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14 ラブ・バトル


 卒業式が終わると、体育館前の広場のあちこちに運動部の輪ができた。体操部の輪もその中にあった。

「せんぱーい」

 江藤兄妹は2人並んで周りを取り囲まれていた。

「まあまあ、私は浪人生だからさあ、声かけてよ。また、遊びに行ったりしようよ」

 典子はすっかり気持ちを切り替えていた。

(次の受験は其田くんといっしょだもんね。同時に大学生になったら、同じ学年じゃん)

 弘志はむしろまわりの女の子達にPRするように、大きめの声で典子に言った。

「あーあ。いいな、俺も浪人しようかな」

 典子は目を丸くした。

「何、言ってんの。和佐田入れたじゃん」

「でもさ、4年たったら社会人だろ。おまえはあと5年、働かなくていいじゃん?」

「やった、私のほうがトクだ」

 兄妹の掛け合いに後輩たちは笑った。

 その様子を見ていた美恵子は、隣にいた良貴に声をかけた。

「なんか、ちょっと感慨深いね」

「…そうだね。なんか、あの2人って体操部のムードメーカーだったから」

「其田くんは、これからも江藤先輩と親しくしてくの?」

「そうだね、弘志先輩が嫌でなければ。須藤さんは? 典子先輩と」

「私は、だって、小学校からずっと友達だもん。だからこれからも一緒。典ちゃん浪人しちゃったし、一緒に受験勉強もできるからいいや」

「そうか、いいね、そういう幼なじみみたいなの」

 千江美も江藤兄妹と良貴を見ていた。

(…其田先輩、どうするんだろう。典子先輩のこと…)

 千江美は泣いて、泣いて、良貴のことは諦めたけれど、やっぱり気にはなった。1年生の女の子たちには「告白したけど、フラれちゃった」と報告していた。「其田先輩の好きな人、誰なのか聞いた?」と訊かれたが、「ううん、さすがに訊けなかった」と答えた。

(言わないのかな。好きだって。…あんな風に、いつもさりげなく見つめてないで)

 典子がうらやましかった。千江美は、バレンタインの日に典子が廊下で自分を振り返った時の、気遣うような、焦った顔が忘れられなかった。

(ホントに、典子先輩は善人なんだな…)

 朝川リエは弘志を囲む輪の中にいた。バレンタインにあげたチョコには気持ちを書き綴ったカードをつけておいたが、ホワイトデーにカードも何もついていないささやかなお返しを受け取っただけで、何も答えを聞けていなかった。

(…1度だけでも、デートしてくれって頼んでみよう)

 リエは弘志が卒業したら行動しようと手ぐすねを引いていた。それから、同じように机の中にチョコを入れていた百合香への弘志のお返しが、自分と同じだったか気になった。

 戸部百合香は、輪の中でもどっちかというと典子を囲んでいる半分の方にいた。やっぱり弘志に返事をはぐらかされたままでいた。

(クリスマスも、バレンタインも、うまく逃げられたけど…)

 でも、逃げるということは、一つの答えの表れなのかなという気がした。

(そうだよね、美恵子はつきあってたんだし…)

 弘志が何も言わないのなら、そのままにしようと思っていた。

 体操部の輪はその日、場所を転々とかえながらいつまでも消えなかった。


 翌日の夜、朝川リエは弘志に電話をかけた。もはや典子が受話器をとっても気後れすることなく、

「すみません、弘志先輩はいらっしゃいますか」

 と堂々と言った。典子はこのテの電話には慣れていた。

「弘志、朝川さんから電話だよ」

 とインターホンで取り次いで、「またか」とだけ思ってドラマの続きに戻った。

「もしもし」

「あ、江藤先輩ですか。朝川です」

「あー。…あのさ、実は、前々から訊こうと思ってたんだけど」

 リエは、弘志の言いづらそうな声に、なんだろうと思ってちょっとドキッとした。なにせ、すでにバレンタインデーに気持ちは伝えている。

「…なんで、キミらの代の女の子たちって、俺が江藤先輩で典子が典子先輩なの?」

 そして早速、なんだ……とガッカリした。一応平静を装って答えは返した。

「えー、それは、なんか女の人を名前で呼ぶのは恥ずかしくないんですけど、やっぱり、男の人を名前で呼ぶのって恥ずかしくないですか?」

「そーなんだ。俺、ずっと疑問だったんだよね、なんで『弘志先輩』じゃないんだろうって。2年の連中は案外躊躇なく弘志先輩とか典子先輩とか言ってるけどな」

「でも、3年の男の先輩方は、江藤先輩のことを名前で呼んで、典子先輩のことは『江藤』って名字で呼んでますよね。それは、同じ理由だと思うんですけど」

「あー。そうか、そうだよな~」

「それに、須藤先輩も、『典ちゃん』と『江藤先輩』じゃないですか」

リエは、美恵子の話題で弘志がどういう態度になるか探るため、あえて話題にしてみた。

「あいつの場合は、典子は身内で俺は他人だからますますそうなるよな~」

 弘志は堂々と言った。リエが何を目撃していようが、何を勘ぐっていようが、実際、定義のうえでは、美恵子とはどういう仲というわけでもない。リエは弘志の「他人」と言った口調に手がかりを求めて、聞いた言葉を心の中で反芻した。

