しかった。

 上の階で大きな音がしたので、澄子は食事を運びながら、

「…あら、何やってるのかしら、典ちゃん」

 と言った。弘志が慌てて立ち上がった。

「俺、見てくるよ」

 やっぱり何かあったに違いないと、弘志は階段を駆け上った。いつものようにノックもせずに典子の部屋のドアを開けると、典子が枕ともつれ合って倒れていた。

「…おまえ、一体…なにやってんの」

「えー。べっつにい」

 典子がはしゃいでいるように見えたので、弘志はホッとした反面、もっと不安になった。

「…なにかあったのか?」

 弘志がけげんな顔で訊くと、典子は、

「えー。何もないよ」

 と答えた。でも、枕を抱えて転がったまま起き上がろうとしなかった。

 弘志は典子の側にかがみこんで、

「典子、いいからそこに座りなさい」

 とオヤジ口調で言った。典子は不思議そうな顔をしたが、素直にベッドに腰掛けた。弘志は典子の椅子に行儀よく座って、

「おまえ今日、あの化学部の奴と一緒だったよな」

 と言った。典子はギクッとした。

「うん」

「何があったんだ、言ってみろ」

「プライバシーの侵害だわ。私はたしかに弘志の妹だけど、一人の女性でもあるのよ」

 言ってから、典子は「この言い方はまずかったな」と思った。

「おまえ、一人の女性としてどうこう、っていう何かがあったのか」

 案の定、弘志は今にもかみつきそうな顔になった。典子はちょっとおもしろくなって、意味深な流し目を弘志の足元に送りながら、

「…うん、今日ね、飯田くんと友人関係を解消してきたの」

 と言った。緊迫した時間が(弘志にとって)流れた。十二分に引っ張ったあと、典子はへらへらっと笑って言った。

「…告白されたけど、逃げてきちゃった」

 弘志の耳から入った音声は、ゆっくりと意味を形成した。

「…えーと。つまり…やっぱり、アイツはおまえのことが好きだったんだな」

 弘志に改めてそんな風に言われて、典子はやっと、男の子に好かれた喜びを感じた。

「残念だけど、そうみたい」

「残念か?」

「うん、友達でいてほしかった」

 弘志は、それだけ聞くと、典子の部屋からすんなりと退散した。

 ほどなく弘志の携帯電話が鳴った。良貴から、典子を心配する電話だった。

「え、そうだったの? …うん、典子から聞いた。おまえがちょうど、いてくれたんだ。よかった。…うん、大丈夫。へらへらして、枕抱えて転げてるよ」

 弘志はだいたいの状況を無難な範囲で聞かされ、〝典子を化学部の奴から守って家まで送ってくれた、有難い奴〟である良貴に、深く感謝した。

良貴は典子が元気そうなので安心した。そして、弘志にちょっと、悪いなと思った。

(折角ホッとしたところ、すみませんが…僕が、典子先輩をもらいますんで)


 どうしようかな、と良貴は思った。

 自分の気持ちを典子に伝えればそれでいいのだが、こうして先に好きだと言われてしまうと案外戸惑う。

(呼び出そうか、会いに行こうか…)

 それに、典子とつきあうなら、初めての男女交際だ。

(…弘志先輩も、結構悩んでたしな…。しかも、結局別れちゃったし)

 男の責任、という言葉が浮かんだ。ちょっと重く考えすぎなのかもしれないが、お互いに好きだったからとりあえずつきあおうという簡単な考え方は良貴にはできなかった。

(他に、そういう、恋愛方面の話する友達って、いないんだよな…。弘志先輩に相談してみるかな…。典子先輩だとは言わずに)

 典子をこよなく愛する弘志に相談するのはどうにも気まずいし、面映ゆい気もしたが、良貴は友人たちとほとんど恋愛の話なんかしなかったし、仲がいいのは(同類というか、なんというか)女の子に縁のない連中ばかりだった。

 そういえば、机の上に弘志から借りた本があった。

(…これを返しに行こうかな)

 良貴は翌日、弘志に電話をかけて、訪ねていく日を決めた。


 典子はちょっとだけ、落ち込んでいた。

(やっぱり、可能性はなかったんだな…)