「キミらは、春の選手権、誰出すの?」

「え?」

 弘志は勝手に話題を変えてきた。

「2年になると、大会出るじゃん。キミらの代は、男子の選手出すの難しいだろ。どんぐりの背比べで」

「そうですね。女子は結構はっきり差がついてるんですけどね」

「でも女子って、大会出るの嫌がるんだよな。なんで?」

「それは、レオタードだからですよ」

「あっそう。正直言って、大会のレオタードより、合宿で海行ったときの方が見てるよ?」

「やだー、そうなんですかー?」

「ああ、俺はもう卒業しちゃうから時効だな。言っちゃえ。夏合宿はみんな見てるから気をつけろよー。と、いうより、頑張ってくれ。今年の俵田みたいに」

「ビキニですか?」

「まあそれに限らず、目の保養になるの歓迎。って、俺は次の合宿はもういないじゃん。じゃあもう何だっていいや、全身タイツみたいな露出低いのでも」

 リエは笑った。その調子で全然関係ない話をしばらくして、それから弘志は言った。

「結構長話しちゃったな。ケータイから? 電話代、ゴメンな」

「…え、…まあ、親が払ってるんで…」

 とは言ったものの、リエはやや携帯電話の料金が気になって、結論を急ごうと焦り始めた。そこに弘志が明るく言った。

「俺は家の電話で、しかもうっかり親機でとっちゃってさ。今、廊下で立って話してんの」

 それは嘘で、弘志は自分の部屋の子機でしっかり話していた。

「えー、そうなんですか…」

 リエは言葉に詰まった。廊下にいると告げてくるのは、今この状況で恋愛沙汰を言ってくれるなという意思表示に感じられる。リエが口ごもっていると、弘志が全然別のことを訊いてきた。

「春休み、練習出るの?」

「え、もちろん」

「俺も、春休みの間くらいは顔出そうかな」

「ホントですかー? 是非、来てください」

「じゃ、まだしばらくはおまえとも一緒だな。よろしくなー」

 妙に親しげな弘志の口調にちょっとだけ違和感があり、それがリエをドキドキさせた。

「あのっ、…よろしくお願いしますー」

「…あ、で、ゴメン、電話してきた用事ってなんだっけ」

 リエはもはや、告白とか、返事とか、デートとか、とても言えなかった。

「…えっと、…あ、でも、練習、来るんですよね。それだけわかれば、いいんですー。じゃあ、その時に…」

「ありがとなー、春休み、心おきなく行かせてもらうよ。じゃあ、そん時またー」

 弘志は受話器を置いて、

「はい、一丁上がり」

 とにっこり笑った。あとは春休みにチャンスを与えないように心がければOKだ。弘志は、このまま終わって女の子たちが自分を「美しくも悲しい片想いの物語」にしてくれる方が、わざわざ断るよりずっと気分がよかった。