 良貴からは何の返事もない。あれ以来顔を合わせることもなかったのだが、どうとかこうとか思っていたら何か言ってくれるはずだと思うと、やっぱり落ち込んだ。

(でも、反応がないっていうのは考えようによっては楽だな~)

 失恋を認めずにいることもできる。まだ、返事が来ないだけだと…。

 その時、電話が鳴った。たまたま居間にいたので、弘志が何気なくとった。

「はい、江藤ですが」

 しばらく、受話器のむこうは黙っていた。弘志は威圧する声を出した。

「なんだよ、無言かよ」

「あ、ちがいます」

 男の声がした。

「どなたですか~?」

 弘志はけげんな声で訊いた。受話器の向こうは答えた。

「…飯田と申します」

 弘志の時間が止まった。

「…あの、典子さんは…」

 弘志はしばらく答えられなかった。聡史は根気強く待った。弘志が自分と典子に何かあったことを知っているのは態度で明らかだ。あとは弘志の判断を仰ぐしかなかった。

「…なんの用ですか~?」

 弘志は当てこするように言った。聡史は答えようとしたが、なかなか声にならなかった。

「用がないなら、切りますよ~」

「…俺、彼女に謝りたいんですが」

 聡史は典子と連絡をとることを諦めかけた。でも、弘志はしばらく黙った後、

「…ちょっと待ってください」

 と言って電話を保留にした。弘志はインターホンを使わず、直接典子の部屋まで行った。

「典子ー、電話」

「えー、誰から~?」

「…飯田、だってさ」

「あ、そう。なんだろ」

 典子はいつもの調子で平静を装ってから、そんな態度が無駄だったことに気付いた。

(あれ、弘志は知ってたんだっけ)

 なんだか良貴を想いはじめてから、嘘つきになった自分がいた。

 典子は自分の部屋の子機で電話をとった。弘志は気を遣って、そっと典子の部屋を出ると、居間に戻って親電話を切った。

「もしもし」

 さすがに、典子の声は緊張した。

「もしもし、俺。飯田」

「うん」

 しばらくは沈黙が続いた。

「…すまんかったな」

 聡史が力ない声で言った。典子は、いつもバカばかり言い合っていた聡史の、そんなみじめな声を聞きたくなかった。

「ううん、びっくりしただけだよ。気にしてないから」

 典子は声色を装って明るい声で言った。聡史はそんな気遣いが辛かった。

「…俺の気持ちだけは、わかってくれ。…今、俺がおまえに望んでるのは、それだけや」

「…うん」

「それと、誤解せんでほしいのは、…別に暗室に呼び出したのは、そういうことをしようという思惑があったんと違うよ。2人っきりになりたかったのは事実やけど、暗闇に乗じてとか、狭い部屋で逃げられんようにしようとか、思っとったわけやない。俺には俺なりに、今まで友達としていい関係を築いてきたっていう…誇り、みたいなものがある。頼むから、信じてくれ」

「…うん」

「なあ、俺はおまえのいい友人でいられたんかな。あの日の、夕方までは。…それが気になって仕方ない。俺が一生懸命おまえの友人であろうとしてた努力は、報われたんかな」

「…いい友達だったよ。ホントに。いつも面白い話いっぱいしてくれて、いろいろ優しくしてくれたし、一緒にいて楽しかったよ。それは、絶対に」

「…そうか、ありがとうな」

 聡史には、もはや自分には関係のないこととわかっていても、最後にどうしても訊きたいことがあった。

「なあ、カバン取りに来たアイツ、…なんであそこにいたのか訊いてもいいか?」

「え、たまたま、忘れ物をとりに来たんだよ」

 典子は何の疑問もなく答えた。

(たまたま…て、そんな都合いい偶然、あるか)

 聡史は声にのせないようにして笑った。

(おまえがいるのに気付いて、気になって、待ってたんやろ。…体操部、練習やっとったからな。失敗したな、体操部がやってない日調べて、その日にするんやった)

『…僕だって彼女のことは好きですけど、…』

 良貴の言葉がよぎって、聡史は目を伏せた。

「…おまえの好きな奴って、アイツなんとちゃうの?」

 典子は困惑した。聡史に「好きな人がいる」なんて言ったことはなくて、なぜそういう訊き方をされるのかわからなかった。でも、聡史への誠意のつもりで正直に答えた。

「…うん。そうだよ」

「おまえ、容赦ないやっちゃな~。そんなハッキリ言われるのは、それなりに辛いワ」

「ゴメン。ごまかしたくなくて」

「謝るな。俺が訊いたんやから。それで、エエよ」

 だからって、良貴の言葉を言伝てしてあげるほど、聡史はお人好しでもなかった。「鈍感なやっちゃ」と心の中で笑い、二人の運命は二人に委ねた。

「ま、アレやな、道で会ったらちゃんとシカトせんと、声くらいかけや。友達やからな」

 もう今までどおりでいられない。それはちゃんとわかっていた。典子はその言い方に含まれるサヨナラの響きに淋しさを感じながら、

「うん、友達だもんね」

 と答えた。

「話は、それだけ。楽しい高校時代を、アリガトウ、な。そんじゃ、道端で会おうナ」

「うん。私も、本当にありがとう」

「…じゃ、な」

「…うん。じゃあね…」

 典子は聡史が電話を切るまでじっと受話器に耳を当てていた。電話が切れる音がするまで少し長い間があって、それが典子の胸を淋しさできつく締めあげた。

 涙が出そうになって典子は天井を見上げた。高校時代の思い出がまた一つ、消えていった。典子は自分の部屋を出て弘志の姿を探した。弘志は自分の部屋に戻っていた。典子がドアをノックして部屋に入ると、弘志は机に向かって本を読んでいた。

「なんだ、電話は終わったのか」

 弘志は振り返らずに言った。典子は後ろから近づいて、弘志の背中に抱きついた。

「…どうした?」

 弘志は典子の顔を見ようとしたが、典子に強く抱かれて振り返れなかった。

「背中、貸して」

 典子がこんな風にしてきたのは初めてだった。弘志は典子の手にそっと手を触れて、優しくトントンと叩いた。典子は弘志の耳元で囁くように言った。

「…人生って、悲しいね。いろんなものが終わって、いろんな人と別れていくんだね」

 弘志はやっと、典子にとって聡史が本当に大切な友人だったことを理解した。

「バーカ。そんな年で、人生わかったようなこと言うな」

(いろんなものが終わって…)

 弘志のまぶたに美恵子の姿が浮かんだ。失うのは怖いと、心から思った。


 弘志との約束どおりに、良貴は江藤家へやってきた。そんなことは何も知らなかったので、典子は自分の部屋を開けっ放しにして、床にあぐらをかいて体操の雑誌を読んでいた。

 呼び鈴が鳴り、誰かが玄関に出た気配がした。

(お客さん?)

 耳を澄ますと、階段を上ってくる音がした。

(おっと、いけね)

 典子は醤油せんべいをくわえて部屋のドアを閉めに立った。ドアに手をかけたとき、弘志の姿が見え、すぐ後ろから良貴の顔がのぞいた。

(う、わ~~~!!!!)

 思わずせんべいをばきっと噛み割り、典子は慌てふためいて空中で破片をキャッチした。

「お、いい反射神経してるな~」

 弘志がからかった。典子はどす黒く見えるほど真っ赤になった。

「どうも」

 良貴は余裕の微笑みで典子に会釈した。典子は目を合わせることもできずに慌ててお辞儀をして、ドアを閉めた。

「すみませんね~、粗忽な妹で~」

「いえ、典子先輩らしいですよ」

 ドア越しにそんな会話が聞こえた。

(よりによって、サイアクだ~~~)

 典子はとりあえず口の中のせんべいを飲み込んで、ベッドに倒れて布団をかぶった。

(でも、会えて嬉しい)