 リエに約束したとおりちゃんと体操部の練習に出てきた弘志は、念には念を入れて、

「其田、悪いけど、須藤に伝言頼んでもいい?」

 と良貴にささやいた。美恵子は目と鼻の先にいた。

「え、…なんでですか?」

「悪ィ。ちょっと、朝川の視線を厳重警戒中なんだ」

 良貴がさりげなく見ると、リエがさりげなく目をそらすのが見えた。

「…大変ですね。はっきり断ればいいのに」

「どうせ俺のことだって、いなくなればすぐに忘れるって」

「まあ、伝言は、あとでチャンスを見つけて伝えますけど…。何ですか?」

「『今日の夜、俺のケータイに電話ちょうだい』。あいつケータイ持ってないから、こっちからだと、自宅にかけないといけないんだよ。できれば避けたいからさ~」

「わかりました」

 果たしてその夜、美恵子からはしっかり電話がかかってきた。

「お、其田がちゃんと伝えてくれたか~」

「自分の口で、言えないんですか?」

「悪いなー。卒業前後って、いろいろ女の子たちの思惑が飛び交っててさー」

「…私も、そりゃあ、巻き込まれたくはないですけど、でも…」

「だって、面倒だろ? それより其田にちょっとだけ面倒な思いしてもらう方が、世界に存在する『面倒』という物質の総合量は増えねーって」

「勝手な論理。私、其田くんに謝っておきますね」

「いーんだよ。それが、友達ってもんだろ」

 美恵子は、なんで弘志と良貴が意気投合しているのか全然わからなかった。受話器の向こうですっかり呆れて黙っている美恵子に、弘志は言った。

「なあ、明日、出て来ない?」


 翌日、二人は駅前で昼過ぎに顔を合わせた。行きたい店があるという美恵子の要望を汲んで、二人は近すぎないけれど遠すぎない微妙な距離を保って並んで歩いた。

「そういえば大学合格、おめでとうございます」

「ん、サンキュ。まあね、俺も、さりげなく堅実だから」

「よく言いますね~」

「でも、俺、こう見えてもずっと優等生やってきてるんだゼ。高校だって都立の一番いいとこ、大学もしっかり現役で和佐田」

「ちゃっかりしてることは、認めますけど」

 美恵子は素直に納得できなかった。世に言う「優等生」は、絶対こうではない。

 駅から少し歩いた遊歩道沿いに、綺麗なハーブティーの店が新しくできていた。

「いいねー。こういう店」

「女の子連れてくるのに、ちょうどいいですもんね」

「おまえって、絶対俺のこと誤解してるよ」

 弘志はドアを引いて、美恵子を先に入らせた。

「俺、女の子に追っかけられるのは好きだけど、デートとかそういうのは苦手なんだけどな。逃げるの専門」

 つきあっていたら言えそうもないことを、今の美恵子には自然に言えた。美恵子は呆れた顔をした。

「そうですね、それで私からも逃げ切っちゃったし」

「逃げたのはおまえだろ」

「先輩が逃げてたから、私が身を引いてあげただけじゃないですか」

「俺は戸惑ってただけよ。女の子のこと、よくわかんないし~?」

「よく言いますね~。江藤先輩にうまくあしらわれた子、いっぱいいるじゃないですか」

 でも、たしかに弘志は結果的にはオクテだった。高校3年生なら、キス2回だけじゃすまない人はたくさんいる。

 座ってそれぞれハーブのブレンドティーを注文して、一息つくと弘志は切り出した。

「それでさ、俺は、大学生になるわけじゃん」

「おめでとうございます」

「ありがとうございます。…で、まあ、俺たちって今後、どうだろうって思って」

 美恵子はドキッとした。一瞬「もう一度つきあおう」と言われることを期待したけれど、次第に逆なのではないかという気がしてきた。

「今まではさ、体操部もあったし、典子が年中おまえと俺の間にいて、ミツバチみたいにしてたじゃん? でもこれからは、俺の方は新しい世界に出て行くし、おまえは逆に受験に入るだろ。体操部には、俺もおまえも出なくなる。典子はそうそう、俺たちの間を飛んでてもくれない…そしたら、どうしようかなって思って」

 美恵子は不安が立ち込めてくるのを感じた。弘志とは、恋愛でさえなければこれからもこうしていられると勝手に思い込んでいた。

「…先輩は、どうしたいんですか?」

 美恵子はテーブルの上の小さなハーブの鉢を見ながら言った。

「…おまえは、どうしたいの?」

 弘志も伏目がちに窓の外を見ながら言った。お茶が運ばれてきたので、しばらく会話は途切れた。店員が行ってしまってからも、2人はしばらく黙っていた。

美恵子は勇気を出して、なるべく感情的にならないように言った。

「…どうにかしたいから、呼び出したんじゃないんですか?」

 弘志は美恵子の顔をそっとうかがってからまた目を伏せ、

「…もう会わない、とか…そういう『どうにか』?」

 と言った。美恵子の肩が一瞬だけ小さく震えた。

 美恵子の様子をじっと視界の隅で観察しながら、弘志は美恵子の気持ちを探った。そして、はじめから決めていた結論をやっと告げた。

「…どうにかしたくないから、それだけ確認しときたかったんだよ」

 自分がよく使うだけに、「フェードアウト」という終わり方が怖かった。小さなチャンスをいくつか逃してやるだけで、簡単に恋なんか終わってしまう。

(…それは、このままでいようってこと?)

 美恵子は黙って弘志の言葉を反芻した。

「俺、大学に行くことで、自分が変わってしまうっていうのは、どうも好きじゃないんだ」

「…はあ、そうですか…」

ホッとしたが、それだけではないことも知っていた。美恵子は淋しくつぶやいた。

「それでも人は、変わっていくから…」

 昔、お互いに好きだと言い合った幼い男の子もいたが、ただ意識し合うだけで、時の流れの中にあっけなく消えていった。弘志だって、未来という世界に入っていけば今までのことは過去になる。時は必ず流れていく。

 弘志は美恵子の言葉の中にある真実を認めたくなかった。

「…変わらないよ、俺は」

 美恵子が静かに悲しく笑うのが見えた。みんな、そう言います…。美恵子の声が聞こえた気がした。だから、それを打ち消したくて弘志は続けた。

「…変わりたくないんだよ。だから、おまえも変わるな」

 美恵子は、こういう関係になってから時々痛いほど感じる弘志の気持ちが嬉しかった。他人のはずだから、本当はそんなことを語り合う関係じゃないから伝わる気持ち…。

「…私は変わらないけど、江藤先輩は…大学に行っちゃったら、わからないから」

「そしたら、おまえが知らないところでは変わらないよ。変わるときは、ちゃんと知らせるよ。俺、変わるから、って」

「そんなこと、自分でわかるんですか?」

「好きな子ができた…とか、な。俺が恋をしたいなんて思ったら、それが一番すごい変化だろ」

「たしかに、どうかしちゃったのかなって思いますね」

 2人とも笑って少し空気が和んだが、美恵子はそっと、

(…でも、それが一番、起こりえる変化なのかもしれない)

 と思った。

 喫茶店を出て、それだけで帰ることにした。

「なあ、まるで恋人同士みたいなことを言うのは、すっごい気が引けるんだけどさ」

 帰り道で弘志は言った。美恵子はドッキリした。

「な、なんですか?」

「動揺するなよ」

「先輩が変なこと、言うからですよ」

「大して、変なことでもねーよ」

 美恵子は弘志の言葉を待った。弘志はしばらく照れたように鼻の頭をこすっていて、しばらくかかってやっと言った。

「2人だけのときは、呼ぶの、名前の方にしねえ?」

 美恵子はびっくりして弘志を見上げた。弘志は普通に美恵子の瞳を見返そうとしたが、結局目をそらしてしまった。

「ホントは前々から思ってたんだけど、須藤、…って、案外発音しにくいんだよ」

 弘志の照れた顔に満足して、美恵子は幸せな微笑みをたたえて目を伏せた。

「…呼びやすいように呼んでもらっていいですよ」

「おまえもだよ。…体操部の、他の奴らが言ってるようにでいいから」

「弘志先輩、って?」

「それでいいから、名前で呼べ。俺だけだと、恥ずかしいだろ」

「…わかりました」

 一瞬言葉が途切れ、弘志が慌てたように言葉を継いだ。

「今言わないと、ほとぼりが冷めた頃にいきなり言えねえよ」

「…そうですか?」

「そうだよ」

 弘志は大きく息を吸った。美恵子は緊張したが、態度に出さないよう気を遣った。

「美恵子」

 その響きは雷みたいにショッキングで、でも、とっても甘かった。弘志はやっぱり、そんな雰囲気に耐えられなかった。

「よおーし、今日からおまえは、美恵子だぞ~」

 そう言って弘志が美恵子の頭をくしゃくしゃとやると、美恵子は慌てて逃げて、怒った顔で弘志を振り返った。

「何、それ。拾ってきた犬に、名前をつけたみたい」

「…いいんじゃねーの? そんなとこで」

「イヤですよ、そんなの」

「それより、おまえは?」

「弘志先輩」

「…おい、少しは、溜めろよ。感慨も何も、ねーよ」

「そんな恋人同士みたいなこと、言わないでください」

 呼び名が変わったことは、まるで、お互いが変わらないという契約をしたみたいに感じられた。もしもいつかは変わっていってしまうとしても、今は、そんな風に思えることが幸せだった。


 聡史も4月から大学生になることが決まっていた。典子が電話をとると、

「よう、浪人生。やっぱりセンター試験、受けとく方がよかったろ~」

 という関西訛が聞こえた。

「なんだ、飯田くんか。いいのよ、私は高校4年生に進学しただけなんだから」

「おー、そうか。その学校は、何年制~?」

「大丈夫、4年制でーす」

「『あと4年制』じゃないとエエな~」

「いくらなんでも、そこまで浪人しないよ」

 聡史の電話は、いつもに比べてずっと短かった。

「なー、春休みのうちに、空いてる日ってないか?」

「私、来年まで春休みだよ」

「そーやなくて。俺の、春休みの間」

「毎日、日曜日」

「あっそう、じゃあ、俺は明日用事があるから、あさっては」

「いいよ」

 典子は言われるままにメモをとった。

「あさって、夕方4時、正門前」

 弘志が居間で聞き耳を立てていた。

 弘志はその約束の「あさって」、体操部の練習に出た。典子がメモを電話のところに置きっぱなしにしていたので、待ち合わせ場所と時刻はしっかり覚えていた。約束の「夕方4時」が近づくと弘志はそわそわと外を見はじめた。まだ少し寒かったので、体育館の大きな鉄の扉は閉めたままで、格子のついた窓を少しだけ開けて外を気にしている弘志はどう見ても変だった。後輩に「何やってるんですか?」と訊かれ、弘志は、

「いやー、典子が今日、来るかもしれないと思って」

 と、まるで典子が「体操部に」来るかのような言い方をしてごまかした。

 弘志がそう言うのが聞こえたので、良貴はさりげなく近づいていった。結局何も行動できないまま典子の卒業を見送り、良貴は悩んでいた。

「弘志先輩、今日は典子先輩来るんですか?」

「…いや、実はさ、なんか、…例の化学部のやつからおととい、電話があってさ」

 良貴にまで嘘をつく必要はなかったので、弘志は正直に言った。良貴の心臓が音を立てて鳴り出した。

「それが、なんか妙に電話が短いんだよ。いつも、バッカみたいな話、延々してるのに。それで、…ホラ、この時期って、そーいうシーズンじゃん。それで、気になってさ」

「え、それで、ここを通るんですか?」

 良貴は自分で言ってギクリとした。それはまた2人で暗室で会うことを連想させた。

「典子のメモによると、4時に正門」

 弘志は壁の時計を見ながら言った。もう、4時を少し回っていた。

「あー、気になる。俺、見てくるよ」

 良貴がドキドキしている間に、弘志は一人でそわそわして出て行ってしまった。

 ちょうど正門では、典子と聡史が合流していた。

「卒業祝い、やらんか? 残念ながら合格祝いはできんからナ」

「スンマセンね。…で、どこか、行くの?」

「例の花火、作っといた。最後に、一緒に燃やさんか?」

「わー、やる、やる~」

 2人は学校の中には入らず、外を回ってコンビニに寄った。弘志が様子を探りに来たのは、2人がコンビニに入った頃だった。しばらく待って、やっぱりいないことを確認してから体育館に戻ると、良貴が「どうでした?」と声をかけてきた。弘志は「いなかった」と答えた。