 典子は後悔の渦に巻かれてぐるぐる回りながら、ときどき突然にっこり笑っていた。

「これ、ありがとうございました」

 良貴は弘志に本を返した。

「なんだ、もう1回くらい体操部行くから、その時でよかったのに」

「いえ、話したいこともあったんで」

 なりゆきで本題に触れてしまったので、良貴は前フリなしで話を始めることにした。

「…話したいことっていうのは、…実は、僕も…少し前から、好きな人ができたんです」

 隣の部屋が少し気になったが、それを態度に出すわけにはいかない。

「うっそぉ!」

 弘志は大げさに驚いた。

「へ~。どこの、誰?」

 良貴はいきなり一番困るところをつつかれ、適当にごまかした。

「…あ、弘志先輩には、わからないと思います…」

「あっそ。じゃあどんな子?」

 弘志が「どこの誰」を追求しなかったので、良貴は心からホッとした。

「…うーん、実は…。先日、卒業した人なんです」

「年上?」

「…まあ、そうですね」

「うっそー。それも意外」

「そうですか?」

 驚く弘志の表情に、良貴は苦笑した。

(…弘志先輩って、さといのか、うといのか、わからないな…)

 弘志は良貴の相手をいろいろと想像してみた。年上というイメージのためか、「お姉さま」タイプの女の子しか思い浮かばず、どうも良貴には似つかわしくなかった。

「で、どうするの?」

 弘志は乗り出した。良貴は、いつかは典子のことと知れるだろうから、興味をもたれても困ると思いながら、しらばっくれて答えた。

「それが、実は…。向こうも僕のことを想っててくれたっていうのが、わかったんです」

 弘志は口笛を吹いた。

「それは、それは。じゃあ、彼女、できたんだ」

「いえ、それはまだ…。僕の方が、まだ、返事をしてないんです」

「なんで」

「…いや、言いそびれて…」

「言えばいーじゃん。簡単、簡単」

「…弘志先輩は、須藤さんの時、簡単でした?」

 良貴の反撃は思いがけず痛くて、弘志の矛先は弱まった。

「…俺は、別に、須藤のことは当時、消極的恋愛だったから…」

「今は、どうなんですか。時々、別れてないんじゃないかって思うんですけど…」

 良貴も学園祭の時からずっと、弘志と美恵子の関係を不自然だと感じていた。弘志は自分の中の美恵子への想いをごまかしたくて、大げさに抑揚をつけて言った。

「いやー、他人、他人。別れたって」

「まあ、口出しする気はないですけど。でも、…先輩は、須藤さんのことを好きになったんじゃなかったんですか?」

「…ウーン、まあ、いろいろと難しいんだよ」

「そうですよね。それと同じです。僕が彼女を好きでも、ああ、じゃあつきあいましょうって、簡単には思えないんです。いろいろと難しいんですよ」

 弘志は痛いところを突かれ、茶化すのはやめた。その様子を見てから良貴は続けた。

「僕は女の子とつきあったことがないんです。それは、もちろん誰もが通る道だから仕方ないんですけど、簡単には判断できなくって」

 良貴がもう少し何か言うかと思い、弘志は待った。でも良貴の話の続きはなかった。

「1つ、いいアドバイスをしてやるよ。つきあってみるまで、どういう関係が築かれていくかはわかんないぜ。俺だって、美恵子ともっとうまくやれると思ってたもん」

 初めて耳にする「美恵子」という言い方に良貴が気付き、その表情の変化に弘志の顔が引きつった。

(…ああ、つきあってる間はそう呼び合ってたのかもしれない)

 良貴はすんなり納得した。なのに、弘志はわざわざ墓穴を掘った。

「いや、別に、須藤と俺が今、どうこうっていうわけじゃなくてさ。ただ、呼び方だけの問題なんだよ」

「…あの、何も言ってませんけど…」

 弘志はむやみなミスに困惑して、面倒くさいから説明することにした。

「…つまりさ、俺と美恵子は、今、つきあってはないけど、いい関係は築いてるんだよ」

「…はあ」

「会いたいと思ったら会ってるんだ、俺たち。お互いに名前の方で呼んだりもして、つきあってたときよりずっとそれらしくなってるんだよ」

 美恵子と弘志の関係は良貴にも難しかったが、いいことだというのはわかった。

「…そうなんですか…。なんにしても、良かったじゃないですか」

 良貴はにっこりと笑った。弘志はそんな落ち着いた言い草に「コノヤロー」と思った。

「…それよりも、おまえの話だろ」

「そうでしたね」

 弘志は、自分だけが焦っているのが悔しくて、冷静な良貴を「可愛げのない奴」と心で罵ってみた。

 良貴は目を伏せて、正直な気持ちを口にした。

「僕は、背も低いし、あまり会話もうまくないし、女の子の扱いは慣れてないし…。弘志先輩でもいろいろあったわけですよね。そしたら、僕みたいな奴でいいのかなって…。一緒に歩いているだけで飽きられたらとか、期待外れな男だったらどうしようって思うんです。僕自身がつまらない男で、そのことで相手の子が傷ついたりするかもしれないって思うと、僕でいいんだろうか、ふさわしいんだろうかって思って、どうしても、不安で…」