 その日の練習は夕方5時までだった。終了のミーティングの途中、良貴はかすかに火薬のようなにおいがするのを感じた。気のせいかもしれないと思ったが、学園祭の記憶と結びついた。確かに、あの時もこんなにおいがしていた気がする。

(…もしかして、花火? こんな季節に?)

 良貴は思わず暗室の方を見た。でも、そこには静かな部室棟があるだけだった。

ミーティングが終わり、部員たちが団子になって駅へと歩き始めた。良貴はなぜか、誰にも見られないように物陰に定期入れをそっと落として行った。


 その45分ほど前、聡史と典子はコンビニから裏門の方を回って学校に入ってきて、体育館の前を通らずに暗室に向かった。

「ねえ、なんで暗室の鍵、いつも持ってるの?」

「いつもやないよ。ちゃんと、写真部に借りてんの」

「写真部は、なんでいつも暗室使ってないの?」

「写真部の活動は、大半、撮るほうやろー」

 そういえばちょっと変だな、と典子は思った。もう少し遅い時間に待ち合わせれば、わざわざ空気を悪くして暗室で花火をやらなくても、普通に外でできる。

(でもまあ、思い出だから)

 典子は思った。思い出を再現するのなら、学園祭の時のままの方が感傷的だ。

 暗室でコンビニ袋を開き、お店を広げ始めた典子に、聡史は仰天した。

「おまえなー、なんでそんな、菓子とかケーキとか、イロイロ買うんよ。狭いやろ」

「えー、乾杯しようと思って。お祝いにケーキはつきものだし」

「おまえ、ホントにガキや」

 それからジュースで乾杯して、仕方なく聡史は典子につきあってケーキを食べた。

「卒業してもよろしくねー」

典子は無邪気に言った。聡史は、

「そらー、おまえ次第やな~」

 とあいまいに言った。

 聡史は待ち合わせより一足早く来て校内の様子を見ておいたが、体育館で体操部が練習しているのを見つけたときは肝が冷えた。別に何かやましいことをしようと思っているわけではないが、こんな場面には良貴と弘志の視線が邪魔だった。だから体育館の前を通らず、コンビニ経由で裏門からここに来た。

(たしか、運動部って、体育館5時には出るよな)

 5時以降なら「二人きり」になれる、聡史はそう思った。

 やっと花火を始めた時には4時半をだいぶ回っていた。聡史の手作り花火は相変わらずちょっとだったが、しっかり市販の線香花火も用意されていた。

「こんな季節に、よく花火が手に入ったね」

「そんなん、そういうとこ行けばいつだって売っとるワ」

「そういうとこって、どういうとこ?」

「浅草橋とか行くと、こういう問屋とかあるんよ。人形屋とか、玩具系の問屋街」

 それから2人はちょっと窓を開けて換気をして、線香花火の続きをした。

 その頃、練習を終えて帰宅をはじめた体操部の面々は駅に着いた。良貴は、

「あ、定期、忘れてきた。僕は戻るけど、みんなは解散して」

 と言って一人で引き返してきた。定期入れを隠してきたのは、後でその辺をウロウロしていても言い訳になるようにだった。駅に着くまで「定期を忘れた」と言い出さなかったのは、誰にも待たれずにうまく一人だけで学校に戻るため。予定通りに事は運んだ。

良貴は小走りで学校に向かっている自分が不思議だった。例えばもし暗室で2人が花火をやっていたとして、その周辺に自分がいて何になるというんだろう。

(…やっぱり、僕は…気持ちだけでも、伝えたい)

 もう、千江美に白状してしまった時点で、良貴の気持ちはこの広い世界に生まれ落ちてしまった。自分の中にある間は「やっぱり違う」と捨てることもできた。でも、今からそうしても、千江美が自分の気持ちを知っている。だからそれは、良貴にはどうにもできない「事実」という物体になってしまった。それは何か決定的なものだった。

 良貴が体育館の裏につくと、さっきより強く火薬のにおいがした。

 良貴は部室棟に近づいていった。中を覗くと、「化学部」と書かれたプレートのついた部屋には人の気配がなかった。暗室の場所は知らなかった。良貴は階下に聞き耳を立てた。階段の真下にある部屋から、不意に人の笑い声が聞こえた。

(典子先輩なのかな)

 厚いドアから漏れる声は、声音まで良貴に伝えてはくれなかった。そのまましばらく待っていたが何事も起こらない。階段を数段下りていくと、「暗室」のプレートが見えた。見てはいけないものを見たような気になり、良貴はすぐに階段を上った。

(…もしかしたら、うまくいって、楽しくやってるのかもしれないし…)

 バカバカしくなってそのまま部室棟を出た。胸がキリキリと痛んだ。帰ろうと思ったが、なぜか後ろ髪を引かれた。帰りたくなかった。

(典子先輩がもしいるなら、ちゃんと帰るのを見届けてから帰ろうかな…)

 良貴は体育館脇の非常階段を途中までのぼり、腰を下ろして街灯で本を読みはじめた。暗室から誰かが出てきたら、足音ですぐにわかるだろうと思った。


 暗室では線香花火が燃えていた。

「最後の一本、とった!」

「あー、おまえなー、あ! 玉、落ちてしまったやないか」

「ドンくさー」

「おまえが、玉落としてまで最後の一本を狙うからや。全部終わった瞬間にとりっこ、言うたろ~」

「えー、だって、普通にやってたら、玉、落ちちゃったんだもん」

「わざとや。セコい女。まー、エエわ。最後の一本、燃せ~」

「ああ、高校生活もオシマイか~」

 典子は線香花火に火をつけた。か細い花火はじりじりと音をたてながら一番綺麗な火花を散らし、それがだんだん細くなって、音もなくいくつかの花弁を散らして、消えた。

「俺らの、高校生活もオワリ」

「いろいろと、お世話になりました」

「こちらこそ、お世話になりました」

 2人は暗闇の中で頭を下げてあいさつをしあった。

 聡史はそっと息を飲みこんだ。

「なあ、俺の告白、聞いていけ」

「えー、何か悪いことでも、したの?」

「そういうのやないよ。普通の、告白」

 典子が意図をつかみきる前に、真っ暗な中で聡史が言った。

「…俺、おまえが好きや」

 典子は何が起きているかわからず、ただ呆然と座っていた。

「おまえが、エエ友達やってたから、言えんかった。でも、今まで何度も、俺、態度に出しとったはずやぞ。ホントに、気付かんかったんか?」

 典子は一生懸命対処しようとしていたが、いろんな要素がいっぺんに襲いかかってきて、パニック状態になった。

「…だって、友達だって言ってたじゃない」

 典子はやっとひと言だけ言った。裏切られたという気持ちがわいてきた。

「それは、スマンと思ってるよ。でもな、俺、今日の今日まではちゃんと、いい友人やってきたやろ。努力してたんよ。勘違いしたことなんて、一度も、ないよ」

 典子はなんだか力が抜けた。男女間に友情は成立する、男の子ともこんなにいい友人関係が築ける、ずっとそう思っていた。

「…なあ、答えとか、ないんか。俺と、つきあってくれ。卒業しても会いたい」

 逃げ場のない真っ暗な中での告白は拒絶反応をあおった。電気をつけるか、ドアを開けるか、外に出るかしたかった。典子は無言で立ち上がり、聡史の後ろの隙間を通り抜けようとしたら、聡史の腕が典子を止めた。

「なあ、それはないやろ。俺が真剣に告白しとるのは一体、どうなる」

「だって私、そんなつもりないもん」

「それは、答えか?」

 典子は答えずに、とにかく出ようとした。

「逃げんな、答えてくれ」

 どこに足場があるかもわからない真っ暗な中、聡史は立ち上がって典子を止めた。聡史の腕は典子の肩を抱きかかえるような格好になった。暗闇でなければ袖や手首をつかめたのだろうが、そんな風に小さい的で典子を捕まえるには明かりが足りなかった。そして典子は、そんな風に手を伸ばした聡史を怖いと感じた。

「こんなの友達じゃないよ。私、帰る」

「もう友達はオシマイや。なあ、ダメならダメって、ハッキリ言ってくれ。俺は、真面目に言ってるんやないか。こんなときくらい、男として、見てくれよ」

「帰る!」

 腕を振り払おうとした瞬間、背中から抱きしめられた。典子は体がすくんだ。

「…なあ、…俺の気持ちは、わかってくれ。それだけでいいから」

 もうこれですべてが壊れてしまった。切なくて、聡史は典子の背中を強く抱きしめた。

「もう、なにも要らんから…、少しだけ、このままでいてくれ」

 典子はショックで身動きもできなかった。困惑の中に、ふっと良貴の姿が浮かんだ。

(…其田くん)

 そう思った瞬間、良貴でない男の腕の中にいる自分が嫌になった。弾けたように正気に返り、全身の力をこめて聡史を振り払った。典子は転びそうになってドアに倒れこんだ。それがドアだとわかると、手探りで取っ手を探して外に飛び出した。そのまま階段を上がり、部室棟を出て行った。

 聡史は自分の行動を後悔していた。

(…いきなり抱きしめたら、女の子は誰だって逃げるナ、そりゃ…)