 弘志は失笑した。

「だって、その女は、おまえでいいって言ってるんだろ? なら、いいじゃん」

「それがそう簡単じゃないってことは、知ってるんじゃないんですか?」

「…まあな。俺もなんだかんだ言って、情けない男だから…」

 正面から美恵子に好きだと言うことも、つきあうこともできない自分を知っていた。良貴に言葉を返されるたびに、美恵子を幸せにできない自分が浮き彫りにされる気がした。

「それでも、折角相手が想ってくれるんだったら、自分に自信がないからなんて勝手な理由で断るのはやめろよ。好きだって返事をするその瞬間だけでも、幸せにしてやれよ。…これは、俺の反省でしかないんだけどな。…ふさわしいかどうかなんておまえ自身が決めることじゃないだろ。自分に素直でいることしかねえよ。それで嫌われたら仕方ないし、自分の都合だけで恋愛をするとかしないとか、勝手に決めるなよ」

良貴は、いつになく真剣に主張する弘志を「変わった」と思った。弘志の言葉には美恵子と過ごして後悔した記憶がちりばめられている気がした。

「…俺は、好きなら側にいてやればいいと思う」

 だから、今、美恵子の側にいる。弘志は今の自分をそう思った。

「…わかりました。…本当は、僕も、好きだから頑張ってみようとは思ってたんです。でも、どうしても思い切れなくて…。今日、やっぱり、先輩に話をして、よかったです」

 でも、良貴は自分のことよりも、今弘志の中で起きている変化の方が気になった。

(…弘志先輩も、恋をしてこんな風に変わったんだ…)

 自分も変わっていくのかもしれない。そう思うと、良貴はとても不思議な気がした。


 だからといってその足で典子の部屋に行くわけにもいかず、良貴はまっすぐ江藤家を後にした。典子は良貴が帰る足音を聞いてガッカリした。

(…関係ありません、て感じかな? 返事は…)

 典子はがっくり落ち込んだ。

 だから、夕食後に二人で居間でテレビを見ているとき、弘志が突然つぶやいた言葉に、典子は仰天した。

「…あの其田にも、彼女ができるか…」

 典子は衝撃を受けて目の前がふっと暗くなった。でも、訊かずにはいられなかった。

「え~? どういうこと~?」

 典子は元気なお芝居をした。弘志は「ん」と顔をあげて、感慨深げに

「…其田も、好きな子がいるんだってさ」

 と言った。典子は本気でその場に倒れてしまいそうだった。それでも、作りすぎて出来合いの仮面のようになった「いつもの顔」で弘志に訊いた。

「へー! どんな子だって~?」

「それがさ、意外。年上なんだって。アイツもカワイイ系だからな~、年上ウケは良さそうだよな~。でも、アイツ自身が年上を好きになるとは、思わなかったな~」

「へー」

(…年上?)

 典子は一瞬反応したが、弘志の言い方だとどうも相手は年上然とした大人の女の人のような気がした。

「つきあうことにしたらしいよ。自分がふさわしいのかどうかなんて言ってたけど、美人なのかな。だったら、納得いかねえな~」

「ふーん。そうなんだ~。ガッカリだな~。私も、其田くん大好きだったのにな~」

「まあ、おまえは諦めるんだね~」

 弘志は「いつものジョーク」のつもりで軽く応対していた。典子は気力だけでなんとかその会話を成し遂げ、テレビが終わると部屋に逃げ帰ってベッドの中で泣いた。


 ところが、案外、弘志の目を盗んで典子に連絡をとるのは難しかった。

(…しょうがないか、あんまり他人に頼んだりとか、したくなかったんだけど)