 それから聡史はのろのろとドアに向かい、暗室の電気をつけた。いろんなものが散らかっていた。典子の荷物が置きっ放しだった。

(…ああ、あいつ、財布も、定期もこの中や。このままやったら帰れんな。戻ってくるしかないやろ。…謝らんと)

 胸の痛みは失恋よりも、典子へのすまなさが勝っていた。聡史は暗室を片付け始めた。


 勢いよくドアが開く音がして、良貴は慌てて本から目を上げた。階段の途中からのぞき込むと、女の子が部室棟から走り出て来るのが見えた。

 良貴は階段を駆け下りた。典子に間違いなかった。

 典子は渡り廊下を一気に走りぬけた。さすがに良貴のほうが足が速く、次第に間隔は詰まっていった。典子が何かに気がついたようにいきなり立ち止まった時、良貴は声をかければ届く位置まで近づいていた。

 典子は荷物を置いてきたことに気付き、戻るかどうかを迷っていた。

「典子先輩」

 薄暗い渡り廊下で良貴は声をかけた。典子はびっくりして振り返った。

「え、其田くん?」

 テニスコートの明かりで典子の顔が半分だけ照らされていた。良貴はその顔を見て、暗室でなにかあったのだと直感した。心配がこみ上げたが、慌てたそぶりを見せたら典子がかえって不安がるのではないかと、平静を装った。

「…なんで其田くんがいるの?」

典子は現実感のない光景に呆然としながら言った。良貴はできるだけ穏やかに、

「体育館のところに、定期券を落としたんです。それで…」

 と言った。典子の顔が一気にゆがんだ。涙が頬を伝うのが見えた。

「…其田くーん」

 典子は良貴に駆け寄って、肩のすぐ近くで止まって顔を覆って泣き出した。

「典子先輩、どうしたんですか?」

 良貴は真っ先に典子の服が乱れていないかを確かめた。どうやら体に危害が及んだのではないらしいが、それに近いことでもあったのかもしれない。こんな渡り廊下の真ん中ではなくて、どこか安心できるところに連れて行ってあげたかった。正門前なら、広場のようになっていて、明るい街灯の下にベンチがある。良貴はそっと守るように典子の肩に手を添えて歩き、ベンチに座らせた。

「…どうしたんですか?」

 緊張した声は隠せなかった。典子はまだ泣いていた。肩を抱き寄せたい衝動にかられたが、そっとなだめるように背中に触れるだけにとどめた。

(…待ってて良かったんだ…)

 典子がこの状態で一人で帰る姿を思うと胸が痛んだ。そして、典子が何も荷物を持っていないことに気がついた。

「先輩、カバンとかは…」

 訊いてからだいぶたって、典子がか細い声で言った。

「…暗室に置いて来ちゃった…」

「どうしますか、とりに行きますか?」

 典子は首を振った。良貴は背中に触れる手を離し、立ち上がった。

「…じゃあ、僕が暗室に行って、とってきますよ」

 典子は涙に濡れた顔で不安そうに良貴を見上げた。良貴は緊張を抑えて優しく笑うと、

「すぐに戻りますから。待っててください」

 と言ってその場を離れた。

 何があったかを良貴に知られたらと思うと、典子は身の縮むような思いがした。でも、自分で暗室に戻る気にはなれなかった。

 聡史は、典子がすぐに戻ってこないので心配して外に出た。辺りを見回しても典子が見えないので、駅までの道のりを追いかけようと鍵と荷物を取りに暗室に戻った。すると、開けたままのドアの外から、静かに階段を下りてくる足音がした。

「…江藤か?」

 聡史はドアの方へ近づいて階段を見上げた。数段上に良貴が立っていた。聡史は一瞬けげんな顔をしたが、すぐに良貴の様子に気付き、だいたいを悟って凍りついた。

「…典子先輩のカバンを取りに来たんですけど」

 良貴はそれだけ言った。しばらく、視線を合わせないにらみ合いが続いた。

「…なんや、あいつ、ナイト様連れて来とったんか…」

 聡史は自分を現実に引き戻すかのように独り言を口にした。聡史が暗室の中に入ったので、良貴は一番下まで階段を下りた。そして暗室の中の広い背中に向かって、震える声を投げつけた。