 良貴が電話をかけたのは、江藤家ではなくて、須藤家だった。

「須藤さん? 其田ですが…」

「あれ、何? 珍しいね」

「…うん、実はちょっと、頼みごとがあって…」

 美恵子の存在も非常に微妙だった。良貴は、定義なんかともかく美恵子を弘志の彼女と認識していたし、そのうえ典子の親友というのが難しいところだった。どこまで、何を知っているかがわからない。しかしもちろん、知らない前提で話すしかなかった。

「え? 何? 頼みごと?」

 美恵子は良貴の返事を待った。それにはやたらと時間がかかった。

「…あのさ、典子先輩を呼び出してくれないかな」

「え?」

「話さなきゃいけないことがあって…、でも、弘志先輩には聞かれたくないんだよ。それで、典子先輩のほうを呼び出すっていうのが、僕がやると、どうしても不自然で…」

 美恵子は、思いっきり良貴を不審に思い、慎重に言葉を選ぶように心がけた。

「…そりゃあ、江藤先輩からの伝言伝えてもらったこともあるし、頼みはきくけど。…でも、なんで典ちゃんなの?」

 良貴は冷や汗をかいた。でもなんとか、平静を装って答えた。

「うん、訊かれてることがあってさ。その話を、弘志先輩抜きでしたいんだよ」

「…ふーん…」

 美恵子は思いっきりけげんな声を出した。良貴はひるまずに、

「あのさ、典子先輩にも僕が用があるって言わないで、須藤さんが用があるみたいにして呼び出してくれない?」

 と頼んだ。自分の言葉で伝えないうちに、典子に何かを悟られるのは嫌だった。

「…うーん、まあ、ほかならぬ其田くんの頼みだから聞くけど…」

 何か言いたそうな美恵子の言葉を、良貴は先回りして摘み取った。

「ありがとう。あとでちゃんと、説明するから」

 美恵子は電話を切ってから、他人事ながら期待と不安に胸を躍らせた。


 美恵子が出てこないかと誘っても、典子は渋った。良貴に失恋したと思ってすっかりひきこもっていた典子の事情を、美恵子はまったく知らなかった。

「ねえ、気分転換に、出てきたほうがいいよ。弘志先輩が心配してたよ。典ちゃん、大学落ちたのが今こたえてるんじゃないかって。そうなの?」

「えー。そういうんじゃない。ただあんまり、出歩く気になれないだけ…」

 美恵子は良貴を恨んだ。

(…其田くんが用があるって言えば、典ちゃんはすぐに出てくるのに)

 結局、弘志に入学祝いを選びたいからつきあえという、浪人生には残酷な理由で呼び出さざるを得なくなった。美恵子は、しっかり良貴が指定した日時に典子を呼び出すことに成功した。


 待ち合わせの時刻、良貴は少し外れた物陰に隠れて待っていた。典子は美恵子との待ち合わせだと思って気楽な足取りでやってきて、美恵子の姿が見えないので周りを見回した。それから駅前広場の時計を見てしばらくボーッとして、美恵子が来るであろう方角を向いて立った。

 良貴は典子に向かって背後から歩いて行った。これから何かが始まる緊張した空気が心地よかった。長いような、短いような数十メートルを歩いて典子のすぐ後ろに立ち、できるだけ驚かさないように声をかけた。

「典子先輩」

 典子は確かに反応したが、振り返らなかった。

「…典子先輩」

 もう一度声をかけると、典子はホラー映画で後ろに気配を感じたヒロインのように、驚愕した瞳でゆっくりと振り返った。

「どうも。あの、すみません。須藤さんに頼んで、呼び出してもらいました」

「…え?」

「用があったのは、僕です。須藤さんじゃないんです」

 典子はうろたえた。これから引導を渡されるのだと思うと、普通ではいられなかった。

「…どうしましょうか。お茶でも飲みますか?」

 典子は相変わらずホラー映画状態だったので、良貴は幾分強引に、

「行きましょう」

 と言って歩き出した。典子は慌てて後について歩いた。

「どこでもいいですか?」

 良貴は余裕の表情で振り返った。典子は打ちひしがれたようにうなずいた。

「先輩、コーヒーは好きですか?」

「…なんでも…」

 良貴は手近なコーヒー専門店に入った。落ち着いて話ができそうな店構えだった。向かい合って座り、それぞれコーヒーを選んで注文すると、たちまち状況が出来上がった。良貴には、なんで典子がそうまで怯えているのか、ちっともわからなかった。

「…先輩、僕、別に先輩のことを、とって食おうっていうわけじゃないんですが…」

 優しく言っても、典子は全身を硬直させて息を殺していた。良貴は肝試しのときの典子を思い出して笑いそうになったが、状況を考えて姿勢を正して、やっと話を切り出した。

「…あの、先日は、すみませんでした」

 典子は一瞬目を上げて、すぐに視線を落とした。

「家まで送るって言ったのに、途中になってしまって」

 典子の視線がせわしく行き来した。でも、声は出ないようだった。

「…あの時、先輩が言ってくれたことの返事をしないといけないと思って…」

 典子の顔色がみるみる白くなった。良貴は、なぜか絶望的な気持ちになっているらしいその様子をかわいそうに思い、ゆっくり話そうと思っていた予定を変更して、いきなり結論から告げた。

「あの、先輩。今日は、僕、先輩に、つきあってくださいって言いに来たんですけど…」

 典子の動きが完全に止まった。

「…先輩」

 良貴がじっと顔を見ていると、典子は2、3度まばたきをした。

「…良かった、ちゃんと聞こえてますよね」

 典子の目がいまさら驚いたように揺れて、良貴の目を探し当てた。良貴は小さく息を吸って、まっすぐ典子の目を見つめて、

「…僕、典子先輩が好きです」

 ときっぱり言った。典子は自分の身に何が起きているかわからずに、じっとぐるぐる回る頭の中で良貴の言葉を聞いていた。

「すみません、返事が遅れて…。これでも僕、いろいろ考えてたんです。僕にそんな資格があるのかどうか。僕が先輩にふさわしいのかどうか…」

「…私のことだったの?」

 典子は呆然としながら言った。

「…だって、…あれ?」

(好きな人は、年上って…? つきあうことにしたって…?)

 典子はもう一度、問い返すように良貴を見つめた。良貴は優しく笑って答えを返した。

「僕も、ずっと好きだったんですよ。典子先輩のこと」

 静かな時間と空間が二人の間を流れていった。典子は微動だにせず、良貴はゆっくりと先に進んだ。

「返事はしましたよ。先輩は答えてくれないんですか? …つきあってくださいって、言ったんですけど…」

典子の目が少し大きく見開かれた。そして、力なく一度うなずいた。

「典子先輩」

 良貴の声に典子が慌てて目を上げると、優しい瞳がのぞき込んでいた。

「ありがとう」

 その言葉を聞いて、典子の顔がやっと笑った。

コーヒーの香りに囲まれながら、2人はお互いに、いつ、どうして相手に惹かれていったかを語り合い、それまでのすれ違いや思い込みの糸をほぐし合った。

「弘志先輩には、言わずにおきませんか?」

「…うん、いいけど…」

「なんか、弘志先輩が知ってると思うと、普通に話がしづらくて。弘志先輩とはいい友人でいたいんです。でも、カノジョの兄貴、とかなると、そうもいかないでしょう?」

「うん、わかった」

 幼い恋人同士の会話は、待ち焦がれた喜びに満たされ、夜まで続いた。


 良貴はその夜、美恵子に電話をかけてお礼を言い、典子とつきあうことになったと告げた。美恵子は急な展開に驚いたが、決して予想のつかないことではなかったので心から祝福した。それから良貴は、弘志にこのことを知らせる気はないと言った。

「あ、そう。弘志先輩が、典ちゃんのこと大好きだから? やっぱお兄様は怖い?」

 美恵子は笑った。

「違うよ、僕自身が今までどおり先輩といい友人でいたいし、先輩も僕を見る目を変えてほしくないんだよ」

「…そう。いつかはバレると思うけど」

「その時までは今のままでいたいよ」

そんな話をして10分くらいで電話を切ると、美恵子のところに今度は典子から電話がかかってきた。

「美恵ちゃーん」

「あ、今まで、其田くんと話してたのよ。聞いたよ~?」

「え、そーなの~?」

 美恵子と典子の電話は、延々2時間あまりにわたった。

 誰もが幸せな、素敵な夜だった。

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