「…泣くようなことをしたんですか?」

 聡史の動きが止まった。

「典子先輩に、何をしたんですか?」

 聡史も、良貴も、胸の痛みに負けて倒れてしまいそうだった。聡史は必死で自分を保ちながら、典子の荷物を手にして振り返った。

「…なんで、キミがおるの。たしか、体操部の部長やったよな」

「…僕がいる理由よりも、なんで典子先輩が泣いてるのかじゃないんですか」

 良貴は時にほとばしり出そうになる激情を必死でこらえた。自分の中にこんなに激しい感情が湧くのかと思いながら掌を握りしめた。

「…好きやって、言っただけや。したら、逃げられた」

 聡史のため息は震えていた。典子のバッグが手渡された。

「江藤は、キミの彼女なんか?」

「違います。たまたま、通りかかっただけです」

「…たまたま?」

 良貴はそんな会話がバカバカしくて、早く典子の元に戻ってあげたかった。それでもそのまま黙って去る気にはなれなくて、怒りに任せて言葉を投げつけた。

「僕だって彼女のことは好きですけど、こんなところに連れ込んで、泣くような思いをさせて、…そんな、男として卑劣な告白の仕方は絶対にしません」

 良貴はすぐに踵を返し、正門へ走った。自分の言葉にドキドキしていた。もうあとには引けない。誰かに告げ口されるより早く、自分の口から典子に想いを伝えたかった。

 正門広場に戻ると、典子の姿はなかった。

「…典子先輩?」

 良貴は不安にかられて典子を呼んだ。あたりを見回しても誰も見当たらず、典子を一人にしたことを後悔した。その時、建物の陰から典子がそっと顔を出した。

「典子先輩、心配しましたよ」

 良貴が近づいていくと、典子は、

「…ゴメン、誰にも会いたくなかったから…」

 と言ってうつむいた。その様子を見て、良貴ははやる気持ちを抑えるしかなくなった。今日、このうえさらに自分の気持ちまで典子に押し付けるなんてできそうにない。

「…帰りましょう。送りますから」

 良貴はそっと典子の肩に手を当て、すぐに離して、一緒に歩き出した。

 駅までの道のり、良貴は何も訊かなかったし、何も言わなかった。典子のほうがいたたまれなかった。

「其田くん、ありがとう」

「…いえ、落ち着きました?」

「…ゴメン」

「なんで典子先輩が謝るんですか?」

 つい、怒りが口調に出た。典子が萎縮するのがわかったので、良貴は謝った。

「すみません、そうじゃなくて」

 典子の伏し目がちの憂い顔は、いつもの子供っぽい表情と違って、女性らしく、綺麗だった。

「…大丈夫でしたか?」

 典子には、その質問は辛かった。でも、何も話題にしないほうが苦しいような気がした。

「…大丈夫」

「まだいましたよ、化学部の人。…何があったんですか?」

 典子はもっと深くうつむいた。良貴は慌てて、

「すみません」

 と言った。典子は、良貴が実際以上の想像をしているんじゃないかと慌てた。

「…なんでもないの。ただ、私、飯田くんのことはいい友達だと思ってたから…、ちょっと、びっくりしちゃって…」

 でもやっぱり、漠然とした言い方しかできなかった。

「…告白されただけですか?」

 良貴は聡史の言っていたことを少し疑っていた。それだけで典子があんなに泣くとは思えなかった。典子は答えなかった。良貴は心配だったが、もう何も訊かなかった。

 良貴は典子の降りる駅で一緒に電車を降りた。

「え、いいよ」

「…送りますよ」

 一人でなんか帰せなかった。せめて、弘志に任せるまではついていたかった。

 ずっと黙って一緒に歩き、家に近づいてきた頃、街灯が少しまばらな暗い道で典子が言った。

「…抱きしめられたの」

 その小さな声が、良貴の胸を生々しく傷つけながら貫通した。

「…私、友達だと思ってたから…ショックだったの」

 2人の歩く速度がゆっくりになり、そして止まった。

「そういうのって、漫画とかドラマとか、そういう世界でしかないと思ってた」

 良貴は、何も気がきいた言葉が出てこない自分が恨めしかった。弘志なら、こんな時どうするだろうと思った。

「…でも、そこで其田くんが来てくれるなんて、そんな都合いいこともなかなかないよね」

 典子は良貴の顔を見上げた。それほど身長差はなかったが、良貴には典子がとても小さく見えた。

「そんな、都合よくなんて、僕はただ…」

 都合よくあの場にいたんじゃなくて、ずっと待っていたんだ、…そう言おうとした良貴の言葉を、典子の言葉が摘んだ。

「私には、すごくドラマチックだったの」

 暗闇にかすかな光で照らされた、涙に濡れたまつげと、泣いてちょっと赤くなったまぶたと、潤んだ瞳が良貴を釘付けにした。典子はすごく綺麗だったし、その時典子を包む空気は良貴に何かを予感させた。

「…ありがとう…来てくれて。私、…先輩だし、それに今までずっと、冗談ばっかり言ってたけど、…ホントはね、…」

 典子が一歩、後ずさった。

「私、ずっと其田くんのこと、ホントにちゃんと、女の子の気持ちとして、好きだったの」

 典子はそう言うと、良貴に背中を向けて走り去った。江藤家の小さな門が外向きに開いて、典子はその中に消えた。

 良貴はじっと立っていた。本当はそんなこと、ずっと知っていたような気がした。そしてゆっくりと典子の去った方向に背中を向けて、駅に向かって歩き出した。

(…先を越されちゃったか…)

 良貴は暗い道を戻りながら、声を殺して笑っていた。なんで笑いがこみ上げてくるかはわからなかった。自分を見上げる典子の瞳と、やっとわかった典子の気持ちの正体がたまらなく心地よかった。

(そうしたら僕は、どう出ようかな…)

 やっぱり、笑いは止まらなかった。

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